あなたと交わらない人生

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あなたと交わらない人生

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私・高瀬紗月(たかせ さつき)の婚約者・御堂圭介(みどう けいすけ)には、真っすぐで世話焼きな後輩・鷹宮真琴(たかみや まこと)がいる。 ...

Chương (1)

第1章

私・高瀬紗月(たかせ さつき)の婚約者・御堂圭介(みどう けいすけ)には、真っすぐで世話焼きな後輩・鷹宮真琴(たかみや まこと)がいる。 真琴は彼にマッサージをしてやり、耳かきまでしてやる。下着の買い替え時期やサイズまで把握しているほどだ。 私の誕生日に、圭介が私の好きな店を予約して祝ってくれる時でさえ、真琴は陰で念を押していた。 【言い方悪いけどさ、甘やかされて調子に乗る人、ほんとにいるから。大事にされるのが当たり前になると、気づいたら立場、完全に逆になってる。で、痛い目見るのは、だいたいそっちなんだよ】 私はトーク履歴を突きつけ、圭介を問い詰めた。 けれど、彼はたいして気にも留めなかった。 「真琴は率直なだけで、言い方がきついんだ。でも世話焼きで、根はいい子だよ。他の女みたいに、回りくどいことはしない」 彼の煮え切らない態度に腹が立って、胸の奥が痛み、別れを切り出した。 さすがに堪えたのか、圭介は顔色を変え、真琴をブロックし、もう二度と連絡を取らないと約束した。 ――ところが、挙式を目前に控えたある日。 ようやく予約の取れたドレスデザイナーに、私がブロックされていることに気づいた。 調べてみて、すぐに分かった。真琴が圭介のスマホを使い、デザイナーを罵倒した挙げ句、私の予約を勝手に取り消していたのだ。 「あのドレス、正直高すぎじゃない?先輩のお金だと思うと、もったいなくて。 まあ、あんたが恥かくのは勝手だけど。でも、ああいうの、あんたに似合わなくない?周りに笑われたら、先輩まで一緒に恥かくことになるじゃん。それ、見てられないんだけど」 真琴は、にやにやと笑いながら眉を上げてみせた。 そして――私の婚約者は、迷いなく彼女を庇うように前に出た。 「心配して言ってくれてるだけだろ。そんなことでいちいち腹を立てるほうが、面倒じゃない?」 ……ああ、そうか。 胸の奥に溜まっていたものが、すっと冷えていくのを感じた。もう、どうでもよくなった。 私は黙って指輪を外し、彼の頬に向かって投げた。 「もういい。結婚、やめる」 第1話 私・高瀬紗月(たかせ さつき)の婚約者・御堂圭介(みどう けいすけ)には、真っすぐで世話焼きな後輩・鷹宮真琴(たかみや まこと)がいる。 真琴は彼にマッサージをしてやり、耳かきまでしてやる。下着の買い替え時期やサイズまで把握しているほどだ。 私の誕生日に、圭介が私の好きな店を予約して祝ってくれる時でさえ、真琴は陰で念を押していた。 【言い方悪いけどさ、甘やかされて調子に乗る人、ほんとにいるから。大事にされるのが当たり前になると、気づいたら立場、完全に逆になってる。で、痛い目見るのは、だいたいそっちなんだよ】 私はトーク履歴を突きつけ、圭介を問い詰めた。 けれど、彼はたいして気にも留めなかった。 「真琴は率直なだけで、言い方がきついんだ。でも世話焼きで、根はいい子だよ。他の女みたいに、回りくどいことはしない」 彼の煮え切らない態度に腹が立って、胸の奥が痛み、別れを切り出した。 さすがに堪えたのか、圭介は顔色を変え、真琴をブロックし、もう二度と連絡を取らないと約束した。 ――ところが、挙式を目前に控えたある日。 