夕映えの嘘を燃やして、新しい夜明けを

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夕映えの嘘を燃やして、新しい夜明けを

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紬希の仕事は、死者の旅支度を整えることだ。 旅立つ人に、穏やかで美しい最期を飾ってやる。 今、彼女は自分と娘のために、同じようにきちん...

Chương (1)

第1章

紬希の仕事は、死者の旅支度を整えることだ。 旅立つ人に、穏やかで美しい最期を飾ってやる。 今、彼女は自分と娘のために、同じようにきちんとした「死」を用意しようとしていた。 大富豪の息子を救って手にした二百億円の小切手を握りしめながら、隣の部屋で夫が大富豪の令嬢との縁談を誰かと相談する声を聞いて――紬希はすべてを悟った。 世の中には、生きながらにして墓に入っているも同然の結婚があるのだ。 ならばこの手で、最後のひとすくいの土をかけてやろう。 第1話 央州市にある会員制ラウンジ『夜風』の最上階VIPルーム。 白石紬希(しらいし ゆうき)は静かに座っていた。向かいにいるのは、国内随一の富豪――篠原沖嗣(しのはら おきつぐ)だ。 沖嗣はつい先ほど、二百億円の小切手を彼女の前に滑らせた。三日前、重傷を負った一人息子を咄嗟に病院へ運んでくれたことへの礼だという。 「白石さん、この金とは別に、君の願いを一つ叶えよう。篠原家にできることなら、遠慮なく言ってくれ」 二百億円――白血病の娘に、最高の治療を受けさせるには十分すぎる額だ。 断る理由などない。けれど、降って湧いたこの「贈り物」を飲み込むには、もう少しだけ時間を置いて整理する必要があった。 紬希は小さく会釈し、席を立って部屋の外へ出た。 テラスへ向かおうと角を曲がりかけた瞬間、薄く開いた隣室のドアの隙間から、聞き覚えのある話し声が漏れ聞こえてきて――足が止まった。 「……弦夜、篠原家との縁談、あれで決まりなのか」 「他に何がある」 続いたのは、黒川弦夜(くろかわ げんや)の声だった。 かつては安らぎそのものだった声だ。ずっと聞いていたいと思っていたのに、今はその奥に冷たい打算がにじんでいた。 「俺と凪紗は、互いに欲しいものを交換するだけだ」 「じゃあ紬希は?お前、あいつとは……」 「紬希?」 弦夜がわずかに間を置いた。その一瞬の沈黙が、見えない刃となって紬希の心をじわじわと抉っていく。 「愛してる。それは変わらない。だが――あいつの仕事は、どうしたって人前に出せるものじゃない」 「納棺師……確かに、口にしづらいな」 誰かが、ふっと鼻で笑った。「まあ気味の悪い仕事ではあるよな。でもお前、あの頃は彼女のために親父さんと大喧嘩して勘当同然になったんだろ。それが今さら……」 弦夜が遮った。声に「目が覚めた」とでも言いたげな、開き直ったような響きがある。 「ガキだったんだよ、あの頃は。 黒川家は俺が背負わなきゃならない。一生、惚れた腫れただけで生きていけるわけがないだろう」 声がひと際低く落ちた。だがそれは、雷のように紬希の耳を打った。 「それに……そもそも婚姻届さえ出していないんだ。あの時の受理証明書も、あいつを安心させるためのただの飾りにすぎない。お前たちだけ知っていればいい。間違っても口を滑らせるなよ」 偽物。 安心させる。 たった二つの言葉が、紬希から立っている気力さえも奪い去った。 冷たい壁に背を預ける。自分の中の何かが、音を立てて崩れ落ちていくのがわかった。 ――だから、半年前からしきりに転職を勧めてきたのか。「忙しすぎて家庭を顧みていないから」と。 ――だから、ひと月前、手元に置いていたあの婚姻受理証明書を持ち出したのか。「銀行の貸金庫に預けよう、俺たちの愛の証だから大切に保管しておく」と。 結局、最初から最後まで――彼女は都合のいい幻を見せられていただけだったのだ。 五年前の光景が、脳裏をよぎる。 弦夜は紬希の手を強く握りしめ、黒川の屋敷で両親に食ってかかった。 「俺は紬希を愛してる。彼女がどんな仕事だろうと関係ない。黒川がそれを許さないなら、俺が出ていく」 狭いアパートに二人で転がり込んだ日々。彼が不器用に包丁を握り、手のひらに水ぶくれをこしらえながら、それでも笑い合っていた。 「これからは俺が養う。お前も澪璃(みおり)も、絶対に惨めな思いはさせない」 澪璃が白血病だと診断された日。涙が止まらない紬希を、弦夜はきつく抱きしめた。 「怖がるな。俺がいる。金のことは俺がなんとかする。必ず澪璃を治す」 ――今となっては、笑い話にもならない。 「怖がるな」の正体は、別の女との政略結婚。彼女と娘は、邪魔になれば切り捨てるだけの荷物。 「なんとかする」の正体は、法的効力のない偽の婚姻受理証明書一枚で、彼女の真心ごと欺くことだったのだ。 心が死ぬと、人は驚くほど冷静になれるものらしい。 