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さようなら、初恋
「黒澤さん、本当に全身の臓器を提供するおつもりですか?」 「はい、間違いありません」 そう言いながら、黒澤真希(くろさわ まき)はまる...
Chương (1)
第1章
「黒澤さん、本当に全身の臓器を提供するおつもりですか?」
「はい、間違いありません」
そう言いながら、黒澤真希(くろさわ まき)はまるで解放されたかのように微笑んだ。
医師は一瞬言葉を失い、再び説得を試みた。
「確かにがんは末期に進行していますが、適切な治療を受ければ、少しでも命を延ばせる可能性があります」
第1話
「黒澤さん、本当に全身の臓器を提供するおつもりですか?」
「はい、間違いありません」
そう言いながら、黒澤真希(くろさわ まき)はまるで解放されたかのように微笑んだ。
医師は一瞬言葉を失い、再び説得を試みた。
「確かにがんは末期に進行していますが、適切な治療を受ければ、少しでも命を延ばせる可能性があります」
でも、真希はますます笑みを深め、迷うことなく首を横に振った。
「必要ありません。先生、私は毎日、死を待ち望んでいます。
おそらくあと一ヶ月の命でしょう。その日が来たら、病院に連絡しますので、全身の臓器を提供してください。
多くの人を助けられれば、それで十分です。お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」
穏やかにそう言い、真希は微笑んだまま立ち上がって去っていった。
医師は呆然と彼女の背中を見送った。これほどまでに死を望む患者に出会ったのは初めてだった。
――病院を出ると、スマホが鳴った。
画面に表示された名前を見て、真希の指先が一瞬固まった。
「もしもし」
「今日はなんで休みを取って、どこへ行ってた?」
冷たく低い声が、電話の向こうから聞こえてきた。
真希は一瞬迷い、正直に答えなかった。
「ちょっと風邪をひいて」
相手は明らかに関心がない様子で淡々と告げた。
「琵琶ホテルの314室に」
真希は何も言わず、すぐに向かった。
個室の扉を開けると、中には古川万尋(ふるかわ まひろ)のビジネス関係者が大勢いた。
「おっ、黒澤さんの登場か!噂には聞いてるよ。酒にはめっぽう強いらしいね?」
「酒を武器に数々の契約を取ったって話だ。今日はぜひその腕前を見せてほしいな」
「ここに九十九杯の酒がある。一気に飲み干せたら、契約を結んでやるぞ!」
それに、ソファに座る万尋は、意味ありげな笑みを浮かべ、静かに口を開く。
「期待を裏切るなよ」
周囲の視線が一斉に注がれるから、真希は一瞬の迷いも見せず、微笑みながらグラスを手に取った。
「では、僭越ながら」
――一杯、また一杯と飲み干していく。
胃が焼けるように痛む。
胃がんに蝕まれた身体には、痛みが何十倍にも増幅されると感じられた。
真希の顔色はどんどん青ざめ、指先まで震えていた。
それでも、彼女は止まらなかった。
そして――九十九杯目。
万尋は最後まで、一言も発さずに彼女を見ていた。
最後の一滴が喉を通った瞬間、部屋中に拍手が響いた。
「すごい!まさに伝説だな!」
真希は額に汗を滲ませながらも、なんとか微笑んで見せた。
すると、一人が興味深そうに声をかけた。
「黒澤さん、古川社長の下で働くには惜しいな。あんな酷い扱いを受けてるのに、俺のところに来ないか?」
真希は静かに微笑み、低い声で断った。
「お気遣いありがとうございます。でも、うちの社長はとても良くしてくださっていますので」
相手は「じゃあ、給料を三倍にしよう!」と言った。
それでも、真希は首を横に振った。
誰もが不思議そうに尋ねた。
「どうしてそこまでして、古川社長の元にいる?」
真希の笑みが少しだけ薄れた。
「償わなければならないんです」
相手は、会社に借金をしていると勘違いし、残念に思いながらも、仕方なく諦めた。
この夜の契約は、無事に成立した。
食事が終わり、夜が更けた頃。
万尋の運転手が近所から迎えに来て、真希がいつものように助手席に乗り込んだ。
万尋は彼女と一緒にいるのが大嫌いなのだ。
ようやく運転手が、真希の家の前で車を止めた。
「ありがとうございました」
彼女は疲れ切った声でそう言って降りた。
万尋がついてきていることに気づいていなかった。
彼は、ふらつく彼女の背中をじっと見つめていた。
その瞳は、深い闇を湛えていた。
エレベーターを降り、鍵を取り出した瞬間。
突然、手首を掴まれ、壁に押し付けられた。
廊下の人感センサーが作動し、淡い光が二人を包んだ。
次の瞬間。
万尋は真希の顎を掴み、強引に唇を塞いだ。
熱く、深く、呼吸を奪うようなキス。
ようやく唇が離れた時、彼の目には、涙のような赤みが滲んでいた。
震える声で、低く囁いた。
「そんな顔をして……俺の同情を引くつもりか?誘われても行かない?お前は……どうしてまだ俺の元にいる?」
真希は荒い息を整え、静かに答えた。
「償わなければならないんです」
その言葉が、万尋の逆鱗に触れた。
彼は拳を振り上げ、壁に叩きつけた。
その目に宿る憎しみは、刃のように鋭く、彼女の心をえぐっていた。
「なら……いっそ死ねばいいだろう?なぜ死なない?」
真希は、苦笑した。
――そのつもりだ。もうすぐ、そうなる。
何かを言おうとしたその時、万尋のスマホが鳴った。
彼は画面を見た瞬間、呼吸が少し乱れた。
表示された名前は――夏目京香(なつめ きょうか)。
彼の婚約者。
万尋は深く息を吐き、背を向けた。
電話を取ると、柔らかな声色で応じた。
「京香」
その瞬間、彼は再び「優しい古川社長」に戻っていた。
ただ、京香の言葉を聞いた彼は表情がふと揺らいだ。
そして次の瞬間、言葉もなく、彼は踵を返し、静かに去っていく。
真希は、壁にもたれかかった。
彼の背中が闇に消えた後、彼女はようやく扉を開け、浴室に駆け込んだ。
そして――
血を吐いた。
紅い、紅い塊が、何度も、何度も。
目の前の便器は、鮮血で染まっていた。
真希はそれを無表情で見つめ、流そうとしたが、そのまま意識を失った。
真希は夢を見た。
大学時代の夢だった。
梧桐の木の下、万尋と古川江茉(ふるかわ えま)と並んで歩いている。
