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夕暮れが君の瞳に映る
【父さん、海外への移住と政略結婚、同意する。急いで、じゃないと、気が変わるかもしれない】 父からすぐに返信が来た。【いい子だ、一ヶ月以...
Chương (1)
第1章
【父さん、海外への移住と政略結婚、同意する。急いで、じゃないと、気が変わるかもしれない】
父からすぐに返信が来た。【いい子だ、一ヶ月以内に全部手配する】
須藤野々花(すどう ののか)はそっと涙を拭き、スマホを閉じた。
1時間前、彼女はまだ前川結城(まえかわ ゆうき)にキスされ、思わず声を漏らしていた。
そのとき、結城のスマホが鳴り、彼はジョージア語で相手と会話を始めた。
「こんな時に電話かよ!」
相手の声は軽く笑っていた。「何だよ、今イイところか?その子、ちょっと美都に似てない?」
結城は野々花の美しい顔を撫でながら、気だるげに答えた。「七割ぐらい、かな。もういい、切るぞ」
相手は慌てて引き止めた。「待った!美都、明日帰国だってさ。芸能界で再スタートする気らしい。今のうちに教えてやる俺って、マジでいいヤツだろ?初恋の人が帰るから、替え玉は、もう要らなくなるんじゃね?」
結城は冷ややかに吐き捨てた。「金で解決できないことなんてない」
座席にもたれかかった野々花は、顔を伏せたまま、涙をこぼした。
結城が、彼女がジョージア語を理解できるとは思っていなかったのだ。
三年もの真心を捧げ続けたのに、彼の目には、自分はただの使い捨ての女にすぎなかった。
第1話
【父さん、海外への移住と政略結婚、同意する。急いで、じゃないと、気が変わるかもしれない】
父からすぐに返信が来た。【いい子だ、一ヶ月以内に全部手配する】
須藤野々花(すどう ののか)はそっと涙を拭き、スマホを閉じた。
1時間前、彼女はまだ前川結城(まえかわ ゆうき)にキスされ、思わず声を漏らしていた。
ベントレーの車内は防音パネルが降りており、運転手には後部座席の様子は聞こえない。
結城が野々花の唇をこじ開ける。
野々花は彼を心の底から愛していた。すべてを捧げる覚悟で、どうしようもないほどに。
付き合って3年、場所を問わず愛し合ってきた。車の中なんて日常茶飯事だ。
そんなとき、結城のスマホが鳴った。
突然の邪魔に彼の顔が曇ったが、表示された名前を見ると、しぶしぶ通話に出た。
野々花はチラリと見た。画面に表示されたのは外国語の名前だった。
ジョージア語はかなりマイナーな言語で、国内で理解できる人は少ない。
結城は苛立ったように低く呟いた。「こんな時にかけてくんなよ」
相手が笑った。「なに?今イイところか?」
結城は野々花の細い腰をつかみ合図しながら、淡々と冷ややかに言った。「察してるなら、さっさと本題を話せ」
相手が興味津々に言った。「その子、美都にちょっと似てない?」
結城は野々花の美しい顔を撫でながら、気だるげに答えた。「七割ぐらい、かな」
相手が軽く罵るように笑った。「ははっ、マジでお前やばいな。その子のどこがいいんだよ?」
結城は野々花の首筋にキスを落としながら答えた。「素直で、おとなしい子犬みたいなもんだ。目が澄んでて、ちょっとおバカ。清潔感がある」
相手の息遣いが荒くなった。結城は不快そうに眉をひそめた。「やめろよ、変態か。さっさと話さないと切るぞ」
慌てて相手が言った。「美都、明日の便で帰国するって」
結城の手が止まり、呼吸が一気に重くなる。「本当か?」
「本人は秘密にしてるけど、俺だけにはこっそり教えてくれた。初恋の人が帰るから、替え玉は、もう要らなくなるんじゃね?」
結城は冷たく言い放った。「金で解決できないことなんてない」
そう言い終えると、彼はスマホを放り投げ、再び野々花に集中した。
野々花の顔は、シートに押し付けられたまま、床に落ちたスマホが、まだ通話中なのを見ていた。
結城は、彼女がジョージア語を理解しているとは思っていなかった。
けれど、彼女の家はジョージアにビジネスを持っており、彼女自身、5年以上も勉強していた。よく分かるのだ。
涙がどっと溢れ、髪に逆流していく。
三年の真心は、彼にとっては犬のような存在にすぎなかったのか。
太陽はやさしく降り注いでいた。
まるで夏が早く訪れたかのようだった。
西洋風の三階建て高級邸宅が、朝の光を浴びて静かに佇んでいる。
結城が階段をゆっくりと降りてくる。高級オーダーメイドのシャツのダイヤのカフスを留めながら、その所作は優雅で余裕に満ちていた。
彼は世界トップ企業である結城グループの次男坊で、いくつかのエンタメメディア系子会社を束ねる経営者だ。
すらりとした長身、冷たく気怠い雰囲気、成功者特有の距離感が漂っていた。
三年前、彼女がまだ大学一年生だった頃、彼をひと目見て、もう二度と目が離せなくなった。
彼もまた、雑踏の中で彼女を見つけ、目を輝かせてアプローチを始めた。三ヶ月、彼女は迷いながらも彼を受け入れた。
それ以来、彼女の心も目もすべて彼に向けられ、自分自身を見失ってしまった。
でも……
野々花は無表情で顔を背けた。
結城は彼女の変化に気づかず、顔を両手で包み込みながら強くキスをした。「これから会社で会議だ。いい子で家で待ってろ。甘いもの、買って帰るから」
そう言い残して、彼はさっさと出ていった。
その背中には、わずかな焦りさえ感じられた。
野々花は、虚ろに笑った。そして、部屋中の荷物の整理を始めた。
ペアのコップ、歯磨き用のカップ、キーホルダー、マフラー、Tシャツ、ぬいぐるみ……「愛」の証として存在していたすべてを、ゴミ箱へ放り込んでいく。
普段は広い家の中で気づかなかったが、集めると驚くほど多かった。汗だくになりながら片付けた。
ゴミ箱に一箱分を捨てて戻ってくると、リビングのテレビでは、国際的なスターである堀内美都(ほりうち みと)の帰国ニュースが流れていた。
空港のロビーはファンで埋め尽くされ、叫び声と歓声が飛び交っている。
大きなウェーブをかけた髪、スラリとしたスタイル、完璧すぎる美貌。美都はカメラに向かって微笑み、手を振るだけで、ファンがまた歓声を上げた。
カメラがパンして映った一瞬、空港ロビーの隅に、見覚えのあるシルエットを野々花は見つけた。
ピンポンピンポン
パソコンからLineの通知音が鳴った。
結城はパソコンの電源を落とさずに出かけた。Lineもログインしたまま。野々花は静かに近づき、画面をクリックした。
第2話
美都ちゃん【結城くん、どこにいるの?全然見当たらないんだけど】
