雪を踏みても、月を裏切らず

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雪を踏みても、月を裏切らず

GoodNovel Hoàn thành

「朝倉紗季(あさくら・さき)さん、要項をよくご確認ください。一度個人ファイルを提出して登録が完了すると、すべての情報は機密として封鎖...

Chương (1)

第1章

「朝倉紗季(あさくら・さき)さん、要項をよくご確認ください。一度個人ファイルを提出して登録が完了すると、すべての情報は機密として封鎖され、本人は15営業日以内に研究機関へ入所しなければなりません。研究成果が正式に公表されるまでの間、外部との接触および退所は一切許可されません」 ――国立先端科学研究センターからの返信は驚くほど早かった。 添付されていたのは、個人データ記入用のフォーマット。 紗季は無機質な画面をじっと見つめながらも、マウスを持つ手にはまるで鉛でも詰まっているかのような重さがあった。 その時、不意にドアが開いた。彼女はわずかにまつげを揺らし、何事もなかったかのようにそっとパソコンを閉じた。 第1話 「朝倉紗季(あさくら・さき)さん、要項をよくご確認ください。一度個人ファイルを提出して登録が完了すると、すべての情報は機密として封鎖され、本人は15営業日以内に研究機関へ入所しなければなりません。研究成果が正式に公表されるまでの間、外部との接触および退所は一切許可されません」 ――国立先端科学研究センターからの返信は驚くほど早かった。 添付されていたのは、個人データ記入用のフォーマット。 紗季は無機質な画面をじっと見つめながらも、マウスを持つ手にはまるで鉛でも詰まっているかのような重さがあった。 その時、不意にドアが開いた。彼女はわずかにまつげを揺らし、何事もなかったかのようにそっとパソコンを閉じた。 「紗季、もうそのへんでやめにしない?今日は僕と一緒にいてほしい。最近、ちゃんとふたりで過ごす時間なんて全然なかっただろ?」 畑川悠真(はたかわ・ゆうま)は、手に持っていたホットミルクをベッドサイドに置いた。 彼はそのままベッドの縁に腰を下ろすと、いつもは冷静で気品のある態度とは裏腹に、まるでしっぽを振るゴールデンレトリバーのように彼女にしがみついてきた。 整った顔立ちには、どこまでも優しく甘やかな眼差し。 だが、紗季はもう、以前のように彼の腕の中で無防備に身を委ねることはできなかった。 身体がこわばり、背筋は無意識に張りつめている紗季は、彼の整った顔立ちを見つめながら、瞳の奥に映る自分の姿を見つけた。 ――まるで、深い愛情を込めたように。 つい昨日まで、紗季が自分たちの関係を言い表すなら「深く、揺るぎない愛情」だった。 昨日、悠真が心療内科に付き添ってくれた。薬を受け取りに行く途中、ふと薬の副作用が気になって診察室に引き返した。 ――そのたった一度の偶然が、悠真の優しさの裏に隠された、ある「秘密」を暴いたのだった。 診察室の前で、甘やかしてくれていた彼のこんな声を耳にしたのだ。 「先生、前に出してもらった薬、あれでもダメでした。紗季が夜中に目を覚まして、僕がいないのに気づきそうになって…… もっと強めにしてください。副作用なんて気にしなくていいですから」 まるで頭上に雷が落ちたかのようだった。自分は幸福な結婚生活を送っていると信じて疑わなかった。心を通わせ合っていると――それは幻想だった。 たったひとつの綻びが、完璧に見えていたすべてを嘲笑うかのように崩壊させた。 彼女は帝都大学の教授であり、博士課程の指導教員でもある。 人の言葉や仕草から微細な違和感を掬い取るのは、彼女の得意分野だった。そして、紗季は調べ始めた。 真実は、思った以上にすぐそこにあった。 彼が浮気していた相手は、なんと自分の指導学生。家庭環境が苦しく、紗季が彼とともに経済的支援を決めた、あの学生だった。 ふたりがいつから関係を持っていたのかは分からない。 ただ、毎晩密会するために、悠真は彼女に睡眠薬を盛っていた。まったく気づかないほど深く眠らせるために。 最近、悪夢に悩まされ、神経が過敏になっていた理由――それが、これだった。 過去の出来事が次々と脳裏をよぎるうち、胸が締めつけられ、呼吸すらままならなくなった。まるで、冷静な仮面が今にも剥がれ落ちそうになる。 それでも紗季は、必死に笑みを浮かべた。「そうね。じゃあ今日は、久しぶりに外に出てみる?」 一瞬、悠真の目に動揺が走った。だがそれもほんの一瞬。 彼はすぐに柔らかな笑顔に戻った。