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君を幸せにできなかった
結婚して五年。久瀬悠真(くぜ はるま)は、ひとりの女子大生に心を奪われた。 貧しい家庭に育ちながらも、彼女はどこまでも凛としていた。 彼...
Chương (1)
第1章
結婚して五年。久瀬悠真(くぜ はるま)は、ひとりの女子大生に心を奪われた。
貧しい家庭に育ちながらも、彼女はどこまでも凛としていた。
彼女は悠真が差し出したブラックカードにも目もくれず、「誰かに飼われるような生き方はしません」と言い放った。
その瞬間、悠真は彼女に囚われた。
彼は世間の目も顧みず、その女子大生に猛アタックを始めた。
だが、家で待つ妻のことは忘れていた。
かつて九十九通ものラブレターを捧げ、ようやく振り向かせた最愛の妻――青柳穂乃香(あおやぎ ほのか)のことを。
穂乃香は泣き叫ぶことも、責め立てることもしなかった。
ただ、悠真が彼女を傷つけるたびに、かつて彼から贈られたラブレターを一通ずつ燃やした。
九十九通すべてが灰になったとき、穂乃香は二度と悠真のもとへは戻らない。
一通目を燃やしたのは、結婚記念日の夜だった。
悠真は穂乃香との約束を破り、女子大生が働くカフェへ向かった。
閉店までただ席に座り、女子大生の仕事が終わるのを待つためだけに。
三十六通目を燃やしたのは、穂乃香が四十度の熱を出した夜だった。
土砂降りの高速道路で彼女を置き去りにした悠真は、雷を怖がる女子大生のもとへ急いだ。
七十二通目を燃やしたのは、リビングから二人の結婚写真が消えた日だった。
悠真は女子大生を喜ばせるため、思い出の写真を外し、代わりに彼女が何気なく描いた落書きを飾った。
第1話
結婚して五年。久瀬悠真(くぜ はるま)は、ひとりの女子大生に心を奪われた。
貧しい家庭に育ちながらも、彼女はどこまでも凛としていた。
彼女は悠真が差し出したブラックカードにも目もくれず、「誰かに飼われるような生き方はしません」と言い放った。
その瞬間、悠真は彼女に囚われた。
彼は世間の目も顧みず、その女子大生に猛アタックを始めた。
だが、家で待つ妻のことは忘れていた。
かつて九十九通ものラブレターを捧げ、ようやく振り向かせた最愛の妻――青柳穂乃香(あおやぎ ほのか)のことを。
穂乃香は泣き叫ぶことも、責め立てることもしなかった。
ただ、悠真が彼女を傷つけるたびに、かつて彼から贈られたラブレターを一通ずつ燃やした。
九十九通すべてが灰になったとき、穂乃香は二度と悠真のもとへは戻らない。
一通目を燃やしたのは、結婚記念日の夜だった。
悠真は穂乃香との約束を破り、女子大生が働くカフェへ向かった。
閉店までただ席に座り、女子大生の仕事が終わるのを待つためだけに。
三十六通目を燃やしたのは、穂乃香が四十度の熱を出した夜だった。
土砂降りの高速道路で彼女を置き去りにした悠真は、雷を怖がる女子大生のもとへ急いだ。
七十二通目を燃やしたのは、リビングから二人の結婚写真が消えた日だった。
悠真は女子大生を喜ばせるため、思い出の写真を外し、代わりに彼女が何気なく描いた落書きを飾った。
九十五通目のラブレターを燃やしたのは、船上オークションの日だった。
悠真は、穂乃香の母の形見を落札するため、彼女に付き添って会場に来ていた。
その形見とは、母が生前、何より大切にしていたブルーサファイアのネックレスだ。
けれどオークションが始まった直後、悠真は会場でアルバイトをしている例の女子大生を見つけてしまった。
彼女がそのネックレスにちらりと目を留めただけで、悠真は迷わず競り上げた。
誰も手が出せないような高値で落札すると、その場で彼女に差し出した。
「気に入ったみたいだったから、買った」
低く甘い声で、彼は尋ねた。
「嬉しい?」
女子大生は給仕係の制服を着たまま、毅然とした態度で悠真の手を押し返した。
「申し訳ありませんが、私は以前にも申し上げました。
上流階級の暮らしにも、誰かに囲われることにも興味はありません。
何を贈られても気持ちは変わりませんので、そのネックレスはお引き取りください。
仕事の邪魔をなさらないでください」
そう言うと、彼女は空になったグラスを手に、背を向けて歩き去った。
悠真は怒るどころか、かすかに笑った。
そして周囲の視線も構わず、彼女を追って出ていった。
穂乃香の胸が、きりきりと痛んだ。
二秒ほど呆然と立ち尽くしたあと、彼女もまた後を追って駆け出した。
海風が吹き荒れる甲板で、悠真はまだ白石寧々(しらいし ねね)に言い寄っていた。
だが、彼女がどうしても受け取ろうとしないとわかると、彼はあっさりとネックレスを放り投げた。
途方もない価値を持つブルーサファイアのネックレスが、何でもないもののように海へ投げ捨てられた。
「気に入らないなら、別のものを選ぶよ」
その声は、信じられないほど優しかった。
「君が気に入るまで、いくらでも選べばいい」
言い終えると、彼は振り返りもせず女子大生の後を追って去っていった。
その背後で、穂乃香が手すりを乗り越えていたことにも気づかないまま。
彼女は迷わず、黒く冷たい海へ身を投げた。
海水が鼻の奥へ流れ込んだ瞬間、穂乃香はふと五年前のことを思い出した。
彼にプロポーズされたのも、こんなふうに海の上を進む船の中だった。
あのとき悠真は言った。
「穂乃香。これから先、君が空の星を欲しいと言うなら、俺が取ってきてあげる」
けれど今の彼は、彼女の母の形見さえ、ためらいもなく海へ捨てる。
穂乃香が冷たい海から這い上がれたのは、夜が明ける頃だった。
ネックレスはしっかりと手の中に握りしめていた。
海水に濡れた宝石はかえって澄んだ光を放っていたが、彼女の指は冷えきって、感覚を失いかけていた。
帰りの車の中、穂乃香はスマホを開いた。
SNSには、彼らの知人たちの投稿が次々と流れてくる。
【悠真、今回は本気で落ちたな。給仕係の子にアプローチして、あそこまで騒ぎになるなんて】
【奥さんを口説いてた頃でも、ここまでじゃなかったんじゃないか?】
その文字を見た瞬間、穂乃香の指が止まった。
胸の奥を、細い糸できつく締めつけられるようだった。
そうだ。
かつて悠真が穂乃香にアプローチしていた頃、彼は九十九通のラブレターを書き、九十九回想いを告げた。
そうしてようやく、穂乃香は彼の手を取ったのだ。
学生時代から恋を育み、やがて夫婦になった。
結婚後も二人は誰もが羨むほど仲睦まじく、周囲は皆、悠真は穂乃香に心底惚れ込んでいるのだと言っていた。
それが変わったのは、結婚して五年目のことだった。
悠真が病院で点滴を受けた日、ひとりの不器用な実習生と出会った。
