愛は、花を慈しむように

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愛は、花を慈しむように

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結婚して五年―― 高橋美和は、幾度もの体外受精の苦しみに耐え抜き、ようやく藤原言弥との子を授かった。 だが、その喜びに浸る間もなく、美...

Chương (1)

第1章

結婚して五年―― 高橋美和は、幾度もの体外受精の苦しみに耐え抜き、ようやく藤原言弥との子を授かった。 だが、その喜びに浸る間もなく、美和は病院の廊下で信じがたい光景を目にしてしまう。 産婦人科の前で、言弥が秘書の中村さやかを守るように寄り添っていたのだ。 崩れ落ちるように問いただす美和に、言弥は冷たい視線を落とした。 「美和、頼むから取り乱さないでくれ。落ち着いたら、ちゃんと話す。この子だけは……どうしても産ませてやりたいんだ」 そう言い残し、怯えるさやかを抱き寄せてその場を立ち去った。 彼は気づかなかった。美和の足元に広がっていく、赤黒い血の色に。 ――その日を境に、美和は藤原家から姿を消し、言弥の世界からも静かに消えていった。 そして数ヶ月後、すべてを失ったことに気づいた言弥は、ようやく取り返しのつかない絶望の淵に立たされることになるのだった。 第1話 診察室を出たばかりの高橋美和(たかはし みわ)は、胸の高鳴りを抑えきれずに夫の藤原言弥(ふじわら ことや)に電話をかけた。 しかし、その着信音が人混みの中から響き渡った瞬間、彼女は固まった。視線の先に映った光景は、彼女の心を粉々に砕くものだった。 ――数日前、出張で付き添えないと言っていたはずの言弥が、そこにいたのだ。 その隣には、少し膨らんだお腹を抱えた若い女性が、親しげに言弥の手を自分の腹の上へと導いていた。 やがて言弥の顔に、驚きと安堵が交じった表情が浮かぶ。 それは、美和が何度も夢見た――彼が自分の妊娠を知った時に見せるはずだった表情、そのものだった。 しかし、現実はあまりにも残酷だった。 美和は言葉を失い、その場に立ち尽くす。喉に何かが詰まり、声すら出せなかった。 鳴り止まない着信音を前にしても、言弥はスマホを取ろうとはしなかった。 震える手で、美和はもう一度電話をかけ直した。 言弥はようやく女性の腹からそっと手を離すと、眉をひそめてスマホを取り出した。 画面に浮かぶ美和の名前を確認した瞬間、彼の眉間の皺はさらに深まり、背を向けて電話に出ようとした。 だが視線を上げた途端、少し離れた場所で青ざめた美和と目が合った。 その瞬間、言弥の瞳に一瞬だけ焦りがよぎった。 「美和……君が、どうしてここに?」 言弥の声に反応し、隣の女性も振り向いた。 それは、彼の秘書を務めている中村さやか(なかむら さやか)だった。 大学を卒業したばかりで、家計に余裕のないさやかを、特別採用したのは美和だった。 かつては美和に深く感謝していたさやかの瞳には、今は理解できない得意げな光が宿っていた。 美和は、鉛のように重くなった足を運び、一歩ずつ言弥へと近づいていく。 ほんの数歩の距離なのに、まるで半生をかけて歩んでいるかのように感じられる。 胸の奥で渦巻く想いは言葉にならず、どう受け止めればいいのかもわからなかった。 「君だけを愛している」と言ってくれた男が、他の女に子どもを授けていたなんて―― 言弥の表情は、最初の焦りから徐々に冷静さを取り戻し、覚悟を決めたようだった。 そして美和が目の前に立つ頃には、いつもの穏やかな顔へと戻っていた。 言弥は手を伸ばし、優しく抱き寄せようとしながら、心配そうに語りかける。 「美和、どうして病院に?体調でも悪いのか?」 美和はその手を振りほどき、震えた声で問い返した。 「……あなたこそ、どうしてここにいるの?」 言弥は足を止め、淡々と答えた。 「中村さんの検診に付き添っているんだ。……彼女は俺の子を妊娠している」 あまりにも自然なその言葉に、美和は自分が執拗に説明を求めようとしていたことが滑稽に思えた。 つい涙が堪えきれず、美和の頬をつたう涙が止めどなく溢れ落ちた。 その涙を見た途端、言弥は動揺し、瞳に痛切な色が浮かぶ。 「美和、泣かないでくれ……これは、君が思っているようなことじゃない。浮気なんてしたくなかった……俺が愛しているのは君だけなんだ……」 そのとき、目を赤くしたさやかが言弥の背後から出てきて、声を詰まらせながら言った。 「美和さん、ごめんなさい……私たちは、美和さんが思っているような関係じゃなくて……」 謝罪にもかかわらず、その目には明らかな挑発の色が浮かんでいた。 理性が一瞬にして砕け散り、美和はさやかへ向かって突進した。 心の奥底に沈殿していた怒りを、その頬にぶつけるために―― 第2話 だが、美和の予想に反し、言弥は素早く動いた。 