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別宅に夫の愛人がいた
私は、本間澪華(ほんま れいか)。結婚してからずっと空き家のままになっている家がある。 そんなある日、管理会社から連絡が入った。 「本間...
Chương (1)
第1章
私は、本間澪華(ほんま れいか)。結婚してからずっと空き家のままになっている家がある。
そんなある日、管理会社から連絡が入った。
「本間様、恐れ入りますが、そちらにご入居中の方へお伝えいただけますでしょうか。ベランダに干してある女性用の下着が外から見えてしまうということで、下の階の方からすでに二度ほど苦情が入っておりまして……」
送られてきた写真には、透け感のあるセクシーなランジェリーが、ベランダのいちばん外側に掛けられ、風に揺れていた。
その隣には、見覚えのあるメンズのボクサーパンツまで干してある。
胸の奥がすっと冷え、私はすぐ夫の本間郁人(ほんま いくと)に電話をかけた。
「汐見ヒルズの部屋、人に貸したの?」
郁人は一瞬だけ黙り込んで、それから急に笑い出した。
「なんだ、もう気づいたのか。本当はサプライズにするつもりだったのにさ。帰ったら、家賃はちゃんと家計に入れるようにするから」
私は嬉しそうなふりをして、「ほんと?助かる」と笑ってみせた。
電話を切ると、そのまま汐見ヒルズへ向かった。
第1話
私は、本間澪華(ほんま れいか)。結婚してからずっと空き家のままになっている家がある。
そんなある日、管理会社から連絡が入った。
「本間様、恐れ入りますが、そちらにご入居中の方へお伝えいただけますでしょうか。ベランダに干してある女性用の下着が外から見えてしまうということで、下の階の方からすでに二度ほど苦情が入っておりまして……」
送られてきた写真には、透け感のあるセクシーなランジェリーが、ベランダのいちばん外側に掛けられ、風に揺れていた。
その隣には、見覚えのあるメンズのボクサーパンツまで干してある。
胸の奥がすっと冷え、私はすぐ夫の本間郁人(ほんま いくと)に電話をかけた。
「汐見ヒルズの部屋、人に貸したの?」
郁人は一瞬だけ黙り込んで、それから急に笑い出した。
「なんだ、もう気づいたのか。本当はサプライズにするつもりだったのにさ。帰ったら、家賃はちゃんと家計に入れるようにするから」
私は嬉しそうなふりをして、「ほんと?助かる」と笑ってみせた。
電話を切ると、そのまま汐見ヒルズへ向かった。
……
私がマンションに着いた頃には、上下の階の女がそれぞれベランダから身を乗り出し、今にも掴み合いになりそうな勢いで言い争っていた。
下の階の年配の女性が、上のベランダを指さして怒鳴っている。
「なんでよりにもよって、そんなものをいちばん外に干すのよ!通りから丸見えじゃない!」
するとベランダの女も、すぐに言い返した。
「自分の服を干して何が悪いんですか?」
「人がどう思うかってことがあるでしょう!恥ずかしいって気持ちがないの!?」
言い争いはどんどん激しくなっていった。
そのとき、ひときわ強い風が吹いた。
外側に掛けられていたメンズのボクサーパンツが大きく揺れ、そのままふわりと落ちていく。
少し離れた場所に立っていた私には、はっきりわかった。
――あれは、郁人のだ。
最近、ジムに通い始めて少し痩せた郁人のために、私がウエストを詰めてあげたものだった。
最後まで抱いていたわずかな期待も、その瞬間、きれいに消えた。
私はそのまま玄関の前まで歩いていき、鍵を差し込んでドアを開けた。
さっきまでベランダで怒鳴っていた女は、リビングの物音に気づいて振り向いた瞬間、顔を強ばらせた。
「ちょっと、誰よあなた!?どうして入ってこられたの!?」
私は皮肉な笑みを浮かべ、手の中の鍵を軽く振った。
「ここ、私の家なんだけど。どうやって入ったと思う?」
川を一望できるこの一室は、母が亡くなる前に私に遺してくれたものだ。
ヨーロピアン調の内装で、川も街のランドマークも見渡せる。夜になれば、息をのむほど美しい景色が広がる。
ここ数年、景気はずっとよくなかった。郁人は何度も、この部屋を売って会社の資金繰りに回してほしいと言ってきた。
けれど、ここには母との思い出が詰まっている。形見のような場所で、どうしても手放す気にはなれなかった。
つい最近も、郁人はフランスから帰ってきたばかりだった。取引先との話はまとまらず、会社もかなりの損失を出したと言っていた。
ここしばらく、朝早くから夜遅くまで働く彼を見て、私は本気でこの部屋を売ることまで考えていた。
それなのに――まさか、その矢先にこんな裏切りを突きつけられるなんて。
女は目に見えてうろたえ、頬を真っ赤にしたまま、取り繕うような笑みを浮かべてこちらへ近づいてきた。
「あら、あなたが澪華さんでしたか。どうぞ、上がってください」
女は愛想よく笑って、身を引いた。
「私、日高紗季(ひだか さき)っていいます。郁人さんの母方のいとこで、今ちょうど仕事を探しているところなんです。それで、しばらくここに住まわせてもらっていて」
玄関に足を踏み入れた瞬間、私は息が詰まった。
そこにはもう、母が暮らしていた頃の面影がほとんど残っていなかった。
代わりに、高級バッグや服、ブランド物のコスメがあちこちに並び、目に刺さるようだった。
紗季は取り繕うように水を差し出してきたが、落ち着きなく泳ぐ視線が、どれほど動揺しているのかを隠しきれていなかった。
――母方のいとこ?