ようやく予約の取れたドレスデザイナーに、私がブロックされていることに気づいた。 調べてみて、すぐに分かった。真琴が圭介のスマホを使い、デザイナーを罵倒した挙げ句、私の予約を勝手に取り消していたのだ。 「あのドレス、正直高すぎじゃない?先輩のお金だと思うと、もったいなくて。 まあ、あんたが恥かくのは勝手だけど。でも、ああいうの、あんたに似合わなくない?周りに笑われたら、先輩まで一緒に恥かくことになるじゃん。それ、見てられないんだけど」 真琴は、にやにやと笑いながら眉を上げてみせた。 そして――私の婚約者は、迷いなく彼女を庇うように前に出た。 「心配して言ってくれてるだけだろ。そんなことでいちいち腹を立てるほうが、面倒じゃない?」 ……ああ、そうか。 胸の奥に溜まっていたものが、すっと冷えていくのを感じた。もう、どうでもよくなった。 私は黙って指輪を外し、彼の頬に向かって投げた。 「もういい。結婚、やめる」 「そこまでしなくてもいいでしょ、紗月。ドレス一着で、大げさすぎ。結婚なんて、ドレスが主役じゃないでしょ」 真琴が、私の腕をつかんだ。 彼女は圭介のほかの友人たちと同じく私より年上だが、あの連中みたいに私を「紗月ちゃん」と甘く呼ぶことはない。呼び捨てで、距離を詰めてくる。 「それに、人に物を投げつけるなんて。法律の勉強してないの?恋人同士でも、暴力は犯罪だよ」 1カラットのダイヤの指輪なんて、圭介の顔に当たったところで、赤くもならない。 それより、真琴の鋭いネイルが私の腕に深く食い込み、すでに皮膚が破れていた。 育ちのせいか、人前で喧嘩を晒す真似はできない。 「――離して」 私は冷え切った声で、最後の警告をした。 真琴はびくともせず、正義を振りかざしたような口調で言う。 「先輩が警察を呼ばなかっただけでも、十分でしょ。普通ならアウトだよ。だから、あなたが謝るべき」 陰で何度も私を笑いものにし、丹念に準備してきた式の段取りまで壊しておいて、まだ謝れと言うのか。 吐き気がするほど、うんざりだった。 堪えきれず、私はもう片方の手を振り上げ、頬を叩こうとした。 その腕は、途中でつかまれた。 さっきまで真琴に絡まれても黙っていた圭介が、そのとき立ち上がった。 「もういいだろ!」 普段は私に怒鳴ることのない彼が、三度目も真琴のために私を怒鳴った。 喉の奥が酸っぱく、言葉が詰まる。 それなのに、周りまで真琴の肩を持つ。 「紗月ちゃん、ドレスなんて一回しか着ないだろ。あんな高いの頼んだら、レンタルで何着借りられるんじゃないか」 「真琴、次はそこまで世話を焼かなくていいよ。みんながみんな、お前に感謝するわけじゃない」 「若いとさ、すぐ態度に出るよな」 今日は圭介の誕生日だ。 ずっと前から準備してきたし、二人きりの時間が足りないって彼が言うから、仕事まで休んで祝うつもりだった。 それなのに、朝早く。 私たちはベッドで寄り添っていたのに。 外が急に騒がしくなり、真琴が勝手に顔なじみの連中を連れて押しかけてきた。 彼女は手際よくスリッパを配り、勝手に飲み物まで用意し始めた。 まるでこの家の主みたいだった。 私は呆然としたまま、どうして彼女が家の暗証番号を知っているのかも分からなかった。 その間にも、真琴は寝室の前まで来ていた。 半裸の圭介がシーツで私を包み込むのを見るなり、真琴は声を上げて笑った。 「女同士で、何を隠すの?別に珍しいものでもないでしょ。それより先輩、朝から元気すぎ。体、壊すよ?」 声がやたら大きい。 外にいた連中が気づいて、すぐに囃し立て始めた。 「真琴、ちょっとは控えろよ。留学してた頃から俺たちと一緒に住んで、そういう距離感に慣れすぎなんだよ。紗月ちゃんは、そういうの苦手なんだから。前にブロックされたの、もう忘れたのか?」 