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散りゆく華に夢は醒めず
結婚して五年目。深村直樹(ふかむら なおき)に愛人ができ、その女は妊娠した。 「智美はつわりが辛くて、酸っぱいものが食べたいんだ」 それ...
Chương (1)
第1章
結婚して五年目。深村直樹(ふかむら なおき)に愛人ができ、その女は妊娠した。
「智美はつわりが辛くて、酸っぱいものが食べたいんだ」
それ以来、立花青子(たちばな あおこ)は朝六時に起き、出来立ての梅のシロップ煮を作るようになった。
「智美(ともみ)は妊娠線が怖いから、新鮮なバラの入浴剤で毎日入浴したいって」
そうして、プライベートローズガーデンのバラは、青子の指先に刻まれた無数の傷と引き換えに摘まれた。
「智美は最近情緒が不安定で、お前のことをやきもち焼いてばかりいる。まずは偽装の離婚協議書にサインしてくれないか?彼女をなだめるためだ」
青子はカバンの中の検診結果を奥へ押し込み、顔色ひとつ変えずに署名した。
だが今回は、偽の書類を本物とすり替えたのだ。
第1話
結婚して五年目。深村直樹(ふかむら なおき)に愛人ができ、その女は妊娠した。
「智美はつわりが辛くて、酸っぱいものが食べたいんだ」
それ以来、立花青子(たちばな あおこ)は朝六時に起き、出来立ての梅のシロップ煮を作るようになった。
「智美は妊娠線が怖いから、新鮮なバラの入浴剤で毎日入浴したいって」
そうして、プライベートローズガーデンのバラは、青子の指先に刻まれた無数の傷と引き換えに摘まれた。
「智美は最近情緒が不安定で、お前のことをやきもち焼いてばかりいる。まずは偽装の離婚協議書にサインしてくれないか?彼女をなだめるためだ」
青子はカバンの中の検診結果を奥へ押し込み、顔色ひとつ変えずに署名した。
だが今回は、偽の書類を本物とすり替えたのだ。
……
青子が到着した時、彼女の夫である深村直樹は、愛人・林智美(はやし ともみ)の胎内にいる赤ちゃんに一生懸命話しかけていた。
智美は直樹の膝の上に座り、親しげに彼の首に腕を回している。
直樹の片手が、女の膨らんだお腹にそっと触れた。その口調は限りなく優しかった。
「いい子だ、早く大きくなっておくれ。生まれたら、お父さんと一緒にお母さんを守ろうな、いいか?」
智美は照れくさそうに言った。「まだ生まれてもいないのに、男の子か女の子か、どうして分かるの?」
直樹は笑いながら彼女の鼻を軽くつまみ、目尻を下げて甘やかすように言う。「息子でも娘でも、俺の一番可愛い子に変わりはないさ」
二人の戯れ合う様子を眺めながら、青子の表情は静まり返っていた。心の内も、もはや揺るがない。
彼の心痛、彼の寵愛、彼の気遣いや優しさの全てが智美に注がれている光景を、何度も見すぎた。青子の心は、痛みからすっかり麻痺へと変わっていた。
だから、もうどうでもよかったのだ。
智美が昼寝した後、ソファに座って待つ青子を直樹は一瞥した。
男の淡い琥珀色の瞳は、たちまち冷たさを帯びた。
「智美は最近情緒が不安定で、お前のことをやきもち焼いてばかりいる。まずは偽装の離婚協議書にサインしてくれないか?彼女をなだめるためだ」
青子は顔を上げ、じっと彼を見つめた。やがて、まるですべてを受け入れたかのような、諦観に似た笑みを浮かべて言った。「ええ、いいわよ」
すると、書類が一枚、ぞんざいにテーブルに放り出された。
青子のあまりにも平静な眼差しに、直樹は眉をひそめ、言葉を続けた。「誤解するなよ。これは偽の書類だ。離婚はあくまで見せかけだけだ」
「智美が出産したら、俺の子供はお前の子供でもある」
その言葉に、心が死にかけていても、青子の目には涙が浮かんだ。彼女は歯を食いしばって、それを堪え込んだ。
青子が二十三歳で直樹に嫁いだ。
二人は政略結婚だった。元々、深い愛情があったわけではない。
しかし、ある大火事が青子のすべてを焼き尽くし、彼女の両親を奪い去った。
あの時、青子のそばを離れず、彼女を救い出し、支えてくれたのは直樹だった。
周囲がこぞって見捨てようとしたその時、彼は、肉親を失った苦しみの深淵から彼女を引き上げてくれたのだ。
だが、誰が想像できただろうか。
五年後、その彼自身が立花青子にとって新たな深淵となるとは。
結婚して五年、青子はどうしても子供を授からなかった。数えきれないほどの検査を受け、薬や民間療法も試したが、すべて無駄に終わった。
そうして直樹は浮気を始めた。
わずか二ヶ月で、彼の秘書兼愛人である女は、みるみる妊娠し、彼の寵愛を一身に受けるようになった。
直樹が彼女を溺愛するだけでなく、直樹の祖母や両親さえも、智美の存在を暗に認めていた。
可愛い赤ちゃんが家に迎えることを、彼らは心の底から望んでいた。青子にできなかったことを、智美が成し遂げたのだから。
当初、青子は泣き叫び、結婚写真を叩き割り、結婚指輪を投げ捨て、智美に関わるすべてを消し去ろうとした。
首に刃を当てて、直樹に智美の元を去り家に戻るよう脅したことさえある。