笑わせないで。
郁人の母方に、親戚なんていない。
じゃあ、この女は何者なの。
それに、仕事を探している最中の若い女が、こんな贅沢品をいくつも揃えられるはずがない。
私がソファに置かれたブランド服へ目を向けているのに気づくと、紗季は慌ててそれをかき集めながら言った。
「これ、全部彼氏が買ってくれたんです。いらないって言ったのに、どうしてもって」
困ったような言い方のくせに、その口元には自慢と挑発がうっすら滲んでいた。
私は眉をわずかに上げた。
「へえ。彼氏がそんなにお金持ちなら、その人のところで一緒に暮らせばいいんじゃない?仕事もないのに、もう一部屋分の家賃を払ってまでここに住む必要ある?」
「家賃……?」
紗季は思わず聞き返し、しまったというように目を泳がせると、慌てて取り繕った。
「いえ、親戚でも払うものはちゃんと払わないといけませんし。身内だからこそ、お金のことはきっちりしておかないと。
それに、私だって一応大学は出ていますし。女はちゃんと経済的に自立しないといけないと思うんです。……澪華さんも、そう思いません?」
彼女は目の端で私の反応をうかがっていたが、私は気づかないふりをして立ち上がった。
「家賃を払ってるなら、何の問題もないわね。……LINE、交換しておきましょう」
LINEを交換すると、私は軽くうなずいた。
「じゃあ、今日はこれで」
その一言で、彼女が目に見えてほっとしたのがわかった。
けれど――
彼女は知らない。
私がいったん出たあと、すぐにまた戻ってきていたことを。
扉越しでも、紗季の甘えた声ははっきり聞こえた。
「ねえ、早く帰ってきてよ。さっきあなたの奥さんが来てさ、私、すごく嫌なこと言われたんだけど……」
第2話
家に戻るなり、私はすぐ紗季のインスタを開いた。
中でもひときわ「いいね」が集まっていた投稿が三つあった。
最初の投稿には、真珠のブレスレットをつけた手首の写真が載っていた。
キャプションにはこう書かれている。
【彼にもらったの。これっていくらくらいすると思う?】
――それは、昔義母がずっと身につけていたものだった。
本間家では、そのブレスレットは代々、長男の嫁にだけ渡されるはずのものだ。
少し前に家を片づけたとき見当たらなくて、郁人は実家に置き忘れたのかもしれないと言っていた。
それをまさか、あの女に渡していたなんて。
こみ上げてくる吐き気をどうにか押し殺しながら、私はそのまま画面をスクロールした。
二つ目の投稿には、バリの高級ホテルのインフィニティプールで、ビキニ姿の紗季がゆったりと寝そべる写真が添えられていた。
その背中に日焼け止めを塗っている手が映り込んでいて、それを一目見ただけで郁人の手だとわかった。
子どものころの怪我のせいで、小指の形が少しだけ人と違うからだ。
投稿日の日付を見て、私は息をのんだ。
その日は、私たちの結婚記念日だった。
あの日のために私はずっと前から準備して、どうしても一緒に過ごしてほしいと頼んだのに、郁人は急な出張だと言って聞き入れなかった。
子どもみたいなことを言うな、俺の立場も考えろとまで言われた。
三つ目は、いちばん新しい投稿だった。
紗季は今回のパリ旅行で買ったブランド品を、これ見よがしに並べていた。
画面の端に映り込んだカードの一部を見た瞬間、私は息をのんだ。
末尾の番号に見覚えがあった。あれは間違いなく、郁人のクレジットカードだった。
ざっと見ただけでも、それらの総額は控えめに見て4000万円は下らない。
まさか、ここまでとは思わなかった。
郁人は紗季には4000万円分もの贈り物を惜しげもなく与えておきながら、私には記念日でさえ映画のチケット1枚で済ませていたのだ。
そのくせ私は彼を気の毒に思い、あの家まで売って資金繰りを助けようとしていた。
自分の見る目のなさにも、両親の反対を振り切ってまで彼と結婚した過去にも、腹の底から怒りがこみ上げてきた。
今になって思えば、最初から二人に笑いものにされていたようなものだった。
怒りに任せて、私は手元の証拠をすべて同級生の三浦卓也(みうら たくや)に送った。
今の彼は法律事務所の看板弁護士で、離婚訴訟では一度も負けたことがない。
