人生は夢の如し

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人生は夢の如し

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「堀川さん、妊娠してもう6ヶ月ですよ。赤ちゃんはすでにしっかりと成長しています……本当に中絶するおつもりですか?病院側としては、どうし...

Chương (1)

第1章

「堀川さん、妊娠してもう6ヶ月ですよ。赤ちゃんはすでにしっかりと成長しています……本当に中絶するおつもりですか?病院側としては、どうしてもおすすめできません」医師は困ったように口を開いた。 堀川和沙(ほりかわ かずさ)は無意識に、もう大きく膨らんだお腹をそっと押さえた。6ヶ月、赤ちゃんは母親の体の中で、ほんの小さな粒のような存在から、少しずつ、少しずつ大きくなってきた。本当に心が完全に折れてしまわない限り、どんな母親が、生まれてくるはずの我が子を手放せるだろう? 胸を締め付けるような沈黙のあと、和沙は深く息を吸い込み、そして揺るぎない声で言った。「はい、決めました」 第1話 「堀川さん、妊娠してもう6ヶ月ですよ。赤ちゃんはすでにしっかりと成長しています……本当に中絶するおつもりですか?病院側としては、どうしてもおすすめできません」医師は困ったように口を開いた。 堀川和沙(ほりかわ かずさ)は無意識に、もう大きく膨らんだお腹をそっと押さえた。6ヶ月、赤ちゃんは母親の体の中で、ほんの小さな粒のような存在から、少しずつ、少しずつ大きくなってきた。 本当に心が完全に折れてしまわない限り、どんな母親が、生まれてくるはずの我が子を手放せるだろう? 胸を締め付けるような沈黙のあと、和沙は深く息を吸い込み、そして揺るぎない声で言った。「はい、決めました」 ごめんね、赤ちゃん。ママには、あなたを産むことができないの。 ママは、愛の中であなたを迎えたかった。でも今のままじゃ、生まれてすぐ、果てしない嘘と、憎しみの中でしか生きられないから。 病院を出て顔を上げた瞬間、目の前のショッピングモールに設置された巨大な電子スクリーンに、昨日の二宮グループの記者会見の様子が繰り返し映し出されていた。 会見では、若い記者が二宮グループの社長である二宮大輔(にのみや だいすけ)に質問を投げかけていた。「二宮社長、これまで御社は電子業界や宝飾業界の大手として知られていましたが、どうして突然、育児関連事業に参入されたのですか?」 スクリーンの中、大輔は高級スーツに身を包み、冷静かつ気品に満ちた佇まいで微笑み、ゆっくりと答えた。「妻が妊娠しまして。市販のものは、どうしても安心できなくてね」 その瞬間、和沙の隣から女の子たちの黄色い声が上がった。 「きゃー!これはもう最高の愛じゃない?二宮社長、奥さんに優しすぎでしょ。他の金持ちの奥さんが妊娠しても、せいぜい車や家を贈るくらいなのに、社長はまるごと育児事業をプレゼントって」 「ほんとそれ!しかも聞いたんだけど、プロポーズのとき、結婚しても変わらない、ずっとお姫様のように大切にするって誓ったらしくて、毎年誕生日にはティアラやダイヤの靴とか贈ってるんだって。一度なんて、まるごと島一つ買って、その上に奥さんのための城を建てたらしいよ」 周囲の女の子たちの話に、和沙は苦笑した。……変わらない? でも、大輔はもう変わってしまった。 呆然としていたそのとき、スマートフォンが震えた。画面を見ると、知らない番号からメッセージが届いていた。【でっかいお腹のあんた、さて、ご主人様は今どこにいるでしょ?】 メッセージの下には一枚の写真が添付されていた。一目見ただけで、二宮グループの地下駐車場だと和沙にはわかった。 これは罠だ。和沙には、それがはっきりとわかった。 けれど、人ってそういうものだ。わかっていても、どうしても飛び込まずにはいられない時がある。 そして彼女は車を出し、二宮グループへと向かった。 薄暗い地下駐車場、そこでは、黒のマイバッハが大きく揺れていた。車内のふたりは、まったく恥じることなく行為に及んでいて、なんと窓まで開いていた。