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夫と息子が憎む私はもう死んだ
西村慎吾(にしむら しんご)と結婚して8年目。西村柚(にしむら ゆず)は、無人島で「システム」からの攻略ミッションの誘いを受け入れた。 「...
Chương (1)
第1章
西村慎吾(にしむら しんご)と結婚して8年目。西村柚(にしむら ゆず)は、無人島で「システム」からの攻略ミッションの誘いを受け入れた。
「本当にいいんですね?
ご主人と息子さんをあれほど愛しているのに、このミッションを引き受ければ、新しい体と身分に切り替わります。二度と彼らとは関われませんし、別の男性と恋に落ち、結婚することになりますよ?」
柚は俯き、手にした写真を見つめる。
そこには慎吾と我が子、そして大野蛍(おおの ほたる)の姿があり、3人はまるで本当の家族のように寄り添っていた。
結婚して8年、結婚式すら挙げていない。
それ以上に、1枚の家族写真すらなかった。
慎吾と我が子は好みまでそっくりで、蛍のことは溺愛しているくせに、柚のことだけはひどく嫌っていた。
柚は涙を拭い、写真を引き裂く。「決めた……」
システムが淡々と告げる。「承知いたしました。では、7日後に攻略ミッションを開始します」
第1話
西村慎吾(にしむら しんご)と結婚して8年目。西村柚(にしむら ゆず)は、無人島で「システム」からの攻略ミッションの誘いを受け入れた。
「本当にいいんですね?
ご主人と息子さんをあれほど愛しているのに、このミッションを引き受ければ、新しい体と身分に切り替わります。二度と彼らとは関われませんし、別の男性と恋に落ち、結婚することになりますよ?」
柚は俯き、手にした写真を見つめる。
そこには慎吾と我が子、そして大野蛍(おおの ほたる)の姿があり、3人はまるで本当の家族のように寄り添っていた。
結婚して8年、結婚式すら挙げていない。
それ以上に、1枚の家族写真すらなかった。
慎吾と我が子は好みまでそっくりで、蛍のことは溺愛しているくせに、柚のことだけはひどく嫌っていた。
柚は涙を拭い、写真を引き裂く。「決めた……」
システムが淡々と告げる。「承知いたしました。では、7日後に攻略ミッションを開始します」
……
無人島。
柚は枯れ草の根を掴み、自分の口に押し込んでいた。枯れ草を掴む手は霜焼けで赤く腫れ、その体は痩せ細り、皮と骨だけになっていた。
そして空には、柚にしか見えないシステムのホログラムが浮かんでいる。
柚は18歳で慎吾と付き合い始め、24歳で入籍した。
かつて慎吾は情熱的に柚を抱きしめ、「一生お前だけを愛するから」と誓っていた。
だが今、慎吾は甘やかすように、彼女の両親に養子として迎えられ育てられた血のつながらない妹、蛍を抱きしめている。
蛍のために食事を作り、体を労わり、高級なプレゼントまで贈る日々……
今までは、柚だけに与えられていたはずの言葉や行動が、今では、すべて蛍に捧げていた。
息子の西村颯太(にしむら そうた)もまた、父親の慎吾と同じように柚を毛嫌いし、蛍に懐いている。
柚が無人島に置き去りにされて1ヶ月経ったのだが、誰一人として柚のことに気づいていなかった。
柚が飢えと寒さで限界を迎えそうになっている間、慎吾と颯太は蛍のご機嫌取りに忙しかった。
柚が無人島で過ごして30日目、蛍は持病が悪化し入院した。その時になって初めて、慎吾はようやく柚のことを思い出したのだった。
慎吾が無人島へ駆けつけた時、柚は喉を枯れ草で傷つけたらしく、血を吐いていた。
そんな柚を見て、慎吾の目に一瞬だけ哀れみが浮かんだが、すぐに嫌悪感を露わにして言った。
「柚、帰ったら蛍にちゃんと感謝しろよ。蛍が執り成してくれなかったら、俺はお前なんか一生迎えに来なかったんだからな。
お前に人間としての心があるなら、蛍に腎臓を移植してやれ」
まだ6歳の颯太までもが、冷たく言い放つ。「ママ。蛍さんに腎臓を一つ分けても、ママは死なないでしょ?だから、ケチくさいこと言わないであげなよ」
親子二人の顔に浮かぶ瓜二つな冷酷な表情。柚の心は激しく締め付けられた。
自分は無人島で死と隣り合わせの生活を送っていたというのに……
しかし、この二人は蛍のことしか考えておらず、自分の惨めな姿などまるで目に入っていないようだった。
柚はゆっくりと立ち上がったが、激しい目眩に襲われた。
よろけてしまい、思わず颯太に触れてしまうと、彼は悲鳴を上げて柚を突き飛ばした。
「ママ、何するんだよ!蛍さんに買ってもらった服を血で汚さないで!ママなんか大っ嫌い!」
地面に叩きつけられた柚の霜焼けで荒れた手からは、血が滲み、激痛が柚を襲った。
慎吾はそんな柚の髪を掴み、なおも冷ややかに吐き捨てる。
「同情を買おうとするな。そんなものは通用しない。さっさと腎臓提供の同意書にサインしろ。それでもサインしないというなら、このまま一生ここにいるんだな」
「置いてかないで……サインするから……」
1ヶ月声を出していなかったので、その声はひどく掠れていて上手く言葉になっていなかった。
柚は口から出た血を拭い、逃げ出したい一心でひび割れた手でペンを持つと、同意書にサインをした。
慎吾にどんな扱いをされようと、柚はもうどうでもよかった。
ただ、これ以上この無人島にいることに耐えられなかったのだ。
もうこんな苦痛など耐えられない。
ようやく飛行機に乗り込んだ柚は、窓の外を見つめながらぼーっとしていた。
大人になるまで、柚は親から疎まれてきた。
そして、大人になってからは、すべてを慎吾と颯太に捧げた。
だが、慎吾と颯太は結局両親と同じだった。養女の蛍を守るため、何度も柚を傷つけた。