彼はさやかの前へ立ちはだかると、その腕で美和を強く突き飛ばした。 美和は肩に鋭い痛みを感じるや否や、そのまま床に激しく叩きつけられた。 驚愕、呆然、絶望―― すべてが刃となって、美和の胸を容赦なく突き刺す。 そんなにも、その子供を大事にしているの? 私を突き飛ばしてまで、彼女を守りたいの? 言弥も、自分の手を見下ろしたまま言葉を失っていた。 自分自身の行動に怯え、弁解の言葉すら見つけられずにいる。 その無様な姿が目に映った瞬間、美和は嗚咽を混じらせながら笑い出した。 「言弥……これが、あなたの言う『愛してる』ってこと?」 そして視線をさやかへと移す。 「あなたもよ……これが私への恩返しなの?」 立て続けの問いかけに、二人は同時に言葉を失った。 美和は顔面蒼白のまま言弥を見つめ、最後の問いを絞り出した。 「私を裏切るつもりじゃないって言ったわよね……じゃあ、その子と私、どっちを選ぶの?」 言弥は後ろめたさに苛まれたように、美和から視線を逸らした。 しばらくの沈黙のあと、苦しげに口を開く。 「美和、頼むから取り乱さないでくれ。落ち着いたら、ちゃんと話す。この子だけは……、どうしても産ませてやりたいんだ」 そう言い残し、言弥はさやかを支えながら背を向け、立ち去ろうとした。 美和の全身が震え出し、胸の痛みと同時に、下腹部にも鈍く重い痛みが走る。 足元へ目を落としたとき、白いスカートがじわりと濡れていくのが見えた。 赤く滲む色が視界を突き刺し、全身を恐怖が覆う。 「言弥……」 美和は苦しげに声を絞り出した。 私も妊娠したと、私たちの子供を助けと欲しいと……彼に伝えたかった。 けれど、声を出そうとすればするほど、息だけが荒く漏れ、言葉が空気の中に溶けて消えていく。 背後から呼びかける声が届いたのか、言弥の足が止まった。 一瞬、希望の光が差し込んだかと思ったが、彼は振り返ることなく、そのまま病院の廊下の角を曲がり、ゆっくりと視界から消えていった。 美和は完全に絶望した。 その瞬間、この結婚もまた終焉を迎えたのだと悟った。 そして、美和は震える体を無理やり起こし、下腹部を押さえながら、壁伝いに医師の診察室へと歩みを進めた。 扉を開けた瞬間、佐藤小百合(さとう さゆり)医師が驚きの表情で美和を見つめた。 「美和さん……早く帰って安静にするように言ったでしょう。胎児が着床したばかりで、一番大事な時期なのよ」 しかしすぐに、美和のスカートに滲む血に気づき、医師の顔色が変わった。 「誰か!至急、手術の準備を!」 すぐに看護師たちが駆けつけ、美和をベッドへと運んだ。 佐藤医師は美和の手を握り、憂いを帯びた声で告げる。 「どうして……やっと授かった命なのに。この出血量だと……子どもは、おそらく……」 美和の胸は息苦しさでいっぱいだった。どう告げればいいのか、途方に暮れた。 夫は、他の女性と子供を授かり……その夫に突き飛ばされたとは、とても言えなかった。 溢れんばかりの涙だけが頬をつたい、美和は佐藤医師の手を握り返して、震える声で告げた。 「……できる限りで構いません……もしダメだったら、それが私の運命なんでしょうから……」 そのまま、美和は手術室へと運ばれていった。 遠ざかる意識の中で、長い夢を見た。 夢の中で彼女は過去へと遡っていた。 あの頃の言弥は、まだ二十三歳だった。 花束を抱え、指輪を握りしめ、真剣な顔で美和の前に跪く。 「美和、俺と結婚してほしい。一生君だけを愛し、決して裏切らず、悲しませないと誓うよ」 結婚してからの五年間、言弥はその約束を守り続けてくれた。 周囲からも「奥さん一筋の男」と言われ、仕事以外の時間はほとんど美和と過ごしてくれた。 「君との子どもが欲しい」と、彼はいつも言っていた。 だから、言弥が不妊症だとわかったときも、美和は痛みに耐えながら体外受精を続け、二人の子どもを授かろうと努力した。 それなのに――どうして、彼はこんな仕打ちをするのだろう。 一体どうして…… 第3話 再び目を覚ますと、美和は病室のベッドの上にいた。 ぼんやりとした視界の先で、佐藤医師が赤くなった目を伏せ、申し訳なさそうに告げた。 「……ごめんね、美和さん。赤ちゃんは……助からなかったわ。……でも、大丈夫。またきっと授かるから」 この数年、美和がどれほど痛みに耐え、どれほどこの命を望んでいたかを、佐藤医師は誰よりも知っていた。 手術を終えた後、佐藤医師は看護師たちの噂話の一部を耳にし、診察室の外で起きたことを初めて知った。 医師としては何も言えず、ただ無力に慰めることしかできない自分を、佐藤医師は歯がゆく思っていた。 美和は放心したまま天井を見つめ、かすれた声で呟いた。 「……もう、次なんて……ありません」 佐藤医師はため息をつき、「ゆっくり休んで」とだけ告げ、そっと病室を出ていった。 ひとり残された病室で、美和は布団を引き上げて顔を覆い、声を殺して泣いた。 あれほどまでに、子どもの誕生を心待ちにしていた自分が、今、その喪失に押し潰されている。 