窓からは、柏木萌奈(かしわぎ もな)の白く長い脚がはみ出していて、足には破れた黒いストッキングが絡みついていた。 そして次の瞬間、車内から大きな手が伸びてきた。その手は萌奈の脚を掴み、力強く引き寄せた。 和沙は萌奈の甘ったるい呼び声を耳にした。「……んんっ、ご主人さま、優しくして……もう、ダメ……」 暗闇の中、和沙の目に、眩しい何かが飛び込んできた。 それは、大輔の結婚指輪だった。和沙自身がデザインした、世界にひとつしかない特注品。 今、その指輪は萌奈の脚を掴むその手にはめられていた。 その手を、和沙はよく知っている。その手は、彼女の薬指に指輪をはめてくれて、彼女のために料理を作ってくれた。毎晩、彼女を優しく抱いて眠りにつき、毎朝、キスをして起こしてくれた人の手だった。 「ご主人様、強すぎ、もう無理、壊れちゃう」萌奈の甘ったるい声が、和沙の記憶を断ち切った。和沙は頬に手を当てると、気がつけば涙があふれ、顔を濡らしていた。 和沙には分かっていた。このメッセージと写真は、萌奈が送ってきたものだ。 彼女の目的も見え透いている。大きなお腹で浮気現場を目撃し、感情が高ぶって倒れでもしたら、一気に正妻の座を奪えるという狙いだ。 都合のいい妄想ね。でも、和沙は乗らない。彼女は静かに車に戻り、大輔に電話をかけた。 電話はすぐにつながったが、彼の息は少し荒れていた。「和沙?今ちょうど会議中でさ、すぐにかけ直すよ」 彼の言葉を遮るように、和沙は冷たく言い放った。「10分以内に帰ってきて。でなければ、もう二度と私に会うことはないから」 第2話 「和沙、もうやめてくれ。この会議、本当に大事なんだ」大輔の声には、珍しく焦りがにじんでいた。「それに、今からじゃ、10分で家に帰るのは無理だよ」 だが和沙は、冷たくひとこと返すだけだった。「今からカウントスタート」 そして、電話を切った。 まもなく、萌奈は服もまともに着られないまま車から追い出された。 大輔はマイバッハをまるで戦闘機のように飛ばし、あっという間に駐車場から姿を消した。 残されたのは、裸に近い姿で荷物を抱え、屈辱に震える萌奈だけだった。 和沙は座席を調整し、楽な姿勢に整えた。そして、車のライトを点けた。 その光は、まっすぐに萌奈を照らした。 闇に隠されていた醜悪な現実が、一気にさらけ出された。怯えた萌奈は、思わず身体を隠すように自分を抱きしめた。「誰?誰がそこにいるの?」 和沙は彼女に一瞥もくれず、車を動かしてその横を通り過ぎた。 しかし、開けたままの車窓から、萌奈は和沙の冷たく美しい横顔をはっきりと見た。その瞬間、彼女は怒りで我を忘れ、怒鳴り始めた。「ババア!それで勝ったつもり?笑わせないでよ!あんたの旦那、もうとっくにあんたに飽きてんのよ!何度も私に言ってたわ、あんたの太った身体見ると吐き気がするってね」 だが、彼女に返されたのは、ただの排気ガスだった。 和沙は車を走らせ、静かに家へと戻った。 家では、和沙がいないことに激昂した大輔が怒鳴り散らしていた。「役立たずどもが!和沙がどこに行ったかも分からないのか!お前ら、一体何のためにいるんだ?」 そこへ、和沙が何も言わずにリビングへと入ってきた。その姿を見た瞬間、大輔の怒りは一瞬で消え失せた。彼はすぐに駆け寄って、和沙を強く抱きしめた。「和沙、本当によかった。まだ家にいてくれて、君が出て行ったかと思って、心臓が止まるかと思ったよ」 和沙は大輔の顔を見上げ、少し不思議な口調で問いかけた。「私が消えるの、そんなに怖いの?」 「当たり前だよ」大輔は迷わず答えた。「君は俺の人生で一番大事な人だ。君を失うなんて、絶対に無理だ。しかも今は、俺たちの子を身ごもってるんだ。君と子ども、どちらも失いたくない」 その声は、とても誠実に聞こえた。その眼差しも、限りない愛情を湛えていた。 もしもさっき、車の中であの場面を見ていなければ、和沙は、彼の言葉を信じてしまっていたかもしれない。 「和沙、お願いだ。絶対に俺の元からいなくならないでくれ」彼は和沙の手を握りしめ、その声には焦燥と不安が滲んでいた。「君なしじゃ、生きていけない。もし君を失ったら、俺はおかしくなってしまう」 胸の奥がチクチクと痛む。