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何度も何度も君を諦めて
「お父さん、お母さん、私、実家に帰ってお見合いして結婚することにしたよ。今月末に帰るね」 早春の季節、まだ肌寒さが残る頃。佐藤明美はド...
Chương (1)
第1章
「お父さん、お母さん、私、実家に帰ってお見合いして結婚することにしたよ。今月末に帰るね」
早春の季節、まだ肌寒さが残る頃。佐藤明美はドアを開けながら電話をかけていた。彼女の柔らかな声は、しとしと降る雨の中に溶け込むように響いた。
彼女はコートの襟をぎゅっと寄せ、電話越しに両親がほっと息をつくのが聞こえた。
「明美、お父さんとお母さんはここ数年体の調子が良くなくてね。お前が早く家庭を築いてくれるのが一番の願いだったんだ。
よく決めてくれたな。帰ってきたら、梅子さんに頼んで、いい相手を何人か紹介してもらうよ」
両親がすでに準備を始めていると聞いて、明美の瞳がわずかに揺れた。少し世間話を交わした後、電話を切った。
そして、彼女はこの家をちらりと見回し、寝室に戻って荷物の整理を始めた。
第1話
「お父さん、お母さん、私、実家に帰ってお見合いして結婚することにしたよ。今月末に帰るね」
早春の季節、まだ肌寒さが残る頃。佐藤明美(さとう あけみ)はドアを開けながら電話をかけていた。彼女の柔らかな声は、しとしと降る雨の中に溶け込むように響いた。
彼女はコートの襟をぎゅっと寄せ、電話越しに両親がほっと息をつくのが聞こえた。
「明美、お父さんとお母さんはここ数年体の調子が良くなくてね。お前が早く家庭を築いてくれるのが一番の願いだったんだ。
今回決心がついて本当に良かった。帰ってきたら、梅子さんに頼んで、いい相手を何人か紹介してもらうよ」
両親がすでにお見合いの準備を始めていると聞いて、明美の瞳がわずかに揺れた。少し世間話を交わした後、電話を切った。
そして、この家をちらりと見回し、寝室に戻って荷物の整理を始めた。
引き出しにしまわれていた分厚いラブレターの束、タンスの奥に隠していた数冊の写真アルバム、そして本棚に並ぶ何年分もの日記。
それらはすべて自分の片思いの記録であり、すべて……中島悠斗(なかじま ゆうと)という男にまつわるものだった。
今、彼女はそれらを箱に詰め込み、迷うことなく下に運び出し、火をつけて全て燃やした。
オレンジ色の炎がゆらめく中、背後から足音が聞こえてきた。
振り返ると、そこにはパイロットの制服をきちんと着た、悠斗の姿があった。
背が高く、すらりとした姿だった。
彼はフライトから戻ったばかりのようで、明美が下にいるのを見つけると、口元を緩めた。
「何を燃やしてるんだ?」
彼は身をかがめて、まだ完全に燃えていないピンクの手紙を拾い上げ、眉を少し動かした。
「ラブレター?君、ラブレターなんて書いたことあったのか?誰宛て?」
明美は彼をじっと見つめ、何か言おうとした瞬間、彼は笑いながらその手紙を火の中に投げ入れ、彼女の頭を軽く撫でた。
「冗談だよ、そんな真剣な顔するな。過去なんて気にしないし、詮索するつもりもない。燃やし終わったら早く戻ってこい、寒いからな」
そう言い残して、彼はそれ以上立ち止まることなくエレベーターに乗り込んでいった。
彼の姿が完全に消えるのを見届けると、明美は視線を戻し、かすかに苦い笑みを浮かべた。
気にしないのか、それとも最初から関心がないのか。
手紙の封筒には彼の名前がはっきり書かれていた。少しでもまじめに見れば気づいたはずなのに、彼はそれを火に投げ捨てたのだ。
彼女は自分の恋人である彼を、丸10年間片思いしてきた。でも、彼はそのことを全く知らなかった。
15歳の時、明美は成績優秀が認められ、地方から特別枠で東京の南原高校に転入した。
当時の彼女は平凡で、おしゃれも知らず、地味で目立たない存在だった。
悠斗は彼女の同級生だった。
その頃の彼は、まるで月のように輝いていて、家柄も容姿も抜群で、彼女には手の届かない存在だった。
初めて彼に会ったのは入学初日。明美はバスに乗ったものの、交通カードをなくしてしまい、後ろに並んだ生徒たちが苛立って文句を言い始めた。
「金がないなら出ていけよ。美人ならともかく、こんなダサい服で前に立たれても邪魔なだけだ」
彼女はそれを聞いて恥ずかしさで顔を真っ赤にし、バスを降りようとした時、前から伸びてきた細長い手が彼女の代わりにカードをかざしてくれた。
感謝の気持ちでいっぱいになり、目の前の人に礼を言おうと顔を上げると、驚くほど整った少年の顔に目を奪われ、顔を赤らめ、言葉まで詰まってしまった。
「あ、あの、佐藤明美です。な、何年何組ですか?お金、後で返しますから……」
彼の声は心地よく響いたが、『いいよ』とそっけなく返ってきただけだった。
後で知ったことだが、彼の名前は中島悠斗。南原高校の人気者で、恋人を次々と替える遊び人として知られていた。
その日から、明美の視線は自然と彼を追うようになった。
彼の机はラブレターで溢れていたのに、彼女は夜ごと灯りをともし、募る想いを綴り続けた。
彼が美しく優秀な子を好むと知り、彼女は必死に勉強し、ダイエットに励み、メイクを覚え、臆病な自分を変えようと努力した。
そしてついに、彼と同じ大学に合格し、すっかり変わった彼女の姿に、ようやく彼に気づいてもらえるようになった。
大学2年の時、悠斗の方から近づいてきて、彼女が高校時代の同級生だとは気づかず、笑いながら言った。
「俺の彼女になってみる?」
明美は涙をこらえながら頷いた。
彼女は彼の78人目の恋人となり、そして最後の恋人になった。
彼女と付き合い始めてから、彼は以前のようにはすぐ別れを告げず、真剣に6年間付き合ってくれた。
周りはみな、彼が本気になった、遊び人が改心したのだと言った。明美もまた、少女時代に追い求めていたものが手に入ったと信じ、彼の寝顔を何度も見つめながら幸せを感じていた。
ところが3日前、酔った彼を迎えに行った時、偶然、彼と親友の会話を耳にしてしまった。
その親友が彼の肩に手を回して言った。
「兄貴、あの彼女と六年も続いてるけど、まだ別れないのか?」