しかし、幸いにもシステムと契約を結ぶことができた。
あと7日で、この生活から解放される。
二度と、あんな人間たちとは関わりたくない。
第2話
柚は飛行機から降りると、水を飲む暇もなく、慎吾に病院へ連れて行かれた。
全身はあざだらけ、泥と血で顔も汚れ、さらに服はぼろぼろで異臭を放っていた柚。
通りすがる人々が、皆柚を見た。
哀れむような、あるいは軽蔑するような視線で……
慎吾もその視線には気づいていたが、柚を庇うことはなく、憎しみを込めて言った。「お前が蛍を苦しめたんだから、当然の報いだ」
「苦しめてなんかない。私は……」
「柚、もうこんなになってるのに、まだ言い訳するつもりか?」
慎吾は柚の言葉を怒鳴って遮った。
柚は疲労で反論する気力もなかったが、それでも悔しくて必死に弁解する。
「慎吾、私の腎臓はもうあなたにあげているから、もう一つしか残ってないの。蛍に腎臓をあげたら、私、死んじゃうんだよ?」
しかし、慎吾は冷ややかに笑った。「嘘ばっか言うな。俺に腎臓をくれたのは蛍だ。お前は一体何を言ってるんだ?でたらめばっか言いやがって」
慎吾の暴言にはもう慣れていた。
柚はもう何を言っても無駄だと思い、ただ絶望の中で慎吾を見つめた。
付き合い始めた頃は、柚が親に愛されてるかどうかなんて関係ない、俺が愛してやる、と言ってくれたのに。
今では、両親よりも酷い仕打ちをしてくる慎吾。
慎吾は柚の視線を不快に思ったのか、捲し立てた。「いいかげん、いうことを聞けよ。手術が終わったら、結婚8周年記念日に改めて式を挙げてやるからさ。お前の夢だった結婚式だぞ?」
二人は結婚して8年になるが、入籍だけで式は挙げていなかった。
慎吾が初めて結婚式を約束してくれた。
しかし、今の柚はそんなこと一切望んでいない。
「ちょっとトイレ行ってくる」と、柚は呟くように言い、慎吾の方も見ずに、ふらりとトイレの方へ向かった。
半分ほど歩いたところで、柚は進路を変え、出口へ走った。
腎臓なんてやるものか。どこか場所を探して、7日間だけ静かに過ごしたい。
しかし、外に出る前に、背後から慎吾に捕まえられてしまった。
「ママ!逃げようとしたってそうはさせないからね!ママが逃げたら蛍さんが死んじゃうよ。蛍さんが死ぬの嫌なんだ」
そう言いながら、幼い颯太は水鉄砲で、柚の顔に水をかけた。
顔が濡れているのは水のせいなのか、はたまた涙のせいなのか……柚は声を震わせる。「蛍が死んじゃいけないのなら、私は?私は死んでもいいの、颯太?」
颯太が無邪気な顔で答えた。「だって、ママがいなくなれば、蛍さんが僕のママになれるじゃん!」
この子は本当に、自分がお腹を痛めて産んだ子供なのか……
柚はふっと笑みを漏らし、もう一度慎吾に向き直る。
「蛍に腎臓なんかあげないから。あんな女に、私の一部をあげる価値はない」
あの女のせいで自分は全てを失ったのに、なぜ自分が彼女を助けなければならないのか?
慎吾の表情が曇った。「お前が大人しく言うことを聞くと思ったのが間違いだったか……別に、お前が拒否したっていいさ。でも、梨花さんの命がどうなっても知らないぞ?」
柚はその場で固まる。「梨花に何する気?」中島梨花(なかじま りか)とは、柚の親友だった。
「中島家がした西村グループの子会社との契約、あいつが直接サインをしただろ?契約書の細工なんていくらでもできる。あいつを檻に入れることだって、俺にはどうってことない」
柚は知っていた。これは脅しではなく、慎吾なら本当にやるということを……
顔から一気に血の気が引く。柚は力なく笑った。
「あなたの勝ちみたい、慎吾」
慎吾が眉をひそめる。「そんな被害者ぶった顔をするな。手術が無事終わって、お前がもう蛍を邪魔しないと誓えば、今後はちゃんとお前との生活を送ってやるから」
しかし、柚の思い描く未来に、もう慎吾は存在していなかった。
柚は俯いて言う。「もう逃げたりはしないよ。でも、中島家の契約に関わっている子会社の株、全部私に譲渡して」
「俺のことそんなに信用してないのか?」
「うん。株の譲渡契約書を今ここで書いてくれたら、あなたの言う通りにする。もし拒否するっていうなら、すぐ警察に通報するから」
柚の言葉を聞いた慎吾は、顔を歪めた。
それでも彼は側近の加藤恭平(かとう きょうへい)に命じて書類を作成させ、その場でサインをした。
「満足か?サインした以上、もう変なことは考えるなよ?」
譲渡契約書を受け取った柚は、自嘲気味に笑った。「もし私が何かを考えられるようだったら、ここまで惨めな姿になってると思う?」
柚は心から思った。本当に、自分が情も無いような狡賢い女だったらよかったのに、と。
そうすれば、慎吾たちに蔑まれても、傷つく必要なんてなかった。
柚のそんな様子を見て、言いようのない焦燥感に襲われた慎吾。
しかし、すぐに顔をそらし、検査室へと柚を連れていこうとした。
だが限界を超えていた柚には、もう体力など残っていなく、一歩歩いたかと思うと、気を失い、真っ暗な世界へ崩れ落ちたのだった。
何者かに激しく叩かれ、柚は目を覚ます。
「いつまで死んだふりをしてるつもりなの!なんでこんな娘を産んじゃったのかしら。もしこんな子に育つって分かってたら、最初から産まなかったのに!」
柚の視界には、目元を真っ赤に腫らした母親・大野彩花(おおの あやか)の姿があった。
口の中に広がる血を飲み込み、力なく体を起こしながら、柚は淡々と言った。「私何かした?」
蛍がこの家に来てからというもの、毎日がこの繰り返しだった。
柚本人ですら自分が何をしたかもわからないのに、両親はいつだって柚のせいにしていた。
でも、あと6日。そうすればもう二度と、こんな理不尽な身内と顔を合わせなくて済む。
第3話
パシッ!