和沙は涙ぐみながら思った。それなら、どうして浮気なんてするの? 他の女と絡みながら、「君なしじゃ、生きていけない」なんて、そんな言葉、一体どこまでが本気で、どこまでが嘘なの? 「泣いてるの?」彼女の目の赤さに気づいた大輔は、慌てたように顔を覗き込んできた。「誰だ、和沙をこんな気持ちにさせたのは?言ってごらん、すぐにそいつをぶっ飛ばしてくる」 和沙は首を振った。「なんでもないよ、妊娠中のホルモンバランスのせいかな」 それでも、大輔はどうしても心配らしく、医者を家に呼んで診てもらうと言い出した。 けれど、医者がやってきた頃には、彼の意識はどこか上の空だ。スマートフォンを何度も確認し、そのたびに目の奥の欲望が濃くなっていく。 なるほど。萌奈から連絡が来てるんだな。 間もなく、和沙のスマホにも新たなメッセージが届いた。【デブ妊婦、信じる?今すぐでもあなたの旦那、私のところに来るって】 彼女がそのメッセージを読み終えた直後、案の定、大輔が急いで言い出した。「和沙、会社で緊急の用事ができて、ちょっと戻らなきゃ」 思わず、和沙は彼の腕を掴んだ。「行かないで、大輔。お腹が変なの、すごく怖いの。そばにいてくれない?」 彼は一瞬だけ困ったような顔をした。そのとき、スマホが再び震えた。中身は分からないが、おそらく萌奈からだろう。メッセージを読んだ後、大輔は和沙の手を優しく外し、笑顔でこう言った。「中村先生もいるし、大丈夫だよ。俺がいても、医者じゃないから何もできないしさ。和沙は、先生の言うことをちゃんと聞いて。すぐ戻ってくるからね」 そう言い残し、大輔は急いで愛人のもとへと向かった。 そしてその瞬間、和沙の心は完全に冷え切った。 彼女は涙を必死でこらえ、スマホを取り出すと、軍関係の兄にメッセージを送った。【お兄ちゃん、私、消えたい。跡形もなく】 第3話 和沙には、どうしてこんなことになったのか、どうしても理解できなかった。 彼女と大輔は、出会ってから愛し合い、そして結婚に至るまで、ずっと周囲から羨ましがられる理想のカップルだった。大輔がプロポーズしたとき、彼は和沙の手を握り、真剣な顔でこう約束してくれたのだ。「よく結婚すると男は変わるって言うけど、和沙、安心して。俺は絶対に変わらない。結婚してからもずっと、君を甘やかして、お姫様みたいに大切にするよ」 そして実際、結婚後の彼は、その言葉をちゃんと守っていた。恋人時代と変わらぬ情熱で、毎日花を贈り、たびたびサプライズを仕掛け、彼女が欲しいものは言わなくても翌日には枕元に用意されていた。 まるで心を読めるかのように、彼はいつも彼女の気持ちを的確に察してくれた。 和沙の周りの女友達ですら、口を揃えてこう言っていた。「あなた、本当に世界一の旦那さんを見つけたわね」 なのに、その世界一の旦那が、なぜ最後には浮気したの? 本当に、萌奈の言った通りなの?妊娠して太ったから?体型が崩れて、魅力がなくなったから? 和沙は視線を落とし、ふくらんだお腹を見つめた。そこには、うっすらと妊娠線が浮かび上がっていた。 醜い。本当に、醜い。でも、妊娠前の自分は、萌奈のように細いウエストで、白くてすべすべの肌をしていた。お腹だって今のようにスイカのようには膨らんでいなかったし、妊娠線なんて影も形もなかった。 それなのに、彼女は、自分の美しい身体を犠牲にして、あらゆる不調を我慢して、大輔の子どもを身ごもったというのに。大輔は、彼女が妊娠したそのタイミングで、他の女と関係を持ったのだ。 「奥様、こちらはできたてのスープです。智子様が、胎児にいいからって、温かいうちにどうぞ」家政婦がトレーを持ってやってきた。 そのトレーには、スープのほかに、剥いたクルミと大量のブドウが乗っていた。 和沙の姑は、ブドウを食べると生まれてくる子の目が大きくなると言い、クルミは脳の発育にいいと信じていた。彼女は、毎日家政婦に和沙の食事を監視させ、最低でも1皿分ずつブドウとクルミを食べさせるように指示していた。もし食べなかったら、すぐに電話がかかってきて怒鳴られるのだ。 「私は毒でも食べさせてるつもりかしら? これは全部、孫のためなのよ。妊婦はもう若い娘じゃないんだから、自己中な食事の好みはやめなさい。