「うん、いいよ。君の好きなように。まずはこれを飲んで。ちゃんと温めておいたから、君の好みの温度だよ」 彼が差し出したミルクを見つめながら、紗季の目に涙が滲んできた。 「悠真……やっぱり、今日はいいわ。胃がちょっと……重くて」 彼はもう、出かける準備で頭がいっぱいだった。紗季の異変にも気づかず、やさしく彼女の頭を撫でた。 「もう、大人なんだから……牛乳ぐらいで拗ねないの。 ね、ほら。紗季が言ってたじゃない。これは最高のたんぱく源なんでしょ?」 紗季は静かに深呼吸し、牛乳を受け取って、一気に口に含んだ。 悠真の顔に、目に見えて安堵の色が浮かんだ。「じゃ、ちょっと会社の用事を片づけてくる。すぐ戻るから」 ――薬が効くまでの時間を稼いでいるのだと、紗季には分かっていた。 彼が寝室を後にしたのを確認したその瞬間。 紗季は迷うことなく、机に戻り、資料の記入を再開した。そして――今回は、キッパリと「送信」ボタンを押した。 第2話 それから三十分後、悠真が部屋に戻ってきた。ベッドに横たわる紗季が静かな寝息を立てているのを見て、彼は安心したように息を吐いた。 出かける前、彼はそっと彼女に布団をかけ直し、額に優しく口づけを残した。 それから、一片の迷いもなく背を向けた。 静まり返った夜に、彼がドアを開け閉めする音だけが妙に響いた。 そして彼が立ち去った直後――紗季は静かに目を開けた。かつては理知的で冷静だった瞳に、今は深い哀しみが沈んでいた。 そっと身を起こしながらドアの方を見やった。その目は虚ろで、表情はどこか色を失ったように暗かった。 薬を飲んだあと、紗季はなんとかトイレに行き、指を喉に入れて無理やり吐き出した。 それでもなお、起き上がろうとするとき、身体はふらつき、手足の感覚は鈍かった。 薬の強さを物語っていた。 紗季の唇に苦笑が浮かんだ。どこかで、まだ悠真に望みを託していた自分が、ひどく愚かしく思えた。 ――まさか、そんなことをする人じゃない。 ――あんなに私を愛してくれた人が、そんな…… その一縷の希望は、現実という名の平手打ちによって叩き潰された。 しばらくじっと耐えたあと、紗季は服を着替えて部屋を出た。そして、遠ざかっていく悠真のあとをつけた。 尾行の技術など持ち合わせていなかったが、彼女の足取りを阻む者はなく、悠真の目的地――あるバーへとたどり着いた。 記憶の中の彼は、彼女がアルコールや煙草の匂いを嫌うことを気遣い、自らも断っていた。 けれど今、紗季に初めてわかった。 ――それはすべて「演技」にすぎなかったのだ。 紗季の知らない場所で、彼は本性を解き放ち、欲望のままに生きていた。 悠真が個室に入っていくのを見届けたあと、紗季は十分ほど間を置き、静かに扉へと近づいた。 ドアの小窓から中を覗くと、そこに広がっていたのは――想定をはるかに超える光景だった。 黒い革張りのソファの上で、男と女が激しく絡み合っている。 まるで世界にふたりしかいないかのように、時間も空間も忘れてむさぼり合う姿。 その男こそが、紛れもなく――畑川悠真だった。そして彼の腕の中にいたのは、紗季の教え子でもある――桑原美玲(くわばら・みれい)。 息を切らし、紅潮した顔で、媚びるように目を細めながら美玲は悠真を押しのけ、甘えた声で言った。 「悠真さん、またこんなに……私とじゃないと、満たされないんでしょ?」 彼女がボタンを一つずつ外していくたび、露わになる肌に、悠真の視線は貪欲に吸い寄せられていった。 「……この小悪魔め……」 低く唸るように言いながら、美玲の腰を抱き寄せ、その唇を再び貪るように塞いだ。 ――その瞬間。 ドアの外で、すべてを見ていた紗季の胸が、張り裂けそうなほど痛んだ。 圧迫されるような苦しさに、思わずその場にしゃがみこみ、口を押さえて吐き気を堪えた。 五年間の結婚生活。彼は常に穏やかで優しく、ベッドの中でも彼女の気持ちを第一に考えてくれていた。 彼は情事に淡白なのだと、彼女は信じていた。それが「愛」だと―― だが今、すべてが崩れ去った。 「愛」は彼女のために、「欲」は他の女に――そう、彼は分けて使っていただけだった。 紗季はこの場で騒ぎを起こすつもりはなかった。 ただ、震える手でスマホを取り出し、何枚か証拠写真を撮って、その場を離れた。どうやって帰宅したのか、記憶は曖昧だ。だが、家に着いた瞬間――激しい腹痛が彼女を襲った。 痛みはあまりにも鋭く、全身に冷や汗が吹き出した。まるで魂が引き抜かれるような感覚だった。 最後の力を振り絞ってスマホを手に取った。しかし、そこに入力された悠真の番号は、もう発信されることはなかった。 