彩花が、またもや柚の頬を叩いた。
「まだ反省してないわけ?ずっと蛍をいじめておいて、1ヶ月前には崖から突き落としたのに!あの子にもしものことがあったら、本当のご両親たちに顔向けできないじゃない」
彩花は声を詰まらせ、泣き出した。
すると、蛍がか細い声でなだめ始める。「お母さん、泣かないで。お父さんとお母さんが、私のこと大切にしてくれてることは分かってるから。だから、お姉ちゃんが私を傷つけて、私の死を望んだとしても、お姉ちゃんのせいにしないであげて」
「なんていい子なの……でも、蛍。死ぬなんて縁起でもないことは言わないで。柚があなたに腎臓をくれさえすれば、蛍は元気に長生きできるんだから」
ずっと黙っていた大野勇太(おおの ゆうた)も、辛そうな顔をしてうなずいた。「ああ、そうだぞ。蛍」
彩花に叩かれたせいで、柚の口の中は切れ、頬も熱く焼けるような痛みを感じていた。
しかし、誰も柚のことなど気にも留めない。
まるでこの3人家族の温かな風景の中に、柚という存在は最初からいなかったかのようだ。
ここまで嫌うなら、なぜ自分を生んだのだろう?
柚は口元の血をぬぐい、悲しげに笑った。
「お姉ちゃん。私が病気で苦しんでいるのがそんなに面白い?私は、もうこんなに辛い思いをしてるんだから、これ以上ひどいことはしないでよ……」と蛍が声を震わせていった。
勇太は眉をひそめる。
彩花も奥歯を噛み締めた。「本当、なんて子なの!」
再び手を振り上げ、柚を叩こうとする。
しかし、それを慎吾が掴んだ。
慎吾は蛍を優しくなだめると、勇太たちに蛍を連れて外へ出ているように言った。
しかし、柚は期待など抱いていなかった。
慎吾は自分のために、彩花を止めたのではない。蛍のために、腎臓を摘出するまでは自分に何かあってはいけないと思ってのことからだろう。
慎吾が皮肉っぽく吐き捨てる。「柚。前は俺たちの前で、いい顔してたくせに、今じゃ猫をかぶることすらやめたのか?」
「答えは分かってるくせに、なんで、あえて私に聞くの?」
柚は猫をかぶらなくなったのではない。
ただ、彼らに何の期待も抱かなくなっただけのこと。
誰もが自分の言葉には耳を傾けず、ただの言い訳だと決めつけるのだから。
哀れな犬のように、彼らに縋り付くのはもうやめた。
慎吾が不機嫌そうに眉を寄せる。「まだ反省してないみたいだな。もう目が覚めたんだ、さっさと手術の準備をしろ」
「うん」
柚の体力は極限まで消耗されており、歩くのもままならなかった。
待ちきれなかった慎吾は柚を引きずるように歩いた。柚は何度も地面に倒れそうになる。
ここは西村グループの私立病院だった。
ほどなくして、宮崎若葉(みやざき わかば)という女性医師が現れ、診察を始めた。
慎吾が若葉に言う。「蛍の状態はかなりまずいんだ。妻はどうなってもいいから、早くこいつの腎臓を蛍に移植してくれ」
「承知いたしました」
若葉は柚の診察を終えると、すぐさま検査結果の書類を慎吾に差し出した。
「検査結果は特に問題ありません。あと3日も安静にすれば、移植手術を行えるでしょう」
柚はそれを聞いていても、驚きはしなかった。
以前、慎吾に腎臓を提供した際の執刀医は若葉だった。
そしてあの日、腎臓を提供したのは蛍だと言い、全てを塗り替えたのも若葉だ。
これまで何度、慎吾に本当のことを伝えたか分からないが、彼は一切聞いてくれなかった。
慎吾が指先を白くさせるほど、検査結果を握りしめる。「こいつの腎臓は二つ、あるんだよな?」
「ええ、もちろんです」
若葉に動揺が走った。
しかし慎吾はただ柚のことだけを睨みつけており、若葉が動揺したことには全く気づいていなかった。
慎吾は検査結果を、そのまま柚の頭に投げつける。
「一つしかないなんて言って、また俺を騙したんだな?」
紙の端が柚の顔にあたり、切り傷ができた。
傷を触りながら、柚は枯れた声でつぶやく。「嘘じゃないよ。別の医者に検査させれば、すぐ本当かどうか分かると思うよ」
その言葉を聞いた若葉の顔色が、一瞬にして真っ青に変わった。
しかし、若葉が釈明する必要はなかった。なぜなら、慎吾が先に怒鳴ったから。
「ここは西村家の病院だ。誰が俺を騙せるって?俺を裏切り続けてきたのはお前だけだ。もう二度とお前の醜い言い訳になんか聞かないからな」
「好きにすれば?」
今まで誤解されたときには、柚は喉が裂けるほど叫んで必死に誤解を解こうとしてきた。
だが今は、体も心も疲弊し、誤解を解こうとする気力さえ残っていない。
慎吾が毒づく。「蛍のために腎臓を提供できることに感謝するんだな。そうでなきゃ、あの無人島で一生を終えてたところだぞ?」
「そうかもね」
あのまま死ぬのと、今の状況……果たしてどちらがいいのか。
慎吾は怒りを露わにしたまま、部屋を出て行った。
ドアが閉まる音がしても、柚はいつものように自分のどこが悪かったのかと己を責めたり、慎吾の機嫌をとろうとしたりすることはなかった。
自分を愛してくれない人間に、何を求めるというのだ?
