嘘が愛を縛る鎖になる

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嘘が愛を縛る鎖になる

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ある日、石川志保は偶然、夫・石川啓介と秘書の会話を耳にする。 「社長、あの事故で奥様の腕を負傷させてから、彼女はもう筆を握ることさえ難...

Chương (1)

第1章

ある日、石川志保は偶然、夫・石川啓介と秘書の会話を耳にする。 「社長、あの事故で奥様の腕を負傷させてから、彼女はもう筆を握ることさえ難しくなりました。今では玲奈様が奥様の代わりに有名な画家となっています。 奥様の腕はもう壊死寸前です。それでも、本当にこのまま黙って、奥様の治療はしないおつもりですか?」 啓介の冷ややかで情のない声が響く。 「玲奈を『天才画家』として確立させるためには、こうするしかない。 ……志保のことは、俺の余生で償うしかない」 その言葉を聞いた瞬間、志保は絶句し、何歩も後ずさった。 彼が「救い」だったと信じてきた三年間は、すべて偽りだった。 だったら、去るしかない。 愛が嘘だったのなら、執着する意味なんてない。 第1話 「石川社長、奥様の腕はもう壊死寸前です。 本当にこのまま黙って、薬もビタミン剤にすり替えたままにするおつもりですか?」 ドアの内側では、プライベートドクターが慎重に目の前の男に諫めていた。矜持に満ちたその男、石川啓介(いしかわ けいすけ)の表情は冷たかった。 「あの事故で奥様の腕を負傷させてから、彼女はもう筆を握ることさえ難しくなりました。 今では玲奈様が奥様の代わりに有名な画家となっています。それでも、奥様の治療はしないおつもりですか?」 啓介は苛立ったように指先で机をリズムなく叩き、低く口を開いた。 「玲奈を『天才画家』として確立させるためには、こうするしかない。 ……志保のことは、俺の余生で償うしかない」 窓の外に無意識で視線を送りながら、どこか寂しげに呟いた。 「母が亡くなったあの時、俺を救ってくれたのは玲奈がくれた一枚の絵だった。あの暗い日々を乗り越えられたのは、あの絵のおかげだ。 だから、玲奈のためなら、結婚だろうが、人生だろうが、何を犠牲にしてもいい」 その言葉を、石川志保(いしかわ しほ)は、扉の陰で聞いてしまっていた。耳鳴りがし、胸が締めつけられるような痛みに襲われた。 信じていた人に三年間も騙されていたなんて、どうして信じられるだろうか。 三年前、志保は結婚式の前日に、婚約者である浅倉慎吾(あさくら しんご)が、親友だった水原玲奈(みずはら れいな)と浮気していたことを知った。 ――その後、彼女は浅倉玲奈になった。 そのことで、上流社会で志保は笑いものになった。 絶望の中、志保を救ったのが啓介だった。突然現れ、指輪を差し出してプロポーズし、「ずっとお前が好きだった」と告白してきたのだ。 その誠意に心を打たれ、志保は彼と結婚する決意をした。 だが、結婚してまもなく、啓介は起業に失敗し、高利貸しに借金を抱えることとなる。 志保は彼のため、昼も夜も働き詰めで借金を返す日々を送った。だがある日、職場で落下した荷物に腕を直撃され、彼女は二度と筆を取れなくなった。 啓介はそのとき、涙ながらに誓った。 「いつか絶対に成功して、お前の腕を治してみせる」――と。 けれど今、志保は気づいてしまった。 あの涙も、誓いも、すべてが嘘だった。 啓介の優しさは、すべて演技。玲奈のために、志保という最大のライバルを排除する計画だったのだ。 止めようのない涙が溢れ、志保は手に持っていた弁当箱を抱えたまま、思わず踵を返してその息が詰まりそうな場所を離れた。 だが、数歩歩いたところで、彼女は一人の社員とぶつかってしまった。 スープと書類が床に散らばる。 「どこ見て歩いてんだよ!この書類、今日中に石川社長のサインもらわなきゃいけないんだぞ!」 「……すみません、すみません……」 志保は何度も頭を下げ、涙を堪えながら慌てて書類を拾った。 そのとき、背後から大きな手が彼女の手元に伸びてきた。 顔を上げると、そこには心配そうに彼女を見つめる啓介の姿があった。 「し、社長……」 社員が驚いて敬語を使うと、啓介は軽く頷いて彼を下がらせ、志保をそっと支えながら立たせた。 「やけどしてないか?腕の調子もよくないんだし、もう弁当なんて持ってこなくていい。 ここの社員はみんなお前のこと知らないし、万が一、またどこか怪我でもしたら大変だ」 志保は黙って小さく頷いた。 結婚してからずっと、啓介は志保が「石川夫人」であることを公にしなかった。その理由を、「静かに療養してほしいから」と言っていた。 だが、志保はようやく気づいた。 本当の理由は、玲奈に気を遣っていたから。 彼女の機嫌を損ねないため。 そして、将来、堂々と玲奈と幸せになるため。 ……三年間も、そんな簡単なことに気づけなかった自分が、哀れでしかたがなかった。 啓介はこのあと重要な会議が控えていたため、運転手に志保を自宅まで送らせた。 