彼女は何度も針を刺し損ね、悠真の手の甲は青紫に腫れた。
それでも彼は怒らなかった。
むしろ、慌てふためく彼女をじっと見つめ、笑った。
その日から、悠真は彼女に金を使い、車を贈り、家まで用意しようとした。
囲ってそばに置くつもりだったのだ。
けれど彼女は、きっぱりとした表情でそれを拒んだ。
「久瀬さん。私は上流階級の暮らしに興味はありません。どうかご自重ください」
それどころか、穂乃香の前に現れて、こう言ったことさえある。
「ご主人をきちんと見ていていただけませんか。
もう私に付きまとわないよう、あなたからも言ってください」
相手がほかの誰かなら、悠真はとっくに怒りを露わにしていただろう。
だが彼女に対してだけは違った。
彼は腹を立てるどころか、ますます執着を深めていった。
穂乃香が問い詰めると、悠真は少しも悪びれずに言った。
「彼女、面白いんだ。少し遊んでいるだけだよ。飽きたら戻るから。
穂乃香、愛しているのは君だ。でも、一生ひとりだけを愛し続けるのは難しい。
ほんの少し気持ちが揺れるくらい、許してくれ」
穂乃香は胸が裂けるほど苦しかった。
それでも、彼から離れることができなかった。
だから彼女は、あの九十九通のラブレターを取り出した。
彼に九十九回だけ、機会を与えることにしたのだ。
彼が自分を傷つけるたびに、一通ずつ燃やす。
すべて燃え尽きたその日こそ、彼を完全に手放す日だと決めて。
今、穂乃香はライターに火をつけ、九十五通目のラブレターを燃やした。
炎が紙をのみ込んでいくのを見つめながら、彼女は思った。
残された機会は、あと四回。
車が家に着き、穂乃香が玄関を入ると、悠真が階段の上に立っていた。
彼は伏し目がちに彼女を見下ろし、静かに言った。
「帰ってきたんだ。話がある」
穂乃香はうなずいた。
これまで幾度となくそうしてきたように、何の疑いもなく階段を上った。
だが、彼の前まで来たその瞬間。
悠真は突然手を伸ばし、彼女の体を力任せに突き飛ばした。
「きゃ……!」
穂乃香は階段を転げ落ちた。
後頭部を段に強く打ちつけ、額から流れた温かな血が視界をにじませる。
痛みに体を震わせながら、彼女は信じられない思いで悠真を見上げた。
悠真はゆっくりと階段を下りてくると、彼女の前にしゃがみ込み、頬についた血を指で拭った。
「穂乃香、少しだけ我慢して。
彼女、最近看護の仕事を探しているんだ。
君が怪我をしてくれれば、彼女をこの家に住まわせる理由ができる」
第2話
穂乃香は、悠真が寧々のためにここまでするとは思ってもみなかった。
彼女にアプローチするためなら、自分の妻を傷つけることさえためらわないなんて。
激痛の中で何かを言おうとした瞬間、穂乃香の視界は暗くなり、そのまま意識を失った。
次に目を覚ましたとき、後頭部に鋭い痛みが走った。
穂乃香は痛みに耐えながら、ゆっくりと目を開けた。
視界に映ったのは見慣れない天井で、ここがどこなのか、自分がどれほど眠っていたのかもすぐにはわからなかった。
「奥様、お目覚めですか」
冷ややかな声が聞こえた。
穂乃香が顔を向けると、寧々がベッドのそばに立っていた。
手には救急箱を提げている。
寧々はシンプルな白いTシャツにジーンズ姿で、高めのポニーテールを結んでいた。
化粧っ気のない顔には、若さ特有のみずみずしさがにじんでいる。
「今日から看護を担当する白石寧々です」
彼女の表情は落ち着いていたが、口調にはどこか距離を置くような冷たさがあった。
「この家に住み込むことになりましたが、久瀬さんのことは奥様のほうできちんと見ていてください。
もしまた一線を越えるようなことがあれば、私はすぐに出ていきます」
穂乃香の胸がずきりと痛んだ。
なんて皮肉なのだろう。
この女は自分の家に住み込んでおきながら、家の女主人である穂乃香に向かって「夫をきちんと見ていろ」と言うのだ。
「看護の方を替えて」
穂乃香の声はかすれていた。
だが寧々は聞こえなかったかのように、勝手に注射器を取り出した。
「抗生剤を打ちますね」
一度目は、血管に当たらなかった。
二度目は針先がずれ、手の甲がすぐに小さく腫れ上がった。
三度目には、ついに血がにじんだ。
「できないなら、ほかの人を呼んで」
痛みで、穂乃香の声は震えていた。
その言葉を聞いた途端、寧々の目が赤くなった。
「どういう意味ですか。
祖母の病気が重くなければ、私だってこんなところに来たくありませんでした」
悔しさをこらえるようにそう言うと、寧々は再び穂乃香の手を取ろうとした。
その拍子に、針先が肌を大きくかすめた。
白い手首に傷が走り、血が伝い落ちる。
痛みに耐えきれず、穂乃香は思わず彼女を押しのけた。
「もうやめて!触らないで!」
寧々はよろめいて後ずさりし、薬の載ったトレイをひっくり返した。
ガラス瓶が床に落ち、砕け散る。
その瞬間、部屋の扉が勢いよく開き、悠真が大股で入ってきた。
「何があった」
彼の視線が二人の間を行き来し、最後に床に座り込んだ寧々で止まった。
その顔色が、みるみる変わる。
「歓迎されていないようなので、私は出ていきます!」
寧々は目を赤くしたまま立ち上がり、部屋を飛び出そうとした。
悠真はすぐに彼女の腕をつかんだ。
「誰がそんなことを言った」
寧々はもがいて、彼の手を振り払った。
「奥様です!私は注射をしようとしただけなのに、突き飛ばされました。
少し不慣れなだけです。それは最初からわかっていたことですよね?」
悠真はすぐに穂乃香の赤く腫れた手の甲を見た。
その目には、たしかに一瞬だけ痛ましげな色がよぎった。
けれど寧々へ視線を戻したとき、それはあっけなく譲歩へと変わっていた。
「どうすれば残ってくれる?」
彼は声を低くして、なだめるように尋ねた。
寧々は顎を上げた。
「私は、あなたたちお金持ちのそういう見下した態度が一番嫌いなんです。
奥様に謝っていただきたいです」
「穂乃香」
悠真は穂乃香に向き直った。
その声には、逆らうことを許さない響きがあった。
「謝ってくれ」
穂乃香は信じられない思いで彼を見つめた。
「ここまで手を傷だらけにされたのに、私が謝るの?」
悠真の目が、すっと暗くなった。
「嫌なら、君の両親の会社のことを考えるんだな」
穂乃香の全身から血の気が引いた。
「彼女のために……私を脅すの?」
「穂乃香、ただ謝るだけだろう」
悠真は苛立たしげに眉をひそめた。
「謝ったところで、体がどうにかなるわけじゃない。
両親の会社が潰れていくのを、君は本当に黙って見ているつもりか?」
その瞬間、穂乃香の胸は無数の矢に射抜かれたようだった。
彼女は下唇を強く噛みしめた。血の味が口の中に広がる。
悠真の表情がますます冷たくなっていくのを見て、穂乃香はようやく悟った。