柚は代行業者に電話をかけた。
「今から送る住所に行ってもらえますか?玄関はパスコードで開きますので。
中に入ったら、ビデオ通話にしてください。そうしたら、こちらが指示したものはすべてをゴミとして処分してください」
その後、柚は代行業者に自分と慎吾二人のために買った物、慎吾との思い出が詰まったアルバムなど、全て処分させた。
さらに植木屋も呼び、庭を埋め尽くしていたラベンダーもすべて抜かせる。
ラベンダーの花言葉は「愛情を待つ」、そんな花、もういらない。
自分に関する痕跡を一切残したくなかった。
撤去作業が終わる頃、柚の病室に慌てた様子の慎吾が戻ってきた。
「柚!なぜラベンダーをすべて抜かせたんだ?それに、思い出の品やペアグッズまで全部ゴミに出すなんて。お前はずっと大切にしていたんじゃないのか?」
第4話
柚は目を伏せた。「もういらないから処分したの。それがどうかした?」
慎吾と一緒に現れた蛍が、慎吾に囁く。
「前、友達が旦那さんの気を引くために、思い出の品とかお揃いの物をわざと捨てて、もう旦那さんに気がないふりをしてたの。もしかしたら、お姉ちゃんもそれを真似してるのかも」
しかし、蛍はそう言い終えると、これ見よがしに慌てた様子で手を振った。
「あ、違うの、慎吾!別に、お姉ちゃんが駆け引きしてるって言ったわけじゃないから!勘違いしないでね」
すると、慎吾の目から動揺は消え、軽蔑の色だけが残った。
「柚、こんなくだらないことしやがって!嫉妬以外に、お前は何ができるんだ?
あの写真だって、お前が俺や颯太に撮ってくれって懇願したやつだろ?なのに、自分で捨てたんだ。後悔しても知らないし、もう二度とお前なんかとは撮ってやらないからな」
柚の瞳は翳り、声を落として言った。「私が悪かったの。両親に失望したあと、その穴埋めみたいに、あなたと颯太にばかり心を向けてしまったから」
もし慎吾と颯太に依存していなければ、裏切られても、ここまで追い詰められて自ら命を絶とうとするほどではなかったと思う。
柚は後悔していた。
慎吾が眉をひそめる。「もうこんなくだらないことなんかするなよ。移植手術が終わったら式を挙げるって言ったこと、破りはしないから安心しろ」
一生大切にするとプロポーズしてくれたのは、この男ではなかったのか?