しかし、周囲は皆、彼女に言った。男の浮気など珍しくもない、いや、むしろ彼女の腹が役に立たないことを暗にほのめかし、後ろ盾のないことを匂わせた。
彼らは言うのだった。
直樹がまだ青子を愛している限り、子供一人くらいどうということはない、彼女はあくまで深村夫人であり、その地位を揺るがす者などいない、と。
青子は、見ているのが辛くなるような笑みを浮かべた。
「愛?本当に愛していたなら、どうして他の女に子供を産ませたりするの?私を深村夫人だと思っているなら、どうしてあの偽装の離婚協議書なんてものが出てくるの?」
だからこそ、直樹が智美の咳払いに気を取られた隙に、青子は彼が投げつけた偽の書類をこっそりと本物にすり替えたのだった。
「直樹、後悔しなければいいわ。これからは、もう二度と会わないで」
心の中でそう念じながら、彼女は手際よく名前を書き記した。
そして青子は、智美を抱きながら寝かしつける直樹の姿を深く見つめると、踵を返した。
「待て、行くな……」
第2話
直樹の低く重い声が、青子の足を止めた。
男は冷たく命じる。「智美が腰痛で寝つけない。お前、来い」
青子は驚いた。「彼女の腰痛が、私と何の関係があるの?」
「お前、以前よくおばあさまのマッサージをしてただろう?お前の手つきが一番いいんだ。智美のマッサージをしてやれ」
その言葉に、青子は怒りで笑いが込み上げた。「直樹、つまり彼女は目上の方よりも偉いと?私が彼女に仕えろと?」
次の瞬間、直樹は怒りを帯びた。
「青子、なぜそんなに意地汚いんだ?智美は何しろ妊婦だ。ケアと気遣いが必要なんだ。マッサージくらいしたらどうした?」
そう言うと、彼はもう一度、行くよう命じた。
積もり積もった怨念が胸の奥で渦巻く。青子は手に持った離婚協議書を見つめ、ためらうことなく背を向けた。
もう離婚したのだ。恥知らずな愛人の世話をする理由などない。
かつては、直樹の情と、深村家が自分を受け入れてくれた恩義にすがって、彼女は黙って耐え、何度も自分に妥協するよう言い聞かせてきた。林智美が子供を産むまで待てば、すべてが終わると。
だが、直樹が智美を喜ばせようと、離婚協議書を突きつけたあの瞬間、たとえ偽物だと分かっていても、自分が完全に負けたことを悟ったのだ。
直樹は子供のためだけでなく、智美に本気で心を奪われている。
だから、子供も、直樹も、彼女はもういらない。
階段口にたどり着く前に、スーツ姿の男たちが数人、駆け寄って彼女の行く手を遮った。
「奥様、旦那様がお戻りになるようおっしゃっております」
断る間もなく、男たちは「どうぞ」と手で促す。
青子に抵抗する力はなく、またしても直樹の部屋へ引き返した。
そこには、涙を浮かべた智美の姿だ。
直樹の叱責が容赦なく浴びせられる。
「言っただろう?智美が腰を痛めて、お前のマッサージが必要だって。青子、お前は本当に図に乗ってきたな」
青子は聞いているのも嫌で、一刻も早く離れたかった。
だから、袖をまくり上げると、智美の方へ歩み寄った。
「横になって」
三十分ほど経つと、青子は痛んだ手首を揉みながら、無表情で直樹を見た。「これでいい?」
だが直樹は智美の方を見た。彼女がほんのわずかに眉をひそめただけなのに、直樹は沈んだ声で言った。「続けろ」
さらに一時間。青子の手首は刺すような痛みで震えていた。
片方の手を離して休めようとしたその時、智美が突然、鋭い悲鳴を上げた。
直樹が猛然と駆け寄った。「どうした?智美?」
智美の目は真っ赤に染まり、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。青子を恨めしそうに見つめながら、彼女は言う。「青子さん……私のこと、嫌いなのは分かってます。マッサージしてくれって言ったのも、直樹が私を気遣ってのことですから……でも、どんなに怒っても、私のお腹を押さなくてもいいじゃないですか?赤ちゃんは何も悪くないのに……」
「えっ?私そんな……」
一瞬で直樹は激怒し、青子をぐいと突き放した。その表情は暗く沈んでいる。
「青子……よくもそんな真似ができるな!生まれてもいない子供に手を出すとは?お前、良心はあるのか?」
青子が説明しようとしたが、その時、智美の方からうめき声が漏れた。
「直樹……お腹が……痛い」
第3話
直樹の顔色が一瞬で変わった。智美を横抱きにすると、そのまま外へ向かって歩き出した。
丁度出口を塞ぐ位置にいた立花青子。
「どけ!」
乱暴に押され、彼女の肩がドア枠にぶつかった。鋭い痛みが走り、思わず息を呑む。
顔を上げた時には、直樹の背中は部屋の奥深くに消えていた。
青子は肩を押さえ、心に溢れかえる苦さを必死に飲み込んだ。
「大丈夫……離婚の手続きが済むまであと三十日。あと少しで、完全に解放されるんだから……」
青子は放心状態で外へ出ようとした時、直樹の二人の護衛が揃って彼女の行く手を遮った。「夫人、旦那様がおっしゃいました。お戻りになるまでお待ちくださいと。林智美様がご無事と確認されるまで、お帰りになれません」
青子は時計を見て、怒りを瞳に浮かべた。