彼は本気なのだ。
穂乃香は震える体でどうにかベッドから起き上がり、屈辱に耐えながら、寧々に向かって深く頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
寧々は眉を寄せた。
「お金持ちの方って、謝るときもそんなに小さな声なんですか?」
穂乃香の爪が、手のひらに深く食い込む。
彼女はもう一度腰を折り、今度は声を張った。
「申し訳ありませんでした。これで満足ですか」
寧々がしぶしぶうなずくのを見て、ようやく悠真の表情が和らいだ。
彼は壊れものでも扱うように寧々をなだめ、手当てを受けさせるために連れていった。
扉が閉まった瞬間、穂乃香はもう体を支えていられなくなった。
床に崩れ落ち、声もなく涙を流した。
やがて彼女は枕の下から、黄ばんだ一通のラブレターを取り出した。
震える手で火をつけた。
炎が九十六通目のラブレターをのみ込んでいくのを見ながら、穂乃香はこの手紙を書いていた十六歳の悠真を思い出した。
大学の桜並木の下で、まだ若かった悠真は耳まで赤くして彼女に手紙を押しつけ、こう言ったのだ。
「穂乃香、俺と付き合ってくれないかな。これから一生、大切にするから」
炎が燃え尽きようとしたそのとき。
部屋の扉が突然開いた。
「何を燃やしている?」
第3話
穂乃香は、燃え残ったラブレターの切れ端を手の中に握りしめた。
炎の余熱が、掌をじりじりと焼いている。
「何でもないわ。もう必要のないものを燃やしていただけよ」
悠真は眉をひそめ、燃え残った紙片を見つめた。
どこか見覚えがあるような気がした。
けれど彼がそれを深く考えるより先に、寧々の声が廊下から飛んできた。
「久瀬さん、結局パーティーには行くんですか?早くしないと、私も行きません!」
穂乃香は顔を上げた。
「パーティー?」
「彼女を仲間内に紹介したいんだ」
悠真はそこで少し間を置いた。
「でも、彼女は君の看護係だからって、君が行かないなら自分も行かないと言っている。
穂乃香。一緒に来てくれ」
穂乃香の胸に、重い槌を打ち込まれたような衝撃が走った。
彼女は力なく笑った。
「悠真。あなたにとって、私はいったい何なの?」
彼は一瞬、言葉に詰まったようだった。
しばらくしてから、ようやく口を開いた。
「穂乃香、前にも説明しただろう。
あんなに思いどおりにならない女は、今まで出会ったことがない。だから興味があるだけだ。
彼女に嫉妬する必要はない。口説き落として、飽きたら、ちゃんと君のところに戻るから」
穂乃香はゆっくりと目を閉じた。
胸の奥は、もう痛みさえ感じなくなっていた。
結局、穂乃香は悠真に半ば強引に連れ出された。
車の中で、寧々がふいにバッグから白い錠剤を数粒取り出した。
「奥様、抗生剤です。飲めば早くよくなります」
穂乃香はその錠剤を見つめたまま、手を伸ばさなかった。
「本当に抗生剤なの?」
寧々の顔色が変わった。
「そんなに私が信用できないなら、もう何も言うことはありません」
「穂乃香」
悠真は眉をひそめ、すぐさま寧々をかばうように言った。
「薬を飲め」
冷たい視線を向けられ、穂乃香はどっと疲れを覚えた。
彼女は一度目を閉じ、結局その薬を受け取って、水と一緒に飲み込んだ。
会員制クラブの個室には、悠真の友人たちがすでに集まっていた。
三人が入ってくるなり、彼らは一斉に冷やかしの声を上げた。
「悠真、やっと白石さんを連れてきたのか!」
「この子が、悠真を夢中にさせている白石さん?たしかに一味違うな!」
穂乃香は部屋の隅に腰を下ろした。
かつて、自分と悠真の恋を同じように盛り上げていたこの人たちを見ていると、胸が何度も引きつるように痛んだ。
「白石さん、悠真は本気だよ」
ひとりの御曹司が笑いながら言った。
「君が欲しいと言えば、星だって取ってくるんじゃないか?」
寧々は信じられないという顔をした。
「本当ですか?」
半信半疑の彼女に、周囲は「試してみれば」と囃し立てる。
「じゃあ……あなたのガレージで一番高い車を、この人にあげてください」
寧々は悠真の友人のひとりを指さした。
悠真は何も言わずに笑い、車のキーをその友人に投げ渡した。
個室に歓声が上がった。
その後も寧々は何度か試すように、時計や家を求めた。
悠真はそのたびに、甘やかすように応じた。
個室の空気は一気に盛り上がった。
「見ただろう?悠真は本気なんだよ。そろそろ折れて、悠真の愛人になってやれば?」
寧々はきっぱりとした表情で首を振った。
「あり得ません。私は絶対に誰かに囲われるような生き方はしません。
これ以上そういうことを言うなら、帰ります」
彼女が本当に出ていくのを恐れた周囲は、慌てて話題を変え、ゲームを始めようと言い出した。
ゲームが始まると、彼らは毎回わざと寧々を負けさせた。
罰ゲームは、悠真の膝に座ることだったり、彼と指を絡めて手を繋ぐことだったりした。
そして寧々が十回目に負けたときの罰ゲームは、左隣の異性と三分間キスをすることだった。
個室は歓声に包まれた。
悠真は、ちょうど寧々の左隣に座っていた。
寧々の表情が一瞬でこわばった。
彼女は勢いよく立ち上がった。
「わざとでしょう?こんなことをするなら、もう遊びません」
「ただの遊びだって。そんなに本気にするなよ」
「そうそう。俺たちがイカサマなんてするわけないだろ。
悠真は何兆円もの資産を持つ男だぞ。そんな子どもみたいな真似、すると思うか?」
穂乃香はグラスを強く握りしめた。
悠真の口元に浮かぶ笑みを見つめながら、心の中でつぶやいた。
するに決まっている。
寧々と触れ合う口実を作るためなら、何兆円もの資産を持つ彼でさえ、友人たちと組んでこんな幼稚な芝居をするのだ。
彼がこんなことをしているのを見たのは、穂乃香にアプローチしていた頃以来だった。
胸の奥を鈍い刃でゆっくり切り裂かれているようだった。
痛みで血が流れている気がする。
それ以上に苦しかったのは、呼吸が少しずつしづらくなってきたことだった。
穂乃香は苦しさに胸を押さえた。
そこで初めて、自分の腕にいつの間にか恐ろしいほどの赤い発疹が広がっていることに気づいた。
明らかに、アレルギー反応だった。
普段から口にするものには細心の注意を払っているはずなのに。
息がどんどん吸えなくなっていく。
朦朧とする意識の中で、彼女は寧々に渡された薬のことを思い出した。
周囲の冷やかしの声に押されるように、寧々は素早く悠真の頬に口づけた。
だが悠真は、明らかにそれでは満足していなかった。
彼は突然、寧々の後頭部を押さえた。
「それでキスのつもりか?本当のキスがどういうものか、教えてやる」
次の瞬間、穂乃香の目の前で、二人の唇と舌が深く絡み合った。