心が裂けるように痛み、呼吸さえままならず、まるでこのまま死んでしまいそうな錯覚に囚われた。 唇を噛みしめながら、心の奥で叫んだ。 ――言弥……どうして、そんなに冷たいの。 やがて泣き疲れた美和は、深い眠りに落ちた。 目覚めたのは翌朝だった。美和はようやく現実を受け入れたのだ。 最も近しい人に、自分のすべてをかけて守ろうとしていた夢を、あまりにも簡単に打ち砕かれた。 夢は砕け散り、自分もまた目覚めるときが来たのだ。 美和はスマホを取り出し、虚ろな目で恩師へメッセージを送った。 【先生、海外研修に同行させてください。手配をお願いします】 恩師からの返信はすぐに届いた。 【了解。ビザは一週間で下りるわ。旦那さんとはよく話し合っておいて。行ったら、一年は帰れないから】 旦那さんと話す……? もうすぐ、旦那ではなくなる── 一瞬ためらったが、美和はすぐに【わかりました】とだけ返信した。 入院は五日間に及んだ。 その間も、言弥からは以前と変わらない調子で、毎日欠かさずLINEが届いた。 【美和、今日は残業でクタクタだ。本当は君と一緒にいたい】 【美和、君がいないと、大好物の酢豚を食べてくれる人がいなくて寂しいよ】 【美和、まだ怒ってる?帰ってきてくれないか?会いたいんだ】 一言一句に愛情が溢れていたが、美和は一度も返信しなかった。 なぜなら、さやかのSNSで、全く別人の姿を見てしまったからだ。 【藤原社長って本当に優しい。ベビー服も一緒に選んでくれた】 【社長の作る料理って本当に最高!今まで食べた中で一番美味しい酢豚!】 【社長が自ら用意してくれた子ども部屋。これから一緒に暮らせるね】 それは明らかに、美和へ向けられた挑発だった。 一度奪ったものを誇示しながら、さらに奪おうとしている。 その気持ちすら、美和には痛いほど理解できてしまった。 だが、何よりも耐え難かったのは、五年間共に暮らし、寝食を共にした男の演技の巧妙さだった。 「愛している」と囁きながら、他の女に子を宿し、世話を焼いている。 どちらが本当の言弥なのか、もうわからなかった。 本当に、私だけを愛してくれた言弥なんて存在したのだろうか―― 最後に、美和はスマホの録画ボタンを押し、淡々とSNSの画面をひとつずつ録画していった。 退院の日、佐藤医師だけが病室に訪れ、タクシーを手配してくれた。 「退院しても無理は禁物よ。何があっても、あなたの健康が一番だから」 美和の瞳に涙が光り、強く頷いた。 最も助けを求めた時、彼女の心を唯一温めてくれたのは、この白衣の天使だけだった。 一方で、「一生守る」と誓った男は、別の女性と笑い合っている。 もう二度と、彼を必要とすることはないだろう――。 第4話 その時、美和のスマホが鳴った。恩師からのメッセージだった。 【美和、ビザが下りたわ。明日の夜のフライトを取っておいたから、しっかり準備しておいてね。他の生徒たちもあなたの到着を楽しみにしているわ】 その言葉に、美和の胸はじんわりと温かくなり、思わず涙がにじんだ。 何年経とうとも、恩師と、自分が努力を重ねてきた専門分野だけは、彼女を裏切らなかった。 涙をそっと拭い、美和はすぐに返信を送った。 【はい。私も皆さんに会えるのを楽しみにしています。ありがとうございます、先生】 再び自宅へ足を踏み入れたとき、美和は、まるで別世界へ戻ってきたような気がした。 たった数日の間に、彼女の人生は天地がひっくり返るほどの変化を遂げていた。 家の中はひどく冷え切っており、明らかにこの数日間、言弥は帰宅していなかった。 だが、彼が去ることを選んだのなら、もう気に留める必要はない。 呆然としばらく立ち尽くしたあと、美和は片付けに取り掛かった。 カップル用のマグカップ、抱き枕、ぬいぐるみ――すべてをビニール袋に詰め込み、壁に飾ってあった二人の写真もすべて剥がし、一枚ずつ燃やしていった。 それらは、五年間の結婚生活の証であり、かつて「幸せの記録」だった。 「歳を重ねても、君の笑顔を鮮明に覚えていたいから、写真を残していこう」と、言弥は言っていた。 だが今や、それはすべて嘲笑の種となった。 これ以上、彼と築く未来など存在しない。 半日かけて、すべてを片付け終えた頃、美和は静かに明日の旅立ちを心に決めていた。 その時、玄関のドアが開く音がした。 美和は一瞬固まり、反射的に荷物を扉の陰へ押し込むと、寝室のドアを閉めてリビングへ向かった。 やはり、帰ってきたのは言弥だった。 美和の姿を目にした瞬間、言弥の顔に喜びと、深い愛情が一気にあふれ出した。 まるで長い出張から戻った夫が、愛しい妻を目にしたかのように。 駆け寄ると、言弥は迷いなく美和を抱きしめ、声を震わせた。 「美和、やっと帰ってきてくれたのか。本当に会いたかったよ……」 麻痺していたはずの美和の心が、一瞬にして締めつけられ、呼吸が苦しくなった。 美和には理解できなかった。 