「どいて。私には大事な用事があるの」
だが、護衛の屈強な腕が、彼女を無理やり押し戻した。
数分後、彼らに連れられて青子が到着したのは、直樹の別荘だった。
直樹が玄関先に立ち、表情は暗雲立ち込めるほどに険しい。「智美が流産の危険があったんだ。赤ちゃんを危うく失うところだった。これがお前のやったことだ」
「直樹、彼女が演技してるのが分からないの?わざと私を陥れようとしてるのよ。私がどんなに狂ってたって、子供の命を弄ぶような真似はしないわ」
直樹の表情は幾度か揺れ動いたが、最後に冷たく言い放った。
「それがどうして分かる?」
青子の、すでに麻痺していた心臓が、一瞬で針で刺されたように激しく疼いた。
以前なら、彼は無条件に彼女を信じてくれた。
でも今は……
智美の稚拙なでっち上げを。
ただ彼が彼女を愛しているがゆえに、目も心も見えなくなっているのだ。
青子は首を振り、声にならない笑いを漏らした。「もういいわ。あなたが信じようと信じまいと、どうでもいい。私には大事な用事があるの。行かせて」
「待て!」
直樹は青子の手首を掴んだ。「行かせるわけにはいかない。今回の件で、お前にもしっかり教訓を刻み込んでやる」
そう言うと、彼は青子の手を強く引っ張り、別荘の地下室へと引きずり込んだ。
「智美は静養が必要だ。一週間、ここから出ることは許さん。彼女の気が済むまでな」
暗闇に包まれた空間を見た瞬間、恐怖が青子の脆い心臓を直撃した。
あの大火事の時、青子を守ろうとして、両親は彼女を浴室に閉じ込め、濡れた布団で全ての隙間を塞いだのだ。
あの夜、彼女は暗く閉ざされた空間に閉じ込められ、扉一枚隔てた向こうで燃えさかる炎の中、両親の骨がはぜるような音を、まざまざと聞かされたのだ。
それ以来、青子は重度の閉所恐怖症に苛まれてきた。
たった一目見ただけで、その見慣れた暗黒に彼女は恐怖で震え、慌てて哀願した。
「やめて、やめて……直樹、お願い……ここは嫌よ」
しかし男は怒りで正気を失っており、彼女の悲痛な懇願など耳に入らない。
直樹は青子をぐいと中へ押し込み、重い木の扉をゆっくりと閉ざした。
青子の目の前から、最後の光が完全に消え去った。
彼女は痙攣する胃を押さえ、苦しそうに床に崩れ落ちた。
第4話
青子は夢を見た。
辺り一面の炎。二つの温もりが彼女を必死に抱きしめ、灼熱の焔から守っていた。
かつて愛らしかった母の顔が、焼け焦げるにつれ、肌がひとかけらひとかけら黒く剥がれ落ち、無残な肉を露わにしていく。
父の大きな背中は、彼女を守るため、引き裂かれるような痛みに耐えていた。硬い骨と肉が、炎の中で「じゅうじゅう」と音を立てている。
濃い黒煙が喉に流れ込む。
青子はまるで鋭い刃で切り裂かれたように、涙が雨のように流れるほどの痛みを感じた。
気がつくと、彼女は目を見開いていた。周囲は漆黒の闇。
窒息感が全身を襲い、閉所恐怖症が再び発作を起こした。
必死に意識を保ちながら這い上がり、ドアの傍までたどり着く。最後の力を振り絞って、ドアを叩いた。
だが、手のひらが真っ赤になるまで叩き続けても、その扉は微動だにしなかった。
青子は狂ったように指先で狭い隙間をかきむしり、ほんの少しの息をつく間を求めようとした。
無力感は絶望へと変わり、十本の指は血と肉でぐちゃぐちゃになった。
結局、泣きながら傷だらけの指で、直樹にメッセージを送るしかなかった。
【直樹……私が悪かった。お願い……出して……】
しかし、メッセージの前の送信マークがぐるぐる回り続け、ついに【送信失敗】と表示された。
その時、またもやめまいが襲ってきた。青子は床に丸まり、苦しそうに体を抱きしめた。
「来ないで……来ないで……置いていかないで……お母さん……お父さん……置いていかないで……」
彼女の声は次第に弱まり、やがてかすれた嗚咽へと変わった。
……
青子は、光の射さない地下室で三日を過ごした。
ようやく、光がドアの隙間から差し込んできた。
救いを得たと思い、涙で濡れた顔で彼女は這い寄った。しかし、逆光の中に立っていたのは、食事を運びに来た家政婦の田中だった。
「出して……お願い……出して……」
ところが、田中は腕を組み、見下すように彼女を睨みつけた。
冷笑が漏れた。
「奥様、そのお姿、まるで野良犬のようじゃありませんか。どうやらこのお屋敷にも、もう長くはいられそうにないですね。間もなく林様が新しい深村家の奥様になられることでしょう」
智美が彼女の結婚生活をめちゃくちゃにしただけでなく、家の使用人までをこれほど図々しくさせている。
青子はその瞬間、深い悲しみに襲われた。
しかし、彼女はすでに暗闇に精神をむしばまれ、崩壊していた。
無力で弱々しく田中のズボンの裾をつかみ、呟くように言った。「お願い……出して……置いていかないで……」
ところが、田中は憎悪に満ちた目で彼女を見下ろすと、青子の胸元を思い切り蹴りつけた。
「奥様、林様がおっしゃいました。彼女の気が済むまで、あなたはここから出てはいけないと。ですから、奥でゆっくり反省なさってくださいな!」
ドスン!
