Đang tải thông tin quảng bá...
十年追いかけた愛は嘘だった
十年前、白野修二(しらの しゅうじ)は白野家と決別し、藤田夏美(ふじた なつみ)を連れて駆け落ちした。 今では成功を手にし、海崎市中の花...
Chương (1)
第1章
十年前、白野修二(しらの しゅうじ)は白野家と決別し、藤田夏美(ふじた なつみ)を連れて駆け落ちした。
今では成功を手にし、海崎市中の花火を買い占め、世紀の結婚式を企画している。
誰もが夏美が賭けに勝ったと羨んでいた。
修二は彼女の髪に口づけし、深い眼差しで尋ねる。
「夏美、この結婚式のために一年かけて準備したんだ。楽しみにしてるか?」
夏美は小さく頷いた。
たしかに楽しみだ――修二の兄に嫁ぐことを。
第1話
「修一(しゅういち)との結婚、もう決めた。一週間後に浜辺市へ行く」
藤田夏美(ふじた なつみ)は話しながら、ふと白野修二(しらの しゅうじ)の首筋に残るキスマークに目をやった。胸が鋭く痛んだ。
修二に騙されたのは、これで何度目だろう。
彼女はそっと首を振ると、ふっと苦い笑みが口元に浮かんだ。
電話の向こうで一瞬の沈黙があり、戸惑いの声が返ってきた。「藤田さん、本当にそれでよろしいのですか?もし修一様に嫁ぐことになったら、そのお子さんは……」
「堕ろすわ」
「承知しました。一週間後にお迎えにあがります」
電話を切ったと同時に、ドカンという音がして、夜空に華やかな花火が咲いて散った。
花火の明かりと同時に、夏美の目に機体に大きく刷り込まれた彼女と修二のツーショットが浮かび上がった。
写真の中、幸せそうに笑う二人の顔が、夏美の胸を締めつけ、目頭を熱くさせる。
「夏美、十周年おめでとう!」
修二にぐいと抱き寄せられ、清々しい松の香りが鼻先をかすめた。夏美はわずかに眉を顰める。
「新居はお前の好みに合わせて仕上げてある。ベビールームのおもちゃも揃えたし、引き出物の記念品は何種類か選んである。後はお前が決めてくれ」
「……わかった。とりあえず搭乗しましょ」
言葉を遮るように、夏美はスーツケースの柄を握った。窓ガラス越しに、一瞬、花火が光った。青い花火がこれほど不快に見えたのは、生まれて初めてだ。
予定では、一か月後に夏美と修二の世紀の結婚式が挙げられるはずだ。そして彼女は可愛い赤ちゃんを産み、裕福な妻として穏やかな人生を歩む――はずが、修二は彼女を欺いていた。
十年前、夏美は白野家の兄弟の中から修二を選んだ。兄の修一は彼女の手を握りしめ、真っ赤な目で詰め寄った。
「修二は隠し子だ。遺産を継ぐ資格もないし、お前を幸せにすることもできない。なぜ……なぜあいつを選ぶんだ」
――クリスマスにくれたあの手袋のために。
――雪の日、肩にそっと掛けてくれたマフラーのために。
――凍えた手を修二の胸に当てたとき、彼がくれたあの優しいぬくもりのために。
若い頃は、愛のために愚かなことをしてしまうものだ。
夏美は十年の青春をかけて修二という男を見極めた。後悔しているかどうかは、もうどうでもいい。
スマホの通知音が鳴り、夏美は思い出の中から現実へ引き戻された。
修二は少し慌てたようにスマホの画面をロックする。
その仕草を見逃さなかった夏美は、からかうように言った。
「楚山秘書からでしょ?どうして見ないの?」
修二は口元に笑みを浮かべながらも、声がわずかに震えていた。
「夏美、お前は今お腹に赤ちゃんがいるんだ。そんなに疑ってばかりじゃ、赤ちゃんによくないよ」
もうすぐその子を失うかもしれない。そう思うと、熱いものが一気にこみ上げ、涙が頬をつたった。
修二は慌ててその涙をキスで拭いながら言った。
「ごめん、夏美。俺の言い方が悪かった。でも、俺と純子は本当にお前が思っているような関係じゃないんだ」
夏美が返事をする間もなく、機内アナウンスが流れる。「乗客の皆さま、シートベルトをお締めください。飛行中に雷雨に遭遇する可能性があります。客室乗務員の指示にただちに従ってください」
機内にはあちこちからすすり泣く声が響き始めた。修二は夏美を胸に抱き寄せ、優しく囁く。「夏美、怖かったら目を閉じて。俺がいるから」
夏美がそっと目を閉じると、修二がその髪を撫で、覆い被さるようにして唇を重ねた。その口付けは、柔らかく、深かった。
情熱的なはずのキスなのに、夏美の心は微動だにしない。
修二は純子と密会しているときも、こんなふうに熱くキスをしているのだろうか。
気がつくと、機体の揺れはすでに収まっていた。客室乗務員が修二の耳元で何かを伝えると、彼の顔からさっと血の気が引いた。
「行かない」
客室乗務員が彼に一枚のメモを押し付け、くるりと背を向けて去っていった。
修二は一瞥するなり、その紙を掌でぐしゃりと握り潰した。息遣いが荒くなっていく。
「夏美、ちょっとトイレに行ってくる」
そう言うや否や、彼は堪えきれないように立ち上がり、トイレへ入ったらすぐにドアを閉めて鍵をかけた。
夏美は床に落ちたメモを拾い上げ、そっと広げる。【三万フィートの高空で、試してみない?本物の輸入JKキャミワンピ、破られるのを待ってる】