江茉は真希の腕を引っ張りながら、甘えた声で言った。
「真ちゃん、週末にうちの学部と法学部でコンパがあるの。一緒に行ってくれるでしょ?」
万尋の顔色がさっと曇り、真希の手をぐいっと引く。
「お前、俺の彼女を勝手に誘っていいなんて、誰が言った?」
「お兄ちゃん、ケチすぎ!」
あの頃は、本当に幸せだった。
大学で江茉と出会い、彼女と親友になるまで、幼い頃に両親を亡くした真希は、ずっと孤独だった。
江茉の兄・万尋は、学内でも『高嶺の花』と称される存在だった。
冷たく気高く、女性を寄せ付けない雰囲気を纏いながらも、毎日大量のラブレターを捨てるような人だった。
真希はそんな彼に話しかけることすらためらっていた。
しかし、彼はいつも真希のそばにいた。
ノートをまとめてくれたり、一緒に図書館に勉強してくれたり、家まで送ってくれたり。
ある日、土砂降りの雨の中、傘を持たずに帰れなくなった真希を迎えに来たこともあった。
二人、一本の傘の下。
真希はとうとう聞かずにはいられなかった。
「古川君がこんなに優しくしてくれるのは、江ちゃんの友達だから?」
彼は無表情のまま、真希を壁際に追い詰めた。
「本当にバカだな。今ここではっきり教えてやるよ。どうしてお前に優しくするのか」
そう言って、彼は彼女の後頭部を押さえつけ、その唇を奪った。
その日から、二人は恋人になった。
これは、五年前。結婚式の前夜までのことだった。
あの日、真希と江茉は映画を観に行った。
夜も更け、二人は帰り道に狭い路地を通った。
その時、酒に酔った数人の男たちに行く手を阻まれた。
男たちは酔っていて、口にする言葉は卑劣そのものだった。
彼女たちを壁際に追い詰め、どこへも行けなくした。
二人とも恐怖で震えていた。
結局、江茉は真希を振り返り、力の限り男たちを押しのけながら叫んだ。
「真ちゃん!逃げて!」
真希は分かっていた。
彼女たち二人では、この酔っ払いどもに敵うはずがない。
だから――黒澤真希は逃げた。
向かいの通りまで走り、助けを求めた。
だが、助けを連れて戻った時には、すでに手遅れだった。
路地は静まり返り、男たちは姿を消していた。
地面には荒れ果てた惨状が広がり――
血まみれの江茉が横たわっていた。
何度も蹂躙され、命を奪われた彼女が。
万尋が駆けつけた時、彼が目にしたのは、江茉の無惨な遺体だった。
誰の目にも明らかだった。
彼女がどれほどの地獄を味わったのか。
万尋は呆然と立ち尽くした後、真希の手を掴み、震える声で叫んだ。
「なぜ逃げた!?なぜ江茉を捨てた!?お前は……なぜ逃げたんだ!!」
真希には、答えられなかった。
誰よりも、自分を憎んでいたのは彼女自身だった。
それ以来、古川家の人間は誰一人として、真希を許さなかった。
最愛の友を失い、愛する人とも敵同士になった。
でも、もうすぐ――彼女は死ぬ。
よかった。
江茉に直接、謝ることができる。
そして万尋も、やっと彼女から解放されるのだ。
第2話
「やめて!江ちゃん、早く逃げて!」
真希は涙を流しながら飛び起きた。
目の前に広がるのは、自分の部屋だった。
血のついた服は着替えさせられており、ベッドのそばには宮野祐人(みやの ゆうと)が座っていた。
祐人は真希の大学時代の同級生で、ずっと彼女を想い続けていた。
しかし、万尋の存在があるため、気持ちを口にすることはできず、ただそばで静かに支え続けるしかなかった。
今、彼の手には、くしゃくしゃに握られた一枚の検査結果があった、何度も何度も目を通していた。
祐人は医師だ。
その結果が何を意味するのか、彼には痛いほどわかっていた。。
目を赤くしながら、震える声で問った。
「胃がんなのか?」
悪夢から目覚めた真希は、少しずつ冷静さを取り戻した。深く息を吸い込み、頬を伝う涙を拭うと、静かに頷いた。
祐人は勢いよく立ち上がると、声を荒げた。
「それでよく酒なんか飲めたな!また古川に強要されたのか?」
真希は視線を落としたまま、何も言わなかった。
しかし、祐人にはわかっていた。
胸が締めつけられる思いで、真希の手を強く握った。
「もう限界だろう?彼から離れて、すぐに治療を受けるべきだ!」
だが、真希はそっと手を引いた。
そして、かすかに微笑んだ。
「そこまで深刻じゃないわ。大丈夫、自分のことはちゃんとするから」
「胃がんがどんな病気か……わかってるのか?」
「入院はしたくないの。祐人君、私に決めさせて」
その表情を見て、祐人は何を言っても無駄だと悟った。
彼にはわかっていた――五年前の江茉の件が、真希の心に深く刻まれた傷となっていることを。
だから、彼女は万尋の専属秘書となり、償おうとしている。
だから、万尋に何をされようとも、決して拒まない。
祐人は何も言えず、その晩は彼女のそばに付き添った。
翌朝、ようやく病院へ戻ることにした。
真希もまた、慌てて会社へ向かった。
今日、彼女は万尋とともに、とある食事会に出席しなければならなかった。
ただし、彼の付き添いではない。
あくまで秘書としての同伴。
実は、万尋は京香とともに出席するつもりだ。
彼女が現れると、京香は嘲るような笑みを浮かべた。
「真希さん、よくまあ恥ずかしげもなく、まだ万尋のそばにいられるわね」
京香は高校時代から万尋を想い続けていた。
だが、何も持たない真希に敗北したことを、ずっと妬んでいた。
万尋の婚約者になった今、ようやく堂々と真希を踏みにじることができるのだ。
真希は何も言わず、ただ静かに立っていた。
そこへ万尋が歩いてきた。
京香は嬉しそうに彼の腕にしがみついた。
「万尋」
万尋はそれを拒むことなく、ただ真希に視線を向けると、その目が冷たくなった。
「ここに入る許可を出した覚えはない。外で待ってろ」
帝都はすでに冬。
外には暖房などなく、冷たい風が吹きつけるだけ。
それでも、真希は黙って頷いた。
「わかりました」
それから、くるりと背を向け、宴会場をあとにする。
外は屋根のないガーデンだった。
冷たい風が吹きすさぶ中、真希はじっと立ち尽くす。
通りかかったスタッフが心配そうに声をかけた。
「控え室でお休みになりますか?」
真希は首を横に振るだけだった。
そうして彼女は、ただ寒さに震えながら立ち続けた。
空が暗くなるまで――宴が終わるまで。
やがて、京香が万尋のコートを羽織りながら、彼とともに外へ出てきた。
