流年に空しく涙尽きし時

Đang tải thông tin quảng bá...

流年に空しく涙尽きし時

GoodNovel Hoàn thành

家を出て五年目。村上莉音(むらかみ りおん)を海外に放置したまま一度も連絡を寄こさなかった父親が、突然人を遣わして彼女を連れ戻した。 ...

Chương (1)

第1章

家を出て五年目。村上莉音(むらかみ りおん)を海外に放置したまま一度も連絡を寄こさなかった父親が、突然人を遣わして彼女を連れ戻した。 彼女はついに、家族が自分という隠し子を受け入れてくれたのだと思っていた。 だが、彼女を待っているのは恋人の青山涼介(あおやま りょうすけ)が監禁されているという事実だった。莉音の父は、彼を拷問する映像を毎日彼女に送りつけ、江原家の目が見えない御曹司との結婚を強要してきた。 両手を縛られ、血まみれになった涼介の姿を見て、莉音はついにそのことに同意した。 しかし、ようやく涼介が解放されたその夜。莉音は慌てて彼に「一緒に逃げよう」と言いに来た時、彼の部屋から聞こえてきたのは姉の村上玲乃(むらかみ れの)の声だった。 「涼介、ありがとう……莉音は私の父を奪った。彼女の母親は私の母を怒らせて死なせたのよ……彼女があのとき海外に行かなかったら、もしかしたら父は彼女のために私を捨てていたかもしれないわ」 「でも彼女、あなたのことをとても好きだね。しかし五年間、彼女のそばでボディガードのふりしていたのは、全て私の復讐のためだった。そんな事実を知ったら、彼女は狂っちゃうじゃない?」 五年の付き添い、生死を共にすると思っていた彼の想いは――ただ玲乃に捧げる忠誠の証でしかなかった。 第1話 家を出て五年目。村上莉音(むらかみ りおん)を海外に放置したまま一度も連絡を寄こさなかった父親が、突然人を遣わして彼女を連れ戻した。 彼女はついに、家族が自分という隠し子を受け入れてくれたのだと思っていた。 だが、彼女を待っているのは恋人の青山涼介(あおやま りょうすけ)が監禁されているという事実だった。莉音の父は、彼を拷問する映像を毎日彼女に送りつけ、江原家の目が見えない御曹司との結婚を強要してきた。 両手を縛られ、血まみれになった涼介の姿を見て、莉音はついにそのことに同意した。 しかし、ようやく涼介が解放されたその夜。莉音は慌てて彼に「一緒に逃げよう」と言いに来た時、彼の部屋から聞こえてきたのは姉の村上玲乃(むらかみ れの)の声だった。 「涼介、ありがとう……莉音は私の父を奪った。彼女の母親は私の母を怒らせて死なせたのよ……彼女があのとき海外に行かなかったら、もしかしたら父は彼女のために私を捨てていたかもしれないわ」 「でも彼女、あなたのことをとても好きだね。しかし五年間、彼女のそばでボディガードのふりしていたのは、全て私の復讐のためだった。そんな事実を知ったら、彼女は狂っちゃうじゃない?」 五年の付き添い、生死を共にすると思っていた彼の想いは――ただ玲乃に捧げる忠誠の証でしかなかった。 …… 祠堂に閉じ込められて十五日目、莉音はついに口を開いた。「村上さんに伝えて……彼の条件、受け入れるって」 そう言い終えると、電話越しから彼女の父の歓喜の声が響いた。 「莉音、やっとわかってくれたか!安心しなさい、君は村上家の戸籍には入れないが、それでも娘として認めているさ。江原家には、盛大な式で嫁がせてやるからな……」 「娘?」彼女はふっと笑い、震える指先を必死で抑えながら冷たく言った。「私の母はあなたの妻でもないのに、私があなたの『娘』だと?」 相手の沈黙を無視して、さらに皮肉めいて尋ねた。「村上さん、『隠し子』も娘なのか?」 「莉音!」 怒りに駆られた彼の声が低く響いた。「忘れるな、あの男はまだ俺の手の中にあるぞ。あいつの命が惜しければ、結婚するまでは大人しく従うんだ!」 涼介の話を聞いた瞬間、莉音の呼吸が止まった。 「彼はどこ……彼をどうしたの!私もう江原湧仁(えはら ゆうじん)と結婚すると言ったじゃない、だからお願い、彼を放して!」 しかし、電話は無情にも切られた。 代わりに送られてきたのは、一分半の映像だった。 シャツ姿の男が血まみれで倒れ、彼女が彼のために求めた数珠のブレスレットは床に散らばっていた。 