夏美は無表情のまま、トイレへと歩み寄った。
中からは甘く湿った声が漏れてくる。
「やめて、痛いよ……」
「黙れ!よくもここまで俺たちにつけてきたよな!」
修二の荒い息づかいが混じる。
「今回だけは見逃してやる。飛行機を降りたら、俺たちは終わりだ!」
純子の鈴のような笑い声が響いた。
「いいわよ。家にあるメイド服もバニー服も、じゃあ他の人に破ってもらおうかな……」
さらに激しい音が純子の声をかき消した。
「やめろ!」
修二の口から、怒りと欲望が渦巻く声が低く響いた。
「飛行機を降りたら、家で待ってろ」
トイレの外で、夏美が掌に指を食い込ませると、仕上げたばかりのネイルが無理に折れた。
十本の指先に走った痛みが、爪先から全身へと広がる。そして、目尻から涙がひとしずく、こぼれ落ちた。
夏美と一緒にいるときの修二は、いつも驚くほど優しく、辛抱強かった。彼は夏美の気持ちを気遣い、少しずつ彼女を求めていった。
ある時、夏美がセクシーな下着で誘ってみた。すると修二は、むしろ顔を曇らせ、真剣な口調で言い放った。「そういうの、俺は好きじゃない」
……結局、あの人が嫌いなのは、私がそれを着ることだけなのか。
夏美は虚ろな気持ちで席に戻り、目を閉じて眠ったふりをした。
十分後、修二が戻ってきた。彼の体には汗と甘い香水の匂いが混じっていた。
「夏美?」
夏美は目を閉じたまま、気づかぬふりで顔をそむけた。
修二は小さくため息をつき、そっと彼女の後頭部に口づけた。
飛行機を降りると、修二が手配した専用車がすっと横づけになった。しかし、彼はドアの前で足を止めた。
「悪い、夏美。先に帰っていてくれ。クライアントから急な連絡が入って、これから直行しなきゃ。
家でゆっくり休んでてね」
言い終わるか終わらないかのうちに、ドアが閉められ、修二の姿は空港の人混みに吸い込まれるように消えた。
夏美は震える指で医者の番号を押した。
「三日後で中絶手術をお願いします」
第2話
修二に軽い気持ちで近づく女性は数え切れないほどいた。だが夏美は、それらを脅威と感じたことは、一度もなかった。
唯一の例外が楚山純子(そやま じゅんこ)――朝も夜も修二と行動を共にし、ビジネスの戦場で肩を並べて戦ってきたその女だけは、夏美の心を乱した。
純子は修二の子を身ごもったことがあるのだ。
あの日、夏美が妊婦健診で病院を訪れた時。偶然、修二が純子を抱き寄せながら産婦人科から出てくるところを見てしまった。
彼女は何も言わず、ただ修二のあとをそっとつけていた。
修二がポケットからチョコレートを取り出して純子に食べさせるのを見た。
彼が視線を落とし、涙をこらえるように彼女の額にそっと口づけするのを見た。
そして、修二が純子をお姫様抱っこで車に乗せ、去っていくのを見た。
その瞬間、夏美の心は灰のように冷え切っていたが、それでも修二の口から何か説明が聞きたかった。たとえ、たった一言でも。
彼女は震える手でスマホを取り出した。
ピッ――
見知らぬ相手からメッセージが届く。
【私の赤ちゃんはもういない。これで満足?】
血まみれの写真が添付されていた。
夏美は画像を拡大して見つめ、笑いながら涙をこぼした。
――そういうことだったのか。
修二は頭の中で損得を天秤にかけた末、結局愛人に中絶させたのだ。
それこそ彼女が望んでいたはずなのに、どうしてこんなにも嬉しくないのだろう。
【藤田夏美、必ず報いが来るよ】
夏美の指が一瞬止まった。
思考が過去へと引き戻され、「報い」という言葉が頭の中でいつまでも消えなかった。
十八歳のとき、彼女は修二と駆け落ちし、見知らぬ街で十年間彼を支えてきた。自分はいったい、何を間違えたというのだろう。
修二は純子のアパートを出て家に戻ったときには、すでに深夜だった。
「夏美?」
返事はない。不安で胸が締めつけられる。
何を恐れているのか、自分でもわからないまま、勢いよく寝室のドアを開けた。
月明かりの中、ベッドに横たわる夏美の姿が目に入る。
その瞬間、胸の奥から安堵のため息がこぼれた。
修二は背後から夏美の腰を抱き寄せ、彼女の身体から漂うほのかな香りに包まれながら、規則正しい寝息を聞いているうちに心が穏やかになっていく。
彼女の腰をそっと撫でながら、自分自身に言い聞かせるように呟く。
「夏美、今日は急にトラブルがあって、プロジェクトでちょっと問題が起きたんだ。怒らないでくれる?」
「……うん」
夏美は、水のごとく冷たい月明かりを見つめながら、一晩中眠ることができなかった。
翌朝の朝食時、修二は三木屋の肉まんをひとつ手に取り、軽く息を吹きかけて夏美の唇の前に差し出した。
「夏美、お前の大好きな三木屋の肉まん、1時間も並んでやっと買えたんだ。食べてみて?」
夏美は豆乳を一口飲み込み、顔を上げずに言った。
「あなた、勘違いしてるわ。私は肉まんなんか食べないの」
修二の手が宙で止まり、顔色がさっと青ざめた。
夏美はまっすぐ彼を見つめる。
「楚山秘書が三木屋の肉まんが大好きだったわよね?」
純子の苗字を出され、修二の意識がぼんやりした。
手術室の前で、純子が涙ながらに子どもを残してほしいと懇願した光景が脳裏をよぎる。