すぐに救急車が駆けつけた。 意識が薄れていく中、紗季は手術室へと運ばれた。眩しい手術灯の光が、まっすぐに彼女の瞳を照らしていた。 そのそばで、誰かが静かにため息をついた。 「……まだ二ヶ月か。もう、ダメかもしれませんね……」 第3話 目が覚めた紗季は、一晩中ただ窓の外を見つめていた。涙というものがすべて枯れてしまったかのように――何も感じなくなっていた。 この心情をどう言葉にすればいいのだろう。 良い知らせといえば、妊娠していたこと。 悪い知らせといえば、もうお腹の子はこの世にいないこと。 結婚して五年。紗季と悠真は、子どもを授かることを心から願ってきた。 毎年毎年、期待しては裏切られ、希望は泡のように消えていった。 そのたびに、悠真は「きっと僕たちは、そういう運命なんだよ」と笑いながら、優しく慰めてくれた。「そんなに気にしなくていいさ」と。 けれど、紗季にはわかっていた。彼がどれだけ子どもを欲しがっていたか。 漢方もサプリも、あらゆる妊活法を試してきた。 あれほど現実主義だった自分が、神社仏閣にすがるようになったほどだ。 まさか、こんな形で妊娠がわかるなんて。 紗季は自分の平らな下腹部に手を当て、静かに目を伏せた。 ――これでよかったのかもしれない。 壊れかけた家庭に、子どもが来るべきではなかったのだ。 ちょうどそのとき、看護師が薬を持って病室に入ってきた。紗季のやつれた様子を見て、思わずため息をついた。「……今さら後悔しても遅いよ。次からは気をつけてね」 看護師は淡々と続けた。「妊娠を望んでるなら、精神安定剤や強い睡眠薬はダメ。あんな薬、赤ちゃんにどれだけ危険か……もし生きていても、健康には生まれなかったかもしれないよ」 その言葉を聞いた瞬間、紗季の頭の中に鈍い音が響いた。 「……あの薬のせい、なんですか?」 問いかけに、看護師は一瞬だけ驚いたような目をして、まるで当然のことのように答えた。 「そうに決まってるでしょ。大人でも副作用出る薬なんだから」 紗季は、ふっと笑い声を漏らした。それは徐々に大きくなり、やがて狂ったような嗤いとなって部屋に響いた。しかし、その顔には涙が止めどなく流れていた。 彼女はシーツを強く掴み、指先が白くなるほど握りしめた。 叫びたくても、身体に力は入らず、声は上ずり、嗚咽だけがこみ上げた。 その様子に気圧された看護師は、慌てて薬を置き、部屋を出て行った。 紗季はそのままベッドに崩れ落ちた。まるで岸に打ち上げられた魚のように、目には一片の生気も残っていなかった。残っていた愛情は、跡形もなく消えた。 悠真が病院に駆けつけた頃には、紗季の気持ちはすでに整理されていた。 目が少し不自然に腫れている以外は、表情や仕草からは何の異常も感じさせない様子。 悠真の表情は必死で、顔には汗が滲み、息も荒かった。 病室のベッドに横たわる紗季の顔色を見た瞬間、彼の瞳に不安と焦燥が広がった。 「紗季……どうしたの?急に病院なんて……」 続けて、言い訳のような声で語った。「昨夜、急に会社の呼び出しがあって……心配させたくなくて言えなかったんだ」 紗季は何も言わず、彼の表情をじっと見つめた。 そこに映るのは「心配」だけだった。「罪悪感」はどこにもなかった。 悠真は不安になり、声のトーンを下げて問うた。「……紗季、怒ってるのか?」 彼女はゆっくりと微笑みを浮かべ、かすれた声で答えた。「怒ってなんか、ないよ」 そしてそっと手を伸ばし、彼の乱れた前髪を直してやった。「ちょっと熱が出ちゃってね。朝起きたら具合悪くて……それだけ。心配させてごめんね」 悠真はようやく胸をなで下ろし、紗季をぎゅっと抱きしめた。「……紗季が病院に運ばれたって聞いて、本当に死ぬほど怖かったよ……」 けれど、彼に抱きしめられている紗季の瞳には、何の感情もなかった。 むしろ、その視線の先には、彼の首筋に残る――赤い痕。 昨夜、彼が誰と何をしていたか、語らずとも証拠はそこにあった。 その瞬間、紗季は込み上げる吐き気をこらえきれず、思わず彼を押し退けた。 第4話 不意に手を振り払われ、悠真は思わずよろけそうになった。 それでも怒ることなく、むしろどこか悲しげな目で紗季を見つめた。「……紗季、本当に僕に怒ってるのか?」 紗季は、こみ上げる吐き気を必死に抑えた。 喉の奥まで込み上げてくるものを飲み込みながら、頭に手を当てて言った。「ううん、大丈夫。ただ、お医者さんがね……インフルエンザだって。 しばらく入院しとくわ。悠真に感染したらよくないじゃん」 悠真の眉が即座にひそめられた。 