雲の彼方に散る愛

Đang tải thông tin quảng bá...

雲の彼方に散る愛

GoodNovel Hoàn thành

菅野雷星(すがの らいせい)はすべてのパイロットにとって、信仰にも等しい存在だった。 十六歳のときには、たった一人で人質救出任務をやり...

Chương (1)

第1章

菅野雷星(すがの らいせい)はすべてのパイロットにとって、信仰にも等しい存在だった。 十六歳のときには、たった一人で人質救出任務をやり遂げている。二十五歳で北方航空基地の指揮官の座に就き、一万回を超える指揮でもミスは一度としてない。 雷星の辞書に「私情」の文字はない。あるのは「責務」のみだ。 星野遥(ほしの はるか)は五年を費やし、素手で百メートルの断崖を攀じ登り、高空の鋼索を渡り歩いて、ようやく高所恐怖症を克服した。 航空士官学校に合格し、首席で卒業を果たした。そのまま北方航空基地へと配属される。 あと五年の考査期間を無事に通過すれば、エースパイロットとなり、雷星のただ一人の飛行パートナーになれるはずだった。 ところが、この五年間に与えられた三度の任務は、いずれも惨憺たる結末を迎えることとなった。 一度目は雷の直撃を受けて全身から血を流し、二度目は家族全員が報復によって無惨に殺され、三度目は全身の骨が砕ける重傷を負った。 そのすべてが仕組まれた罠だった。遥がようやく黒幕を突き止めたとき、扉の向こうから耳に飛び込んできたのは、あの男の言葉だった。 「俺と遥が結婚すると知り、きっと受け入れられなかったのだろう。だから俺が伏せておいた。あの程度の過ちで、彼女の一生を台無しにする必要はない」 遥は、ただ静かに笑った。 そして、彼に生涯消えない悔恨を抱えさせることになる「三つのもの」を残して去っていった。 第1話 菅野雷星(すがの らいせい)はすべてのパイロットにとって、信仰にも等しい存在だった。 十六歳のときには、たった一人で人質救出任務をやり遂げている。二十五歳で北方航空基地の指揮官の座に就き、一万回を超える指揮でもミスは一度としてない。 雷星の辞書に「私情」の文字はない。あるのは「責務」のみだ。 星野遥(ほしの はるか)は五年を費やし、素手で百メートルの断崖を攀じ登り、高空の鋼索を渡り歩いて、ようやく高所恐怖症を克服した。 航空士官学校に合格し、首席で卒業を果たした。そのまま北方航空基地へと配属される。 あと五年の考査期間を無事に通過すれば、エースパイロットとなり、雷星のただ一人の飛行パートナーになれるはずだった。 ところが、この五年間に与えられた三度の任務は、いずれも惨憺たる結末を迎えることとなった。 一度目の任務は、雷星自らの命令によって下された。遥は国境の外から極秘の製剤を持ち帰ることになった。 しかし、唯一の飛行ルートで激しい雷雨に遭遇してしまう。遥は歯を食いしばり、戦闘機を操縦して雷雲を引き裂くように突破した。 製剤のケースは無傷のままだったが、機体はいたるところが激しく損傷していた。 二度目は、百人規模の拉致事件での航空支援任務だった。遥はすでに犯人の位置を特定し、あとは包囲網を締め上げるだけのところまで追い詰めていた。 その決定的な瞬間、暗号通信に一人の女の声が突如として割り込み、作戦計画を敵に晒してしまった。 雷星は間髪を入れず命令を下した。「プランBに移行。機体ごと目標ビルへ突入せよ。今すぐだ」 遥は一切の躊躇なく指示に従い、百名の人質は全員無事に救出された。 しかし、遥を窮地に陥れたあの女の声の主は、いつまで経っても突き止められないままだった。 三度目には、遥は紛争地帯への救援物資投下任務に派遣された。 ところが、最初に投下された荷物は――爆弾だった。 遥は自らの機体を爆弾に衝突させ、空中で起爆させるほかなかった。 無数の命を救ったにもかかわらず、その危険極まる操縦を理由に、一年間の飛行停止処分が下された。 五年の考査期間が終わり、遥は雷星の直属チームから外される運命に直面していた。 それでも、遥は諦めていなかった。 この一年、あらゆる伝手を使って調査を続け、掴んだ証拠はすべて同じ一つの名前を指し示していた。 