部屋に戻った志保は、もう立っていられなかった。その場にへたり込んで、腕に顔を埋めながら静かに泣き出した。 頭の中には、これまでの出来事が何度もフラッシュバックした。 そのとき、ふと彼女の脳裏に浮かんだのは、啓介が夜中にこっそり見ていた、あの「謎の収納箱」のことだった。 確認しないと、気が済まなかった。 志保は書斎に向かい、その箱を引っ張り出した。そして中を開けて、言葉を失ってしまった。 そこには、玲奈の写真と絵ばかりがぎっしり詰まっていた。 しかも、それは十年以上にもわたる年月のものだった。 一枚一枚の裏には、見覚えのある啓介の筆跡で、玲奈への想いが言葉として残されていた。 志保と旅行に行った場所も、すべて玲奈がかつて訪れた場所。 景色の裏には、こう書かれていた。 「玲奈が歩いた道を、すべて辿る」 志保は胸を押さえ、心の奥から込み上げてくる痛みに必死で耐えた。 そして、涙がもう出なくなったとき、彼女はゆっくりとスマホを取り出し、国際電話をかけた。 「……おじい様、七日後に一緒に海外に行くって、私、決めましたわ。 迎え、お願いできますか?」 第2話 電話を切ったあと、志保は腕の痛みがじわじわと増してきているのを感じていた。 彼女は引き出しから啓介が用意してくれた薬を取り出し、水と一緒に飲もうとした――が、そこで手が止まった。 危うく忘れるところだった。啓介が「苦労して手に入れた」と言っていたこの薬は、ただのビタミンだったのだ。 彼女の腕は、「愛」の名のもとで、三年もの間放置されてきた。 志保は上着を羽織って外へ出た。自分の腕が今どれほど悪化しているのか、病院で確かめるつもりだった。 それを聞いた家政婦は、慌てて彼女を止めようとしたが失敗。すぐに啓介に電話をかけた。 「はい、旦那様、奥様が病院に行かれました。どうしても止められなくて……」 病院では、志保が腕を押さえながら青ざめた顔をしているのを見た受付のスタッフが、すぐに整形外科の専門医を呼んでくれた。 診察室では、医師が志保の腕をじっくりと診ていたが、次第に眉間に深いしわを寄せていく。 「……君、この腕、怪我してから一度も再診してないのかい?」 志保は苦笑いを浮かべながら、かすれた声で尋ねた。 「先生……正直に教えてください。私の腕、もうどれくらい悪いんですか?」 医師はため息をつき、何かを言おうと口を開いた。その瞬間、診察室のドアが勢いよく開け放たれた。 啓介が早足で入ってきた。背後には、冷や汗を拭っている三浦院長の姿がある。 「志保、どうして一人で病院に?体調が悪いなら、ひと言言ってくれればよかったのに」 啓介は彼女を抱き寄せると、心配そうに全身を確認した。 担当医は院長の顔色を読み取って、すぐにその場を後にした。 志保は小さく声を漏らした。 「……腕がすごく痛いの」 その言葉を聞いた啓介の表情が曇り、一気に厳しい声になった。 「三浦院長と我が家の主治医は妻の治療を一任されているはずだ。もう三年だぞ。 なのにまだ痛みが出るってどういうことだ?本当に最善の薬を使っているのか?」 院長は冷や汗をかきながら、慌てて弁解する。 「石川さんはこの病院の大株主です。我々が奥様にいい加減な薬を使うなんて、命がいくつあっても足りません! とりあえず、今はアイシングをして、専門のスタッフを呼んでマッサージさせましょう。そうすれば、きっと痛みも和らぐはずです!」 だが、志保はそれ以上何も期待していなかった。この場で真実を聞き出すのは、もう無理だと悟っていた。 視線を落とし、淡々と告げる。 「……いいです。鎮痛剤だけ出してください」 薬が処方され、啓介はそれを自ら手に取って、志保に飲ませた。彼女の顔色が少し落ち着くと、彼もようやく安堵の表情を浮かべる。 帰り道。 車に揺られていた途中、啓介が突然何かに気づき、運転手に停車を命じると車を降りた。 志保は車内で待ち続け、やがて三十分が過ぎた。待ちくたびれてきた頃、ようやく啓介が戻ってきた。 彼は小さな紙箱を彼女の膝の上に置いた。 「お前が好きだったあのお菓子、買ってきたよ」 額には薄っすらと汗が滲み、いつもピシッと決まっているスーツには、並んでいた列でついたのか、うっすらと汚れがついていた。 昔の志保なら、こんな姿を見たら、すぐに抱きついて「ありがとう、ほんとに優しいね」って甘えていたに違いない。 でも今は、その一言すら出てこない。 だって、どうしても理解できなかった。 どうして玲奈をあれほど愛していながら、こんなに自分に優しくできるのか。 そんな志保の異変に、啓介もすぐ気づいた。 彼女の目は少し赤く、泣いたあとが残っている。 啓介はそっと彼女を抱き寄せ、優しく問いかけた。 「どうした?さっきの診察、そんなに不安だったか? 大丈夫、必ず治してみせるよ」 そのとき、志保はふいに口を開いた。 「啓介……私のこと、愛してる?」 背中を撫でていた啓介の手が、一瞬止まった。目をそらしながら、彼は言った。 「……何言ってんだよ。お前は俺の妻だろ?