私は圭介を見つめ、信じられない気持ちになった。 真琴をブロックしろと言ったのは、他でもない圭介自身だったはずだ。それなのに、いつの間にか全部、私のせいになっている。 それに――私たち二人のことが、どうして友人たちのからかいのネタになるんだろう。 けれど、圭介の視線は入口に立つ真琴から離れなかった。 「ほら、出てけ」 命令みたいな言い方なのに、口元には消えかけの笑みが浮かんでいる。 からかうようで、妙に距離が近かった。 真琴はふざけた仕草で舌をちらりと見せ、そっとドアを閉めた。 ようやく圭介が、私の様子がおかしいことに気づく。 「紗月、夜にちゃんと説明する。今日は俺の誕生日だし、みんな好意で来てくれたんだ。ここで空気壊すの、やめよう」 彼は癖みたいに身を屈め、キスしようとした。 私は眉をひそめて身を引いた。 圭介は私を見て小さく息をつき、困ったような顔をしたが、何も言わずに慌てて服を着て出ていった。 外は笑い声でいっぱいで、やたらと賑やかだ。 扉一枚を隔てて、私は部屋に一人、冷え切った静けさの中に取り残されている。 胸が痛くて息が詰まり、涙が大粒のまま、ぽろぽろと落ちていく。 ドアがまた、不意に開いた。 真琴が口元を押さえ、わざとらしく驚いてみせる。 「紗月、どうして一人でここに隠れて泣いてるの?もしかして……私たち、歓迎されてない? 知らないかもしれないけどさ。先輩、前はよく私たちと集まってたんだよ。紗月と付き合い始めてから、急に来なくなって。分かってる人なら恋人優先なんだなって思うけど、知らない人から見たら、束縛されてるって思われても仕方ないよ。 紗月がそんな人じゃないのは分かってる。だから今日は先輩の誕生日だし、みんなで賑やかにしてさ。早く私たちに慣れてほしかったんだよ。 これからも集まりがあるたびに、先輩が紗月を連れて来てくれれば、余計な誤解もしなくて済むでしょ。 今日この人をブロック、明日はあの人をブロック……なんてことになったら、先輩だって外で立場なくなるんだから」 そう言いながら、真琴は部屋に入ってきた。 床には、昨夜圭介が脱ぎ捨てた下着が落ちている。 真琴はそれを平然と拾い上げ、しばらく眺めたあと、ふっと笑った。 「男ってさ、三十過ぎてから脂が乗るって言うじゃない。先輩、下着のサイズまで大きくなってるし」 第2話 姿を消していた圭介が、ようやく戻ってきた。 真琴の手にある下着を一瞥し、次に私へ目を向けると、気まずそうに視線を逸らした。 「紗月が着替えるんだ。そこにいないで、外に出ろ」 それだけ言って、圭介は真琴の腕を引き、部屋の外へ出ていった。 真琴は彼の脇腹を指でつつきながら、からかうように言う。 「ねえ先輩。紗月を満足させるために、変な修行でも始めたの?」 「お前の頭には、ろくでもないことしか詰まってないのか」 「先輩のことは、ちゃんと入ってるよ」 ふたりのじゃれ合う声は、リビングに移ってもなお耳に届いた。 ほかの連中も見慣れているのだろう。私と圭介の寝室のことまで肴にして、面白がって笑っている。 ……付き合う価値もない。 あんな連中のために怒ったり、涙を流したりするなんて、損でしかなかった。 私は乱暴に頬を拭い、内鍵を掛けてシャワーを浴び、きれいな服に着替えた。 部屋を出ようとした、そのときだった。ドレスデザイナー・レインのアシスタントから電話がかかってきた。 「高瀬さん。以前レインのもとへいらした際、何度も約束をすっぽかされましたよね」 一瞬、何の話か分からなかった。 「絵梨さんのお顔を立てて、こちらも不問にしましたが、今回は違います。大口の客をいくつもお断りしてまで、お受けした案件です」 声は丁寧だが、冷え切っている。 「当日キャンセルだけならまだしも、電話口で罵倒までされました。