悠真の指が寧々の長い髪の中へと差し込まれていく。
彼はまったく気づいていなかった。
自分の妻の発疹がすでに首元まで広がり、呼吸がどんどん荒くなっていることに。
「悠真……」
穂乃香は必死に彼の腕をつかんだ。
「病院に……連れていって……アレルギーが……」
「騒ぐな」
悠真は振り返りもせず、彼女の手を払いのけた。
もう片方の手は、まだ寧々のうなじを押さえている。
「お願い……」
穂乃香はもう一度、彼の服の裾をつかんだ。
声はすっかりかすれていた。
今度は、悠真が彼女の手を乱暴に振り払った。
そして寧々をソファへ押し倒すようにして、さらに深く口づける。
そのキスは、しだいに激しくなり、熱を帯び、離れがたいものになっていった。
彼がそのゲームに夢中になっている間に、穂乃香の視界はぼやけ始めた。
足元がふらつき、彼女はよろめいてシャンパンタワーへ倒れ込んだ。
グラスが砕け散る音の中で、ようやく寧々の悲鳴が響いた。
「奥様が倒れてます!」
第4話
次に目を覚ましたとき、穂乃香は病院のベッドに横たわっていた。
扉の外から、寧々のすすり泣く声が聞こえた。
「どうしましょう……抗生剤と間違えて、睡眠薬を飲ませてしまいました。そんなつもりじゃなかったのに……
本当に何かあったら、重大な医療事故になりますよね……」
続いて、悠真の優しい声がした。
「怖がらなくていい。俺がいる。君に責任は取らせない。
たとえ本当に問題になったとしても、俺が家族として示談書にサインすればいい」
穂乃香は唇を強く噛みしめた。
血の味が口の中に広がる。
それからどれほど経ったのか、病室の扉が開き、悠真が入ってきた。
「私……どうなったの?」
穂乃香は震える声で尋ねた。
「どうして倒れたの?」
「低血糖だ」
その言葉を、彼自身の口から聞いた瞬間、穂乃香は自分の心が音を立てて砕けるのを聞いた気がした。
結婚したばかりの頃のことを、今でも覚えている。
ある名家の令嬢が酒の席でわざと穂乃香に酒を飲ませたことがあった。
すると翌日、悠真はその相手の会社の株価をストップ安に追い込んだ。
その令嬢が穂乃香の前で膝をついて謝ったとき、悠真は彼女の腰を抱き寄せて言った。
「穂乃香。俺がいる限り、誰にも君の指一本触れさせない」
それなのに今、穂乃香は寧々の過失で死にかけたというのに、彼はまだその張本人をかばっている。
悠真――あなたは、どうしてここまで私を傷つけられるの。
痛みで体が震えそうだった。
けれど悠真は、彼女の異変に少しも気づかなかった。
穂乃香に大事がないとわかると、彼は待ちきれないように立ち上がった。
「寧々は君のことで一晩中不安がっていた。先に彼女を送ってくる。あとでまた来るよ」
けれど、それから数日が過ぎても、穂乃香が彼に会うことはなかった。
目に入ってくるのは、SNSに流れてくる写真ばかりだった。
悠真が寧々を連れて海辺へ行き、コンサートへ行き、かつて穂乃香と「いつか一緒に行こう」と約束していた場所を、ひとつずつ巡っている写真だった。
退院の日になって、悠真はようやく姿を見せた。
彼は菊の花束を抱え、車にもたれていた。穂乃香が出てくると、その花束を差し出した。
「最近、会社のことで忙しくて付き添えなかった。
今日はお義母さんの命日だろう。一緒に行くよ」
穂乃香は黙って花を受け取った。
そのとき初めて、車の中に寧々も乗っていることに気づいた。
穂乃香は見なかったことにして、後部座席に乗り込んだ。
窓の外を流れていく景色を眺めながら、母が亡くなる前に言っていた言葉を思い出す。
「穂乃香。お母さんはね、あなたを心から愛してくれる人を見つけてほしいだけよ」
穂乃香はバッグの中に残された三通のラブレターにそっと触れた。
胸の奥に、苦い思いが込み上げる。
お母さん――私、人を間違えてしまったみたい。
霊園に着いてすぐ、穂乃香は墓前に手を合わせる間もなく、思いがけない知らせを受けた。
「青柳様、誠に申し訳ございません。
ここのところ雨が続き、土砂崩れの危険が高まっておりまして……この一帯のお墓は、すべて移転していただく必要がございます」
穂乃香は手にしていたバッグを強く握りしめた。
指の関節が白くなる。
母は生前、静かな場所を何より好んでいた。
それなのに、亡くなってからでさえ安らかに眠ることができないのか。
いつの間にか、悠真が穂乃香の背後に立っていた。
彼は係員から差し出された書類を受け取り、流れるような筆跡で名前を書き込んだ。
「穂乃香。君は先に遺骨を下ろしてきて。俺は墓の移転手続きを済ませてくる」
穂乃香はうなずき、山の上へ向かった。
雨で濡れた石段を、弱りきった体で上っていく。
一歩進むたび、足の裏に刃が食い込むようだった。
母の墓の前では、すでに係員が土を掘り返していた。
穂乃香はぬかるんだ地面に膝をつき、自分の手で母の骨壺を抱き上げた。
それは素朴な天然石の壺だった。
表には、母の名前が刻まれている。
青柳香澄(あおやぎ かすみ)。
「お母様、生前はきっとお綺麗な方だったんでしょうね」
不意に、寧々が口を開いた。
そして手を伸ばす。
「奥様、私が持ちます」
「結構よ」
穂乃香は身を引いて彼女の手を避け、骨壺を大切に抱えたまま、慎重に石段を下りていった。
そのときだった。
寧々が突然、悲鳴を上げた。
「きゃっ!虫!」
慌てた彼女が、勢いよく穂乃香にぶつかってきた。
不意を突かれた穂乃香は、そのまま石段を転げ落ちた。
それでも彼女は骨壺だけは必死に抱きしめた。
背中を石段に強く打ちつけ、痛みで目の前が真っ暗になる。
「ごめんなさい、ごめんなさい!わざとじゃないんです!」
寧々は慌てて駆け下りてきた。
「私が拾います!」
彼女は骨壺に手を伸ばした。
しかし、穂乃香が止める間もなく、寧々は足を滑らせた。
次の瞬間、鈍い音が響いた。
骨壺は地面に叩きつけられ、無残に砕け散った。
灰白色の遺灰があたりにこぼれ、雨に濡れて、たちまち泥に染み込んでいく。
「ごめんなさい!す、すぐ片づけます!」
寧々は取り乱した様子で遺灰をすくい集めようとした。
けれど触れれば触れるほど、遺灰は泥と混ざり、さらに散らばっていく。
降りしきる雨に流され、母の遺灰が少しずつ土の中へ消えていった。
穂乃香の全身が震えた。
もう耐えられなかった。
彼女は寧々の頬を、力いっぱい打った。
「もうやめて!わざとなんでしょう?」
寧々は頬を押さえた。
その目から、すぐに涙があふれ出す。
「違います!私はただ手伝おうとしただけです。
少し不器用だったかもしれません。でも、善意だったんです。
それなのに、どうして責められなきゃいけないんですか。
私はお金がないからって、あなたたちにここまで辱められなきゃいけないんですか?