愛してるに決まってるじゃないか」 「じゃあ……もう保守的な治療はやめにして、手術を受けさせてほしい」 その言葉に、啓介の心臓が一瞬止まりそうになった。目に見えて戸惑いの色が浮かぶ。 だが彼は、何とか平静を装いながら答える。 「手術はリスクが大きすぎる。これまで三年、保守的な治療でちゃんと保ってきたんだ。今さら危険な賭けをする必要はないよ。 な?約束する。これからもずっと一緒に治療を続けよう。お前の腕が戻らなくても、俺がその代わりになるよ」 彼のその言葉を聞いた瞬間、その優しさの裏にある「本当の目的」を感じ取った志保は、心の底から落胆し、静かに目を閉じた。 第3話 家に戻ると、啓介はいつも通り、志保の靴や上着を脱がせるのを手伝ってくれた。 夕食の時間、彼は志保の腕を気遣い、ナイフとフォークを使ってステーキを一口大に切り分けて、口元まで運んでくれた。 ちょうどその時だった。テーブルに置いてあった啓介のスマホが震え、着信音が鳴り始めた。 志保の視線が自然と画面へと向かう。そこに表示されていたのは、名前の代わりに表示されていたのは、ただ一つ、ハートの絵文字だった。 志保の眉がわずかにひそめられる。 啓介はその着信を見た瞬間、ナイフとフォークを置いてすっと立ち上がった。そして志保の額に軽くキスを落とす。 「今夜は会社でどうしても外せない会議があるんだ。すぐ戻るから、待っててくれ」 志保はわざと、疑うような声で尋ねた。 「こんな時間に?会議なんて本当にあるの?」 啓介はポケットから細身のブレスレットを取り出し、それを彼女の手首にそっとつけた。 そのまま彼女の鼻先を、指先でちょんとつついた。 「最近仕事が立て込んでて、どうしようもないんだよ。 これはお詫びの印。うちの奥さんに贈る贖罪の品ってやつ」 そう言って、車の鍵を手に取ると、彼はそそくさと家を出て行った。 啓介が出て行ってから間もなくして、志保のスマホに玲奈からメッセージが届いた。 文字列と数枚の写真。 【明日、石川財閥の新作発表会にいらっしゃい。素敵なサプライズがあるわよ〜】 そのメッセージは送信から数分後、すぐに取り消された。 追って、一言だけ追加される。 【ごめん、送る相手間違えちゃった】 志保にはすぐにわかった。これは偶然なんかじゃない。 削除される前に、写真はすべて保存済みだった。 拡大して確認すると、玲奈が男と、キャンドルの灯りに照らされながらディナーを楽しんでいた。対面に座る男性は顔こそ映っていないものの、片手の輪郭だけで、志保には十分だった。 啓介――彼女の夫だった。 彼の左手の薬指は、わざわざ結婚指輪を外されていた。だが、そこにはうっすらとしたリング痕が残っていた。 そして今、彼は玲奈の手首に、まばゆいばかりの豪華なブレスレットを丁寧に巻いている。 志保はそれを知っている。あのブレスレットは、世界的ジュエリーブランド「ブリオネル」の限定ダイヤモンドモデルで、過去に超高値で落札されたことで話題となった逸品。 啓介が少し前、海外オークションにまで足を運び手に入れたと聞いていた。 彼が今夜、志保につけたブレスレットは、あのブレスレットの、ただの「おまけ」にすぎなかった。 翌朝、啓介は早くから出かけて、新作発表会の準備に向かった。 今回の発表会では、「ある有名画家との新たな提携」が発表されると噂され、業界でも大きな話題になっていた。 啓介の出発から少し経ち、志保もタクシーで会場へと向かった。 広い会場の一角。志保の視線が、あるシルエットにぴたりと止まった。 そこにいたのは、啓介が長年心に秘めてきた――「心の中の人」。 そして、志保にとってかつて一番の親友だった。 ――浅倉玲奈。 志保と玲奈は、著名な画家・浅倉昌峰(あさくら まさみね)から直々に弟子入りを許された、唯一の二人だった。 だが才能面では、志保のほうがいつも一歩先を行っていた。 学ぶ速度も早く、技術も美しさも群を抜いていた。 それに加え、浅倉の孫・慎吾との婚約も決まった。 何をとっても玲奈を上回る志保に対して、玲奈は一度も嫉妬を見せたことはなかった。むしろ距離を縮め、まるで心から志保を慕うような素振りを見せていた。 だが、その仮面が剥がれたのは、結婚式の前日だった。玲奈は慎吾を奪い、志保はすべてを失った。 あとのことは、思い出したくもない。 啓介が志保を「救って」くれた。そう信じていた。けれどその手は、彼女を別の奈落へと突き落とすものだった。 そして今、ステージの中央に立つ啓介は、玲奈の手を取りながら、堂々と宣言した。 「今回、石川財閥が提携する『ミステリアスな画家』こそが、レーナさんです」 彼の瞳は輝き、玲奈を見つめるそのまなざしには、一切の迷いもなかった。愛情が隠しきれないほどに滲み出ていた。 記者の一人がマイクを向ける。 「石川社長、以前からレーナさんとは長年のお知り合いだと聞いています。 これまでご結婚されていない理由、もしかして将来、レーナさんと……というご予定があったからでは?」 第4話 そんな大胆な質問にも、啓介は逆に笑みを浮かべてマイクを受け取り、隣の玲奈を見ながら答えた。 「すべてはレーナさんの気持ち次第です。 