紬希は深く息を吸い、目の縁に滲んだ涙を奥へ押し戻した。踵を返し、一歩、また一歩、沖嗣の待つ部屋へ戻る。 沖嗣はちょうど電話を終えたところだった。こちらに向けられた視線が、紬希の感情が抜け落ちたような顔にほんの一瞬だけとどまった。 「白石さん、決まったかね」 「はい」 紬希は顔を上げ、沖嗣をまっすぐに見据えた。声に揺れはない。 「私の願いは――私と娘の『死』を手配していただくことです」 沖嗣の瞳の奥にかすかな驚きがよぎったが、彼はそれ以上何も訊かず、先を促すように短く頷いた。 「徹底的で、誰にも疑われない『死』を。世間の誰もが私たち母娘は死んだと信じ、完全にこの世から消え去り、二度と誰にも見つからない場所へ行く――そういう『死』です」 沖嗣はしばらく紬希を見つめた。幾多の修羅場を潜り抜けてきたその目は、彼女の底知れぬ覚悟をはっきりと読み取っていた。 彼はただ、きっぱりと頷いた。 「いいだろう。七日以内にすべて整えさせる。足取りは誰にも辿らせない」 「ありがとうございます」 紬希は深く頭を下げ、背を向けて部屋を出た。 …… 家に帰ると、リビングの照明は落ちたままで、玄関の常夜灯だけがぽつりと灯っていた。 弦夜はまだ戻っていない。澪璃はもう布団に潜り込んで眠っていた。化学療法に青ざめた小さな顔が、静かな寝息とともに揺れている。 紬希はベッドの縁に腰を下ろし、指先でそっと娘の頬に触れた。 「……ママ?」 澪璃がうっすらと目を開ける。紬希の顔を認めた途端、ぱっと瞳が輝いた。 「おかえり!」 その無邪気な笑顔を見た瞬間、鼻の奥がつんと熱くなり、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。 紬希は慌てて顔を背け、指で涙を拭うと、無理に笑顔を取り繕った。 「ただいま。今日はおうちで楽しかった?」 「楽しくなかった」 澪璃が小さな眉をきゅっと寄せ、首を振る。そして不意に手を伸ばし、紬希の目尻をそっと拭った。 「ママが泣いてたら、私も楽しくないもん」 もう、堪えきれなかった。紬希は娘をぎゅっと胸に抱き寄せ、声を詰まらせた。 「澪璃……もし、もしママとパパが別々になったら、どっちと一緒がいい?」 澪璃の小さな体がきゅっとこわばる。紬希の首にしがみつき、迷いのかけらもなく言った。 「ママ!パパ最近ぜんぜん遊んでくれないし、ママにいつも怖い顔してる。パパ、もうきらい」 胸の奥にじわりと温かいものが広がる。紬希は娘の背を、とんとんと優しく叩いた。 「じゃあね、ママと一緒に海外に行かない?そこにはすごく上手なお医者さんがいて、澪璃をうんと早く元気にしてくれるの。楽しいものも、いっぱい見られるよ」 「海外?」 澪璃が小首をかしげ、何か言いかけた――そのとき、寝室のドアが不意に開いた。 弦夜の声が、探るような鋭い響きを帯びていた。 「海外?誰が海外に行くって?」 第2話 紬希は弦夜に背を向けたまま、そっと指先を唇に当て、澪璃に「しーっ」と合図した。それから何食わぬ顔で答える。 「友達が海外に行くんだって、その話をしてただけ」 弦夜が歩み寄り、優しく母娘を腕の中に包み込んで、二人の額に順番にキスを落とした。 「行きたいなら、家族で行くのもありだな」 だが次の瞬間、彼はさりげなく話の方向が変わった。 「ただ紬希、お前の仕事だと手続きが少し面倒かもしれないけど」 紬希は体の脇で、そっと拳を握り込んだ。 またこれだ。手を変え品を変え、仕事を辞めさせようとする。 澪璃が何かを感じ取ったのか、弦夜の裾をくいくいと引っ張った。 「パパ、もう眠い。今日はママと寝たい」 弦夜はすぐに声を甘くして応じた。「はいはい、うちの澪璃は甘えん坊だなぁ」 変わらず優しげなその横顔を見つめながら、紬希の胸にじわりと苦いものがこみ上げた。 もし今日、あの会話をこの耳で聞いていなかったら――きっと自分は、この作り物の幸せを本物だと思い込んでいたかもしれない。 翌朝、紬希と澪璃が目を覚ましたとき、弦夜はもう出かけた後だった。 どこへ行ったかなんて、もう知りたいとも思わない。 ふと、皮肉な安堵が胸をよぎった。 ――この結婚が偽物でよかった。離婚の手続きすら要らない。 手早く身支度を整え、澪璃を連れて病院へ向かった。治療に使う薬を受け取るためだ。 だがまさか、こんなところで弦夜と鉢合わせることになるとは。 彼の隣には、目を引く女が立っていた。仕立ての良いワンピースがすらりとした体の線を際立たせ、艶のある黒い巻き毛が肩に流れている。 待合室の案内モニターには、無情な文字が示されていた。 【黒川弦夜・篠原凪紗ブライダルチェック】 ――この女が、弦夜の婚約者。国内随一の富豪の令嬢、篠原凪紗(しのはら なぎさ)。 「パパ!」 澪璃がぱっと顔を輝かせて駆け寄り、弦夜の脚にしがみついた。 弦夜の体が、一瞬で強張った。顔から血の気が引いていく。 凪紗が片眉を上げ、冷ややかに口を開いた。「弦夜、この子は?」 弦夜はすぐさま表情を取り繕い、何でもないように言い放った。