「誰がそんなこと言ったの?ダメだ、紗季、家に帰ろう」 彼はそっと膝をつき、まるで宝物を扱うように、彼女の指先を握りしめた。「君が僕の目の届かないところにいるなんて……不安でたまらないんだよ」 まるで映画のような愛の言葉。やさしさ、心配、献身――そのどれもが、もはや紗季には空々しく響いていた。 またしても彼は、愛という名の網で彼女を包み込み、すべてを誤魔化そうとしている。 紗季は力なく微笑みながら、手をそっと引いた。「……悠真、お願い。治ったら、ちゃんと帰るから」 彼は彼女の決意に気づいたのか、少しの沈黙のあと、ようやく折れた。「……わかった」 その顔には、隠しきれない安堵の色が浮かんでいた。 ――これで、夜は自由に彼女の元へ通える。そう思っているのだろう。 紗季の心は、氷のように冷えきっていた。 こんなにも見え透いた芝居を、自分は今まで信じていたのか―― 背後に隠した手には、まだ「流産診断書」が握られていた。 紙はぐしゃぐしゃになるほど、強く握りしめられて。 その後も数日間、悠真はまるで献身的な夫のように振る舞った。 風の日も、雨の日も、毎日病室に顔を出し、優しく世話を焼いた。 看護師たちは、そんな姿に感嘆の声を漏らしていた。 「かっこいい上に、あんなに奥さん思いなんて……まるで映画のヒーローだよね」 「わかる~!この前私が話しかけたときも、めっちゃそっけなかった。奥さん一筋って感じ」 「はぁ……私もあんな旦那さんがほしい……泣」 朝の散歩がてら廊下に出た紗季は、そんな会話をふと耳にし、皮肉げに笑みを浮かべた。 ――本当に、そんなに優しい人なら。 どうして、一度も医者に私の病状を確認しないの? どうして、ただの風邪で、私が毎日腹を抱えて苦しんでいるって信じられるの? 彼が毎日見せるやさしさは、ただ「夜」を空けるための偽装にすぎない。 夜になれば、もう一人の「彼女」のもとへ走っていくのだ。 紗季は、彼の苦労ぶりにすら、もはや同情を覚えるほどだった。 階段の踊り場に着くと、スマホを取り出し、こっそりと送信する。 ――そこには、あの夜、悠真と美玲が一緒にいた決定的な写真が。 それを探偵に送信し、続けて弁護士の友人にメッセージを打った。 【あと一週間。離婚協議書、準備頼むね】 ちょうどそのとき、階段の奥から、聞き慣れた声が聞こえてきた。 「……駄々こねないでくれよ。昼は彼女のそばにいなきゃ。夜はちゃんと君と一緒にいるだろ? わかってる、あと二時間。薬を飲ませたらすぐ行くから。 この前買った服、ちゃんと着てて。戻ったら見せてよ」 階段下、窓辺に立つ悠真の姿。柔らかな光に照らされたその後ろ姿は、まるで神様のように美しかった。 ――まさかこの男が、こんなセリフを別の女に囁いているなんて。 その後、スマホの向こうから何かを言われたのだろう。悠真の顔が強張り、声のトーンが低くなった。 「……美玲、そういうこと言わないでくれ。あれは紗季と僕の家だ。君に入る資格なんてない」 階段の静寂が、そのやり取りを余すところなく伝えていた。たとえスピーカーでなくとも、聞き取れるほどに。 電話の向こうでは、美玲が泣き出したのだろう。くぐもった甘え声で、泣きながら何かを訴えていた。 悠真はもう何も言わず、唇を噛みしめて黙り込んだ。 彼は気づいていなかった。その数歩後ろに、紗季が立っていたことに。その顔は雪のように白く、手は震えていた。 そのとき、ちょうど通りかかった看護師が彼女に声をかけた。 「朝倉さん、まだ本調子じゃないんですから、風の通るところに長くいちゃダメですよ。風邪引いちゃいます」 第5話 その一言は、まるで雷鳴のように悠真の耳を打った。 彼の顔色が見る間に変わり、慌てて通話を切ると、ゆっくりと振り返った。――そこには、冷たい光を宿した紗季の瞳があった。 この数日の体調不良のせいか、彼女の頬はさらに痩け、蒼白な顔に感情の影すらなかった。冬の陽射しのように、どこか冷たく、温度を持たないその表情。 「……紗季」悠真の心臓が激しく脈打った。動揺が表に出てしまい、言葉も見つからぬまま一歩踏み出した。何か言おうと口を開いたが、言葉が出てこなかった。 すると紗季は、まるで何事もなかったように笑って言った。「どうしたの、悠真?声が聞こえたから見に来たの。顔色、悪いよ。誰かと喧嘩でもしたの?」 その言葉に、悠真の緊張がすっと和らいだのが見て取れた。すぐに表情を作り直し、眉間にしわを寄せて不機嫌なふりをした。 「取引先の一部が問題を起こしててね。ついカッとなって少し口論したんだ。 こんなところに立ってないで、病室に戻ろう。 