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一生愛すると誓った夫は、妹に半分の愛をあげた
「本当に漂流島のプロジェクトに参加するのか?一度島へ渡ったら、二度と陸には戻れないかもしれないんだぞ。 加藤社長は君をあんなに愛してい...
Chương (1)
第1章
「本当に漂流島のプロジェクトに参加するのか?一度島へ渡ったら、二度と陸には戻れないかもしれないんだぞ。
加藤社長は君をあんなに愛しているんだ、絶対に同意しないだろう」
目の前に広がるロマンチックで眩いイルミネーションを見つめながら、加藤凛(かとう りん)の耳の奥では、夫である加藤哲也(かとう てつや)が別の女性に囁いた言葉が繰り返し響いていた。
「理恵、あのイルミネーションの中で輝いてる男女のシルエット、本当はお前なんだよ」
なんて滑稽なのだろう。哲也は世界中に向けて自分への溺愛ぶりをアピールし、誰もがそう信じて疑わなかった。
哲也は自分を狂おしいほど愛している、と。
しかし実際には、哲也の愛は二人の女に分け与えられていた。
しかもそのもう一人は、自分が幼い頃から妹のように可愛がってきた従妹の高木理恵(たかぎ りえ)だった。
「局長、私、漂流島へ行きます」
凛は電話口で、もう一度力強く宣言した。
哲也が二度を自分を見つけられない場所へ行く。半分しかない、偽物の愛なんて、もういらない。
第1話
「凛さん、本当に漂流島へ行って生態調査をする気か?あの島は海を漂い続けている。一度渡れば、二度と陸には戻れないかもしれないんだぞ」
加藤凛(かとう りん)が静かに「はい」と答えると、電話の向こうの渡辺真崎(わたなべ まさき)は息を呑んだ。
「だが……」
凛は真崎の躊躇いを遮り、きっぱりと言い放った。
「局長、ご心配なく。大学で獣医学も学んでいたし、私の能力はご存知のはずでしょう。テレビ局の中で、私以上にこのプロジェクトに適任な人間はいません」
電話口から、どうしようもないといった様子で深いため息が漏れた。
「分かった。君が一度決めたら誰にも止められないのは知っている。だが、これだけは絶対に加藤社長の許可をもらってくれ。そうでないと、彼が怒ってうちのテレビ局ごと潰されかねないからな」
真崎が冗談を言っているわけではないことは、凛にも痛いほど分かっていた。加藤哲也(かとう てつや)の自分に対する異常なまでの執着を思えば、テレビ局を潰すどころか、この盛沢市を更地にすることすらやりかねない。
幸い、加藤家がどれほど絶大な権力を持っていようと、それはさすがにできない。
自分はもう二度と、陸には戻りたくなかった。
電話を切ると、凛はすぐさまF国行きの航空券を予約した。出発は2週間後だ。
センター広場では、色鮮やかなイルミネーションが今も眩い光を放ち、街中の人々が見物していた。
「加藤グループの社長夫人のおかげね。こんな綺麗なイルミネーション、見たことない!」
「加藤社長が奥様のために、何千万もかけて特別にデザインさせたらしいよ。一つ一つの映像が全部違うシーンで、お二人のラブラブな思い出なんだって。ほら、あのバルコニーでキスしてるのとか……」
「見て、奥様のイニシャルも入ってる!これがスパダリの愛ってやつ?羨ましすぎる!」
周囲の羨望の声を聞きながらも、凛は微塵も笑えなかった。
もし30分前、あの路地に哲也を迎えに行かず、彼と自分の従妹・高木理恵(たかぎ りえ)が激しく口づけを交わす姿を目撃していなければ。
イルミネーションの男女のシルエットが、本当は理恵へのプレゼントだと語る哲也の言葉を聞かなかったら。
車の中、書斎の机、ソファの上……あの一連のロマンチックな映像が、すべて理恵との逢瀬を記念するものだったと知らないでいれたのなら。
今頃自分は、馬鹿みたいに笑いながら、幸せな嘘にどっぷりと浸かっていただろう。
凛の目頭が熱くなり、堪えきれずに涙が頬を伝い落ちた。
その時、ピンクの可愛いクマのポケットティッシュが差し出された。顔を上げると、目を輝かせた2人の女子大生が立っていた。
「もしかして、感動して泣いちゃったんですか?
私たち、近くの大学の恋愛心理研究サークルの者なんですけど、一緒に写真を撮ってもらえませんか?
加藤社長との27年越しの幼馴染の恋、本当に憧れます!幼い頃から学生時代を経て、そしてウェディングドレスまで……ドラマの百倍甘いです!私たちのサークルでは、毎日お二人の恋愛を教材にしているんですよ!もしお二人が離婚するようなことがあったら、私たちもう恋愛の研究やめます……」
もう一人の女子大生が慌てて制止した。
「ちょっと、縁起でもない!加藤社長は奥様を永遠に愛する、もし裏切ったら天罰が下るって誓ったんだから……」
誓い?