彼はかすれた声で、酔った様子で答えた。
「まだだよ。俺がまだ真剣じゃないって思われるだろう」
「お前さ、木村に完全にやられてるな。
あの時告白して振られて、それでやけくそになって女遊びにのめり込んで、次々と彼女を変えて、木村のことを忘れようとしてたよな。
そしたら彼女が戻ってきて、『お前、長続きしないじゃん』って言うから、ちゃんと付き合ってるって見せるために、適当な子と6年も付き合っちゃって。
お前、ほんと木村にメロメロだな」
部屋の中には騒がしく、誰も気づかなかったが、明美は外に立ち、血の気が引くような衝撃を受けていた。
『木村』は木村夢乃(きむら ゆめの)だった。
明美はその名前を聞いたことがあった。南原高校の隣の学校の生徒だった。でも、まさか悠斗が夢乃を好きだったなんて、想像もしていなかった。
自分が彼にとって、誰かへの想いを証明するための道具だったなんて、思いもしなかった。
彼女の青春、10年間の想いは、一瞬で崩れ落ちた。
少女の頬を赤く染めた風も、少年の心には届かなかったのだ。
彼女の青春を閉じ込めたその人は、最初から最後まで一度も振り返らず、彼女を見つめることはなかった。
彼女はすべてを悟り、ようやく身を引く決心をした。そして実家からのお見合いの話を受け入れた。
悠斗、今日はあなたを好きになって10年目の日。
そして、あなたを好きでいるのをやめる最初の日。
第2話
明美はすべての手紙を燃やし尽くした後、すぐには家に帰らず、ベンチに長いこと座り込んでいた。
家のドアを押して入ると、悠斗はすでに眠っていたが、ベッドサイドに置かれたスマホが絶え間なく震えていた。
明美はそれを止めようと近づき、うっかりLINEを開いてしまった。
すると、画面いっぱいに広がっていたのは、悠斗と夢乃のやり取りだった。
【なんて偶然なの。
帰国便でまさか悠斗くんの操縦する飛行機に乗れるなんて思わなかったわ。
昔はチャラかったのに、今じゃ立派な機長さんなんだね】
悠斗はしばらく沈黙した後、こう返信した。
【俺が機長になった理由、本当に知らないのか?】
夢乃は笑顔のスタンプを送った。
「まさか私のせい?昔、機長の制服が似合う男の子が好きって言ったから?」
悠斗の返事はたった一言だったが、それだけで明美の心を粉々に砕くには十分だった。
【うん】
明美の目が一瞬にして赤くなり、涙がこぼれ落ちた。慌てて拭い、LINEを閉じようとした時、夢乃とのトーク画面がピン留めされているのが目に入った。
その下には自分のトーク画面があったが、そこには「通知オフ」のマークがついていた。
愛されているか、いないか。一言の差で、天と地ほどの違いがある。
でも、もういい。自分はもう身を引いたのだから。
彼は好きな人を待ち続け、ようやくその人が戻ってきた。彼女も新しい人生を始める。
お互い望んだ通りの結末。これでいいじゃないか。
翌朝、セットしたアラームで目覚めた時、悠斗はすでに家を出ていた。
行き先は言わなかったが、明美には分かっていた。夢乃に会いに行ったのだ。
昨夜、夢乃が「出身校の近くにあるあのレストランに行きたいな」と言ったのを聞いて、悠斗はすぐに予約を入れていたから。
明美はもうそのことを考えないことにした。自分には自分のやるべきことがある。
朝食を済ませ、化粧をしてバッグを持ち、会社へ向かった。そして退職手続きを済ませた。
昼には大学時代のルームメイトたちと集まり、別れの食事会を開いた。
席では、みんな明美が10年間片思いをしてきた話を知っていた。
彼女が別れを決めて故郷に戻り、お見合いをするつもりだと聞いて、人生で一番輝かしい10年を無駄にしたのではないかと、皆が嘆いた。
「明美、何も言わずに去るなんて悔しくないの?悠斗くんに、これまでどれだけ想って、どれだけ尽くしてきたか、伝えたほうがいいんじゃない?」
「そうよ、あんなに好きだったんだから、もう一回頑張ってみたら? 打ち明ければ、彼だって引き止めてくれるかもしれない。
10年だよ、どんなに冷たい人だって動かされるはずよ」
「確かに悠斗くんのやり方はひどいけど、6年間一緒にいたのは明美でしょ。
あの女はずっと海外にいたんだから、彼にとってはただの若い頃の執着かもしれないわよ」
友人たちが自分のために悔しがってくれているのは分かっていた。
でも、明美の決意は固まっていた。もう無意味なことはしたくなかった。そっと首を振った。
「彼は私のことが好きじゃない。伝えても意味がないよ。きっぱり終わらせて、潔く去るほうがいい」
彼女がここまで断固とした態度を見せると、友人たちもそれ以上は言えなかった。ただため息をつき、新しい幸せを見つけてほしいと願ってくれた。
1時間ほど話した後、食事会はお開きになった。
最後の一杯を飲み干し、明美は家に帰ったが、まだ頭は冴えていた。
天気が良かったので、これまで買い集めてきた物をすべて整理することにした。
お揃いの服やカップ、棚を埋め尽くしていた何年分ものぬいぐるみ、洗面所のシェーバー、ドレッサーに溢れる化粧品……
一つ一つ、心を込めて選んだ物ばかりだったが、今はすべてゴミ袋の中だ。
かつて温かかった寝室、キッチン、リビングは、こうしてがらんとし、冷たく静まり返っていた。
でも、明美には分かっていた。自分が去った後、この空いた空間はすぐに新しい物で埋まるだろう。
それらはすべて、新しい住人……夢乃の物になる。
悠斗は3、4日間、家に帰らず、連絡も一切なかった。
明美は彼がどこにいるか気にせず、ゆっくりと荷物をまとめていた。
金曜日は明美の誕生日だった。彼女はケーキを予約し、自分のために花束を買った。
花瓶に花を挿したばかりの時、悠斗から電話がかかってきた。
「明美、今、会社の下にいるんだけど、同僚に聞いたら辞めたって。何かあったのか?」
その言葉に、明美は一瞬驚いた。
長年一緒にいたが、悠斗が会社まで迎えに来たことは一度もなかった。
なぜ急にそんな気になったのか分からなかったが、本当の理由を言うわけにもいかず、適当にごまかした。
「最近疲れてて、しばらく家で休もうと思って」