あの瞬間、彼の心は揺らいだ。残そうかと一瞬思った。だが理性が感情を押しのけた。
自分は正しい選択をしたはずなのに、なぜ夏美はまだ許してくれないのか。
修二は手を引き、肉まんを口に押し込み、力任せに噛みしめた。
熱い肉まんの汁が口の中にあふれ、思わず身を震わせる。彼は箸をテーブルに叩きつけた。
「横山さん、この肉まんを捨ててくれ!夏美は妊娠しているんだから、何事も彼女の望む通りにしてあげなさい。いいね?」
修二は鞄を手に取り、むっとした様子で家を出た。
マンションの人工河のそばを通りかかると、もうすぐ出産を迎える妻の手を引いて散歩している夫婦の姿が目に入った。夫の方は時おり、優しく妻の大きなお腹を撫でている。
修二はふと、夏美が妊娠したばかりの頃、自分も同じように彼女を気遣っていたことを思い出した。
けれどその後はどうだっただろう。夏美の妊婦検診に付き添った回数など、数えるほどしかない。
言いようのない罪悪感が胸の奥に広がり、今の彼にはただ夏美に少しでも優しくしたい、その思いしかない……
そんな彼の気持ちを知らぬまま、夏美は豆乳を手に取り、いつものように一口ずつ飲んでいた。修二が家を空けることにも、もう慣れている。
こうした張り詰めた空気のやりとりは、この一年、何度も繰り返されてきたのだ。
彼女がうっかり修二のオフィスに入り込み、純子が彼に三木屋の肉まんを食べさせている場面を目撃してからというもの、彼女は駄々をこね始めた。
修二は最初こそ否定し、弁明を重ねたが、やがて二人の間には冷たい沈黙だけが残った。信頼は音を立てて崩れ落ち、夏美は疲れ果て、ついに別れを切り出した。
だが修二は取り乱し、遊園地の観覧車の中で彼女に「結婚してほしい」と懇願した――
豆乳のほろ苦さが、夏美の口の中に広がった。彼女は立ち上がり、それを流しに捨てた。
振り向くと、修二がリビングに立ち尽くし、インスタントラーメンの袋を手にしていた。
目が星のように輝いて、「夏美、ラーメン作ったよ」と言う。
あの最も苦しかった数年、二人は地下室で寄り添い、一日に一度、インスタントラーメンを一つ分け合って食べた。
夏美が麺をすすり、修二はスープを飲んだ。
妊娠してからというもの、夏美は無性にジャンクな味が恋しくなったが、修二はいつも「体に悪い」と言っていた。
半熟卵をのせたインスタントラーメンを口に運ぶと、胸の奥が少し温かくなる。
「純子がチームを率いてアメリカに支社を立ち上げることになったんだ。六日後に出発するって」
二口目のラーメンがのどにつかえつかえ、飲み込むことも吐き出すこともできない。
「夏美、もう……仲直りしよう。これ以上、喧嘩はやめよう、な?」
夏美は黙ったまま、何も答えなかった。
修二はほっと息をつき、彼女の髪にキスをした。
「このあと一緒にマタニティフォトを撮りに行こう。俺の妻は、世界で一番きれいな妊婦だから」
夏美は箸を置き、修二が自分の食べ残したラーメンを豪快に食べるのを見つめた。
彼女はふと思った――もし私と楚山が、同時に消えてなくなると聞いたら、修二はどちらを引き止めようとするだろう?
第3話
フォトスタジオへ向かう途中、修二のスマホが鳴った。彼は通話を切った。
再び鳴ると、眉をひそめて電源を切った。
服を選んでいる最中、彼は「ちょっとタバコを吸ってくる」と口実をつけて外に出た。夏美がその後をつけた。
廊下で、修二は深く煙を吸い込み、苛立った声で言った。
「自分で行くって言っただろ。俺はいま夏美とマタニティフォトを撮ってるんだ」
言い終えた瞬間、自分の失言に気づいたようだ。
「純子、落ち着け」
マタニティフォトという言葉が純子の神経を鋭く刺した。自分の子はもういないのに、夏美の子は無事だ。どうして?
修二はスマホ越しにも純子の悲しみを感じ取れた。黙ったまま、一本、また一本と煙草に火をつける。
純子は大学を卒業してから、彼と共に、会社のために酒の席で年配の男たちを相手に立ち回ってきた。
あの夜、酔った勢いでの出来事。ベッドに滲んだあの鮮やかな色。それらが走馬燈のように、彼の脳裏を巡り、燒きついて離れない。
その後、純子は妊娠した。だが、彼は無理やり彼女を中絶に連れて行った。手術台に身を横たえた純子は、唇を噛みしめ、すべての痛みを無言で飲み込んだ。
結局、純子を傷つけたのは彼だった。
修二は深く煙を吸い込み、煙草の火を靴先で踏み消した。
「帰隠寺で待っててくれ。すぐ行く」
夏美がちょうど着替えを終えた頃、修二から電話がかかってきた。
「夏美、ごめん。会社で急用ができて……」
「大丈夫、行っていい」
三十分後、夏美は帰隠寺で修二と純子に会った。
彼は寺に二千万円を寄進し、住職に二人の子どもの供養をしてもらった。
純子は悲しみに打ちひしがれ、修二の胸に倒れ込んだ。
修二は彼女を抱きしめ、何かを呟きながら慰めていた。
二人が去ったあと、夏美はそっと近づき、彼らが残していった書類に目を通した。やがて彼女の目に留まったのは、水子供養の供養帳に記された一文だった――
【我が息子の十年の寿命と引きかえに、娘の来世の幸せを願う】
修二の息子って?
