風は過ぎて、花はまだそこに

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風は過ぎて、花はまだそこに

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「お嬢さま、西園寺さまは今夜お帰りになりません。もうお休みになってくださいませ」 家政婦の田中が、心配そうに篠原雪乃(しのはら ゆきの...

Chương (1)

第1章

「お嬢さま、西園寺さまは今夜お帰りになりません。もうお休みになってくださいませ」 家政婦の田中が、心配そうに篠原雪乃(しのはら ゆきの)に声をかけた。 雪乃はテーブルの上、何度も温め直された料理を見つめながら、心の奥が凍りつくような痛みを感じていた。バースデーケーキのロウソクを静かに取り外し、無理に笑みを浮かべた。 「田中さん、今日は本当にありがとう」 今日は雪乃の誕生日。西園寺風真(さいえんじ かざま)は「必ず帰る」と約束してくれていた。 けれど、時計の針はもう深夜の十二時を指していた。 雪乃は自嘲気味に笑った。 ――やっぱり、自分を過大評価しすぎてた。 風真のような名家の御曹司が、塵のように取るに足らない自分を気にかけるわけがない。 案の定、深夜をとうに回ってから、風真はようやくドアを開けて帰ってきた。 全身から酒の匂いを漂わせながら、ふらふらと部屋に入ってくる。 雪乃はすぐに駆け寄り、彼のコートを受け取ると、膝をついてヒールを脱がせる。 「こんな時間まで……ご飯、温め直してくるね」 第1話 「お嬢さま、西園寺さまは今夜お帰りになりません。もうお休みになってくださいませ」 家政婦の田中が、心配そうに篠原雪乃(しのはら ゆきの)に声をかけた。 雪乃はテーブルの上、何度も温め直された料理を見つめながら、心の奥が凍りつくような痛みを感じていた。バースデーケーキのロウソクを静かに取り外し、無理に笑みを浮かべた。 「田中さん、今日は本当にありがとう」 今日は雪乃の誕生日。西園寺風真(さいえんじ かざま)は「必ず帰る」と約束してくれていた。 けれど、時計の針はもう深夜の十二時を指していた。 雪乃は自嘲気味に笑った。 ――やっぱり、自分を過大評価しすぎてた。 風真のような名家の御曹司が、塵のように取るに足らない自分を気にかけるわけがない。 案の定、深夜をとうに回ってから、風真はようやくドアを開けて帰ってきた。 全身から酒の匂いを漂わせながら、ふらふらと部屋に入ってくる。 雪乃はすぐに駆け寄り、彼のコートを受け取ると、膝をついてヒールを脱がせる。 「こんな時間まで……ご飯、温め直してくるね」 風真は、彼女の世話に慣れきっていたくせに、一瞥すらくれずに言った。 「いいよ、外で食べてきたから」 そう言って、雪乃の肩を擦り抜け、隣の寝室へと向かった。 「ねえ、着いた?」 スマホの画面をタップしながらの口調はやけに柔らかく、表情もまるで別人のように穏やかだった。 雪乃はふと光った画面に目を落とした。 小林綾音(こばやし あやね)――その名前が、刃のように彼女の胸を裂いた。 深く息を吸い込む。 逃げられない現実。いつか来るとわかっていた瞬間。 雪乃は苦笑して、静かに風真の母へ電話をかけた。 「奥様……風真と、離婚したいです」 「本気なの?」 電話の向こうで、彼女の声が重く響いた。 雪乃は手つかずのケーキを見つめながら、しばらく沈黙し、やがて頷いた。 「はい……もう、風真のことで悩まなくてもいいですよ。小林さんが戻ってきて、風真も喜んでます。彼はもう自傷行為はしません」 電話口から、長いため息が聞こえた。 「あなたには苦労ばかりかけてしまったわね。本当はあなたのお母さんにちょっとしたことで手伝っただけなのに……あなたはあの子のために、すべてを捧げてくれた。 なのに、風真の心には……とにかく、何か望みがあれば、西園寺家が必ず叶えるわ」 窓の外を見ながら、雪乃は小さく呟いた。 ――この屋敷に閉じ込められて長かった。そろそろ、外の世界を見てみたい。 「留学を再開したいです。アメリカ行きのチケットを、お願いします」 通話を切ると、雪乃は目を閉じ、過去へと沈んだ。 雪乃の母はかつて西園寺家の使用人だった。 ある日、持病で倒れた時に手配してくれたのが、他ならぬ風真の母だった。 その時雪乃は海外の名門大学からのオファーを受け取ったが、その恩を返すために、帰国した。 ちょうどその頃、風真のことで頭を抱えていた母は、雪乃の横顔が綾音にそっくりなのに気付き、目を輝かせてこう言った。 