私も、そして石川財閥も、いつまでもレーナさんの味方であり続けます」 玲奈は恥ずかしそうに啓介の指をつまんだ。啓介のマイクを持つ手が、わずかに震える。 壇下では、志保がその様子を見つめながら、拳を強く握りしめていた。爪が手のひらに食い込むほどに。 このやり取りで、会場の熱気はさらに高まる。 司会者が、玲奈とのコラボによって誕生した新作をいよいよ公開すると宣言した。 幕が開いた瞬間、観客席からは驚きと称賛の声があがった。 だが、志保は息を呑み、その場に立ち尽くす。 石川財閥は主に自動車を扱っている。今回の新作は、玲奈とのコラボで発表された特別仕様車。そのボディは、墨絵風のデザインに、流線型のフォルムと和の要素が見事に融合されていた。 けれど、そのデザインの原画はまぎれもなく、志保自身の手によるものだった。 あれは、啓介が会社を立ち上げたばかりの頃、彼の理念をもとに志保が描き上げたもの。まだ完成には至らず、腕の怪我もあって長らく棚の中に仕舞い込んでいた。 その存在を知っていたのは、彼女と啓介だけだったはず。 それなのに、なぜ玲奈がその絵を手に入れ、まるで自分のオリジナルかのように発表できるのか? 血の気が一気に引き、指先が震えた。冷たいものが心の奥を貫く。 そして、玲奈が壇上で自らの「創作意図」を語り始めたその瞬間、志保はついに怒りを抑えきれず、人混みをかき分けてステージへと飛び出した。 ――バチン! 志保は無傷の方の手を振り上げ、玲奈の頬を勢いよく打った。 「どういうつもり!?私の絵を盗んでおいて、よくもそんな顔で『自分の作品』なんて言えたわね!」 その言葉が終わらぬうちに、一つの大きな影が志保の前に立ちはだかった。 ――啓介だった。 彼は怒りに満ちた目で志保を睨み、玲奈を庇うようにその背に隠す。そして右手を大きく振りかけた。 志保は目の前の男が、本気で自分に手を上げようとしていることに、目を見開いた。 ……けれど、その手は、最後まで振り下ろされることはなかった。 玲奈は啓介の後ろに隠れながら、甲高い声で叫んだ。 「証拠は!?私が盗んだって証拠あるの?名誉毀損で訴えるわよ! ねえ啓介、私の潔白、信じてくれるよね?」 志保はそのやり取りを黙って見届けていた。彼がどう答えるか、もう分かっていたから。 啓介は奥歯を噛みしめながら、警備員に向かって怒鳴った。 「この狂った女を今すぐ会場から引きずり出せ!もう二度と、石川の敷地に近づけるな!」 その言葉と共に、彼は志保の肩を突き飛ばし、玲奈を守るようにしながら、混乱の会場を後にした。 玲奈は振り返りながら、勝ち誇ったように志保を見下ろしていた。 志保は石川ビルの正面、大通りに放り出された。膝と手のひらまで擦りむいたのだ。 周囲の野次馬がクスクスと笑う中、志保は自嘲気味に笑い、ふらふらと足を引きずりながらその場を離れた。 その夜遅く、啓介が酒臭い息をまとって帰ってきた。 ふらつく足取りで寝室に入るなり、布団に潜り込んで志保の身体に手を伸ばした。 志保は突然の接触に驚いて飛び起き、必死に彼を押し返す。 「ちょっと、何してるの!?」 以前なら、彼はこんなふうにすがるように彼女を抱きしめ、優しい言葉で機嫌を取っていた。そして今度も同じように、昼間の件について志保に謝ると思い込んだ。 だが今夜の啓介は、何も言わずに彼女の首筋にキスを落とし、服のボタンを次々に外していく。 「……会いたかったんだよ、俺は。志保も、そうだろ?」 その言葉が耳に入っても、志保の脳裏には昼間の出来事が焼きついて離れない。 あの瞬間、啓介は玲奈を庇い、知らないふりをして自分を「狂った女」呼ばわりし、さらに会社から追い出した。 今になって謝罪の一言もなく、ただ身体を求めてくる。 そんなの、到底受け入れられるはずがなかった。 「……啓介。今、あなたの頭の中にいるのは、私? それとも、玲奈?」 彼の動きが一瞬止まった。すると、彼は涙を拭うように志保の頬に触れ、囁いた。 「玲奈にはもう旦那がいるんだよ?俺が想うわけ、ないだろ?」 志保には、わかっていた。彼があれほど激しく求めてくるのは、今日、玲奈を家まで送るとき、彼女の夫を目にしたからだ。 彼の情熱は、嫉妬と悔しさの裏返し――自分への愛なんかじゃない。 啓介の中では、自分は妻だとほんとに思っているの? 忍び寄る吐き気をこらえながら、全身の力で啓介を突き飛ばした。 ボタンが外れかけた服を胸元でかき合わせ、ふらつきながら寝室を飛び出すと、客間の扉をきつく閉めた。 第5話 翌朝、酒が抜けた啓介は、自ら台所に立ち、志保のために豪華な朝食を作った。 「昨日の発表会のこと、もう調べがついたよ。 お前の絵を盗んだのは家政婦だった。あいつ、勝手にあの絵を玲奈に売りつけたらしい。 もうクビにしたから。年寄りだし、今回は法的には追及しないでおこう、な?それでいいだろ?」 志保は思わず皮肉な笑みを浮かべた。さすがは「石川の社長」、身代わり探しも手際がいい。 啓介はさらに弁明を続けた。 「まさか玲奈が、あんなことをするなんて……俺も信じられなかったよ。 