「うちの家政婦の娘だよ。父親がいないから、男の人を見るとすぐ懐くんだよ」 弦夜の視線が紬希に移り、声の温度が一気に下がる。「紬希、自分の娘の面倒くらいちゃんとしろ」 その一言一言が、冷たい刃となって紬希の胸を抉った。 まさか。新しい恋人を迎えるために、彼は自分の血を分けた娘を家政婦の子と言い捨て、妻をその家政婦に仕立て上げるなんて。 「私――」 嘘を暴こうと口を開きかけた瞬間、弦夜が被せるように遮った。「用がないなら子どもを連れて帰れ」 折しも、診察室から声が飛んだ。「黒川さん、篠原さん、お入りください」 紬希は澪璃の手をそっと握り直し、黙ってその場を離れた。 …… 午後。澪璃を寝かしつけた直後、弦夜が怒気を纏って帰ってきた。 リビングに、重い空気がじわりと満ちていく。 「今日、なんで澪璃を連れて病院に来た」 弦夜の鋭い視線が紬希を射抜く。 「わざと俺をつけたのか」 紬希は、怒りを通り越してすっと血の気が引くのを感じた。 父親のくせに、娘が薬をもらう日であることすら頭の隅にもなくて、真っ先に出てくるのが「尾行」だなんて。 紬希の唇に、自嘲めいた薄い笑みが浮かぶ。「つけた?何か、つけられて困ることでもあるの」 弦夜の目の奥が一瞬揺らいだが、すぐにいつもの優しい顔を貼り直す。 「紬希、なんでそんなこと言うんだよ。俺が毎日必死に稼いでるのは、全部お前と澪璃のためだろう」 その言葉に、紬希は危うく声を出して笑い出しそうになった。 ここまで平然と嘘をつける人だったなんて、思わなかった。 紬希は弦夜の目をまっすぐに見た。 「私たちのため?だから別の女と結婚するの?」 弦夜は息を呑み、体が石のように固まった。 「……全部、知ってたのか」 彼は眉を寄せ、さも苦しげな顔を作ってみせる。 「紬希、俺と凪紗はただの政略結婚だ。わかるだろう、俺の心にいるのはお前だけだ。 でも俺は黒川家の人間だ。家には跡継ぎが要る、澪璃の治療にも金がかかる……戻らなきゃいけなかったんだ」 声をさらに落とした。「それにな、紬希。お前だって嫌だろう?いつか誰かに澪璃を指差されて――あの子の母親は毎日死体を相手にしてる納棺師なんだって、そう言われるのは」 第3話 その言葉が、錆びた刃のように紬希の胸を深く抉った。息が、できない。 ずっとこらえていた涙が、堰を切ったようにあふれ出した。 弦夜は途端にうろたえ、慌てて駆け寄って彼女の涙を拭おうとした。 「紬希、泣くなよ。ただの名分じゃないか。俺の心にいるのは、本当にお前だけだ」 名分。 紬希は心の中で自嘲した。 今は「ただの名分」。この先の長い年月、自分に何が残るというのか。 人の心は移ろうものだと、この結婚生活で嫌というほど思い知らされた。 娘を連れて出ていくと決めた以上、この機会に澪璃のための備えを少しでも多く引き出しておくべきだ。 紬希はこみ上げる嗚咽を押し殺した。 「……わかった、信じる。でも、お医者さんに言われたの。澪璃の移植手術に備えて、資金を先に用意しておかないといけないって。もし適合する骨髄が見つかったら――」 言い終わらないうちに、弦夜の携帯が震えた。 画面に浮かんだ「凪紗」の二文字をちらりと見るなり、弦夜は素早く電話に出た。声が、別人のように甘くなる。 「もしもし、凪紗?どうした?」 短い通話を終えると、その場でスマホを操作し、紬希の口座に二千万円を送金した。 それから、ソファの上着をひっつかんで玄関へ向かった。 「急な用だ。遅くなる」 ドアがバタンと閉まる。 紬希はスマホに表示された入金通知を見つめ、力なく自嘲の笑みを浮かべた。 ――さすが、大富豪の令嬢に取り入っただけのことはある。 かつては澪璃に少し値の張る粉ミルクを買うだけで、半日うじうじ悩んでいた男だ。それが今では、二千万円を躊躇いもなく振り込んでくる。 笑っていたはずなのに、いつの間にかまた涙がこぼれ出していた。 五年前。弦夜が紬希を黒川家の屋敷に連れていった日。弦夜の母が吐き捨てた言葉が、今も耳にこびりついている。 ――毎日死体に触っているような女が、うちの敷居を跨げると思っているの。 自分のために家を飛び出し、狭いアパートで小銭を数えるような暮らしをしながら、いつも笑って「お前がいればそれでいい」と言ってくれた男。その男が、結局は心変わりした。 紬希は乱暴に涙を拭い、机の上のカレンダーに目を向けた。印をつけた日付に、指先が止まる。 あと六日。たった六日耐えれば、澪璃を連れてここから出られる。弦夜の世界から、完全に消える。 午後、見知らぬ番号からの着信が静けさを破った。 「白石さんでしょうか。篠原社長の秘書を務めております」 声にはかすかな焦りがにじんでいた。 「篠原社長のお怪我がまだ完治しておらず、犯人も依然として逃走中のため、くれぐれも内密にお願いしたいのですが――先ほど篠原社長が少し具合が悪いと仰いまして。 私がどうしても手を離せない状況でして、大変恐縮なのですが、しばらく篠原社長のそばについていただくことは可能でしょうか」 紬希の胸の内がざわついた。 