誓いなんて、この世で最も無価値な代物だ。
凛は自嘲気味に微笑んだが、二人の純粋なお願いを拒むことができず、胸の痛みを堪えて無理やり笑顔を作り、写真に収まろうとした。
その時、カメラのフレームに端正で美しい男の顔が割り込んできて、女子大生たちがきゃっと声を上げた。
目ざとい一人が、わざとらしくウィンクしながらからかった。
「加藤社長、唇すっごく赤いですね。私たちに対する当てつけですか?加藤社長が恥ずかしくなくても、奥様が照れちゃいますよ」
隣に立つ哲也の体が強張り、一瞬焦りの色を浮かべたのを凛は確かに感じ取った。
自分はこの数日、唇が荒れていて口紅など一切塗っていなかった。
哲也の唇を染めるその鮮やかな赤い口紅の跡がどこから来たのかは、言うまでもない。
凛は、女子大生たちに砕け散った愛の現実を見せつけ、悲しませたくはなかった。
「お見苦しいところを見せてしまったわね」
凛はティッシュを取り出し、周囲の冷やかしの声の中で、哲也の唇を優しく拭ってやった。真っ白なティッシュにべっとりとついた鮮やかな赤い口紅が、ひどく目に刺さった。
野次馬が散った後も、哲也は相変わらず愛情に満ちた眼差しで凛を見つめていた。
「凛、信じてくれてありがとう。でも誤解されたくないからちゃんと説明させてくれ。この口紅は、発売が迫っている新商品のサンプルで、品質チェックを頼まれたんだ。だから少しだけ……」
「分かってる。説明なんてしなくていいわ」
凛は哲也から目をそらし、言葉を遮った。
この数年間、哲也はずっとこうだった。100%の安心感を与え続けてくれた。
飲み会や接待のたびに自ら報告を欠かさず、業界内で「妻に頭が上がらない」とからかわれるほどだった。
哲也の周りに現れる女性については、すべて自ら報告し、関係性をきっちりと説明してくれていた。
そして、常に他の女性とは距離を置き、余計な心配をかけないようにと、女性幹部が多い取引先との仕事を断ることさえあった。
だが、まさか自分の従妹である理恵と肉体関係を持っているとは、凛は夢にも思わなかった。
第2話
「凛さん、眠たくなっちゃった。今日は一緒に帰って、凛さんの家で寝てもいい?」
理恵が突然飛び出してきて、凛の腕を揺さぶりながら甘えるように言った。その大きな目は潤んで、愛らしく瞬いている。
理恵の口の端はわずかに切れ、血が滲んでいた。
ティッシュを握る凛の手が、かすかに震えた。
先ほど自分が拭き取ったのは、ただの口紅ではなく、理恵の血だったのだ。
気分が悪くなる。
「ダメだ。俺と凛にはまだ大事な用があるから、子供は邪魔するんじゃない。運転手に家まで送らせるから」
哲也は冷たく一蹴すると、凛の肩を抱いて背を向けた。
凛の視界の端で、白く華奢な手が後ろから哲也に忍び寄り、そのお尻を強くつねるのが見えた。
隣にいる哲也の体が明らかに強張り、歩みを緩めると、その大きな手で背後の小さな手を握り返し、仕返しとばかりに手のひらをくすぐっていた。
「ふふっ」背後から、理恵の楽しげで無邪気な笑い声が聞こえた。
凛の爪が手のひらに食い込み、血が滲むほどだった。心臓に鋭い刃物を突き立てられたかのように、息もできないほど痛んだ。
まさかこれほど露骨に、自分の目の前でイチャついているとは思いもしなかった。
自分が理恵を溺愛していることに甘えているのか、それとも哲也に対する絶対の信頼を逆手に取っているのか?
この目は節穴だから、気づかないとでも思っているのだろうか?
明らかにこの二人の勝ちだ。これほど長い間、自分は微塵も気づいていなかったのだから。
車の窓に寄りかかり、凛は流れるように過ぎていく外の景色をぼんやりと見つめていた。その瞳は暗く沈んでいた。
「凛、機嫌悪いの?
知ってる?凛の好きなバラエティ番組、今日更新されたんだよ。出演者が畑仕事に行くのに、間違えてフライ返しを持っていってさ……」
途切れることなく、男の声が耳元で響く。
スーツを完璧に着こなした哲也が大真面目な顔で冗談やゴシップを語る姿は、本来なら思わず吹き出してしまうほど微笑ましいものだ。
普段の凛なら、とうに哲也に笑わされてお腹を抱えていただろう。
だが今は、どうしても笑うことができなかった。
どんなに忙しくても、哲也は毎日1時間や2時間を割いてバラエティ番組やゴシップをチェックしていた。凛が好きで、それが彼女の笑顔を引き出せるから。
この世に、凛の笑顔より尊いものはないと哲也は言っていた。
凛が笑顔でいられるなら、何だってすると。
それなのに、なぜ哲也はよりによって、凛が二度と彼に対して笑えなくなるような真似をしたのだろうか?