どういうおつもりですか」 頭の中が、一気に真っ白になった。 芦原絵梨(あしはら えり)――彼女は私の親友で、圭介のいとこでもある。そして、最初に私たちを引き合わせたのも、彼女だった。 彼女のいちばんの夢は、憧れのレインと組んで、私に贈るウエディングドレスを一着仕立てることだった。 けれど、それを叶える前に、交通事故で帰らぬ人になった。 葬儀の日、絵梨の母――圭介の叔母は、未完成のデザイン画を私たちに託した。そして、圭介に言い聞かせるように言った。 「圭介。紗月は、絵梨のいちばんの友だちよ。ちゃんと大事にしてあげて。そうすれば、あの子も心残りがひとつ減るから」 あのとき圭介は、私の手を強く握りしめ、一生大事にすると誓った。 イタリアへ一緒に行って、レインにオーダーしようと言い出したのも、圭介のほうだった。 一度目は、空港に着いた途端だった。真琴が昼間から飲みすぎたと電話をしてきて、「心配だ」と言い残し、圭介は迎えに行った。私はひとり、空港に置き去りにされた。 二度目は、出発前夜。真琴が職場で上司に嫌がらせを受けたと泣きつき、圭介は「話を通してくる」と言って、また約束を破った。 今度ばかりは、本当に堪えられなかった。 その背後で、真琴はさらに煽ってくる。 【あの子、ちゃんとした友だちっていないの?私と先輩は、十年以上こんな感じでやってきたのに。それが紗月になると、急に問題になるんだね。 私、思ったこと言っちゃうだけなんだけどさ。あんなに気が強くて、先輩ほんと毎日大変そう。私だったら、無理だな】 しまいには、離婚リアリティ番組で「モラハラ妻」を叩くまとめ動画まで、圭介に送りつけてきた。 【先輩、心当たりある?この先、先輩もああいう旦那になるんじゃない?】 圭介は、正面からは何も言わなかった。けれど、否定することも、止めることもしなかった。 怒りで頭がくらくらして、私はそれがどういう意味なのかと問い詰めた。 圭介は私の手からスマホを取り上げ、気のない口調で言った。 「ただの雑談だって。お前が違うなら、気にする必要ないだろ」 彼は、私が真琴に問いただすことを許さず、彼女の悪口を、一言たりとも口にしなかった。 結局、いつも同じだ。 真琴は善意で、性格が真っすぐで、言い方が下手なだけ―― それだけだ。 「圭介!真琴って、あんたにとって何なの?そこまで庇って、言うことまで聞くなら……もう無理。別れる」 怒りと悲しさが入り混じって、胸の奥がきりきりと痛んだ。 あの瞬間、本気で婚約を解消したいと思った。掴めるものを掴んで、服を次々スーツケースに放り込んだ。 そこでようやく、圭介は顔色を変えた。慌てて私を抱きしめ、行かせまいとする。 「お前が嫌なら、もう連絡しない。ブロックする。……それでいいだろ?」 目を赤くしたまま、圭介はすぐにスマホを取り出し、私の目の前で真琴をブロックしてみせた。 その日も彼は、私を宥めるようにバッグやアクセサリーを買いに連れ出し、埋め合わせをしたつもりでいた。 ――結局、私は流されてしまった。 社会に出てから初めての恋で、付き合って二年。私はもう、未来の一年一年に、圭介を組み込んでいた。 手放せなかった。 信じてしまった。 なのに――あの約束から、たった一か月。 真琴は暗証番号を打ち、当たり前の顔で、私たちの家に入ってきた。 この家のことを、彼女は知り尽くしている。茶葉も、湯呑みも、迷いなく引き出しを開けた。 私が出張で家を空けていた間、彼女が何度ここへ来て、圭介とここで何をしていたのか――考えたくもない。 それでも、周囲の友人たちは誰ひとり問題だとは思わず、気づけば、悪者みたいに扱われていたのは私だけだった。 ……もう、うんざりだ。 「もういい。