夫の偽装結婚を暴いた日

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夫の偽装結婚を暴いた日

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市役所の戸籍課に異動して二日目。 私は白石芽依(しらいし めい)。まだ新しい職場にも慣れないまま、同僚から引き継いだ案件を担当すること...

Chương (1)

第1章

市役所の戸籍課に異動して二日目。 私は白石芽依(しらいし めい)。まだ新しい職場にも慣れないまま、同僚から引き継いだ案件を担当することになった。 それは、婚姻届受理証明書の再発行を希望する若い女性――天城結月(あまぎ ゆづき)の手続きだった。 書類を確認している私に、同僚が面白がるように言う。 「この子ね、婚姻届受理証明書の再発行で来るの、もう九十九回目なのよ。データも全部残ってるから、すぐ終わるけど」 思わず聞き返した。 「九十九回もですか?」 「若いのに年上のお金持ちと結婚したらしくてさ。夫婦喧嘩するたびに証明書を破っちゃうんだって。まあ、あれだけのわがまま受け止められるのは年上の旦那くらいでしょ」 さらに同僚は声を潜めて続けた。 「しかも相手、うちの汐見市で一番の資産家――明智家の人らしいわよ」 私は思わず眉をひそめた。 「明智家の人間なら、なおさら軽率な真似はしないはずじゃないですか。その旦那さん、本当に本人なんですか?」 すると同僚は顔色を変え、慌てて私の口を押さえた。 「お願い、それ以上言わないで。本物よ。明智家の当主――明智陽介(あけち ようすけ)、その人本人なんだから」 その瞬間、頭の中が真っ白になった。 気が抜けた拍子にスマホが手から滑り落ち、机の上に転がる。 画面に映っていたのは、陽介に寄り添う私とのツーショット写真だった。 それを見た結月が、突然表情を変え、私のスマホをつかみ取る。 「あなた、誰?どうして私の夫との写真なんか持ってるの?」 第1話 市役所の戸籍課に異動して二日目。 私は白石芽依(しらいし めい)。まだ新しい職場にも慣れないまま、同僚から引き継いだ案件を担当することになった。 それは、婚姻届受理証明書の再発行を希望する若い女性――天城結月(あまぎ ゆづき)の手続きだった。 書類を確認している私に、同僚が面白がるように言う。 「この子ね、婚姻届受理証明書の再発行で来るの、もう九十九回目なのよ。データも全部残ってるから、すぐ終わるけど」 思わず聞き返した。 「九十九回もですか?」 「若いのに年上のお金持ちと結婚したらしくてさ。夫婦喧嘩するたびに証明書を破っちゃうんだって。まあ、あれだけのわがまま受け止められるのは年上の旦那くらいでしょ」 さらに同僚は声を潜めて続けた。 「しかも相手、うちの汐見市で一番の資産家――明智家の人らしいわよ」 私は思わず眉をひそめた。 「明智家の人間なら、なおさら軽率な真似はしないはずじゃないですか。その旦那さん、本当に本人なんですか?」 すると同僚は顔色を変え、慌てて私の口を押さえた。 「お願い、それ以上言わないで。本物よ。明智家の当主――明智陽介(あけち ようすけ)、その人本人なんだから」 その瞬間、頭の中が真っ白になった。 気が抜けた拍子にスマホが手から滑り落ち、机の上に転がる。 画面に映っていたのは、陽介に寄り添う私とのツーショット写真だった。 それを見た結月が、突然表情を変え、私のスマホをつかみ取る。 「あなた、誰?どうして私の夫との写真なんか持ってるの?」 何か言おうとした。 けれど喉の奥が詰まったみたいで、声にならなかった。 今、彼女ははっきり言った。 ――私の夫、と。 でもその写真に写っている男は、五年間、私が夫だと信じてきた人だった。 明智家は、この街でも指折りの名家だ。 明智家は血縁関係も家の事情も複雑で、下手に表に出せば大きな騒ぎになる家だった。 