お腹の子のことを考えて食べなさい。 あなたのためを思って言ってるのよ、私が敵だとでも思ってるの?」 姑の言葉が、和沙の頭の中で何度もリフレインする。 以前なら、どんなに食べたくなくても、姑と揉めるのが嫌で無理やり口に運んでいた。 でも今は違う。 「いらないわ」和沙は顔をそむけた。「食欲がないの」 「食欲がなくても食べなきゃ。これは智子様が海外から取り寄せたオーガニックよ。胎児にいいって」家政婦は諭すようにスープを押し出してくる。 そのとき、和沙のスマホが再び震えた。萌奈から、また挑発的なメッセージが届いたのだ。 まずは住所が送られてきた。そして、その下には一言。【デブ、来れる?来る勇気ある?】 和沙は無意識に、スマホを握りしめた。 どうせ、この家にももういられない。だったら、行ってみようじゃない。 彼女は車を出し、送られてきた住所をナビに入力して向かった。そして到着したのはなんと、オークション会場だった。 和沙は眉をひそめた。どうして大輔がこんなところで愛人と会うの?と不思議に思いながら顔を上げると、そこには萌奈が、一人の貴婦人の腕にしっかりと抱きつき、オークション会場の最前列へと入っていく姿があった。 その貴婦人はなんと、和沙の姑、二宮智子(にのみや ともこ)だった。 第4話 「萌奈、気に入ったものがあったら遠慮せずに言ってね。全部買ってあげるから」智子は萌奈の手を親しげに引き寄せながら、和沙が見たこともないような穏やかな笑みを浮かべていた。 「母さん、どうして萌奈にはそんなに優しいのに、和沙にはいつも皮肉ばっかり言うの?」大輔は困ったように言った。「和沙こそ嫁だよ?今お腹には孫までいるんだし、少しは優しくしてくれてもいいんじゃない?」 「萌奈はね、あの和沙みたいにあなたをそそのかして、私に逆らったりしないのよ」智子は不機嫌そうに顔をしかめて答えた。 「母さん、何度も説明してるでしょ?和沙はそんなことしてないって……」大輔が必死に説明しようとするが、智子はもう聞く耳を持たなかった。 彼女は大輔の言葉を容赦なく遮った。「大輔。家族みんなで楽しく買い物に来てるのに、その女の話を持ち出さないでくれる?」 「わかった、わかった。もう何も言わないよ」大輔は折れて、にこやかに笑った。「今日は、女王陛下とお姫様のために、俺が財布担当として全力で仕える日だからね。支払いしかしないし、余計なことは一切言わないよ」 お姫様という一言が、和沙の胸に刺さった。 彼女はずっと、自分こそが大輔にとって唯一無二のお姫様だと思っていた。たとえ今、彼が裏切っていたとしても、かつてのあの愛は特別だったと、信じていた。 でも、違った。唯一無二なんて、最初からなかった。彼のお姫様は、誰でもなれる。 和沙は深く息を吸い、今にも溢れそうな涙を必死にこらえて、その場を去ろうと背を向けた。 しかし、その瞬間、大輔が彼女に気づいた。 「和沙、どうしてここに?」彼の顔が一気に青ざめ、思わず萌奈の方を一瞥する。その表情はあまりにも不自然だった。「……い、いつからそこにいたの?」 和沙は彼の問いに答えず、逆に冷静な声で返した。「それは、私が聞きたいわ。あなた、会社に急ぎの仕事が入って、残業って言ってなかった?」 「大輔は取引先とここで商談の約束があったのよ。それのどこが悪いの?」智子が彼の代わりに口を挟み、呆れたように言い捨てた。「妊婦なんだから、いちいち疑ってないで、しっかり赤ちゃんのことだけ考えてなさいよ」 「母さん、和沙を責めないでくれ」大輔は和沙をかばうように言った。「和沙が不安になるのは、俺が夫としてちゃんと支えてあげられていないからだ。俺がもっとしっかりしていれば、和沙はこんなふうに疑ったりしない」 そう言って、大輔は和沙の手を両手で丁寧に包み、自分の胸元へそっと当てた。「和沙、俺は本当に取引先の人とここで会う約束をしてたんだ。相手は二階にいるよ。信じられないなら、今から一緒に会いに行こう」 その瞳は真っ直ぐに和沙を見つめていた。「和沙、結婚するとき誓ったよね。俺は君を一生大切にして、愛して、決して裏切らないって。その言葉、今もちゃんと守ってるよ」 和沙の心に、静かに怒りが込み上げた。