「恩返しをしたいなら、お願いがあるの」 風真と綾音は名家同士の幼なじみ。 風真は彼女に強く想いを寄せていたが、綾音は恥ずかしがり屋で、いつも逃げてばかりだった。 ようやく大学卒業後にプロポーズを計画していたその前夜、綾音はそれを避けるために、突然国外へと姿を消した。 絶望した風真は、酒に溺れ、自傷まで始めた。 そのときに現れたのが、雪乃だった。 彼女は恩返しのために、オファーを蹴って「風真に一目惚れしたフリ」をして付き添い、不眠不休で看病を続けた。 ライバル会社の罠には一人で飛び込んだ。 車のブレーキを細工された事件では、自らの体を盾にして風真を守った。 その瞬間、風真は心底取り乱した。 「篠原、死ぬな……生きてくれたら、結婚しよう……!」 けれど、あとで知った。 風真があんなにも取り乱したのは、自分が綾音に似ていたからだということを。 いつかは彼の心を動かせると信じていた。だが、それは幻想だった。 結婚式当日、彼は家のどこにもいなかった。 あとで知った。前夜、彼は綾音に会いに行っていたのだ。 その日から、彼女は悟った。 自分は、決して風真の心の中に入ることはできない。 掴めない砂は、いっそ風に流してしまえばいい。 ワイングラスを掲げ、壁一枚隔てた向こうの風真に向かって笑った。 その笑みは、どこまでも寂しく、そして潔く―― 「西園寺風真、あなたに自由を返すわ」 第2話 「篠原、新聞取ってくれ」 翌朝の食卓で、風真は二度も声をかけたが、雪乃はスマホをぼんやり見つめたまま動かない。 やや苛立った風真は、彼女の目の前で手をひらひら振った。 雪乃はようやく我に返り、視線を落としながら新聞を差し出した。 「今日のお前、どこか上の空だな」 風真は不機嫌そうに眉を寄せた。さらに、テーブルのケーキに目を留め、さらに顔をしかめた。 「朝は甘いもん嫌いって知ってるだろ。なんでこれを出すんだ?」 雪乃は自分の皿に小さな一切れを取り分け、フォークを強く握るその指先は青白くなっていた。 静かに、そしてどこか滑稽に笑った。 風真はやっぱり覚えていなかった。昨日が、自分の誕生日だということを。 無理もない。綾音が戻ってきた今、偽物の自分の誕生日なんて、どうでもいいんだろう。 「……ごめん、忘れてた」 風真は特に気にする様子もなく、コーヒーを手に取る。視線はずっとスマホに向いていて、何かを待っているようだった。 雪乃は伏し目がちに、沈んだまま目をそらした。 ――初恋って、すごいな。何年経っても、風真の心を支配している。 そのとき、スマホが小さく光った。 風真はすぐに手を伸ばし、画面を見た瞬間、氷のような顔が一気に柔らかくほどけた。 そんな顔、結婚して三年、一度も見たことがなかった。 雪乃は乾いた笑みを浮かべた。 ――嘘も重なれば本当になる。三年の婚姻関係、始まりは恩返しだったとしてもとしても、その後は……? でも、予想していた。こんな結末になることくらい。 深く息を吸い込んでから、雪乃は言った。 「風真、予約した時間、あと一週間。書類はもう提出したよ」 風真はスマホに夢中で、彼女の言葉など聞いていないまま返事をした。 「ああ」 雪乃の心にぽっかりと穴が開いた。 心の準備はしていたはずなのに、いざ現実になると、痛みがじわじわと広がっていく。 「私……もうすぐアメリカに行くの」 風真は相変わらずスマホに目を落としながら、片手で適当に手を振った。 「わかってる」 そしてコーヒーを置くと、そのまま急ぎ足で家を出ていった。 誰に会いに行くのかなんて、言うまでもない。 「風真、ちゃんと聞いてた?私、本当に行くんだよ。……本当に、何とも思わないの?」 ついに声をかけてしまった。 風真は振り返り、怪訝そうな顔で言った。 「何を?遊学だろ?前に言ってたじゃないか。今の話も、それだろ?」 そしてまた、足早に去っていった。 雪乃はひとり苦笑いした。 やっぱり、自分は彼の心の中にいなかった。 彼女のことなんて、彼にとってはもう忘れ去られた些細な雑音にすぎない。 遊学の話は、もう数月前のことだった。 でももう、訂正するつもりもなかった。 風真は、ようやく本物の初恋を手に入れた。 そして自分は、ついにこの場所を離れる。 辞表を片手に、雪乃は設計事務所へと足を運んだ。 「所長、辞めさせてください。留学し直すことにしました」 所長は驚きながらも目を輝かせた。 「前から言ってたじゃないか、君は伸びるって。ついにあの坊ちゃんの呪縛から解放されたってわけか?」 