だから私たちは、結婚していることを周囲には隠していた。 公表しないのは私を守るためだと、陽介は言った。仕事柄、週刊誌に追われるような生活は嫌だろう、と。 私は信じた。 ――五年間も、ずっと。 まさか最後に――笑いものになっていたのが私のほうだったなんて。 結月は怒りで顔を真っ赤にしている。 「こういう女、私いくらでも見てきたわ。お金のある男を見ると見境なくすり寄ってきて、人の家庭を壊そうとするのよね。しかも市役所の職員だなんて、よく平気な顔していられるわね。苦情を入れて、辞めさせてあげる」 同僚が慌てて間に入った。 「お客様、どうか落ち着いてください。何かの誤解かもしれませんので――」 「誤解?写真まであるのに?」 私は深く息を吸い込み、スマホを彼女の手から静かに取り戻した。 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。 「誤解です。以前、隣の市で勤務していたことがあって、そのとき明智社長を取材する機会がありました。その流れで、記念に一枚撮っていただいただけです」 結月は私をじっと見つめた。 私の様子をうかがうような視線だった。 「取材?」 「はい。仕事でご一緒したときのものです」 結月はしばらく私の顔を見つめたあと、少しずつ表情をゆるめた。 「ああ……そういうこと。ごめんなさい、早とちりしちゃって」 結月はほっとしたように笑い、そのまま言葉を続けた。 「でも、うちの旦那って目立つ人だから。外にはすぐ近づいてくる人も多くて、つい警戒しちゃうんです」 私もかすかに笑みを浮かべた。 「気にしていません。 じゃあ、再発行の件なんですけど…… 本人確認書類がまだ確認できていません。一度お取りいただけますか」 結月は眉を寄せた。 「家、ここから近いの。一度取りに戻ってきてもいい?」 「でしたら、私もご一緒します」 私は立ち上がった。 「その場で確認できれば、もう一度お越しいただかなくて済みますから」 結月は少し考えてからうなずいた。 「そうね。じゃあ行きましょう」 私は彼女のあとについて、市役所を出た。 彼女が乗っていたのは白いポルシェだった。 まだ新しい車で、内装は淡いピンクで統一されていて、いかにも可愛らしい雰囲気だった。 二十分ほどして、車は見覚えのあるマンションの前で止まった。 エレベーターで上がり、その部屋の前に立った瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。 その部屋を、私はよく知っていた。 二年前、結婚するとき、私は結婚前に貯めていたお金で頭金を払い、この部屋を新居として購入したのだ。 明智家ほどの家柄からすれば、この程度のマンションなど取るに足らないものだったのかもしれない。 それでも私は、お金のために陽介と結婚したわけじゃないと証明したかった。 あのころ陽介は言っていた。 会社の資金繰りが厳しいから、今は結婚を公表できない。落ち着いたら式も挙げよう、と。 私はそれを信じたし、支えたいとも思った。 その後、資金繰りが落ち着いても、彼は結婚式のことも、この部屋のことも二度と口にしなかった。 何度かそれとなく聞いてみたけれど、もう人に貸していると言われただけだった。 実際、家賃は毎月きちんと振り込まれていた。 だから私は、この部屋を見に来ようとしたことさえなかった。 玄関に立った瞬間、私は息をのんだ。 リビングの中央に、大きなウェディングフォトが飾られていた。 白いタキシード姿の陽介。 その隣でロングトレーンのドレスをまとい、幸せそうに笑っている結月がいた。 「どうぞ、入って」 結月が明るい声で言った。 私は中へ足を踏み入れた。 足元がふわふわして、ちゃんと地面を踏んでいる気がしない。 五年の結婚生活で、陽介は私に結婚式をしてくれなかった。 ウェディングフォトも、一枚もない。 たった一枚だけあるツーショットは、私が頼み込んで旅行先で撮ってもらったものだった。 