手がこんなに冷たくなってるじゃないか」 そう言って、彼は手慣れた仕草で紗季の手を自分のコートの中へと滑り込ませた。 薄いシャツ越しに、自分の体温で彼女の手を温めようとした。 紗季はその横顔をじっと見つめながら、ぽつりと呟いた。「……悠真、家に帰りたい」 その瞬間、悠真の笑顔がほんの一瞬だけ凍りついた。そしてすぐに取り繕うように、口を開いた。「今日はやめておこう。 今から退院するって、やっぱり早すぎじゃない。先生もまだ体調が完全じゃないって言ってたし…… それに、もうすぐ結婚記念日だろ?家をちゃんと飾って、君を迎えたいんだ」 彼の声は低く、どこか艶を帯びた響きすらあった。 「紗季、サプライズを用意してるんだ」 その甘い囁きに、紗季の心は氷のように冷たかった。 彼女は黙って手を引き、微笑みながらうなずいた。「……そう、楽しみにしてる」 悠真はさらに話を続けた。「記念日には、重華山に行かない?君、前にずっと行きたいって、そこで夕日見たいって言ってたよね。この時期、僕も時間に余裕があるし」 しかし、紗季の表情はますます冷たくなっていった。「……やめておこう。研究チームのプロジェクトがまだ終わってなくて」 その言葉に、悠真は戸惑いを隠せず、目にかすかな痛みを浮かべた。 「紗季、忘れたの?もうほとんど終わってるはずだろ。あとの処理は、僕の部署が代わりにやっていいよ」 そう言いながら、一歩踏み出し、慎重に尋ねた。 「ねぇ……僕、何か君を怒らせるようなこと、した?」 紗季は何も答えなかった。ただ静かに、冷ややかに彼を見つめた。 彼の言葉で、記憶がよみがえった。 ――彼女が研究室で立ち上げた新規プロジェクトは、当初大学からの支援が得られず、悠真が資金を全て出してくれていた。 しかも、彼女の負担を減らすために、わざわざプロジェクト連携部署まで新設してくれたのだと、あの時は感激していた。 でも――彼女が悠真と美玲の関係を調べ始めたとき、知ってしまった。 あの二人が関係を持った、まさにその夜が――そのプロジェクト部門の設立が発表された日だった。 つまりあの部署は、紗季を支えるためだけのものではなかった。 美玲と密会するための「正当な理由」を得る、手段でもあったのだ。 あの頃、涙が出るほど嬉しかった出来事が、今では音を立てて崩れていった。頬を打つ冷たい掌のように、過去が彼女を嘲笑っていた。 目の前で熱意に満ちた演技を続ける悠真が、もはや滑稽にすら見えてきた。 ……まだ、演じ続けるの? 紗季は喉の奥で小さく笑い、そして言った。「うん、じゃあ、行こうか」 ――だって、その日、私からもプレゼントを贈るつもりだから。あなたが二度と忘れられないような、「贈り物」をね。 第6話 話を終えると、紗季は「少し休みたい」と言い訳し、その場を足早に去った。 彼女の背中を見送りながら、先ほどのどこか不自然な表情が頭をよぎった。 悠真の胸に、わずかな不安がよぎった。 だがその感情も、すぐにかき消された。 ――だって、紗季は、自分のことを深く愛しているはずだから。 あんなに冷静で孤高な女性が、彼の言動に嫉妬し、拗ねる姿を、彼は幾度も見てきた。 以前、ただ秘書と話しただけでも、彼女は数日間口をきいてくれなかった。 もし本当に美玲との関係がバレたなら、今のように冷淡な態度では済まされないはずだ――そう、彼は思い込んでいた。 そのとき、スマートフォンが震えた。美玲からのメッセージだった。 【おうち、連れてってよ……】画面にはそう書かれていた。 悠真の顔に不機嫌の色が浮かんだ。今にも怒鳴り返そうとしたその瞬間――次のメッセージが届いた。 白いシーツの上、セクシーなランジェリーと黒いストッキングを身にまとい、カメラに向かって挑発的なポーズを取る美玲の姿。 清楚な顔立ちと、曲線的な身体。まるでケシの花のように、毒を持つ美しさ――それが美玲だった。 結局、怒りの言葉は送れなかった。 悠真は喉を鳴らし、低くかすれた声でボイスメッセージを吹き込んだ。 「美玲……今回だけだ。 でも、いい加減自分の立場をわきまえろ。紗季との生活に、君の居場所はない」 退院の日、紗季はふとカレンダーを見て、研究所への赴任まであと数日しか残されていないことに気づいた。 帰宅すると、悠真は言葉通り、家の中をきれいに飾りつけていた。 彼女の好きなグリーンの観葉植物、ピンクのバルーン、可愛いキャラクターたち。完璧な演出だった。 外ではクールな彼が、今ではまるで子どものように目を輝かせて言った。 「紗季、気に入った? 何か足りないところがあったら、何でも言って。