悠斗はそれ以上追及せず、住所を聞いて迎えに来ると言い、一緒にある場所へ行こうと提案してきた。
30分後、二人は家の前で合流し、明美は車に乗り込んだ。
彼女はどこへ行くのか尋ねなかったし、この数日間なぜ帰らなかったのかも聞かなかった。
ただ静かに窓の外の景色を眺め、二人は無言のまま車を走らせた。
第3話
車が停まると、悠斗は明美を待たず、先に建物の中へ入っていった。
明美は彼の後ろについて入場し、そこで初めてその場が誕生日パーティーであることに気づいた。
ただし、主役は自分ではなく、別の誰かだった。
ステージの中央で皆に囲まれ、輝くような笑顔を浮かべる夢乃を見て、すぐに悟った。夢乃こそがこのパーティーの真の主役なのだと。
夢乃は豪華なオートクチュールのドレスに身を包み、特注のダイヤモンドネックレスがその細い首を一層引き立てていた。
耳元の真珠のイヤリングはまるで人魚の涙のようにきらめき、あまりの美しさに目を奪われずにはいられないほどだった。
明美はそのアクセサリーをじっと見つめていた。
彼女はそれらをよく知っていた。
それらは長い間、悠斗のショーケースに飾られていたものだったからだ。
まだ真実を知らなかった頃、明美はそれらが自分へのプレゼントだと信じ込んで、楽しみにしていた時期もあった。
だが年月が過ぎ、悠斗は毎年何かしら用意するものの、結局一度も彼女に渡すことはなく、いつの間にか明美もそのことを忘れていた。
そして今日、目の当たりにして初めて、それらがすべて夢乃のために用意されたものだと知ったのだ。
明美の視線に気づいたのだろう、夢乃がドレスの裾を軽く持ち上げ、柔らかな笑みを浮かべて近づいてきた。
「悠斗くん、この方が6年も付き合っていて、私に会わせたいって言ってた彼女よね?
本当に綺麗な人。さすが学校一のイケメンを虜にするだけあるわね」
どうやら夢乃が会いたいと言ったからこそ、悠斗は珍しく明美を連れてきたらしい。
その意図をようやく理解した明美は、自嘲するように小さく笑った。
悠斗の親友たちが近づいてきて、不満げに口を挟んだ。
「そうだよな、6年も付き合ってるんだぜ。兄貴は本当に一途で律儀だよな。誰かさんも約束を守って、変な試し行動はもうやめてほしいもんだ」
「今どき真剣に愛してくれる人なんてそういないんだから、大事にしないと。裏切ったりしたら後悔しても遅いぜ」
友人たちは遠慮なく悠斗を擁護し、明美がその皮肉を聞き逃すとでも思っているようだった。
だが明美は彼らの期待通り、何の反応も見せず、適当な席を見つけて静かに腰を下ろした。
ただ黙って、彼らの意図に気づかないふりをしながら、飾り物のような恋人役を演じ続けた。
その夜、明美は一度も席を立つことなく、夢乃のそばに寄り添う悠斗を静かに見つめていた。
普段は社交嫌いな彼が、夢乃のためにセレブたちと談笑している。
何事にも興味を示さない性格のはずなのに、夢乃の好き嫌いをしっかり覚えていて、彼女の代わりに酒を断ったりしている。
恋人である自分がすぐ近くにいるのに、夢乃が他の男性と軽く握手しただけで嫉妬して顔を曇らせている。
わずか数時間で、明美は悠斗が誰かを本気で好きになったときに見せる、無意識の気遣いや感情を目の当たりにした。
6年も一緒に過ごしてきたのに、彼が心から愛する人の前で見せる姿を、ようやく今になって知ったのだ。
ステージ中央でバースデーソングが終わると、皆が夢乃にプレゼントを渡しに集まった。
最後に登場した悠斗は、一枚の別荘の権利書を取り出し、穏やかな笑みを浮かべた。
「夢乃ちゃん、昔温かい家庭が欲しいって言ってたよね。だからこの別荘を贈るよ。君の願いが叶うといいな」
その言葉に、周囲の親友たちが一斉に囃し立てた。
「みんな知らないだろうけど、この別荘って全部兄貴が自分でデザインしたんだぜ。
6年かけて仕上げたんだってさ!」
「その庭にはラベンダーとチューリップが咲き乱れてるらしいけど、誰かの好きな花じゃない?」
「温かい家庭って言うなら、やっぱりそこに住む相手がいないとね。どう思う?」
親友たちのからかい声に、夢乃の頬が少しずつ赤く染まっていった。
彼女は慌てて手を合わせて、願い事をするふりをして場を落ち着かせようとした。それでようやく皆が静かになった。
その静寂の中、明美のスマホが突然「ピコン」と鳴った。
父親からのメッセージだった。文字に変換しようとして長押しするつもりが、うっかり再生ボタンを押してしまった。
「明美、お誕生日おめでとう。もうすぐ12時だよ。ケーキ食べたかい?」
その瞬間、夢乃に注がれていた視線が一斉に明美へと移り、皆が驚きに目を見開いた。
悠斗も一瞬呆然とし、振り返って眉を寄せた。
「明美、今日が誕生日だったのか?」
明美は特に表情を変えず、軽く頷いた。
以前なら悠斗は事前に誕生日の日付を聞いて、プレゼントを用意してくれていた。
でも今年は夢乃の誕生日と重なり、彼がすっかり忘れてしまったのも、まあ無理はないのかもしれない。
誰もがこんな偶然を予想しておらず、皆が顔を見合わせて気まずそうに黙り込んだ。
すると夢乃が場を和ませようと、明美の手を引いてケーキの前に連れて行き、自らロウソクを1本立ててくれた。
「せっかくの偶然だし、一緒にお祝いしましょうよ。明美ちゃんも願い事をして」
明美は断らず、静かに目を閉じた。
願い事を終えると、気まずい雰囲気を解こうと、悠斗が軽い調子で尋ねてきた。
「何を願ったの?何か欲しいものある?」
明美は彼を一瞬見つめ、淡々とした声で答えた。
「今年中に、無事に結婚できますように」
第4話
その一言が出た瞬間、会場は水を打ったように静まり返った。
ただ一人、夢乃だけが小さく笑った。
彼女はゆっくりと振り返り、悠斗に向かって意味深な口調で言った。
「悠斗くん、明美ちゃんは今年中に願いを叶えてくれるのを楽しみにしてるみたいだね。
頑張らないと。もし本当に結婚することになったら、私にもちゃんと披露宴に呼んでよね」
その言葉を聞いた瞬間、悠斗の表情がみるみるうちに青ざめていった。
明美は彼が怒っていることに気づき、何か言おうとしたが、彼に遮られた。
「夢乃ちゃん!こんなことして何が楽しいんだよ?