井上愛椛(いのうえ あいか)――指令センターに籍を置く、一介のインターン生だった。 遥は証拠の束を抱え、雷星の執務室へと歩き出した。 胸の奥には、整理のつかない無念と悔しさが渦を巻いていた。 執務室の扉の向こうから、激しい口論の声が漏れてくる。雷星と、副官の中村蒼(なかむら あおい)の声だった。 蒼の声には、押し殺しきれない怒りが滲んでいた。 「今回のエースパイロットの栄誉を、戦闘機に乗ったことすらない愛椛さんにくれてやるつもりか?遥さんのあの三度の任務の裏で何があったか、私が知らないとでも思っているのか」 扉の外で、遥の足が凍りついた。 雷星の声には、感情の波一つ立たない。十年間聞き続け、神託のごとく崇めてきた、あの冷徹な声だった。 「俺は司令官だ。俺の評価は、常に公平かつ公正である」 「公平だと?遥さんの一度目の任務は、愛椛さんの特注の生理用品を届けることだったじゃないか。『国内製のものだとアレルギーが出る』――たったそれだけの理由で…… あの時の遥さんは、雷の直撃を受けて全身から血を流し、死にかけた状態で帰ってきたんだぞ。あんたが知らないはずがないだろう」 扉の外の遥は、見えない大きな手に心臓を鷲掴みにされたかのように、息をすることさえできなかった。 雷星の声には何の揺らぎもなく、むしろ当然のように愛椛を庇う響きすら滲んでいた。 「緊急事態だった。愛椛はアレルギーが出ると、ひどいことになる」 蒼の怒りは収まらない。 「じゃあ二度目はどうなんだ。愛椛さんがあんたを見つけられず、暗号通信で泣き喚いたせいで、遥さんの位置が敵にバレた。その後、犯人どもの報復で遥さんの両親は交通事故に遭わされ、弟と妹はあのクズ共に……」 蒼は、それ以上言葉を続けることができなかった。 遥もまた、これ以上聞いてなどいられなかった。 雷星の声に、ようやくわずかな疲労が滲む。それでも、愛椛を擁護する姿勢を崩そうとはしなかった。 「愛椛は暗い場所が怖いんだ。あの時は、俺がそばにいる必要があった。遥の家族の件については、すでに相応の補償は済ませてある」 遥は全身を震わせ、壁に縋らなければ立っていることすらできなかった。 無残に変わり果てた弟と妹の遺体写真が脳裏をよぎる。二度と繋がることのない両親の電話番号が、耳の奥で虚しく鳴っていた。 毎晩のように遥を叩き起こす、あの悪夢――そのすべてが、愛椛の「暗い場所が怖い」というたった一言のためだったというのか。 蒼は、悲しみと怒りを堪えきれない様子で声を絞り出した。 「それはそれとして、三度目は?愛椛さんが理由もなく救援物資を爆弾にすり替えたのは、地上の難民を皆殺しにするためか、それとも遥さんを殺すためか? 本来なら軍事法廷にかけられるべき罪だ。なぜあんたは揉み消した」 雷星の声が、ひとつ低くなった。 「愛椛はほんの一時、魔が差しただけだ。俺と遥が結婚すると知り、きっと受け入れられなかったのだろう。あの程度の過ちで、彼女の一生を台無しにする必要はない」 ――あの程度の過ち、だと? 遥の震えは止まらなかった。 十年に及ぶ血みどろの努力も、幾度となく彷徨った生死の境も、そして家族四人を失ったことさえ、雷星の目にはただ「あの程度」のものに過ぎないというのか。 蒼の声から、抑えきれない皮肉が零れ落ちる。 「あんたが愛椛さんをそこまで特別扱いするのは、彼女があんたが初めて救い出した人質だからだろう?特別な意味がある、だからだろう? だが――彼女を守るためなら、自分の結婚すら遥さんを繋ぎ止めるための道具にするとはな。司令官殿、あんたは遥さんを一体、何だと思っているんだ」 短い沈黙の後、雷星の声が再び響いた。相変わらず、それが当然の理であるかのようだ。 「遥はじきに俺の妻になる。婚姻届を出し次第、彼女を俺のただ一人の飛行パートナーとして申請するつもりだ。だが、愛椛は違う。彼女にはもう、何も残っていない」 蒼が一語一語、刻むように問いかけた。「……もし、遥さんがこのすべてを知ったら?それでも彼女は、あんたと結婚し、飛行パートナーになりたいと願うと思うか」 雷星の声が、一気に冷え込んだ。これ以上の議論を拒絶する、断固たる響きを伴っている。 「遥が知ることはない。