でもさ、盗作なんてスキャンダルになったら会社のイメージに響く。ここは大ごとにせず、彼女の作品ということで収めておこう。 お前も、昨日はちゃんと彼女にビンタしたじゃないか。玲奈だってもう何も言ってない。だから、ここはもう水に流そう?」 そして、その一発について触れるとき、啓介の口調には知らず知らずのうちに責めるような色が混じった。 「これからはああいう衝動的な行動はやめてくれ。 玲奈は小さい頃から体が弱くて、他人と争うなんて一度もなかったんだ。あんなビンタ、耐えられるわけないだろ?」 彼の言葉の端々には、玲奈への庇い立てする気持ちがにじんでいた。志保の眉がわずかにひそみ、胸の奥に苦味が広がっていく。 その時、志保のスマホにメッセージが届いた。差出人は祖父・田辺栄蔵(たなべ えいぞう)の秘書だった。 【お嬢様、準備は整いました。来週金曜、お迎えにあがります】 テーブルの上に置かれた画面を、啓介もふと目にした。発信元は、桁数の多い海外の電話番号だった。 啓介は、何かがおかしいと感じた。 「メッセージ、誰から?海外の番号だけど?」 志保はすぐに画面を消し、スマホを伏せて置いた。 「詐欺よ。最近の海外の業者、いろいろ巧妙だから」 それを聞いて、啓介はようやく肩の力を抜き、軽く笑いながらからかった。 「最近の詐欺師はすごいな。『お嬢様』なんて呼び方までして、信用させようとしてるんだな」 志保は、何も答えなかった。 彼女もずっと自分は孤児だと思っていた。だが、つい先日になって祖父が現れ、彼女が海外田辺家の孫娘であり、正統な「お嬢様」だと告げたのだった。 そして、近く国外で共に暮らそうと言ってくれた。 啓介が仕事で忙しそうだったから、彼に伝えるタイミングをうかがっていた。 けれど今となっては、もう、話す必要すらないのかもしれない。 気まずい空気を変えようと、啓介は話題を変えた。 「そうだ、明日は浅倉先生の誕生日だろ?お前の師匠だし、俺も尊敬してる人だ。二人で一緒にお祝いに行こうよ。 ついでに、玲奈との関係も少し修復できたらいいなって」 ……また、玲奈か。 志保は顔を逸らし、しばらく沈黙した後、静かに答えた。 「……いいわ」 けれど、それは玲奈のためではない。 志保と玲奈は、浅倉先生に唯一弟子入りを許された二人だった。 婚約者だった慎吾との結婚は破談になり、自分は腕を怪我した。けれど浅倉先生だけは、ずっと彼女を本当の孫のように接してくれていた。 だからこそ、会いに行くべきだと志保は思った。 誕生日当日、新桜市(しんおうし)の名士や財界人が続々と会場に訪れた。 その中でも、もっとも注目を集めたのは、やはり啓介だった。 彼は表向き冷静に志保の手を取って入場したが、玲奈と慎吾が仲睦まじく客を出迎えている様子を目にした瞬間、その眼差しに暗い影が差した。 挨拶もそこそこに、啓介は手を離してひとりワイングラスを手に取り、物陰に引っ込んだ。 志保は空いた隣の席を見つめ、プレゼントを手に、一人で屋敷の奥へと向かい、かつての恩師にそっと挨拶を告げた。 浅倉先生は志保の姿を見るなり、目に深い哀しみを湛えた。 志保の無力の腕に視線を落とし、重く長いため息をつく。 「……もう三年か。この腕、まだ治らんのか。 医者にも見せたんだろう?回復の見込みは、本当にないのか? 君はわしが見てきた中で、一番、絵の才能に恵まれた子だ。もし腕さえ無事だったなら、玲奈に引けを取るような子ではなかったはずじゃ」 志保は、力なく微笑み、首を横に振った。 三日前に偶然聞いてしまった、啓介と秘書の会話。もしあれを知らなければ、自分の腕が治らない理由を、今も分からないままだっただろう。 浅倉先生の書斎を後にした志保は、屋敷の中を探し回った。けれど、どこにも啓介の姿は見当たらない。 帰ろうと踵を返しかけたその時、すぐ近くの部屋から、かすかな女の喘ぎ声が漏れてきた。 志保は扉の隙間からそっと中を覗き込んだ。 次の瞬間、彼女は言葉を失い、その場に立ち尽くした。 第6話 玲奈は啓介の背後からそっと抱きつき、切羽詰まったような声で囁いた。 「啓介……慎吾は、私のことなんて全然大切にしてくれないの。 外に何人も女がいて、私はずっと我慢してきたのよ……」 啓介は眉をひそめ、両手をぎゅっと握りしめる。 「あいつのそばにずっと尽くしてきた。最も輝いてた時間まで全部、あいつに捧げたのに……慎吾のやつ、そんな仕打ちをするなんて……! 玲奈、安心して!すぐにでも問いただしに行く。やつに人としての心があるのか、思い知らせてやる!」 「だ、だめ……!」 玲奈は首を振りながら、柔らかくしなやかな手で啓介の拳を包み、揺れるような声で訴える。 「啓介は私のために結婚を壊してまでこうしてくれてること、ちゃんと分かってるわよ。 信じてる……でも、今ここでこの話がバレたら、慎吾はきっと怒って私と離婚する…… ……そのとき、本当に、私を迎えてくれるの?結婚してくれるの?」 玲奈は唇を噛みしめる。 「もちろん、志保を捨てて私を選んでくれるなら……もう、こんな苦しみ耐えなくて済むのに」 啓介はしばし沈黙し、やがて玲奈を抱き締め、背中をそっと叩いた。 