どうして、彼は何事もなかったかのように振る舞えるのだろう。 どうして、こんなにも巧みに嘘がつけるのだろう。 必死に彼の腕を振りほどき、後ろに目をやると、そこには藤原真理子(ふじわら まりこ)――言弥の母親がいた。 心に漠然とした予感がよぎる。 「お義母さん」――その言葉が喉に引っかかり、どうしても口にできなかった。 真理子は視線を彷徨わせ、申し訳なさそうに口を開いた。 「言弥が管理人から、あなたが帰ったと聞いて、わざわざ私を呼んで説明しに来たのよ。 美和さん、子供の件は本当に想定外だったの。言弥は最初、望んでいなかったんだけど、私の夫が病気でね……どうしても孫の顔が見たいって言うのよ……だから私たちが……」 言弥も美和の前にしゃがみ込み、彼女の腰を抱きながら、へりくだった口調で詫びはじめた。 「美和……あの日、どうしてあんなに酔ったのか、自分でもわからない。訳もわからず彼女と寝てしまって……こんなことになってしまった。 でも、彼女のことは好きじゃないし、君を裏切るつもりなんてなかった。 父さんのためじゃなければ、子どもを残すなんてこと、絶対にしなかった。……一度だけでいい。今回の過ちを許してくれないか?」 充血したその瞳には、哀願と屈辱が混じった色が揺れていた。 その言葉のひとつひとつが、あの子どもへの無関心を語っていた。 でも美和の耳には、すべてが滑稽に響き、顔色はさらに曇っていった。 もし、さやかのSNSを見ていなければ――自分を納得させられていたのかもしれない。 だが、美和は知ってしまった。 言弥が心から、あの子の誕生を望んでいることを。 もうこれ以上、彼のことを信じることはできない。 第5話 真理子は、美和の沈黙を目にすると眉をひそめ、間髪入れずに言葉を挟んできた。 「美和さん、安心してちょうだい。私たち、ちゃんと話し合ったのよ。赤ちゃんが生まれたら、中村さんとはきっぱり縁を切って、子どもは私が育てるわ。あなたたちには一切迷惑をかけないから……それに……」 真理子は言葉を切り、視線を逸らした。 「あなたが突然知ったから、こんなみっともないことになったの。実際、こうした方がみんなのためになるのよ。だってあなた、五年経っても妊娠できなかったじゃない……」 その言葉は、金槌のように美和の胸に突き刺さった。 そう――この人たちはずっと、さやかの妊娠を自分にだけ内緒にしてたのだ。 怒りが、美和の血を煮えたぎらせる。 次の瞬間、美和は言弥の頬を思いきり叩きつけた。 「……出て行って。絶対に許さないから!」 頬を打たれた息子を見た瞬間、真理子の目に剥き出しの怒りが灯り、そのまま美和の頬を打ち返した。 「孤児だったくせに、藤原家に嫁げただけでも感謝することね!私たちが今まで、あなたに不満ひとつ言ったことなんてあった!? 言弥があなたにプレッシャーをかけたくないって言うから、ずっと我慢してきたのよ。今は言弥に子どもができて、あなたに育児を押しつけてるわけでもないのに、どうして騒ぎ立てるのよ!?」 乾いた音が病んだ空気を裂き、これまで辛うじて保ってきた仮初めの関係は、その一撃で完全に崩れ去った。 結局、言弥の両親は、最初から美和が孤児であることを見下していたのだ。 ずっと、彼女が「子を産めない女」であることを蔑んでいたのだ。 けれど、美和だって望んで子どもを産まなかったわけではない。 努力しなかったわけでも、自分の血を引く子どもが欲しくなかったわけでもなかった。 頬を押さえながら、美和は言弥へと視線を向けた。 彼の瞳をしっかりと見据え、その答えを確かめようとした。 だが、言弥は美和の目を正面から見ることすらできず、狼狽したように真理子の手を握りしめ、かすれた声で言った。 「母さん、もう余計なことは言わないでくれ……。美和にどれだけ叩かれて、罵られても仕方ない。悪いのは全部俺なんだ。俺が償うよ」 美和は思わず笑い、一筋の涙が頬をつたった。 ――償う? 私があなたを叩き、罵れば、それで与えられた傷は消えるの? 失った子どもが戻ってくるとでもいうの? 声にならない悲鳴が、胸の奥で煮え立っていた。 美和が子どものことを言おうとした瞬間、言弥のスマホが鳴り響いた。 ――さやかからだった。 言弥は一瞬、美和を見て躊躇したが、着信を切った。 しかし数秒後、再びスマホが震え、その振動は止むことなく続いた。 仕方なく、言弥は電話に出た。 その顔色がみるみるうちに変わり、青ざめた声で告げる。 「美和……さやかが転んだらしいんだ。ちょっと様子を見てくるよ。戻ったら、君が気が済むまで殴ってくれていいから」 言葉では美和の意向を尋ねたものの、身体はすでに行動を選んでいた。 一歩踏み出す彼を、美和は虚ろな目で見つめた。 「言弥……もし、彼女が嘘をついてるって言ったら……私を信じて、ここにいてくれる?」 言弥の足は、あの日と同じように一瞬止まったが、振り返ることはなく、不完全な言葉だけを吐き出した。 