俺をボロボロにしないと気が済まないのか?俺の気持ちを分かってるくせに……」
その怒りに満ちた言葉は、明美に向けられたものではなく、さっき冗談めかして言った夢乃に向けられたものだった。
彼の怒りに満ちた顔と、言葉につまる様子を見れば、誰もが彼の怒りの理由を察することができた。
彼は、夢乃がわざと知らないふりをして、自分の気持ちを踏みにじる態度に腹を立てていたのだ。
会場の雰囲気は一気に緊張感に包まれていた。
悠斗は勢いよく隣の椅子を蹴り倒し、車の鍵を掴むと、ドアを乱暴に閉めて出て行ってしまった。
せっかくの誕生日パーティーが、こうして台無しになった。
皆が「もう帰ろうか」と言い始める中、明美は目を伏せ、バッグを手に取ってトイレへ向かった。
戻ってきたときには、皆はほとんど帰っていたが、廊下から激しい言い争いの声が聞こえてきた。
「木村、今日のはさすがにやりすぎだろう!
兄貴がこの日のためにどれだけ準備してきたか知ってるだろう?
なんでわざわざあいつの気持ちを踏みにじるようなことを、みんなの前で言うんだよ!」
「私が言ったのって間違ってる?
明美ちゃんが結婚したいって言ってるんだから、悠斗くんとじゃなきゃ誰とするの?」
「お前、ふざけんなよ!
わざと言ってるだろ?兄貴がずっと好きなのはお前なんだよ!
昔お前に振られて、あいつはボロボロになって遊び人みたいになった。
それなのに、お前がちょっとやり直したいって言っただけでまたすぐ戻ってきてさ。
そしたら『一途じゃない』って文句つけて、あいつはお前の言う通りに適当な彼女を作った。
これ以上あいつをどうしたいんだよ!中島の気持ちをそんな風に踏みにじるのはやめてくれ!」
「別にどうもしないわよ。
ただ、悠斗くんに一途な人見たことないから、どこまで私のために頑張れるのか見てみたいだけ。
悠斗くんだって自分から望んでやってることでしょ?あんたが口出すことじゃないわ」
夢乃が、悠斗の幼馴染である藤井春樹(ふじい はるき)と口論しているようだった。
明美は人のプライベートを盗み聞きするつもりはなかったが、それでも考えずにはいられなかった。
もし悠斗がこの会話を聞いたら、どんな顔をするだろう。
胸が締め付けられるような痛みを感じるだろうか?
彼女が真実を知ったときのように、死ぬほど苦しむのだろうか?
彼女と悠斗の間では、彼が常に主導権を握っていて、彼が少しでも気にかける素振りを見せれば、彼女の心は簡単に揺らいでしまう。
けれど、悠斗と夢乃の間では、彼は完全に振り回される側だ。夢乃が軽い気持ちで放つ一言に、彼は脆くも崩れてしまうのだ。
そう、人を傷つけた者は、いつか必ずその報いを受けるものだ。
明美は踵を返し、反対側の階段からそっと下りていった。
家に帰った後、彼女は玄関に置いてあったケーキを取り出し、一人で改めて誕生日を祝った。
5号サイズのケーキを半分だけ食べて、ベッドに入った。
翌日の昼頃、ドアを叩く音で目が覚めた。目をこすりながらドアを開けると、そこには悠斗が立っていた。
一晩経ってもまだ怒りが収まっていないのか、彼の顔色は悪かった。
けれど、明美と目が合った瞬間、彼は無理やり笑顔を作り、ポケットからダイヤのブレスレットを取り出した。
「誕生日おめでとう。これ、プレゼント。昨日飲みすぎて、プレゼント、忘れてたんだ」
明美は一目見て、それが昨夜夢乃がつけていたブレスレットとペアのものだと分かった。
夢乃が気に入らなかったから、自分に押し付けてきたのだろう。プレゼントを選ぶ手間が省けてちょうどいい、ということか。
そう考えるのが自然だろう。
彼女が黙っているのを見て、悠斗は慌てて言葉を足した。
「気に入らないなら、好きなものを買っていいよ。俺のカード使ってさ」
明美は首を振ってブレスレットを受け取り、玄関の棚に無造作に置いた。
「ううん、気に入ったよ。わざわざありがとう」
第5話
悠斗はそれ以上何も尋ねず、無造作に上着を脱いでソファに放り投げた。視線がふとテーブルの上のケーキに留まり、一瞬固まった。
少し躊躇した後、彼は我慢しきれず口を開いた。
「昨日、明美が言った誕生日の願い事って……」
その何か探るような眼差しに気づいた明美は、軽い冗談の口調で答えた。
「みんな私の誕生日だって気づいてなくて、ちょっと気まずかったから冗談を言っただけ。
まさか本気にされるとは思わなかったよ、ごめんね」
その言葉を聞いて、悠斗はやっと肩の力を抜いた。
「じゃあ、本当の願い事は何か?」
「父と母がずっと健康でいられますように、そして二人の願いが叶いますように」
とても素朴で、心のこもった願いだった。
悠斗は胸が温かくなり、手を伸ばして彼女の鼻先を軽くこすり、柔らかく微笑んだ。
「明美は本当に親思いだね。その願い、きっと叶うよ」
明美もそう信じていた。
これからのお見合いはきっとうまくいって結婚し、両親のそばでずっと面倒を見ていられるはずだ。
その後数日間、悠斗は家にこもり、ほとんど外に出なかった。
その間に、家の中からいくつか物がなくなっていることに気づき、何度か尋ねた。
「明美、前に買ったペアカップはどこ?」
「数日前に割っちゃったんだ」
「君がくれたネクタイは?」
「よく分からないけど、干してる時に風で飛ばされたんじゃないかな」
どれも些細な物ばかりで、悠斗も特に気に留めなかった。
明美は毎回適当に理由をつけてごまかした。
そのほか、長いリストを作り、ここを離れる前に有名なレストランやおいしいものを全部味わおうと決めた。
ここ数年、スタイルを保つために減量や菜食を続けてきた彼女は、好きなものを思い切り食べるなんてずいぶんしていなかった。
しかし、苦労して手に入れた美貌は、彼女が望んだ恋愛を運んできてはくれなかった。