結城【車に戻ったよ。君のファンが多すぎて、顔を出せる状況じゃなかった】
美都ちゃん【じゃあ、ホテルで会おう】
結城はOKのスタンプを送ってきた。
美都ちゃん【五年ぶりだね、会えるの楽しみにしてるよ】
野々花は鼻で笑い、黙々と荷物を片付け続けた。
結城が戻ってきたのは、そう遅い時間ではなかった。
酒が入っていたのか、いつもは冷たく淡々としたその目元に、微かに笑みの痕跡が残っていた。
手には真紅のバラの花束を抱えて、低く艶のある声で言った。「ただいま」
野々花はソファで丸くなりながら、中古サイトに品物の写真をアップしていた。高価な物は売って、寄付するつもりだった。
彼の声を聞いて、パソコンを閉じ、顔を上げる。
結城は花を彼女の胸に押し込み、そのまま花ごと彼女を抱きしめて、唇に軽くキスした。「どうしたの?俺のこと、恋しくなった?」
野々花は黙って唇を引き結び、うつむいてバラの香りを嗅いだ。
結城は花束を包んでいた紙の中から、手品のように細長い箱を取り出し、開けた。
その優しい瞳が、今は彼女に向けられていて、どこか色気すら感じさせる。
箱の中には、彼女が目を留めていたダイヤのネックレス。その価値は6千万円以上。
数日前、一緒にショップを訪れた際に、ほんの少し眺めただけだったのに、彼は今日、それを買ってきたのだった。
ネックレスをじっと見つめる野々花に、彼は頬にキスしながら、「嬉しすぎて固まってる?つけてあげるよ」
野々花は白くて細い手でネックレスを撫で、「バラにダイヤって、プロポーズかと思った」と、静かに言った。
結城の手が止まり、彼女を横目で見た。
声の調子が少し冷たくなっていた。「プロポーズの時は、もっといいものを用意するよ」
野々花は皮肉な笑みを浮かべた。「それはいつ?」
結城の表情から笑みは消え、その目には冷たさが宿っていた。
彼女は目を逸らし、ネックレスを外そうとした。
結城は彼女の手をつかみ、唇を重ね、そのままソファに押し倒した。
彼女の体は一瞬でこわばり、顔を背けてキスを避け、彼の手を押さえた。「今日は無理」
結城は冷たく強引に言った。「そんな駆け引きはやめろ。生理は終わったばかりだろう」
そう言って、彼女の手を掴んだ。
野々花の心は一瞬でざわついた。
そのとき、結城のスマホが鳴った。
彼女はすかさず彼を押した。「電話、出て」
結城は少し不機嫌そうにポケットからスマホを取り出した。
彼女は彼の下にいたため、ちょうど画面が見えた。
表示された名前は「美都ちゃん」。
結城は慌ててスマホを伏せ、彼女の様子を一瞥したが、表情に変化がないことを確認し、立ち上がって言った。「ちょっと電話してくる」
そして、彼はズボンを直し、スマホを持って階段を上がっていった。
しばらくして、高級スーツに着替えて降りてきた。「友達がちょっとトラブってて、手伝ってくる。先に寝てて」
彼は、別荘の中から多くの物が消えて空間が広くなっていることには、まるで気づかなかった。
それから三日間、結城は帰ってこなかった。
電話では「仕事が忙しい」とだけ言っていた。
野々花の心は静かだった。
けれど、つい美都のSNSを見てしまった。
彼女は毎日更新していた。
一日目、写真はワインで乾杯する二つの手。コメントには【友情ってワインのように、時を経てより深まるもの】
そのうち一つの手は、男性のものだった。
野々花はその美しい手を一瞬で見分けた。そして薬指のペアリングも、自分とお揃いの、オーダーメイドの指輪だ。
彼女は指輪を外して、苦笑した。「ずっとつけてたから、売るの忘れてた」
二日目は海辺の夕陽。コメントには【ここで、ゆっくり歳を重ねていきたい】
その写真に映る、寄り添うようなヤシの木二本は、彼女と結城が海辺の別荘で一緒に植えたものだった。その枝には、彼女が手作りした結びが今も飾られている。
三日目は空港で撮った人混みの中の一枚。そこに、背が高くスラリとした結城の姿が写っていた。
美都のファンたちは大騒ぎになり、【恋人できたの】とコメントが殺到した。
彼女はすべてにこう返信した。【違うよ。ただ懐かしい場所に戻ってきて、感傷的になっただけ】
野々花は、心の中に湧いた苦味を押し殺した。
彼女は売れた品物を丁寧に梱包して発送し、得たお金はある芸能人の慈善基金に全額寄付した。
誰も手を出せないような高級ジュエリーは、オークションハウスに持ち込んだ。
大学にも行って、大学院の退学手続きを済ませた。さらに出入国在留管理庁に行って写真を撮り、指紋も登録した。
あまり使っていないSNSや通販のアカウントは削除し、よく使う二つだけを残した。飛行機に乗る直前に、それも消す予定。
今日は、彼女の誕生日だった。
午前零時を過ぎた瞬間から、祝福のメッセージや電話が絶えなかった。
両親、兄姉、友人、先生、ただ一人、結城からは何の言葉もなかった。
野々花はふと壁の写真立てに目をやった。
そこには、彼の胸に身を預け、満ち足りた笑顔を浮かべている彼女が写っていた。
まるで世界のすべてを手に入れたような笑顔だった。
けれど、その隣にいる結城は、冷たい顔で無表情、深い瞳の奥も何も映していなかった。
野々花は自嘲気味に笑い、椅子を引き寄せて写真立てを外そうとした。
そのとき、ドアが開いた。
結城が入ってきた。
その端正な顔は険しく、全身から「近寄るな」という空気を放っていた。
第3話
結城は、野々花が椅子に乗って何かを取ろうとしているのを見て、足早に近づいてきた。眉をひそめながら言う。「そんな高いところに立って、何してるんだ?」
野々花はふわりと微笑んだ。「どうして帰ってきたの?」
結城は彼女を椅子から抱き下ろし、その唇にキスを落とした。「バカだな。今日が何の日か、忘れたのか?」
その一言に、野々花の胸がきゅっと締めつけられ、目元がじんわりと赤く染まっていく。
結城は彼女の顔を両手で包み、瞳に口づける。「もう寂しくないよ。ちゃんと覚えてたから、な?」
野々花は長い睫毛を伏せ、彼を押し返そうとした。
けれど彼は、彼女をぐっと抱き寄せ、くすっと笑う。「プレゼントがないと思ってるんだろ?行こう、君のプレゼントを見せてあげる」
彼は彼女の手を引いて、屋敷の扉へと向かった。
扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、中庭に停められた真っ赤なフェラーリ。
価格はなんと二億円以上だ。若い彼女にはぴったりの車だ。
彼は鍵を彼女の手にそっと乗せ、愛しげな声で囁く。「君への誕生日プレゼント。気に入った?」
野々花はにっこり笑った。「うん、気に入った」
これは、別れの手切れ金か?