瞳の奥に冷たい光を宿したまま、凛は顔を向けて哲也の話を遮った。
「理恵のこと、どう思ってる?」
哲也は一瞬言葉を詰まらせ、それから鬱陶しそうに眉をひそめて愚痴をこぼした。
「生意気だね。いつもお前にまとわりついて俺たちの邪魔をするし、正直あまり可愛げがない」
凛の瞳に、一瞬だけ驚きが走った。
一寸の隙もない、完璧な回答。少しのボロも出さない。
哲也の裏の顔は一流の役者なのではないかと疑いたくなるほどだった。
「車を止めろ!」
突然の怒鳴り声に、運転手が慌てて急ブレーキを踏んだ。凛の頭が前の座席にぶつかりそうになった瞬間、厚く大きな手がその額を受け止めた。
「驚かせてごめん、凛からもらったヘアゴムを落としてしまったんだ。あれは、俺をお前に縛りつけておくためのものなんだ。だから、どうしても拾いに行かなくちゃ」
少し離れた灰色の冷たいアスファルトの上に、花の飾りがついたヘアゴムが落ちていた。
以前、ネット上で「彼女のヘアゴムを腕につけて独占欲をアピールする」という行動が流行った際、凛は子供っぽいと呆れたが、哲也がどうしても欲しいと駄々をこねた。仕方なく凛はポニーテールを束ねていたヘアゴムを外し、彼の腕にはめてやったのだ。
その時の哲也は、まるで戦利品を手に入れたガキ大将のように大喜びし、一生凛に縛り付けてもらうんだ、と会社中で自慢して回っていた。
だが今、凛は気づいてしまった。たかがヘアゴム一本で、哲也を縛り付けておくことなどできないのだと。
男が心変わりする時、たとえ鋼鉄の鎖で縛り上げようとも、引き止めることなどできないのだ。
第3話
ふと凛の視線がフロアマットに落ちている白いワイヤレスイヤホンに向かい、無意識にそれを拾い上げた。
すると、そこから聞き慣れた甘ったるい女の声が漏れ聞こえてきた。
「哲也さんったら、昨日の夜ベッドではそんなこと言ってなかったじゃない?あんなに私のことが死ぬほど好きだって、一生離さないって言ってたのに、なんで今は可愛げがないなんて言うの?もう、男の人ってやっぱり嘘つきばっかりなんだから。
私、怒っちゃった。早く機嫌直してくれないと、もう口きいてあげないんだから」
理恵だった。
イヤホンからは、哲也のからかうような声も聞こえてきた。
「はいはい、俺が悪かったよ。じゃあ後でホテルに着いたら、たっぷりお詫びしてやるから」
凛は全身の震えを止めることができなかった。心臓が激しく波打ち、まるで鋭いナイフで少しずつ肉を削ぎ落とされているような激痛が走った。
イヤホンからは、まだ理恵の拗ねたような甘い声が続いている。
「あとどれくらいかかるの?1分でも会えないと胸が痛くなっちゃう。私が死んじゃったら、哲也さんを喜ばせる可愛い子猫ちゃんがいなくなっちゃうんだからね……ねえ、このイヤホン、すっごく違和感があるんだけど。外してもいい?」
「もう少し我慢しろ。俺の可愛い子猫ちゃんはそんなに待ちきれないのか?でもイヤホンつけてれば、いつでも声聞けるだろ?」
凛の目から涙が溢れ出しそうになった。彼女は両手で口を強く塞ぎ、込み上げてくる嗚咽と涙を必死に押し殺した。
つまり、哲也が自分に向かって甘く囁きかけていた愛の言葉は、いつだって自分一人だけが聞いていたわけではなかったのだ。
自分と一緒にいる時間でさえ、哲也はもう一人の女と水面下で愛を語り合っていた。
哲也はただの一度も、完全に自分だけのものになったことなどなかったのだ。
「凛、戻ったよ。どうした……」
車に戻ってきた哲也の言葉は、凛の手に握られた白いイヤホンを見た瞬間、ピタリと止まった。
彼の胸が跳ね、顔には隠しきれない焦燥感が浮かび、大きく目を見開いた。
音を立てずに通話を切ると、哲也は必死に取り繕おうと口を開きかけた。
「イヤホン、落ちてたから拾っておいたわ」
凛は胸の奥で渦巻く吐き気と絶望を強引に押さえ込み、無理やり笑みを作ってイヤホンを哲也に返した。
哲也は凛の笑顔の裏にある絶望に気づかず、内心ほっとすると、彼女の頭を優しく撫で、自分の手首を振って見せた。
「ありがとう、凛。
ほら、ヘアゴムも見つかったよ。これで俺は、一生凛の手のひらから逃げられないな」
凛は顔を背け、再び窓の外の景色へと視線を戻し、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「逃げられるわよ」
ホテルに足を踏み入れると、店員たちが両脇に並び、揃った動きで深々と頭を下げ、来客を迎えた。
ホテルの責任者が顔面を蒼白にして駆け寄り、謝罪してきた。