あの二百億円と「死」の手配――篠原家への借りは、ずっと心のどこかに引っかかっていた。少しでも返せるなら、気持ちが楽になる。 夜。すっかり寝入った澪璃を確かめてから、秘書に教えられた住所へ向かった。央州市内でも指折りの高級住宅街だ。 暗証番号を打ち込んでドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは――ソファに崩れるように倒れた篠原克海(しのはら かつみ)の姿だった。顔が、怖いくらい赤い。 紬希は急いで駆け寄り、額に手を当てた。焼けるような熱さに、思わず息を呑む。 次の瞬間、骨が軋むほどの強い力で、いきなり手首を掴まれた。 痛みに顔を上げると、暗く深い瞳とまともにぶつかった。 相手が紬希だと気づいた途端、克海の全身からすっと力が抜け、ゆっくりと手が離された。 紬希は赤くなった手首をさすりながら、静かに訊いた。 「熱が出たようです。解熱剤はどこですか?」 熱のせいだろう、克海の声はかすれて低かった。 「テレビ台の、二段目」 薬と水を持ってきて差し出すと、克海は受け取らなかった。わずかに顎を上げ、紬希の手から直接、薬を口に含んだ。薄暗い明かりの中で喉仏がゆっくりと動き、不思議な緊張感がその場に漂った。 紬希はなんとなく目をそらし、少し慌てて話題を変えた。 「ごはんはまだでしょう。冷蔵庫を見てきます」 克海は何も言わず、ただじっと紬希を見ている。 冷蔵庫を開けると、中はほとんど空っぽだった。トマトがひとつと、素麺がひと束。紬希はあり合わせでさっぱりとした温かい素麺を作り、克海の前に置いた。 克海が食べ終えるのを待って食器を片づけ、帰ろうとドアに手をかけたとき。 背中に、低くかすれた声が届いた。 「――ありがとう」 紬希は振り返り、小さく微笑んだ。 ――噂に聞く、冷たくて気難しい央州の御曹司。案外、そうでもないのかもしれない。 けれどドアを引いた瞬間、外の廊下の光景に体ごと凍りついた。 エレベーターホールで、弦夜が凪紗を抱き寄せ、むさぼるようにキスをしている。 凪紗がけだるげに目を上げ、紬希をちらりと見た。 「弦夜、あなたのところの家政婦さん、なかなかしたたかじゃない。ここ、どこの馬の骨ともわからない人間が出入りしていい場所じゃないんだけど」 第4話 「家政婦」――その一言が毒針のように突き刺さり、紬希の顔から血の気が引いた。 視線が、弦夜の顔に釘付けになった。 かつて永遠を誓ったはずの男は、唇を引き結び、他人行儀な声で言った。「紬希、お前ここで何してる」 紬希はふっと鼻で笑った。目の奥に、冷たい光が灯る。 「何してるかって?決まってるじゃない、男を引っかけに来たのよ」 ありもしない罪を着せるなら、いっそその芝居に乗ってやる。 冷めた目で抱き合う二人を一瞥し、声の温度を限りなく落とした。 「でも私みたいな家政婦が誰に近づこうと、お二人には関係ないでしょう?」 弦夜は拳を白くなるほど強く握り込み、怒りで肩を震わせた。だが怒りを飲み込み、邪魔者を払うように手を振る。 「用がないならさっさと行け」 紬希はもうその顔を見る気にもなれず、二人の脇をすり抜けてエレベーターに乗り込んだ。 ドアが閉まる寸前、外の二つの視線をまっすぐ受け止めて、迷わず中指を立ててみせた。 屈辱も、怒りも、全部この指一本に込めて。 …… 家に着いたのは、深夜だった。 バッグの中でスマホが狂ったように震えている。着信画面には、病院の名前があった。 紬希は嫌な予感に胸を鷲掴みにされながら、急いで出た。 「白石さん、澪璃に適合する骨髄が見つかりました。ただ――」医師の言葉が、そこで途切れた。 そのわずかな沈黙が、鈍い刃のように胸を抉った。 「ただ、何ですか。早く言ってください!」 「一時間ほど前に、黒川様からお電話がありまして……移植手術のキャンセルを申し出られました。枠はすでに別の患者さんに回っています。ただ、やはりお伝えしておくべきだと判断しまして……」 その先は、一言も耳に入らなかった。 スマホを握る手が止まらないほど震え、全身から力が抜け落ちていく。涙が、堰を切ってあふれた。 なぜ。弦夜はどうして、こんなことをしたのか。あの子は――彼自身の血を分けた娘じゃないか。 電話を切った瞬間、すぐに弦夜へかけ直した。 つながった途端、半狂乱で叫んでいた。「弦夜!どうして澪璃の移植をキャンセルしたの!あなたの娘でしょう!どうしてそこまでできるの!」 弦夜の口調には諦めのような色が混じりつつも、どこか強硬さがにじんでいた。「紬希、落ち着け。骨髄ならまた見つかる。だが今夜お前は凪紗を怒らせた、その落とし前はつけてもらう。今後お前は――」 紬希は言葉を待たずに通話を切った。 膝から力が抜け、その場にくずおれる。氷のような絶望が背筋を駆け抜け、あまりの痛みに床にうずくまって身をよじるしかなかった。 