「お前のためなら、俺はなんだってする。慎吾には、それとなく釘を刺しておくよ。きっと態度を改めるはずだ」 玲奈はさらに強く彼の腰に抱きつき、顔を胸元に埋めて、しゃくりあげるように泣き出した。 ドアの隙間からその様子を見ていた志保は、手すりにすがって、ようやく立っていられるほどだった。 いつも冷静で自制心の強いはずの啓介が、こんなにも誰かのために狂っているとは、想像もしていなかった。 視界が滲み、次第に白く霞んでいく。志保は思わずえづきながら、その場をよろめきながら後にした。 裏庭の人工池まで走り抜けた志保は、そこでようやく深く息を吐いた。 頭はぐらぐらと揺れ、腕の鈍い痛みが再び浮かび上がる。しかし、胸の痛みに比べれば、そんなものは些細だった。 「……あら?これはこれは、かつての『天才画家』様じゃない? こんなところで、まるで亀みたいに隠れて何してるの?」 その声に顔を上げると、目の前には勝ち誇ったような顔の玲奈が立っていた。 今日は恩師の誕生日。志保はここで騒ぎを起こしたくなかった。黙って立ち上がり、その場を離れようとした。 だが、玲奈が彼女の腕を掴んだ。しかも、最も酷く傷んでいる部分を、容赦なく強く捻るように。 「……あっ!」 志保は激痛に顔を歪め、腕を押さえながら睨みつけた。 「これ以上騒ぎを起こしたら、先生の顔に泥を塗ることになるわよ。やりすぎないで」 けれど玲奈は、まるで面白い冗談を聞いたかのように笑い出し、冷たく志保の腕を見下ろした。 「三年経っても治らないその腕、相当つらいでしょう? でもその理由、知ってる?可哀想だから教えてあげようか?あれ、私のお願いで、啓介がやったことなのよ」 志保の心臓が強く跳ねる。 啓介が、彼女の腕を治さなかったのは、玲奈のためだと気づいていた。だが、それ以上の真実があるというのか? 玲奈は志保の動揺を楽しむように、さらに語った。 「当時ね、私、啓介に泣きながら言ったの。『志保は何もかも私より上で、息苦しい』って。そしたら、あの人すぐ頷いたの。次の日には、借金を抱えたフリして、あなたを徹夜のバイトに追い込んだ。 それだけじゃない。あの事故もね、偶然なんかじゃなかったの。啓介が人を使って、すべて仕組んだのよ。私は、片腕だけ動かなくなれば十分って言ったけど……啓介は、私のこと思って、あなたの腕全体を潰してくれたわ。 ふふっ、もしあのとき『殺して』って頼んでたら、きっとそれも叶えてくれたでしょうね。 あなたが今生きてるのはね、自分の目で、すべてを見届けさせるためよ。大事にしてた二人の男が、どっちも私の足元にひれ伏してるってね。『天才画家』だなんて言ったって、最後には私の小指一つにも敵わないって証明だわ」 志保は、血が逆流するような衝撃を感じながら、それでも必死に感情を押し殺して唇を開いた。 「それがあなたのやり口?絵じゃ敵わないからって、男を使って裏で手を回して…… 三年もあげたのに、結局、私の作品を盗むことでしか評価されない。あなたこそ、心から軽蔑するわ」 玲奈の顔が怒りに歪み、次の瞬間、腕を振り上げて志保の頬を強く叩いた。 「この卑怯者!こんな時になっても、私に楯突くつもり!?」 志保が何か言う前に、玲奈の目が鋭く光り、不気味な笑みを浮かべた。 「……ねえ、もし私が『志保に殺されかけた』って啓介に泣きついたら、どうなると思う?」 そう言いながら、玲奈は志保の負傷した腕を思いきり引っ張り、そのまま、二人して池の中へ倒れ込んだ。 第7話 「玲奈!」 啓介の叫び声とともに、水面が大きく波立った。彼は真っ先に湖へ飛び込み、必死に玲奈のもとへ泳いでいく。 志保は水中で苦しみながらも、啓介に手を伸ばした。けれど彼の視線は、ただ一人、玲奈にしか向いていなかった。 最後の力を使い果たし、志保はただ見つめることしかできなかった。 ――夫が玲奈を抱きかかえ、人工呼吸を施す光景を。 傷ついた腕から血が滲み出し、水面に紅い染みが広がっていく。 意識が遠のいていく中で、聴覚だけが妙に研ぎ澄まされていた。 「大丈夫だ、玲奈!もう怖くない、俺がいる。体のどこか、痛むところある?」 「ううっ……啓介……まさか志保が、まだ前のことを根に持ってるなんて思わなかった…… 一緒に死んだほうがいいって言って、いきなり湖に引きずり込んできたの……」 啓介の体がビクンと震えた。その時ようやく、湖にまだ志保がいることに気づいた。 志保は微かに笑い、力尽きるように、静かに水底へ沈んでいった。 …… 次に目を覚ました時、志保は病室のベッドの上にいた。すでに患者服に着替えさせられている。 喉がひどく乾き、ふらつく体を支えながら扉の近くまで歩いていくと、外から啓介の声が聞こえた。 「医者は一体何やってたんだ!志保はもう妊娠四ヶ月なんだぞ!今頃になってやっとわかるなんて……!」 その一言に、志保の呼吸が止まり、無意識にお腹に手を当てた。 「社長、落ち着いてください。もし玲奈様に奥様の妊娠のことが知られたら、ますますお二人の未来は難しくなります。 