「加藤社長、奥様、大変申し訳ございません。スタッフの不手際により、最上階フロアが一時的にご利用いただけない状況となっております。つきましては、別階の個室をご用意いたしましたので、そちらへご案内してもよろしいでしょうか?」
哲也の顔色が一瞬にして険しくなり、今にも怒鳴りつけようとしたその時。
「構いませんよ」と、凛が淡々と言い放った。
これまで哲也は、いつも最上階を貸し切ってサプライズを用意してくれた。そこには数え切れないほどの美しい思い出が詰まっている。
もう、あの思い出たちは永遠にあの場所に置き去りにしよう。
席に着くと、真っ赤に咲き誇る99本のバラが凛の目の前に広がり、低く甘い声が響いた。
「凛、今日は俺たちが一緒になって9860日目の記念日だ。お前に出会えて本当に良かった」
実際のところ、今日は何の記念日でもない、ごく普通の一日だ。
だが哲也はいつもこうして、何でもない日にサプライズを用意し、頻繁に花やプレゼントを贈っては愛を囁いてくれていた。
凛と一緒にいる毎日は、すべてが記念すべき日なのだと言って。
凛は花束を受け取り、薄く微笑んだが、その目に笑みは浮かんでいなかった。
確かに、今日は記念すべき一日だ。
哲也と完全に決別すると決意した日。ある意味、記念日だ。
第4話
「凛、俺へのプレゼントは?」
哲也の眉は和らぎ、普段の鋭い目つきは愛情に満ちていた。その甘く優しい声は、聞く者の心を震わせるほどだった。
「2週間後になれば分かるわ」
凛はバラを置き、うつむいてスープを飲み始めた。その表情は誰にも読み取れない。
哲也のもとから完全に姿を消すこと。それが、哲也へ贈る最後のプレゼントだ。
テーブルの上のスマホが震え続けている。画面をスワイプした哲也の漆黒の瞳に、言い表しがたい欲望の炎が揺らめいた。
「凛、秘書が下で書類のサインを待っているんだ。ここで少し待っていてくれるか?」
凛が頷くや否や、哲也は大股でエレベーターホールへと急いだ。
実はさっき、凛の視界の端には、画面に映った女の白い肌の写真がはっきりと見えていた。
哲也が誰に会い、何をするつもりなのか、凛には痛いほど分かっていた。だが、後を追う気など毛頭ない。浮気現場を取り押さえるような茶番劇には、これっぽっちも興味がなかった。
それに、目の当たりにするのが怖かった。
赤ワインを一口喉に流し込む。苦くて、それでいて芳醇な味がした。
「奥様。加藤社長から、最上階にお越しいただくよう言付かっております。サプライズをご用意されているとのことです」
ワインでほんのり赤らんだ凛の顔に、驚きの色が浮かんだ。もしかして、自分の勘違いだったのだろうか?
哲也は、裏切るようなことをしに行ったわけではないの?
スタッフの案内に従って最上階に到着すると、凛は花びらが敷き詰められたレッドカーペットの上を、奥のプレジデントルームへと歩を進めた。
部屋に入ると、花々に囲まれたステージが目に飛び込んできた。
その瞬間、凛は確信した。この光景は、3年前に哲也が自分にプロポーズした時と、全く同じだと。
もっとも、あの時はここではなく、標高4000メートルの雪山の山頂だったが。
親しい友人たちが見守り、さらには全世界にライブ配信される中、哲也は片膝をつき、眩いダイヤモンドの指輪を掲げてプロポーズしてくれたのだ。
驚きのあまり凛が言葉を失っていると哲也は焦ったように息を整え、白く果てしない峰々と天に向かって誓いを立て始めた。「今生も来世も、永遠に凛一人だけを愛し抜く。もしこの誓いを破るようなことがあれば、決して……」
その先の言葉は、凛が彼の口を塞いで言わせなかった。
「哲也さん、私にどんなサプライズをしてくれるの?」
ざわめきと甘ったるい女の声が、凛を過去の記憶から現実に引き戻した。
凛は咄嗟に、物陰に身を潜めた。
ドアの隙間から覗き見ると、哲也が理恵の両目を背後から両手で覆いながら、ステージの中央へとゆっくり歩かせているところだった。
哲也が指を鳴らした瞬間、薄暗かった部屋が一気に明るく照らし出された。
部屋中が、理恵と哲也の親密な写真で埋め尽くされていた。様々な場所で撮られた、どれも幸せそうな笑顔の写真。そのすべてが凛の目に焼き付いた。
凛の脳裏に、いくつもの光景がフラッシュバックする。
そうか、哲也が出張だと嘘をついていたあの夜は、すべて理恵のベッドの上で過ごしていたのだ。
それに、哲也が自分に用意してくれたサプライズやプレゼントと同じものを、理恵も全部もらっていたのだ。
……
それにしても、プロポーズの言葉さえ、一寸の狂いもなく同じとは。
舞い散るバラの花びらの中、哲也は片膝をつき、情熱的に語りかけた。
「理恵、妻になってくれるか?