この人は、どうしてこんなことが平気で言えるんだろう?母親の前で。妻の前で。そして、まだ生まれてもいない自分たちの子どもの前で。 本当に天罰が下らないとでも思ってるの? 「じゃあ彼女は誰?」和沙はゆっくりと、萌奈の方へ顔を向けた。 「大輔の従姉妹よ。家族全員で海外に住んでたから、あなたが知らないのも当然よ」智子がにっこり笑って言った。「そうだ、大輔。せっかく萌奈が帰国したのに、住むところがないのよ。しばらくあなたたちの家に泊めてあげたらどう?」 そう言って、彼女は少し間を置いてから、笑顔で和沙の方へ顔を向けた。「和沙、もちろん文句ないわよね?」 第5話 「母さん、冗談はやめてよ。和沙は今、赤ちゃんのために静かに過ごさなきゃいけないんだ。萌奈の面倒なんて見られないよ」大輔は和沙の表情が曇っているのに気づき、慌てて代わりに断った。 だがその次の瞬間、和沙はふっと笑って言った。「私は構わないわ。住ませてあげて」 こうして、萌奈は家に住み着いた。 夕方。いつものように、家政婦がトレイを持ってやってきた。トレイの中身は毎度おなじみの三品、スープ、くるみ、そしてぶどう。 和沙はもう我慢の限界だった。彼女は反射的に手を振り、トレイを床に叩き落とした。「何回言ったらわかるの?食べたくないって言ってるでしょ」 大輔が慌てて駆け寄り、和沙を抱きしめるように庇った。「和沙、大丈夫?スープで火傷してないよね?」 和沙は首を横に振っただけで、何も答えなかった。 無事を確認して、大輔はようやく息を吐いた。そして怒りを露わにして家政婦を睨みつけた。「和沙が食べたくないって言ってるのに、無理に食べさせようとするな!まったく、妊婦一人まともに世話できないのかよ」 「お義姉さん、食欲がないか?だったら、私が食欲の出るスープでも作ろうよ」萌奈がわざとらしい笑顔で歩み寄ってきた。「トマトスープ、胎児にもいいし、胃にも優しいよ」 和沙は彼女に目もくれず、目を伏せて言った。「もう疲れたから、部屋に戻って休むわ。ごゆっくり」 そう言って、彼女はその場を離れた。 ぐっすりと眠りについたかと思ったとき、突然、耳をつんざくようなスマホの着信音が響き渡った。 和沙は眉をひそめた。寝る前にアラームなんて設定した覚えはなかったはずなのに。 不審に思っていると、スマホに新たな通知が届いた。萌奈からの挑発的なメッセージだった。【デブ妊婦、勇気あるなら、大輔さんの書斎に来てみなさいよ】 和沙はしばらくそのメッセージを見つめていたが、やがて静かに立ち上がり、書斎へと向かった。 書斎のドアは半開きになっていた。そっと近づくと、中から聞こえてきたのは、萌奈の艶めいた笑い声だった。「ご主人様、もう仕事なんかやめちゃって、私構ってよ」 「ふざけるな」大輔が声を潜めて彼女を叱る。「ここは家だ。外じゃないんだぞ。もし和沙に見られたら……」 「和沙なんて、もう寝てるわよ。バレるわけないじゃない」萌奈は彼の手を取って、自分の身体へと導いていく。「ご主人様、萌奈、もう我慢できないの……」 大輔の目が妖しく光を増した。彼は萌奈をデスクの上に押し倒すと、そのナイトガウンに手をかけたが、ふと手が止まる。「待って。このパジャマ、見覚えがある。これ、和沙のだよな?」 「そうよ。和沙の」萌奈は彼の指を口に含み、色っぽく微笑んだ。「でももう、和沙には入らないけどね」 大輔は低く笑い、彼女のくびれに手を伸ばした。 その瞬間、彼の瞳にさらに深い欲望の色が宿る。 和沙は覚えていた。まだ妊娠していなかった頃、大輔が一番好きだったのは、彼女の細くて美しいウエストだった。愛し合うたびに、彼はそのウエストを何度も、強く抱きしめた。 今では妊娠でお腹が大きく膨らみ、かつてのくびれ細いウエストはすっかり影を潜めていた。 彼は口では「辛いだろう」と気遣いながら、すぐさま他の女の腰に手を回すのであった。 「……んっ……ご主人様、本当にあなたのこと大好き……ねぇ、私のこと、好き?」萌奈は、ドアの隙間に立っている和沙に気づいたかのように、大輔の首に抱きつきながらわざとらしく問いかける。「ねぇ、あなたはどっちが好き?私?それとも和沙?」 「バカなこと聞くな」大輔の声は冷たく沈んでいた。