悠斗は彼女を好きにならなかった。彼女が美しくても平凡でも、太っていても痩せていても、化粧をしていてもすっぴんでも、彼にとっては関係なかった。
健康を犠牲にして得た美しい外見は、夢乃の前では、そして悠斗の目には、何の意味も持たなかった。
あの誕生日ケーキの数切れが、明美の長い間抑えていた食欲を呼び覚ました。そして気づかせてくれた。自分を幸せにしてくれるものは、恋愛だけじゃないんだ、と。
おいしい料理、きれいな花、友達の優しさ、家族の温かい思いやり……
それらは人生の中で大切な一部で、どれか一つだけにこだわって他のものをないがしろにしてはいけないのだ。
明美が外出する回数が増え、悠斗もそれに気づき、ある日彼女を呼び止めた。
「また出かける?どこ?」
「西町でご飯を食べようと思って」
「誰かと約束でもしたのか?送っていこうか?」
窓の外で降り続く雨を見ながら、悠斗は何気なく尋ねた。
明美は首を横に振り、靴を履きながら答えた。
「一人だよ。和食を試してみたくて。わざわざ送ってもらわなくても大丈夫、タクシーで行くから」
その言葉に、悠斗は少し驚いたように彼女を見た。
彼女は体重を気にして、普段は三食とも控えめにしていたはずなのに、最近急に食欲が出てきたみたいだ。
でも、少し多めに食べるのはいいことだ。彼女は痩せすぎていて、心配になるほどだった。
そう思った彼は、午後に予定がないことを思い出し、立ち上がって上着をつかみ、彼女のそばに歩み寄った。
「一緒に行こう。雨だし、俺が送ってくよ」
明美は彼が一緒に行きたいと言うとは思わず、一瞬立ち止まった。
雨はますます激しくなり、道にはほとんど車が走っていなかった。
路面が濡れて滑りやすくなっていたため、悠斗は両手でハンドルをしっかり握り、明美に自分のスマホを取り出して充電するよう頼んだ。
彼女が言われた通りにすると、充電器を差し込んだ瞬間、画面が点灯し、未読メッセージが目に飛び込んできた。
【兄貴、バーで飲み会やるけど来る?木村さんもいるよ】
明美はちらっと見て、見なかったふりをしようとしたその時、悠斗がメッセージの返信を頼んできた。
「断ってくれ。『明美と和食を食べに行くから行けない』って送って」
彼女が横目で見ると、彼の顔には一瞬複雑な表情が浮かんだ。
苛立ちの中に少しの未練が混じり、探るような視線にはかすかな期待が隠れているようだった。
明美は彼の気持ちを察し、メッセージを打ち終えて送信した直後、スマホが鳴った。
夢乃だった。
悠斗はそれを見て、思わず口元が緩んだが、すぐには電話に出ようとしなかった。
10数秒経ってから、やっと気づいたふりをして、車を路肩に停め、スマホを手に取った。
「だから、言っただろう……」
「悠斗くん、さっき見知らぬ男たちに連絡先を聞かれて、しつこく絡まれたの。
我慢できなくて瓶で叩いたら、今クラブで囲まれちゃってて。お願い、早く助けに来て!」
第6話
夢乃の慌てふためき、すすり泣く声を耳にした瞬間、悠斗の顔は一瞬にして曇った。
彼はアクセルを力強く踏み込み、ハンドルを鋭く切って、急にターンで車を急旋回させた。
突然の動きに対応できなかった明美は、勢いよくドアにぶつかり、飛んできた車内の飾り物で額に5センチほどの傷を負った。
鮮血が滴り落ちる中、彼女は痛みに顔をしかめながら傷口を押さえ、戸惑った表情で悠斗を見つめた。
だが、悠斗は彼女が怪我をしたことにも気づかず、夢乃との会話に没頭していた。
目には怒りの炎が宿りながらも、それを抑え込み、落ち着いた声で相手を励ました。
「怖がるな。今どこにいる?電話を切らないでくれ、5分以内に駆けつけるから」
明美は口にしかけた問いをぐっと飲み込んだ。
バッグからティッシュを取り出し、まだ血の滲む傷口を処置した。
ナビが速度超過を何度も警告するが、悠斗はまるで聞こえていないかのように、赤信号を7、8回も無視して突っ走った。
スピードメーターが限界に近づくのを見て、明美はシートベルトを締め直した。
5分後、車はバーの前で急停止した。
悠斗は車内に明美がいることも忘れたかのように、シートベルトを外すと猛ダッシュで走り去った。
その背中を数秒見つめた明美は、少し迷った後、彼の後を追った。
店内に入ると、ロビーのテーブルがめちゃくちゃに壊されているのが目に入り、すぐに何かが起きたことを察知した。
2階の個室から騒がしい声が響いてきて、階段を上がると、2つのグループが激しく揉み合っている場面に遭遇した。
個室の扉近くには、駆けつけたばかりの悠斗と4、5人の親友たちがいた。
反対側には、明美も見覚えのある顔――悠斗と昔から犬猿の仲である松田涼介(まつだ りょうすけ)がいた。
悠斗は容姿端麗で性格も良く、幼い頃から優秀だった。
恋愛面では少し派手なところもあるが、名門の御曹司なら多少の遊びは当たり前。それでも彼は社交界で誰もが羨む「理想の跡継ぎ」とされていた。
涼介はその正反対で、遊び人でトラブルメーカーとして知られていた。
涼介は悠斗の優秀さを妬み、何かにつけて対抗してきたが、悠斗はいつも相手にしなかった。それが涼介の憎しみをさらに煽っていた。
そして今日、悠斗の心の支えである夢乃が涼介を傷つけたことで、彼にとっては絶好の機会が訪れた。
涼介は10人以上の親友を引き連れ、個室を囲んでいた。包帯を巻いた右手からはまだ血が滴り落ち、目には敵意と悪意が満ちていた。
「中島、防犯カメラにはバッチリ映ってるぜ。お前の大事な女が先に手を出したんだ。まさか事実を捻じ曲げて庇う気じゃねえよな?」
悠斗は冷たく笑い、夢乃を背に庇った。
「どう賠償すればいい?金額を言え」
悠斗が夢乃をそれほど大切にしているのを見て、涼介は挑発的な笑みを浮かべた。
「賠償だと?その女のせいで俺の手は折れちまったんだぞ。当然、警察沙汰だろうが!