それを、今は破っているくせに。
すると慎吾のスマホが鳴り、彼が外へ出て行った。
病室に残ったのは、蛍と柚だけ。
蛍は嘲笑するように言った。「慎吾が結婚式を挙げてくれるなんて、本気で信じてるの?そんなの、私への腎臓提供を渋られないように、適当に言ってるだけじゃない」
蛍の言葉が真実かどうか、柚には分からなかった。
まあ、どちらにせよ慎吾は、常に自分に対して冷酷だ。
それに、今更真実かどうかなんてどうでもいい。
この勝ち誇ったような顔をしている蛍の顔を見続けるのもごめんだ。柚は冷たく言い放つ。「言いたいことはそれだけ?他に何も無いんだったら、出てってくれる?」
「私に出ていけだって?何よその態度!」
憤慨した蛍は自分の頭を水の入っていたグラスで叩くと、柚の点滴チューブを掴んで床に倒れ込んだ。
「慎吾、助けて!お姉ちゃんに殺される!」
乱暴に抜かれたため、針が刺さっていたところからは血が流れ出し、床に点々と落ちていく。
駆け込んできた慎吾は、そんな柚を見て一瞬、不安げな表情を浮かべた。
しかし、蛍の悲鳴を聞いた途端、彼の視線は完全に蛍へと向けられた。
「慎吾、お姉ちゃんが言ってたの。無人島で私を殺せなかったのが心残りだって。だからさっき、私の顔を傷つけようとしたのよ。顔さえ台無しにすれば、あなたもお父さんお母さんも、颯太も、みんな私を嫌いになるって……」
蛍は声を上げて泣いた。
慎吾は蛍を優しく抱きしめ、憎しみを込めた目で柚に向き直る。
「本当にお前は反省しないんだな。今回の新技術の特許、発明者は蛍に変えるからな。これで蛍への償いとしろ」
柚は西村グループの社員だった。だから、新特許の権利は慎吾の手の中にあり、署名を変えることなど慎吾にとっては、朝飯前だった。
慎吾に何をされようとも、もう心を乱すことはないと柚は思っていた。
しかし、この言葉を聞くと、やはり冷静ではいられなかった。
「やめて!あの特許は私が5年の月日をかけて開発したものなの!そんな勝手なこと、許さないから!」
これまで、何もかも蛍に差し出してきた。それに、この命さえ、差し出すというのに……
なのに、なぜこの特許さえも奪おうとするのか。
すると、蛍が潤んだ目で言った。「お姉ちゃんにこんなことされるのは、一度や二度じゃないから、別にいいの。それに、お姉ちゃんは特許にこだわってるみたいだし……慎吾、私はいいから」
慎吾は蛍の頭をなでて、優しく呟く。「こいつはそれだけのことをしたんだよ」
第5話
慎吾は残酷だった。
柚の特許を蛍のものにしただけではなく、翌日のグループ表彰式にも蛍を呼び出したのだった。
表彰式の会場へ向かう車の中で柚は慎吾に詰め寄り、会場に着いては跪いてまで「特許を返してほしい」と頼み込んだ。
しかし、慎吾は耳を貸さなかった。
柚はただ舞台の下で、蛍が自分の栄光を奪う様子を指をくわえて見ているしかなかった。
蛍は感極まった様子でスピーチをした。「私の努力が認められて、本当に嬉しい限りです。そして、姉ともこの幸せを分かちあって、姉にも私と同じように社会に貢献できる人になってほしいと思います」
会場中の全員が、蛍を称賛する――
「こんなすごい特許を開発するなんて、才色兼備だね」
「養女なのに実の娘さんよりもご両親に可愛がられてるだけあるね。本当に優秀」
「蛍さんこそ、西村社長にふさわしい相手だよ」
「お姉さんは学生時代にいじめをしたり、蛍さんを虐げたり、男遊びも激しかったっていう噂だよね?それに、西村社長にも薬を飲ませて無理やり結婚したんだから、どうしようもない女だよ」
「あの女、西村社長にも相手にされてないんだから。だって、子供までいるのに結婚式挙げてもらってないんだよ?それに、パーティーとか同伴が必要な時は、いつも蛍さんを連れてっているし」
表彰式では蛍が持ち上げられるほど、柚への評価は冷ややかなものになった。
あかぎれだらけの手、骸骨のように痩せ細った体でドレスを着る柚は、まるで場違いな場所に来てしまった滑稽なピエロだった。
勇太は柚を見ることさえ嫌がり、笑顔で蛍を「自慢の娘」と紹介した。
彩花は、そんな柚を見るのが恥ずかしくて顔を赤くし、駆け寄ってくると、柚の手からカップケーキを取り上げ、怒鳴りつけた。
「早くこの場から消えて!そんな格好して、恥ずかしくないの?あなたがここにいたら、私が恥ずかしいんだから!」
「お父さんもお母さんも、私のことがそんなに恥ずかしいなら、今すぐ縁を切ってもいいから。私はそれでも構わないよ」
柚は新しいケーキを手に取り、虚ろな目で次々と口に詰め込んだ。
「辛いときは甘いものを食べれば元気が出るよ」と梨花が言っていた。
なのになぜ、どれだけ食べても、胸の苦しみは消えないのだろう?
彩花はさらに真っ赤になって怒り、ケーキを奪い取って床に叩きつけ、わざと足で踏みつけた。
「食べてばかりで……その態度はなんなの?こんな娘を産んだ覚えはないわ!この恩知らず!」
彩花はそう言い残し、激しく怒りながら立ち去っていった。
彩花の背中を見送った柚は、小さく呟く。「私が死にそうになったって気にしなかったのに、今更何を怒ることがあるの?」
心の中でシステムを呼び出す。「任務を早く開始することはできる?」
あと5日もここに留まらなければならないなんて。もう一日でも、限界だった。
システムは変わらず無機質な声で返す。「任務開始時刻の変更は不可能です」
表彰式が終わるまで耐え、ようやく慎吾の許しが出て離れることができた。
「少しは懲りたか?」慎吾は言った。
疲れ切っていた柚は、車の中で言葉を発する気力もなく、ただ頷いた。
もう十分懲りた。もうここから出ていくことしか考えていない。
慎吾は柚の頭を撫でて、珍しく柔らかな声で言った。「最初からこうして素直していれば良かったんだよ」
「うん」
慎吾など、もうどうでもいい。
しかし、こんなにも自分を嫌い、過去の話をするのをあからさまに避けていた慎吾が、急に過去のことを口にし始めた。
「8年前、お前は俺に薬を飲ませるべきじゃなかった。だって、いくら実家に反対されようとも、俺はお前結婚するつもりだったから。
なのにお前は、蛍に手を出すような卑怯な真似をしたんだ。俺の命の恩人である蛍に、お前がそんなことをしたら、俺がどんな気持ちになるか考えなかったのか?