その夜、紬希は一睡もできないまま朝を迎え、心に渦巻いていたのは絶望と憎しみだけだった。 翌朝。スマホにメッセージが飛び込んできた。凪紗からだ。 【弦夜の家政婦さんでしょう。央州山手通り三十二番地に来なさい】 紬希は無視した。 今はただ、手続きが済むのを待って、澪璃を連れてこの街から逃げ出し、海外でもっといい治療を受けさせること――それだけしか頭にない。 だが次の瞬間、弦夜から着信が入った。 拒否しようとした指が、誤って通話ボタンに触れてしまった。 「紬希、凪紗からのメッセージ見たか。支度してすぐ来い」 昨夜の絶望と憎しみが胸の中で絡みつき、紬希の声は凍りつくほど冷たかった。 「弦夜、どうして私があなたの言いなりにならなきゃいけないの」 電話の向こうで一瞬、間が空いた。弦夜の声が、すっと柔らかくなる。 「紬希、頼む。凪紗が言ったんだ。お前が来れば、篠原家の力で澪璃に合う骨髄を探してくれると。一回だけだ、頼む」 澪璃、その名前を出された途端、紬希が必死に保っていた強がりの壁があっけなく崩れ去った。 目を閉じ、しばし沈黙する。 ――結局、歯を食いしばって、頷くしかなかった。 …… 央州の冬は容赦がない。刃のような風が吹き、雪が横殴りに降っていた。 紬希はコートの前をきつく合わせ、タクシーで央州山手通りへ向かった。この一帯は、選ばれた者だけが住む最上級の住宅街だ。 別荘の門をくぐると、無表情な使用人がリビングへ通した。 凪紗はソファに深くもたれていた。両脇でネイリストが二人、丁寧に爪を整えている。 ちらりと紬希に目をやり、すぐにまぶたを伏せた。まるでそこに誰もいないかのようだ。 紬希はそのまま踵を返そうとした。 だがその一歩より先に、大柄なボディーガード二人が進み出て、両腕をつかんでその場に押さえ込んだ。 紬希は咄嗟に身をよじりながら声を上げた。「篠原さん、これはどういうことですか」 凪紗が、苛立たしげに眉をひそめた。 「うるさい」 すかさずボディーガードが彼女の口を塞ぎ、凍てつく庭へと引きずり出した。 …… 二時間後。 凪紗がようやく、ゆったりと家の中から姿を現した。 仕上がったばかりのネイルを眺めながら、紬希の前まで歩み寄る。施しでもくれてやるような声だった。 「白石さん、これは昨日私を不快にさせた分よ。 今日呼んだのは、もうひとつ頼みたいことがあるの」 凪紗は紬希を別荘の裏手へ連れ出し、薄く氷の張った湖の前で足を止めた。 「あなた、前にプールのインストラクターのバイトをしてたんですって?なら泳ぎは得意よね」 視線を湖面に落とし、わざとらしく小首をかしげてみせる。 「私の婚約指輪、この中に落としちゃったの。潜って取ってきてくれる?」 紬希の顔が一瞬で蒼白になった。薄い氷の下に広がる真っ黒な水を見つめ、全身が芯から冷えていく。 凪紗はその恐怖に気づかないふりをして、軽く付け足した。 「いい?見つかるまで、上がってこないでね」 第5話 真冬の寒空の下、潜水装備もなしに凍った湖へ飛び込めというのか。 紬希は信じられない思いで、目の前の女を見据えた。 「もし断ったら?」 凪紗の赤い唇が、ゆっくりと弧を描く。 「あなたに拒否権なんてないの」 彼女がそう言い捨てるが早いか―― 鈍い水音とともに、紬希の体は容赦なく湖に突き落とされていた。 凍えるような水が口と鼻に一気に流れ込む。全身に無数の針を突き立てられたような激痛が走った。水を吸ったコートがみるみる重くなり、体を底へ底へと引きずり込んでいく。 必死にもがいて岸へ這い上がろうとするが、見張りのボディーガードに何度も水中へ押し戻された。 凪紗は岸辺で腕を組み、薄く笑っている。 「そういうの、得意なんでしょう?見つけられるわよね」 そう言い残し、ハイヒールの音を響かせて去っていった。 遠ざかる背中と、湖畔で目を光らせるボディーガードたち。紬希の胸に、冷たい絶望が押し寄せた。 もう手を引くと決めたのに。全部捨てて消えると決めたのに。どうしてこの人たちは、まだ自分を放してくれないのか。 悔しさ、屈辱、弦夜への失望――あらゆる感情が絡み合い、息もできない。 紬希は歯を食いしばり、水を含んで鉛のように重くなったコートを引き剥がすように脱ぎ捨てた。そして一気に湖底へ潜る。 肺の空気が尽きかけると、もがきながら浮上して息を継ぐ。 潜っては浮き、潜っては浮き。凍えきった体はとうに感覚を失っていた。 それでも、やめるわけにはいかない。 澪璃が待っている。 ママがいなくなったら、あの子はどうなるの。 どれほど経っただろう。暗い湖底にふいに、かすかな光が走った。 ――指輪だ。 ようやく岸に這い上がり、ボディーガードの前に指輪を差し出すように落とした。濡れそぼった体を寒風が容赦なく切りつけ、歯の根が合わない。 湖のほとりにうずくまったまま、意識がゆっくりと遠のいていく。 暗闇に沈む直前、弦夜が血相を変えてこちらへ走ってくるのが見えた気がした。 …… 目を開けると、鼻先をかすめたのは覚えのある消毒液の匂いだった。 「紬希、やっと目が覚めたか!」 