鈍い音と共に、青子は階段を転がり落ちた。後頭部が壁に激しくぶつかった。
第5話
一週間後、地下室の扉がようやく開かれた。
直樹は目の前の光景に思わず息を呑んだ。
青子は部屋の隅に縮こまり、髪はぼさぼさで顔は垢まみれだった。後頭部の髪は生臭い血で固まり、黒ずんだ塊になっている。
彼女の瞳は虚ろで光を失っており、直樹が何度か呼びかけても、まったく反応を示さなかった。
罪悪感と胸の痛みで直樹は眉をひそめ、青子をそっと抱き上げて地下室から連れ出した。
外に出たところで、智美とばったり出くわした。彼女の目には心配の色がにじんでいる。
「直樹、青子さん、ご無事ですか?」
直樹は首を振り、彼女の横を素通りした。
その後数日間、直樹は青子のそばを離れず、付きっきりで世話をした。
おそらく罪悪感からだろう。あるいは、青子のあまりにもおびただしい状態に衝撃を受けたのかもしれない。
いずれにせよ、彼の胸の奥にはかすかな悲しみが漂っていた。
薬物の効果と心理カウンセラーの治療により、青子はゆっくりと回復していった。
ある日、直樹が点滴に付き添っていると、青子はまたしても悪夢にうなされて飛び起きた。
「やめて!」
直樹が慰めようと近づいたその時、病室のドアが智美によって押し開かれた。
彼女は大きなお腹を突き出し、腕にはユリの花束を抱えている。
「青子さん、お見舞いに参りました」
直樹は青子をなだめようと差し出した手をゆっくりと引っ込め、代わりに智美の方を歩み寄って支えた。
「智美、妊娠中だろう?どうして一人で来たんだ?また流産の危険があったらどうする」
智美は気遣うふりをしてベッドサイドに近づき、青子の手を握った。
「青子さんが地下室でおびえて、精神的に不安定だと聞いて……心配で眠れなくて、つい来てしまいました」
その偽りに満ちた、吐き気を催すような顔を見つめながら。
青子は彼女が抱えるユリの花束に目をやり、冷たく手を引っ込めた。声には氷のような冷たさがあった。
「そんな芝居は結構よ。見てるだけで吐き気がする。私が花粉症だって知らないの?花なんか持ってきて」
彼女は花粉症で、花に触れると全身に蕁麻疹が出る。ひどい時には呼吸困難や嘔吐を引き起こす。
だが、直樹は気に留めなかった。
智美の悪意は計算されていたのだ。
智美は硬直し、直樹を泣きそうな目で見つめた。「直樹……知らなかったの。私、善意で来たのに……青子さんに誤解されちゃった」
直樹の心にわずかに残っていた青子への憐れみは、一瞬で消え去った。彼女を見る目に再び冷たさが戻る。
「智美は善意だ。何をそんなに意地悪なんだ?こんな大きなお腹を抱えてまで、わざわざお前を見舞いに来ているというのに」
青子はうつむき、もはや彼と議論する気すら失せていた。「直樹、どうでもいいわ。私、もう帰っていい?」
直樹は数秒間呆然とし、やや躊躇いながら言った。
「どこへ行くんだ?送っていくぞ」
青子は布団を蹴り、足を床に下ろす。足の裏に冷たい感触が伝わる。
「あなたには関係ないわ」
そう言うと、青子は直樹を押しのけた。
彼女には、まだ果たしていない最も大切な用事があった。
無言で去ろうとする青子を見て、直樹はかんしゃくを起こした。青子の後を追いかけながら言う。「お前、まだ体調が良くないだろう?一体何をしに行くんだ?ここで大人しくしていられないのか?わがままにも程があるぞ」
青子は、苛立ちを隠そうともしない直樹の非難の表情をまともに見つめた。
深く息を吸い込む。
「私の体調が悪いのは……誰のせいだと思う?」
直樹はその言葉に少し間を置き、やがて軽く言い放った。「智美を流産の危険にさらしたのはお前だろう?結局はお前が悪いんだ。だから罰したまでだ」
「ふん……そうね。罰はもう十分受けたわ。彼女のお腹を押したって言うなら、それも認める。それで、もう行ってもいい?」
以前の青子なら、少しでも理不尽を感じれば、直樹に食い下がって騒いだものだ。
だが今日はどうしたことか、彼女の目には一切の未練もなかった。
冷静すぎて、直樹の胸の奥でかすかにざわめく不安を呼び起こした。
直樹はうつむき、複雑な表情で彼女を見つめた。「せめて智美に謝ってから行け。わざわざ見舞いに来てくれたのに、お前の態度はなんだ?」
すると、青子はくすりと笑い、くるりと病室に戻っていった。
第6話
青子は智美の前に立ち、九十度に腰を折って深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。本当に申し訳ありません。あなたのお腹を押したり、お怒りに触れたりするべきではありませんでした」
智美は仰天した。「青子さん?どうなさったんですか?私がこんなこと受けていいわけないじゃないですか。まだ私のことをお怒りなんですか?謝るべきはこちらの方です」
青子は答えず、直樹の方を向いた。「これでいいわね?」