まあ、すべて過ぎたことだ。
8年も経った。俺は、もうお前と争うのは疲れたんだ。
蛍のための手術が終わったら、もう大人しくしていろ。そうすれば結婚式も挙げてやるし、これからの日々は一緒に過ごしていこう」
以前の柚なら、この言葉を聞いて泣いて喜んでいただろう。
しかし今では、その言葉があまりにも滑稽に聞こえた。
「これからなんてないの。手術が終われば、私はもうこの世にいないんだから」と自嘲気味に笑う。
その言葉を聞いた途端、慎吾の顔から表情が消えた。
慎吾は急ブレーキを踏み、叫んだ。「医者も問題ないと言っていただろ?なのに、いつまでも死ぬ死ぬって……いい加減にしろよ!もう車から降りろ!」
財布もスマホもない、薄いドレス一枚だけの状態。
追い出されたら、寒さと疲労に震えながら、徒歩で病院へ向かうしかない。
しかし、抵抗する力も残っていなかった柚は、されるがままに車から放り出された。
慎吾は嫌悪感を露わにしていた。
「慎吾!
慎吾!」
諦めきれなかった柚は車を追いかけようとしたが、足元がふらつき、道端で倒れ込んでしまった。
しかし、車は止まることなく走り去った。
柚は絶望に呑まれたまま立ち上がり、寒さで震えながらも、通りすがりの人にスマホを貸してもらった。
最初にかける相手は、親友の梨花しか浮かばなかった。
しかし、繋がらなかったので、次は両親へとかけた。
電話は繋がったのだが、相手が柚だと分かると、両親は即座に電話を切った。
通りすがりの人々の不憫そうな視線を受け、最後には息子の颯太に電話をかけた。
「颯太、ママよ。今、中央通りのスマイルチキンの向こうにいるんだけど、お金がなくて帰れないの。運転手さんに迎えにきてくれるように、言ってくれる?」
颯太はまだ6歳だったが、家の運転手に伝えてくれさえすれば、絶対に迎えがくるはず。
しかし颯太は「僕、今は蛍さんと遊んでるの。ママを迎えに行く暇なんてないから!」と拒んだ。
柚は言った。「でも、ずっと外にいたら、ママは風邪を引いちゃうの」
すると、颯太はくすくすと笑い、無邪気に返した。「ならママは病気で死んじゃえばいいんだよ!ママが死んだら、蛍さんが僕のママになってくれるんだから!」
第6話
柚は震えながら息を深く吸い込んで、自ら電話を切った。
子供の純粋さとは、時に一番残酷なものだ。
離れられるまで、あと5日。それはあまりにも先のように感じられた。
柚が再び歩み始めようとしたとき、梨花から電話がかかってきた。
居場所を伝えると、梨花はすぐに駆けつけてくれた。
柚の姿を見た梨花は涙をこぼし、すぐさま上着を脱いで柚に羽織らせた。
「柚!1ヶ月ずっと探してたんだよ!もう、どれだけ心配したか……どうしてこんなに痩せちゃったの?こんな格好で外にいたら凍えちゃうよ。
その手の傷は何?どうしてそんなにボロボロで、針の跡まであるの?病気なの?点滴をしてるの?
もう!ひどいあかぎれじゃない!痛いよね、苦しいよね……」
梨花は声を詰まらせ、言葉を続けることができなかった。
そんな梨花の泣く姿を見て、柚の心も締め付けられた。「泣かないで。私は大丈夫だから。今、すごい寒いから、先に梨花の家まで連れてってもらってもいいかな?」
今はまだ、慎吾たちに会いたくなかった。
彼らがいる場所では、絶望と苦痛しか感じられない。
「もちろん!」
梨花は涙を拭うと、柚を支えて車に乗せ、自分の家へ急いだ。
梨花から温かい飲み物をもらい、やっと震えが少しおさまってきた。
柚はこの1ヶ月に起きた全てを梨花に打ち明けた。
梨花は柚を抱きしめ、声にならないほど泣いた。
「慎吾さん、本当最低!前まではあんなに柚に優しかったのに。それに、柚の親みたいに蛍を特別扱いしたりしないってまで言ってたよね?もう!こんなことになるなら、結婚を止めたのに!
その上、あのクソガキ……柚がお腹を痛めて産んでやったっていうのに。
病弱なあの子が風邪を引いた時には、24時間付きっきりで看病してくれた柚になんてことを。それに、よりにもよって、あんなクズみたいな父親と一緒になって、柚に腎臓を提供しろなんて!
あいつらに殺されるようなもんじゃない!