好きにすればいいから。私は関係ない。手、離して……行かせて」 怒りと悲しさが込み上げ、堪えきれず、目の縁が赤くなる。 圭介はそこで初めて視線を落とし、真琴に引っかかれて赤くなった、私の手を見た。 第3話 圭介はすぐ手を放した。 真琴も彼の視線に気づき、私の腕から指を離す。 ――パシン。 私は迷いなく平手を振り抜き、圭介の頬を打った。 空気が、一瞬で凍りついた。 誰も言葉を失い、その場に固まっている。 私はバッグを掴み、背を向けて歩き出した。 圭介は反射的に追いかけようとした。 そのとき、真琴が小さく舌打ちする。 「紗月って、意外と気が強いんだね。先輩、家ではそんなに尻に敷かれてるの?」 軽く笑いながら、続ける。 「今日は身内だけでよかったよ。外で同僚や上司に見られてたら、これから職場で顔、立たなくなるでしょ?」 圭介が体面を何より気にすることを、私はよく知っている。 だから今まで、人前では必ず彼の顔を立ててきた。 ――その結果、彼は私の好意に甘え、平気で踏みつけるようになった。 ……もう、やめだ。 案の定、真琴の言葉を聞いた圭介は、追いかけかけた足を止める。 「いいって。今は触らないほうがいい。ほら、続けるぞ」 ――バタン。 私はドアを叩きつけた。 耳障りな笑い声も、全部まとめて向こう側に閉じ込める。 外は、雲ひとつない青空だった。目が痛くなるほど、眩しい。 私はそのまま、会社へ戻った。 それから数日間、仕事に没頭して、圭介のことを考えないようにした。 私は二十六歳だ。 親族や友人に見守られて婚約し、入籍日も決まり、式場の予約まで済んでいる。 終わらせるにしても、続けるにしても、一度、互いに冷静になってから決めるべきだと思った。 けれど圭介は、友人の前で叩かれたことを、まだ根に持っているらしく、結局、こちらに連絡してくることはなかった。 月曜の夜、私は取引先の相手と会食の約束を入れていた。 会社のビルを出た瞬間、真琴がいきなり目の前に立ちはだかった。 「紗月。お金だけ受け取って逃げるとか、さすがに通らないでしょ」 わざと周囲に聞こえる声量で言う。通りを歩いていた人たちが、一斉にこちらを振り向いた。 「さすがにもう、式の直前に破談にするくらいで騒ぐ時代じゃないでしょ」 一拍置いて、にやりと笑う。 「でもね。付き合ってる間に贈り物だの現金だの、細かいの全部合わせたら、二千万円は軽く超えてるでしょ。男のほうは大人だからさ、それはもう返せなんて言わずに、全部あなたに渡した」 さらに、言葉を重ねた。 「……でも、結婚のために渡したお金は別。結納金が一千五百万円。車が二千万円。宝飾品が合わせて二千万円。それに、新居の頭金で四千万円。 ここまでいって、何もなかった顔で終わりにしようっていうのは、さすがに無理じゃない?」 矢継ぎ早にまくしたてられ、私は口を挟む隙もなかった。 話を聞いた通行人たちが、ひそひそと指をさす。 「金だけ取って逃げるって、結婚詐欺じゃないの」 「付き合ってるだけで何千万ももらうとか、完全に金目当てでしょ」 「見なよ、あの身なり。男を騙して稼いだ金で着飾ってるんだろ。ほんと、恥知らず。こういうのがいるから、世の中、どんどんおかしくなるんだよ」 「隣の男、新しいパトロンじゃね?次はそっちからも巻き上げるつもりなんだろ」 そう言いながら、何人かがスマホを取り出し、こちらに向けて動画を回し始めた。 隣に立つ取引先の社長が、眉をひそめる。 「高瀬さん……これは、どういうことですか」 低い声で、淡々と続ける。 「契約でも申し上げたとおり、御社側にネガティブな報道が出て、案件に影響が及ぶ恐れがある場合、当社は取引を打ち切り、損害賠償を請求する権利があります」 この案件は、簡単に取れたものじゃない。