「美和、ちょっと見てくるだけだ。何もなければすぐに戻るから」 美和は何も返さず、ただ彼の背中を見送った。 その目に、かつての愛情は一片たりとも残っていなかった。 さやかに何かあったと聞いた真理子も落ち着いてはいられず、去り際に振り返り、美和を睨みつけた。 「美和さん、私たちの気持ちもわかって。私たちはただ、孫が……後継ぎが欲しいだけよ」 去りゆく背中を見つめながら、美和は、押し殺した声で呟いた。 「あなたたちの気持ちは、わかるわ。でも……私の気持ちは、誰がわかってくれるの?いいわ。あなたたちの望みは、叶えてあげる」 かつて美和は、言弥が家の変化に気づき、引き留めてくれることを願っていた。 しかし、すべては取り越し苦労だった。 彼の目には、もう自分ではなく、あの子どもしか映っていない。 もし、二人にも子どもがいたと知ったら――彼は、同じように苦しむのだろうか。 第6話 美和が呆然としていると、さやかからメッセージが届いた。添えられていたのは、言弥の横顔の写真だった。 【美和さん、また私の勝ちね。私が少し泣いただけで、藤原社長はあなたを置いてすぐに駆けつけてくれたの。彼がどれだけ私たちの赤ちゃんを待ち望んでいるか、わかるでしょ?】 写真の言弥は緊張した表情を浮かべ、まさに良き父親の姿だった。 美和は手のひらに爪を深く食い込ませ、しばらく落ち着いてから返信した。 【どうして人の夫を略奪するの?私があなたにしてきた援助が足りなかった?あなたにプライドってものはないの?】 すぐに返ってきた返信は、怨念にまみれていた。 【あなたが上から目線で、恩着せがましく私に接するのが我慢できなかったのよ。結局、良い旦那がいるから偉そうにできるんでしょ?だから奪ってやったのよ! 言い忘れてたけど、彼の父親が病気ってのは嘘よ。あれは、子供を守るための口実なの!恨むなら、子供一人産めない自分を恨むのね。ハハハ……あなたにこんな哀れな日が来るとは……】 先ほどの真理子の様子からして、美和はなんとなく勘づいていた。 義父の病気は偽りで、孫を望む気持ちだけは本物だったのだろう。 ただ、さやかとの関係が「農夫と蛇」の寓話そのものだったとは思いもしなかった。 美和は長年、さやかを支え続けてきた。 彼女を田舎の山奥から連れ出し、専門外にもかかわらず特別採用で会社に入れ、長い付き合いの中で彼女を信じて言弥のそばに配置した。 冗談めかして「言弥が飲み過ぎないように見張っておいてね」と笑った日もあった。 ――だが裏切りは、いつだって最も近しい場所から訪れる。 裏切ったのは、美和が最も信頼していた二人だった。 それ以上、さやかには返信しなかった。価値観の歪んだ相手と議論しても無意味だと悟ったからだ。 ただ、さやかがメッセージを取り消す前に、淡々と画面を録画して保存した。 その夜、言弥は帰らず、メッセージだけが届いた。 【美和、中村さんの容態が安定しなくてさ。母さんも一人じゃ不安だって言うから、今夜はここに残るよ。明日、会社で話そう。 今日の母さんは感情的になってただけだ。気にしないでくれ。代わりに謝るよ。何があっても、俺が愛しているのは君だけだ】 その深情に満ちた言葉を目にしても、美和の心は微動だにしなかった。 さやかのSNSを開くと、やはり新しい投稿があった。 写真のアングルは巧妙で、言弥がソファに寄りかかりテレビを見ている横で、真理子が果物の皮をむいていた。 重病のはずの言弥の父もおり、実に温かな家族の調和が写っている。 美和は嘲笑しながら、こんな稚拙な言い訳を考え出した言弥に呆れた。 必死に吐き気をこらえ、【わかったわ】とだけ返信した。 明日、美和は会社へ戻り、以前作成したデザイン原稿を取り戻すつもりだった。 そうすれば、海外に行ってから先生に添削を依頼でき、進行もかなり楽になる。 言弥は美和の返信に歓喜し、彼女がようやく事実を受け入れたのだと安堵した。 彼からすぐに、幼稚な喜びを滲ませた返事が届いた。 【美和、理解してくれてありがとう。君はやはり、この世で最も優しく思いやりのある女性だ。 安心して。子どもが生まれて、親との約束を果たしたら、昔のようにわだかまりのない生活に戻れるよ】 美和は冷たい目で文字を眺めながら、胸の奥に黒い憎悪がゆっくりと広がっていくのを感じた。 暗闇に飲まれかけたその瞬間、ふと、以前見たドラマの台詞が頭をよぎった。 ――行き止まりの路地に入り込んだら、引き返せばいい。無駄に時間を使って、後悔してはいけない。 美和は一瞬にして覚醒した。 腐った人や物に執着するより、新しい人生を選んだ方がいい。 明日、無事に出発さえできれば、すべて終わるのだ。 そう思った途端、美和は久しぶりに、穏やかな深い眠りへと落ちていった。 第7話 翌朝早く、美和は会社へ向かった。 エレベーターに乗ろうとした瞬間、目の前に立っていたのは、言弥とさやかだった。 