今生も来世も、永遠に理恵一人だけを愛し抜く。もしこの誓いを破るようなことがあれば、決して……」
「はいっ!」
理恵は目に涙を浮かべ、泣き声混じりに急いで哲也の言葉を遮った。
哲也は立ち上がり、ハンカチを取り出して理恵の涙を優しく拭った。
「どうだ?これで機嫌を直してくれたか?」
ドア越しに交わされる一言一句が、恐ろしいほど鮮明に凛の耳に届いた。
凛の口元に、自嘲の笑みが浮かぶ。
かつて自分の目頭を熱くし、心の底から感動させたあの誓い……
哲也にとっては、ただ愛人のご機嫌をとるための陳腐なジョークに過ぎなかったのだ。
第5話
理恵は唇を尖らせ、わざと拗ねたように哲也の手を振り払った。
「全然。凛さんの時は、たくさんの人に祝福されて、ライブ配信まであったのに。私なんて……」
哲也の顔が沈んだ。さっきまで甘く優しかった瞳は陰り、もう理恵を宥めようとはしなかった。
「理恵、いい加減にしろよ。最初から言っていたはずだ。俺のそばにいたいなら、永遠に日陰の存在として、誰にも知られずにいるしかないとな。
もし凛に知られたら、どうなるか分かっているな?一生涯で、正真正銘の俺の妻になれるのは凛だけだ。自分の立場を弁えろ」
理恵の瞳に一瞬だけ嫉妬と憎悪が閃いたが、彼女はすぐに哲也の首に腕を回し、顔を擦り寄せた。
「哲也さん、怒らないで。私がいけなかったわ。もうあんなこと言わないから。ねえ、悪い子にお仕置きして?」
哲也の胸の奥で渦巻いていた欲望はもはや抑えきれなくなり、理恵の真っ赤な唇に乱暴に噛みつくと、抱き抱えて寝室へと向かった。
凛はハッとして、慌てて周囲を見回し、つま先立ちでカーテンの裏へと隠れた。
男女の生々しい絡み合いの声が、部屋中に響き渡る。
ビリッ……プラスチックの袋を引き裂く音が、妙に生々しく耳を打った。
「あっ……待って、哲也さん、私……赤ちゃんが欲しい。私たち二人の子供が欲しいの。いいでしょ?
他には何も望まない……永遠に日陰の身でいい。でも、どうしても……子供が欲しいの。お願い、哲也さん、お願い……」
荒い息に混じる甘く柔らかな声は、理性を溶かし、まるで細い羽毛で心を撫でられているかのように哲也を昂ぶらせた。
欲望に霞む哲也の瞳に得体の知れない感情が過り、低く掠れた声が部屋に響いた。
「いいだろう、今回だけチャンスをやる。だが覚えておけ。子供の素性は誰にも知られてはならない。俺も絶対に認知しない。分かったな?」
「約束する……哲也さん、愛してる……」
ポイッ、と。小さな四角い包装が床に放り投げられ、凛はそれを見つめた。
ベッドの上で激しく絡み合う二人は、カーテンの裏で全身を震わせている凛の存在に微塵も気づいていない。
哲也が浮気しているという事実はとうに受け入れていた。きっぱりと彼のもとを去る決意も固めていた。
だが、いざこの光景を目の当たりにすると、やはり心臓がコントロールできないほど痛み、まるで鋭利な刃物で滅多刺しにされているようだった。
凛は大きく息を吸い込み、必死に両手で口を塞ぎ、声が漏れるのを封じ込めた。
凛と哲也は27年来の幼馴染だ。18歳の時に交際を始め、24歳の時にようやく結婚した。
交際していた6年間、何度も同じベッドで眠ったが、哲也は全身を震わせ冷や汗を流してまで理性を保ち、決して一線を越えようとはしなかった。
女性の「初めて」はとても大切なものだから、結婚して夫婦という正式な関係になってから結ばれたい。安心感を与えたいし、心から大切にしたいからだ、と哲也は言っていた。
今、耳元に響き続ける男女の絡み合う音を聞いていると、あの頃の「大切にしたい」という言葉が酷く滑稽に思えた。
結婚して3年、二人の間に子供はできなかった。
子供好きの凛は、哲也に二人の子供が欲しいと何度も伝えていた。
しかし哲也は、子供は好きではないと言った。凛に出産の苦痛を味わわせたくないし、二人の愛情が子供に分散してしまうのが嫌だと言って。
今思えば、愛情を分散させていたのは、決して子供なんかではなかった。
この男の心そのものが、とうに変わってしまっていたのだ。
哲也はただ、自分との間に子供を作りたくなかっただけ。他の女となら、あっさりと子供を作れるのだ。
涙が音もなく、頬を濡らしていった。
第6話
凛は一睡もすることなく、朝まで響き続ける情事の音を、ただじっと耐えて聞き続けていた。
やがて朝陽が凛を照らし出した頃、重い瞼を開けてスマホの画面を見ると、哲也からの数十件の着信履歴とメッセージが入っていた。
【凛、どこへ行ったんだ?】
【凛、ごめん。昨晩はあんなに長くお前を放っておくべきじゃなかった。もう二度としないから、返事をくれないか?】
【心配している。どこにいるんだ?迎えに行くよ】
【凛、どこにいるんだ?会いたいよ。頼むから返事をしてくれ。お前の好きな朝食を買ってきたんだ】
【……】
凛が静かに画面を閉じると、すぐにまた画面が明るくなり、着信相手の文字が踊った。「愛する夫」って。
昨夜の光景を思い出し、凛の胸は再び激しい痛みに襲われた。
部屋から出ようとしたその時、清掃員たちが入ってきた。
「スパダリ社長がキレるのって本当に怖いね。加藤社長が顔を真っ赤にして怒鳴りながら奥様を探してるの見た?テレビの顔と全然別人じゃない?」
「奥様、どこに行っちゃったんだろうね。ホテルの中で迷子になるわけないし。愛妻家で有名な加藤社長なのに、なんで奥様を見失っちゃうのかしら」
たった一晩、自分の姿が見えなくなっただけで、哲也は耐えられないというのか?