雲江市では誰もが知っていた、篠原雪乃がどれだけ西園寺風真を想っていたか。 雪乃は寂しげに微笑む。 窓の外、毎年同じように花が咲く。 でも、風景は同じでも、隣にいる人はもう、違う。 「……離婚しました」 所長は目を見開いたまま、しばらく黙っていたが、やがて納得したようにため息をついた。 「……そっか。恋ってのはさ、やっぱり対等じゃなきゃ。ずっと片方だけが与え続けるのは、誰だって疲れるよな。離婚してよかったんじゃないか」 雪乃は小さく笑った。 ――うん。三年も頑張った。もう、十分。 第3話 退職した雪乃は、家に戻って荷物の整理を始めた。 そのとき初めて気づいた――自分の物が、驚くほど少ないことに。 設計事務所ではそれなりの報酬を得ていたけど、そのお金のほとんどは風真への贈り物に消えていた。 けれど風真は、どれも無表情で受け取るだけ。開封すらしなかったものも多い。 今では、それらの上には厚くホコリが積もっていた。 胸がひりついた。雪乃は深く息を吸い込み、これらのプレゼントをどう処理しようか迷っていたその時―― 突然、スマホの着信音が鳴った。 表示された名前は【小林結衣(こばやし ゆい)】。 ――綾音の実の妹だった。 反射的に通話ボタンを押すと、向こうからは早速、傲慢な甘え声が響いてきた。 「風真お兄ちゃん、今やっとお姉ちゃんが帰ってきたんだから、あの居座ってるババアはさっさと出てってもらわないと困るよね?あんな地味でウジウジした女、見てるだけでイライラするんだけど」 「結衣、そんなこと言っちゃダメよ。篠原さんは風真くんの正式な奥さんなんだから」 通話の向こうから、柔らかくて上品な声がした。ただの声だけでも、人を惹きつける魅力がにじみ出ていた。 誰であるかなんて、考えるまでもない。風真の初恋――小林綾音、その人だ。 「ふん、間違ったこと言ってないし。それにお姉ちゃん、外国にいる間ずっと風真お兄ちゃんの心はお姉ちゃんのものだったんだから。結婚直前もわざわざお姉ちゃんに会いに来たし、お姉ちゃんがOKしてたら、あの女の席なんてそもそもなかったのに」 結衣は大げさに息を呑むふりをした。 「あれ、うっかり篠原に電話かけちゃってたみたい?雪乃お姉ちゃん、怒ってないよね?」 ……狙ってかけてきたことなんて、分かりきってる。 以前なら心えぐられるような気持ちになっていた。でも今の雪乃は違う。離婚した今となっては、彼女たちの挑発なんて何の意味も持たなかった。 スマホの画面を見つめたまま、何も言わず黙っていた。 沈黙を察した結衣は、ますます調子に乗った。 「だってさ、あんた西園寺家の金で飯食って生きてるだけじゃん?怒る資格なんてあるの? そうだ、風真お兄ちゃん、今度お姉ちゃんと二人で出張するんだよ?荷物まとめるの、忘れないでね!」 男女ふたりきりで出張――しかもその荷物を自分が準備するなんて。 雪乃は唇を噛みしめ、それでも言葉を飲み込んだ。 「風真くん、やっぱりやめたほうが……あなたはもう結婚してるんだし……篠原さんもきっと気分よくないわ」 控えめながらも迷いのにじむ声が、綾音から聞こえてきた。 風真はすぐに優しく答えた。 「大丈夫、あいつは何でも許してくれるから」 続けて、雪乃に向けて声を張った。 「俺と綾音が一緒に出張するのは仕事のためだ。お前、まさかそんなことで騒いだりしないよな?」 雪乃は、長く黙ったあとで、何事もなかったかのように返した。 「もちろん。行ってらっしゃい」 そして通話を切った。 何年も続いた茶番劇。その舞台から降りる覚悟は、もうできていた。 視線を落とすと、埃にまみれたプレゼントたちが目に入った。 初任給で買ったぬいぐるみ。半年かけて節約して買った高級ブランドの靴。毎年の誕生日に、手書きで書き続けた手紙。 ひとつ、またひとつ。 記憶がよみがえる。まるで昨日のことのように。 でももう、何の意味もない。 彼女はシュレッダーを開き、それらを次々に投げ込んだ。 シュレッダーが動き出す音が、過去との決別を告げるように響いた。 そして、篠原雪乃の人生も、ついに新しく回り始めた。 第4話 雪乃は絨毯の上に座り、シュレッダーから吐き出される細かくなった断片を見つめていた。 ひとつ、またひとつ消えていく過去のかけら――それに伴って、胸のつかえも少しずつ消えていく。 三年越しの結婚生活を終えた今、やっと、自分自身のために生きていける気がした。 そんな中、粉砕作業がすべて終わったタイミングで、風真が二人の女性を連れて別荘に戻ってきた。 