うちなんて破産したっていいから、腎臓提供なんて許さないよ。死ぬのは絶対に駄目だからね、柚!」
柚はティッシュで梨花の涙を拭いた。「梨花、泣かないで、まずは私の話を聞いてくれる?私ね、あるシステムと契約したの。私の肉体は死ぬんだけど、精神的なものは無くならずに、体を入れ替えて、別の誰かとして生きるってことなの。落ち着いたら、必ず連絡するから」
梨花は柚の親友だ。
今の柚にとって、唯一大切だと思える存在でもあった。
梨花は涙を流しながら「ほ、本当に?」と尋ねた。
「うん!」
「わかった。柚がそう言うなら、信じるから」
それを聞いて、柚は微笑んだ。
梨花はいつもそうだった。どんな荒唐無稽な話でも、必ず信じてくれる。
「でも、いくら別の誰かになるって言っても、死ぬなんて絶対苦しいよ……」梨花がまた泣き出した。
「大丈夫。痛みは一瞬で、その後はずっと自由になれるんだから。あと5日で、新しい人生が始まる。これはおめでたいことなんだよ、梨花!」
柚が梨花を慰めていると、突然慎吾がドアを蹴り開け、中に入ってきた。そして、無理やり柚の手を掴み上げる。
あまりの痛さに、柚は眉をひそめた。
梨花が激怒して詰め寄ろうとする。
柚は目で梨花を制し、「梨花、私行くね。ありがとう」と言った。
そのまま乱暴に慎吾によって車へと押し込まれる。
「どうしてこんなとこまで来てるんだ?俺がどれだけ探して、どれほど心配したか知ってるのか!」
柚はただ淡々と言い返した。「じゃあ、どこにも行かずに、あそこで凍え死ねと?」
「ちゃんと迎えに行くつもりだった」
「そう」
返事はしたけれど、その弁解は信じていない。
5年前の正月の時、この男は蛍のために風邪薬を買いに行き、自分を山頂に置き去りにした。
3年前も、蛍が上司に怒られて辛いと泣きつけばそちらを優先し、自分は雨の中で朝まで慎吾を待った。
1ヶ月前も、蛍を傷つけたという濡れ衣で、自分を無人島に置き去りにした……
慎吾はこれまで何度となく、蛍のために自分を見捨ててきた。
その度に、いつか迎えに来てくれると信じ続けていた。
第7話
慎吾も昔のことを思い出したのか、居心地悪そうに言った。「今回は違う」
柚は頷く。「わかってる。蛍の腎臓移植が成功するまでは、私に何かあっちゃいけないもんね」
慎吾は怒りを露わにし、ハンドルを激しく叩いた。クラクションが鋭く響いた。
「柚、いちいち嫌味を言うな。手術が終わったら、もう一度やり直そうと言って……」
「慎吾。手術をしたら、私は死ぬの。もうこれからなんてないんだから。死ぬ前に、離婚して?」
柚は慎吾の言葉を遮って言った。
実際、離婚の話をするのはこれが初めてではなかった。
ただ、いつもは慎吾が切り出していたのだが……
今回離婚を切り出したのは、柚のほうだった。
車の中が沈黙に包まれる。
車が病院に着いた瞬間、慎吾は苛立ちを柚子にぶつけた。「なんで急に離婚なんて言いだしたんだ?さっき俺に車を下されたのが気に入らなかったのか?
でも、こんなことは初めてじゃないだろ?なのに、そんな理由で?それとも、俺が結婚式を延期しようとしてることを知ったからか?」
柚は呆然とした。「結婚式を……延期?」
「お前が腎臓を提供してくれることへの感謝として、蛍がお前の裾もちをしたいと言い出したんだ。でも、手術後は回復の時間が必要だろ?だから、8周年の記念日に式を挙げるのは蛍の体調が心配で、延期しようって思ったんだよ」
柚は、もう結婚式を挙げ直すことなど期待していなかった。
それでも蛍のために結婚式を延期すると聞かされて、ひどく虚しい気分になった。
柚はスカートの裾を握り締め、言い返す気力もなく答えた。「うん、確かにそうだね」
慎吾はいら立った。「そんな顔するなよ。延期は仕方のないことだけど、蛍が1年延ばせと言ってたところを、俺は半年だけに抑えてやったんだぞ?それでも、まだ不満か?なら、何度でも結婚式をやってやるから、それでいいか?ん?」
「私はそこまで生きられないから、死ぬ前にただ離婚したいだけ」
柚は、死ぬ時まで慎吾の妻でいたくなかった。
慎吾の堪忍袋の緒がきれた。「医者がもう検査したんだ!腎臓が片方無くなるだけで、死ぬわけない。いい加減な嘘はやめてくれ。もうお前にはうんざりだ!」
慎吾は柚の病室に立ち寄ることもなく、そのまま反対側の蛍の病室へ向かった。
柚は、時折慎吾がわからなくなる。
以前、必死になって離婚を求めていたのは彼の方だったのに。
それなのに、今こちらが離婚だと言うと渋るなんて……
反対側の病室のドアは開いたままだった。
廊下に立っていた柚の目に、あんなにも自分に冷たかった慎吾が、蛍に優しく語りかける姿が映った。
「今日の具合はどうだ?体調が悪いならすぐ言えよ?」
わんぱくな颯太も、心配そうな表情を浮かべていた。「蛍さん、早くよくなってね。蛍さんには、ママになってもらうんだから」
不満ばかり言う彩花も目を細める。「慎吾と蛍が一緒にいるところを見ると、本当の家族みたいに見えるわ」
厳格な勇太さえも、満足そうに頷いていた。
誰も、すぐ隣にいる柚には目もくれない。
というより、見ていたとしても気に留めないのだろう。
柚は項垂れたまま、自分の病室へと戻った。
カチッ。
12時になった。
あと4日で、この場所から離れられる。
柚はもう何度目かわからない祈りを捧げた。「もっと早く時間が流れて!」
柚は一晩中眠れなかった。
翌朝、書き上げた遺書を持って公正役場へ向かった。