三か月、チームで踏ん張り、倒れて二度、病院に運ばれながら、ようやく成立させた案件だ。 失うわけにはいかなかった。 「中村さん、違います――」 必死に声を出した、その瞬間。 「何が違うの?」 真琴が、甲高い声で遮った。 彼女は最初から、そのつもりだったのだろう。バッグから、写真と明細書の束を取り出す。 「ほら。祝日や記念日に振り込んだお金。あなたの実家に買ったもの。婚約祝い」 一枚一枚、突きつける。 「それから、結婚のために渡した車と新居。全部、ちゃんと残ってる」 そして、勝ち誇ったように言った。 「ねえ中村社長。私が彼女を陥れてるのかどうか、あなたが判断してくれません?」 真琴は、明細の束を中村社長の目の前に突き出した。 中村社長は、苛立ったようにそれを押し返した。 「高瀬さん。まずは身の回りのことを整理してください。話は、それからにしましょう」 そう言い残して、彼は背を向けた。 私は思わず、後を追おうとした。 その瞬間、真琴が私の腕をつかむ。 「紗月。ここで逃げるのは、さすがにないよ」 低い声で、言葉を重ねた。 「理由もはっきりしないまま先輩を切るなら、お金の話は避けて通れないでしょ。みんな大人なんだから。 あとになって、金だけ取って逃げた女なんて言われたり、話が大きくなる前に、先に整理しといたほうがいいと思って」 少しだけ間を置き、わざとらしく視線を落とす。 「あなたは体裁なんて気にしなくてもいいかもしれないけど、ご両親のことは、少し考えたほうがいいんじゃない?」 突きつけられた明細は、嫌になるほど具体的だった。 二年間、私だって彼に贈り物をしてきた。婚約や結婚にかかる費用も、ほとんど折半だ。 新居の頭金は彼、内装は私。ローンも、二人で返している。 得をするつもりなんて、一度もなかった。 それなのに――彼がここまで細かく記録を残し、両家に破談を伝える前に、別の女に渡して、私に取り立てさせるなんて思いもしなかった。 しかも、その女は――私たちの関係をこじらせた張本人で、圭介が、私がいちばん嫌っている相手だと知っている女だ。 胸の奥が、刃物でえぐられたみたいに痛んだ。 吐き気が、ぞわりとせり上がってくる。 そのとき、真琴が突然、悲鳴を上げて後ずさった。 「ちょっと、何するの!?」 よろめいた拍子に、彼女のスマホが地面に落ちる。 「違う。私は、何もしてない。あなたが勝手に――」 言葉が、途中で途切れた。 彼女は無傷だった。傷ついているのは、爪で皮膚を引き裂かれた私の手だけ。 それでも、誰ひとり、私の声を聞こうとしない。 非難のうねりが、一瞬で私を飲み込んだ。 「ほら、やっぱりね。一見まともそうに見えても、金持ちに取り入って金を巻き上げる女だよ」 無数のスマホが一斉に掲げられ、フラッシュが、目を射抜くように瞬いた。 押し合いへし合いの中で、私は足を取られて倒れ、スマホは弾かれるように遠くへ飛んだ。 レンズが、私の顔、胸元、そしてスカートの奥へと、露骨に狙いを定める。 「仕事にスカート?まともな女の格好じゃないだろ」 「男を引っかけて金を抜くタイプだな。こんなの相手にするくらいなら、風俗の女のほうがマシだ」 「高級オフィスビルから出てきたから、エリートかと思ったら……ただの水商売かよ。はは」 止めに入ろうとした若い女性まで、人波に押し返され、弾き飛ばされた。 震える手で、私は地面に落ちたスマホへと必死に手を伸ばす。 指先が、ようやく触れたその瞬間―― 強く踏みつけられ、息が詰まるほどの痛みが走った。 顔を上げると、真琴がこちらを見下ろしていた。 勝ち誇った笑みを、隠そうともしない。 ――だが、次の瞬間。 その表情が、凍りついた。 「どけ!」 圭介が、人混みをかき分けて、こちらへ駆け寄ってきた。