先に足を踏み入れたのは、海外ブランドのドレスを身にまとった若い女性――小林結衣だった。 雪乃を見るなり、鼻で笑った。 「貧乏くさい」 その嫌味が言い終わらぬうちに、後ろから澄んだ柔らかい声が届いた。 「結衣、篠原さんに無礼なことを言わないで」 そう言いながら入ってきたのは、白のロングドレスをまとった上品な女性――小林綾音だった。 雪乃はこれが初めての綾音との対面だった。 その顔立ちは整っていて柔らかく、陽の光の下ではまるで神話から抜け出してきた女神のような気品があった。 ――なるほど。 雪乃はやっと腑に落ちた。初めて風真の母に会ったとき、彼女がなぜあれほどまでに熱心だったのか。 確かに、ふたりは似ている。驚くほどに。 でも、よく見れば全然違う。 綾音には、育ちの良さと自信が自然とにじみ出ていた。 雪乃は苦笑した。やっぱり偽物は偽物だ。 「はいはい、お姉ちゃんの言うとおりにすればいいんでしょ」 結衣はふてくされたように言い、雪乃に不機嫌な顔を向けた。 「ちょっと、風真お兄ちゃんの荷物まだ準備してないの?長く出張するんだから、ちゃんと多めに持たせてよね」 雪乃はその視線すら見ず、短く返した。 「暇じゃないの」 ――何? 風真は驚いたように眉をひそめた。 彼の記憶の中で、雪乃が彼の頼みを断ったのは、これが初めてだった。 綾音は少し戸惑った顔を見せ、柔らかく謝った。 「すみません、私のほうが軽率でした。ふたりきりで出張だなんて、篠原さんがご機嫌を損ねるのも当然です」 そう言って、彼女は風真に申し訳なさそうに微笑み、踵を返そうとした。 「綾音、違うんだ、彼女はそんなつもりじゃない」 風真は慌てて彼女を止めると、雪乃に冷たく言い放った。 「お前さ、気にしないって言ってたよな?今さら何だよ、また駄々こねてんのか?」 雪乃の胸に冷たい風が吹いた。 彼女は静かにスマホの画面を開き、事もなげに言った。 「所長に頼まれて、来週から始まる展覧会の準備があるの。だから本当に時間がないの」 もちろん、それは嘘だった。 既に辞表は出している。展覧会の予定なんてどこにもない。 ただ、もうこれ以上、彼のために時間を捧げるつもりはなかった。 風真は雪乃に全てを任せ、自らの邸宅から使用人まで解雇していた。 だからこそ、彼女が動かなくなった途端、すべてが回らなくなる。 結衣は不満げに口を尖らせた。 「何それ?展覧会ごときで風真お兄ちゃんの荷物すらまとめられないわけ?手抜きにもほどがある! 言っとくけどさ、あんたが妻だなんて言っても、実際やってることはただの使用人と一緒なんだよ?」 「結衣、やめなさい」 綾音が咎めるように言ったあと、風真に向かって優しく微笑んだ。 「風真くん、篠原さんが忙しいなら、私がやるわ。海外でも多少の片付けは慣れてるの」 そう言って、彼女はそのまま風真の部屋に入っていった。 風真も雪乃に軽く睨みを送ると、すぐに彼女の後を追った。 雪乃は目を閉じた。 その部屋は、三年間の結婚生活でも、彼女が一歩も入れなかった場所だった。 ――こんなの、茶番だ。 でももうすぐ、すべてが終わる。 三人が部屋に入ったその時、クローゼットの上に置かれていた重いクリスタルのオブジェが音を立てて落ちてきた。 「綾音、危ない!」 風真の瞳孔が縮み、瞬時に綾音を抱き寄せる。 雪乃は身を引く暇もなく、巨大なオブジェがそのまま―― 第5話 「っ……!」 肩に激痛が走り、雪乃の意識が一瞬真っ白になった。肩を直撃したクリスタルのオブジェは、彼女の皮膚と肉を裂き、血がどっと噴き出した。 「雪乃、大丈夫か!」 風真が血まみれの雪乃を見た瞬間、動揺した顔で思わず綾音の手を放し、雪乃のもとへ駆け寄ろうとする。 雪乃は顔色を失い、何か言おうと口を開くも、激痛で声が出なかった。 「きゃっ、綾音お姉ちゃん、怪我してるじゃない!」 結衣の叫び声が響き、風真の注意はすぐさま綾音へと向いた。 綾音の腕には数本の細い擦り傷があり、わずかに血がにじんでいる程度だった。 「風真くん、私は大丈夫……まずは篠原さんを……」 風真は、より重傷を負った雪乃に目を向け、眉間に深い皺を寄せながら一瞬ためらった。 だが―― 「何が大丈夫よ!お姉ちゃんは家でも一度も怪我したことないのよ!?破傷風とかになったらどうすんの!」 結衣は地団駄を踏みながら風真に詰め寄る。 「風真お兄ちゃん、何してるのよ!早くお姉ちゃんを病院に連れてって!」 「結衣、もう……騒がないで。風真くん、私は平気。