紬希が目を覚ましたことに気づくや否や、弦夜がいきなり力任せに抱きしめてきた。息が詰まるほどの強さだ。 紬希は彼を両手で突き飛ばし、冷めた目で男を見た。 充血して真っ赤な目。げっそりこけた頬。顔を覆う青黒い無精ひげ。いつもの整った姿は影も形もない。 けれど、自分をこんな目に遭わせたのは全部、この男のせいだ。 弦夜は、罪悪感に苛まれているような顔でうつむいた。 「紬希、お前を守れなかった。俺が悪い。 わかっただろう、力がなければ何も守れない。凪紗と結婚すれば、俺はお前と澪璃を守れるんだ」 紬希は自嘲気味に冷たく笑った。「守る?まだ結婚もしていないのにこの有様で、結婚したら次は殺されるの?」 弦夜は唇を震わせ、長い沈黙のあと、ようやく絞り出した。「紬希……そんなこと言うなよ。 今夜、篠原家の屋敷でパーティーがある。凪紗がお前を名指しで来いと言っている」 紬希は呆れて鼻で笑った。「『家政婦』の私が行って何をするの。また辱めを受けに?」 弦夜の顔色が変わった。「行かなければ、あいつは澪璃に手を出す」 ――心臓を鈍器で殴りつけられたような衝撃だった。 紬希は弦夜を睨みつけ、震える声で言った。「弦夜、あんたそれでも父親なの!?自分の娘を脅しの道具に使うなんて……!」 弦夜はうなだれた。「……俺だって、好きでこうしてるんじゃない」 「出てって。今すぐ出て行ってよ!」 紬希は手当たり次第に枕やコップなど、掴めるものすべてを弦夜に投げつけた。 弦夜は首を振り、やりきれないという顔で病室を出ていった。 がらんとした部屋に、紬希だけが残された。両膝を抱え込み、ついに声を上げて泣き崩れた。 わからない。自分が何を間違えたのか。 どうして愛した人に裏切られ、見ず知らずの女に踏みにじられ、娘の命まで脅かされなければならないのか。 どれだけ泣いたかわからない。スマートフォンの着信音が、泥のように沈んでいた意識を引き戻した。 通話ボタンを押すと、低い男の声が聞こえた。 「白石さん。手続きがすべて完了しました。いつでも出発できます」 この声は――克海だ。 紬希は必死に嗚咽を押し殺したが、声の端がどうしても震えた。 「……はい、ありがとうございます」 克海はすぐにその異変に気づいた。 「白石さん、何かあったんですか。手を貸しましょうか」 「いえ……大丈夫です」 紬希は急いで電話を切った。 澪璃の、あの屈託のない笑顔が頭に浮かぶ。 まだ倒れるわけにはいかない。紬希は重い体を引きずるように起き上がった。 家に戻って着替えを済ませ、パーティー会場へ急ぐ。 会場は篠原家が所有する古い洋館だった。 招待客たちは華やかなドレスやスーツに身を包み、シャンパングラスを片手に談笑している。凪紗の個人的なパーティーで、集まっているのは若い名家の子弟ばかりだった。 地味な服装の紬希が足を踏み入れた途端、あちこちから蔑むような視線が突き刺さった。 やがてパーティーが始まり、凪紗が優雅に壇上へ上がった。 「皆さん、こんばんは。今夜は私と弦夜の、結婚前最後の独身パーティーです」 そこで一度言葉を切り、視線をまっすぐ紬希に向けた。 「でもその前に……皆さんにちょっと特別なお友達をご紹介させていただきますね。 こちらは白石紬希さん。ご職業は納棺師です。ご存じですか?亡くなった方のお顔やお体を整える――あの、納棺師ですよ」 第6話 その言葉が会場に響いた瞬間、空気が一変した。 無数の視線が、一斉に紬希に突き刺さる。好奇、軽蔑、侮蔑――あらゆる色が混じり合っている。 「死体の化粧?女がそんな仕事してるなんて、縁起が悪いにもほどがあるだろ」 「考えただけで鳥肌が立つ。なんでああいう人間がこんな場にいるんだよ」 「俺なら絶対に嫁にはもらわないね。毎日死人に触ってるような女、どんな穢れが染みついてるかわかったもんじゃない」 ざわめきの中で、紬希は手のひらに爪が食い込むほど拳を握りしめ、青ざめていく顔を伏せ、必死に平静を保とうとしていた。 凪紗はくすくすと体を揺らし、紬希に向かって手招きした。 「紬希さん、せっかくだからステージに上がってきてくださいな。こんなにお客様がいらっしゃるんですもの、あなたの『お客様』が見つかるかもしれませんわよ」 逃げ場のない視線に押し出されるようにして、紬希は一歩、また一歩とステージへ歩を進めた。 客席のあらゆる視線を正面から受け止め、深く息を吸い込んだ。そのままマイクの前に立つ。 透き通った声が、宴会場に響いた。 「私は自分の仕事を、恥じたことは一度もありません。亡くなった方がきちんとした姿でこの世を旅立てるように、そしてご遺族に最後の安らぎを届けるために――それが、私の仕事です」 言い終わるかどうかのところで、誰かがぱちぱちと手を叩き始めた。まばらな拍手が少しずつ広がり、やがてひとつの大きな波になる。 紬希は、凪紗の毒をはらんだ視線と真正面からぶつかった。これ以上ここにいては、何をされるか分からない。