涼介は手を後ろに縛られ、目からは血の涙が流れ、ひび割れた唇が音にならない言葉を形作った。 彼は彼女を呼んでいた。 「莉音……助けてくれ……」 目の見えない男に嫁ごうと、生みの父に祠堂へ閉じ込められようと、眉ひとつ動かさなかった莉音──そんな彼女が、ただこの瞬間だけは、声を枯らして絶叫した。 使用人の手を振り払い、彼女はその場に崩れ落ちて号泣した。「私が江原家のあの目の見えない男と結婚すれば、彼を放してくれるって、そう言ったじゃないか!」 タイミングを見計らったように、彼女の父の秘書が静かにメモを差し出した。「莉音お嬢様が大人しく嫁入りするなら、村上社長は青山様にこれ以上手を出しません。今、彼に会いに行けます」 十五日前、彼女を五年間も海外に放り出し、音沙汰一つなかった血の繋がった実の父親が、人を遣って彼女を迎えに来た。 その時、莉音は喜びいっぱいで、やっと家に帰れると涼介に言った。 だが、彼女を待っているのは恋人の涼介が監禁されているという事実だった。莉音の父は、彼を拷問する映像を毎日彼女に送りつけ、江原家の目が見えない御曹司との結婚を強要してきた。 江原家と交わした婚約は、もともと玲乃のためのものだった。 だが湧仁が事故で視力を失い、後継者争いから脱落すると、莉音の父はもう一人の「娘」の存在を思い出したのだ。 涼介は、莉音の父が彼女の監視役として送り込んだボディーガード。そして彼もこの五年間、彼女の唯一の支えだった。 そして彼は、彼女の一番の弱点だ。彼女にとって、彼は命よりも大事な存在だから。 莉音は意識を取り戻し、紙を握りしめると、何も見ずに走り出した。 長期間の絶食で、ハンドルすら満足に握れず、何度も追突しかけながら目的地に到着した。 胃の痛みに耐え、震える手で口紅を塗り直し、ようやく呼吸を整えて扉に手をかけた、その瞬間―― 部屋の中から、聞き覚えのある低音が聞こえてきた。 それは涼介の声だった。女の甘い笑い声と混ざり、莉音の鼓膜を突き刺した。 ブラインドの隙間から見えるのは、あの動画の中で血まみれだった男が、今は仏前に跪き、ぼんやりした瞳に玲乃の甘い笑顔を映していた。 五年間、冷静で禁欲的だったはずの涼介が、玲乃の名前を呼びながら欲望の深みに堕ちていった。 ただ画面に映る玲乃の顔を見ただけで、すでに抑えきれなくなっていた。 「玲乃……」彼はかすれた声で呟いた。「助けてくれ、君に会いたくてたまらない……」 ビデオ通話の先で玲乃が甘ったるく笑い、嬉しそうに言った。 「涼介、やっぱり一番私に優しいのはあなただよね」 「莉音は私の父を奪った。彼女の母親は私の母を怒らせて死なせたのよ……彼女があのとき海外に行かなかったら、もしかしたら父は彼女のために私を捨てていたかもしれないわ」 「でも彼女、あなたのことをとても好きだね。しかし五年間、彼女のそばでボディガードのふりしていたのは、全て私の復讐のためだった」 「そんな事実を知ったら、彼女は痛すぎて狂っちゃうじゃない?」 ドア一枚隔てて、莉音は自分の手首を強く掴み、血のにじむ歯型がひりひりと疼いた。 それは、祠堂で彼への想いに狂い、自らの体に噛みついた痕だった。 どれほど時間が経っただろう。熱い涙が頬を伝うほど長い時間、涼介は首を硬くしたまま激情をぶつけた。そして玲乃の命令通り、莉音が自ら縫ったお守りで下半身の汚れを拭い去った。 そのお守りは、彼女の足元に無造作に投げ捨てられた。そして彼は冷たく言い捨てた。「彼女なんてどうでもいいさ。玲乃、君はわかってるだろ……この五年、俺がどれだけ我慢してきたか」 玲乃は愉快そうに笑った。「彼女、ほんとバカね。偽物の血も本物だと思って、あなたが傷ついたってだけで魂抜けたみたいな顔をして」 彼らの声が遠ざかった。 莉音は無表情でしゃがみ込み、一針一針自分で縫い上げたお守りを拾い上げた。 その瞬間、胃の奥がひっくり返るような吐き気が襲った。 彼女はもう抑えきれず、壁に手をついて嘔吐した。胆汁に血が混じり、彼女の姿がぐちゃぐちゃになった。 五臓六腑が絡み合ったように締めつけられ、呼吸すらままならなかった。 涼介と出会ったあの日は、莉音の十八歳の誕生日だった。そして、初めて村上家の門を叩いた日でもあった。 母の遺骨を抱えて村上家の前で泣き崩れた彼女は、ただ、母に墓を与えてほしかった。 