それに、遥は十年間、俺を追いかけ続けてきた。彼女の望みは、もう十分すぎるほど叶えてやった。あと一ヶ月で結婚する。遥が俺のもとを離れることはない」 ――彼は、すべて知っていたのだ。 ――自分が十年間彼を愛し、彼のただ一人の飛行パートナーになることを夢見続けてきたと、知っていたのだ。 ――だからこそ、家族四人を無惨に奪われ、狂ったように内通者を暴こうとしていた自分に、彼は耳元で何度も囁いたのだ。 「遥、もう怖がるな。これからは、俺がお前の帰る場所になる」 そして、もう一つ。さらに残酷な事実があった。 あの日、雷星が初めての実戦任務で最初に救い出した人質――それは愛椛ではなく、遥自身だったのだ。 それは遥にとって、悪夢の終わりであり、同時に、狂信にも似た想いの始まりでもあった。 病院に運ばれ、傷が癒えた頃、雷星も近くの施設で療養していると耳にした。 遥は、彼から授かった小さなお守りを握りしめ、こっそりと病室を抜け出した。けれど、遠目に見えたのは――雷星が一人の少女を、その胸にしっかと抱きしめている光景だった。 やがて、慌てて駆けつけた両親に連れ戻され、それきり――航空基地に入るまで、遥が彼と再会することは二度となかった。 遥の頬を、一筋、また一筋と、声のない涙が滑り落ちていく。 心に灯し続けた唯一の信仰も、骨の髄まで刻みつけた忠誠も、ようやく手が届くと信じていた夢も――そのすべてが、ただの償いと、哀れみに過ぎなかったのだ。 こんな馬鹿げたもののために、遥は青春を、健康を、そして最愛の家族の命までをも捧げてしまったのだ。 遥は背筋を伸ばし、頬に残った最後の涙の痕を拭い去った。 あの扉を、遥は押し開けなかった。 ただ静かに踵を返し、一歩ずつ自分のデスクへと戻ると、手元のすべての証拠を一つのファイルに束ね、最高軍事法廷の内部告発サイトへと送信した。 モニターに、一件の自動返信が浮かび上がった。 【告発資料を受理しました。これより審査手続きに移行します。審査完了まで、およそ三十営業日を要する見込みです】 第2話 次の瞬間、鼓膜を突き刺すような警報音が鳴り響き、遥は弾かれたように席を立った。 駐機場での緊急事態を告げるアラートだった。 この一年、飛行停止処分を受けていた遥は、地上での戦闘機メンテナンスを任されていた。その遥が考えるより早く、体の方が外へ飛び出していた。 格納庫のすぐ手前まで来たところで、遥の心臓が一気に冷え込んだ。 視線の先に、愛椛がいた。 遥が五年間かけて守り抜いてきた戦闘機のすぐ脇に立ち、その手には起爆装置が握りしめられている。 それは、本来なら機体が制御不能の致命的リスクに晒されたとき、最後の最後にだけ使用される、自爆用の最終手段だった。 「それを置きなさい!」遥は声を張り上げた。 愛椛がビクリと肩を震わせる。「遥先輩、あたしはただ、いつもみたいに機体の点検をしてて……」 遥は一歩ずつ間合いを詰めながら、氷のような声で言い放った。「さっきも言ったはずよ。その起爆装置を置きなさい。それは遊び道具じゃない」 愛椛は下唇を噛みしめ、次の瞬間、何かにひどく怯えたように全身を震わせた。 そのまま、勢いよく起爆装置のボタンを押し込んだ。 「やめろ!」 遥が飛びかかろうとしたが、ほんの一瞬遅かった。 凄まじい爆音と共に、爆風が遥の身体を容赦なく地面へ叩きつける。 それでも、痛みはほとんど感じなかった。見開いた瞳に映っていたのは、五年間苦楽を共にしてきた愛機が、炎の中でひしゃげ、きしみ、やがてバラバラに崩れ落ちていく光景だけだった。 視界が一気に暗転し、遥の意識は闇の底へと沈んでいった。 …… 医務室にて。 医師が擦り傷に薬を塗り、ガーゼを当てていくのを、遥はただされるがまま受けていた。 目を閉じても、脳裏には空へと噴き上がる炎の柱が焼き付いたままだった。 この五年間のすべての昼夜、幾度となく繰り返した離着陸、機体に触れた指先の感触。積み重ねてきた記憶の一つ一つが、あの爆発と共に灰になってしまった。 そのとき、不意にドアが開いた。 雷星が入ってきて、その後ろには目の周りを真っ赤に腫らした愛椛が、身を縮こまらせて立っていた。 愛椛が泣き声混じりに言い訳を始める。