直樹の表情に不安がよぎった。「ああ……じゃあ、俺がついていって……」
その言葉が終わらないうちに、智美が胸を押さえて空嘔きをした。直樹の顔色が曇り、視線は青子を素通りして智美に釘付けになった。
「智美?どうした?」
彼が自分に背を向ける様子を、青子は涼やかな笑みを浮かべて見つめた。
両親が亡くなってから、毎年直樹は彼女を供養に連れて行ってくれた。だが、今年はもう無理だろう。
青子は無表情で彼の横を通り過ぎた。
直樹が青子の手を掴もうとした手は、かすかな空気だけを掴んだ。
病院の外で、青子はタクシーを拾い、墓地へと直行した。
ちょうどその時、空はしとしとと小雨を降らせ始めていた。
稲妻が一閃し、空は重苦しいほど陰鬱だった。
傘を持っていなかった青子は、両親の墓石の前に立ちつくした。雨は次第に激しさを増していく。
「お父さん、お母さん……ごめんなさい。幸せに生きることができませんでした。でも安心してください。もうすぐ、こんな日々から抜け出せますから」
両親の墓前で泣きたくなかった。しかし、長く積もり積もった屈辱が、津波のように彼女を飲み込んだ。
結局、青子は溢れ出る涙を止められなかった。
別荘に戻った時、青子は直樹の寝室の前を通りかかった。
ドアの隙間から温かな明かりが漏れ、直樹の優しく諫める声が聞こえてきた。
「智美、ダメだ。お前、妊娠中だろう?」
「大丈夫よ、優しくしてくれれば……欲しいの。それに調べたんだけど、妊娠中も適度な運動は赤ちゃんにもいいんだって……」
間もなく、あえぎ声と甘えた声が途切れ途切れに響き始めた。
青子は淡々と視線を外し、寝室を無視して客室へと歩を進めた。
数日後、雨に濡れたせいか、青子は高熱を出し続けていた。
何度も注射を打たれたが、なかなか治れなかった。
ある日、彼女はベッドでうつらうつらしていた。見る夢は、両親の死の光景だったり、直樹が智美のために自分を罵倒する姿だったり。
彼女が目を覚ましたのは、けたたましい呼び出し音のせいだった。
頭痛をこらえながら、青子は電話に出た。
受話器の向こうから聞こえたのは、直樹の焦燥に駆られた声だった。
「青子、どうしたんだ?何十回も電話したぞ?お前、全然出ないじゃないか」
直樹が自分のことを心配して怒っているのだろうと、青子は一瞬思った。
しかし、次の一言が、青子の馬鹿げた妄想を完膚なきまでに打ち砕いた。
「智美の具合が悪いんだ。今日は俺とおばあさまが寺参りで、執事の山下さんも連れて行った。家政婦も休みだ。お前、代わりに智美を病院に連れて行ってくれ」
青子の全身は鉛のように重く、声さえ震えていた。
「家に他に使用人はいないの?私が行かなくちゃいけないわけ?」
断ろうという言葉が喉まで出かかったその時、電話の向こうから直樹の祖母の冷たい叱責が聞こえた。
「子供も産めないくせに、直樹に仏様のように崇められたいとでも?智美の体をちゃんとお世話するのが当然よ。そうでもしなきゃ、深村家にいる顔なんてないでしょう?外に知れたら笑いものよ」
嘲弄の言葉は、青子をまったくの無価値な存在のように貶めた。
まるで、生殖能力を失ったことが、深村家における彼女の罪であるかのように。
直樹もそれに続いた。「青子、智美は妊婦だ。お前が少し気を遣ったって、死ぬわけじゃあるまい。早く行け。俺を怒らせるな」
ツー……電話は切れた。
その時、智美が青子の部屋のドアをノックした。
青子は思わずカレンダーに目をやった。あと三日。もう少しだ。あと少しだけ耐えればいい。
「行きましょう。病院に連れて行くわ」
ところが智美は困ったような顔をした。「青子さん……足がむくんでしまって、歩けないんです。すみませんが、背負っていただけませんか?」
青子は鼻で笑った。「背負う?それでまた直樹に『私のお腹を押した』って言いふらして、土下座させられるの?」二度と同じ罠にはかからない。
そう言うと、青子は白い目を向けた。「行かないならそれでもいいわ」
バタン!彼女はドアを閉めた。
夕方まで眠り続け、青子はようやく目を覚ました。
熱はまったく引いておらず、喉は煙が出るほど乾いていた。起き上がってリビングに水を飲みに行く。
その時、直樹が帰宅した。
青子がコップを唇に運ぼうとした瞬間、彼が一歩踏み込んで来て、彼女の手からコップを奪い取ると、床に叩きつけて粉々にした。
「青子……この性悪女め!なぜ智美を病院に連れて行かなかったんだ!お前のせいで……彼女に何かあったんだぞ!!」
第7話
直樹は激怒し、青子が薄手のパジャマ姿であることすら構わず、彼女の腕をぐいと掴み、外へ引きずり出そうとする。
「ひっ!」
激しい引っ張りで彼女のスリッパが脱げ、鋭いガラス片が足の裏に刺さった。
「直樹、ちょっと待って……!」
しかし彼は彼女の抵抗など全く意に介さず、怒りに任せて引っ張り続けた。