彼女は光を浴びることの許されない隠し子なのだ。しかし彼女の母も、ただ騙され、感情を弄ばれた一人の女にすぎなかった。莉音の父の二人目の子を身ごもった彼女は、分娩台上で難産の末に息を引き取ったのだ。 彼女の十八歳の誕生日の願いは、ただただ支え合って生きてきた母を葬ってあげることだった。 雨に打たれ、死にかけていた彼女を抱えて村上家に運んだのが、涼介だった。 彼女の父は金を出すことに同意したが、代償として、彼女は二度と国内に現れてはならない、と涼介が教えてくれた。 彼女は全身が痙攣するほど泣きじゃくり、狂ったように彼を詰め寄った。「私もあの人の娘なのに……なぜ、なぜこんな仕打ちを受けなきゃならないの?」 熱い涙が涼介の肌に落ちた。男の息遣いが一瞬、鋭く乱れた。 彼は静かに抱きしめた。「俺がついてるよ」 彼女は信じなかった。でも翌日、彼は本当に彼女のボディーガードとして、共に海外へ旅立った。 五年の間、彼は一切の家事を引き受けた。洗濯に料理、そして自ら彼女のハイヒールを脱がせてさえ――まるで子供のように寵愛したのだ。 ただ、一度も一線を越えなかった。 彼女は彼の優しく細やかな心遣いに次第に惹かれていった。しかし莉音が酔って誘惑しようと、自ら抱きつこうと、裸になって涼介のベッドに横たわろうと、彼が数珠を回す手は微動だにしなかった。 「お嬢様」彼はため息をつき、布団に彼女をくるみながら、そのまま外へ抱き出した。「知ってるだろ?俺には俺の信仰があるんだ」 でも、彼女は聞いてしまった。閉じた扉の向こう、喉の奥で漏れる声。「莉音……莉音……」 かつて彼女は信じていた。彼は、ただ自分の信仰を超えられないだけ。待てばいいと信じていた。 だから彼女は三千段の石階を裸足で登り、血の滲む額を地に擦りつけ、祝福された数珠を手に入れた。 十指を針で貫き、血でお守りを縫った。 何枚も経典を書き、経幡を作り、仏前に捧げた。彼を救ってほしいと、ただ祈りながら。 だけど、今やっと気づいた。彼の「信仰」は、仏などではなかった。 彼が喉から絞り出したその名は、「莉音」ではなく、「玲乃」だった。 五年の付き添い、生死を共にすると思っていた彼の想いは――ただ玲乃に捧げる忠誠の証でしかなかった。 莉音は、自らを罰するように扉の前に座り込んだ。中の物音が静かになるまで。そして、震える手でドアノブを、ゆっくりと握った。 第2話 ドアを開けた瞬間、涼介はちょうど携帯を置いたところだった。 つい先ほど絶頂を迎えたばかりのせいか、いつもは冷淡な顔立ちの彼にも、珍しく赤みが差していた。 莉音の姿を見るなり、涼介は動揺して身を起こし、下半身の異変を隠そうとした。 「お嬢様……どうしてここに?」 薄い唇をきゅっと引き結び、何気ない素振りで腕の傷痕を晒しながら言った。「村上社長に、何かされたか?すべて俺のせいだ……ちゃんと守れていれば、君はこんな目に……」 いつもなら、この言葉を聞いた瞬間、莉音は泣きそうになり、すぐ彼のもとへ駆け寄って謝っていた。 三年前、街でヤクザに絡まれたとき、涼介は彼女を守るために十数人の刃物を持った男たちに襲われ、血まみれになった。 そのときでさえ、眉ひとつ動かさなかった彼を、彼女は涙ながらに押しのけ、唯一の銃を彼の手に握らせた。 怖がりで泣き虫な少女が、震える声で唇にキスを落とし、精一杯の力で言った。「涼介、私のことはいいから、早く逃げて……」 夜の闇の中で、莉音の姿は紙のように薄くて脆かった。それでも彼女は必死に歯を食いしばり、出口を塞ぎ、彼に向かって叫んだ。「早く行って!」 後に、涼介は一晩中手術台にいた。 その夜、莉音は一人で街を彷徨い、寺の石段を一歩一歩、額を地につけながら登り、彼の無事を祈る数珠を手に入れた。 だが今、傷だらけの彼を前にしても、莉音はひと言も発しなかった。 青ざめた彼女の顔に、涼介は一瞬驚きを隠せなかった。 「村上家の人間に、虐待されたのか?」 そっと手を伸ばす彼に、莉音はびくりと震え、まるで怯えた子鹿のように床に崩れ落ちた。 あの手が、ついさっきどんなことをしていたかを思い出しただけで、吐き気がこみ上げた。 彼女の異常な反応に、涼介は思わず眉をひそめた。「今日の君……どうしたんだ?」 返事はなかった。