「一番愛してるのは和沙だ。彼女は俺の妻で、人生で唯一無二の愛だよ」 その言葉を聞いた瞬間、萌奈の目が怒りに染まった。彼女はドアのほうを鋭く睨みつけると、諦めまいと再び問いかけた。「じゃあ、ご主人様が抱きたいのはどっち?私?それとも和沙?」 大輔は喉の奥で笑い声を漏らすと、さらに激しく動き出す。「それはもちろんお前だよ。こんなに完璧な身体、抱かれるために生まれてきたんじゃないか」 萌奈は勝ち誇ったように笑いながら、声をさらに大きくして喘ぎ始めた。その時、和沙の頬に、涙が流れ落ちた。 どうして泣いてるの?彼女は涙を流しながら思った。萌奈を家に住まわせたのは、ただ知りたかったからじゃない?大輔が、自分にどれだけの本気を残しているのか。彼がこの家で、自分の目の前で、自分の生活の場で、どこまであの女と堕ちていくか。 今、答えは出た。 おめでとう、和沙。知りたかった答え、ちゃんと手に入ったね。 第6話 和沙は、ひどい病にかかってしまった。 高熱は下がらず、何を食べても吐いてしまう。 「使えないヤブ医者ばかりだな!こんな高い金払って呼んだのに、たかが熱一つ治せないのか?」大輔は激怒し、もし執事が止めていなければ、本気で手を出しかねない勢いだった。 「奥様は妊娠中でして、お出しできる薬が非常に限られております。それに、ご両親からも薬の使用は控えるよう厳しく言われておりまして」医者は困り顔で言った。「今は食事療法が一番効果的なのですが、奥様はまったく食べてくださらなくて……」 それを聞いて、大輔はおかゆを持って和沙の病室に入った。彼女の手を握り、ほとんど懇願するような声で言った。「和沙、お願いだ。俺のためにも、俺たちの子のためにも、少しでいい、何か食べてくれないか?」 和沙は顔を背け、何も言わなかった。 ほんの数日で、彼女はまるで別人のようにやつれていた。顔色は青白く、頬はこけ、体全体が痩せ細っているのに、お腹だけが不自然なほど膨らんでいた。 「和沙、いったいどうしちゃったんだよ」大輔の目には涙が浮かんでいた。「何があったのか、俺に教えてくれないか?」 和沙自身にも分からなかった。いったい何が起きたのだろう。あんなに幸せだった結婚生活が、どうしてこんな地獄に変わってしまったのか。 あんなにも彼女を愛してくれていたはずの大輔は、なぜ妊娠してからあんなにも平気で嘘をつく、残酷な人間になってしまったのか? 誰か教えてよ、いったい何が、どこで間違ったの? 「和沙、お願いだ。ちゃんと食べてくれるなら、俺は何だってする」大輔は和沙を抱きしめ、泣きながら訴えた。「お前と子供を失うなんて、そんなことになったら、俺は狂ってしまう」 そうよね、と和沙は必死に体を起こしながら思った。彼女はまだ死ぬわけにはいかない。もし今このまま病死してしまったら、最期の瞬間まで彼女は大輔の妻のままだ。 もうこれ以上、彼の妻でいたくない。この男のもとから去らなければならない。 和沙は込み上げる吐き気を必死で抑え、そっとおかゆの碗を手に取り、口に運んだ。 それを見た大輔は飛び上がらんばかりに喜んだ。「和沙、よかった、やっと食べてくれた。何が食べたい?今すぐキッチンに頼んで、いや、俺が作るよ」 しかし、大輔の言葉が終わらないうちに、和沙は、さっき飲んだばかりのおかゆをすべて吐いてしまった。 体がもう限界だった。無理に食べようとしても、結局は数分も経たないうちに全部戻してしまう。 仕方なく、大輔は和沙を病院に連れて行き、入院させることにした。 だが、入院してもなお、彼女の容態は改善しなかった。主治医は深刻な表情で言った。「二宮さん、奥様の体調では、このまま妊娠を続けるのは非常に危険です。母子ともに命の危険があります。 私としては、早産を強く勧めます。ただ、現段階では早産もリスクが高いため、あと半月、胎児が6ヶ月半、もしくは7ヶ月になるのを待ってからの帝王切開が望ましいと考えます」 「その場合、和沙に危険は?」大輔は不安そうに尋ねた。 「妊婦さんの健康状態を考慮して、早産をお勧めしているのです」と主治医は説明した。「お子さんを出産さえすれば、胎児への影響を気にすることなく、奥様の治療に全力を尽くせますから」 「わかりました。