あなたはお母様の遺灰を失っただけでしょう。
でも私は、尊厳を失ったんです!」
絶望が、穂乃香の頭のてっぺんまで突き上げた。
彼女がもう一度手を上げた瞬間、その腕を強い力でつかまれた。
悠真が、いつの間にかそこに立っていた。
彼は穂乃香の手首をきつくつかみ、怒鳴った。
「穂乃香!何をしている!」
寧々はこらえきれないというように泣き出した。
涙に濡れた顔で、彼に訴える。
「私は、ただ骨壺を運ぶのを手伝おうとしただけなんです……
うっかりこぼしてしまっただけなのに……奥様が私を……
みなさんがそんなに私を受け入れられないなら、私はもう出ていきます」
寧々が一歩踏み出した瞬間、悠真は彼女を腕の中に引き寄せた。
「行くな。君のために、俺がきちんとけじめをつける」
そう言ってから、彼は冷たい目で穂乃香を見た。
「謝れ」
雨が穂乃香の頬を伝い落ちる。
涙と混ざり、どこまでが雨で、どこからが涙なのかもわからなかった。
悠真は寧々の涙を痛ましげに拭いながら、その一方で穂乃香に怒鳴り、謝罪を迫っている。
その光景に、穂乃香の心は生きたままえぐり取られるようだった。
彼女は、唇の震えを抑えきれないまま、彼をにらみつけた。
「悠真……今、聞いていなかったの?彼女は、私の母の遺灰をぶちまけたのよ」
「だからといって、手を上げていい理由にはならない」
悠真の声は、降りつける冷たい雨よりも冷えきっていた。
彼は寧々の手首をつかみ、低く告げた。
「怖がらなくていい。彼女が謝らないうえに君を叩いたのなら、君も叩き返せばいい」
穂乃香は目を大きく見開いた。
何が起きるのか理解するより早く、悠真の節の立った大きな手が寧々の手を包み込んだ。
そしてその手を凄まじい勢いで、穂乃香を容赦なく張り飛ばした。
乾いた音が、雨の中に響く。
その一発は、穂乃香が寧々を打ったときの十倍は重かった。
第5話
穂乃香はよろめきながら後ずさった。
世界がぐるぐると回っている。
腰が硬い墓石にぶつかり、膝を石段に強く打ちつけた。
鋭い痛みが、全身に弾けるように広がる。
けれど、そんな痛みなど、胸の痛みに比べれば何でもなかった。
心を生きたまま二つに引き裂かれるような苦しさに、息が詰まりそうだった。
それでも悠真は、彼女に一瞥もくれなかった。
ただ寧々に顔を寄せ、指先で彼女の頬を伝う雨を拭った。
「少しは気が済んだ?」
寧々が涙声で「はい」と答えるのを聞いて、悠真はようやく安堵したように息をついた。
そして自分の上着を脱いで寧々を包むと、そのまま彼女を横抱きにしたた。
踵を返したとき、彼の革靴が地面に散らばった遺灰を踏みつけた。
そこには、目を背けたくなるような足跡が残った。
穂乃香は雨の中に座り込んだまま、全身が千切れるような痛みの中で、ただ震えていた。
震える手を伸ばし、灰白色の粉をすくい上げようとする。
けれど雨の流れはあまりにも速かった。
まるで、彼女と悠真が重ねてきた年月のように。
どれほど必死に手を伸ばしても、もうつかむことはできなかった。
「お母さん……私が間違ってた……」
嗚咽まじりの声が、雨音にかき消されていく。
「結婚する相手を間違えたの。あの人と結婚するべきじゃなかった……」
残された遺灰をどうにか集め終えると、穂乃香はバッグの中から九十七通目のラブレターを取り出した。
震える手で火をつける。
炎が紙をのみ込んでいくのを見つめながら、彼女は思い出していた。
あの年、病床の母に向かって、悠真が約束した言葉を。
「ご安心ください。俺は命に代えても穂乃香を守ります。誰にも彼女を傷つけさせません」
悠真――ほかの女の手を取って私を殴らせることが、あなたの言う守る行為だったの?
もう、悔やんでも悔やみきれない。
あなたを愛してしまったことを、私は心の底から後悔している。
その夜、穂乃香は高熱にうなされた。
夢の中で、彼女は冷たい海の底に沈んでいた。
母の遺灰が雪のように周囲へ舞い散っている。穂乃香はそれを必死につかもうとするのに、指の間をすり抜けて、どうしてもつかめなかった。
「穂乃香……穂乃香……」
誰かが彼女を呼んでいる。
穂乃香は苦しげに目を開けた。
しかし、そこはベッドの上ではなかった。
彼女は猛スピードで走る車の中にいた。
車窓の外では景色が飛ぶように後ろへ流れていく。運転席の悠真はハンドルをきつく握りしめ、ひどく険しい顔をしていた。
「悠真……」
穂乃香の声は、ひどくかすれていた。
「どこへ連れていくの?」
悠真は彼女を見ないまま、冷たく言った。
「寧々が拉致された」
穂乃香は一瞬、言葉を失った。
混濁していた頭が、少しずつ現実に引き戻されていく。
「……それで?」
「相手は、君をご指名だ」
悠真はようやく横目で彼女を見た。
「菅原勝(すがわら まさる)だ」
菅原勝――その名前は、刃物のように穂乃香の胸へ突き刺さった。
かつて穂乃香にしつこく付きまとい、最後には悠真によって街から追い出された、あの危険な男だ。
「あなた……私を白石さんと引き換えにするつもりなの?」
穂乃香の声が震えた。
悠真はハンドルを握る手に力を込める。
「菅原は昔、君のことが好きだった。君にひどいことはしない」
穂乃香は、全身が氷の底へ沈んでいくような感覚に襲われた。
必死にドアを開けようとしたが、両手がシートベルトで縛りつけられていた。
「悠真!」
彼女は叫んだ。
「正気なの?菅原がどういう人間か、あなたが一番よく知っているでしょう!」
「穂乃香、落ち着け」
悠真の声は、恐ろしいほど平静だった。
「寧々を無事に送り届けたら、すぐ君を助けに戻る」
車は、廃倉庫の前で止まった。
「連れてきた」
悠真は穂乃香の背を押し、前に突き出した。
「寧々はどこだ」
勝が指を鳴らすと、部下らしき男二人に押さえられた寧々が姿を現した。
髪は乱れ、頬には涙の跡が残っている。
悠真を見た瞬間、寧々の目がぱっと輝いた。
「久瀬さん!」
悠真はすぐさま穂乃香を手放し、早足で寧々のもとへ向かった。
そして彼女を抱き寄せた。
「もう大丈夫だ。怖がらなくていい。俺が来た」
穂乃香はその場に立ち尽くし、全身が冷えきっていくのを感じていた。
悠真が寧々に怪我はないか確かめるのを見ていた。
彼女の涙を優しく拭うのを見ていた。
そして、自分には一瞥さえもくれないことを、ただ黙って見つめていた。