「遥先輩が急に飛びかかってくるから、びっくりしちゃって……それに、あれ、ただの普通のスイッチだと思ってたんです。起爆装置だなんて、本当に知らなくて……」 遥は自嘲気味にふっと笑い、口角だけをわずかに持ち上げた。「知らない?私がさっき注意したでしょう?それに、この基地に入った初日に、全員が緊急設備の識別を叩き込まれるはずよ。知らないなんて、よくそんな嘘がつけるわね」 愛椛は助けを求めるように雷星を見上げた。 雷星の視線は二人の間を行き来し、やがて遥の顔に止まった。 「いずれにしても、結果として戦闘機は失われた。基地の機体はすべて国有財産だ。お前には、管理監督を怠った責任がある」 遥は呆然としながら、目の前の男を見つめた。 十年追いかけてきた。十年愛し続けてきた。そして、もうすぐ夫婦になるはずだった男を。 それなのに今は、どうしようもないほど、酷く遠い他人のようにしか見えなかった。 雷星の声には一片の迷いもなく、事務的な響きだけがあった。 「規定に基づき、お前には三日間の禁閉処分を命じる」 禁閉室の中。 遥はずっと下唇を噛みしめ、小刻みに震えていた。閉所恐怖症の発作が、全身を内側から締め付けていた。 十年前の薄暗い倉庫で、遥は十三日間も監禁されていた。 硝煙の匂いの中、一人の少年が飛び込んでくる、その瞬間まで。 少年だった雷星は、あのとき遥に向かって言った。「もう怖がるな。俺がちゃんと連れて帰る」 救急車に乗せられる直前、少年は遥の手に小さなお守りを握らせた。 「これをやるよ。これから先、もしまた怖くなったらこれを見て。 忘れるな。お前のために、必ず駆けつける人がいる」 いつの間にか、遥の頬は涙で濡れていた。遥は膝に顔を埋め、やがて袖で乱暴に涙を拭った。 嘘つき。 心臓を鋭い刃で貫かれたように、鼓動のたびに痛みだけが胸の奥で脈打っていた。 どれほど時間が過ぎたのか、ようやく独房のドアが開いた。 そこには雷星が立っていた。冷え切った声が、狭い空間に落ちてくる。 「緊急任務だ」 遥は顔を上げて雷星を見つめた。その表情には、何の感情も浮かんでいなかった。 心が完全に死んでしまったのか、それとも痛みが麻痺するところまで達してしまったのか、自分でもわからなかった。 雷星は遥の顔をじっと見据え、わずかに眉をひそめた。それから、少し間を置いて言葉を継いだ。「科学者の緊急護送だ。この任務は、お前の最終審査の評価に直結する。それがどういう意味を持つか、わかるな」 第3話 つまり、遥にはまだ雷星の唯一の飛行パートナーになる可能性が残されている、ということだ。 しかし遥はただゆっくりと立ち上がり、無言で頷いた。 雷星は一瞬、虚を突かれた顔をした。 もうかつてのように、目を輝かせて「本当ですか」と問い返すことも、「絶対にご期待を裏切りません」と意気込んで誓うことはしなかった。 遥は無言のまま雷星の横をすり抜け、視線すら向けなかった。 すでに、心の中で決断は下されていたからだ。 この任務を終えたら、辞表を出す。 十年――もう目を覚ます頃合いだ。 駐機場では、白衣姿の男が戦闘機に寄りかかりながら資料に目を通していた。 視線が交差した瞬間、二人とも少し驚いた表情を見せた。 白衣の科学者は目を丸くして言った。「遥さんですか?てっきり、あの男性パイロットが来るものと思っていました」 遥は事務的な態度で機体の状態をチェックしながら答えた。「パイロットの腕に性別は関係ありません。搭乗してください。三分後に離陸します」 飛行中、幾度となく発生した乱気流を、遥は完璧な操縦で回避してみせた。 無事に着陸を終えると、あの科学者はシートに深く背中を預け、問いかけた。 「僕のチームには、最高水準のパイロットが必要です。年俸はこの基地の三倍、興味はありますか?」 遥はそこで初めて、横を向いて科学者を見据えた。 「あと一ヶ月ほど、時間をください」 「問題ありません」 帰路、遥が操縦に集中していると、突然レーダー画面から航路表示が消失し、すべての通信が途絶えた。 遥の胸の奥で警鐘が鳴った。 知りうる限りの復旧手順を試したが、通信は一向に回復しなかった。 上空を旋回し続けるしかなく、燃料はすでに残り三分の一にまで減少していた。 