先に篠原さんを……」 綾音は青ざめた顔に無理やり笑みを浮かべ、そう言いながら自分で立ち上がろうとする。 その姿を見て、風真は苦しげに唇を噛みしめた。 そして――綾音を抱きかかえた。 その瞬間、彼は雪乃に一瞥をくれた。 「綾音は昔から身体が弱いんだ。先に病院へ連れていく。スマホはそこにあるから、自分で救急車を呼んでくれ」 それだけ言い残し、彼は振り返ることなく去っていった。 床に倒れたままの雪乃は、その背中を見つめながら、ぎゅっと胸を押さえる。 ――まだ痛いかって? 痛くないわけがない。 でも、あまりに何度も裏切られたから、もう痛みすら感じなくなっていた。 彼女は必死で手を伸ばし、スマホを掴もうとするが、出血がひどく、指先に力が入らない。 結局、買い物から戻ってきた家政婦が痛くて気絶した彼女を見つけ、慌てて救急車を呼んだ。 雪乃が目を覚ました時、医師からこう告げられた。 「右肩の骨にヒビが入っています。運ばれてくるのが少し遅かったから……これからは長時間、筆を持つのは難しいかもしれません」 ベッドに横たわった雪乃は、目を閉じたまま静かに息を吐いた。 画家が、筆を持てなくなる―― それは、あまりに残酷な宣告だった。 隣で包帯を巻いていた若い看護師たちの囁き声が耳に入ってくる。 「同じ人間でもこうも違うんだね。隣の小林さんなんて、ただの擦り傷で西園寺様があんなに取り乱してたのに……この人なんて骨まで折れてるのに誰も見舞いにも来ないなんて」 「ほんと、小林さんは幸せだよね。あんなに愛されてて」 「私もあんな人に出会いたいな〜」 …… 「愛されて」――その言葉に、雪乃は皮肉めいた笑みを浮かべる。 ある人にとっての愛は、別の人には毒でしかない。 綾音にとって、風真は深く想いを注ぐ存在なのかもしれない。 でも自分にとっては、ただただ冷酷で、残酷だった。 その夜、雪乃は病院を後にした。 もう、これ以上聞きたくなかった。 別荘には戻らず、彼女はその足で所長のもとへ向かった。 芸術の世界に没頭すれば、現実の痛みから逃れられる。 ――そう、彼女の世界は、あの家だけじゃない。 風真も、綾音もいない世界。 彼女自身だけの、静かで広い自由な世界が、ここにある。 五日後、展覧会のすべてが終わったあと、雪乃はようやくスマホの電源を入れた。 次の瞬間、未接着信の数に目を疑った。 全て――風真から。 以前の彼は、一度だって自分に電話をしてこなかったのに。 驚く間もなく、着信が入る。 電話の主は、風真の秘書だった。 「篠原さん、一体どこにいらっしゃったんですか?電話もずっと繋がらなくて……西園寺様、あなたを探しておられて、もうおかしくなりそうでしたよ!」 ――探して? ――おかしくなりそう? 雪乃は思わず黙り込む。 あの西園寺風真が、自分のために? この九十数回の着信履歴……まさか、全部彼が――? 第6話 雪乃は眉をひそめた。 「西園寺が私を探していた?」 秘書が電話の向こうで嘆くように言った。 「そうなんですよ。この数日、篠原さんの世話がないと、西園寺さまはどこもかしこも不機嫌で……会社でも当たり散らしていて大変なんです。お願いですから、早く来てください!」 一瞬だけ心が動いたが、すぐに虚しさが込み上げた。 結局そういうことか。 ほんの少しでも、自分がいなくなって寂しがったのかと思ったけれど、実際はただ世話をされることに慣れていただけ―― 雪乃は通話を切り、小さく溜息をついた。 「私がいない日々に慣れないなら、これからどうするつもりなの?」 いずれにせよ、ここを去る日はもうすぐだ。 結局、雪乃は会社に顔を出すことにした。 社長室。 窓際に座り、ワイングラスを手に外を見つめる風真。その長い脚は優雅に組まれ、自然に気品が滲んでいる。 背後の足音を聞き、振り返った風真は、雪乃を見てようやく心が落ち着いた。しかしすぐに不快な表情を浮かべた。 「ようやく戻ってきたのかよ。どこに行ってたんだ?」 雪乃はその怒りをあえて見ないふりをして、淡々と答えた。 「所長のところで、絵の展覧会の準備を手伝ってたの」 風真は眉を寄せる。 「展覧会?お前、いつから絵なんか描けるようになった?」 雪乃は自分で水を一杯注ぎながら、心の中で苦笑した。 絵は最近始めたものではない。そもそも彼らの結婚式の背景画も、雪乃自身が描いたものだ。ただ、風真が気に留めたことなど一度もなかっただけ。 もう説明する気もない。 「最近、なんとなく始めたの」 雪乃の素っ気ない態度に、風真は眉間を揉んだ。 「あの日はわざとお前を置いていったわけじゃない。