彼はただ隣に立っているだけで、まるで他人みたいだった。 なのにここには、彼と別の女のウェディングフォトが飾られている。 二メートルはありそうな金縁の大きな額が、ソファの真正面に飾られていた。 「素敵なお部屋ですね」 私は無理に笑顔を作ってそう言った。 結月は肩をすくめた。 「この写真、大きすぎてちょっと恥ずかしいなって思うんだけど。でも旦那がどうしても飾るって言って聞かなくて。私が奥さんなんだって、みんなに見せたいみたいで」 「……大事にされてるんですね」 「まあね」 口ではそう言いながらも、その目には隠しきれない得意げな色が浮かんでいた。 「座ってて。書類、取ってくるから」 私はソファに腰を下ろし、あのウェディングフォトを見つめた。 陽介はやわらかく笑っていた。 写真の中の彼が見せているその表情を、私は一度も見たことがなかった。 陽介は、写真が嫌いだったわけじゃない。 ただ――私とは撮りたくなかっただけだ。 第2話 結月はしばらく部屋の中を探し回ったあと、手ぶらのまま戻ってきた。 「おかしいな……書類、ここに置いたはずなんだけど」 彼女はスマホを手に取り、「ちょっと夫に聞いてみるね」と言った。 電話がつながると、そのままスピーカーに切り替える。 「ねえ、書類どこに置いた?再発行の手続きに来たのに見つからなくて」 受話器の向こうから、陽介の甘やかすような声が聞こえてきた。 「また破ったのか?お前なあ、もう母親なんだから、いつまでも子どもみたいなことするなよ」 結月は少し不満そうに言った。 「で、どこに置いたの?」 「俺が持ってる。今日は新しい家の手続きの書類と一緒に持って出たままだった。あとで帰ったら届ける」 「じゃあ早く帰ってきて。家で待ってるから」 「わかった。依央のミルクは買ったか?」 「買ったよ。この前あなたがいいって言ってたやつ」 「そうか。いい子にして待ってろ。すぐ帰る」 通話を切ると、結月は嬉しそうに笑った。 「もうすぐ帰ってくるって。少し待っててくれる?」 そう言ったかと思うと、すぐにぱっと表情を明るくする。 「せっかくだし、うちの子見て。もうほんとに可愛いの」 返事をする間もなく、私はそのまま手を引かれた。 ぼんやりした頭のまま連れて行かれ、子ども部屋に入ったところで、ようやく意識が追いつく。 ベビーベッドの中では、色白でふっくらした赤ん坊が、すやすやと眠っていた。 結月はベッドのそばにしゃがみ込み、愛おしそうにその寝顔をのぞき込む。 「可愛いでしょ?夫も、この子は私に似てるって言うの」 私はその場に立ったまま、全身の血が引いていくのを感じていた。 ――もう、子どもまでいる。 私は陽介と結婚して五年になる。 半年前、一度だけ子どもを授かった。 けれど妊娠七か月のとき、急な処置が必要になり、その子は助からなかった。 あのあと彼は、今は仕事を優先したいから、子どもはしばらく見送ろうと言った。 私を気遣ってくれているのだと思っていた。 深く考えたこともなかった。 子どもが欲しくなかったわけじゃない。 ただ――私との子どもを望まなかっただけだ。 「お子さんのお名前は、何ていうんですか?」 思わず、私はそう尋ねていた。 結月はさっきよりも甘い笑みを浮かべた。 「明智依央(あけち いお)。夫がつけたの。依の字に、真ん中の央って書くの」 その瞬間、頭の中で何かが弾けた。 ――依央。 その名前は、私と陽介が一緒に考えたものだった。 妊娠がわかったばかりのころ、子どもには綺麗な名前をつけたいと陽介が言って、私もいくつも候補を出した。最後に残ったのが、依央だった。 私の名前には「依」の字が入っているから、この子にもその字を入れたい。そう言ったのは、陽介のほうだった。 「その名前……何か特別な意味があるんですか?」 気づけば、私はそう口にしていた。 結月は小さく息をついた。 「夫の亡くなった奥さんの名前に、『依』の字が入ってたの。その人、出産のときに難産で……母子ともに助からなかったんだって。