そう思った瞬間、結城は彼女の耳にキスを落とし、薄手の服越しに、彼女の体に触れてくる。
彼の呼吸はだんだんと荒くなり、彼女を抱き上げると、そのまま屋内へ運んでいった。
野々花は眉をひそめ、どうやって断ろうかと考えていた。その時、彼のスマートフォンが鳴った。
彼女は心の中で苦笑が漏れる。言い訳を考える必要もない。毎回こうやってタイミングよく電話が鳴るのだ。
結城は彼女をおろすと、優しく髪を撫でて言った。「ドレスに着替えて。ちょっと連れて行きたい場所がある」
彼女は救われたような気持ちで、足早に階段を上った。
背後から、電話に出る彼の声が聞こえてくる。「もしもし、みと……」
野々花は自室に戻ると、ロイヤルブルーのシルクのドレスに着替えた。
膝下まである丈で、胸元はほんの少し谷間が覗く程度だ。背中は大きく開いていたが、彼女の長くて黒い髪がそれをうまく隠していた。
彼女は軽くメイクをし、パールのピアスを耳に飾って階下へ行った。
結城はまだ電話中だったが、彼女が階段を下りてくると、視線がぴたりと止まった。
ロイヤルブルーは肌の色を選ぶ。
だが、野々花の肌は透き通るように白く、まるで高貴なドールのようだった。
フィット感のあるシルクのドレスは、体型の欠点を最も露わにするものだ。
だが彼女のスタイルは完璧だった。非の打ち所がない。
派手なアクセサリーがなくても、彼女の気品と美しさは、見る者の目を惹きつけて離さなかった。
結城は電話を切り、スマホをポケットにしまうと、彼女の腰に腕をまわして軽くキスをした。
「どうしてあのダイヤのネックレスをつけなかったの?」
野々花は微笑んだ。「高すぎるから」
「買ったんだから、つけてよ。明日はもっといいの買ってあげるよ」
彼女は手にした車のキーを軽く振って見せた。「行こう。新車を運転したくてうずうずしてるの」
結城は彼女の後頭部を優しく撫でながら言った。「はいはい、行こうか」
車に乗り込み、彼は助手席に座ってナビの設定を始めた。
行き先は郊外にある会員制の高級クラブだ。年会費だけで1000万円。
昨年、結城の誕生日もここで過ごした。二人きりで、二日間、部屋から一歩も出なかった。
彼は彼女に絞り取られて鼻血を出し、彼女も病院送りになった。
野々花は眉をしかめた。またあの時と同じように誕生日を過ごすつもりなのか。
だが彼女にはもう、そんな情熱も興味もなかった。むしろ、嫌悪感しかなかった。
車を運転しながら、彼からどう逃げ出そうかばかりを考えていたら、もう到着していた。
電動の門が開き、赤いフェラーリがゆっくりと敷地内に入っていく。クラシックな雰囲気の二階建ての建物の前に車を停めた。
結城が先に車を降りる。
彼は運転席に回り、野々花のヒールを手に持って、彼女の足元にそっと置いた。
彼女は彼の腕に手を添えて車から降り、ヒールを履いた。
ちょうど立ち上がったその時。
パン!パン!
突如、二発の爆音が鳴り響いた。
野々花は驚いて身をすくめる。
空から真っ赤なバラの花びらが舞い落ちてきた。まるで夢の中のような光景だった。
結城は彼女の肩を抱き寄せ、その身体を優しく包み込む。
美男美女が寄り添い、バラの花びらの雨に包まれる。
「わぁーっ!アハハハ!」
あちこちから人々が飛び出してきて、歓声と笑い声が溢れた。
「野々花さん、お誕生日おめでとう」
「ハッピーバースデー」
「野々花さん、ほんとに綺麗だ。前川社長が隠したくなるのも納得!」
「お似合いのカップルだなあ!」
野々花は、あまりの展開に少し呆然としていた。
第4話
三年間、結城は彼女を一度も自分の両親や親戚、友人たちに紹介したことがなかった。
「芸能人との付き合いが多いから、芸能界の人間と変わらない。公にできないんだ」と彼はそう言っていた。
彼女が一度、「家族に紹介したい」と言った時も、「タイミングがまだだ」とはぐらかされた。
それなのに、今日はどういうこと?タイミングが来たってこと?