彼は真希を一瞥し、喉を小さく鳴らした。
なぜか、かすれた声が漏れた。
「そんなとこで突っ立って、何してる」
そう言うと、京香を連れて歩き出していった。
真希は黙って後ろをついていった。
ガーデンの人工池のそばを通りかかったとき、京香はふと笑みを浮かべた。
そして、わざとよろめきながら前へ踏み出し、誰かに押されるかのようにした。
「きゃっ!」
彼女は目を見開き、池を指さした。
「ブレスレットが池に落ちちゃった!」
振り向いた京香は、怒りに満ちた視線を真希に向けた。
「どうして押したのよ!」
真希は思わず口を開いた。
「そんなことをしていません」
「まだ言い訳する気?」
そして、京香は万尋にしなだれかかり、甘えた声を出した。
「万尋、あれ、私の一番大事なブレスレットなの……」
万尋は何も言わず、ただ真希をじっと見つめた。
どれほどの時間が流れたのか――
静かに口を開いた。
「池に入って、探せ」
問いただすこともなく、彼女が間違ったと思った。
すると、真希はゆっくりと池を見やった。
水面に、冷え切った冬の夜の光が揺らめいている。
見ているだけで、凍えるような水の冷たさが伝わってきた。
それでも、真希は何も言わず池へと足を踏み入れた。
水は浅く、膝の上ほどの深さだった。
しかし冬の水は容赦なく、足元から全身を刺すように冷やしていく。
一歩踏み出すごとに、まるで裸足で鋭い刃を踏むような感覚がした。
体調を崩している真希は、冷水の中で探し続けるうち、体がぐらりと揺れていた。
万尋は、それをほんの数秒だけ見つめた。
そして背を向けると、無情に言い放った。
「見つからなきゃ、明日から出勤するな」
それだけ告げて、京香とともに歩き去っていった。
第3話
真希はひとり池の中に立ち尽くし、言葉にできない寂寥感が胸の奥から込み上げてきた。
身をかがめ、一晩中探し続けた末、ようやくそのブレスレットを見つけた。
夜が明けるころ、震える体を引きずるようにして立ち上がった。
全身が凍え切っていたが、そんなことを気にする余裕はなかった。
ブレスレットを握りしめると、急いで会社へ向かった。
社長室にいた京香は、それを受け取ると、汚らわしそうに一瞥しただけで吐き捨てるように言った。
「泥だらけじゃない。こんなの、いらないわ」
そう言いながら、ブレスレットを無造作に引きちぎり、ごみ箱に放り投げた。
万尋もただ一瞥しただけで、冷淡に言った。
「気に入らないなら捨てればいい。新しいのを買ってやるよ」
京香は嬉しそうに微笑んだ。
「優しいのね」
真希は惨めな姿のまま、社長室を後にした。
秘書室の同僚たちは彼女の姿を見ても、特に驚くことはなかった。
何年もの間、真希がどれほど辛酸を舐めてきたか、誰もが知っていたからだ。
それでも彼女がここに留まり続ける理由は、誰にも分からなかった。
休みも取らず、ただ風邪薬を二錠飲み込んだまま、万尋と一緒に工場の視察へ向かった。
すべてが終わる頃には、夕暮れ時に差し掛かっていた。その頃、京香が万尋を訪れ、食事に誘った。
真希を見ると、親しげな笑顔で言った。
「真希さんも一緒にどう?」と、
しかし、料理が運ばれてきて、真希はその企みを悟った。
ほとんどが辛いものばかり。
唯一のデザートはマンゴーアイス――だが、マンゴーアレルギーだった。
かつては、料理にほんの少しでも唐辛子が入ったと、万尋はわざわざ取り除いてくれたものだった。
だが今は、まるでそんなことなどなかったかのように、真希を一瞥すらなく、ずっと京香に注意を向けていた。
京香がわざとらしく尋ねた。
「真希さん、どうして食べないの?」
万尋も冷ややかな視線を向け、眉をわずかに寄せて言った。
「食べないなら、出て行け」
真希は仕方なく箸を取り、激辛唐揚げを一口噛み締めた。
食事が終わると、万尋は京香を連れて帰っていった。
真希はひとり帰路についた。
辛さに汗が噴き出し、胃を締めつけるような痛みが襲っていた。
しかし、家に着いてベッドに横たわりながら、どんなに痛くても、一滴の涙すら流れなかった。
自業自得だろう。
この数年の苦しみは、江茉への償いのつもりだった。
痛みが増すほど、その罪悪感がわずかに軽くなるような気がした。
意識が朦朧とするなか、淡い笑みが浮かんだ。
それから数日後。
治療を受けることもなく、酒で胃を痛め続けたせいで、病状はますます悪化していた。
それでも真希は、ただ薬を数錠飲んでその場をしのいでいた。
週末。
真希はソファに横たわり、あまりの痛みに身動きすら取れなかった。
そんな時、万尋から電話がかかってきた。
「京香が保祥楼の海老ワンタンを食べたいそうだ。買ってこい」
万尋の秘書である以上、彼女に休みなどなかった。
彼が必要とする限り、いつでも働かなければならない。
しかし、今日ばかりは、体が言うことを聞かなかった。
「今日は……田中さんに頼んでいただけませんか?私は……」
だが、言い終わる前に、冷たく遮られた。
「お前に選択権があるとでも思ってるのか?」
息が詰まるほどの威圧感に、言葉を失った。
「行くか、二度と俺の前に現れるな」
そう言い残し、彼は一方的に電話を切った。
真希は痛みに耐えながら、ふらつく足で家を出た。
海老ワンタンが名物の保祥楼は裏通りにあるが、人気が高く、並ぶこと三時間。ようやく一つ手に入れた。
急いで万尋の家に向かい、それを差し出すと――
京香は不機嫌そうに顔をしかめた。
「どうして唐辛子を入れたの?」
真希は息も絶え絶えに答えた。
「辛いものが好きだったでしょう……?」
「今は好きじゃないの」
そう言い捨て、京香は海老ワンタンをゴミ箱に投げ捨てた。
万尋は真希を冷たく見据え、淡々と言った。
「もう一度、買ってこい」
真希は再び買いに走った。
だが、次に持ってきたものは「ネギが入ってる」と拒否された。
万尋は、京香の意地悪を見ても、何の反応も示さずただ言うだけだった。
「もう一度、買ってこい」
何度も何度も買い直し、最後に戻ってきた時には、空はすっかり暗くなっていた。
胃の激痛に足元はおぼつかず、意識も朦朧としていた。
目の前の道すら、よく見えなくなっていた――
突然、耳元で響くクラクションの音。
――轟音とともに、バンが猛スピードで彼女に突っ込んできた。
どんっ!!