夏美のお腹の中の子は、男の子だ。どうして私の子の寿命で、修二の罪を償うというの?
夏美は魂が抜かれたように、二人が去った方向へふらふらと歩き出した。
気づけば、遊園地の入口に立ち尽くしていた。
妊娠がわかったとき、修二は喜びのあまりこの遊園地を買い取ったのだ。
彼は夏美の手を引き、メリーゴーランドに乗りながら笑顔で言った。
「もし生まれてくる子が女の子だったら、世界で一番きれいなドレスを買ってあげる。そしてお前とその子がメリーゴーランドで笑っている姿を、ずっと見ていたいんだ」
修二は夏美を連れてパイレーツシップに乗った。夏美は怖くて思わず彼の胸に飛び込む。彼は低く笑いながら言った。
「もし俺たちに息子ができたら、そいつには俺と一緒に『ママを守ること』を約束させる。もしやんちゃしてお前を怒らせたら、俺がその悪ガキをパイレーツシップやジェットコースターに連れ込んで、何度でも思いっきり泣かしてやる。心から謝るまで、絶対に許してやらないからな」
最後に、修二は夏美を観覧車へと誘った。観覧車が頂上に達した瞬間、彼は指輪を取り出し、星のように輝く瞳でプロポーズした。
「夏美、俺はたくさんの子どもが欲しい。お前とだけ。結婚してくれるか?」
夏美は顔を上げ、観覧車を見つめた。胸の奥がきゅっと締めつけられる。
彼女は力なく微笑み、背を向けて歩き出そうとしたその時、見知らぬ番号からの着信が表示された。
夏美が電話に出ると、スマホの向こうから、純子の泣き声混じりのうめき声が聞こえてきた。
「修二、やめて……触らないで。奥さんのところに行って、好きなだけイチャついてればいいじゃない。私なんか、放っておいてよ」
「聞いてくれ、純子。ここを離れる前に、どうしてもお前を抱きたいんだ。海崎市で一番高い場所でな」
夏美は思わず頭を上げ、夜空に浮かぶ観覧車を見つめた。涙がひとしずく、頬を伝って落ちていった。
純子の声はどんどん大きくなり、懇願するように言った。
「修二……お願い。私に子どもを産ませて。何もいらない。ただ、異国の地であなたの赤ちゃんと一緒にいたいの」
修二の動きが止まった。
純子は彼の前に跪き、媚びるように唇を寄せた。
「修二、ちゃんとおとなしく海外にいるって約束するから……いいでしょ?」
修二は心が一瞬だけ揺らぎ、かすれた声で答えた。
「……分かった」夏美は呆然としたままスマホを切った。
修二への憎しみが胸の奥から込み上げてくる。
浮気する場所なんて、どこにだってあっただろうに。なぜよりによって遊園地なんかで。自らの手で、二人だけの大切な思い出を、めちゃくちゃに壊してしまったんだ。
スマホの着信音が再び鳴り響く。
今度は婚約者の修一だ。
「夏美、結納金はいくらがいい?白野グループの株を51%渡す、これで足りるか?」
夏美は氷のような声で答えた。
「遊園地一つ」
私が欲しいのは、ただ一つの遊園地だけ。
第4話
修二は帰宅しても寝室には入らず、リビングのベランダで一晩中煙草を吸っていた。
どういうわけか、彼は純子の願いを聞き入れ、彼女を観覧車に連れて行き、さらに子どもをつくる約束までしてしまった。
しかしいいことに、彼女は明日には国を離れる。もう二度と帰ってくることはないだろう。
そう思うと、修二の胸の重苦しさは少し和らいだ。
翌日、夏美には中絶手術の予約が入っている。
彼女は4Dエコーを終えてから手術を受けることに決めていた。4Dエコーでは、赤ん坊の姿がはっきりと見えるのだ。
それは、子どもが夏美と修二に残してくれる最後の贈り物であり、また夏美が母として子に注ぐ最後のぬくもりでもある。
「夏美、赤ちゃんは誰に似てると思う?お前に似てたらいいな。夏美の美しさと賢さを受け継いでほしい」
道中、修二は途切れることなく話し続け、その瞳には期待が溢れている。
夏美は一言も発せず、ただ黙っていた。
病院の正門に着いた途端、修二のスマホが執拗に鳴り始めた。
彼は画面をちらっと見ると、慌てて電源を切り、夏美に笑顔を向ける。
「クライアントからだ。無視しよう、俺たちの息子を見に行こう」
そう言いながらも、修二の様子は落ち着かない。
夏美が診察を受けているとき、医師のプローブがお腹に触れようとした瞬間、検査室の扉が乱暴に開けられた。
修二の運転手が駆け込んできて、彼の耳元で何かを囁く。
修二の顔色が一瞬で真っ白になった。「今、なんて言った?」
夏美は不思議そうに彼を見つめた。修二は言葉を詰まらせながら、しどろもどろに説明し始める。
「夏美、ごめん。ちょっと急用ができたんだ」
「私たちの赤ちゃんのことよりも大切なの?」
夏美は修二の腕を掴み、震える声で言う。
「赤ちゃん……パパとママに会いたがってるのよ」
せめて一度だけでいい。お腹の中の赤ちゃんに、パパとママの顔を見せてあげて。二人が心から愛しているって、伝えてあげたいの。それでもだめ?