死後、すべての財産は梨花が継承する。
手続きを終えて出ると、背後から声をかけられた。
「本当、ろくでもない子ね!」
柚は反射的に振り返った。
すると、目を真っ赤にして近づいてくる彩花が目に入り、いきなり頬を叩かれた。
「蛍が重病で生死を彷徨っているのに、逃げ出すなんて!私は、なんでこんな子を産んじゃったのかしら!」
ヒリヒリする頬を押さえながら、心がどん底に沈んでいくのを感じた。「逃げたりなんかしてないよ。ちょっと用事があっただけ」
「まだ言い訳をするの?朝からあなたがこっそり抜け出すのを、颯太が見てたって言ってるんだから!」
第8話
彩花が再び平手打ちをしようと手をあげたが、柚はその手首を掴んだ。「これ以上暴力を振るうなら、警察を呼ぶからね」
理由も聞かずにいつも感情的になって暴力を振るう親に、もううんざりしていた。
「な……なんてこと!腎不全で死ぬべきなのが、どうしてあなたじゃないのかしら?蛍はあんなに優しい子なのに、どうしてこんなに苦しまなければならないの……」
彩花は柚から手を引き抜き、声を上げて泣きじゃくった。
慎吾が駆け寄り、険しい表情で柚を引き留める。
「柚、また逃げる気か?子会社の株式を譲っただろ?それなのに蛍への腎臓移植から逃げようなんて……お前はなんて冷酷な女なんだ。蛍を殺す気か?」
手首が折れそうなほど強く掴まれ、柚は逃れたくても体が動かなかった。
柚は疲労を滲ませながら答える。「何度も言わせないで。逃げようとなんてしてないから。ただ遺言の公正証書を作ろうとしただけ」
「腎臓を提供して死ぬわけでもあるまいし、遺言の公正証書だと?そんな苦しい言い訳を信じるとでも思ったのか?」
慎吾は柚を引きずり、乱暴に車へと押し込んだ。
「数日間休ませてやってから移植しようと思っていたのに、大人しくもできないのか?だったら、今すぐ病院に戻って、腎臓摘出の手術を受けるんだ!」
ドアはロックされ、車が走り出した。
逃げ場を失った柚は、乾いた唇を舐めて言った。「あと4日だけ待ってくれない?」
慎吾は鼻で笑った。「また時間を稼いで、逃げるチャンスでも探すつもりか?」
「違うの。あと4日で私は死ぬから。そうなってから、移植手術をしても遅くはないと思うけど?」
システムによれば、攻略ミッション開始後、苦しみを感じることなく死ねるのだという。
それなら、腎臓を無理やり取られるような死に方をせずに済む。
しかし慎吾は冷たく拒否をした。「自分を死神かなんかとでも思っているのか?死ぬ時が分かるわけないだろ?柚、そんな時間稼ぎはもうやめろ。お前に逃げる隙は二度と与えないからな!」
病院に到着し、柚は車から引きずり出されると、そのまま手術室まで強引に連れて行かれた。
同じく手術室へ向かう柚と蛍の扱いには、雲泥の差があった。
慎吾、勇太、彩花、颯太の全員が、蛍の周りを囲み甲斐甲斐しく世話を焼いている。
しかし、柚はただ孤独にその場に立っていた。誰一人、彼女を気に留める者はいない。
手術室に入る直前、柚に近づいてきた慎吾が眉をひそめた。「なんでそんなに汗をかいているんだ?大した手術じゃないのに、何を怖がってるんだ?」
慎吾はティッシュを取り出し、柚の汗を拭おうとした。
柚はそれを避け、自分の手で拭う。「誰だって死ぬのは怖いでしょ?私も同じだから」
たとえ死ぬ覚悟を決めていたとしても、やはり恐ろしかった。
慎吾は怒りで怒鳴りそうになったが、何とか抑えた。「被害者ぶるのもいい加減にしろ。何度も言わせるな。お前は腎臓を提供するだけだ。死んだりしない!」
それなら、腎臓は一つ既に慎吾のために無くなっていて、二つ目を提供したら自分は死んでしまうということを、この男は何度言えば分かってくれるのだろう?
これ以上議論する気力を失った柚は、目を伏せた。
そんな柚を見て、慎吾は言いようのない焦燥感を覚えた。
慎吾は珍しく譲歩するような口調で言った。「柚、8年間も争い続けてきたけど、もう終わりにしたいって本当に思ってるんだ。お前がつらいのは、俺だって嫌だから。
今回腎臓を提供してくれたら、お前と蛍のことは全て水に流してやる。
だから、退院したら蛍をいじめたりせず、嘘もやめて、普通の夫婦としてやり直そう。蛍の体調が戻って俺たちの結婚式の裾持ちくらいできるようになれば、正式に結婚式を挙げよう。どうだ?」
以前の柚なら、慎吾にこんなことを言われたら嬉しさのあまり涙を流していただろう。
過去にどんな過ちを犯されても、柚は慎吾を許してきた。
しかし今、柚の心はとても静かだった。むしろ、何かがあると言うなら、反吐が出るほど嫌悪感しか残っていなかった。
「手術をしたら私は死ぬの。結婚式だの、これからだの、何の話をしているの?」
「分かった。式を挙げたくないんだな?手術が終わった後、どれだけお前が泣き喚いても、結婚式なんかやってやらないからな!」
慎吾はもう怒りが抑えきれなかった。その目に、今にも柚を食らいそうな殺気を宿す。
しかし、柚はもうこの男にどう思われようと、気にしていなかった。
「慎吾。天国があろうと、来世があろうと、これから先永遠に、私はあなたなんか会いたくないの」
手術室のドアが閉まる直前、柚は蛍を抱きしめる慎吾と、心配そうに蛍を見つめる家族たちの姿を眺めた。
この人たちの家族として生きることは、この人生で最もつらい出来事だった。
しかし、今日その人生ともお別れだ。
残りの人生、二度とこの人たちの顔なんか見たくない!