「悠真!」
穂乃香はついに耐えきれず、喉が裂けそうな声で叫んだ。
その声で、悠真はようやく振り返った。
そしてまた、同じことを言った。
「怖がるな。すぐに迎えに来る」
そう言い残すと、彼は寧々を抱き寄せたまま背を向けた。
その後ろ姿には、迷いなど少しもなかった。
穂乃香は追いかけようとした。
しかし穂乃香の腕を、勝が乱暴に掴んだ。
「久しぶりだな、青柳」
彼の吐息が耳元に吹きかかり、穂乃香は体を震わせた。
勝は彼女を車に押し込み、そのままホテルへ向かった。
部屋の扉が閉まった瞬間、彼は穂乃香をベッドへ突き倒した。
第6話
「久瀬も、ずいぶん思い切ったことをするな」
勝はネクタイを乱暴に緩めた。
「青柳を、自分の手で俺の前に差し出すなんて」
穂乃香は必死にもがいた。
けれど、あっけなく押さえ込まれてしまう。
勝は彼女に覆いかぶさり、指先でその頬をなぞった。
「俺がどれだけ長い間、お前のことを忘れられずにいたと思う?」
「放して……」
穂乃香の声は震えていた。
「触らないで……」
怯えに震える彼女を見て、勝はふいに笑った。
そして、頬に触れた指をゆっくりと滑らせる。
「じゃあ、ひとつだけ機会をやる。久瀬に電話しろ。あいつが出たら、帰してやる」
穂乃香は震える手で、悠真に電話をかけた。
けれど――
一度目も、二度目も、三度目も。
十回以上かけ続けても、電話がつながることはなかった。
「わかっただろう、青柳」
勝は低く笑った。
「今のあいつにとって、お前にはもう何の価値もない。
俺の女になれ。楽しませてやる」
勝は歪んだ笑みを浮かべ、再びのしかかってきた。
穂乃香の服を乱暴に引き裂いていく。
いよいよ最も踏みにじってはならない場所に触れようとした。
そう悟った瞬間、穂乃香の意識がはっきりと戻った。
彼女は枕元の花瓶をつかみ、力の限り勝の頭へ振り下ろした。
勝はうめき声を漏らして倒れた。
その隙に、穂乃香は部屋を飛び出した。
外は、夜の雨が激しく降り続いていた。
穂乃香は足元もおぼつかないまま、どうにか家まで走って帰った。
全身はずぶ濡れで、体には勝につけられた痣が残っている。
玄関の扉を開けた瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、悠真の胸に顔を埋めて泣く寧々の姿だった。
「本当に私のために、奥様の命まで見捨てたんですか?」
悠真は彼女の涙を拭った。
「ああ。俺にとっては、君が一番大事だ」
寧々はさらに激しく泣き出した。
悠真は困ったように、けれど甘やかすように彼女の顔を両手で包み込んだ。
「まったく、わがままなお姫様だな。もう助け出しただろう?まだそんなに怖いのか?」
「拉致されたら、誰だって怖いです……」
悠真は唇の端をわずかに上げた。
「怖くなくなる方法がある」
「信じません……」
「試してみる?」
そう笑うと、悠真は身をかがめ、寧々に口づけた。
そして、そのまま彼女をソファへ押し倒した。
穂乃香は、その光景を自分の目で見ていた。
胸が、生きたまま切り開かれるように痛んだ。
彼女は踵を返し、家を出た。
雨はたちまち彼女の全身を濡らしていく。
どれくらい走ったのか、自分でもわからなかった。
気づけば、見慣れた古い家の前に立っていた。
そこは、穂乃香と悠真が幼い頃から一緒に過ごしてきた場所だった。
二人の家は隣同士で、気づけばいつも互いのそばにいた。
いわゆる幼なじみだった。
雨水が髪の先から滴り落ちる。
穂乃香は裏庭へ回り、古い槐の木の下に立った。
十八歳の頃、彼女と悠真はここにタイムカプセルを埋めた。
十年後、一緒に掘り出そうと約束して。
「穂乃香、十年後には、きっと俺たちは結婚しているよ」
少年だった悠真は、まぶしいほどの笑顔でそう言った。
そして一通の手紙を鉄の箱に入れた。
「未来の俺に手紙を書いたんだ。絶対に、ずっと君を愛し続けろって」
穂乃香はぬかるんだ地面に膝をついた。
木の根元の土を、素手で掘り返していく。
爪が割れ、指先から血がにじんでも、痛みは感じなかった。
鉄の箱はすっかり錆びついていた。
けれど中の手紙は、まだきれいに残っていた。
穂乃香は震える手で便箋を開いた。
そこには、少年だった悠真の端正な字が並んでいた。
「二十八歳の俺へ。
もし穂乃香を愛さなくなったら、十八歳の俺が絶対に許さない。
忘れるな。彼女は、お前の命だ」
雨粒が便箋を打ち、インクがにじんでいく。
穂乃香はその手紙を胸に押し当て、声を殺すこともできずに泣いた。
彼女は、あの少年が恋しくてたまらなかった。
耳まで赤くしながらラブレターをくれた少年。
一生守ると誓ってくれた、あの頃の悠真が。
「約束を破ったの……」
穂乃香は泣きながら、誰もいない空へ向かって言った。
まるで十八歳の悠真になら、その声が届くとでもいうように。
「彼は、約束を破ったの……」
穂乃香は、長いあいだ雨が上がるまで、その木の下に座っていた。
そしてようやく、バッグの中から九十八通目のラブレターを取り出した。
彼女はそれに、火をつけた。
第7話
「穂乃香!」
背後から突然、悠真の声がした。
振り返ると、彼が車から降りてくるのが見えた。
悠真は駆け寄るなり、穂乃香を強く抱きしめた。その声には、珍しく焦りがにじんでいる。
「菅原のところから逃げ出したなら、どうしてすぐ連絡しなかった。
家にも帰らずに……俺がどれだけ探したと思っているんだ」
穂乃香は彼の腕の中で、かすかに寧々の香水の匂いを感じた。
「今さら、私が生きているかどうかなんて気になるの?」
「気にならないわけがないだろう」
悠真は腕に力を込めた。
「寧々を送り届けて、すぐに君を捜しに来た」
穂乃香は笑いたかった。
けれど、笑えなかった。
彼女は濡れきった手紙を持ち上げた。
「これ、覚えてる?十八歳のときに埋めたタイムカプセル」
悠真は眉をひそめた。
「タイムカプセル?そんなもの、埋めたことがあったか?」
彼は空を見上げた。
「もういい。先に帰ろう。
こんなに風が強い。また体調を崩したら、寧々に面倒を見てもらうことになる」
その瞬間、穂乃香は笑った。
笑っているうちに、涙がこぼれた。
そうか。
彼女が忘れられずにいたものを、彼はもう忘れてしまったのだ。
昔の私――聞こえている?