修二は覚悟を決めたように言い放つ。
「ごめん、夏美」
彼は彼女の指をほどきながら、優しく慰める。
「また次があるさ。その時は必ず一緒にいるから」
修二がドアを閉めた瞬間、夏美の目に赤ちゃんのはっきりとした顔が映った。
まんまるな顔に、細く長い目。確かに夏美にそっくりだ。
彼女は笑いながら、涙をこぼした。
修二、次はないのよ。あなたはもう、この子に会えないんだから。
夏美が手術室に運ばれていく時、修一の執事が慌てて駆け込んできた。
「藤田さん、修一様がお子様の父親になるとおっしゃっています。もう手術を受ける必要はありません!」
修一は修二とは違っている。
彼の夏美への愛は熱く、まっすぐだ。修二の浮気を知ったその瞬間、彼は弟の恋人を奪う決意をしたのだ。
彼は、夏美が妊娠していることを気に留めなかった。けれど、夏美の心には、すべてを断ち切るという覚悟が固まっていた。
断つなら、徹底的に。
夏美は麻酔を拒んだ。
冷たい機械が下腹部を往復し、彼女は拳を噛みしめ、声一つ漏らさず痛みに耐えた。
医師と看護師たちは無心に手を動かしながら、つい噂話を始めた。
「ニュース、見た?トレンド入りしてるあの話、白野修二が野村家の会員制クラブをめちゃくちゃにしたんだって。秘書を助けるためにらしいさ」
「野村家?それって白野修二の最大の取引先じゃない?いったい何を考えてるのよ!」
「さあねぇ……聞いた話だと、野村強(のむら つよし)が白野修二の秘書に薬を盛ったみたいで。白野修二がその秘書を抱えて出てきた時、秘書はほとんど裸みたいな恰好で、泣きながら彼にすがりついてたんだって」
夏美は握りしめた拳にさらに力を込め、ついには拳から血がにじみ出た。
しばらくして、機械の音が止まり、医者が冷ややかに問いかける。
「藤田さん、手術は終わりました。ご家族の方に連絡しましょうか?」
夏美は目を閉じ、息も絶え絶えに言う。
「いえ……外の執事にだけ知らせてください。赤ちゃんの処分も彼に任せます」
なんて皮肉なんだろう。自分が中絶手術中に、赤ちゃんの父親は恋人を救うために英雄気取りで駆けつけている。
あの人は、自分がこの子を諦めたと知ったら――ほんの少しでも、後悔するだろうか。
第5話
修二がそっと家に戻ったとき、空はすでにうっすらと白み始めていた。
朝の光が夏美の体をやわらかく包み、その姿をいっそう穏やかに見せていた。修二は吸い寄せられるように、そっと彼女のそばへ歩み寄った。
ふと、かすかな血の匂いが漂ってきて、彼の眉がぴくりと動いた。
かつて純子を中絶手術に連れて行ったときにも、あのときと同じ匂いがしていた。
修二の視線は夏美の腹部へと落ち、震える手がそっと布団の中へ伸びていく。
「触らないで」
夏美は身じろぎもせず、目を閉じたまま冷たく言い放った。
修二の手は空中で止まり、気まずさを隠すように口元を歪める。
「お前の検診に立ち会えなかったのは、怒って当然だ。誓うよ、これからは絶対に欠かさない」
夏美の目尻から、涙がひとしずくぽろりとこぼれた。枕に滲む。嗚咽を押し殺しながら、彼女はかすかな声で答える。
「もう次はないの」
修二の胸は再び締めつけられるように高鳴り、震える声で問いかける。
「赤ちゃん……大丈夫なのか……?」
夏美はまぶたをわずかに上げ、彼を一瞥すると、枕元のテーブルに置かれたエコー写真に視線を移した。
修二はその紙を慌てて手に取り、数秒間食い入るように見つめたあと、顔をほころばせた。
「赤ちゃん、お前にそっくりだ。顔立ちが整ってて、近い将来、きっと女の子たちを夢中にさせるだろう。夏美……」
「もう疲れた」
夏美の下腹部に鈍い痛みが走り、長くこのままでいれば修二に異変に気づかれてしまうのではと恐れた。
「修二、城南区の羊羹が食べたいの」
「わかった、すぐ買ってくる」
修二の沈んでいた心は一瞬で晴れ渡った。
昨夜、純子は薬を盛られ、医者が来る前に、彼女は修二を何度も誘ったのだ。
彼は本当は拒むつもりだった。だが、純子の妖艶な眼差しを前にすると抗えず、そのまま流れに身を任せてしまった。
家に帰る道中、修二はいくつもの言い訳を考え続けていた。夏美にすべてを説明する――たとえ罵られ、殴られようとも、彼はそれを受け入れる覚悟でいた。
ところが、夏美は泣きもせず、怒りもせず、何も尋ねなかった。ただ従順に微笑む姿が、かえって彼の胸を締めつけた。
列に並び、ようやく羊羹を手にした瞬間、修二の中に欲心が芽生えた。
妻も、愛人も、どちらも手放したくない――
否定できないのだ。彼は純子の肌のぬくもりに、そして男をとりこにするあの官能の技に、心のどこかで未練を抱えている。
もう少しだけ、このままでいよう。
うまく隠し通せば、夏美には決して知られないはずだ。
修二は知らなかった。彼が家を出てわずか十分も経たぬうちに、純子が家を訪ねてきたことを。
「藤田さん、ちょっとお届け物を持ってきたの」
純子はドレスをまとい、わざと首筋のキスマークを隠さずに見せつけた。それは、昨夜修二がどれほど激しく求めたかを、夏美に思い知らせるためだ。
夏美は紙袋を受け取り、険しい表情のまま扉を閉めようとした。
「何が入っているのか、気にならないの?」
純子は身を滑らせるように中へ入り、勝手に袋の中身を取り出して夏美の手に押しつけた。
軽く笑いながら言う。「修二、せっかちだからね。ベッドの上に置き忘れたのよ」
唇の端に笑みを浮かべ、視線を一瞬もそらさず、じっと夏美の顔を見つめる。
「仕方ないわよ。修二、私の手をネクタイで縛って、頭上に持ち上げて、強く――」
パシンという鋭い音が響いた。
夏美は勢いよく純子の頬を打ち、歯を食いしばって罵った。
「この下衆女!本妻の前に平気で姿を現すなんて、どんな面の皮の厚さよ!修二に今すぐすべて話してやろうか!」
純子は満足げに微笑んだ。夏美を怒らせること、それこそが彼女の狙いだった。
「修二はまだ独身よ。何が起こるか分かったものじゃない。私もあなたも、所詮は彼の女の一人。あなただけが『本妻』気取る権利なんて、どこにもないわ」
夏美は視線の端で監視カメラの赤いランプが点いたのを捉え、正常に作動しているのを確かめると、再び手を振り上げた。
純子はその手首を掴み、わずかに力を込める。
夏美の体はその勢いで後ろへ倒れ、腹をソファの縁にぶつけたあと、冷たい床に倒れ込んだ。
純子は一瞬たじろいだが、修二の自分への偏愛を思い出し、唇を歪めて吐き捨てる。
「修二はもうあなたを愛してないのよ。そんなに縋りついて、何の意味があるの?