裁判するなら裁判で、刑務所にぶち込むならぶち込むまでだ!」
その言葉に、悠斗と親友たちの顔色が変わった。
悠斗の額には青筋が浮かび上がったが、怒りを押し殺し、歯を食いしばって言った。
「こんなことで大騒ぎする必要があるのか?女を苛めて何が楽しい?
俺に文句があるなら、俺にぶつけろ!」
涼介はまさにその言葉を待っていた。
彼は目をぎらつかせ、部下にテーブルの上の果物ナイフを持ってこさせ、冷酷な口調で言った。
「いいぜ。お前を困らせるつもりはねえよ。
その女が俺の手をダメにしたんだから、お前も片手を差し出せ。公平だろう」
言葉が終わるや否や、鋭いナイフがドアに突き刺さった。
親友たちは激昂し、悠斗を背後に庇いながら涼介を睨みつけた。
「松田!同じ上流社会の人間だろう!やりすぎだぞ!」
しかし、悠斗自身が誰よりも今日の事態の深刻さを理解していた。
涼介は今日、手を負傷した。たとえ今この場を収めたとしても、悠斗を憎む涼介は必ず復讐の機会を狙うだろう。
悠斗本人に手を出せなければ、彼の弱点を狙うしかない。
夢乃こそが、悠斗の最大の弱点だった。
確かに彼は夢乃を守れるかもしれないが、どこにでも目が届くわけじゃない。彼女を将来の危険から守りたいなら、今日ここで全てを終わらせるのが一番だ。
覚悟を決めた悠斗は、親友を押しのけて前に出た。
親友たちは驚き、彼の手を掴んで引き留めた。
「兄貴!正気かよ!お前はパイロットだ。手を失ったらキャリアが終わるぞ!」
「たかが女一人のために、そこまでする価値があるのか?」
だが、悠斗はこれまで見せたことのない鋭い目で涼介を見据えた。
「お前、約束は守るんだな?」
「ああ、もちろんだ!」
その返事を聞いた悠斗は、扉に刺さったナイフを引き抜いた。
その動きを見た明美は息を呑んだ。止める間もなく、悠斗は恐怖で泣き崩れる夢乃を抱き寄せ、彼女の視界を服で遮り、優しく囁いた。
「怖がるな。すぐ終わるから」
そして、周囲の驚愕の視線の中、悠斗は躊躇なくナイフを右手の掌に突き立てた。
血が噴水のように溢れ出し、辺りに飛び散るその光景はあまりにも衝撃的だった。
顔は一瞬で真っ白になったが、彼は歯を食いしばり、夢乃を怖がらせまいと小さく呻くだけに留めた。
最初から最後まで、彼は少し離れた場所で顔を真っ白にしている本当の恋人・明美を一度も見なかった。
第7話
悠斗はすぐに手術室に運ばれた。
その知らせを受けた中島家の人々は慌てて病院に駆けつけ、悠斗の親友たちから事情を聞いた。すると、悠斗の母は怒りのあまり手首の数珠を床に叩きつけた。
「その女のために10年も狂って、今度は自分の右手をダメにするなんて、正気じゃないよ!」
親友たちは急いで両親をなだめ、あらゆる言葉を尽くして、ようやく二人を落ち着かせた。
数時間後、手術室の灯りが消えた。
医者がベッドを押して出てきて、安堵の表情で言った。
「すぐに運ばれてきたおかげで、手術も成功しました。数ヶ月しっかり休めば問題ありませんよ」
この言葉を聞いて、場にいた全員がほっと胸をなでおろした。
大事に至らないと分かった中島家の両親は、この親不孝者の顔を見るのも嫌だと、その日の夜に海外での会議を理由に出発してしまった。
去る前に、二人は付き添ってくれた人たちに一人一人丁寧にお礼を言い、「今度ぜひ家に遊びに来てください」と誘った。
だが、明美の前まで来たとき、二人はまるで彼女が見えていないかのように素通りし、隣にいた医療スタッフにお礼を述べた。
その背中が遠ざかるのを見て、明美はすべてを悟った。
悠斗は、家族に6年間付き合っている彼女がいることを一度も話していなかったのだ。
まあ、いつか必ず別れる相手なら、わざわざ紹介する意味もないのだろう。
入院中の数日間、明美は病室に付き添い、昼夜を問わず世話を続けた。一日に4、5時間しか眠れなかった。
日に日にやつれていく彼女の顔を見て、悠斗は心配そうな表情を浮かべた。
「もう大丈夫だから、少し休んできなよ」
そう言って、彼は彼女を無理やり座らせ、コップに水を注いで手渡した。
彼はあの日のことについては何も説明しなかった。どう説明していいのか、自分でも分からないようだった。
少し間を置いて、彼は何気ないふりをして質問を口にした。
「この数日、誰が見舞いに来てくれた?俺、ずっと寝てたから、誰か見逃したかな。
夢乃ちゃんは……来たか?」
明美はカップを握る手を一瞬止め、彼をじっと見つめた。
彼女には分かっていた。この一連の言葉の中で、最後の名前だけが彼の本当の関心事だと。
だから、彼女の答えは短く簡潔だった。
「みんな来てくれたよ。
木村さんは、怖い思いをしたみたいで、来られなかったんじゃないかな」
その言葉を聞いて、悠斗は眉をひそめた。おしゃべりする気も失せたようで、不自由な手でスマホを手に取り、画面を懸命に叩き始めた。
鳴り続けるラインの通知音を聞きながら、明美は彼がまた夢乃のことを気にかけているのだと悟り、黙って退院の手続きを済ませに行った。
車がマンションの前に着いたとき、まだ階段を上る前に、悠斗は夢乃からの電話を受けると、そのまま出て行ってしまった。