強烈な衝撃に、彼女の体は宙を舞い、地面に叩きつけられた。
口の中から鮮血が溢れ出し、鼻先には落ちたワンタンの香りが漂っていた。
視界は次第に白く霞んでいく。
ようやく……終われるのだろうか?
ようやく……江茉に会えるのだろうか?
今回、目尻に一筋の涙が伝い、意識は闇に沈んだ。
病院にて。
救急車から運び込まれる真希を見た瞬間、祐人の顔が凍りついた。
「真希さん!真希さん!」
何度呼びかけても、彼女は反応せず、血を吐き続けていた。
救急科部長・東文蔵(あづま ふみぞう)が驚愕の声を上げた。
「まさか……内臓が破裂してるのか?」
祐人は恐怖に震えながら叫んだ。
「彼女、胃がんです!」
文蔵の顔色が一変し、すぐさま彼女を手術室へと運び込んだ。
数時間後、手術は終了した。
だが、外傷の止血を施すことしかできなかった。
全ての機械に映るバイタルは、次第に下がっていく――
祐人は慌てふためいて言った。
「東教授、彼女はどうしたんですか?」
文蔵は静かに首を振った。
「末期の胃がんだ。もともと体が非常に弱かった上、事故が引き金となって、臓器の機能が急激に衰えてしまった。」
真希は意識を取り戻さず、血を咳き込みながら、無意識に何度も同じ名前を呼んでいた。
「万尋……万尋……」
今にも息が途絶えそうだった。
祐人は震える手で、彼女の冷たい指を握り締めた。
「真希さん……お願いだから、生きてくれ。持ちこたえてくれ……」
彼は涙をこらえながら、彼女のスマホを取り出し、万尋の番号を押した。
電話が繋がると、冷たい声が響いた。
「ワンタンも買ったのに?どれだけ時間がかかるんだ?」
祐人は拳を握り締め、言った。
「俺だ、宮野祐人」
万尋が沈黙し、数秒後に低い声で問いかけた。
「なぜ真希のスマホを持ってんだ」
祐人は心電図のモニターで、次第にゼロに近づいていく心拍数を見つめながら、一言ずつ噛み締めるように言った。
「今すぐ病院に来い。彼女に会えるのは、これが最後だ」
第4話
しかし、電話の向こうで、沈黙が流れた。
どれほどの時間が過ぎたのか分からない。やがて、万尋が冷ややかに笑いを漏らした。
「真希と一緒に俺を騙してるだろう?」
祐人は万尋を殴りつけたい衝動に駆られながら、涙声で叫んだ。
「真希さんは……」
しかし、その瞬間、かすかな力で袖を引かれた。
慌てて下を見ると、さっきまで意識を失っていた真希が、うっすらと目を開けていた。
真希は苦しそうに首を振ると、唇を動かして言葉を紡ぐ。
「ダメ……来させないで……」
そのとき、その心拍数が、ゆっくりと上昇し始めた。
「彼女に何があった?」
電話の向こうで、万尋のかすれた声が響いた。
だが、祐人はもはや答える余裕もなく、上昇する心拍数を確認すると、歓喜のあまり電話を切り、文蔵を呼びに走った。
しばらくして、検査を終えた文蔵が、額の汗を拭いながらマスクを外し、安堵の息を漏らした。
「容体は安定した。すぐに観察室へ運ぼう!」
こうして、真希は観察室へと運ばれていった。
一方、電話を切られた万尋は、スマホの画面をじっと見つめていた。
何も言わず、何も動かず。
彼の様子を窺っていた京香の目に、嫉妬の色が滲んだ。
「万尋、あの二人、絶対に共謀してるわ。あなたの気を引こうとしてるだけよ。こんな手、真希が昔からよくやってたじゃない?」
そう言いながら、万尋の手を取ろうとしたが、彼はすっと立ち上がり、すれ違うように避けた。
「まだ仕事が残ってる。京香、先に帰れ」
京香は、今夜こそ万尋のそばにいられると思っていた。
しかし、あっさりと突き放され、悔しさに唇を噛みしめながら部屋を出ていった。
書斎にて。
万尋はパソコンを開いたものの、何一つ頭に入ってこなかった。
思考は散漫になり、気づけば真希のことばかり考えている。
しばらく逡巡した後、彼は別の秘書・田中朋也(たなか ともや)に電話をかけた。
「真希の居場所を調べろ」
その声は、微かに震えていた。
朋也は即座に応じ、十分ほどして折り返しの連絡を寄こした。
「社長、黒澤さんは数時間前に交通事故に遭い、現在明平病院にいます。ただ、命に別状はないようです」
万尋はスマホを握りしめたまま、沈黙した。
その沈黙があまりにも長かったため、朋也は思い切って尋ねた。
「お見舞いに、行かれますか?」
万尋はしばらく考えた末、低く答えた。
「俺が彼女のことを気にしてると、悟らせるな」
朋也は一瞬驚いたが、「かしこまりました」と返事をし、電話は切れた。
それ以上、万尋は何も言わなかった。
ただ、その夜、彼の書斎の灯りは、一晩中消えることはなかった。
翌日、病院にて。
真希の容態は少し回復し、意識もはっきりしていた。
祐人は彼女のそばにぴったりと付き添い、懇願するように訴えた。
「真紀さん、もうこれ以上治療を先延ばしにするのは無理だ。すぐに入院して化学療法を受けないと……このままじゃ、長くは持たない!」
だが、真希は静かに微笑み、首を横に振った。
「それなら……それでいいの。ずっと、この日を待ってたから」
祐人は凍りついたように動けなくなった。
胸が締めつけられ、震える声で言った。
「そこまでして、自分を罰したいのか?」
真希は穏やかな声で答えた。
「私にとって、死は罰じゃないの。祐人君、ずっとそばにいてくれてありがとう。もし本当に私のためを思ってくれるなら……私の選択を尊重してほしい。お願い」