卓也は証拠を見終えた瞬間、怒りを抑えきれない様子で吐き捨てた。
「郁人のやつ、よくもこんなことをしたな。お前のご両親の支えがなかったら、今のあいつなんて絶対にあり得ないのに。
安心しろ。あいつがこれまで奪ってきたものは、全部きっちり取り返してやる」
その言葉を聞いて、胸につかえていたものがほんの少しだけ軽くなった。
郁人がそこまでやるなら――私だってもう容赦しない。
長電話のせいで喉がからからになり、水を飲んでひと息ついたところで、郁人から電話がかかってきた。
「工場の注文が立て込んでてさ。今夜は残業で帰れそうにない。
そういえば紗季から聞いたけど、今日あいつに会ったんだって?家賃はこっちから振り込んでおくから、確認しておいてくれ」
考えるまでもない。
その家賃だって、どうせ郁人が肩代わりしているに決まっている。
先に話しておけば、私に疑われないとでも思っているのだろうか。
あまりにも浅はかで、呆れるしかなかった。
紗季もきっと聞き耳を立てているはずだと分かっていた私は、わざと声を張った。
「いいの。紗季さんのこと、すごく気に入ったし。そのお金はそのまま返してあげて。残業、大変だろうけど……無理しないでね」
――もちろん、あの二人はまだ気づいていない。
今朝あの家を訪ねたとき、紗季が目を離したほんのわずかな隙に、私はすでに超小型カメラを仕掛けていた。
ただ、さすがにここまでとは思わなかった。
私が朝あそこへ乗り込んだばかりだというのに、その夜にはもう、二人は何事もなかったかのように同じベッドに入っていたのだから。
画面の中で、裸のままの二人はぴたりと身体を寄せ合い、何度も唇を重ねながら、互いを求め合うように肌を這わせていた。
郁人は違和感など欠片も抱いていないのか、すっかり気を緩めた声で言った。
「じゃあ、お前ももう寝ろよ。愛してる」
少し前の私なら、きっとその一言だけで満たされていた。
けれど――今回ばかりは、嫌というほど思い知らされた。
もう、あの人の言葉を信じることはできない。
第3話
通話を切ったあと、画面の中では紗季が唇を尖らせ、不満そうに甘えた声を出していた。
「もう、ほんとにびっくりしたんだから。今日いきなりあいつが来て、心臓止まるかと思った。私たちのこと、ばれたのかと思っちゃった」
郁人はそんな彼女の額に軽くキスを落とし。
「ばかだな。俺がそんなヘマするわけないだろ。
ちょうど年末だしさ。怖い思いさせたお詫びに、オークションでも連れてってやろうか?」
紗季はぱっと顔を輝かせると郁人の首に抱きつき、そのまま胸元へと指先を這わせていった。
――その先は、さすがに見ていられなかった。
卓也の仕事は本当に早かった。
翌朝、目を覚ましたときには、もう調査結果が届いていた。
紗季は郁人のいとこでも何でもなかった。
ただ同じ地元だったというだけで、私と出会う前の郁人にとっては、ずっと忘れられない初恋の相手だったらしい。
郁人がまだ私と付き合っていた頃も、二人は何度も別れかけては、ずるずると関係を続けていたらしい。
ただ、その頃の郁人はまだこの街で地盤を築けていなかったせいか、二人の関係も中途半端なままだった。
それが結婚後、仕事が軌道に乗って金に余裕ができると、郁人の欲はますます膨らんでいった。
彼は私の持ち家を自分のもののように使い、そこへ紗季を住まわせた。
やがて二人は、私の知らないところで、まるで夫婦のようにそこで暮らすようになった。
卓也が集めてくれた利用明細に目を通すと、食事から服、家賃、日用品に至るまで、どれも贅沢なものばかりだった。
小さな出費まで合わせれば、総額は二億円近くになっていたらしい。
その情報を手がかりに、私は別アカウントで紗季のSNSをのぞいた。
そこにいたのは、まるで裕福な奥様気取りの紗季だった。
彼女が身につけているものの中には、私が誕生日に自分で買ったダイヤのネックレスもあれば、昔、両親から贈られたダイヤの指輪もあった。
証拠を見れば見るほど怒りが込み上げてきた。
あれほど郁人を信じていた自分が情けなくて、吐き気がするほどだった。
SNSの最新投稿には、母が遺してくれたあの家を紹介するルームツアー動画が上がっていた。