ですから……たとえば、奥様の食事に中絶薬でも入れて……あるいは、事故などを装って……」 「ダメだ」 啓介はぴしゃりと断言した。 しばらく黙考した後、重々しく口を開く。 「この子は望んでいたわけじゃないが、俺の子には違いない。志保が出産したら……その後で離婚を切り出し、玲奈と一緒になる……それでいい。 今すぐ俺の家に専属医師を手配しろ。志保のこの子、必ず守り抜くんだ」 「承知いたしました」 驚愕に目を見開いた志保は、ふらつく足取りで数歩後退した。 やがて扉のノブが回り始め、慌ててベッドへ戻り、体を横たえる。 啓介が彼女の手を握ると、志保はゆっくりと、何も知らないふりで目を開けた。 「よかった、目が覚めた…… 一日中、眠ったままだったんだぞ。本当に、怖かった……」 彼は志保の手を頬にすり寄せ、優しい眼差しを向ける。 「志保って、本当にうっかりさんだね……いい知らせがあるんだ。お前はもう妊娠四ヶ月だよ。あと半年もすれば、俺たちの赤ちゃんが生まれるんだ。 赤ちゃんは少しずつ育って、大きくなって、俺たちのことを『パパ、ママ』って呼ぶようになる……志保、本当にありがとう……」 志保の瞳がかすかに潤む。だが、啓介の言葉に、彼女は戸惑いを感じていた。 心には他の女がいるはずなのに、どうして今さらこんなにも「愛情深く」見せられるなんて。 演じ続けてきた結果、もう彼自身でも区別がつかなくなっているのかもしれないね。 志保は唇を震わせ、かすれた声で尋ねた。 「……先生の寿宴、どうなったの……?玲奈は……」 啓介は指を志保の唇に当て、やや冷たい声音で告げた。 「会場で玲奈を押して、溺れさせかけた……たとえ嫉妬が理由だとしても、あんな行動、絶対に認めないぞ。 まあ、今はお腹の子のことだけ考えて。過去のことは、もうここまでにしろ。玲奈への謝罪は、俺がやるから。 ただし、彼女が許すかどうかまでは保証できない。どんな結果であっても、お前が背負うしかないんだ」 志保はまぶたを伏せ、視線を落とす。心の中で、啓介に対する最後の感情も消えてしまった。 そうね、玲奈が何をしても、啓介は迷うことなく、あの人の味方をする。 自分がどれほど弁明しようと、意味なんてない。 それに……自分はもうすぐ、この場所を離れる。啓介と、未来を語ることは、もうない。 第8話 志保が啓介と共に自宅へ戻ると、すでに四人の産婦人科専門医が到着していた。 啓介は厳しい口調で命じた。 「これからの妊娠期間中は、お前たちが全面的にサポートする。奥様の体調と要望を最優先に、安全な出産に努めてほしい」 医師たちは一斉に頭を下げた。 「承知いたしました、石川様、奥様」 だが、志保はわずかに眉をひそめた。 彼女はもともと孤児で、自分の子を持つことをずっと夢見ていた。それでも今、この命に対して迷いがあった。 嘘の中で授かったこの命に、本当に、生まれてくる意味はあるのだろうか。 その時、秘書が汗だくで駆け込んできた。 「社長、大変です!ご覧ください、玲奈様が発表会で盗作を指摘された件がネットで拡散されています!現在、ネット上では玲奈様への誹謗中傷が殺到しています!」 啓介は秘書の差し出したスマホをひったくり、画面を見た瞬間、目を見開いて叫んだ。 「すぐに広報部を召集して緊急会議だ!今すぐ!」 それだけ言い残すと、志保に一言の説明もせず、車に乗って会社へと向かってしまった。 志保は自分のスマホを開いた。やはり、「#レーナ_盗作」がトレンド上位に挙がっていた。 玲奈が今回発表した作品は、以前の作風とはまるで別人のようだった。彼女のSNSは、ネットユーザーの批判と罵詈雑言で埋め尽くされていた。 その結果に対し、志保は心の中でひとこと呟く。 ――自業自得よ。 ほんの少し、胸がすく思いで夕食を終えた志保は、そのまま深い眠りについた。 だが深夜、スマホの通知音に何度も起こされた。 目を開いた瞬間、眠気は完全に吹き飛んだ。スマホには数え切れない罵倒メッセージが届いていた。それも、すべて「レーナを応援する」という理由に、自分を非難する内容だった。 そして今度は、「T.シホ」――かつて志保が使っていた画家時代の芸名までもが、トレンドに浮上していた。 ことの発端は、事件張本人の一人である啓介が、記者会見で公に玲奈を全面的な支持を表明したのだ。 彼は、当日会場に現れた志保は、「精神的に不安定な状態にあり、被害妄想の傾向があると診断された」と発言。 さらに、彼は志保が過去に制作した未発表の作品を持ち出し、それを「レーナが以前から長く練習してきたスタイル」だと主張した。 「未発表の原因は、レーナは本番の場で皆さんを驚かせるために、あえて発表を控えていたのだ」と説明した。 志保は、震える手でスマホを握りしめた。目には涙があふれそうになる。 玲奈を庇うため、啓介は自分をここまで陥ったなんて。 彼女は勢いよくベッドから立ち上がり、まだ灯りのついた書斎へ飛び込んだ。 啓介は秘書と通話中だったが、志保を見るなり電話向こうの秘書に素早く指令を出した。 「言った通りに進めてくれ。