管制塔と速やかに連絡が取れなければ、安全な着陸ルートすら確保できない。 やむを得ず、最も危険な目視外の計器着陸手順に移行しようとしたその時、チャンネルからかすかなノイズが漏れ聞こえた。 通信が繋がったのだ。 遥は即座に呼びかけた。 「こちら星野遥。着陸誘導を要請する。繰り返す、誘導を――」 だが、言葉はそこで途切れた。 ヘッドセットから聞こえてきたのは、管制官の応答などではなかったからだ。 泣きじゃくる愛椛の声が鼓膜を打った。 「雷星、あたしを置いて、本当に遥先輩と結婚しちゃうの?」 雷星の、わずかに荒くなった息遣いが通信機越しに聞こえる。 「……ああ」 愛椛の泣き声がさらに大きくなった。 「じゃあ、あたしはどうなるの?気が狂いそうだよ。あたしは雷星に助け出されたのに、もう、あたしのことはいらないの?」 短い沈黙。そして、遥の胃の腑が裏返るほど甘く優しい、雷星の声が響いた。 「結婚したら彼女に伝えるよ。公務の処理で基地に寝泊まりすることが多くなる、とな。遥なら受け入れてくれるさ」 遥は吐き気を堪えて操縦桿をきつく握りしめ、己の技術と勘だけを頼りに、なんとか基地周辺空域までの帰還を果たした。 ようやく管制塔と正式な連絡がつき、着陸態勢に入ろうとしたその時、再び雷星の声が通信に割り込んできた。 「なぜ帰還にこれほど手間取った。おまけに燃料も底を突きかけている。どれほど危険な状況かわかっているのか。 いいか、今すぐ最も近い第三滑走路へ着陸しろ。安全を最優先に――」 雷星の言葉が終わる前に、またしても愛椛の声がそれを遮った。 「だめ!彼女に第三滑走路を使わせちゃだめ!」 愛椛のヒステリックな声が響く。 「あそこは雷星専用の滑走路でしょ!どうして普通の戦闘機なんか下ろすの。雷星の滑走路が汚れちゃう!」 遥はあまりのことに、呆れて笑い出しそうになった。 通信機越しに、慌ただしい足音と、何やら揉み合うような音が聞こえてくる。 やがて雷星の声が再び響き渡った。常にパイロットの安全を第一の使命としてきたはずの司令官が、信じられないほど冷徹な命令を下した。 「遥、着陸地点を変更しろ。第五滑走路へ向かえ。お前の技術なら可能だ」 第五滑走路は、基地の最も外れに位置する滑走路だった。 遥は淡々と事実を告げた。「燃料が足りません。第五滑走路までは到達不可能です」 だが、雷星の声は冷酷そのものだった。「これは命令だ」 遥は無言で通信を切った。 そして操縦桿を倒し、目前の第三滑走路に向けて急降下を開始した。 それを見た管制塔内の愛椛が、突然外へと飛び出していった。 第4話 「愛椛!」雷星が叫びながら後を追った。 遥がランディングギアを下ろそうとした、まさにその瞬間。一つの人影が、ふらりと滑走路に飛び出してきた。 遥は咄嗟に操縦桿を力任せに引き上げる。ランディングギアが、滑走路の縁をガリッと抉るように掠めた。 機体はバランスを失い、凄まじい火花を散らしながら、脇のフェンスに激突した。 遥の体が、計器盤に容赦なく叩きつけられる。 衝撃で、口からどっと鮮血が噴き出した。意識を手放す寸前、遥の網膜に焼き付いた最後の光景は――地面にへたり込む愛椛を、しっかりと胸に抱き止める雷星の姿だった。 こちらへは、一瞥すらくれなかった。 目が覚めたのは、病院のベッドの上だった。 どれほどの時間、眠っていたのかもわからない。 だが、瞼を開けた途端、険しい顔をした雷星に腕を掴まれ、半ば無理やり別の病室へ連れていかれた。 「ひくっ」 ベッドの上の愛椛が、大きな目に涙を溜めたまましゃっくりを漏らしていた。 「あたし、びっくりすると、ひくっ、しゃっくりが止まらなくなっちゃうの。苦しくて、苦しくて……」 全身を苛む痛みで、意識が霞む。遥は自分の耳を疑った。 雷星は遥を真正面から見据え、有無を言わさぬ声で命じた。「遥、愛椛に謝れ。お前の無茶な着陸で愛椛を怖がらせた。そのせいでしゃっくりが止まらなくなっている。早く謝れ」 「……今、何て言った?」 遥はかすれた声で聞き返した。 肋骨は何本か折れている。内臓もどこかがやられているはずだ。 愛椛が「驚いて」しゃっくりが止まらない。ただそれだけのために、自分は病床から引きずり出され、頭を下げろと言われているのか。 