野々花は戸惑いながらも、結城に腕を引かれてパーティーホールへと入っていった。
音楽が鳴り響き、照明がまばゆく輝く。天井からはバラの花びらがひらひらと舞い落ちる。タキシード姿のスタッフたちが、一人の背丈ほどもあるバースデーケーキを押して現れた。
「ケーキを切って」
賑やかな声に押されるように、彼女の手にはナイフが握らされる。
結城は彼女の腰に腕を回し、手を添えて小さな声でささやいた。「一緒に切ろう」
ふたりでケーキにナイフを入れようとした、その時だった。
「遅れちゃったかしら?」入り口にすらりとしたシルエットが現れた。
結城の手がぴたりと止まり、瞳が鋭く揺れる。
野々花が顔を上げると、現れたのは美都だ。彼女は明るく輝き、まばゆいばかりの美しさを放っていた。
場内の空気が一瞬凍りついた。事情を知る者たちの笑みが硬くなった。
知らない者は一瞬たじろいでから、再び沸き立った。
「美都だ!」
「ほんとに?インターナショナルスターの?」
たちまち彼女の周囲には人だかりができ、写真、サイン、ツーショット……
記者やメディア関係者はすぐに機器を取り出し、インタビューを始める。
あっという間に、美都が場の主役となった。
「堀内さん、どうしてここに?」ある記者が聞いた。「前川社長とお知り合いですか?」
「前川社長とは長年の友人です。彼が彼女の誕生日を祝っていると聞いて、少しだけ顔を出したくなって」
記者の一人が質問する。「美都さんのSNSに、謎の男性と一緒の写真が載ってましたが、恋人関係ですか?」
美都は前方にいる結城を見つめた。「いいえ、ただの仲の良い古い友人です」
別の記者が茶化すように聞いた。「古い友人と恋愛したり、結婚することもあるんじゃないですか?」
美都はじっと結城を見据えながら、一語一語、区切って言った。「しません」
その瞬間、結城の腕に力が入り、野々花を抱く手がぐっと強くなる。目元は冷たく、顔から笑みが消えた。
場の空気が一気に冷え込んだ。
「今日は彼女の誕生日パーティーだ。堀内さんの記者会見じゃない」彼は冷たくそう言い放った。
主催者があわてて場を繋ぐ。「そうそう、ケーキを!音楽も!楽しく行きましょう」
業界人はさすがに場慣れしていて、すぐに空気を切り替え、盛り上がりが戻ってくる。
その中で、野々花は最初の一切れのケーキを美都に差し出した。「堀内さん、ようこそ。ケーキをどうぞ」
美都はケーキを受け取り、じっと彼女の顔を見つめた。「なんだか、私たち、少し似てない?」
そして、周囲に向かって問いかける。「ねえ、そう思いません?」
知っている者たちは苦笑いしながらごまかした。「いや、美人ってやっぱり似るんだよね、あはは」
知らない者たちは口々に囁き始める。「ほんとだ、なんか似てるかも」
「パッと見は似てるけど、よく見ると違う」
「うん、まったく違うタイプだね。堀内さんは華やかで、須藤さんは清楚で気品がある」
野々花は微笑んで答えた。「ご縁があるんですね。私、まだ子どものころから言われてたんです。美都さんに似てるって」
その言葉の含みを察した者たちは、目を伏せた。
確かに、野々花はまだ二十一歳。大学を出たばかりで、汚れを知らない純粋さが彼女を輝かせていた。
彼女は裕福な家庭で育ち、最高の教育とマナーを叩き込まれた。その育ちの良さが、所作や言葉の端々に滲み出る。
一方で、美都は二十九歳。
年齢的にはそれほど離れていないはずなのに、幾多の整形と美容医療、芸能界での泥臭い日々が、彼女の内側から滲み出てしまう。
出自も平凡で、若くして芸能の道に入り、教養の足りなさは隠しきれない。
気品というものは、内から自然と滲むものであり、それを比べられるのは辛いものだった。
誰かが場を繋ぐように声をかけた。「皆さん、ビュッフェをお楽しみください。ワインも日本酒も飲み放題ですよ」
人々は散らばり、グラスを手に話を始める。
結城は野々花の腰を抱きながら、優しく尋ねる。「何か食べたい?飲みたいものは?」
こんな場では、誰も本気で食べたり飲んだりしに来ているわけではない。
野々花は誰一人知っている人がいないこの場所で、どこか所在なさを感じていた。「窓際のソファで、少し座らない?」
結城は彼女の好きなワインとスイーツを持ってきて、傍に座っていた。しかし、その視線は明らかに社交場で立ち回る美都を追っていた。
美都は笑顔を振りまきながら、記者やインフルエンサーと喋って、プロデューサーや脚本家とも酒を交わしていた。
そのうち、大手映画監督二人とも名刺を交換し、深く話し込む。
国内市場に戻るためには、こうした頂点の人物たちとの関係が不可欠だ。
アルコールの勢いの中、男女が名誉と欲望を追う宴の場では、美都は酒を勧められ、身体を触られ、限界を試されるようになった。
その様子を見ていた結城の顔色は、みるみるうちに険しくなっていった。
最初は野々花と話していたが、次第にそれもできなくなっていった。
野々花は、一人の監督が美都の腰に手を回し、もう一人が大きなブランデーグラスを差し出すのを見た。
第5話
結城はもうじっとしていられず、突然立ち上がって酒をひったくり、冷たい顔で言った。「医者の言葉を忘れたのか、それでも飲むのか!」
彼の声はあまりに厳しく、周囲は一瞬で静まり返り、全員がそちらに注目した。
美都はほろ酔い気味で、笑顔が一層魅力的になった。
「結城くん、相変わらず気を遣ってくれてるのね。安心して、私にはわかってるから」
酔っぱらった監督が笑いながら言った。「前川社長は本当に君に夢中なんだ。昔、君がキスシーンを撮るだけで、彼はセットで大騒ぎしてたんだぞ」
酔いが回った兄弟分も笑って言った。「そうそう、結城は一途な人で、一度好きになったらずっと惚れ込むんで、変わらないってやつさ」
美都は慌てて釈明した。「変なこと言わないでよ、私の胃がすごく悪いの。彼は胃出血が再発しないか心配してるだけ」
結城は無意識に野々花のほうをちらりと見て、周囲の好奇な視線も感じ取り、美都の手を引いて外へ出た。「外で話そう」
野々花の胸の内は複雑だった。