だからこの名前は、その人のことを忘れないためにつけたらしいの」 私は結月を見つめたまま、喉の奥に苦いものがせり上がってきて、何も言えなかった。 結月の声が、ふっと沈む。 「喧嘩するたびに私が婚姻届受理証明書を破っちゃうの、心が狭いって思うかもしれないけど……でも、私だって不安になるの。 亡くなった奥さんのことを、あの人はいまでもあんなに大事にしてる。じゃあ私は?もしかしたら、いつか私も……」 そこから先は、言葉にならなかった。 私はベビーベッドのそばに立ち、眠っている依央を見つめながら、どうしようもなく胸が苦しくなった。 妊娠七か月で失ったあの子が生きていれば、今ごろ、ちょうどこのくらいだったはずだ。 「彼……前の奥さんは、難産で亡くなったって言ってたんですか?」 結月はふっと笑った。 「うん。あのことは夫にとって、相当つらい出来事だったみたいで、何年も立ち直れなかったんだって。でも私と出会って、やっと少しずつ前を向けるようになったらしいの」 そう言って、少し照れたように笑う。 「たまに思うの、もしかしたらこれも縁なのかもって。私、少しだけその人に似てるらしいから」 私は黙って彼女の顔を見た。 少しも似ていなかった。 それでも無理やり共通点を探すなら、二人ともどうしようもないほど愚かだった、ということくらいだ。 「彼、普段はあなたに優しいんですか?」 私がそう聞くと、結月の目がぱっと輝いた。 「うん。すごく優しいよ。仕事が忙しすぎるだけなんだけどね。でも、あと数年したら会社は人に任せて、私と世界中を旅するって言ってくれてるの」 私は黙ってうなずいた。 その言葉は、私にも言ったことがある。 ――五年前に。 第3話 私はしばらく子ども部屋に立ち尽くしたまま、少しずつ頭が冷えていくのを感じていた。 「前の奥さんのお位牌って、置いてないんですか?」 結月はほんの少し口元をゆがめた。 「そういうの、気になる?」 それから、少し困ったように笑う。 「私も前に聞いたことあるの。でも夫、そういう形に残すことにはあまりこだわらない人で。亡くなった人は心の中にいればそれで十分だって、家にお位牌を置いたりする必要はないって言ってた」 私は目を伏せた。 心の中にいれば、それで十分。 まるで深く想っているみたいに聞こえる言葉だ。 ――じゃあ、七か月で亡くした私の子は、いったいどこにいるんだろう。 強く握りしめていた拳をほどくと、掌には爪の跡がくっきり残っていた。 「もう一つ、お聞きしてもいいですか?」 「うん?」 「あの……お二人はあんなにお金があるのに、どうしてこんな普通のマンションに住んでいらっしゃるんですか?」 結月はふっと笑った。 「私がそうしたかったの。うちの夫、何でも持ってる人だから……なんていうか、普通の暮らしとはちょっと縁がない人で」 そう言って、少し照れたように肩をすくめる。 「だから、こういう普通のマンションを買ってもらって、普通の人みたいな生活をしてみたかったの」 そう言って彼女は、壁に飾られた小さなインテリアを指さした。 「ほら、これも全部、私が選んだの。最初は夫もこういう雰囲気に慣れなかったみたいだけど、今はすっかり気に入ってる。ここがいちばん落ち着くんだって言うの」 「この部屋、ご主人があなたに買ってくださったんですか?」 「そう。買ってくれて、私のものにしてくれたの」 彼女は少し声をひそめた。 「ここだけの話、私だってまったく考えてないわけじゃないの。もし本当にいつか捨てられても、行くあてまでなくなるのは嫌だし。この部屋だけは、ずっと私のものにしていいって言ってくれたから」 それを聞きながら、胸の奥がすうっと冷えていくのを感じた。 二年前、陽介が私から権利書を持っていった理由が、ようやくわかった。 この部屋は人に貸して、その家賃は私が受け取ればいい。そうすれば、彼に頼らなくても困らないだろう、と彼は言っていた。 けれど。 貸しに出したはずのこの部屋に住んでいたのは、もう一人の妻だった。 