五年前、彼女の心はすでに死んでいた。
そして今、ついに身体もその時を迎えようとしていた。
数日後。
真希は祐人の引き止めを振り切り、退院を急いだ。
なぜなら、江茉の命日だった。
墓地に着いた真希は、両手に菊の花を抱え、静かに江茉のお墓の前に立つ。
竿石に刻んだ遺影の中、少女は微笑んでいた。
若く、美しく、優しく――そして、あの日のまま。
「江ちゃん……私がここに来たら、きっと嫌がるよね」
真希はお墓に手を添え、ぽつりぽつりと語り始めた。
「この何年も、毎晩江ちゃんの夢を見てた。夢の中で何度も謝ってた。
もし、あの日に戻れるなら……絶対に、逃げたりしなかったのに」
彼女は墓前に腰を下ろし、まるで昔のように、秘密を打ち明けるような調子で呟いた。
「ねえ、私、もうすぐそっちへ行くかもしれない。でも、ちょっと怖いんだ。江ちゃんが私を拒絶するんじゃないかって。私のことを恨んでいるんじゃないかって……」
言葉が詰まり、気づけば涙がこぼれていた。
墓地には冷たい風が吹きすさんでいた。
真希は写真をそっと撫でながら、胸の奥から込み上げる痛みに耐えた。
「たとえ、恨まれていたとしても……私は江ちゃんに会いに行くよ。
一生……親友でいるって約束したでしょう?」
第5話
真希は江茉の墓前で長い時間を過ごし、そろそろ帰ろうとしたその時、向かいから歩いてくる一団の姿が目に入り、思わず足が止まった。
その中にいた万尋も、すぐに彼女を見つけた。
真希が事故に遭ってから、二人が顔を合わせるのはこれが初めてだった。
万尋は江茉の墓前に供えられた花に気づくと、表情が一瞬で冷え込んだ。
次の瞬間、彼の隣にいた母親・古川章子(ふるかわ あきこ)が真希を見つけるなり、激昂して駆け寄り、彼女の腕を乱暴に掴んだ。
「よくも来れたわね!」
章子は怒りに震えながら、勢いよく真希の頬を平手打ちした。
「今すぐ消えなさい!出ていけ!」
鋭い痛みとともに、真希の視界が一瞬ぐらつく。後ずさりしながら、唇を震わせた。
「おばさん、私はただ……」
「黙ってよ!」
章子は怒鳴り声をあげた。
「あんたなんかが江茉を見に来る資格なんてない!江茉はあんたのせいで死んだのよ!消えなさい!」
真希の頬はすぐに赤く腫れ上がった。痛みをこらえながら、ただ黙って章子の怒りを受け止めるしかなかった。
万尋の父親・古川永正(ふるかわ えいせい)が慌てて章子を抱きとめ、必死になだめようとした。
「黒澤さん、帰りなさい。もうここへは来ないでくれ」
だが、章子の怒りはそれでは収まらなかった。地面にある花に目を留めると、永正の腕を振りほどき、それを掴み上げて真希に投げつけた。
「偽善者ぶるんじゃないわよ!あの日逃げなかったら、江茉はこんな無惨な死に方をしなくて済んだのよ!酒に酔った男が五人もいて、江茉を一人残して逃げたんだ!あの子は……あの子は……」
章子は真希を激しく憎んでいた。
たとえ誰もが知っていたとしても――あの時、真希が逃げなかったら、結局二人とも同じ運命を辿っていただろうということを。
だが、江茉の死はあまりにも惨かった。だからこそ、誰もが憎しみに囚われ、他の可能性を見ようとしなかった。
真希が江茉を先に逃がさなかったことを責めた。
犯人の男たちは、二度と外の世界に出られないようにされた。
そして真希もまた、一生罪悪感という名の牢獄から逃れられないように――。
章子は嗚咽を漏らしながら、拳を振り上げ、何度も真希を叩いた。
「江茉はまだあんなに若かったのに……あんなに優しい子だったのに……どうしてあの場に一人置き去りにしたの!?どうして……!」
最後には力なく真希を突き飛ばし、泣き叫んだ。
「どうして死んだのが江茉で、あんたはまだ生きてるのよ!」
その衝撃で、真希はバランスを崩し、後ろの墓石に頭をぶつけた。鋭い痛みが走り、額から鮮血が流れ出す。
万尋は拳を強く握りしめた。だが、真希がふらつきながらも立ち上がるのを見て、彼女の手首を力強く掴み上げた。
「母さん、江茉の前で取り乱さないでください。俺が今すぐこいつを追い出します」
そう言い放つと、真希を無理やり引きずるように墓地の外へと連れ出した。
外に出ると、万尋は真希の腕を乱暴に振り払った。
「死にたいのか?」
彼の声は冷たく、怒りに満ちていた。
「二度とここへ来るなと警告したんだ」
しかし、その目には怒りだけでなく、別の感情も滲んでいるようだった。
真希は唇を噛みしめながら、静かに言った。
「江茉に会いたかった」
万尋の目が鋭く細められた。
「お前にその資格はない」
吐き捨てるように言うと、彼は踵を返し、墓地へと戻っていった。そして傍に控えていたボディーガードに真希を追い出さすよう命じた。
「資格はない」という一言が、鋭い刃のように真希の心を突き刺さった。
彼女はよろめきながら墓地を後にし、涙に濡れた顔で街を歩いた。
その時、耳元で聞こえたのは、江茉の懐かしい声が次々と蘇ってきた。
「真ちゃん、このブレスレット、おそろいだよ。一生親友でいようね」
「真ちゃん、昨日お兄ちゃんが指輪を選んでるのを見ちゃった。きっとプロポーズ気だよ」
「これから彼に束縛されちゃうから、ますます誘いづらくなるね。今夜、一緒に映画行こうよ?」
「真ちゃん、早く逃げて!早く……」
……
真希の涙は、あとからあとから頬を伝った。
私はあの日、どうして江ちゃんを守らなかったんだろう。どうして、先に逃げちゃったの?