全部やり直すから」 紗季は珍しく柔らかく微笑み、悠真は嬉しさのあまり彼女を抱き寄せ、唇を重ねようとした。 だがその直前、紗季はそっと手で彼を押し返した。 「……ちょっと、洗顔してくるね」 バスルームに入ると、その笑みはたちまち消え、瞳には疲れと冷静な光が戻った。 ふと鏡を見て、そして気づいた。洗面台の隅に、見慣れない小さな化粧品のサンプルボトルが置かれていた。 明らかに、自分のものではない。 しかも、半分以上使われている。つまり、その持ち主は、ここに何日も滞在していたということだ。 さらに、甘ったるい香水の香りが空気に漂っていた。 ――香水など、彼女は使わない。 紗季はその場に立ち尽くし、やがて堪えきれず涙がこぼれた。 これほどまでに惨めな瞬間が、自分の人生にあるとは、思いもしなかった。 もちろん、これが偶然ではないことくらい、彼女にも分かっていた。 これは、美玲の挑発。「ここは私の場所よ」という、あからさまな宣言。 涙をぬぐい、紗季は静かに呼吸を整えた。そして、ドアを開けてキッチンへ向かい、ワインを二本手に取り、リビングへ戻った。 何事もなかったかのような笑顔で言った。 「悠真、今夜は一緒に飲まない?」 悠真は一瞬躊躇した。おそらく、美玲との約束を思い出していたのだろう。 だが、紗季の珍しい甘えに、彼は結局その誘いに乗った。 数杯のワインで、酒に強いはずの悠真の頬が赤らみ、酔いに任せて紗季を抱きしめながら、何度も愛を囁いた。 紗季は静かに、離婚届を取り出した。優しい声で、まるで子どもをあやすように言った。 「悠真……私もあなたを愛してるわ。 ねえ、これにサインして。……いい子だから」 悠真は、まるで魂を抜かれたように、素直にペンを取りサインをした。 その瞬間、紗季はゆっくりと立ち上がり、意識のない悠真を冷たく床へ突き飛ばした。 微笑みながら――その瞳は、涙に滲んでいた。 そして、あらかじめ用意していたギフトボックスを開き、一枚一枚、静かに「それ」を詰めていく。 1、2、3、4、5―― すべて整然と。美しくラッピングされた証拠の束。 床に倒れて眠る男を見下ろす彼女の瞳には、もはや一片の情すら残っていなかった。 第7話 翌朝、悠真は目を覚ました瞬間、自分の体に異変を感じた。全身がだるく、力が入らなかった。 だが、ベッドの上にはちゃんと寝ていたし、紗季は「昨日、ちょっと飲みすぎただけよ」と優しく言った。 テーブルの上には、綺麗に包装された小さな箱が置かれていた。 「それ、記念日のプレゼントなの」と、紗季は少し照れくさそうに言った。 「急いで開けないで。夜に帰ってきたら一緒に見よう」 悠真の胸に、ほのかな温もりが広がった。彼は紗季を抱き寄せ、珍しく瞳に申し訳なさの色を浮かべながら言った。 「紗季……この数日が終わったら、ふたりで一ヶ月、海外旅行に行こう。気分転換にさ」 「うん」と頷いた彼女は、するりと悠真の腕から抜け出した。 「そろそろ出発しないと、遅れちゃう」 山のふもとに着いたそのとき、軽やかな女性の声が飛んできた。 「朝倉先生、畑川社長。わぁ、偶然ですね~!」 二人が声の方を向くと、そこには美玲がプロジェクトチームの学生たちと一緒に休憩している姿があった。 美玲と一緒にいるのは、紗季が研究プロジェクトで指導している大学院生たち。 その瞬間、紗季の目つきが鋭くなった。だがすぐには動かず、隣の悠真の反応を冷静に観察した。 案の定――普段は余裕たっぷりの悠真の顔から、微妙な緊張が読み取れた。わずかに引き結ばれた唇。彼の心中は明らかだった。 悠真はすぐに紗季の手をぎゅっと握りしめた。「紗季……さ、行こう。先に登り始めよう」 だが、それよりも先に美玲が駆け寄ってきて、二人の前に立ちはだかった。にこにこと無邪気な笑顔を浮かべながらも、その視線は一瞬たりとも悠真から離れない。 「せっかく会ったんですし、みんなで一緒に登りませんか?団体行動って楽しいじゃないですか~」 言葉は和やかでも、彼女の身体は露骨だった。 他の学生たちが防寒用の登山ウェアに身を包んでいる中、彼女だけはタイトなヨガパンツに、胸のラインを強調するスポーツブラ。上着のファスナーはわざと開け、谷間をのぞかせるという挑発的な服装。 その細く長い脚と、くびれたウエスト――男の目を釘付けにするスタイル。 案の定、悠真の視線が一瞬揺れた。 その様子を見ながら、紗季の脳裏には、三年前に初めて美玲を見た時の情景がよみがえった。 当時、美玲は貧しい家庭の出で、大学院進学をあきらめかけていた。 そこへ、ある教授が「援助してあげる」と手を差し伸べた。 