結城は彼女より五歳年上で、いつも落ち着きがあり、冷静で気高い。何が起きても動じない男だった。まさか、こんなに感情を露わにする日が来るとは、しかも公の場で。
彼女はみんながこっそり自分を変な目で見ているような気がして、居心地が悪かった。
野々花は席を立ち、テラスへ向かった。
風が少し冷たい。
灯りはなかった。
ホールの明かりがぼんやりと漏れている。
隅の椅子に座ると、ふと目を上げたところで結城と美都が花壇のそばで激しく言い争っているのが見えた。
最後に結城は怒って背を向けて去った。
美都は手を伸ばして彼を引き止めようとした。
彼は激しく手を振りほどき、美都はハイヒールでバランスを崩し、足をひねって花壇に倒れ込んだ。
結城は物音を聞いて慌てて駆け寄り、彼女を抱き起こした。
かなりひどく足を痛めたらしい。
結城は美都を抱えて赤いフェラーリまで走り、助手席に彼女を乗せると、車を走らせて去った。
花壇のそばに銀色のハイヒールが一足落ちていた。
主役たちが現場を離れると、宴会ホールの人々も次々と帰っていった。
野々花は宴会ホールに戻ると、人もなくなった。
後片付けをする給仕たちは彼女を見ると、同情と好奇心が混じった目を向けた。
野々花は白いハイヒールで散った赤いバラの花びらを踏みしめながら、ゆっくりと宴会ホールを出ていった。
フェラーリは結城に連れ去られた。
「お嬢さん」背後から男の声がした。
野々花ははっとして振り返った。その声にどこか聞き覚えがある。
振り返ると、黄色い髪のハーフの男がいて、30歳前後、彫りの深い鼻と目で、見た目はまあまあ整っていた。
しかしその目つきはどこか卑猥で不快感を覚えた。
彼は手を差し出した。「俺は黒沢健太、ジョージア出身の日本人だ」
野々花は握手をせず、そっぽを向いた。
黒沢健太(くろざわ けんた)は気まずそうに手を引っ込め、「俺は結城の友人だ。ここからタクシーは捕まえにくいから、送ってあげるよ」
野々花は冷たく断った。「結構だ、会員専用の車があるから」
年会費1000万円の会員制クラブ、専用車の送迎が付いている。彼女は少し離れたところに停まっている車へ向かった。
健太は彼女の完璧な曲線の背中を見て、首をかしげながら唇を舐め、勝ちを確信したような邪悪な笑みを浮かべた。
結城が三年間も夢中になるのも納得だ。やはり並の女性ではなかった。
野々花は背中がゾクゾクするのを感じながら、会員専用車に乗り込み、健太がまだそこに立って自分をじっと見ているのを見た。顔には不穏な思惑がにじんでいた。
あの日、彼と結城の電話のことを思い出し、吐き気がした。
彼女は運転手に行き先を告げ、急かした。「行こう」
車内で暇つぶしにスマホを手に取ると、ネットのホットワードが全部この話題で埋まっていた。トップ4が結城、美都、そして自分の名前だった。
【前川結城が堀内美都を抱えて市立病院に現れ、表情は焦り、堀内美都が重傷で顔に傷か?】
【前川結城が新恋人の誕生日パーティーを開催、元恋人の堀内美都は祝福し、二人は庭園で密会、一時退出も!】
【前川結城の新恋人と美都は似ている、替え玉の恋愛ドラマ?】
【六年ぶりの再会、堀内美都と前川結城は未だ切れていないのか、それとも復縁か】
どれも写真や動画付きだ。
中には野々花が美都にケーキを渡し、二人が並んでいる高解像度の写真もあった。
美都のファンたちはコメント欄で二人の幸せを願うものもいれば、結城の新恋人に【察しろよ、ここに居座るな】と釘を刺すものもあった。
多くのファンは美都の怪我は野々花の嫉妬による復讐だと疑い、酷い罵倒を書き込んだ。
結城の新恋人に同情するファンが少数だ。
野々花は怒りで体が震えた。
どうして本人の許可なく写真を公開するのか?
高級クラブで客のプライバシーは大事だ。本人の同意なしに情報が出ることはありえない。
つまり、少なくとも結城という主催者が許可したということだ。
野々花はすぐに関連サイトに弁護士の通知を送り、肖像権侵害を追及した。
2分もしないうちに、写真や動画は削除された。
しかし、既に何千、何万という人がダウンロードし、コメント欄や個人アカウントで拡散を続けていた。
野々花は長く怒っていられず、別荘に戻った頃には冷静さを取り戻していた。
リビングに入ると、あちこちに二人のツーショット写真が飾ってあり、皮肉な気持ちになった。
第6話
彼女はハイヒールを脱ぎ、バッグを放り投げ、次々と写真立てを取り外し始めた。
中の写真を取り出して燃やし、写真立てはゴミ箱へ。
思ったより、写真の数は多かった。
リビング、廊下、寝室、書斎、ジム、ウォークインクローゼットの壁や棚、テーブルの上まで……
電話が鳴った。
野々花が画面を見ると、父親だった。
通話に出ると同時に、父の怒鳴り声が響いた。「野々花、ネットで何が起きてるんだ?なんで今こんなスキャンダルが出回ってるんだ」
野々花はカーペットに座り込んで、疲れた声で言った。「お父さん……」
鼻の奥がツンとし、喉が詰まる。
父の声が一気に優しくなった。「いい子、泣くな泣くな。父さんがついてる!うちはそんなに甘く見られる家じゃないぞ。ネットの件は父さんに任せろ、絶対にあの連中をただじゃ済まさない」
家族の優しさに、野々花の強がりは一瞬で崩れ、口を押さえて、今夜溜め込んだ悔しさが嗚咽となって溢れ出た。
父はため息をつきながら言った。「今さら泣いても遅いが、結城ってクソ野郎とあの女を懲らしめてやる」
野々花は涙をぬぐい、「いいの、自分がバカだっただけ。自業自得よ。もう移民するって決めたし、これで終わりにする」と言った。
父は情けなさと心配が入り混じった声で言った。「お前なぁ……」
叱りたくても叱れず、ただ痛ましげにため息をつくしかなかった。
野々花は移民手続きの進捗を確認してから電話を切り、シャワーを浴びてそのまま寝た。
結城は、一晩中帰ってこなかった。
電話も、メッセージもなし。
朝目覚めると、日はもう高く昇っていた。
野々花はまずスマホを手に取ると、自分の写真と動画が全て跡形もなく消えていた。
朝食を食べていると、結城が戻ってきた。
昨日と同じ服を着て、髪は乱れ、目は充血し、無精髭がうっすらと伸びていた。