綾音は子供の頃から大切に育てられて、傷一つ負ったことがない。お前とは違うんだ。理解してくれるだろう?」 袖口の下で、雪乃の指が一瞬だけ握りしめられ、また緩められた。 「ええ、理解してるわ。お嬢様だもの、仕方ない」 「分かってるなら、何を今さら拗ねるんだ?お前がいなくなったせいで綾音は出張を嫌がって、会社は大損害だぞ」 責めるような口調に、雪乃は以前なら胸が苦しくなっただろう。だが今は違う。もう彼に振り回されることに疲れてしまった。 「ごめん」 静かにコップを置き、彼女は背を向けて歩き出した。 風真はその背中を見つめ、なぜか心がざわついた。 「篠原――」 つい口に出た名前。 雪乃は少しだけ立ち止まり、振り返らずに問い返した。 「まだ何か?」 風真はしばらく言葉を選んでから口を開いた。 「お前、いつも来るたびに部屋を片付けてくれてたじゃないか」 雪乃は振り返らず、右腕を軽く掲げ、石膏で固められた肩を示した。 「忘れたの?五日前、怪我をしたのは小林さんだけじゃないわ。 あなたの部屋を片付けられない」 その瞬間、風真は初めて、あの日雪乃がどれほど重傷を負っていたのかを思い出した。 そういえば、あの時の雪乃の肩は血だらけだった。だが、自分の目には綾音しか映っていなかった。 初めて罪悪感を感じた。 その日の夜。 風真は雪乃をおしゃれなレストランに連れて行き、テーブルにはチョコレートケーキが用意されていた。 雪乃は不思議そうに彼を見た。 風真は気まずげに咳払いした。 「この前、綾音が帰国してバタバタしていて、お前の誕生日を忘れてしまった。今日は改めて祝ってやろうと思って」 目の前のケーキを眺め、雪乃の心は複雑だった。 結婚して三年、彼が初めて自分のために用意したケーキだ。 たとえそれが、綾音が一番好きなチョコレートケーキだとしても。 しかし彼女はすぐに気持ちを切り替えた。 もうすぐ離婚も成立する。これ以上のことはもうどうでもいいのだ。 雪乃がなかなかケーキに手をつけないのを見て、風真は戸惑った。 「お前、チョコレートケーキが一番好きじゃなかったか?」 その言葉が終わる前に、後ろから明るい声が響いた。 「風真お兄ちゃん、すごい!今日はお姉ちゃんの誕生日だって、よく知ってたね!ケーキまでお姉ちゃんの好きなチョコだし!やっぱり風真お兄ちゃんはお姉ちゃんのことが一番好きなんだよ!」 結衣が嬉しそうに綾音を連れてやって来た。 綾音も、風真を見て感動を隠しきれない様子だった。 風真が一瞬困惑するのを見て、雪乃はすっと席を立った。 「そうよ。これは風真があなたのために予約した席なの。お誕生日、おめでとう」 何の未練も躊躇もないその姿を見て、風真は胸がぎゅっと締め付けられた。 雪乃は自分を一番愛していたはずなのに、なぜ今、彼女は少しも気にしないのだろう? 第7話 時が過ぎ――今日は離婚手続きを行う最後の一日だった。 雪乃は日付を確認すると、静かに最後の荷物をまとめ始めた。 窓の外を見つめながら、彼女は胸の奥で呟いた。 三年。 もう誰かの代わりじゃない。 ようやく、本当の自分として生きていける。 航空券はすでに手配済み。 自由は、すぐそこにある。 出発を目前に、雪乃のスマホが鳴った。 発信者は――風真の母だった。 「雪乃ちゃん、今日は家族の集まりがあります。来てくださらない?」 雪乃は静かに首を振った。 「奥様、離婚届はもう提出しました。私が今さら西園寺家の集まりに出るのは場違いです」 「風真がね、ずっとあなたのこと気に病んでて……今日は彼からあなたへのサプライズなのよ。最後のチャンスだと思って、お願いだから来てちょうだい」 その声は本気で心を込めた懇願だった。 三年間、風真の母から受けた数々の気遣いが、雪乃の心に小さな波を立てる。 彼女はすでに心を閉ざしていたが、それでも――もう一度だけ応えることにした。 西園寺家の本邸は、都会の喧騒から離れた静かな郊外に佇んでいた。 集まった親戚たちは皆、仕立ての良い衣装に身を包み、シャンパングラスを片手に談笑していた。 雪乃は白いシャツに身を包み、場の空気から完全に浮いていた。 けれど、それももう慣れていた。 視線の先―― そこには、まるで舞台の主役のように人々に囲まれた綾音の姿があった。 「小林さん、今日は家族の集まりですよ?風真が君を招いたってことは、もう家族同然ってことじゃない?」 「うらやましいわあ。何年も海外にいたのに、風真くんの心はずっと小林さんだけなんですって」 「この前の誕生日、彼が君のためにレストランを予約して、ケーキまで用意したそうですよ。