彼は、とっくに忘れていたのよ。
それからの日々、穂乃香は家で傷を癒やしながら、寧々の悠真への態度が少しずつやわらいでいくのを見ていた。
悠真が贈る宝石やバッグを、寧々は素直に受け取るようになった。
彼が夜遅く帰ると、リビングで待っているようになった。
時には、寧々がこっそり悠真の手を握っているところさえ、穂乃香は目にした。
一週間後、三人はあるパーティーに出席した。
悠真は仕事の挨拶回りに行く前、穂乃香に言った。
「寧々を見ていてくれ」
周囲の令嬢たちが、ひそひそと囁き合う。
「見た?本妻に愛人の世話をさせるなんて。久瀬さん、あの子を甘やかしすぎじゃない?」
「それどころじゃないわよ。泥棒猫のほうが本妻より高そうなものを身につけているんだもの。よほど大事にされているのね」
「でも、久瀬さんって前は奥様をすごく愛していたんじゃなかった?」
「前はね。今はもっと好きな人ができたってことでしょ。
人の心なんて、一瞬で変わるものよ」
穂乃香はそれらの言葉を、ただ黙って聞いていた。
やがて寧々は退屈になったのか、苛立ったように穂乃香へ言った。
「少し一人で見て回ります。奥様はついてこなくて大丈夫です。迷惑はかけませんから」
穂乃香が返事をするより早く、寧々はシャンパンを手に、人混みの中へ消えていった。
だが十分も経たないうちに、少し離れた場所から聞き慣れた悲鳴が上がった。
穂乃香が駆けつけると、放蕩息子のような男が、寧々の手首を強くつかんでいた。
「何を気取っているんだ。この京北市で、俺が触れられない女なんていない」
「最低……触らないで!」
寧々は目を赤くして抵抗していた。
「たしかに私は貧しいです。でも、私にも尊厳はあります。
こんなふうに辱められて黙っているつもりはありません!」
穂乃香が前へ出ようとした、そのとき。
寧々は小さなバッグから、細工の施されたナイフを取り出した。
銀色の光が一閃する。
次の瞬間、その男の顔に血がにじんだ。
男は激昂し、寧々を殴ろうと手を振り上げた。
だがその直前、黒い影が飛び込んできた。
悠真の拳が、男の顔を容赦なく殴りつけた。
穂乃香はその場に立ち尽くした。
悠真はまるで怒り狂った獅子のように、何度も何度も拳を振り下ろす。
相手の顔が血まみれになるまで。
「く、久瀬さん……」
男は血まみれの顔で命乞いをした。
「うちとは、まだ取引があるはずです……!」
「今なくなった」
悠真は冷たく言い放つ。
そして周囲を見渡した。
「覚えておけ。これから先、寧々に手を出す者は、久瀬グループ全体を敵に回すと思え。
こいつが、その見せしめだ」
場が静まり返る中、悠真は半死半生になった男を外へ引きずり出させた。
彼が振り返った瞬間、穂乃香は思わず半歩後ずさった。
「穂乃香!」
悠真の目には、まだ暴力的な怒りの色が残っていた。
「寧々を見ていてくれと頼んだだろう!」
穂乃香は口を開きかけた。
けれど、何も言えなかった。
シャンデリアの光があまりにも眩しくて、目の奥が痛んだ。
彼女は、悠真が寧々を壊れもののように腕の中へかばい、連れていくのを見ていた。
そのとき、ふと結婚した年のことを思い出した。
誰かがうっかり穂乃香のドレスに赤ワインをこぼしたことがあった。
そのときも悠真は、その場で顔色を変えた。
あの頃の彼は、こう言っていた。
「俺の妻に、誰も手を出すな」
そして今、彼は言った。
「俺の寧々に、誰も手を出すな」
彼女たちの言うとおりだった。
人の心は、本当に一瞬で変わってしまう。
パーティーが終わり、三人は同じ車で帰路についた。
車内に重たい沈黙が落ちる。
それを破ったのは、耳障りな携帯の着信音だった。
「えっ?わかりました、すぐ行きます!」
寧々は電話を切った瞬間、涙をぼろぼろとこぼした。
「久瀬さん……先に病院へ連れていってもらえませんか。
祖母が……祖母が危篤なんです……」
悠真は何も言わず、勢いよくハンドルを切って車の向きを変えた。
タイヤが路面をこする鋭い音が響く。
その弾みで、穂乃香の額は車窓に強く打ちつけられた。
それでも悠真は、彼女に視線のひとつも向けなかった。
助手席で泣きじゃくる寧々をなだめることだけに気を取られていた。
「大丈夫だ」
悠真は片手でハンドルを握り、もう一方の手で寧々の震える指を強く握った。
「俺がいる」
病院の廊下へ駆け込んだとき、ちょうど医師が手術室から出てきた。
「肝不全を起こしています。
移植をすれば、しばらく延命できる可能性はあります。
ただ、個人的にはあまりお勧めできません。
ご高齢でもありますし、そもそも今は肝臓の提供者を見つけるのも難しい状況です」
「やってください!絶対に手術してください!」
寧々は突然、医師の白衣にすがりついた。
指先が、布地に食い込むほどだった。
「お金ならいくらでも用意します!」
悠真はすでにスマホを取り出していた。
「すぐにドナーを探させる」
電話をかける彼の背中は、まっすぐで揺るぎなかった。
かつて穂乃香の父が突然心筋梗塞で倒れたときも、彼はこうして迷いなく、市内で一番の専門医たちを集めてくれた。
ただ、今その迷いのなさは、別の誰かに向けられている。
まもなく、秘書から折り返しの電話が入った。
穂乃香はすぐそばに立っていたため、悠真の眉が険しく寄るのをはっきりと見た。
「誰だ?」
電話の向こうで秘書は言いよどんだ。
だが最後には、その声がはっきりと聞こえた。
「……奥様です。適合率は、完全に一致しています」
寧々が勢いよく振り返り、穂乃香を見た。
その頬にはまだ涙が残っていたが、彼女はすでに穂乃香のもとへ駆け寄り、両手をつかんでいた。
「奥様、お願いします……」
彼女の指は冷たく、じっとりとした汗で湿っていた。
穂乃香は反射的に手を引こうとした。
けれど、その手を悠真が強く押さえ込んだ。
「穂乃香、ほんの一部でいい」
彼の声はとても静かで、なだめるように優しかった。
「死ぬわけじゃないんだ」
第8話
穂乃香は顔を上げ、悠真を見つめた。
体の芯まで、ぞっとするほど冷えていた。
彼の中で、自分が寧々より大切ではなくなったことは、もう受け入れている。
けれど今は、寧々の祖母よりも下だというのか。
「嫌よ」
穂乃香は二人の手を振り払った。
「私は、あなたたちのための生きた臓器バンクじゃない!」
そう言い捨て、彼女は踵を返した。
しかし次の瞬間、首の後ろに鋭い痛みが走った。
悠真の手刀は、あまりにも速く、容赦がなかった。
穂乃香は何が起きたのか理解する間もなく、その場に崩れ落ちた。
薄れていく意識の中で、悠真が自分を横抱きにし、医師に告げる声だけが聞こえた。
「手術室を用意してください」
次に目を覚ましたとき、腹部に身を裂かれるような痛みが走った。
穂乃香は震える手で病衣をめくった。
包帯で覆われた傷口には、点々と血がにじんでいた。
「肝移植の手術を終えたばかりです。動かないでください」
看護師が、起き上がろうとする彼女を押さえた。
穂乃香は唇を強く噛みしめた。