遥はその場に立ち尽くした。全身から血の気が引き、指先の小刻みな震えが止まらない。 遥は静かに聞いた。「……もし、謝らないと言ったら?」 雷星の眼差しが、一段暗く沈む。 彼は身を寄せ、二人にしか届かない声で囁いた。 「遥。飛行時間の管理を誤って燃料を切らし、そのうえ俺の命令に背いた。どう考えても非はお前にある。それとも、お前の祖母が明日にでも一般病棟へ移されることを望むのか」 遥は弾かれたように顔を上げ、雷星を睨んだ。 祖母は、遥に残されたたった一人の肉親だった。 三年前、特別療養施設に入っていたおかげで、あの犯人グループの報復だけは免れていたのだ。 自分の口からこぼれ落ちた言葉は、どこか遠く、まるで他人が発した声のように虚ろに響いた。 「……申し訳、ありませんでした」 愛椛のしゃっくりは、嘘のようにピタリと止んだ。雷星の胸元から顔を上げた愛椛が、勝ち誇ったような微笑を遥に向ける。 解放された遥は、強張った足取りで、一歩一歩、自分の病室へと戻っていく。 太腿を伝う、生温い液体の感触に気づいたのは、その途中だった。 すれ違った看護師が悲鳴を上げる。「星野さん、血が、血が出ています!」 遥は俯いた。そこでふと、思い出したのだ。 そういえば、生理がもうひと月以上来ていなかった。 …… 再び目を覚ましたとき、そこにいたのは医師だけだった。 「お加減はいかがですか。精神的なショックも大きかったのでしょう。妊娠六週目ほどでしたが……残念ながら、流産してしまいました。我々も、できる限りの処置は尽くしたのです」 遥はそっと瞼を閉じた。 飛行停止の処分を受け、基地の片隅に追いやられていたこの一年。毎日、証拠を集めることに追われ、雷星の前で最後の尊厳だけは守ろうと必死だった。 月経周期の乱れは、過労と心労のせいだとばかり思っていた。時折襲ってくる吐き気も、ただの胃の不調だと思い込んでいた。 それに、雷星と身体を重ねたのは、たった一度きりだ。 ひと月と少し前のことだった。深夜、酒の匂いをまとった雷星が、遥の部屋の扉を叩いた。 雷星は遥を抱き寄せ、首筋に顔を埋めた。そして、何度も、何度も繰り返した。 「ずっと会いたかった。愛している。ここまで俺を掻き乱した女は、お前が初めてだ」 あの夜、遥はとうとう雷星が自分を愛してくれたのだと信じた。 今にして思えば――あの甘い言葉が向けられていた相手は、最初から自分などではなかったのだ。 第5話 一週間あまりの療養を経て、遥はようやく弱りきった身体を引きずるようにして、職員寮へと戻った。 ドアを押し開けた瞬間、そこにいるはずのない人物の姿が、遥の視界に飛び込んできた。 愛椛が、遥の机の前に座って、のんびりとマニキュアを塗っている。 愛椛は顔も上げずに言葉を放った。「おかえりなさい。ここ最近の騒ぎのせいで、あたし、基地の中で浮いちゃってて。雷星が、しばらくここに住んでいいって。遥先輩が面倒見てくれるからって、ね」 遥は何も答えなかった。雷星のことだから、本当にそんなふうに言ったのだろう。 この一週間、雷星が病室に顔を出した回数など数えるほどで、その大半も電話一本ですぐに呼び戻されていった。もう、どうでもよかった。 遥は黙々と荷物を片付け始めた。そして、ふと手が止まる。 視線が引き寄せられたのは、収納棚の上。そこには、家族四人の骨壺が並んでいたはずだった。だが今は、何もない。 遥は棚の前まで駆け寄り、床に崩れ落ちるように膝をついて、必死に辺りを探した。 愛椛が気だるそうにバルコニーの方へ目を向けた。 「あの壺のこと?部屋の中に置いとくなんて、縁起が悪くて嫌じゃない。だから、外に出しておいたの」 遥は弾かれたように駆け出し、ガラス戸を押し開けた。 バルコニーの隅に、四つの骨壺が無造作に転がされていた。表面には、無数の猫の足跡が泥のようにこびりついている。 壺の一つから、一匹の猫が音もなく飛び出していった。むっとするような獣のアンモニア臭が、鼻の奥を突く。 家族の遺灰は――猫のトイレ代わりにされていたのだ。 遥が指の震えを堪えながら大切に守り続けてきた、ただひとつのもの。亡き家族との絆を、かろうじて繋ぎ止めていた最後の拠り所。 