昨日まで「体調が悪い」と泣き言を言っていたはずのさやかの顔色は好調で、むしろ化粧までばっちり整えており、思わず美和は嘲笑が込み上げた。 言弥は昨夜の言い訳を思い出したのか、一瞬目を逸らし、気まずそうに眉をひそめた。 だがすぐにたて直し、美和のそばに駆け寄ると、小さな紙袋を差し出した。 「美和、朝食は済ませたか?君の好きなパンを買ってきたんだ」 確かに朝食はまだ取っていなかったため、美和は無言のまま袋を受け取った。 その沈黙に耐えきれず、さやかが言弥を一瞥してから、不満を隠しきれない声で口を開いた。 「美和さん、それ、社長がわざわざ車で三十分かけて買いに行ったんですよ?どうしてお礼も言わないんですか?社長のご厚意を踏みにじっていると思いませんか?」 美和はゆっくりと視線をさやかから言弥へ移し、口元に意味深な笑みを浮かべた。 「言弥、私があなたにお礼を言う必要なんてあるのかしら?」 言弥は一瞬目を瞬かせたが、美和が朝食を受け取ったことだけで満足したのか、柔らかい笑みを浮かべ、さやかを鋭く睨みつけた。 「いい加減にしろ。俺は夫として、当然のことをしたまでだ。愛する妻のためなら何だってする。君が口を出すことじゃない。俺たちの約束を忘れるな。君に美和を批評する資格はない」 言弥の声には低く、しかし決定的な響きがあった。 美和は薄く笑い、さやかを一瞥した。 さやかの顔は悔しさで赤く染まり、唇を噛み締め、涙を浮かべながら哀れな声で言弥を見上げた。 「社長、私……そんなつもりじゃ……」 「二度と余計な口を挟むな」 言弥の冷たい声が落ちると、さやかは俯きながらも、一瞬だけその目に憎悪の光を宿した。 やがてエレベーターの扉が開き、美和は二人を背後に残したまま、素早くオフィスへと向かった。 ――だが、デスクの上を見た瞬間、心臓が凍りついた。 いつも置いているはずのデザイン原稿が、跡形もなく消えていた。 胸の奥を冷たい予感が駆け抜け、美和は急いでオフィスを飛び出し、声を張り上げた。 「この数日で誰か私の部屋に入って、私の私物を動かした人はいる!?」 周囲の社員たちは顔を見合わせ、皆が首を横に振った。 その時、言弥が駆け寄り、眉をひそめて問いかけた。 「美和、どうした?何があったんだ?」 あのデザイン原稿は美和の日常のインスピレーションとスケッチで、長年の努力と情熱の結晶だった。 それが忽然と消え失せ、心が張り裂けそうだった。 「私の原稿が……全部なくなってるの」 美和と長年寄り添ってきた言弥は、その原稿が彼女にとっていかに大切なものかわかっていた。 言弥は周囲を鋭く見回し、声を低く落として言った。 「誰だ?美和のオフィスに入ったのは。今ここで出してくれれば、不問にする」 ざわめく中、さやかだけが後ろに隠れて黙っていた。 その時、新人の女性社員が手を挙げて小声で言った。 「一昨日の退社前、中村さんが髙橋さんのオフィス前に立っているのを見かけました。でも、入ったかどうかまでは……」 美和も真っ先にさやかを疑っていた。 会社には、付き合いの長い社員ばかりで、誰もが他人の物を勝手に動かすような人間ではないと知っていたからだ。 美和は迷うことなくさやかの前に歩み寄り、冷たい声で右手を差し出した。 「どこに隠したの?今すぐ返して!」 顔を真っ赤にしたさやかは慌てて否定した。 「ち、違います!私が取ったわけじゃ…」 言い争う二人を見て、言弥の表情は複雑に揺れ、慎重に言葉を選んだ。 「美和、これは何かの勘違いじゃないか?君がどこかに忘れてしまったのかもしれないし……」 その言葉に、美和は失望と怒りを滲ませて答えた。 「言弥、私がそんな迂闊な人間だと思ってるの?ここまで来て、まだ彼女をかばうつもり!?」 大勢の社員の前で声を荒げられ、言弥の顔に苦悶の色が走る。 「美和、落ち着いてくれ。別に誰かをかばうつもりはない。ただ、君が騒げば会社全体の仕事に支障が出る。 約束するよ。ちゃんと調べて、原稿を取り戻すから」 ――また、同じことの繰り返し。 連日の我慢と妥協が、ついに美和の感情を爆発させた。 第8話 一歩踏み出した美和は、さやかの襟元を乱暴に掴み、怒声を上げた。 「私の原稿はどこ?!今すぐ返しなさい!」 さやかは抵抗する素振りを見せながらも、その口元には挑発するような笑みが浮かんでいた。 そして周囲の目が届かない死角で、口パクで美和に呟いた。 「破り捨てたわ」 美和はもう怒りを抑えきれず、振り上げた手が勢いよくさやかの頬を打ち据えた。 さやかはたちまち涙を流し、嗚咽混じりに泣き叫ぶ。 「藤原社長……助けてください……私はやってません……!」 その泣き声は、美和の怒りをさらに掻き立てた。 胸の奥で鬱積していたものが溢れ出し、震える手で再びさやかの襟元を掴んだ。 なぜ、誠実に生きてきただけの自分が、こんな仕打ちを受けなければならないのか。 美和には理解ができず、納得もできなかった。 言弥が慌てて駆け寄り、二人の間に割って入った。 「美和、やめてくれ。まだ何もはっきりしてないんだ。