そんな男、今どき滅多にいませんよ!」 「小林さんが海外へ行ったとき、風真くん、どれだけ落ち込んだか……食事も取らず、酒に溺れて、まるで廃人だったって聞いてますよ」 「彼ね、結婚前にもアメリカまで小林さんに会いに行ったんですって。毎月のように出張と称して渡米しては、ただ小林さんの姿を見るために……これ以上の愛情ってあります?」 「小林さん、もう迷わないでください。あの子、ずっとあなたしか見てませんよ」 親戚たちは口々に祝福を語り、それはまるで二人の婚約を後押しするかのようだった。 ――まるでそこに、雪乃という妻など最初から存在しなかったかのように。 彼女の指先から力が抜けていき、血の気が静かに引いていくのがわかった。 心なんて、とっくに冷えきっていたはずなのに―― どうして、まだこんなに痛むのだろう。 ……そうか。 これがサプライズってことね? でも、逆によかった。 ここまで傷つけば、もう二度と振り返らずに済む。 雪乃は深呼吸をして、その場を立ち去ろうとした。 ちょうどそのとき―― 「待って、雪乃ちゃん……」 目の前に現れたのは風真の母だった。 まさか、こんな展開になるとは思っていなかったのだろう。困惑を隠せない様子だった。 雪乃は苦笑して首を横に振った。 「奥様、もう大丈夫です。三年前、私はただの代役でした。今は本物が戻ってきたんです。代役が去るのは自然なことでしょう。 ただ、一つだけお願いがあります」 「なに?」 「……これからは、自分の人生を生きたいんです。もし風真に聞かれても、私の行き先は教えないでください」 三年間、蛾のように光に惹かれて飛び込み、燃え尽きた。 だからせめて、最後の火種くらいは自分のために残したい。 そして綾音が帰ってきた今は、代役の行き先は風真にとってどうでもいいことだろう。 「……まあ、風真なら、きっと気にも留めませんよね」 彼女が自嘲気味にそう呟いたときだった。 「気にも留めないって何?」 声のする方を振り向くと、そこには高級スーツに身を包んだ風真が歩いてくるところだった。 雪乃の心が一瞬だけ揺れた。 「……別に、なんでもないわ」 風真は眉をひそめ、どこか腑に落ちない様子だったが、話題を変えた。 「お前、最近絵を始めたって言ってたろ?海外でも評価されてる有名な画家を招いたんだ。紹介してやるよ」 感激すると思っていたのだろう。 だが、雪乃は静かに首を横に振った。 そして右手を持ち上げた。 「私、もう絵は描けないの。だったら、その先生は小林さんに紹介してあげて」 「は?彼女は絵なんかやってないだろ?なんで紹介する必要があるんだ?」 風真の表情には、まるで理解できないという戸惑いが浮かんでいた。 以前の雪乃なら、確実に怒っていただろう。 彼はふと気づいた。 ――目の前にいる雪乃が、あまりにも知らない人に見える。 雪乃は静かに、そしてどこか苦々しく微笑んだ。 なぜ綾音に画家を紹介したのか? 理由は一つ―― 自分は、いつだって「選ばれない側」だったから。 綾音が欲しいと言えば、風真は必ず彼女を選ぶ。 何の迷いもなく。 だったら最初から、自分が身を引いた方がいい。 でも今――自分が先に譲ってあげたのに。 どうして、不満そうな顔をしているの? 「私の手は、もう治らない。小林さんも芸術関係の勉強をしてたって聞いたわ。同じ分野だから、きっと役立つはずよ。行ってあげて」 その笑顔があまりにも穏やかすぎて―― 風真の胸に、妙な違和感が生まれた。 だがその違和感を言葉にする前に、彼は綾音の元へ歩いて行ってしまった。 その様子を見た親戚たちは、さらに盛り上がり始めた。 「見てよ、あの二人、まるでお似合いの夫婦じゃない?」 「本当よ!あんなに有名な画家さんを紹介するなんて、愛情がなきゃできないわ!」 「小林さん、ぜひ風真と結婚してちょうだいな。あの子、あなたのことだけ見てるのよ!」 綾音の頬が、ほんのりと赤く染まった。 風真はその声に眉を寄せたが、結局何も言わなかった。 雪乃はその光景を黙って見つめ―― スマホの画面をそっと点けた。 フライトまで、あと五時間。 もうすぐ、すべてから解放される。 第8話 雪乃は人混みの中で仲睦まじく並ぶ二人を見つめ、ゆっくりと目を伏せた。 飛行機の時間が近づいている。 彼女が舞台を降りる時が来たのだ。 すると、綾音が急ぎ足で近づいてきて、彼女の胸元を指差し、目を輝かせた。 「篠原さん、先生から聞いたよ!そのブローチって、世界デザインコンテストの金賞作品ですよね?