一晩中眠っていないのが明らかだった。
彼は野々花の向かいに座り、低い声で問い詰めた。「ネットの件、弁護士通じて訴訟起こしたのか?」
野々花はナプキンで唇を拭き、彼の目をまっすぐ見て言った。「ええ、自分の権利は自分で守らないと」
結城はビジネスライクな口調で言った。「会社は美都と契約した。彼女は帰国したばかりで、話題作りが必要だ。君に10億円払うから、訴訟を取り下げてくれ。写真や動画の使用も許可してほしい」
野々花の唇に冷たい笑みが浮かんだ。「前川社長、私は会社の社員じゃない。だから義務もない、そんな宣伝に付き合う必要もない」
結城は眉をひそめ、手にしたミルクをテーブルに強く置き、冷たい目で彼女を見据えた。
「嫉妬か?昨日君を置いていったことで怒ってる?美都は顔と足をケガしたんだ。急いで病院に連れていかざるを得なかった。彼女は顔で仕事してるんだ、傷を残すわけにはいかない」
野々花は微笑んだ。「怒ってないわ。どう彼女を売り出そうと構わない。ただ、私を巻き込まないでって言ってるの」
結城の目が鋭くなり、冷たい声を出した。「君はいつも素直で賢かった。これ以上、俺を失望させないでほしい」
野々花は淡々と答えた。「失望させてしまって申し訳ないけど、私は自分の一線は守るわ」
結城はまるでパンチが空を切ったような顔で、理解できないといった表情を浮かべて彼女を見た。
彼はタバコに火をつけ、深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。
煙の中に浮かぶ疲れた彼の顔には、どこか高貴で退廃的な美しさがあった。
彼は二口ほど吸うと、少し落ち着いたようで、吸いさしのタバコを灰皿に押しつけ、野々花の隣に座った。
彼女を抱き寄せて、低い声で言った。「わかった、もう君の写真や動画は使わない。怒らないでくれ。4億円で訴訟を取り下げてくれないか?記者やインフルエンサーを敵に回すと、会社の評判にも響く」
そう言って、結城は彼女の耳にキスを落とし、手を彼女の襟元に伸ばした。
これは結城の会社の仕業だと思っていたが、野々花はこの提案を受け入れることにした。三年間の報酬としては、それで十分だ。
何より、彼はいつもその点は悪くなかった。
ちょうど頷こうとした瞬間、結城の携帯が鳴った。彼は彼女を抱いたまま、スマホを取り出して一瞥し、通話に出た。
ジョージア語だった。
「健太、どうした?」
健太は茶化すように言った。「野々花はもう機嫌直ったか?訴訟取り下げるって同意したのか?記者やインフルエンサーが美都を責めてて、彼女泣きそうなんだよ」
結城はだるそうに答えた。「断るはずがないだろ」
健太はニヤニヤ笑いながら言った。「マジで羨ましいよ。俺、本気で野々花に惚れてんだよな。お前はもう美都がいるんだから、野々花は俺にくれよ。ちょっと味見させてくれ」
結城は腕に力を込め、野々花を強く抱き寄せ、冷たい声で言った。「ふざけんな、失せろ」
距離が近すぎたせいで、その会話は野々花の耳に一言一句、はっきりと届いた。
さっきの結城の言葉は曖昧だったから、てっきり彼の会社の仕業かと思っていた。
まさか、美都の企てだったとは。
第7話
結城は電話を切ると、野々花の頬にキスをして急かした。「弁護士に電話して、訴えを取り下げてくれ」
野々花は冷たい声で言った。「取り下げない」
結城の顔色が一瞬で暗くなり、立ち上がって彼女を見下ろした。「いい加減にしろ、うちの会社に損害が出てるんだ。君に何の得がある?」
野々花は変わらず落ち着いた口調で答えた。「あなたのチームも、あの記者やインフルエンサーたちも、プライバシー権や肖像権って知ってるはずよね?それでも知ってて違法行為をした。どうして?私が被害に遭ってるのに、あなたは加害者を責めるどころか、私に取引を持ちかけてくる。なぜ?」
結城は冷たい眼差しで彼女を見つめ、失望の色を滲ませた。「君、まるで別人だな。嫉妬って人をこんなにも変えるのか」
そう言って、椅子を勢いよく押しのけ、階段を上っていった。
椅子が床を引きずる音が響き渡り、彼の怒りを物語っていた。
美都のことになると、彼はいつも冷静さを失う。
野々花は目を伏せ、静かにお粥を飲み続けた。
しばらくして、結城は二階から降りてきた。服を着替え、髪が濡れていた。シャワーを浴びたばかりなのだろう。
彼はダイニングの入口で足を止め、野々花の方を振り返った。
「4億円は送金する。迷惑をかけて、申し訳なかった」
言葉遣いは紳士的だった。
だが野々花は、彼の態度に込められた冷たさと距離を感じ取った。
けれど、もう気にならなかった。
中古サイトの注文がまた増えたので、彼女は次々と商品を梱包して発送した。
その後七日間、結城は一度も帰ってこず、連絡もなかった。
ある夜中、突然スマートフォンが鳴った。
野々花は目を覚まし、画面を確認すると、結城だった。
彼女は眉をひそめながら通話ボタンを押す。
結城の声はろれつが回らず、酔っている様子だった。
「野々花……迎えに、来てくれ……家、帰りたい……」
バックには大音量の音楽が流れていた。
「どこにいるの?」
「ピ……ロポクラブの、八十八号室……」
「わかった」
野々花はすぐに起き上がり、適当にジーンズと白いTシャツを着た。
少し迷ってから、黒のキラキラしたピアスを耳につけ、下へ降りた。
車庫に出ると、赤いフェラーリが一番外側に停まっていた。
まだ名義変更しておらず、自分の車ではないため売っていなかったが、野々花は運転席のドアを開けて座り込んだ。
だが、すぐに異変に気づいた。助手席には黒いストッキングが落ちており、足元のマットには銀色のハイヒールが片方転がっていた。
この靴は見覚えがあった。誕生日の日、美都がクラブの花壇に落としたものと同じだった。
胸の奥がざわつき、嫌悪感が湧き上がった。
彼女は車を降りて、結城の十数台ある車の中から自分のBMWミニを見つけ出した。
深夜二時過ぎ、クラブの地下駐車場に到着した。車を停めた瞬間、暗がりの柱の陰から中年男が一人、ぬっと現れた。
「ティッシュ持ってない?急に腹が……ティッシュがなくてさ」