あなたにプロポーズした観覧車の中で、彼は私を抱いたのよ。それでも少しも気にならないの?」
夏美は腹を押さえたまま、沈黙し続けた。
純子はしゃがみ込み、挑発するような声で言う。
「あなたって、結局お腹の子を盾にして、修二を縛りつけてるだけじゃない。残念だけどね、その子、短命みたいよ」
夏美は怒鳴った。「何を馬鹿なこと言ってるの!?」
「あの子の十年分の寿命をもらって、私の亡き子の供養に充ててるのよ」純子は口元を押さえ、花が揺らめくように、うっとりと、そして気味悪く笑った。
夏美は堪忍袋の緒が切れ、手にしていたネクタイを素早く純子の首に巻きつけ、力いっぱい締め上げた。
この一年分の悔しさ、屈辱、憎しみが、すべて手に込められる力を増していく。
さらに、さらに強く――
純子の顔が真っ赤に染まったとき、ようやく夏美は我に返り、ネクタイが手から零れ落ちた。
純子は夏美を突き放すと、数度、荒い息を整えて、慌ただしく立ち上がり部屋を出ていった。
そしてドアの前で振り返り、捨て台詞を吐くように言った。
「あんたの子が死産になっても構わないわ。私がいるんだもの。修二はね、私にも子どもを産んでほしいって、そう言ってるんだから」
夏美は、純子が逃げるように背を向けて去っていく姿をただ見つめていた。心の中は、打ち寄せる波が引いた後の湖面のように、音もなく静まり返っている。
ああ、楚山純子って、ほんとうに愚かな人。
第6話
ドアベルが再び鳴った。
今回は修一の手配したデザイナーが、夏美のウェディングドレスをオーダーメイドのために、自宅まで訪ねてきた。
「藤田様、こちらのドレスのデザイン案は、すべて白野社長が事前にご用意されたものです。どのお仕立ても予算は千万円単位となっています。
白野社長からは、『お気に召すものがございましたら、ご予算は一切気になさらずに』とのお伝言をいただいております」
凍りついていた夏美の心に、かすかな温もりが戻る。彼女は真剣な眼差しでデザイン画を一枚一枚確認し、シンプルで上品な一着を選んで試着した。
姿を現したその瞬間、まるで天女のようだ。
デザイナーは数枚の写真を撮り、すぐに修一へと送信した。ちょうど帰宅した修二の視線に、夏美の姿が映り込む。
修二の手から羊羹の袋が床に落ち、喉仏が大きく動いた。
「夏美……本当にきれい……」
夏美の瞳の光がふっと翳り、彼女はドレスの裾をそっと手に取って寝室へと戻り、着替え始めた。
修二は寝室のドアに鍵をかけ、背後から静かに夏美を抱き寄せ、深くその髪の香りを吸い込んだ。
顔を彼女の首筋に埋めて、囁くように言う。
「夏美、ずいぶん長い間、お前を抱いていなかった。いいか、そのまま、ウェディングドレスを脱がないで」
修二の唇が、夏美の頬から首筋へ、そして胸元へとゆっくりと辿り下りていく。
夏美は胸がむかむかと波打つのを感じ、思わず彼を強く突き放した。
「だめ……!お腹に、まだ赤ちゃんがいるの!」
修二の瞳の奥の熱が、徐々に褪せていく。彼は軽く咳き込んで、一歩距離を取った。
そして何かを思い出したように顔を上げ、「あのデザイナー、どこかで見たことがあるな。浜辺市の人じゃないか?」と呟く。
夏美は視線を逸らし、修二に揉まれて皺になったドレスの裾を整えながら、平静を装って答えた。
「友達に紹介してもらったデザイナーよ。ウェディングドレスの試着をしてみただけ」
夏美は視線を上げ、口元に含み笑いを浮かべた。
「どうしたの、修二。お金が惜しくなってきた?」
修二は肩をすくめ、構わないというような表情で言った。「俺が稼いだ金は全部お前のものだよ。夏美が欲しいと言うなら、たとえ星でも取ってきてあげる」
彼の手が伸び、夏美の鼻先を軽くつついた。それは二人だけの小さな戯れだ。
夏美は一歩引いて身をかわした。「顔にメイクしてるの」
修二は気まずそうに手を引っ込め、胸の奥に言葉にできない不安が広がった。
それでも彼は笑みを浮かべたまま夏美を見つめ続け、満足そうに頷く。
思わず口をついて出た。「夏美、もう待てない。早くお前と結婚したい」
そうだ、自分は夏美を娶るのだ。彼女を守るのだ。
夏美が自分と結婚するのだと思うと、ふわふわと地に足がつかないような心が、ようやくしっかりと地面を踏みしめたように、静かに落ち着いていった。
夏美はドレスの裾をそっとつまみ、にっこりと微笑んだ。
「いいわ。私も結婚したいの」
――ただし、あなたの兄とね。
修二は秘書にイブニングドレスの手配を指示すると、夏美の腰に手を回して引き寄せ、低く甘い声で囁く。
「今夜、晩餐会に出席してくれないか?婚約者として」
……