もしあの時、私が身代わりになっていたらよかったのに……
親もいない、誰にも必要とされていない私なんかが死んでも、誰も悲しまなかったのに……
あの時、もし私が死んでいたら、万尋は今でも愛してくれていたのかな……
そう思えば思うほど、胸が締め付けられるように痛んだ。
とうとう耐えきれず、その場に崩れ落ち、声を押し殺して泣きじゃくった。
第6話
翌日、真希は会社を休んだ。
そして、一人でお寺へ向かった。
帝都近郊には、「霊験あらたか」と評判の空昭寺がある。
この数年、真希は何度もこのお寺を訪れ、仏前で長い時間祈り続けた。
江茉が極楽浄土へと旅立てるように――
万尋が平穏無事でいられるように――
だが、もう二度とここへ来るわけがないかもしれない。
今回、真希は空昭寺の菩提樹の下に跪いた。
昔から、心からの誠意を示せば、お寺の貴重な宝を授かることができると言われているからだ。
日が暮れると、突然雪が降り始めた。
冷たい風が容赦なく吹きつけ、真希の体を芯から凍えさせた。
すると、全身が激しく痛み、寒さにもかかわらず、額には細かい汗が滲んだ。
体が止めどなく震え、ついに「ぷっ」と、口から血を吐いた。
それでも、真希は立ち上がらなかった。
そのまま一昼夜、動かずに跪き続けた。
夜が明けるころ、僧侶が境内を巡回していると、半分雪に埋もれた真希の姿を見つけた。
近づくと、白い雪の上に鮮やかな血の跡が広がっていた。
僧侶は静かに尋ねた。
「大丈夫ですか?お嬢さん、そこまで誠心誠意を尽くして、一体何をお求めですか?」
真希は青ざめた顔で、ふらつきながら立ち上がり、手を合わせて深く礼をした。
「長生の蝋燭と……厄除お守りをいただきたいのです」
長生の蝋燭は、亡き者の位牌の前で灯せば、その魂が来世で安らぎを得られると言われるもの。
真希は願いを叶えてもらうと、震える体を引きずりながら、そのまま会社へ向かった。
これが、去る前に彼らに残せる、唯一のものだった。
万尋が自分の贈り物を受け取るはずがないことは、真希にも分かっていた。
だから、昼休みの誰もいない時間を見計らい、そっと長生の蝋燭を万尋のデスクの上に置いた。
厄除お守りは、後日、彼の車の中に忍ばせるつもりだった。
会社を出たあとも、真希はすぐには立ち去らなかった。
万尋がこの蝋燭を持ち帰るのか、どうしても確かめたかった。
そして、午後六時半。
万尋が会社を出てきた。
その手には、長生の蝋燭の袋があった。
真希の胸が高鳴った。
しかし、次の瞬間、彼は無造作にその袋をそばにいた朋也へ渡し、ある方向を指差した。
そこは、ゴミ捨て場だった。
真希の顔色が変わった。
捨てるつもりなのか?
慌てて朋也のあとを追った。
彼がゴミ捨て場に向かうのを見て、胸が締め付けられた。
「やめて!」
真希は思わず駆け出し、朋也が袋を捨てる寸前に、それを奪い取った。
しかし、中を開けると、空っぽだった。
何が起こったのか理解できずにいると――
「やっぱり」
冷たい声が背後から響いた。
真希はびっくりして振り返った。
――万尋。
彼の手には、まだ捨てられていない長生の蝋燭が握られていた。
朋也が気を利かせてその場を離れると、万尋はゆっくりと彼女に歩み寄り、低く冷たい声で言った。
「江茉への償いのつもりか?」
真希の唇がかすかに震えた。
「ただ……最後に、江ちゃんに贈りたかっただけ」
万尋の目が鋭く細められる。
そして、次の瞬間――
無言で、長生の蝋燭を真っ二つに折った。
「やめて!!」
真希は慌てて飛びかかった。
だが、すでに折れた蝋燭は、万尋の手からこぼれ、無情にもゴミの山へと放られた。
その拍子に、真希のポケットから何かが落ちた。
万尋は無意識にそれを拾い上げた。
厄除けのお守りだった。
真希の心が、ぎゅっと強張った。
万尋はしばらくそれを見つめたあと、それからふっと冷たく嗤った。
「毎日『罪を償う』なんて言いながら……結局、自分のために厄除お守りを買ったのか?」
彼の声には、冷ややかな嘲笑が滲んでいた。
「変わらないな、お前。死ぬのが怖くて仕方ないんだろ?」
真希は言葉を失い、ただ万尋を見つめることしかできなかった。
彼は何のためらいもなく、厄除お守りを指先で弾き飛ばした。
それは、水溜まりの中へと落ちた。
「『無地に生きる』だと?笑わせるな」
彼の声は、冷たく、そして残酷だった。
「一生苦しみ続けろ」
それだけ言い残すと、万尋は踵を返し、その場を去った。
真希は呆然と立ち尽くした。
彼女の足元では、泥にまみれた厄除お守りが静かに横たわっていた。
そして、ゴミの山の上には、折れた長生の蝋燭が冷たい風に晒されていた。
――やっとの思いで手に入れたものが、すべて無意味に終わった。
まるで彼女の人生そのもののように、最後には、何一つとして、手の中に残らなかった。
第7話
真希は、雨に濡れそぼったお守りをそっと拾い上げた。
万尋はその中に小さな紙切れがあることには、気づかなかった。
「万尋が平穏無事で、喜びに満ちた人生を送れますように」
雨水に滲んだ文字は、もはや判別できないほどにぼやけていた。
突然、血のような鉄臭さが喉元までこみ上げるが、真希は必死に飲み込み、目に滲んだ涙を無理やり押し戻した。
三日後、真希は再び会社へ出勤した。
交通事故による外傷はほぼ治っていたが、胃がんの症状はますます悪化していた。
見かねた祐人がわざわざ訪ねてきて、「無理せず休んだほうがいい」と何度も説得したが、彼女の意思を変えることはできなかった。
その夜、万尋と、またしても付き合いへ向かうことになった。
次から次へと酒を勧められていた。真希は一切断らず、杯を重ねていった。
「黒澤さん、さすがですね!こんなに飲める女性、なかなかいないよ!」
喧騒の中、万尋は静かに彼女を見つめ、その姿を目に焼き付けるようにじっとしていた。
結局、この夜も彼女は酒を飲み続け、宴が終わる頃にはすっかり泥酔していた。
だが、胃は焼けるように痛んだ。
人目を盗んでトイレに駆け込み、薬を二錠飲み込んだ後、何とか痛みに耐えながら席に戻った。
しかし、個室に戻ると、すでに人はまばらだった。
万尋の姿はどこにもない。
いつものことだ。
どうせまた、彼は先に帰ったのだろう。真希はそう思い、気にも留めずに店を後にした。
冷たい風が吹きつけ、酔いが回った体に寒さが染みる。
道路の車のライトは、霞がかったようにぼやけて見えた。
ふらふらと車道の真ん中へと歩みを進め、片手を挙げてタクシーを止めようとした。
「ビ――!!」
甲高いクラクションが響き渡った。
猛スピードで突っ込んでくる車。
避けようとしたが、泥酔した体は言うことを聞かず、動きがワンテンポ遅れた。
ぶつかってしまう。
そう思った次の瞬間、後ろから強い腕が彼女の体を引き寄せた。
ドンッ!