血の味が口の中に広がる。
本当に、彼は――寧々の祖母を助けるために、無理やり自分の肝臓を移植させたのだ。
病衣の下の傷は、まだ鈍く疼いていた。
まるで鈍い刃で、内臓を何度もかき回されているようだった。
けれど、その痛みでさえ、胸の痛みの万分の一にも届かない。
穂乃香は震える指で、腹部に残った痛々しい傷跡に触れた。
なんて滑稽なのだろう。
自分の体に刻まれた一番深い傷が、最も愛した人の手によって残されたものだなんて。
それから数日、穂乃香は人形のようにベッドに横たわっていた。
隣の病室から聞こえてくる、明るい笑い声を聞きながら。
「おばあ様はお幸せですね。こんなに孝行なお孫さんと、優しいお孫婿さんがいらっしゃって」
「久瀬さんは本当に情の深い方ですね。
奥様のおばあ様のために、あんなに奔走なさるなんて……」
奥様。
穂乃香は笑いたかった。
けれど、口元を動かす力さえ残っていなかった。
彼女は、病院で丸半月を過ごした。
廊下からは毎日のように、悠真が寧々とその祖母を気遣う声が聞こえた。
けれど彼が、穂乃香の病室に足を踏み入れることは一度もなかった。
退院の日、穂乃香は荷物をまとめて病院を出ようとしていた。
そのとき、廊下の角で偶然、涙まじりに悠真へ問いかける寧々の声を聞いた。
「久瀬さん……どうして私が何度拒んでも、そこまでして優しくしてくださるんですか。
どうして……私の祖母を助けるために、奥様の肝臓まで……」
穂乃香はその場に立ち止まった。
低く響く悠真の声が聞こえる。
「何度も言っただろう。君が好きだからだ。君と一緒にいたい。
なあ、寧々。俺の胸を裂いて、この心臓を見せれば信じてくれるのか?」
どれほどの沈黙が流れただろう。
やがて寧々は、ようやく決心したように口を開いた。
「わ、私……あなたと一緒にいてもいいです。でも、条件があります」
悠真は喜びを隠しきれない様子で、すぐに彼女を抱きしめた。
「言って」
その声はひどくかすれていた。
「君が言うなら、どんな条件でも聞く」
「私は愛人にはなりません」
寧々は一語一語、はっきりと言った。
「堂々とあなたと一緒にいたいんです。あなたが離婚してくれるなら」
死んだような静寂が落ちた。
穂乃香は自分の心音を数えた。
一つ、二つ――
十七回目を数えたとき、ようやく悠真の声が聞こえた。
「わかった」
たったそれだけだった。
軽く、何でもないような一言。
穂乃香は壁にもたれたまま、ずるずると床に座り込んだ。
腹部の傷が焼けるように痛む。
けれど、心臓を生きたままえぐり取られたような痛みに比べれば、何ほどのこともなかった。
家に戻ると、穂乃香は最後のラブレターを燃やした。
炎が紙をのみ込んでいくのを見つめながら、彼女は悠真がこの手紙を渡した日のことを思い出していた。
勢いに満ちた少年だった彼は、雪の降る中、彼女の家の下に立っていた。
長い睫毛には雪がついていた。
「穂乃香、これで九十九通目のラブレターだ。俺と付き合ってくれないかな。これから一生、君を好きでいるから」
今、九十九通のラブレターはすべて灰になった。
彼の言う一生は、たった十年で終わったのだ。
ラブレターは燃え尽きた。
ならば、自分ももう去るべきだ。
穂乃香はスーツケースを開き、服を一枚ずつ畳んで入れていった。
書斎を片づけていたとき、悠真のパソコンがついたままになっているのに気づいた。
ラインの画面が開いたままで、次々と通知が浮かび上がる。
【悠真、白石さんがついに受け入れたって聞いたぞ。
でも離婚が条件なんだろ?まさか本当に穂乃香と別れるつもりか?】
【よく考えろよ。白石さんなんて、結局は愛人みたいなもんだろ。
穂乃香とは何年の付き合いだと思ってるんだ】
【それに本当に離婚なんてしたら、穂乃香は相当傷つくぞ。
そう簡単にはなだめられないだろ】
【おい悠真、どうするつもりなんだよ。何か言えって】
穂乃香はその場に立ったまま、画面に流れていくメッセージを静かに見つめていた。
やがて、悠真の返信が表示された。
【どっちも欲しい】
【でも今は、寧々のほうが欲しい】
グループラインは数秒だけ静まり返った。
そしてすぐに騒然となる。
【うわ、マジかよ。白石さんってそんなに魅力あるのか?本気で離婚まで考えるなんて】
【ちゃんと考えろよ。穂乃香も意地のある女だぞ。
お前から離婚を切り出したら、たぶん本当に終わるぞ】
【いや、方法はある。悠真、離婚届を用意して、不動産の名義変更の書類だって言って穂乃香にサインさせろよ。
あいつはお前のことを信じきってるから、たぶん中身も見ずに署名する】
【完全に騙し通してしまえば、騒がれもしないし、出ていかれることもない。
白石さんに飽きた頃に、適当に離婚を白紙に戻せばいい】
その名案に、グループ内の全員が賛同していた。
【すげえな。それなら悠真、両方手に入れられるんじゃ】
悠真も、一言だけ返していた。
【いい考えだ】
穂乃香はゆっくりとパソコンを閉じた。
指先が冷たくなっていた。
彼にとって、自分には真実を知る権利さえないのだ。
翌朝。
穂乃香が朝食を終えたばかりの頃、悠真が帰ってきた。
きちんとスーツを着こなし、手には案の定、一枚の書類を持っている。
「穂乃香、これにサインしてくれ」
その口調は、まるで今日の天気の話でもしているかのように自然だった。
「城東市の別荘を君の名義にしておく」
穂乃香は、静かに彼を見つめた。
かつて彼女の代わりに酒を飲み、彼女のために人と殴り合い、雪の中で膝をついてプロポーズしてくれた男。
これが、十年以上愛してきた男なのだ。
「いいわよ」
穂乃香は何も知らないふりをしてペンを受け取った。
そして中身を見ることなく、その不動産書類に名前を書いた。
悠真は明らかに安堵した様子だった。
「しばらく寧々を連れて旅行に行く。家には戻らない」
彼が背を向けたとき、穂乃香は静かに呼び止めた。
「悠真」
「ん?」
彼が振り返る。
「何でもない。楽しんできて」
悠真が去ったあと、穂乃香はその書類を手に、そのまま役所へ向かった。
窓口の職員は、何度も確認した。
「青柳様、本当に離婚届を提出されるということでよろしいですか。
一度受理されますと、取り消すことはできません」
「間違いありません」
受理印が押された瞬間、穂乃香の心は不思議なほど静かになった。
完全に気持ちが死ぬとは、こういうことなのだろう。
痛くも痒くもない。
まるで、腐ってしまった歯を抜いたあとのように。
空港のロビーには、大勢の人が行き交っていた。
穂乃香は片道の航空券を握りしめ、最後に一度だけスマホを見た。
SNSには、悠真の友人が投稿した、悠真と寧々の空港での写真が上がっていた。
添えられた言葉は――
【悠真、ついに念願の彼女を手に入れたな。おめでとう!】
穂乃香はスマホの画面を消した。
SIMカードを抜き、捨てた。
そしてまっすぐ、搭乗口へ向かって歩き出した。
彼女にとってもめでたいことだ。
自由を手に入れ、新しい人生を取り戻したのだから。