青子は一歩踏み出すたびに、刃の上を歩くような痛みが走った。
車に乗り込んだ時、彼女の足は血まみれで、ガラス片は肉の奥深くに食い込んでいた。
彼女は歯を食いしばって怒鳴った。「直樹、あなた、気は確かか!?」
直樹はルームミラーで彼女を睨みつけた。その目には怒りが渦巻いている。
「お前、今日こそ俺と智美にきちんと釈明しろ」
すぐに病院に着いた。VIP病室には人がいっぱいだった。
青子が一瞥すると、深村家の主立った人間が勢揃いしている。
彼女をここまで引っ張ってきたのは、まさしく詰問するためだった。
直樹の祖母が真っ先に不快感をあらわにし、手にした杖を「トン、トン、トン」と床に叩きつけた。
「まったくもってけしからん!智美が二度も流産の危険にさらされるとは!立花青子、あなた、一体どういうつもりで世話をしていたんだ?」
青子は心底呆れ返った。「何ですって?私は深村家の家政婦ですか?彼女の世話?厚かましくも家に上がり込んだ愛人の?」
この言葉が智美の痛いところを突いた。
彼女の顔色は一気に青ざめ、骨のないようにふにゃりと直樹の胸に倒れ込み、泣き始めた。
「青子さん……私、あなたがそんなに私を嫌っていらっしゃるなんて……ごめんなさい、ごめんなさい……私、直樹とあなたの間に割って入るべきじゃなかった……」
そう言うと、彼女は虚弱な体を必死に起こして去ろうとした。
この一連の行動に深村家の面々は仰天し、口々に止めようとした。
「智美、そんなに興奮したらダメだ!お腹の子が心配だよ!」
「そうだよ、落ち着いて、体が大事だ。彼女みたいに子も産めない女とは違うんだからな。まったくもって罪作りだ」
直樹の妹も口を挟んだ。「そうよ、智美、怖がらないで。私がついてるから。立花青子は両親が早死にしたから、ろくに躾もされてないんだ。あんな者を相手にするなよ」
これまでの侮辱や嘲笑は、青子にとって痛みを伴わなかった。何度も聞かされ、何度も傷ついてきた。
心の傷はすでにかさぶたになっていた。
しかし、彼女の両親は彼女にとって譲れない一線だった。
「その汚い口、もう一度言ってみる?引き裂いてやるわよ?」
「立花青子!俺の妹にそんな口の利き方があるか!お前、本当に増長しすぎだ!」
直樹の妻として、目上の者を無視するこの態度は、直ちに彼の面目を潰した。
直樹の怒りが爆発した。
「謝れ!俺の妹と智美に謝罪しろ!」
深村家の全員が冷ややかに見つめる中、青子は彼らの顔を見渡し、心が少しずつ締め付けられるように痛んだ。
両親を亡くして以来、彼女は自分が孤立無援であることを痛感していた。
だから深村家では、彼女は従順でおとなしい嫁だった。家族に必死に気に入られようとした。
祖母が仏参好きだと知れば、誠意を見せるため、百九十九段の石段を額づいて登り、お守りを求めてきた。
直樹の妹が美容好きだと知れば、イタリアまで飛んで、高級ブランドのバッグや服を買い揃えてきた。
直樹の母が茶道好きだと知れば、他の町に飛んで、二十度を超す炎天下で自ら茶葉を摘み、製茶してきた。
あまりにも多くのことをしてきた。
彼女はこの家族のために、ありったけの心を尽くしてきたのだ。
それなのに、報われたのはこの冷淡な光景だった。
青子はその場に凍りつき、心は枯れた花のようだった。
直樹は祖母と妹の顔に薄ら怒りが浮かんでいるのを見て、青子のそばに歩み寄った。
片手を彼女の背中に押し当てる。「早く謝れ。俺の妹は口が軽いのは分かってるだろう?少し余計なことを言っただけだ。目上の者を敬うのは当然だ」
そう言うと、青子は無理やり体を折り曲げられ、またしても九十度の深いお辞儀を強いられた。
しかし今回は、彼女は従わなかった。青子は直樹を激しく押しのけた。
不意を突かれた直樹はよろめき、危うく床に尻餅をつきそうになった。
「どけ!私が謝るいわれなんてあるもんか!彼女を尊敬すべきなのは、彼女が私を尊重するのが前提でしょうが!」
直樹の祖母の顔色は険しく、声は突然鋭くなった。
「全くもってけしからん!目上を無視しおって!親の躾がなってない証拠だ!家法で罰を与えよ!」
「何ですって!?」
周知の通り、深村家の家法は厳しい罰則で知られており、本当に重大な過ちを犯さない限り、発動されることはなかった。
直樹は頑なな青子を見て、一瞬だけ後悔の念がよぎった。
彼女を連れてきたのは、服従の姿勢を見せて、少しでも態度を改めさせたかっただけだった。
しかし、彼女は別人のように豹変し、自分の妹や祖母に真っ向から逆らうとは予想だにしていなかった。
祖母の決定は下った。もはや協議の余地はなかった。
第8話
棘のある藤蔓が、青子の背中を容赦なく叩きつけた。
瞬間、鋭い棘が数本の深い血溝をえぐり、血がどくどくと湧き出た。
それでもなお、青子は歯を食いしばり、死んでも謝ろうとしなかった。
ビシッ!