早産でお願いします」大輔は一切の迷いなく答えた。「さっさとあのガキを取り出して、和沙をこんなに苦しめやがって、あいつが大きくなったら、必ずこっぴどく仕返ししてやる。和沙の分までな」 この言葉に、傍にいた若い看護師は目を潤ませながら言った。「奥様、本当に幸せですね。ご主人、ものすごく奥様のことを大切にしてらっしゃる。他の旦那さんなら、妊婦健診に来ても真っ先に心配するのは胎児のほうですよ。酷い人なんて、奥様に任せきりで、検診すら付き添わないことだってあります。 でもご主人は違う。奥様が少しでも楽になるため、たとえまだ6ヶ月でも、出産を選んでくれるなんて」 和沙は微笑んだが、何も答えなかった。新しい命を授かることは、本来とても神聖で、幸せなことのはずだった。 なぜ、今の彼女も、他の妊婦たちもこんなにも苦しんでいるのだろうか。 第7話 和沙は、子どもを産むつもりはなかった。 彼女は密かに兄に連絡を取り、兄の手配で別の病院へ転院したのだった。 「和沙、なんで急に病院を変えたんだ?」大輔は困惑した様子で尋ねた。「もうすぐ帝王切開なんだぞ?今このタイミングで転院するのは、あまり良くないんじゃないか?」 「兄がそう言ったの」和沙は淡々と答えた。「この病院の医師は軍に直接仕えていて、もっと信頼できるって」 それを聞いて、大輔はようやく安心したように頷いた。「お兄さんの推薦なら大丈夫だな」 堀川家の長男である兄は家族の中でも絶対的な存在であり、大輔も彼を信頼していた。 こうして、和沙は無事に転院することができた。 新しい病院の診断も同様に早産を推奨し、明日には手術が予定された。 大輔はすべての仕事をキャンセルし、病院に泊まり込んで和沙の出産に付き添うことにした。 「そこまでしなくてもいいわ」和沙は冷たく言った。「仕事、忙しいんでしょ?私のことは気にしなくていい」 本当は、彼の顔を見るのも辛かった。 「どんなに仕事が忙しくても、君のほうが大事だ」大輔は真摯な目で言った。「こんなに苦しんでるのに、俺がそばにいないなんて、ありえないだろう?」 「何もできないけど、せめて今夜くらいは、君のそばにいて支えたい」 和沙は何も言わず、それ以上反論はしなかった。 夜、和沙がトイレに行きたくなり、体を起こして灯りをつけると、隣のベッドは空になっていた。 大輔が、いない。 彼女は薄々感じていた。そしてスマホを取り出すと、やはり萌奈からのメッセージが届いていた。【606号室】 和沙はその部屋番号を頼りに、ゆっくりと歩いて向かった。そして、萌奈の甘えた笑い声が聞こえてき。「ご主人さま、ウサギちゃん病気になっちゃったの、だから、ご主人さまの大きくて太い注射で、いっぱいチクンしてほしいな」 「バカかお前は!なんで病院に来てるんだ」大輔が怒鳴った。「和沙は明日手術なんだぞ、今の彼女に刺激は禁物だ」 「バレなきゃいいじゃない」萌奈は甘えるように大輔の首に腕を回し、囁いた。「ウサギちゃん、ナース服でご奉仕したいな」 大輔の表情に、一瞬の迷いが浮かぶ。それを見逃さなかった萌奈は、勝ち誇ったように彼のズボンに手を入れた。「こんなに我慢してたんでしょ?苦しかったよね?ご主人さま、ウサギが楽にしてあげる」 そう言って、彼女は彼のファスナーを下ろし、ひざまずいた。 やがて、大輔の呼吸は荒くなり、彼は萌奈の頭を押さえ、欲望に身を任せた。 病室には、耳を塞ぎたくなるような音が響き始める。和沙は静かに目を閉じ、頬を涙が流れ落ちた。 彼女は何も言わなかった。そのまま病棟を出て、階段を降りると、兄に電話をかけた。「手術、早めて。もう無理。今すぐ、この子を取り出して、この子を抱えてるだけで、吐き気がするの」 すべてが、彼女には耐え難かった。 手術の準備はすぐに整えられ、和沙は手術室へと運ばれていく。 大きく膨らんだお腹を見下ろしながら、和沙の心には、わずかなためらいがよぎった。 もう六ヶ月半だ。この子は、生きられる。 本当に殺してしまって、いいの? 長い沈黙ののち、和沙はある決断をする。大輔に、最後のチャンスを与えよう。 医師に頼んで大輔に連絡を取ってもらって、手術を前倒しにしたと伝えた。