澪璃の顔が脳裏をよぎった瞬間、紬希は弾かれたように宴会場から駆け出していた。 だが正面の扉を出たところで、背後に腕をねじ上げられ、ボディーガードに押さえ込まれた。 紬希は力なく笑い、目を閉じる。目を閉じたまま、次は何をされるのかと身をこわばらせた。 間もなく、凪紗が険しい顔で出てきた。弦夜がその隣に控えている。同じように沈んだ顔をしていた。 凪紗は紬希の前まで歩み寄り、冷たく笑った。 「紬希、いい気分だったでしょうね、あのスピーチ。自分の仕事にそこまで誇りがあるなら、望み通りにしてあげるわ」 紬希の全身の血が凍った。体中の細胞が逃げろと叫んでいる。けれど手首を押さえられ、指一本動かせない。 震える声で、凪紗を見据えた。 「何をするつもり?」 凪紗は鼻で笑う。 「今さら怖くなったの?もう遅いわよ」 紬希は思わず弦夜に目を向けた。助けを求めるように。 だが弦夜はうつむいたまま、紬希の視線を避けるように顔を背けている。一言も、発さなかった。 黒い目隠しをされ、両脇を抱えるようにして車に押し込まれた。 暗闇の中の一秒一秒が、引き延ばされたように長い。心臓がどくどくと鳴り、自分がどこへ連れていかれるのか見当もつかなかった。 やがて足の下に、柔らかい砂の感触があった。潮の匂いのする風が顔を打ち、波が岸を叩く音が聞こえる。 海だ。 目隠しを乱暴に剥がされると、目の前に暗い海が広がっていた。 凪紗が紬希の顎をつかみ、意地悪く赤い唇を歪めた。 「紬希、あなた死人と関わるのが好きなんでしょう?なら今日は、自分が死体になる気分を味わわせてあげる」 ボディーガードたちが大きな石を運んできて、紬希の体と石を麻縄できつく縛り上げた。 ――沈めるつもりだ。 問いただす間もなく、体が乱暴に持ち上げられた。 凪紗の声が、冷酷に響いた。 「落としなさい」 海に投げ込まれた。石の重みが紬希を猛烈な速さで海底へ引きずり込んでいく。 凍てつく海水が口と鼻に流れ込み、一瞬で息が詰まった。 もがこうにも手足はきつく縛られ、沈んでいく自分をただ感じることしかできない。 窒息の寸前、縄が激しく引かれ、水面へ引きずり上げられた。 息をつく暇もなく、また沈められる。 一回。二回。三回。 それが、九十九回も繰り返された。 紬希が最後に岸へ引き上げられたとき、もう息も絶え絶えだった。全身は氷のように冷たく、意識はとうに朦朧としている。 だが、体の痛みなど。 胸を抉るような絶望に比べれば、何でもなかった。 五年間愛した男。かつて自分のために全てを捨てたはずの男は、最初から最後までただ冷ややかに、自分が溺れ苦しむのを眺めているだけだった。「やめてくれ」の一言すら、口にしなかった。 もう――持ちこたえられなかった。意識が、完全に暗闇に落ちていく。 …… 再び目を開けたとき、夜は明けていた。見慣れた病室の天井が視界に入る。 克海がソファで書類に目を通していた。気配を感じたのか、すぐに顔を上げる。 「白石さん、気がつきましたか」 書類を置き、克海の表情が重くなった。目の奥に、抑えきれない怒りが渦巻いている。 「安心してください。あなたが受けた仕打ちは、僕が必ず代償を払わせます」 紬希は蒼白な顔のまま、虚ろな目を向けた。 「……結構です、篠原社長。何もいりません。ただ澪璃を連れて、ここから無事に出られれば、それだけで」 克海はそれ以上無理に踏み込まず、ポケットから名刺を取り出し、ベッドサイドのテーブルにそっと置いた。 「僕の個人的な連絡先です。今後何かあれば、いつでも。――まだ表に出るわけにはいかないので、今日はこれで」 そう言い残して、静かに病室を出ていった。 克海が去って間もなく、病室のドアが再び開いた。 凪紗が、悠然と入ってくる。 ソファに腰を下ろし、脚を組み、見下ろすように紬希を見た。 「さすが、毎日死人に触ってるだけのことはあるわね。しぶといこと。両親を死に追いやったくせに、自分だけは図々しく生き延びるなんて」 その言葉が、見えないハンマーで紬希の心を打ち砕かれたような衝撃となった。 両親は――確かに、自分のせいで命を落とした。だがその事実は、弦夜にしか話していない。なぜ、凪紗がそれを知っている。 紬希の動揺を見透かしたように、凪紗が目を細め、楽しそうに笑った。 「なんで私が知ってるか不思議?弦夜本人が教えてくれたのよ」 凪紗がゆっくりと顔を近づけた。二人にしか聞こえない声で、一語一語、刻むように。 「私が知ってるのは、あなたの両親のことだけじゃないの。あなたと弦夜が本当の夫婦で、澪璃が――お二人の実の娘だってことも、ちゃんと知ってるわ」 第7話 凪紗の一言一言が、毒を塗った刃のように紬希の心を抉っていく。 彼女は思わず耳を塞いだ。けれどあの声は、どんな隙間からでも頭の中に入り込み、最後の理性を蝕んでいく。 「あなたたちが夫婦だから何?今、彼を手に入れているのは私よ。ああそうだ、五年かけて弦夜をよく仕込んでくれたこと、感謝しなきゃね。