「い、の、う、え、あ、い、か」遥の声は、ぞっとするほど静かだった。 愛椛が立ち上がり、一歩後ずさる。ポケットの中へ、こっそりと手を滑り込ませた。 「な、何する気なの?あんな灰、取っておいたって環境に悪いだけでしょ。むしろうちの猫の役に立てたんだから、ありがたいと思ってほしいくらいなんだけど!」 遥はバルコニーの園芸用の鋏を掴み上げると、愛椛に向かって一息に飛びかかった。 愛椛は金切り声を上げて逃げ惑うが、訓練を積んだ遥から逃げきれるはずもない。 しかし、鋏を振り下ろそうとした、その瞬間。 窓の向こうから、凄まじい轟音が押し寄せた。 一機のヘリコプターが、バルコニーのすぐ外でホバリングしている。素早く開け放たれた機内のドアから、雷星が麻酔銃を構え、身を乗り出していた。 短い発射音。 放たれた麻酔針が、遥の右手に深々と突き刺さる。 意識が闇へと沈んでいく直前、遥は雷星の胸に飛び込んでいく愛椛の姿を見た。 「もう大丈夫だ。俺が来た」 そんな雷星の甘い声が、遠く耳に届いた。 愛椛の手のひらから、小さな緊急通報ボタンが、ぽとりと床に転がり落ちた。 基地司令には、毎年たった一人にだけ、特別な緊急通報装置を与える権限が与えられていた。通常、このGPS付き装置は、最も信頼を置いている部下に配備されるのが通例であった。 雷星はかつて、公の場できっぱりと言い切っていた。「公平を期すため、誰にも支給しない。最高難度の危険任務に就く場合を除いては」 だが、その最高難度の危険任務を何度も任されてきた遥の手に、あのボタンが握らされたことは、ただの一度もなかった。 …… 医務室。 右腕の奥で、骨を抉られるような鋭い痛みが脈打っていた。遥は指を動かそうとしたが、指は一本も意思に応えなかった。 患部を診た医師が、ひどく気の毒そうに告げる。「麻酔針が、神経を直撃しました。後遺症が、残る可能性があります」 「……それは、どういう意味ですか」 医師は遥の痛々しい視線を避け、言い淀みながら答えた。「細かい手先の動作が、難しくなるかもしれません。たとえば、操縦桿を繊細に扱うような動きです」 遥は身じろぎ一つしなかった。ただ、一筋の涙が音もなく頬を伝った。 ドアが開いた。雷星が、申し訳なさそうな表情を貼り付けて入ってくる。 雷星はベッドの脇に腰を下ろすと、もっともらしい口調で言い訳を始めた。 「あの時は、緊急事態だった。万が一お前が愛椛を傷つけていれば、故意傷害罪で軍事法廷にかけられていたところだ。 遥。すべて、お前のためを思ってのことだ。お前は俺の婚約者で、あと一週間で入籍を控えている身だ。自分の未来を自分で台無しにするのを、黙って見ているわけにはいかなかった」 遥はただ静かに雷星の顔を見つめ、一言も返さなかった。 雷星はなおも言葉を継ぐ。「それに、愛椛は俺が初めて救い出した人質だ。俺には、あの子に対する責任がある。だが、遥。お前は愛椛とは違う――」 「言い訳なら結構よ。出て行って」遥は淡々と言い切ると、静かに瞼を下ろした。 雷星はその場に立ち尽くし、ベッドの上で青ざめた顔をした女を見下ろしていた。 その静けさが、雷星の胸の奥に、得体の知れない焦りを呼び起こす。 ――これは、俺の知っている遥ではなかった。 第6話 俺のために泣き、笑い、すべてを捧げてきた遥の面影は――もう、どこにも残っていないように見えた。 雷星は、胸の奥に湧いた得体の知れない違和感を押し殺し、背を向けた。 「ゆっくり休め。明日また来る」 ドアが閉まった。 右腕の痛みが波のように押し寄せてくる。そのとき、枕元のスマホが鋭く鳴った。療養施設からの、緊急着信だ。 遥は手首の痛みも構わず、すがりつくようにして電話に出た。 職員の声が、明らかに上ずっていた。 「星野さん、おばあ様の容態が急変しました。現在は蘇生処置を行っていますが、非常に厳しい状況です。すぐに来ていただけますか……これが、最期になるかもしれません」 遥の心臓が、凍りついたように跳ねた。 遥は手の甲に刺さっていた点滴の針を乱暴に引き抜き、もつれる足でベッドから転げ降りて、病室を飛び出した。 ところが、エレベーターの前で――雷星が、青ざめた顔で遥の行く手を塞いだ。 「どいて!おばあちゃんが危ないの……!」