動画の中で紗季は、いかにも慣れた口ぶりでこう話していた。
【邸宅に住み慣れちゃうと、三百平米のリバービューでもちょっと手狭に感じちゃうのよね。夫が思い出があるからって残してるけど、正直、安く譲ってもいいかなって思ってるくらい】
するとコメント欄には、たちまち羨望の声が集まり始めた。
【えっ、こんな素敵なおうち、手放しちゃうんですか?いくらくらいで考えてるんですか?】
【え、気になる……もしかしてかなりお得だったりします?】
紗季は得意げに返していた。
【うーん、どうしようかな。値段はそこまでこだわってないかも】
するとコメント欄には、【ほんとに恵まれてますね】【優しくてお金もある旦那さんとか羨ましすぎます…!】といった声が次々と並び始めた。
それに対して紗季は、ますます調子づいたように返信していた。
【そうなの。彼がね、私は余計なことを考えずに、好きな服を着て、好きなものを身につけていればいいって。
お金のことは気にしなくていい、稼ぐのは俺の役目だからって。それに、もうすぐオークションにも連れて行ってくれるの】
私はすぐに別アカウントでコメントを書き込んだ。
【ねえ、その日のオークションって配信する予定ないの?一度でいいから、そういう世界を見てみたいな】
するとそのコメントはたちまちほかのフォロワーの目にも留まり、【見てみたい】【配信してほしい】といった声が次々に集まり始めた。
気づけば「いいね」は千件を超えていた。
しばらくして、紗季本人から返信がついた。
【わかった。見たいって声が多かったから、その日は配信するね。ちゃんと見に来てよ。見に来てくれた人向けに、ちょっとしたプレゼント企画も考えておくね】
それを見た瞬間、胸につかえていたものがほんの少しだけ軽くなった。
あとは、きっちり準備を整えるだけ。
せっかくここまで舞台を整えたのだ。
主役が揃わないまま、幕を開けるわけにはいかない。
第4話
オークション当日、私は三十分ほど早めに会場へ入り、会場を見渡しやすく、なおかつこちらの姿が目につきにくい個室に腰を落ち着けた。
しばらくして、郁人と紗季が揃って姿を現した。寄り添って歩くその様子は、傍から見れば仲のいい夫婦そのものだった。
今日は配信をするつもりなのだろう。普段から派手な紗季は、いつも以上に気合いが入っていた。
ネックレスもピアスも抜かりなく揃え、腕にはケリーを提げ、髪まできっちりセットしている。事情を知らない人が見たら、オークションではなくパーティーにでも来たのかと思うほどだった。
入り口のスタッフは二人の姿を見るなり、すぐに笑顔で出迎え、そのままVIPルームへ案内していった。
紗季は席に着くとほとんど間を置かず配信を始め、私は裏アカウントでその配信を覗いた。
出品物が運ばれてくるたびに、紗季は間髪入れず札を入れていく。ほかの参加者が口を挟む隙もないほどだった。
気がつけば、紗季はあっという間に何千万円もの金を使っていた。
それだけ湯水のように金を使っているのに、郁人は眉一つ動かさない。どうせ私の金だと思えば、痛くもかゆくもないのだろう。
私は小さく笑った。焦りはまったくなかった。むしろ、この先どう転ぶのかが少し楽しみなくらいだった。
前座の出品がひと通り終わると、オークショニアが目玉の一着について、朗々とした声で語り始めた。
「かつて英国王妃がこのドレスをまとい、ウェストミンスター寺院の鐘の音に包まれながら祝福の中を歩まれました。
パフスリーブに深いVネック、そして八メートルにも及ぶロングトレーン――そのすべてが時代を象徴する名作として語り継がれている、大変貴重な一着でございます。
軽やかに広がる優美なシルエットに、繊細なチュールと真珠の装飾を贅沢にあしらった、当時のブライダルファッションを代表する逸品です」
その豪奢で気品に満ちたウェディングドレスが照明の下に姿を現した瞬間、紗季の頬がぱっと赤くなった。目をきらきらと輝かせ、興奮を隠しきれない様子で声を上げる。
「あなた、あれ欲しい!あのドレスで式を挙げたら、絶対みんなの視線集めるよ!」
郁人は少し考えたあと、あっさり頷いた。
紗季は嬉しそうに彼の頬を両手で包み込むと、そのまま大げさなくらいのキスをした。
「やっぱりあなたって最高!」