包帯が巻かれた彼の手と、急ぐ足取りを見ながら、明美は慰めの言葉を飲み込んだ。
彼女は視線をそらし、マンションに戻った。
その後の3日間、悠斗は帰ってこなかった。
実家に帰る日が近づくにつれ、明美の心は不思議と穏やかになっていった。
帰った後は休みながら仕事を探そうと思い、実家の求人情報をずっと見ていた。
出発前日、高校の同級生から同窓会の誘いがあった。ちょうど時間も空いていたので、彼女は参加することにした。
久しぶりに会う同級生たちは皆大きく変わっていて、再会した一同はしみじみと昔を懐かしんだ。
明美が部屋に入ってくると、誰もが目の前の美人に驚きを隠せなかった。10年前、勉強ばかりで地味だったあの少女がこんなに変わるとは信じられない様子だった。
みんなの驚きを前に、彼女は落ち着いた態度で軽く挨拶を交わし、昔仲の良かった友達のそばに座った。
ほぼ全員が揃ったところで、クラス委員長が立ち上がり、乾杯の音頭を取ろうとした。
その時、ドアが突然開いた。
第8話
悠斗が笑顔で部屋に入ってきて、みんなに気さくに挨拶した。ふと視線を移すと、そこに明美がいるのを見て、思わずその場で立ち尽くした。
「明美?どうしてここにいるの?」
その場にいた全員が呆気にとられた不思議な顔になった。
「いるに決まってるじゃん。私たち高校の同級生だよ?しかも同じクラスだったし。
まさか中島さん、そんなことも忘れたの?」
高校の同級生?
しかも同じクラス?
その短い言葉は、まるで晴天の霹靂のように悠斗に衝撃を与えた。
彼は呆然と明美を見つめ、薄く開いた唇がわずかに震えていた。顔には複雑な感情が次々と浮かんでいた。
自分が忘れていたことへの罪悪感なのか、それとも明美がこれまで何も言わなかった理由が理解できないのか、自分でもよく分からなかった。
女子数人が異様な雰囲気を察し、好奇心を抑えきれずに二人を見つめた。
「『明美』って?ずいぶん親しげに呼ぶんだね、中島さん。二人って何?何かあるの?」
明美が「ただの同級生」と言おうと口を開きかけたその瞬間、悠斗が先に口を開いた。
「明美は俺の彼女だ。付き合って、もう6年になるよ」
その言葉を聞いて、会場の雰囲気は一気に盛り上がった。
みんなが興奮しながら二人の恋愛話を掘り起こし始めた。
悠斗は、まさか彼女と自分が高校時代から同じクラスだったとは夢にも思っていなかった。
一方、明美も、彼がこんなにあっさりと二人の関係を公表するとは予想だにしていなかった。
大勢に囲まれ、質問攻めにされる状況に、二人は少しばかり気まずそうだった。
悠斗はひたすら酒を飲んで話題を逸らそうとし、明美は隙を見てトイレへ逃げ込んだ。
酒に弱いクラス委員長は、3杯飲んだだけで酔いが回り、悠斗の手を掴んでしつこく話し続けた。
「二人が一緒になって、本当に嬉しいよ。これで明美もやっと報われたね。
知らなかっただろう?彼女、高校の頃からずっとお前のこと好きだったんだ。
ある日の体育の授業で、お前が教室で寝てた時、私がたまたま物を取りに戻ったら、彼女が日差しを遮ってやってるのを見たんだよ。それで気づいたんだ。
当時、お前を好きな女子なんて数え切れないくらいいたけど、明美が一番印象に残ってる。
お前がバスケで足を捻挫した時の掃除当番、全部彼女が代わりにやってたし、不良に絡まれて路地裏でピンチになった時も、授業抜け出して助けを呼びに行ったのも彼女だった。
学校の外で悪口言われてる時だって、あんな気弱な子が必死に庇って、顔真っ赤にして言い返してたよ。
……
若い頃の恋って、本当に純粋だよな。二人がこうやって結ばれて、俺は心から嬉しいよ。
あんな良い子、絶対に大事にしろよ。じゃないと、絶対後悔するからな」
初めて聞く話に、悠斗の身体が一瞬固まった。
自分たちは大学で偶然知り合っただけの関係だと思っていた。それが実は高校時代からの同級生で、彼女は10年もの間、自分を想い続けていたなんて思いもよらなかった。
ある約束のために軽い気持ちで彼女と付き合い始めて6年、彼女はまだ真実を知らない。
そんなことを考えると、心の奥から酸っぱくて苦い感情が溢れ出し、胸が締め付けられるようだった。
もう彼女と目を合わせる勇気すらなくなり、ただ黙々と酒を煽るしかなかった。
飲み会が終わり、明美は酔い潰れた悠斗を支えて家に帰った。
温かいタオルを持ってきて顔を拭いてやろうとすると、悠斗は彼女の手を掴んだまま離さず、顔には痛ましげな表情が浮かんでいた。
「バカだな……なんで教えてくれない?」
明美には、彼が同窓会で何か聞いたのだろうと察しがついていた。でも、今となってはどうでもいいことだった。
そっと手を引き抜いて、小さく呟いた。
「好きになったのは私の勝手なんだから、あなたには関係ないわ」
まだわずかに意識の残る悠斗は、その言葉に胸の内で言い表せない不安が渦巻いた。
何か伝えたい。けれど、何をどう話せばいいか分からない。
結局、沈黙が二人を包んだ。
部屋に静けさが満ち、眩しい照明を避けようと腕を上げた時、腰の辺りにタトゥーが覗いた。
『YUMENO』
親密な夜、彼女が腕の中でそのタトゥーを見るたび、いつもその意味を聞いてきた。