さらにもう一鞭。皮膚と肉がめくれ上がり、血痕が目を覆いたくなるほど痛ましい。
彼女が顔を上げ、深村家の醜い面々をじっと睨みつける。「死んでも謝らないわ。私の両親を侮辱させない。それに林智美なんて、愛人の分際で私が世話する価値があるとでも?」
「悔い改める気など微塵もないか!」
この一撃は前よりもさらに苛烈だった。棘が引っかかる際に、青子の肉の一片をそぎ落とした。
彼女はついに堪えきれず、うめくような声を漏らした。
直樹は拳を固く握りしめ、眉間に慌ての色が走った。「おばあさま、もう十分です。彼女も分かって……」
しかし青子は笑った。それはあからさまな嘲笑の音だった。
「そんな偽善的な真似はやめてくれ、深村直樹。あなたの情けなどいらない。安っぽくて笑止千万だわ」
彼女は鬼のように頑なだった。
直樹の胸の痛みは笑いもの同然だった。自尊心が傷つき、彼は鼻で笑った。「青子、お前は本当に身の程知らずだな。よし、もう知らん!」そう言うと、怒りで背を向けた。
この午後いっぱい、青子は合計三十五鞭を受けた。
智美の子供が、ちょうど妊娠三十五週目を迎えたからだ。
青子がその場を離れた時は、医者に支えられてようやく歩ける状態だった。
血で完全に染まったシャツを脱がせると、薬を塗る看護師は思わず息を呑んだ。
「どうして……こんなに?お肌がひどく傷ついています……治るまで何ヶ月もかかるでしょう」
彼女の目には心配の色が溢れ、息を吹きかけながらそっと消毒液を塗布した。
「ひどすぎる……これは明らかなDVです。警察に通報すべきです」
見知らぬ若い看護師でさえ、青子にこれほどの同情を示した。
しかし直樹は、青子が罵られ、辱められ、鞭打たれるのを冷ややかに見ていただけだった。
結局、愛している時は胸が痛み、愛が消えれば心は硬くなるのだ。
骨の髄まで響く痛みをこらえ、青子は静かに口を開いた。「結構です。私は彼らに借りがあった。今、返し終えました。もうすぐ、ここを離れられます」
「離れる?どこへ行くつもりだ?」
冷たい声が入り口に響いた。
直樹が歩み寄り、青子の手首を掴んだ。
「今、離れるって言ったな?何から離れるんだ?」
もちろん、あなたから、深村家からよ。
心の中でそう答えながら、青子は淡々と直樹の手を振り払った。「もちろん病院からよ。薬は塗ってもらったから」
直樹の表情がようやく緩んだ。「ああ、そうか。お前のは擦り傷みたいなものだ。入院なんて必要なく、帰れるだろう」
その言葉に、青子はうつむいて自嘲の笑みを浮かべた。
なるほど、彼の目には、自分がこれほど打たれても単なる「擦り傷」なのだ。一方、智美が咳き込んだだけで、彼は心配し怒り狂う。
愛されなければ、何もかもが軽んじられ、間違いとされる。
「そうね、擦り傷よ。だからあなたの心配なんて、お断りね」
直樹の瞳にかすかによぎった痛みの色は、彼女の冷淡さの前で、いつもの不満へと戻っていった。
「青子……お前、今日は本当に良くなかった。他に言うことはないのか?」
「まだ何を言えばいいの?戻って林智美に土下座して謝れと?」
青子の一言が直樹の喉を詰まらせた。
しばらくして、直樹は眉をひそめ、彼女に触れようとした手を途中で引っ込めた。
「青子……今回はお前がやりすぎたんだ。おばあさまも俺の妹も、何と言ってもお前の目上の者だ。智美にだって非はない。妊婦を誰もいない別荘に置き去りにするなんて……」
「ふん……『やりすぎ』か」青子は口元をわずかに歪め、皮肉に満ちた哀れな笑みを浮かべた。
智美が現れて以来、青子は「ごめんなさい」を、もう何度も何度も言いすぎていた。
智美のつわりが辛い時、彼女が作った梅シロップを冷蔵し忘れ、智美の舌を火傷させてしまった、ごめんなさい。
たまたま智美と直樹のイチャイチャを見かけてしまい、智美の気分を害してしまった、ごめんなさい。
高熱でふらふらなのに、智美を病院に連れて行けず、彼女の流産の危険を招いた、本当にごめんなさい。
もしかすると、「ごめんなさい」では、彼女の罪を償いきれないのかもしれない。
彼らの目には、彼女は死ぬべき存在なのだろう。
かつて、自分のことを一大事にした男を見つめながら、青子の背中の痛みが、心臓を貫いた。
第9話
「どけ。言ったはずよ、死んでも謝らないって」
青子の冷たく硬い声には、かすかな失望が潜んでいた。
直樹にはそれが聞き取れず、彼女の強情さに腹を立てた。「ああ、もういい!青子、お前は強情だな!俺が余計なお世話だったよ!二度と俺に頼ってくるなよ!」
そう言うと、直樹は逆上して立ち去った。
彼が去ると、青子は思わず下腹部に手を当てた。お腹から鋭い痛みが走ってきた。
「先生……お腹が、すごく痛いんです……」
彼女はそう言うと同時に、冷や汗が止まらなかった。痛みで体が微かに痙攣する。
若い看護師は驚いて、慌てて彼女を支え、医師の診察室へと運んだ。
……