やがてオークショニアが開始を告げる。
「9200万円からのスタート」
会場の空気が一気に熱を帯び、価格はすぐに1億1600万円まで跳ね上がった。
私は静かに笑いながら、1億2000万円と告げた。
すると紗季はすぐに600万円上乗せし、私はそのたびに同じ額を重ねていった。
何度か競り合いが続くうちに、紗季は次第に苛立ちを隠せなくなり、それと同時に郁人の表情もはっきりと曇っていった。
さすがに、ここまでの額になると話は別だ。
あとで私にどう取り繕うつもりなのか――郁人もさすがに迷いが出てきたのだろう。
なかなか決めきれない郁人を見て、紗季はついに苛立ちをあらわにした。
「ちょっと、さっきから何なの?いちいち張り合ってきて、ほんと腹立つんだけど。あなた、こんなに見られてるのよ?ここでやめるなんてありえないから」
配信のコメント欄でも、なかなか次の額を出さない二人に対して、【本当にお金あるの?】【目立ちたいだけじゃない?】といった声が目立ち始めていた。
その時点で、ドレスの値はすでに1億4400万円までつり上がっていた。
郁人は紗季にせき立てられ、さらに配信の空気にもあおられるようにして、また値を上げるしかなかった。
けれど、彼がいくら積んでも、私はそのたびに間を置かずについていった。
いつの間にか、会場の注目はすべて私と郁人に集まっていた。
ついに紗季の声が裏返る。
「この人、頭おかしいんじゃないの?無理して張り合ってきてるだけでしょ。ほんと感じ悪いんだけど」
私は小さく笑った。こんな駆け引きにいつまでも付き合うつもりはない。
時間の無駄だと思った私は、はっきりと二億円と告げた。
それと同時に、秘書には郁人が自由に動かせる資金をすべて止め、口座も凍結するよう指示を出しておいた。
会場のあちこちで息をのむ気配が広がり、郁人の顔からはみるみる血の気が引いていった。
「紗季、もういい。やめよう。そんなドレス、どうせ百年以上も前のものだしさ。ウェディングドレスなら新品のほうがいいだろ」
けれど、ここまできて紗季が引き下がるはずもなかった。しかも今は大勢の視聴者が見ている。このまま手に入れられなければ、みっともないところを晒すことになる。
「だめ。あのドレスだけは絶対に落として」
だが、彼女の言葉が終わったときには、それ以上札を入れる者はいなかった。
オークショニアは会場を見渡し、ためらいなく木槌を振り下ろした。
「二億円で落札です。おめでとうございます」
目前でドレスを落札された紗季は、怒りに顔を歪めると、郁人の腕をつかんで半ば叫ぶようにまくし立てた。
「あなたがぐずぐずしてるからでしょ!言っとくけど、今日あのドレス落とせなかったら、私、あなたとは結婚しないからね」
紗季はすっかり頭に血が上っていた。声を張り上げたせいで、会場中の視線が一気に集まる。さすがの郁人も、ここまで人目を集めてしまっては、ばつが悪そうにしていた。
これ以上騒ぎを広げたくなかったのだろう。結局、郁人が折れた。
「紗季、落ち着け。今から相手に掛け合ってくる。いくら払ってでも、お前のために手に入れるから」
そう言うと、彼は私の個室の前までやって来た。そして仕切り越しに、いかにも丁寧な口調で声をかけてくる。
「失礼いたします。私の恋人が、どうしてもあのドレスを気に入ってしまいまして……結婚式で着たいと言っているんです。
もし差し支えなければ、こちらにお譲りいただけないでしょうか。お礼として、私が大切にしているジュエリーをいくつかお渡しできます。写真もございますので、よろしければご覧いただけますか」
差し出された写真を見て、私は思わず笑いそうになった。
彼が自分のコレクションのように並べてきた宝石は、どれも母が私に遺してくれたものだったからだ。
私はわざと声の調子を変え、気づかれないよう少し低めに抑えながら言う。
「あら……どれもずいぶんいいお品ね」
それを聞いた郁人は、すぐ身を乗り出した。
「では……譲っていただけるということでしょうか?」
「ええ。そこまでおっしゃるなら、一度きちんとご挨拶くらいはさせていただかないと」
そう言って、私はヒールを鳴らしながら、仕切りの向こうからゆっくり姿を現した。