野々花は警戒心を露わにして、きっぱりと答えた。「ない」
「スマホなくしたんだ。小銭ちょっと貸してくんない?紙買って、タクシー代も……」
「ないって言ってるでしょ」
彼女は鋭く言い放ち、足早にその場を離れた。
エレベーターが開いた瞬間、轟音のような音楽と、チカチカと点滅するライトが彼女を包んだ。
男も女も、酒を飲み、踊り、歌い、絡み合い……
野々花はこういう喧騒な場所が苦手だ。
フロントにいた若い男性に場所を尋ね、彼女は厚い防音扉を抜けて、長い廊下へ入った。
両側には高級な個室が並び、扉の向こうは静かだった。
八十八号室を見つけ、野々花はインターホンを押した。
分厚い扉が開いた瞬間、耳をつんざくような音楽が一気に押し寄せてきた。
外は明るく、中は暗い。
何も見えず、彼女は一歩足を踏み入れた。
その途端、背後の扉がバタンと閉まった。
野々花は驚き、反射的に振り返った。そこには、あの淫らな目つきをした健太が立っていた。
同時に、健太がスプレー缶を持ち上げ、「シューッ、シューッ」と彼女に向かって吹きかけた。
第8話
野々花は慌てて身をかわそうとしたが、もう遅かった。
ほのかに甘い香りがふわっと鼻先をかすめ、思わず数口吸い込んでしまう。
健太がドアを塞いでおり、彼女は部屋の奥へと後退するしかなかった。警戒心を露わにして言う。「何をするつもり?」
健太はにやりと笑い、「決まってるだろ」と答えると、再び「シューッ」と何度も彼女に向かってスプレーを吹きかけた。
野々花の体は急に火照り出し、心臓が早鐘のように打ち、足元がふらつき、ディスコボールの灯りが目にチカチカと映り込んでクラクラする。
やっぱりあれは、あの卑劣な薬だった!
クラブの個室は、防音性とプライバシーが何より重視されている。防音ドア一枚、窓もない。
さらに外からは音楽が鳴り響いていて、彼女がどれだけ声を張り上げても誰にも届かない。
健太はどうやら事前に解毒剤を飲んでいたようで、数歩で距離を詰めてくると、彼女を抱きしめていきなり唇を奪ってきた。
「ようやく俺のものになったな」
野々花は驚愕と怒りで必死に抵抗した。「放してよ!これは完全に犯罪よ!」
健太は彼女の腕を掴み、力任せにソファ席へと叩きつけ、まるで飢えた獣のようにのしかかってきた。
野々花は恐怖に駆られ、反射的に蹴り上げようとするが、健太は彼女の動きを読んでいたようで、体をぐっと前に倒し、彼女の動きを完全に封じた。
彼の手は彼女の体を乱暴に押さえつけ、噛みつくように言った。「犯罪?ここには俺たちしかいない。カメラもない。酔ったお前が自分から誘ってきて、後で後悔して言いがかりをつけてるだけだって言えば、裁判官はどっちを信じると思う?結局、なにもなかったことにされるさ」
野々花は絶望に打ちひしがれ、弱々しくもがきながら叫んだ。「結城があなたを許すはずない」
健太は彼女を押さえつけながら、ジーンズのボタンに手をかけ、狂気のように嗤った。
「バカだな。結城が、お前を俺にくれたんだよ?あいつがお前をここに呼んだんじゃねぇか。今ごろ隣の部屋で美都と楽しくやってるさ」
その言葉を聞いた野々花は、頭を殴られたような衝撃を受け、胸の奥から痛みがこみ上げ、涙が止まらなかった。
健太はジッパーを下ろし、彼女のジーンズを脱がせようと手を伸ばす。
「今日は俺のすごさを教えてやるぜ、結城よりも強いんだ!美都は海外に6年もいたから遊び慣れてる。結城はきっと後でお前のところに戻ってくるだろうけど、その時にはもう俺がいるから相手にもしなくなるぜ、へへ」
野々花は打ちのめされながらも正気を取り戻し、もう尻までジーンズを脱がれていた。
彼女は勢いよく健太の顔をビンタした。パチン!と鋭い音が響く。
健太は一瞬表情を変えたが、すぐに変態じみた笑みを浮かべた。「やっぱりいいな、このノリが好きだ!」
野々花は右手を振り上げてさらに殴ろうとしたが、健太に手首をつかまれた。左手を上げると、それも同様に掴まれる。
健太の目は凶暴に光り、「その力じゃまだまだだ!これから本気出したら、泣きながら俺に頼ることになるぞ」
そう言いながら、彼は狂犬のように彼女に覆いかぶさってキスをした。
野々花の腹は熱くなり、体は力なくもがくしかなかった。
隣の個室では、美都がワインを片手にスマホの画面を見つめ、隣にいるアシスタントに笑いかけた。
「須藤が今日ジーンズを履いてなければ、もう健太はやりたい放題だったわね。でもこれで良かったのよ。健太の獣性がより刺激されるから」
アシスタントは心配そうに聞く。「もし須藤が黒沢を訴えたら、どうするんですか?」
美都は冷ややかに鼻で笑い、「健太を訴えたって?私には関係ないわ。私はただ結城くんに電話して、須藤を呼ぶよう言っただけだから」
アシスタントは彼女に感嘆と崇拝のまなざしを向ける。
美都は得意げに笑い、「証拠動画はしっかりあるのよ。だから彼女は訴えを取り下げなければならない。さもなきゃ、この動画をネットに流してやる!誰がそれでも耐えられると思う?」
そう言い終えると、スマホを握りしめて興奮気味に叫んだ。「健太、さっさとジーンズを脱がせろ!やれやれ!」
ソファに横たわる結城はふらつきながら動き、小声で言った。「水を、野々花、俺に水を持ってきてくれ」
美都の身体が一瞬硬直し、結城の端正な顔を見て、嫉妬の色が一瞬よぎった。
「今持ってくるわ」彼女はスマホの画面を消し、結城に水を注ぎに向かった。
隣の個室で、野々花は「今日は終わった」と感じていた。
健太が彼女の手を放してジーンズを脱がそうとした隙に、彼女は必死に爪を立てて彼の顔や首を傷だらけにした。
健太は獣のように言った。「野良猫ね、ますます興奮してきたぜ!後でお前が狂った姿を録画して、じっくり自分で見せてやるからな!」
そう言いながら、彼は野々花をソファから引きずり下ろした。
野々花の足はふらふらと力を失い、カーペットの上に膝をついた。
第9話
彼女は健太を押し退けようと手を伸ばした。
野々花の目には涙が滲み、頬は赤く染まり、身体はもう自分の意志では制御できなくなっていた。喉の奥から声が漏れ出す。
ダメ!