だが、その教授は裏で学生に猥褻な行為を繰り返す悪質な人物だった。 多くの学生が泣き寝入りし、告発すれば卒業資格を奪われ、社会的に抹殺されるような状況だった。 紗季はそのリスクを承知で、美玲を守る決意をした。 彼女を自分の研究チームに迎え、学費の一部も援助した。 ――それが、まさか裏切られることになるとは。 紗季は美玲を責めない。彼女はよくわかっていた。たとえ美玲がいなくても、悠真のような人間とは、いずれ破綻していた。 自分が見る目がなかっただけだ――それだけのこと。 冷たい視線を感じたのか、美玲はわざと小さく肩をすくめ、悠真に近づけようとしながら、演技じみた声で言った。 「先生、そんなににらまないでくださいよぉ…… 一緒に登るくらい、いいじゃないですか。……もしかして、先生って、私のこと嫌いなんですか?」 その瞬間、悠真は不機嫌そうに顔を背け、紗季の肩を優しく抱いた。そして低い声で美玲に言った。「おい、紗季に向かってその言い方はないだろ。失礼すぎる」 その場の空気が一瞬止まり――そして学生たちがざわつき始めた。 「朝倉先生と畑川社長、お似合いすぎる~!」 「理想のカップルですね~!」 「見ました?さっき美玲さんが近づいたとき、悠真さんがすぐ避けたの。あれ、信頼感あふれてて最高……!」 そんな言葉のひとつひとつが、紗季の耳に皮肉のように響いた。 ――もし、あの夜の、あの姿を見ていなければ。 この「完璧な夫婦ごっこ」に、今日も騙されていたかもしれない。 第8話 美玲は唇を尖らせて、わざとらしく「ふんふん」と鼻を鳴らした。「今日の空気読めない三人目、私たちがやるしかないみたいね~」 冗談めかして言ったその言葉には、彼女の本音がにじんでいた。 紗季の目には、ほんの一瞬だけよぎった美玲の嫉妬と苛立ちが確かに映っていた。 「朝倉先生、ただの登山ですよ?そんなに気にしなくてもいいじゃないですか~」そう言いながら、美玲はパチパチと無邪気そうにウィンクしてきた。 「今日はみんな来てるんですし!」 その視線の合図を受けて、他の学生たちも一斉に声を上げた。 「そうですよ、先生~、一緒に行きましょうよ!」 「邪魔しませんって!先生は本当に懐が深いなあ~」 ――ここまで言われて、断れる人間がどれほどいるだろうか?わざとらしい「おだて」に、紗季は思わず口元がひきつった。 彼女には分かっていた。美玲がここに現れたのは、偶然ではない。 そして、隣の悠真までもが、やさしげな口調で加勢した。「ここまで来たのも縁だろう?みんな君の教え子なんだし、ないがしろにはできないよ。 僕が全部出すから、迷惑はかけない」 ――その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられたが、紗季は笑顔を浮かべた。まるで何も感じていないかのように、穏やかで静かな微笑み。「……そうね、いいわ」 その笑みの奥にある思いを、誰も気づかない。長袖の下、彼女の手は白くなるほど強く握られていた。 登山道では、笑い声が絶えず続いた。 だが、紗季は終始無言のまま――ただひたすらに、美玲と悠真の様子を観察していた。 美玲は隙あらば悠真に近づき、声をかけ、腕が触れるような距離で笑いかけていた。 悠真はそのたびに、顔をしかめ、苛立ったように避けていた。まるで「迷惑だ」と言わんばかりの態度。 だが、紗季にとってその姿は、滑稽でしかなかった。 演技だということが、彼女には分かっていたから。 ひと息ついたタイミングで、美玲が紗季の隣に座ってきた。 途端に、ふわりと甘ったるい香水の匂いが鼻を突いた。 その香り――自宅の洗面所で嗅いだ、あの見慣れない香水の匂いと、全く同じだった。 「先生~」美玲は甘ったるい声で言った。「最近、すっごく良いスキンケア見つけたんですよ。先生も使ってみません?もうすぐ三十路だし、今から老化防止しないと間に合いませんよ~」 ――それは明らかに、悪意のこもった皮肉だった。 心に突き刺さるような痛み。紗季がふと顔を上げると、美玲の手には、自宅で見つけたあの化粧品のサンプルが握られていた。 その表情には、隠す気のない勝ち誇った笑みが浮かんでいる。 紗季の表情が冷たくなった。「……楽しい?」 その問いに、美玲は肩をすくめるように笑い、そっと囁いた。「実は、あの日のバーで、先生の姿……見かけちゃったんですよ」 その一言で、紗季の心が大きく揺れた。感情のダムが決壊しそうになった。 必死に押し込んできた弱さや傷が、容赦なく暴かれていく。 呼吸が少し乱れ、目頭が熱を帯びた。 忘れたい光景。なかったことにしたい記憶。