だったら、自分がこの陸地から完全に姿を消してしまったら、どうなるの?
哲也は本当に発狂してしまうのかしら?
凛は自嘲するように首を振った。自分がいなくなっても、自分と顔立ちが似ている理恵がそばにいて、哲也を喜ばせてくれるのだから。
シャーッ、という音とともにカーテンが開けられ、青白い顔をした凛が清掃員たちの前に姿を現した。
「お……奥様!?どうしてこんな所に?」
凛は強張った顔に無理やり笑みを浮かべ、バッグから一束の札束を取り出して清掃員たちの手に握らせると、消え入りそうな声で言った。
「これは夫へのいたずらなんです。ここで私を見たことは、絶対に彼には内緒にしてくださいね。彼には階段の踊り場にいたって、そう伝えてください……」
最後の言葉を絞り出した直後、凛は目の前が真っ暗になり、その場に崩れ落ちて意識を失った。
目を開けると、ひどくやつれた顔の哲也が立っていた。
「凛、やっと気がついたか!死ぬほど心配したぞ。どうして急に倒れたりしたんだ?最近よく眠れていなかったのか?倒れるなんて久しぶりじゃないか?すっかり体力が落ちてるんだな。これから俺がしっかり栄養のあるものを食べさせて……」
まるで小言の多い母親のように喋り続ける哲也。以前の凛なら、その心配性に胸を打たれただろうが、今の彼女にとってはただの騒音でしかなかった。
病室のドアが再び開き、保温容器を持った理恵が入ってきて、呆れたように哲也の言葉を遮った。
「はいはい、そこまで。先生はただの過労だって言ってたわ。きっと凛さん、哲也さんを探し回ってたのよ。哲也さんもよ、凛さんをホテルに一人ぼっちにするなんて。これで少しは反省したでしょ?」
哲也はハッと何かに気づいたように、凛の手をきつく握りしめた。
「ごめん、凛。今回は俺が悪かった。仕事にかまけてお前を放っておくなんて、殴られても文句は言えない。約束する、もう二度と一人にはしない。許してくれるか?」
二人の三文芝居を見せられるのはもううんざりだった。凛は淡々と短く答えた。
「いいわ」
哲也は一瞬言葉を失った。凛が全く躊躇いもなく、泣きわめきもせず、一言の文句すら言わずにあっさりと許してくれるとは思ってもみなかったからだ。
哲也の胸に言い知れぬ不安がよぎる。凛の何かが、以前とは決定的に違っている気がした。
何か言葉を続けようとした時、理恵が保温容器を持って哲也を押しのけるように間に入り込んだ。
「哲也さん、凛さんに雑炊を飲ませる邪魔しないで。これ、凛さんに元気になってもらうために、いろいろ調べて作った特製のものなんだから」
目の前で健気に心配してくれる妹を演じる理恵を見つめながら、凛の瞳の奥に冷ややかな光が宿った。
幼い頃の記憶が、脳裏に蘇る。
「凛さんに指一本でも触れてみろ、ただじゃおかないぞ!」
幼い少女が震える手で包丁を握りしめ、凛の前に立ち塞がって、悪意を持って近づく男たちを威嚇していた。
あの一件以来、凛は理恵を実の妹のように可愛がってきた。
その後、理恵の両親が理恵に手を上げるたび、凛は彼女を背後に庇い、自分の家に連れ帰ったものだ。
理恵が養女であり、ひどい扱いを受けている不遇な境遇が、凛の同情心をさらに深めた。
自分に与えられたものは、必ず理恵にも同じものを用意し、二人は実の姉妹のように常に寄り添っていた。
だが、まさか自分の夫まで、理恵が欲しがるとは夢にも思わなかった。
第7話
「凛さん、はい、フーフーして冷ましたからね」
理恵が身をかがめると、胸元から痛々しくも生々しい赤いキスマークが覗いた。昨夜の激しさが容易に想像できる。
凛の視線に気づき、理恵は慌てて立ち上がって胸元を隠すと、頬を赤らめて恥じらうように言った。
「私……婚約者がいるの。彼、すごく優しくて……」
「哲也みたいに優しいの?」
凛の穏やかな声からは、いかなる感情も読み取れなかった。
「うん。背が高くてお金持ちでイケメン。それにすごく体力があって、昨日の夜は死んじゃうかと思うくらい疲れちゃった……」
凛は理恵の言葉を遮った。「なら、末永くお幸せに。元気な赤ちゃんを産んで、一生お二人で添い遂げられるといいわね」