勝手に罪を押しつけてはいけない。それに彼女は……体調が悪いんだ……」 その言葉に、美和の堪忍袋が切れた。 押し合う中、さやかはわざと床に倒れ込み、苦痛の呻き声をあげた。 理性を失った言弥は、反射的に美和の頬を打った。 「美和!良い加減にしろ!」 パチンという音が、会社全体の空気を凍りつかせた。 頬を押さえ、信じられない表情で言弥を見つめる美和の視界は涙で滲んだ。 そして、震える声で問いかけた。 「言弥……いい加減にするべきなのは、どっち……?どうして一度だって、私の味方をしてくれないの?」 涙に濡れた美和の瞳を見つめ、言弥の胸は後悔で痛んだ。 口を開こうとしたその時、さやかが苦しげに呟いた。 「お腹が……痛い……」 言弥の注意は一気にさやかに向けられ、慌てて抱き上げた。 「美和、とりあえず彼女を病院に連れて行くよ。今夜、家に戻ったら改めて話そう。いいな?」 返事を待つこともなく、さやかを抱いたまま言弥は足早に立ち去った。 まるで、これまで幾度も繰り返されてきた光景のように。 去り際、さやかは言弥の首に腕を絡め、振り返って美和を見下ろした。 その目には勝ち誇った色が宿り、口パクで小さく告げる。 「また、あなたの負けよ」 美和は何も言わず、ただぼんやりと二人の背中を見つめた。 エレベーターに乗り込んだ言弥が、ふと振り返り、美和と目が合った。 その視線を受け止めながら、美和は頬を伝う涙を拭い、低く呟いた。 「言弥……もう二度と、あなたを待たないわ」 言弥の胸に、鋭い痛みが走った。 何かを言いかけた瞬間――無情にもエレベーターの扉は閉まった。 美和の視線はあまりにも決然としていて、彼に不吉な予感を抱かせた。 だが、腕の中のさやかの青ざめた顔を見つめ、腹の子のことを案じるしかなく、深く考えすぎないよう自分に言い聞かせた。 二人が去ると、周囲の社員たちが駆け寄り、美和を慰めた。 親しい者たちはさやかを厳しく非難し、恩知らずだと罵った。 しかし、さやかと言弥の関係については誰も深入りせず、ただ美和を哀れむ眼差しで見つめていた。 美和は無理に笑顔を作り、皆に仕事に戻るよう伝えると、残った荷物を手に足早に立ち去った。 エレベーターに乗った瞬間、美和の視界が歪み、再び涙が頬を濡らした。 この会社は、自分と言弥が共に築き上げてきた場所だった。 幾度も夜を徹し、夢と情熱を注ぎ込んだ、大切な場所。 それを捨て去る日が来るとは思わなかった。 だが、こんな捩れ切った関係の中で生きることは、もうできない。 ただ、一刻も早くここから離れたかった。 第9話 会社を出た美和は、急ぎ足で自宅へ戻った。 荷物を手に取ると、そのまま空港へ直行し、サイン済みの離婚届と妊娠検査報告書だけを残していった。 搭乗待ちの間に、真理子から電話がかかってきた。 迷った末、美和は電話に出た。 しかし通話が繋がった途端、真理子は苛立ちを露わに怒鳴り始めた。 「美和、あんたは害をなす疫病神よ!自分が孤児だからって、うちの家まで絶やそうとしているわけ!?役立たずのくせに! よく聞きなさい!もしさやかさんのお腹の子に何かあったら、絶対に言弥に離婚させるわよ!絶対にあんたを許しませんからね!」 その言葉が、美和の胸を鋭く抉った。 孤児で家族のいない彼女は、この五年間、言弥の家族を自分の家族のように思い、嫁として全力で尽くしてきた。 それなのに、真理子の言葉は容赦なく美和の心を踏みにじったのだ。 ──最初から、自分を家族として見ていないのなら、これ以上我慢する必要はない。 それに今や、美和は去る決意と永遠に関わらぬ覚悟をしていた。 美和は深く息を吸い込み、毅然と反論した。 「私は、彼女を害したことなど一度もありません。全部、彼女の自作自演です。信じようが信じまいが、時間が証明してくれます。 それに、役立たずなのは私ではなく、あなたの息子です。離婚したいのは私の方です。もう彼を愛していませんし、これ以上藤原家に妥協するつもりもありません」 結婚して五年、謙虚で礼儀正しかった美和の意外な強かさに、真理子は本能的に否定した。 「そんなわけないわ!言弥に問題があるわけないじゃない!役立たずなのは、あんたよ!何よりも、さやかさんは一度で妊娠できたじゃないの!」 美和は鼻先で笑った。 「それは彼女に聞いてみられては?どうして運良く、一度で藤原家の子を授かれたのかって」 真理子は怒りに駆られて、ますます激昂した。 「どうせあんたは、妬んで嘘をついてるんでしょうね。とにかく孫が無事ならまだしも、もし何かあったら──絶対に許さないから!」 美和はもう口論に付き合う気もなく、雑音のような罵声を無視し、電話を切った。 ただ、真理子の言葉は心に小さな疑念を残した。 ──言弥の体調を最も知っている美和だからこそ、子を授かることが簡単でないのは明白だった。 ならば、さやかの子どもは──。 思考が巡る中、空港内に搭乗案内のアナウンスが流れた。 