その夜、意地になって直樹は、青子からの何十本もの着信をことごとく切った。
手術が終わった青子は、独りきりでベッドに横たわり、点滴を受けていた。
冷たく刺すような薬液が、無数の刃となって血管に流れ込み、全身へと広がる。その痛みに彼女は震えた。
疲れ切っていた青子は眠りに落ちた。目を覚ますと、点滴はすでに終わっており、逆流した血液でチューブ全体が不気味な真っ赤に染まっていた。
手の甲は刺すように痛み、二筋の涙が突然こぼれ落ちた。
直樹は、結局、彼女を裏切ったのだ。
わずか一日休んだだけで、青子は別荘に戻った。
自分の寝室を見て、彼女は初めて知った。智美が安産できるように、直樹が彼女を連れてきて主寝室を占拠し、自分は客室へと追いやられていたのだ。
青子はドア枠に手をかけ、弱々しく笑みを浮かべた。
「ちょうどよかった。離れることを隠す手間が省けるわ」
そう言うと、よろよろと客室へ歩き、うつむきながら自分の荷物をまとめ始めた。
一通り見渡すと、青子の持ち物は服数着を数えるほどしかなかった。
これまで深村家で、彼女は付属物のような存在だった。だからこそ、誰もが彼女を侮ったのだ。
だが、彼らは皆忘れている。彼女がかつては輝かしい立花家の令嬢であり、家柄も容姿も抜きんでていたことを。
林智美のような女が、どうして彼女の敵であろうか。
今は昔とは違う。
青子は悟った。
もうノウゼンカズラのように誰かに寄りかかるのはやめよう。自分の天地を切り開くのだ。
荷造りを終え、青子の視線は薬指のダイヤの指輪に落ちた。
この「愛の戴冠式」を象徴する指輪は、直樹が自らデザインしたものだった。彼女が彼の女王であり、彼が自ら彼女の頭に冠を授けるという意味が込められていた。
しかし今、「愛の戴冠」などという言葉は、青子の目にはますます滑稽に映る。
結局、彼女は女王などではなく、彼らが自由に辱めるための奴隷に成り下がっていたのだ。
そっと指輪を外し、彼女はそれをベッドサイドテーブルの上に置いた。
彼らの愛を象徴する物語は、これで幕を閉じた。
階段を下りる時、家政婦の田中と鉢合わせた。彼女は日常の挨拶すら面倒くさそうに、青子の横を素通りしていった。
青子は彼女が掃除に向かおうとしているのを見て、突然、田中を呼び止めた。
「この部屋、これから掃除しなくていいわ。もうすぐ、私、出ていくから」
田中はようやくまぶたを上げた。「奥様、どちらへ?」
「旅行よ!」
青子は適当に嘘をつくと、無言で別荘を後にした。
翌朝早く、青子が出かけようとすると、玄関先で智美の声が聞こえてきた。
「私が深村家に入るために、どれだけ努力したと思ってるの?入るのは時間の問題よ。あの人?あんなの、どうでもいいわ。ただのクソみたいな出前持ちの亭主よ。どんなに愛されても、所詮は役立たず。私が欲しいのはそんなんじゃない。この子さえ生まれれば、富も名声も、まばたき一つで手に入るんだから」
……
どうやら、直樹こそが、本当に騙されていた張本人だった。
智美には旦那がいた。直樹を手玉に取り、彼は今も自分が計算されていることに気づいていなかった。
青子はくすりと笑った。
それでも、直樹のことはもう彼女に関係ない。
そう思うと、彼女は別荘に引き返し、智美が出て行くのを待ってから外へ出た。
昼過ぎ、用事を済ませて家に戻ると、直樹が智美を最後の妊婦健診に連れて行ったと聞いた。
持っていたバッグを置いたその時、直樹からの電話が鳴った。
「青子、今すぐ病院に来てくれ。智美の赤ちゃんの姿がはっきり見えたんだ。とても健康で、本当に可愛らしいんだぞ」
青子の声はよそよそしく、冷ややかに笑った。
「おめでとう。でも私は遠慮するわ。また彼女が私を見て体調を崩すといけないから」
直樹は少し間を置き、やがて、かすかな落胆を帯びた声で言った。
「青子……俺たちの子供がどんな顔をしているか、見たくないのか?」
「俺たち」という言葉を聞いた瞬間、青子の胸の内はえぐり取られるように痛み、息が詰まった。皮肉が濃厚に広がる。
「直樹、それがどうして私たちの子なの?本当に笑わせるわ」
「青子、俺の立場も理解してくれよ……お前に子供ができない以上、俺はどうすれば……。
お前は深村家の奥様だ。俺の子供はお前の子供でもあるんだ」
だが、彼が言い終わらないうちに、青子はただただうんざりした。
そんな言葉は、もう聞き飽きている。これ以上聞きたくなかった。
言い訳は山ほどあるが、どれも彼女の気持ちを完全に無視している。
だから、つまらない。
彼女は冷たく拒絶した。「結構よ、直樹。それはあなたたちの子供であって、私には関係ない。贈り物なら、とっくに用意してあるわ。家に帰れば見られるはずよ」
そう言うと、彼女はきっぱりと電話を切った。
その喜びは、彼女には無縁だった。
これからは、深村直樹もまた、彼女には無縁である。
すぐに、彼女はスーツケースを引きずりながら別荘の門を出た。そして、空港へと一直線に向かった。