問題があればすぐ連絡を」 そして、まるで何事もなかったかのように微笑み、毛布を手に彼女の肩に掛ける。 「どうしたんだ、こんな時間に。お腹の子が騒いでるのか?」 志保はスマホを啓介の目の前に突きつけ、声を震わせた。 「玲奈のために、私を誹謗する声明を出して、私の作品まで彼女のものにしたの? そんなことして……私がどんな状況に陥るのか、考えたことある?」 啓介はため息をついた。 流れる罵声ばっかりのメッセージを見ようともせず、志保の肩を抱き寄せて、低い声で囁く。 「ネットの連中なんて、誰かを叩いて鬱憤を晴らしたいだけなんだ。しばらくスマホを切って、無視すればいい。 玲奈は今や、会社の大事なブランドだ。彼女の評判が落ちれば、会社も危うくなる。 それに……お前の腕はもう使えない。玲奈は、浅倉先生の最後の直弟子なんだ。彼の画技が絶えるなんて、お前も望まないだろ? だから今は、少しだけ耐えてくれ。頼む」 志保と相談するような口調で話したが、啓介の言葉から見れば、一切の譲歩はなかった。 志保は、彼のキスから顔を背けた。胸の奥に広がるのは、言葉にできないほどの虚しさだった。 ……だったら、自分は? 玲奈の名誉を守るために、自分は命を削ってきた絵まで差し出せというの? 彼女の人生の公平は、誰が守ってくれるの? そこへ再び啓介のスマホが鳴った。秘書からだった。 彼は視線を逸らしながら、そっと志保を部屋の外へ押し出した。 「ちょっと電話してくるから、気持ちを落ち着けておいて。何かあったら、ちゃんと俺に言うんだよ」 第9話 志保は頬の涙をぬぐい、啓介の容赦ない態度に背を向けた。 一度啓介が決めたことは、誰にも覆せない。 寝室に戻った志保は、かつて啓介と贈り合ったプレゼントや手紙、写真を黙々とまとめ、すべてを燃やして処分した。 その後、ネットで人目につかない郊外の病院を探し、翌朝早くの中絶手術を予約した。 午前五時にアラームをセットし、専属医がまだ眠っている間に、志保は一人で家を出た。 狭い手術室で、医師は何度も「本当に中絶してよいのですか」と尋ねてきたが、志保は歯を食いしばってうなずき続けた。 無機質な器具が体内を容赦なくかき回すたび、志保の頬には静かに涙が伝った。 手術はすぐに終わった。 志保は力ない声で、取り出された胎児を瓶に入れてほしいと、医者に頼んだ。 それは、彼女が去る前に啓介へ残す「最後の贈り物」だった。 青ざめた顔で自宅に戻ろうとしたところ、門の前にはすでに大勢の記者が待ち構えていた。 「あなたはT.シホさんですよね!なぜ石川社長の家にいらっしゃるんですか?あなたは精神疾患を患っていて、レーナさんに濡れ衣を着せたと、石川社長が発表しましたが、それは本当ですか?」 「お二人ともかつて浅倉先生の弟子だったそうですね?でも今ではレーナさんは時の人、T.シホさんは表舞台から消えている……その妬みが、今回の発言の動機では?」 「寿宴でレーナさんを湖に突き落としたという目撃情報があります。殺意があったのでは?ご説明いただけますか?」 マイクを突きつけられ、無数のフラッシュが目に刺さる。 中絶手術直後の志保の身体は限界に近く、視界が揺れ、下腹部の鈍い痛みとともに、生暖かい液体が流れ出す感覚があった。 そのとき、群衆をかき分けて玲奈が現れ、志保の目の前にいきなり膝をついた。 「志保……ずっと私のことを嫉妬してたよね……先生の寿宴で殺そうとして失敗して、今度はネットで私を吊るし上げて…… もう、どうすれば許してもらえるの?お願い、どうか私をこれ以上追い詰めないで……」 そう言って、玲奈は志保に向かって何度も何度も額を打ちつけた。 その混乱の中、ようやく啓介が警備員と共に駆けつけ、棒を振り回して記者たちを追い払った。 彼は額が腫れた玲奈を抱き起こし、そのまま横抱きにして抱え上げた。 「玲奈……どうしてこんな無茶を……!すぐに病院へ行こう!」 去る前、啓介は志保の方を一瞥した。 彼女の顔色は、血の気がすっかり引いていた。 だが状況が状況だ。志保は我慢強く優しい女だ。きっと理解してくれる。 彼は足早に言い残す。 「先に部屋で休んでてくれ。すぐ戻るからな」 そのまま、一瞬の迷いもなく踵を返して去っていった。 志保はその場に崩れ落ち、啓介が大勢の人間を従えて玲奈を連れ出す様子を見送りながら、胸がぎゅっと締めつけられた。 ちょうどその時、彼女のスマホが鳴った。 先に設定していたカウントダウンの終了通知だった。 ――七日間の期限が来た。もう、離れる時だ。 そこに、黒いスーツ姿の男たちが現れ、志保を丁寧に持ち上げた。 「お嬢様、旦那様のご命令で、お迎えに参りました」 先頭に立つのは、執事の野中だった。 彼は志保の肩にそっとコートをかけ、落ち着いた声で言った。 「お嬢様のご指示通り、『偽装死』の準備は万全です」 志保は静かに頷いた。 「ありがとう、野中さん。まずは、おじいさまに会いに行きましょう」 去る前、志保はリビングの机に二つのものを置いた。 鼻の奥がつんと痛むのをこらえ、三年間の想いが染み込んだこの家を、志保はそっと振り返った。 そして、静かに背を向けて歩き出した。