美和ははっとして顔を上げ、深呼吸をひとつ落とした。 「もういいわ」 あの人たちに関わるのは、これで終わりだ。 考えたところで、答えなど出るはずがない。 気持ちを切り替えると、美和はスマホを取り出し、さやかが送ってきた挑発的なメッセージと、録画していたSNSの投稿を添付して、言弥宛に最後のメッセージを作成した。 【言弥、こんな形で私たちの結婚が終わるなんて思わなかった。でも、もう戻れない。 あなたたちは私に理解を求めたわよね。今度はあなたが私を理解して。 私はあなたたちのことを無理して許せないわ。だから、離婚を決意したの】 送信を確認すると、美和は全員の連絡先をブロックし、旧SIMカードを処分して、新たに海外用SIMカードに差し替えた。 すべて終えると、ためらいなくスーツケースを引き、保安検査へと進んだ。 ──これから先、あの人たちがどうなろうと、もう自分には関係ない。 第10話 その時、言弥は母の真理子とともに検査室の前でさやかを待っていた。 だが、頭の奥で美和の表情が何度も繰り返し浮かび上がっていた。 美和が最後に言っていた言葉は──もはや自分の言い訳など聞く気はないという宣告だったのだろうか。 「いや、そんなはずない……」 言弥は首をかしげ、苦笑いしながらその考えを打ち消し、自分の思い違いに過ぎないと言い聞かせた。 なぜなら、美和がこの関係をどれほど大切にしているか、誰よりも知っていたからだ。 スマホに新着メッセージの通知が鳴り響いた瞬間、言弥は現実に引き戻された。 美和からのメッセージだと知ると、思わず口元に笑みが浮かぶ。 「やっぱり、美和が俺を捨てるわけがない」 そう思いながら開いた画面の冒頭にあった「離婚」という文字に、目が釘付けになった。 その瞬間、笑みは音もなく消え、瞳に信じられない色が宿る。 ──離婚? 美和が、自分との離婚を望むだと? その事実が脳裏を打った瞬間、胸の奥を握りつぶされるような痛みが走った。 震える指先で、美和から送られてきた複数の動画を再生していく。 しかし、映像を目にするほどに顔色は青ざめ、握りしめた手は恐怖と動揺で震えが止まらなかった。 言弥は予想もしていなかった。 さやかが、自分の知らないところでこれほど多くの細工を仕掛けていたとは。 完璧だと思っていた自分の嘘が、すでに美和に晒されていたと知った時、心は鉛のように重く沈んでいった。 その時、検査室のドアが開き、さやかが出てきた。 彼女は言弥の異変にすぐ気づき、そっと袖をつまんで顔を覗き込む。 「社長、どうかされましたか?」 その声でようやく現実に引き戻された言弥は、真っ赤に充血した目でさやかを見据えると、無言のまま彼女の首元を掴んだ。 「誰の許可を得て、美和の前で威張っている?警告したはずだ。余計な望みは持つなと」 苦しそうに肩を震わせながらも、さやかは決して認めようとせず、涙声で訴えた。 「ご、誤解です……私は、何もやってません……」 横でスマホをいじっていた真理子が、その光景に慌てて声を上げた。 「言弥!何をしているの!?中村さんはあなたの子を身ごもっているのよ!早く手を離しなさい!」 しかし、言弥は頑なに手を離さず、母を睨みつけながら低い声を吐き出した。 「母さん……本当のことを教えてくれ。父さんは、本当に病気なのか?」 真理子の顔に緊張が走り、視線をさやかへと向ける。しばし黙り込んだ末に、口ごもりながら返事をした。 「あなたも……あの診断書を見たでしょう?私が嘘をつくわけないじゃない……」 「まだ、俺を騙す気か……?」 失望と怒りがせめぎ合い、言弥はついに声を荒げた。 「この期に及んでも誤魔化すのか?!美和が離婚を切り出したんだぞ!これで満足か!」 その言葉に、さやかの瞳に一瞬だけ、野心の光が宿った。 真理子は一瞬固まったが、口元を歪めながら吐き捨てた。 「もうこんなことになっちゃったんだし、子どもの世話だって別に彼女がするわけじゃないんだから。少しは年寄りの立場も考えてくれてもいいのに、本当わがままなんだから。 離婚したいなら勝手にすればいいのよ。五年も結婚して子どもができなかった女なんて、用済みでしょ。さやかさんは一度で授かったじゃない。だからやっぱり、人によるのよ」 言弥の瞳孔がわずかに震え、何かに気づいたように力なくさやかから手を離した。 放心したまま、掠れた声で叫ぶ。 「違う……違う!俺は絶対に美和と離婚しない!お前らの思い通りにはさせない!」 言い捨てると同時に、その場を振り切るように走り去った。 他人は知らなくても、言弥自身はよく知っている。 子どもができないのは、自分の体の問題だということを。 彼に気遣って、美和はこの数年もの間、すべてを背負い込んでいた。 両親の非難に耐え、言弥を信じ続けてくれた。 ──なら、なぜさやかは簡単に子どもを授かれたのか。 初めてその疑念が、言弥の胸を突き刺した。 だが今は深く考える余裕もなく、ただ急いで帰宅し、美和に説明したい一心だった。