「……本当に、恵まれていらっしゃるんですね」 自分の声がわずかに震えているのがわかった。 結月は小さく笑って、また依央をあやし始めた。 私はその横で、彼女の横顔を見つめていた。 まだ二十代の前半くらいだろう。 何も知らないのだ。 ――でも。 知ったところで、いったい何ができるのだろう。 第4話 ぼんやりしていた、そのときだった。 揺りかごの中の依央が、急に泣き出した。 結月は慌てて抱き上げると、背中をやさしく叩きながらあやし始めた。 私は思わず身を乗り出し、その子の顔をのぞき込んだ。 ――その瞬間。 全身の血の気が引いた。 依央の右耳の後ろに、小さな突起があった。 信じられない思いで、私は目を見開いた。 半年前、妊娠七か月だった私の子も、健診のエコーで右耳の後ろに小さな突起があると言われていた。 副耳ですね、と医師は言った。 健康には問題なく、生まれてから簡単な手術で取れますよ、と。 ――そんな偶然、あるはずがない。 「この子……何か月ですか?」 気づけば、そう尋ねていた。 「生後六か月。ついこの前、六か月になったばかり」 結月はあやしながら、困ったように言った。 「ただ体が弱くて、しょっちゅう熱を出しちゃうの。先生にも、早産だったから体が弱いんだろうって言われて」 私の指先が震え出す。 「早産……?」 「そう。私、痛いのが怖くて、自分では産みたくないって夫に言ったの。そしたらかわいそうに思ってくれて、体外受精の準備をしてくれて、それで別の女の人に産んでもらったの」 そう言って、結月は小さくため息をついた。 「でも、その人が体が弱かったみたいで、七か月で産まれちゃって。生まれてから二か月も保育器に入ってて、本当に危なかったんだから」 「その……産んだ人は?」 結月は何でもないことのように言った。 「お金を受け取って帰ったわ。ああいう人は関わらないほうがいいって夫が言ってたの。あとで面倒になると困るからって」 私は彼女の腕の中の赤ん坊を見つめたまま、目の奥が熱くなるのを感じていた。 そのとき、胸の奥でひとつの考えがゆっくり形を取る。 ――まさか。 この子は、七か月で失ったはずの、私の子なのではないか。 もし本当にそうだとしたら―― 陽介。 私は、あなたを絶対に許さない。 震えを押し殺しながら、私はどうにか声だけは静かに保った。 「その人には……会ったことないんですか?」 結月は眉を寄せて、少し考え込んだ。 「さあ。私は会ってないわ。全部、夫に任せてたから」 私の顔色がおかしいことに気づいたのか、彼女は心配そうにのぞき込んできた。 「どうしたの?顔色、すごく悪いけど」 私は首を横に振った。 「大丈夫です。朝から何も食べてなくて、ちょっと立ちくらみがしただけで」 結月はまだ訝しそうに私を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。 そのとき、スマホが震えた。 陽介からのメッセージだった。 【今夜は残業で帰れない。先に寝ていてくれ】 私はそのメッセージを見つめたまま、ゆっくりスマホを下ろした。 ちょうどそのとき、玄関のチャイムが鳴った。 「きっと夫だわ!」 結月は嬉しそうに、依央を抱いたまま駆けていった。 数秒後、玄関のドアが開く音がした。 聞き慣れた男の声が響く。 「ただいま。待たせたな」 「おかえり!あのね、今日は市役所の人が確認のために一緒に来てくれてるの。まだ中にいるよ」 足音がこちらへ近づいてくる。 私は子ども部屋の入り口に立ったまま、その男が中へ入ってくるのを見ていた。 濃いグレーのスーツ姿で、手にはビジネスバッグ。 私の姿を見た瞬間――陽介の動きが止まった。 息をのんだように、その場に立ち尽くしている。 その一瞬で、胸の奥に渦巻いていた感情が、嘘みたいに静まった。 私は陽介をまっすぐ見据えたまま、笑みを浮かべて一歩踏み出す。 「どうしたの?」 首をわずかに傾げて続けた。 「死んだはずの前妻が生きてたら、そんなに驚く?」