悠斗は少し間を置いて、視線を落とし、懐かしさと愛おしさが滲む声で呟いた。
「信仰だよ……俺の命より大切なもの」
当時、明美は『YUMENO』が木村夢乃のイニシャルだとは知らず、彼の言葉を純粋に信じた。
そして、彼女は彼の夢を自分の夢とし、彼の信仰を自分の信仰として、同じタトゥーを彫ったほどだった。
今となっては、そんな過去の日々を思い返しても、痛みはなく、むしろ滑稽さすら感じるようになった。
若さゆえに、誰もが一度は愛する人と心を通わせ、共に人生を歩む未来を夢見るものだ。
けれど、壁にぶつかり、道を見失い、振り返った時、出会った瞬間から別れが決まっていた縁もあると気づく。
自分と悠斗は、もう別々の道に進む分岐点に来てしまった。
そろそろ、別れを告げる時が来たのだろう。
第9話
二日酔いの翌日は、いつも頭がぼんやりしている。
悠斗はなんとか起き上がり、顔を洗った。リビングから漂ってくる美味しそうな香りに誘われて行ってみると、明美がテーブルいっぱいに料理を並べていた。
カレンダーをちらっと確認すると、特に何かの記念日でもない普通の日だった。悠斗は少し不思議に思って尋ねた。
「どうしたんだ?急にこんなご馳走作ってさ」
「ちょっとしたお祝いよ」
明美は箸や皿を並べながら、小声でそう答えた。
お祝い?
悠斗に思いつくのは、自分の怪我がもうすぐ治りそうなくらいしかなかった。
でも、テーブルに並んだ色鮮やかでスパイシーな料理を見ていると、医者から「食事は薄味にしてください」と言われた言葉が頭に浮かび、どこか腑に落ちない気がした。
それでも深く考えず、椅子を引いて座ろうとした瞬間、スマホが鳴った。
夢乃からだった。
数秒迷った後、悠斗は手に持った箸を置いて電話に出た。
数分後、通話を終えた彼はゆっくり立ち上がり、無意識に明美の方を見た。
彼女はすでに席に座り、エビを手に持って殻を剥いていた。悠斗がこの食事を食べるかどうかなんて、気にもしていないような様子だった。
でも、彼女が自分のために祝ってくれているのだと思うと、悠斗はなんだか申し訳ない気持ちになり、適当な理由をつけて言った。
「明美、ごめん。ちょっと用事ができて出かけなきゃいけないんだ。一人で先に食べててくれ。夜戻ったら、改めて一緒に祝おう」
「いいよ。気にせず行ってきて」
明美は小さく首を振った。その視線は穏やかで、まるで全てを諦めたような静けさを湛えていた。
なぜだろう。その視線に触れた瞬間、悠斗の心臓が理由もなく激しく鼓動し始めた。何か大事なことが起こりそうな予感がしてならなかった。
でも、それが何なのか、はっきりとは掴めないままだった。
テーブルを挟んで二人は長い間見つめ合ったが、結局、悠斗は背を向けてドアを出た。
ドアが閉まるその瞬間、向かいの空いた席を見つめながら、明美はふっと自嘲するような笑みを浮かべた。
彼女が祝いたかったのは、自分が自由を取り戻したこと、そして自分自身を愛せるようになったことだった。
そこにもう誰かの存在は必要なかった。
食事を終えた明美は、残った料理やゴミを片付け、最後の荷物をまとめて階下のゴミ捨て場に持って行った。
そしてクローゼットからスーツケースを取り出し、このマンションを後にした。
階下でタクシーを拾い、以前訪れたあのタトゥースタジオへ向かった。
店主は彼女のことを覚えていて、今回は何を彫りたいのかと尋ねてきた。
明美は懐かしい店を見回しながら、小さな声で、でもどこか決意を秘めた口調で答えた。
「今回は彫るんじゃなくて……前に彫ったタトゥーを消してほしいんです」
彼女の表情から何かを感じ取ったのか、店主は少し残念そうな顔をして、それでも一応止めるように言った。
「タトゥーを消すのはかなり痛いですよ。お嬢さん、もう少し考え直してみませんか?」
痛い?
明美はすでに、この世で最も絶望的で耐え難い痛みを味わっていた。
そんな彼女にとって、こんな肉体的な痛みなんて恐れるに値しないものだった。
過去の記憶を刻んだこの印が消えるとき、皮膚は荒れ、痛みを感じ、傷跡が残るだろう。
でも、それが傷を癒すために通らなければならない道だと、彼女にはわかっていた。
明美はそれ以上何も言わず、以前と同じ席に座り、腰の横の服をめくり上げた。
鋭く焼けるような痛みが脳に響き、生理的な涙が止めどなく溢れてきた。
涙は汗と混じり合い、微笑みを浮かべたままの彼女の頬を伝って落ちた。
永遠にも思える時間が流れ、同時にほんの一瞬だったような気もした。処置が終わり、店主がティッシュを差し出してきたときには、もう全てが終わっていた。
明美はそれを受け取り、顔の涙と汗を拭いて、「ありがとうございました」と丁寧にお辞儀をし、スーツケースを手に店を出た。
再びタクシーに乗り込むとスマホを取り出し、悠斗に別れを告げるメッセージを送った。そして、彼との連絡先や関連する全てのデータを削除した。
それらを終えたちょうどそのとき、タクシーが目的地に着いた。
午後の眩しい陽光が明美に降り注ぐ中、彼女はポケットから新幹線の切符を取り出し、振り返ってこの街に最後の視線を投げた。
そして、迷うことなく駅へと歩き出した。
二度と振り返ることはなかった。