勢いよく歩道に引き戻され、彼女は目を見開いた。
目の前にあるのは、夜の闇のように深い瞳。
「また轢かれるつもりか?」
低く抑えた声が、静かに響いた。
真希はぼんやりと彼を見上げた。現実と過去の記憶が交錯し、思考が曖昧になる。
彼の腕の中にいる――それだけで、何年も前のあの夏の記憶が蘇った。
あの夏、サークルの合宿で海へ行ったときのこと。
真希は初めて見る海に夢中になり、貝殻を拾おうとしゃがみ込んだ拍子に、小さなカニに指を挟まれた。
驚いてバランスを崩し、転びそうになった彼女を、万尋が素早く抱き寄せた。
その拍子に、唇が、彼の唇にかすめるように触れた。
ただの偶然だった。
だが、少年はなぜかそのまま彼女の唇を甘く噛み、ゆっくりと深く口づけた。
それから、静かに燃える篝火、潮騒の音、遠くで笑い合う友人たち。
誰にも気づかれないように、万尋は夜の闇に紛れるように、彼女をそっと抱きしめ、優しく唇を重ね続けた。
あのときの心臓の高鳴りは、今もまだ覚えている。
彼の腕の温もりに包まれながら、真希は息をのんだ。
万尋も、あの夜を思い出しているのだろうか?
もしそうでなければ、どうして今もこうして抱きしめたまま、離そうとしないの?
そのとき、「何してるの?」
鋭い声が、沈黙を引き裂いた。
真希は弾かれたように顔を上げると、
京香だった。
万尋の腕が、瞬間的に緩んだ。
そして、まるで何事もなかったかのように、無表情で京香のほうへ歩いていく。
「何でもない、帰るぞ」
京香の手が、万尋の手を取った。
彼女は勝ち誇ったように真希を一瞥し、そのまま彼と並んで去っていった。
真希は、その場に取り残されたまま立ち尽くした。
現実なのか、夢なのか。
今夜の出来事は、酔いに霞んだ意識の中で、どこか遠い過去の記憶と溶け合っていく。
やがて、祐人が迎えに来て、ようやく意識の朦朧とした真希を連れて帰った。
深夜、帰宅したばかりの真希のスマホに、一通のメッセージが届いていた。
【帝都の同級生たちへ!今週土曜、悦心ホテルで同窓会やるぞ!】
その後には、参加者の名前がずらりと並んでいた。
その中に、真希の名前、そして万尋の名前もあった。
今となっては、こうして並ぶ以外に、二人の名前が並ぶことはない。
グループチャットは、かつての賑やかさを取り戻したかのように、熱気に包まれていた。
まるで卒業直後のあの頃のように、誰もが離れがたく思っていたあの時のように。
第8話
土曜日、真希は同窓会に参加した。
生命の最後に、もう一度あの頃の仲間たちと会って、自分の青春に別れを告げたかったのだ。
だが、思いがけず万尋も来ていた。
彼はもともとこういう社交の場が好きではなく、以前はいつも真希と江茉に無理やり連れてこられていた。
それなのに、今日は自ら姿を見せただけでなく、京香まで連れてきていた。
皆で酒を飲み、歌い、おしゃべりをして、やがてゲームが始まった。
「さあ、ルーレットゲームだ!止まった人は真実か挑戦、どっちかを選べ!」
ちょうどその時、万尋は仕事の電話を受けるために席を外していた。
真希はこういうゲームには慣れていなかったが、皆に促されるまま参加することになった。
ルーレットが回り、最初に止まったのは真希だった。
カードに書かれた挑戦内容は、次に部屋へ入ってきた人と十秒間キスをすること。
真希はそのカードを握りしめ、黙り込んだ。
京香は得意げに笑いながら言った。
「真希さんって純潔を大事にするタイプでしょ?どうしてもできないなら、私の靴を磨いてくれたら、挑戦は免除してあげるわ」
その挑発的な視線に、真希は指を強く握りしめた。
もうすぐ死ぬ身だ、誰とキスしようが関係ない。
「挑戦するわ」彼女は静かに言った。
京香は驚くどころか、むしろ笑みを深め、目の奥に鋭い光を宿した。
その頃、廊下では。
万尋は電話を終えて振り返った瞬間、汚れた格好の浮浪者が上機嫌に歩いてくるのを目にした。
男は電話をしながら興奮した声で話していた。
「今すげえ仕事ゲットしたぜ!ある女をはめるために、わざわざ俺にキスしろってさ!」
電話を切ると、そのまま個室の扉へと向かった。
男はニヤつきながら唇を舐め、ドアを押し開けようとした。
その瞬間、突然強い力で腕をつかまれた。
「すまん」
万尋は冷ややかに言い放ち、先に個室へと足を踏み入れた。
個室にいた皆は、入ってきた人物を見て一瞬で静まり返った。
京香の顔色が変わる。なぜ彼が!?
真希も驚いたように万尋を見つめた。
だが、当の万尋は何事もなかったかのように冷然とした表情で、「何を見てる?」と低く問った。
誰かがためらいがちに答えた。
「ルーレットは止まった人が真希さん……最初に入ってきた人とキスしなきゃならなくて……」
万尋は静かに席に座ると、「くだらん」と一言だけ発した。
京香は慌てて「そ、そうよ!このゲームはなしってことで!」と声を上げる。
二人が婚約者であることは誰もが知っていたため、皆はすぐに話を流した。
会が終わった後。
京香は人目のない場所で、あの浮浪者を怒鳴りつけた。
「なんでさっさと入らなかったのよ!」
男は困惑した表情を浮かべた。
「俺のせいじゃねえよ……あの男が力ずくで俺を止めたんだ。むしろ、わざとやってんじゃねえかって疑うくらいにさ」
万尋が真希を庇うような真似をしたことが、京香には許せなかった。
もう二年も婚約しているのに、彼は一度たりとも結婚の話を持ち出したことがない。
腹立たしさが込み上げ、男を追い払うと、すぐに電話をかけた。
翌日、万尋は両親に呼び出された。
「話って何?」
母親の章子は苛立った声で切り出した。
「一体いつになったら京香と結婚するつもりなの?もう二年も婚約してるのよ!夏目家も、もう待てないって言ってるの!」
万尋は淡々と答えた。
「今は会社が忙しい」
「そんなの言い訳よ!」
母親は語気を強める。
「いい加減にしなさい!京香を娶らないのは、まだ黒澤のことを忘れられないからでしょう!」
万尋の手が、一瞬だけ止まる。
母親はその様子を見て、確信した。
「いい?その女との結婚なんて、絶対に認めない!」
そう言うと、万尋の腕を引き、江茉の遺影の前へと連れて行った。
「まさか、自分の妹を死なせた女を娶るつもり?