その言葉に理恵の顔には幸せそうな笑顔が咲いたが、哲也の体はこわばり、その顔には明らかな動揺が浮かんでいた。
「哲也、どうして理恵に祝福の言葉をかけてあげないの?」
凛は顔色の悪い哲也を見つめ、小首を傾げて不思議そうに尋ねた。
哲也は保温容器を奪い取るように受け取ると、一瞬だけ気まずそうに目を逸らし、無理に笑顔を作って話題を逸らした。
退院の日、哲也は凛を抱きかかえて病院を出た。沿道には花束と拍手が溢れていた。
だが、凛の表情からは以前のような幸せそうな面影は消えていた。ただうつむき、誰にも顔を見られたくなかった。もし見られれば、その瞳が光を失い、死の静寂に包まれていることに気づかれてしまうから。
理恵は凛の世話をすると言って、一緒に邸宅へついてきた。
「凛、少し休んでて。俺がご飯を作って、後で呼びに来るから」
哲也の背中を追って小躍りしながら階段を降りていく理恵を見送り、凛は布団をめくって起き上がった。
廊下の隅に立つと、キッチンの様子がはっきりと見えた。
露出度の高いピンクのキャミソールを着て、ウサギの耳のヘアバンドをつけた理恵。彼女はまな板の上のニンジンを一本手に取り、それを口にくわえると、背伸びをして可哀想な子犬のような目で哲也を見つめた。
哲也は体をビクッと震わせ、両手を固く握りしめた。青筋が浮かぶその手は、怒りを抑えきれない様子で、低い声で叱責した。
「最近調子に乗りすぎだぞ。誰が家の中でそんな格好をしていいと言った?少しはおとなしくしてろ。理恵、二度と同じことは言わないぞ……」
言い終わる前に、哲也の唇はニンジンで塞がれた。
理恵の蠱惑的な声は、男を誘い込むような響きを帯びていた。
「大丈夫、凛さんは寝てるわ。ねえ、哲也さん、こういうのすごくスリルがあってドキドキしない?男の人ってこういうのが好きなんでしょ?それとも、怖気づいちゃってできないの?」
哲也の瞳に欲望の炎が燃え上がり、理性が完全に吹き飛んだ。大きな手が理恵を力任せにシンクの端へと押し付けた。
二つの体が、激しく絡み合う。
凛は静かに手元のスマホの録画停止ボタンを押し、背を向けて部屋へと戻った。
ダイニングテーブルに並べられた豪勢な料理を見ても、凛の食欲は一切湧かなかった。
哲也はサラダを取り分け、心配そうにうつむきながら口を開いた。
「凛、どうして食べないんだ?俺の作ったこの料理、一番好きだっただろ?もっと食べて体力をつけないと」
凛が頷いて箸を持とうとした瞬間、鮮やかなニンジンが目に入った。
「凛さん、ビタミンも取らなきゃダメだよ」
その猫撫で声に、凛の胃は激しく波打った。彼女はうつむき、込み上げる吐き気を必死に抑え込んだ。
だが視界の端で、テーブルの下で理恵と哲也の脚が絡み合い、小さく揺れているのが見えてしまった。
うつむいて料理を口に運ぶ哲也の顔からは、何の感情も読み取れなかった。
彼のスマホの画面が光り、凛はそこに表示されたメッセージを瞬時に捉えた。
【ねえ哲也さん、さっきのすごくスリルあったでしょ?】
哲也は慌ててスマホを手に取り、素早く文字を打ち込んで返信した。
【この間のお仕置きじゃまだ懲りてないようだな。後でたっぷり教育してやるから覚悟しておけ】
スマホを置くと、哲也は凛の頭を撫で、申し訳なさそうな優しい声を出した。
「凛、会社で急なトラブルがあって、1週間ほど出張に行かなくちゃならなくなったんだ。一人で留守番になるけど、大丈夫か?」
凛は小さく「ええ」とだけ返し、それ以上は何も言わなかった。
テーブルの向かいで、理恵が軽やかに言葉を繋ぐ。
「私が凛さんへのお土産、ちゃんと忘れずに買ってくるように監視しておくね!」
哲也は隣の凛の不機嫌さを敏感に察知し、再びその頭を撫でようと手を伸ばした。
凛は少しだけ顔を背けて哲也の手を避け、すっと立ち上がった。
「ごちそうさま。二人でゆっくり食べて」
冷ややかな凛の背中を見送りながら、哲也の漆黒の瞳に強い不安がよぎった。心臓が理由もなくざわめき、何か大切なものを失ってしまうような気がした。