遥は掠れた声で叫び、雷星の脇をすり抜けようとした。 雷星の手が、遥の腕を強く掴む。振りほどけない力だった。 「愛椛が拉致された。奴らの狙いは俺だ。お前が身代わりに行け。今すぐだ」 「離して、お願いだからどいて!」遥は腕を振ろうとしたが、外れない。涙声で懇願するしかなかった。「お願い、一晩だけ。たった一晩だけでいいから……!」 「時間がない」 雷星は、ほとんど引きずるようにして遥を車へ押し込んだ。 「お前の祖母には、俺が最高の医療チームを手配する」 足元がもつれた。負傷した右手が壁に激しくぶつかる。骨の奥を抉られるような痛みに、遥の視界が一瞬、真っ暗になった。 「雷星……お願い……」 遥の声は、震えていた。 もちろん、何の役にも立たなかった。遥の痛みも、嘆きも、雷星の心には、もう届かない。 泣きながらの懇願に、雷星はほんの一瞬だけ足を止め、遥の額に形ばかりの口づけを落とすと、おざなりな約束を残した。「必ず、迎えに来る」 廃工場の中。 遥は、愛椛の身代わりとして、犯人たちの手に引き渡された。 だが、丸三日が過ぎても、雷星は現れなかった。 犯人たちの忍耐も、そこで尽きた。 肋骨を殴り折られた。右の手首は、刃物で筋を断ち切られた。 遥は痛みに耐えるため自分の唇を噛み破り、もう声を出すことすらできなくなっていた。 ただ、虚ろな瞳だけが、扉の方へと向けられていた。 おばあちゃんは、無事だろうか。雷星が助けに来ないのは、もしかして、おばあちゃんの傍についていてくれているからなのだろうか。 四日目の明け方。外から、慌ただしい足音と怒声が響いてきた。 扉が蹴破られ、見覚えのある顔ぶれが雪崩れ込んでくる。基地の同僚たちだった。 遥の無惨な姿を目にした彼らは、一様に息を呑んだ。 ストレッチャーに乗せられる間際。誰かが、押し殺した声で囁くのが、遥の耳に届いた。 「昨日、菅野司令はもう敵の包囲を突破していたはずなんだ。それなのに……」 「愛椛さんの飼い猫が逃げ出したとかで、途中で作戦を放棄して引き返したらしいぞ……」 救急処置室に運び込まれそうになった遥は、虚ろな意識の中で必死に首を振り、どうしても祖母のいる病院へ行かせてくれと懇願した。 いたたまれなくなった看護師が、そっと身を寄せ、声を落として告げた。「星野さん……おばあ様は、今朝方、息を引き取られました。最期まで……ずっと、あなたのお名前を呼んでおられました」 …… 遥は、霊安室の冷たい床に、そのまま膝を落とした。 涙は、出なかった。ただ胸の奥が塞がり、息をすることさえできない。 次の瞬間、喉の奥からどっと大量の鮮血が噴き上がり、遥はそのまま暗闇へと意識を手放した。 ふたたび目を覚ましたとき、そこは病室のベッドの上だった。 遥が目を開けたのに気づき、雷星が立ち上がる。 「起きたか」 遥は雷星を見たまま、何も答えなかった。 雷星の声は、まるで任務報告のように平坦だった。「お前の祖母のほうには、最高の医療チームを手配してある。だから、もう心配はいらない」 遥は、不意に笑いたくなった。口角がわずかに動いたが、結局、笑いにはならなかった。 雷星は、たった一匹の猫のために引き返した男だ。そしていまだに、祖母がもうこの世にいないことさえ、知らないのだ。 雷星は、遥の異様な静けさが引っかかったのか、わずかに眉を寄せた。 「明日は、俺たちが結婚する日だ。疲れているなら、ゆっくり休め」 雷星は踵を返し、歩き出そうとして――もう一度、足を止めた。 「遥。結婚さえすれば、お前は俺の妻だ。お前を俺の飛行パートナーにする件も、俺が何とかする」 ドアが、静かに閉じた。 遥はゆっくりと身を起こし、手の甲の針を、ためらいなく引き抜いた。 患者衣を脱ぎ捨て、自分の服に着替え、リュックを背負う。中には、五つの小さな骨壺が収まっていた。 両親のもの。弟と妹のもの。そして――おばあちゃんのもの。 病室を出るとき、遥はベッドの上に三つのものを残していった。 一つ目は、退職届。 二つ目は、最高軍事法廷の内部告発システムから届いた、審査完了通知。 三つ目は、一枚の白いお守り。 あの日、雷星が遥を救い出したときに、遥の手に握らせた証だった。 ――そんなもの、もう要らない。