もし大輔が今すぐ萌奈を捨てて、彼女のもとへ駆けつけたなら、彼女はこの子を産み、そのまま子どもと一緒にこの男の人生から去る。 けれど、来なければ、この子を産むことはない。 自分は何も悪くない。それでも子どもを殺す罪を一人で背負うつもりもない。だから、選択は大輔に託すことにした。 大輔。もしこの子が今夜死んでしまったら、それはあなたが自分の手で、殺したということよ。 第8話 「二宮さん、奥さまが突然高熱で意識を失い、何度呼んでも目を覚ましません」医師は和沙の指示に従い、大輔に電話をかけた。焦った声で続ける。「奥さまの安全を最優先し、予定より早く帝王切開を行う判断をしました。今どちらにいらっしゃいますか?すぐに来てください」 「……なに?手術が早まったって?」大輔の息は明らかに乱れていた。「……わかった……待っていてくれ、今すぐ行く」 その頃、和沙も萌奈にビデオ通話をかけ、録画を開始していた。 案の定、萌奈はすぐに出た。 「ご主人様、まさかこのタイミングで私を放っていくつもりじゃないよね」萌奈は甘えた声で、不満げに言った。「ようやく前戯が始まったばかりなのに、本番はまだなのに……」 「時間がない、和沙が産気づいた。付き添わないと」大輔は慌ただしく服を着ていた。 「あなたが医者でもないのに、行って何になるの?」萌奈は彼に近づき、腕を絡めて首に手を回した。「今、和沙に必要なのは医者でしょ?でも、可愛いウサギちゃんには今、あなたがどうしても必要なの」 そう言って、彼の手を自分の下へと導いた。「ほら、触ってみて」 大輔の喉がごくりと動いた。「……ふざけるな。和沙は俺の子を産むために、あんなにも辛い思いをしてきた。もし出産の時に俺がそばにいなかったら、俺は人間失格だろ」 「でも彼女はもう意識がないの。今すぐ病院に行っても、目を覚ますことはないわ」萌奈はつま先立ちになり、耳元に囁くように息を吹きかけた。「それに、帝王切開じゃ手術室には入れないって医者が言ってたじゃない。外でずっと待つだけでしょ?それならここにいて、熱を出してるウサギちゃんの治療でもしてくれない?」 「どうせ和沙には何もわからないんだから」 その一言が、大輔の理性を打ち砕いた。 彼は萌奈を押し倒し、身体を重ねた。「いいだろう。今日は徹底的に治療してやるよ」 その頃、和沙の心は完全に冷えきっていた。 彼女はビデオ通話を切ると、医師に告げた。「始めてください」 冷たい鉗子が体内に差し込まれる。麻酔は打たれていたが、それでも和沙は呼吸ができないほどの激痛に襲われた。 手術は1時間以上に及び、ついに赤ん坊は取り出された。 彼女は汗で全身びっしょりになり、寝具までもが濡れていた。 「堀川さん、お兄さまがパスポートとビザ、それに新しい身分証を準備してくださいました」医師はそう伝えた。「飛行機も手配済みです。機内には専門の医療チームも乗っています。もし出発をご希望であれば、今夜すぐにでも飛べます。 国内の身分はすぐに抹消されます。もう和沙という存在は、この国から完全に消えることになります」 和沙は目を閉じ、長い間で初めて心からの微笑みを浮かべた。「今すぐ、出発したい」 「かしこまりました。すぐに手配いたします」医師は深く頷いた。 搭乗直前、医師が問いかける。「赤ちゃんはどうされますか?」 「大輔に渡して」和沙は弱々しく口を開いた。「その時、こう伝えて、私はこの子を産むつもりだったって。もし彼が約束通り、出産の時にそばにいてくれたなら、この子は生きていたって。 でも彼は来なかった。私とこの子が一番必要としていたその時に、彼は萌奈といたの。 彼が、自分の子どもを殺したのよ」 その後、和沙は医療チームに付き添われて飛行機に乗り込んだ。 離陸前、彼女はスマホを取り出し、さきほどのビデオ通話の録画と、ここ数日間萌奈から送られてきた挑発的なメッセージや動画の数々を、すべて大輔に送りつけた。 そして送信後、看護師にスマホを捨ててくれるよう頼んだ。 飛行機のドアが静かに閉まり、次第に重力が消えていく離陸の瞬間だ。 和沙は窓から、この街を最後に一度だけ見つめた。 大輔、これで永遠にお別れよ。 探さなくていい。謝らなくてもいい。私はあなたを許さない。