夏美がミドリフドレスで会場に現れた瞬間、会場中の視線が一斉に彼女へと注がれた。
修二は誇らしげに夏美の存在を紹介した。
「こちらは、俺の婚約者の藤田夏美です。挙式の日程はまだ未定ですが、決まり次第、改めてご案内をさせていただきます」
晩餐会の場は祝福と拍手の音に包まれた。
次に控えたのは、修二の会社による新製品発表会だ。登壇した人物が姿を現すと、会場に一瞬のざわめきが走った。
それが、なんと純子なのだ。
彼女が身にまとったイブニングドレスは、先ほど夏美が着ていたものとデザインこそ同一ながら、はるかに肌の露出が多く、あからさまにセクシーなシルエットを強調している。
彼女は冗談めかして口を開いた。
「あらあら、悲しいなぁ。社長が婚約をお披露目したのに、残念なことに、その相手が私じゃなかったんです」
一同の視線が純子と夏美の間を好奇深く行き来する。まるでこれから始まる一幕のドラマを期待するように。
「でも、大丈夫。私はもう決めました。白野社長の会社に、私、『お嫁に行く』ことにしました。これからはね、会社が新製品を出すたびに、それが私の新しい『旦那さま』になるのですから!」
修二は一瞬、眉にわずかな陰りを浮かべたが、すぐに表情を整え、他の来賓と共に拍手を送った。
発表会が終わると、純子はワイングラスを手に、まっすぐステージを降りてくる。彼女は軽やかに修二の腕に手をからめながら、夏美に向かって小ばかにしたように眉を上げた。
「藤田さん、今夜だけ、白野社長をお借りしてもいいかしら?あなたはご存じないでしょうけれど、ここにいる古参の連中、誰の言うことも聞かないのよ。認めるのは白野社長と私だけ。お仕事のためだから、わかってくださるわよね?」
夏美がまだ返事もできないうちに、純子の頭上に赤ワインがぶっかけられた。
「きゃあっ!」
純子は悲鳴を上げて振り返り、相手の顔を一目見るなり、怒りに震える声で詰め寄った。
「あんた、何者よ!」
第7話
「兄さん!ど、どうしてここに……?」
修二の声はわずかに震えている。
彼は海崎市で独力で地位を築き上げたように見えたが、実際には最初の資金は白野家の裏の支援なしには得られなかったことを、彼はよく知っていた。
修一は手にしていた空のワインボトルをそっと置くと、ハンカチを取り出し、指先についた液体を丹念に拭い取る。
顔を上げもせずに言い放った。「修二、こいつはお前の女か?」
修二は夏美の腰をぎゅっと抱き寄せ、一呼吸置いてから応じた。
「兄さん、冗談きついよ。俺の恋人は夏美だけだ」
「ほう?」
修一はゆっくりと純子の方へ顔を向け、氷をまとったような声で言い放った。
「夏美の前で、よくもそんな茶番ができるな。事情を知らない人間が見たら、お前が修二の妻だと勘違いするだろう」
そして修二の方を振り向いて言い放つ。
「修二、聞け。お前は隠し子とはいえ、一応、白野の姓を名乗る身だろうが。白野家の男に、このような見苦しい女を側に置く趣味はない。
ましてや、これほど露骨に色気を振りまく女など、論外だ」
修二の顔色が一瞬で赤くなり、たちまち青ざめていく。
「どうした?俺に始末しろとでも言うのか?」
修一が鋭い眼光でにらみつけると、修二は秘書に目配せをし、純子をその場から連れ出させた。
純子の悔しさに歪んだ顔は、赤ワインのしずくがまだ滴っており、恐ろしい形相を浮かべていた。
「白野社長……」
修二はうんざりしたように言う。「先に帰って着替えろ。今後、こういう場には出なくていい」
純子が秘書に伴われてその場を離れると、修一はさらに皮肉を重ねた。
「久しぶりに会ったが、人を見る目は相変わらず、いや、随分と『冴えている』ようだな」
「人を見る目」という言葉を、修一はわざとらしく強調する。
「楚山秘書は、とっくにアメリカに出向したんじゃなかったか?どうしてまだここにいるんだ?まさか修二、お前が未練がましいというのか?」
修二はうつむき、声を押し殺すように低く答える。
「純子がちょっとしたトラブルに巻き込まれてしまって。結婚式が終わったら海外に行かせるつもりだ」
「命の恩人か?それとも生みの親か?まさか、お前の母親の席に座らせて、夏美に酌でもさせようなんて考えてるんじゃあるまいな?」
修一はポケットに手を突っ込み、冷ややかな目で詰め寄った。
「お前の結婚式はいつに決めた?急がないなら、この俺が先に挙げさせてもらうぞ」
修二は驚いて顔を上げた。
「兄さん、結婚するのか?相手は誰だ?」
修一の視線が夏美をゆっくりと巡り、口元にほのかな笑みが浮かんだ。
その声には、かすかな嘲りを含んだ。
「俺たちの式は三日後だ。父さんの指示だと、お前のはその翌日に挙げていいってさ。まあ、慶事が重なって、めでたさも二倍ってわけだな!」