だが、彼は首を振ってその考えを打ち消した。
バレるはずがない。理恵だってバレるようなヘマはしないはずだ。
第8話
深夜、スーツケースを引いて邸宅の玄関に立った哲也は、重厚で黒い鉄の扉から目を離せずにいた。
以前なら、出張のたびに凛は名残惜しそうに何度も言葉をかけてきて、服や食べ物が足りているか入念にチェックしてくれたものだ。
だが今回は、姿すら見せなかった。
哲也はますます異常を感じ、再び不安で胸が締め付けられた。踵を返し、部屋に戻って凛を抱きしめたい衝動に駆られる。ずっと凛のそばにいたいと、ふと思った。
その時、細い腕が哲也の手首に絡みついた。
「哲也さん、どこ行くの?お仕置きしてくれるって約束したじゃない?」
哲也の瞳に欲望の霞が掛かり、振り返ってその細い腰を抱き寄せると、そのまま車へと押し込んだ。
2階のバルコニーに立つ凛の視線は、遠ざかる黒いワンボックスカーを見送っていた。
「さようなら、哲也」
これまで哲也から贈られたジュエリーやバッグを、凛はすべてフリマアプリに出品した。
驚いたことに、わずか10分足らずで全て買い手がついてしまった。
購入者のIDを確認すると、それは哲也のアカウントだった。
凛の胸が跳ねた。何かに気づかれたのではないかと焦る。
だが丸一日待っても、スマホに新しいメッセージや着信が入ることはなかった。
凛は自嘲気味に笑った。きっと今の哲也は、理恵の胸に溺れていて、自分のことなど気にかける余裕もないのだろう。
ピンポーン。
チャイムが鳴り、ドアを開けると、そこには一通の封筒が置かれていた。
テレビ局からの書類かと思い封を開けると、中から生々しくも卑猥な写真の束が床に散らばった。
そこに写っていたのは、哲也と理恵だった。
慌てて逃げ去る差出人の背中を見つめながら、凛は静かにドアを閉めた。床に散らばる情事の写真には目もくれなかった。
そのまま2階へ上がり、自分の服やシーツをすべて整理し、支援団体へ寄付する手続きを済ませた。
旅立ちの前日。凛は部屋のウェディングフォトを取り外し、本棚に並んだアルバムをすべて庭へと運び出した。長年哲也から送られてきたラブレターやメッセージカードも一緒に。
小さな山のように積み上がったそれらの上に、火をつけた。
小さな炎は瞬く間に勢いを増し、あっという間に二人の美しい思い出の品々を灰へと変えていった。
凛は署名と捺印を済ませた離婚届を封筒に入れ、ポストに投函すると、理恵のチャット画面を開いた。
【プレゼントを送ったわ】
すぐに既読がつき、返信がきた。
【凛さんからのプレゼントなら絶対いいものだね。ありがと凛さん、大好き!】
ええ、本当にいいものよ。
これで理恵の願いが叶うといい。まあ、そう簡単にうまくいくとも限らないけれど。
翌朝早く、1週間連絡のなかった哲也からようやく電話がかかってきた。
「凛、あと1時間で飛行機に乗るよ。すごく会いたい。家でおとなしく待っててな!」
凛はふと、ひどく意地悪な冗談を言いたくなった。その声には一切の感情の起伏がない。
「哲也、もし今回あなたが現れなかったら、もう二度とあなたを待つことはないわ」
電話の向こうで、哲也の軽い笑い声が聞こえた。
「馬鹿なこと言うなよ。うちの凛が、俺を待っていないはずがないだろ?」
通話を切ると、凛はスーツケースを引き、一度も振り返ることなく邸宅を後にし、空港へ向かうタクシーに乗り込んだ。
搭乗手続きの1分前、哲也からメッセージが届いた。
【凛、ごめん。取引先で急なトラブルがあって、あと数日こっちに残らなきゃいけなくなった。帰ったら毎日そばにいると約束するから、待っててくれるか?】
凛の口元に薄い笑みが浮かんだ。予想通りの結末だ。
彼女は返信もせず、哲也をブロックすることもしなかった。
なぜなら、これから向かう漂流島は完全に圏外で、どんなメッセージも永遠に届かなくなるからだ。
凛はスマホを機内モードに切り替え、静かに目を閉じた。フワリとした浮遊感が全身を包む。
さようなら、盛沢市。
もう二度と会うこともないよ、哲也。