――それを生んだのが、他でもない、目の前の女。 だが、美玲の「告白」は止まらない。 「悠真さんと私は、ずっと前からの仲なんです。あの人、私のこと、本当に愛してるんですよ。 先生のことは『ベッドじゃまるで木偶の坊みたいで、何も感じない』って言ってました。私と一緒にいるときだけが、本当に生きてるって思えるって。 それに……先生が入院してたとき、私たち、毎晩あの家のベッドで一緒に過ごしてたんですよ。悠真さんが、自分から私を連れて帰ったんです。 あと、悠真さんが私たちの研究室のために作ってくれた新部門、あれも私のため。みんな、裏で私のこと『畑川夫人』って呼んでるんです。 それに比べて……先生って、何? 味方もいなくて、騙されてばかりで、恥もかいて、それでもよく生きてられるなって思いますよ。……私だったら、とっくに消えてますけど? 早く身を引いたほうがいいですよ。最後くらい、少しくらい『体面』持って終わったらどうです?」 第9話 美玲の瞳には、嫉妬と執念が滲んでいた。 その顔は一見すると清楚で可愛らしく、声も甘く柔らかい。 ――だが、口から紡がれる言葉は、鋭利な刃のように紗季の心を刺し貫いてきた。 彼女の顔色がどんどん蒼白になっていくのを見て、美玲は明らかに優越感を覚えていた。当然、怒鳴り返してくると思っていた。だが、紗季はただ一度深く息を吸い込み―― 次の瞬間、手を伸ばして、美玲の手にあったサンプル瓶を奪い取った。 その口調は驚くほど冷静で、そして皮肉めいていた。 「……それ、高級ブランドだと思ってるの?残念だけど、私が使ってる物の足元にも及ばないわね。 知らないでしょうけど、私が使うものは全部、悠真が選び抜いた特注品よ。わざわざ専門家に依頼して、私だけのために作らせたの。 それに比べて、あなたの扱いは随分と雑ね」 美玲の顔が引きつり、怒りと屈辱に歪んだ。 紗季は冷たい視線のまま、さらに畳みかけた。「あなたの存在なんて、とっくに知ってたわ。でも、なぜ私が今まで黙っていたか、分かる? あなたなんて――私の相手にすらならないと思ってたからよ。 男に評価されることしか誇れないような生き方して、衣食住すべてを男に依存して……そんな人間、眼中にすらなかったわ。でも何度も私の前でちょろちょろするから、仕方なく口を開いただけ。 あの男がそんなにいい?だったら、あげるわよ」 そう言い捨てて、紗季は立ち上がり、その場を離れようとした―― が、その瞬間、美玲が突然腕をつかんできた。その顔には、ねじれた笑みが浮かんでいた。「朝倉紗季、何もかも分かった顔しないで。あなた、本当は誰よりも悔しいんでしょう? 悠真は私に冷たい。でもね、それでも私を気にしてるの。 だから、比べてみましょうよ――彼が本当に大切にしてるのは、どっちか」 そう言い終わるや否や、美玲は悲鳴を上げながら崖下へ飛び降りた。 彼女たちがいたのは、ちょうど斜面の上。 美玲は掴んだままの紗季の腕を引きずりながら飛び降りた。「っ……!」 危うく巻き込まれそうになった紗季だったが、なんとか体勢を持ち直した。――しかし、その拍子に足首をひねり、地面に尻もちをついた。 鈍い痛みが腰から脳天にまで突き抜けた。「いた……っ」 その音に気づいた学生たちが駆け寄ってきた。一番に駆けつけたのは悠真だった。「紗季、大丈夫か!?」 心配そうに駆け寄り、彼女を抱き起こすその手は震えていた。目には、涙のようなものが滲んでいる。 紗季は頭を横に振り、息を整えながら説明しようとした――そのとき。 「美玲さんが……落ちた!!」誰かが叫んだ。 次の瞬間、悠真は紗季の手を振り払って、斜面へと駆け出した。 ぐらついた紗季の体は再び地面に叩きつけられ、尾てい骨に激痛が走った。 彼が――迷いもなく自分を置いて、美玲の元へ走ったのを見た瞬間、紗季の全身から、血の気が引いていく。 学生たちは無言のまま、彼女の視界を遮るように立ちふさがった。 彼女の耳には、美玲のあの声が何度もよみがえった。 ――くだらない。 そう思った瞬間、紗季は誰の手も取らず、かすれた声で言った。「……悠真に、用事があるから先に帰るって伝えて」 学生たちの制止も聞かず、彼女はびっこを引きながら立ち上がり、歩き出した。 誰もいない道路脇まで来たとき、彼女の目に涙がにじんだ。 もう泣かないと、何度も誓ったはずなのに。 「こんな男のために泣くなんて、馬鹿みたいだ」そう自分に言い聞かせながら、通りがかったタクシーを止めた。 「どちらまで?」運転手の問いに、彼女は静かに窓の外を見つめたまま答えた。 「……空港までお願いします」