修二は、目上の者への礼儀をわきまえていた。立場上、自分が隠し子である以上、父の意向に逆らうわけにはいかない。
心の中では納得がいかないものの、口ごもりながらも「……わかった」と答えるしかなかった。
「それと、俺の婚約者のことだが――」
夏美は彼が余計なことを言い出さないよう、じろりとにらんだ。
修一は困ったように額に手を当て、口調を一転して柔らかくした。すっかり恐妻家の風情である。
「あいつは照れ屋で、からかいにも弱くてな……そのうち自然に会うことになるさ」
父がそう言い渡した以上、修二と夏美の結婚式の日取りはそれで正式に決まったわけだ。
修二と夏美は車の中で並んで座っていたが、それぞれ別の思いを抱えていた。
「兄さんと父さんが、俺のことをこんなに気にかけるなんて、どういうこと?」
修二は夏美の手をそっと撫でながら、胸の中で疑問を抱えていた。
夏美は数分前に修一から届いたメッセージを思い出す。
【すべて準備完了。結婚式当日、お前を迎えて浜辺市へ戻る】
【今夜のイブニングドレスは持ってきて。俺のためだけに着てほしい】
修一の真っ直ぐな視線が、夏美の心に波紋を広げた。彼女は思わず、過激なシーンを連想してしまい、耳の付け根まで真っ赤に染まった。
「夏美?」
修二がもう一度問いかける。
「兄さんに彼女ができたって話、聞いたことある?こんなに長く誰かを好きになったなんて、今まで一度も聞いたことないんだけど……」
修二はふと眉をひそめ、夏美をじっと見つめた。一瞬、ある考えが頭をかすめるが、すぐに打ち消した。
夏美は慌てて言い訳を考えようとし、苦笑いを浮かべた。
「たぶん、誰かが囲ってる女が式に乱入して、白野家の名に傷をつけるんじゃないかって心配してるだけよ」
修二の顔は暗く沈んだ。
「心配するな。結婚式の前日に俺は純子を海外へ連れて行く。当日中には戻るから、ちゃんと式には間に合わせる」
「わかったわ」
夏美の気のない返事に、修二の胸の奥がざわついた。
普通の女なら、婚約者が式の直前にいなくなるなんて許せないはずだ。
夏美のその態度に、彼の胸の内で苛立ちがくすぶった。
「夏美、怒ってないのか?」
夏美はそっと笑い、皮肉を込めて言う。
「あなただってわかってるでしょ。結婚なんて、私たちの関係を繋ぎとめる最後の手段よ。私にどうしろっていうの?泣きわめいて、それとも首をくくれって?
修二、いつから女同士の醜い争いを楽しむようになったの?それじゃ、この結婚、楚山にお譲りしましょうか?」
「そんなつもりじゃない。誤解するな……」
夏美は顔をそむけて窓を開け、身を乗り出した。吹き抜ける夜風が彼女の頬を撫でていった。
修二の声が耳の奥から遠のいていく。その代わりに、ふと修一の声がよみがえった。
「夏美、お前を嫁にもらいたい……」
修二が純子を国外へ送り出すその朝、夏美は珍しく彼のために朝食を用意した。
ご飯を食べ終えた修二の目が少し潤む。
「夏美……約束する。今夜には必ず戻る」
夏美は視線を逸らし、箸先でご飯をかき回しながら上の空で答える。
「うん」
修二は玄関を出て二三歩進んだところで、ふと振り返った。いつものように見送ってくれる夏美の姿が見えない。胸の奥が妙にざわめいた。
いつもなら、玄関まで見送ってくれる。今日はどうしたのだろう。
足を止めた修二は、衝動に駆られるまま、踵を返した。家に戻り、ドアを開けると、そのまま夏美を強く抱きしめ、抑えきれぬ思いを込めて唇を重ねた。
何かが胸の奥からすり抜けていった。けれど、もうどうあがいても、それを掴み戻すことはできなかった。
結局、修二は約束通りには帰れず、またしても約束を破った。
彼が帰国する前に、純子は手首を切って自殺を図った。彼を引き留めるために。
純子を落ち着かせた頃には、すでに翌日になっていた。
修二は夏美に電話をかける勇気が出ず、直接式場へ向かうことにした。
飛行機を降り、秘書が持ってきた新郎用のタキシードを受け取ると、車の中で慌ただしく着替えた。
新郎のブートニアの飾りが、なぜか一部欠けていて、どうしてもくっつかない。
「くそっ」
苛立ちながら彼は尋ねた。
「夏美は予備のブートニアを用意してくれてる?」
秘書が包みを取り出して言った。「藤田様からお預かりしているものです。予備のものかと……ご確認ください」
修二は異様に苛立ち、包みを乱暴に引き裂いた。
目に飛び込んできたのは、胎児らしき肉塊を写した衝撃的な写真。
【修二、あなたの息子を返す。結婚式は楚山に譲ってあげる。
あなたたちに、そして私自身にも――結婚、おめでとう】