こんな運命なんて、受け入れられない!
彼女は思いきり舌先を噛みしめ、その痛みによってわずかに意識を取り戻すと、膝を勢いよく持ち上げ、健太の鼻を思いきり突いた。
健太はカーペットの上に片膝をつきながら、彼女のスリムジーンズを脱がそうとしていたが、まさか反撃されるとは思っておらず、鼻を直撃されてしまった。
「うっ」彼は悲鳴をあげて、野々花の手を無意識に離し、地面に座り込んで鼻を押さえる。
野々花はすかさず立ち上がり、再び舌先を強く噛んで意識を保ち、健太の股間めがけて全力で蹴りを放った。
「ぐぅううっ!」健太は苦しげに叫びながら地面にうずくまり、転がり回った。
そのとき、彼のズボンのポケットからスプレー缶が顔を出しているのが目に入った。野々花は迷わずそれを取り出し、息を止めて彼の顔にシュッと連続で噴射し、そのまま這うようにして扉の方へ走った。
個室のドアを開けると、冷たい風が吹き込んできて、彼女の意識はさらに鮮明になった。
野々花はTシャツでスプレー缶についた指紋を素早く拭き取り、部屋の中に投げ入れて扉を閉め、そのまま走り出す。
けれど、彼女は足が震えて、壁を支えにしても思うように走れない。
身体の中がまるで火に炙られているように熱くて、頭の中にあるのはただ一つ、男を探さなきゃ!
このままじゃ絶対におかしくなる。
服を脱いで、公衆の面前で醜態を晒すか、どこかの男に拾われてしまうか。
警察に通報?
こんな高級クラブには裏に必ず黒い繋がりがある。通報したって、向こうが先に気づいて揉み消されるだけだ。
友達に助けを?間に合わない!
どうすれば……?
どうすればいいのよ!
「カチャッ」という音とともに、どこかのドアが開いた。
野々花は振り返る。八十八号室の隣の個室のドアが開いたのだ。
ゾクッと背筋が凍る。もし結城に見つかったら、また健太の元に戻されてしまう。
彼女の心は焦りに焦っていた。
一番いいのは、人のいない個室に隠れて、水で身体を冷やして、何とか耐えきること。
彼女はすぐそばの個室のドアを押してみた。
開いた。
もう何も考えず、野々花は素早く中に飛び込んでドアを閉める。
ドアが閉まる瞬間、美都が部屋から出てきて八十八号室の方へ歩いていくのが見えた。
彼女がドアを開けた瞬間、誰かに中へと引きずり込まれ、「キャッ!」と叫ぶ声が響いた。
野々花は急いで鍵をかけ、チェーンロックも掛ける。
部屋の中は電気がついておらず、音もない。誰もいないようだ。
彼女はようやく少し安心し、その安心感とともに熱が一気に押し寄せてきた。
壁にもたれかかって、ゆっくりと座り込むとTシャツを脱ぎ、少しでも身体を冷やそうとした。
自分の荒い息遣いと、激しく脈打つ鼓動が聞こえてくる。
全身が蟻に食われるようにムズムズと痛くて苦しくて、押さえきれない呻き声が漏れてくる。
そのとき!
パチッ。
部屋の明かりがついた。
野々花の意識は朦朧としていた。
霞む視界の中に、ひとりの長身の男性がゆっくりと歩み寄ってくるのが見えた。
三十歳前後だろうか。鋭い眉に吸い込まれるような目元、深い彫りのある顔立ち、高い鼻、まるでハーフのような、美しい男だった。
砂漠の旅人がオアシスを見つけたように、彼女は男の方へと這い寄る。
「助けて……お願い……」
彼女は生まれつきの美貌と抜群のスタイルを持ち、このとき髪は汗で濡れ、潤んだ瞳に、色気を帯びた声で懇願する。
男のサファイアのような瞳がわずかに揺れる。「お嬢さん、警察を呼んだ方がいいか、それとも救急車か?」
彼女はトイレに連れて行って冷水を浴びたいだけだった。「水……冷たい水を……」
彼の脚に縋りつき、体を支えて膝をつく。
彼女は男の身体に触れた瞬間、パキンと音を立てるように、かろうじて保っていた理性の糸がぷつりと切れた。
もう、頭の中にあるのはただ一つ、「この男が欲しい」
飢えた野良犬がパンを見つけたように、彼にしがみついて懇願する。「助けて……報酬は払うから!」
男の身体が一瞬、強張った。
彼女を引き起こしながら、低く落ち着いた声で言う。「病院へ連れて行く」
けれど、野々花の耳にはもう何も届かない。全身がとろけたようになり、血が煮えたぎるように熱い。あと一秒でも遅れれば、心臓が破裂してしまいそうだった。
彼女はつま先立ちになり、顔を上げて彼にキスをした。蛇のように彼のたくましい身体に絡みつき、震える手で彼のパンツに触れた。
男の瞳が一瞬で深く染まる。「君が望んだんだぞ」