おかげで今の彼ったら――女の悦ばせ方を、びっくりするくらいよく分かっているのよ」 言い終えると、凪紗はブランドバッグを手に、ハイヒールの音を響かせて去っていった。 残されたのは、紬希ひとり。頭から冷水を浴びせられたような絶望の中、こらえ続けていた涙がついに決壊した。 この五年の愛は、最初から最後まで、ただの茶番だった。 弦夜への想いも、この家に寄せた最後のかすかな望みも、この瞬間すべて灰になった。 心が、死んだ。 …… 紬希は歯を食いしばって退院の手続きを済ませた。 家に帰ると、澪璃はおとなしくアニメを見ていた。胸の奥の苦さを飲み込んで娘を寝かしつけ、荷造りを始める。 帰り道で、今夜の便のチケットはもう買ってあった。 これが、娘との新しい人生の始まりだ。過去との、完全な決別。 納戸には思い出が溢れていた。 弦夜がかつて雪山で描いてくれた油絵「夕映えの峰と少女」。色彩は今も鮮やかなのに、もう胸を温めてはくれない。 三晩徹夜して二人で完成させた、名画「星月夜」の巨大パズル。今となっては、皮肉でしかない。 そしてツーショット写真をびっしり貼り込んだ手帳。甘い言葉のひとつひとつが、全部嘘に変わっていた。 紬希はすべてをベランダに運び出し、火鉢に火を入れた。 手帳を、炎の中へ放り込む。 ぼっ、と火が燃え上がり、紙を舐めるように飲み込んでいく。写真の中の笑顔が歪み、黒く焦げていった。 続いて油絵。パズル…… 炎に照らされた紬希の顔は蒼白で、涙だけが音もなく頬を伝った。 宝物のように大切にしてきた思い出が、火の中で灰に変わっていく。弦夜への最後の未練もろとも、すべて焼き尽くされていく。 「紬希、何してるんだ」 背後から、弦夜の慌てた声がした。 火鉢の中で燃える手帳を見た途端、弦夜は咄嗟に手を突っ込んだ。けれど掴めたのは、焦げて黒ずんだ数枚の切れ端だけだった。 「なんで燃やしたりしたんだよ。俺たちの思い出だろう!」 弦夜は痛みに歪んだ顔で紬希を見つめている。理解できない、という目だった。 紬希は静かに答えた。「カビが生えてたの」 弦夜は欠けた手帳を両手で包み込み、やりきれない顔をした。 「カビくらいで燃やすことないだろ……」 「また今度作ればいいじゃない」紬希が、素っ気なく遮った。 ――また今度。その言葉が弦夜を喜ばせたらしい。彼は目がぱっと輝いた。 「ああ!落ち着いたら、もっといいやつを作ってやるからな!」 そこでようやく、横に積まれたスーツケースに気づいたようだった。 「それより、なんで病院で休んでないんだ。この荷物……どこか行くのか?」 「澪璃を連れて、少し気分転換に出かけようかなって」 言い終わるか終わらないかのところで、弦夜のスマホが鳴った。 画面を見て顔色が変わり、弦夜は慌ただしく電話を終えると、上着を引っ掴んで玄関へ向かう。 彼はドアの前で立ち止まり、振り返った。 「じゃあ、早めに帰ってこいよ。家で待ってるから」 紬希はその背中を見つめたまま、何も言わなかった。 弦夜は紬希の空っぽの目と視線が合い、胸をぎゅっと掴まれたような感覚に襲われた。理由のわからない恐怖が込み上げる。まるで次の瞬間、彼女がふっと消えてしまうようだった。 だがすぐに、彼は自分に言い聞かせた。 紬希はあれほど自分を愛している。出て行くはずがない。 結局彼はそのままドアを閉め、一度も振り返らずに去っていった。 閉ざされたドアを見つめ、紬希はそっとつぶやいた。「弦夜。もう二度と、会わないから」 すべての支度を終え、澪璃を起こした。 二人でスーツケースを引き、嘘で塗り固められたこの家を、迷いなく出た。 空港へ向かう車の中で、紬希は弦夜の連絡先をすべてブロックし、削除した。それからSIMカードを抜き取り、ためらわず窓の外へ投げ捨てた。 これで、もうあの男とつながるものは何もなくなった。 …… 空港に着くと、遠くに克海の姿が見えた。 紬希は歩み寄り、軽く頭を下げた。 「篠原社長」 克海はじっと紬希を見つめた。その目には複雑な感情が渦巻いていたが、すぐに膝を折り、澪璃の目線に合わせて優しく声をかけた。 「澪璃ちゃん、はじめまして。克海お兄さんだよ。これ、会えた記念のプレゼントなんだけど……気に入ってくれるかな」 後ろから、きれいにラッピングされた大きなぬいぐるみを取り出して差し出した。 澪璃は目を輝かせ、嬉しそうに受け取る。 「克海お兄さん、ありがとう!すっごくかわいい!」 克海はそっと澪璃の頭を撫で、立ち上がって紬希に向き直った。 「白石さん、道中お気をつけて。向こうに着いて落ち着いたら、一報ください。何かあれば、いつでも」 紬希は目を伏せ、小さく「はい」とだけ答えた。 搭乗を促すアナウンスが、ちょうどそのとき流れた。 紬希は澪璃の小さな手をしっかり握り、一度も振り返ることなく保安検査場へ歩いていった。 夜の闇の中、飛行機が央州の空を切り裂き、遠くへ飛んでいく。 窓の外に広がる雲海を眺めながら、紬希はゆっくりと息を吐いた。 その瞳の奥に、再び光が灯っている。 今度こそ、自分と澪璃は、本当に自由になった。