ちょっと見せてもらってもいいですか?」 雪乃は眉をひそめた。これは世界大会の入賞作品というだけでなく、母を記念するために心を込めて作り上げた特別なものだ。 だから簡単に貸したくはなかった。 それを見ていた結衣は、いら立ちを隠さず怒鳴った。 「篠原、姉ちゃんはちょっと見たいって言っただけでしょ?別に取って食うわけでもないのに、そんなケチくさいこと言うわけ?」 言い終わる前に、結衣は強引に手を伸ばした。 雪乃は触れられたくなくて抵抗した。揉み合ううちにブローチは床に落ち、無惨にも粉々になった。 綾音は反射的に手を押さえた。 「綾音、大丈夫か?怪我はないか?」 風真が慌てて彼女の手を掴み、傷を確認する。彼女の指先にはわずかな切り傷があり、それを見た風真は痛々しい表情で言った。 「すぐに救急車を!」 そして怒りに満ちた目を雪乃に向ける。 「たかがブローチ一つで、何で綾音と争うんだ?大事なものでもないだろう!」 争う? 雪乃の心臓が、冷たく収縮した。 半年以上をかけて作った、自分にとって唯一無二の宝物。今、それを壊したのは小林姉妹なのに、風真は自分が彼女らの物を奪ったかのように責め立てている。 ――西園寺風真、本当にすごいわね。 もうこれ以上は傷つくまいと、覚悟を決めた矢先に、彼はいつも更に痛烈な一撃を与えてくる。 雪乃は振り返ったが、足元に鋭い痛みが走った。いつの間にか、彼女の白いふくらはぎは血で濡れている。 彼女自身も怪我をしていた。しかも、綾音より遥かにひどい。 それに気づいた風真は、小さく息を呑んだ。 彼女の足に、砕けたブローチの針先が深く刺さっている。風真は綾音から手を放そうとしたが、その時、綾音が小さく呻いた。 「あ……痛い……」 その言葉を聞くと、彼はまた躊躇した。 雪乃はそんな葛藤を瞳に浮かべる彼を見て、壁を支えにして淡々と言った。 「大丈夫よ。彼女を先に見てあげて。昔から大切に育てられたお嬢様だから、気持ちはわかるわ」 そう言って、粉々になったブローチの破片を拾い上げ、足を引きずりながら会場を去った。 悲しみが深くなると、人はもう泣けなくなるという。 もう二人とは、何の関わりも持ちたくない。 雪乃が去る背中を見つめ、風真は奇妙な感覚に襲われた。 雪乃はあまりにも寛容だ。寛容すぎて違和感がある。 誰かを愛するということは独占欲が伴うはずだ。だが今の彼女は、なぜまったく気にしないように振る舞えるのか? 雪乃の世界は、自分を中心に回っているのではなかったのか? なぜ、こんなにも遠く感じるのか――? 苦しそうな綾音を見て、風真は言葉にできない焦りを感じつつも、綾音の肩を支えてその場を離れた。 一方、雪乃は、別荘に戻り荷物を手にした。そこに結衣と風真の秘書が現れた。 「篠原さん、西園寺さまから病院に連れて行くようにと言われていますが……その荷物は?」 結衣はあざ笑うように言った。 「何?お姉ちゃんに勝てないからって、家出をして風真お兄ちゃんの気を引こうってわけ?いい加減にしてよ。あんたが何をやったって、所詮はお姉ちゃんの身代わりに過ぎないんだからね!」 雪乃は穏やかに頷いた。 「そうよね。だから気を引くじゃなくて、本当に出るの」 「あんた、本気で言ってんの?」 結衣は呆気に取られた。 誰だって知ってる。雪乃がどれだけ風真を愛していたか――命すら惜しまないほどだった。 そんな想いが、そう簡単に手放せるはずがないじゃないか。 秘書もまた慌てて言った。 「篠原さん、冗談はやめてください。西園寺さまの心にはちゃんとあなたがいますよ。こうして私を寄越したのがその証拠でしょう?」 しかし雪乃は目の前でスマホを取り出し、離婚届の写真を風真に送った。 「冗談じゃない。もう三年、十分演じたわ。私の人生を取り戻すだけ」 言い終えると、彼女はためらいもなく別荘を出ようとした。 秘書は焦った。 「待ってください、せめて行き先くらい教えてください!」 この三年間自分を閉じ込めた豪奢な別荘をじっと見つめ、清々しく微笑んだ。 「行き先は彼に知らせなくていいわ。私の役目は終わったのだから」 雪乃も、確かに風真を愛した。あの日々が嘘ではなかった。 でも、もう疲れた。痛すぎた。 彼女は風真のために、学業も、自分の人生も投げ打った。 それなのに――最後に手に入ったのは、ほんの少しの愛さえもなかった。 主役ではない人生も、自分自身の道があっていい。 「さようなら、西園寺風真。もう、あなたを愛してない」 彼女はスマホを近くの噴水に投げ捨て、振り返ることなく新しい人生へと歩き出した。