江茉を殺したのは彼女じゃない。でも……」
母親は泣きながら叫んだ。
「彼女が間接的に江茉を死なせたのよ!江茉は彼女を庇って命を落としたの!あの時、彼女が逃げなかったら……江茉にはまだ助かる可能性があったのよ!たとえ僅かでも……とにかく、彼女を娶ることは許さない。私が生きてる限り、絶対に」
母親は泣き崩れ、遺影を抱きしめた。
万尋は、胸が締め付けられるのを感じた。
母親の涙と、写真の中の妹。
そのすべてが、彼を押し潰しそうだった。
胸の奥が締めつけられ、呼吸が苦しくなった。
低い声で、分かりきっていた答えを口にした。
「俺は、真希とは結婚しない」
しかし、それだけでは母親の怒りは収まらなかった。
「じゃあ、江茉の前で誓いなさい。京香と結婚すると」
万尋は、沈黙した。
一秒、二秒、三秒――
そして、ゆっくりと口を開いた。
「京香と結婚する」
第9話
深夜。
万尋はまだ寝室の窓辺に立っていた。
手には少し古びた指輪が握られている。
それは、かつて真希にプロポーズしたときの指輪。
あのとき、ほんの少し――あと少しで、結婚できるはずだった。
彼はじっと指輪を見つめ続けた。
どれほどの時間が経っただろう。
やがて目を閉じると、力いっぱい指輪を投げた。
小さな指輪は、静寂に包まれた夜の闇へと消えていった。
数日後。
真希は病院での検査を終えて帰宅した。
すると、家の前に車が停まっているのが目に入った。
車にもたれかかるようにして立つ万尋の姿があった。
まるで大学時代、彼がよく寮の前で待っていてくれた時のように。
真希は買ってきた薬をバッグに隠し、彼のもとへ歩み寄った。
「私に何か?」
万尋は彼女を見つめ、ふと気づいた。
真希が、以前よりずっと痩せたように見える。顔色も、ひどく蒼白だった。
喉がわずかに動いたが、彼は何も言わず、ただポケットから招待状を取り出した。
真希は視線を落とし、招待状を見た途端、全身が凍りついた。
動くことも、声を発することもできないまま、じっと立ち尽くした。
頭上から、万尋の冷淡な声が降ってきた。
「俺と京香が結婚する。伝えておく。ただ、それだけだ。
来るなよ。祝福の言葉もいらない」
真希の胸に鈍い痛みが広がった。
彼はもう、これほどまでに自分を憎んでいるのか。
これから先、一生顔も見たくないほどに。
震える手で招待状を受け取りながら、彼女は最後まで顔を上げることができなかった。
かすかに頷き、小さく言葉をこぼした。
「お幸せに」
万尋と京香の結婚式は、一週間後に迫っていた。
真希は会社に退職願を提出し、すぐに受理された。
彼が結婚する。もう二度と自分には会いたくない。
――それなら、自分が償うのもできないだろう。
結婚式の三日前。
真希はこれまでの財産を整理した。
古川グループで働いた数年間、貯金はそれなりにあった。
彼女は家を売り、その全額をこども育成基金に寄付した。
結婚式の二日前。
真希は墓地を訪れた。
江茉のお墓の隣に、自分の墓の区画を購入した。
そして、墓地のスタッフにこう頼んだ。
「竿石には、名前を刻まないでください」
墓参りに来る人もいないからだ。
そうすれば、古川家の人が見ても、自分だと気づかず、怒ることもないだろう。
結婚式の前日。
真希は身辺整理を始めた。
不要品回収業者を呼び、自分の荷物をすべて処分させた。
何もなくなった家の中央には、ただひとつ、大きなダンボール箱が残った。
中には、万尋と彼女の高校時代の学生証、初デートで観た映画の半券、二人の写真、彼がくれたネックレス、互いに書いた手紙……
長い夜に何度も取り出しては、涙を流しながら読み返したものばかり。
それから、真希は火鉢に火を点けると、箱の中の思い出の品を次々と投げ入れた。
炎は揺らめきながら、それらをゆっくりと焼き尽くしていった。
彼女は静かに座り込み、燃え盛る火を見つめ続けた。
やがて、夜が明け、朝日が昇った。
今日は、万尋の結婚式の日だった。
真希はゆっくりと立ち上がる。
その瞬間、床に赤い染みが広がっていることに気がついた。
顔を触ると、指先に生暖かい液体がついた。
血?
でも、どうでもよかった。
ふらふらと、家を出た。
今日は、珍しく晴れた日だった。
だが、真希の体は寒さに震えていた。
歩くたびに血が滴り落ちていた。
道行く人々が驚いて振り返るが、彼女は一度も立ち止まらず、やがてある大きな橋の上に辿り着いた。
橋の下には、底知れぬ深い川が広がっている。
きっと、冷たくて、痛いほどの水だろう。
真希は欄干に腰掛けると、病院へ電話をかけた。
「すみません、私、今日死にます。
遺体を引き取って、すぐに臓器提供の手続きをお願いします」
電話を切り、じっと川を見つめた。
血だらけの顔に、ふっと笑みが浮かぶ。
ようやく、終わる。
今日、彼は結婚し、私は川の底へ沈む。
それが、真希の考えた「最善のエンディング」だった。
それから、彼女は微笑みながら、目を閉じ、躊躇なく身を投じた。
さようなら、万尋。
三十分後――結婚式会場にて。
万尋はタキシードに身を包み、ステージの上に立っていた。
ウェディングドレス姿の京香が、ゆっくりと歩み寄っていた。
だが、彼の頭の中には、真希との会話しか響いていなかった。
「真希、どんな結婚式がしたい?」
「うーん、広い芝生に、色とりどりの風船をたくさん飾って、仲のいい友達だけを招くの。江ちゃんには、私の介添人をお願いしたいな」
「古川家の結婚式がそんな簡単なわけないだろ」
「そんなに自信あるの?私の旦那になれるなんて」
あの頃の笑顔が、脳裏に焼きついて離れない。
ぼんやりとしたまま、儀式を進めた。
だが、指輪交換の直前、朋也が慌てて駆け寄ってきた。
「社長、大変です。スマホがずっと鳴っていて……」
「こんな時に――」
「ですが、どうしても気になります!」
そして、万尋は苛立ちつつも、スマホを手に取った。
見知らぬ番号。
通話ボタンを押すと、怒鳴り声が飛び込んできた。
――祐人だった。
「古川、真希さんが死んだ。川に飛び込んで、死んだ!」
万尋の血の気が、一瞬で引いた。
――ガシャン。
手からスマホが滑り落ち、床に砕けた。
次の瞬間、会場中の人々が目撃した。
新郎が突然、狂ったように駆け出した瞬間を。