彼女はじっと彼の何もかかっていない首元を見つめていた。 「……お守りは?」 そのお守りは、以前莉音が冗談半分、命令半分で「絶対に肌身離さないで」と言って持たせたものだった。 涼介はそれを黒い紐に通し、五年間ずっと身につけていた。 だが今、莉音には、そのお守りがどこにあるか分かっていた。 彼は目を見開き、しばらく黙っていたが、ようやくかすれた声で答えた。「村上社長の部下に、奪われたんだ」 彼女が怒ると思って、必死に弁解しようとした。 だが莉音は、ただ小さく頷くと、踵を返して部屋を出て行った。 涼介は後を追い、当然のように運転席に座り、彼女のシートベルトを丁寧に締めた。 道中、彼は何度も話しかけようとしたが、彼女は目を閉じたまま、視線すら与えなかった。 村上家の邸宅に到着し、車がゆっくりと止まった。 車を降りようとしたその時、莉音のヒールが折れ、バランスを崩して倒れそうになった。 地面に触れる寸前、涼介が飛び込んで彼女を抱きとめた。 懐かしい香りが、瞬く間に彼女を包み込んだ。 心臓に長い針が突き刺さったような痛みで、反抗する力さえ失われた。 「……降ろして」冷たい声が響いた。 だが、涼介はそれに従わず、彼女を抱えたまま堂々と家に入っていった。 次の瞬間、甘ったるい声が響いた。 玲乃がソファにもたれ、レースのナイトウェアから曲線美をあらわにし、にこりと笑って言った。「莉音は、怪我でもしたの?」 その声を聞いた途端、莉音は涼介の腕がピクリと固まったことを気づいた。彼は慌てて莉音を降ろし、三歩後ずさりして彼女の背後に立ち、ボティガードとして彼女との距離を保った。 だが玲乃が現れたその瞬間から、彼の目線は彼女から離れていなかった。 玲乃は心配そうに莉音に近づき、「怪我してるなら言ってくれればよかったのに。家庭医に診せようか?」 莉音は眉をひそめ、無言で身をかわした。 そのすれ違いざま、玲乃が小指で涼介の手のひらをくすぐるのが、目に入った。 ただそれだけで、彼の耳まで赤くなっていた。 「涼介さん、顔まで赤いよ?熱でもあるの?」 無邪気に目を見開いて、つま先立ちで彼の額に額を当てた。「……うわ、熱い」 涼介は喉を鳴らし、逃げるように背を向けた。 莉音は、下半身を押さえて去っていく彼の背中を見ながら、口元に冷笑を浮かべた。 浴室を通りかかると、水音の中に、抑えたうめき声が混じっているのが聞こえた。 彼女は静かに立ち止まり、浴室のドアをノックした。「十分後、晩餐会に一緒に来て」 湧仁の婚約者になってから、父は彼女に次々とパーティーの招待状を与えてきた。 江原家の名のもと、父も彼女の存在を「娘」として認めざるを得なかったのだ。 彼女は返事を待たず、自室へと向かった。 だと言っても、村上家に彼女の部屋などなかった。 彼女の父は初めから、彼女を「娘」として認めるつもりなどなかったのだ。 目の見えない江原家御曹司と結婚させるために彼女を呼び戻したというのに、与えられたのは物置を改造した簡素な寝室だった。 村上家では、たとえ使用人でさえ、彼女よりもずっと良い部屋を与えられていた。 空っぽのクローゼットを前に、莉音は唇をぎゅっと噛み締めた。 「そうだ、忘れるところだったわ。父が言ってたの。あなたの代わりにパーティー用のドレスを買ってあげてって」 いつの間にか現れた玲乃が、にっこりと微笑んで立っていた。 「私のセンス、妹の目にもかなうかしら?」 その瞳にはあからさまな嘲りが滲んでいた。「だって涼介さんも、あなたのために私が選んであげたボディーガードじゃない?」 莉音は一切反応を見せず、顔を冷たく背けた。「ドレスなら自分で買うわ」 玲乃が選んだものなんて、汚いとしか思えなかった。 玲乃は一瞬だけ動揺し、しかしすぐに涙を滲ませた瞳で訴えかけるように言った。 「莉音、あなたが私を嫌っているのはわかってるわ。でも私は、あなたが私の母を怒らせて死なせたことだって責めてないのよ?ただ、お父さんを喜ばせたかっただけなのに。どうして少しも優しくしてくれないの?」 「あなたみたいな人間が江原家に嫁げるなんて、何世代にもわたる福徳の賜物よ」 二つ目の言葉は、彼女の耳元にぴたりと顔を寄せ、囁くように吐き捨てられた。 そのあまりに近い距離に、莉音は全身が汗ばんでくるのを感じ、反射的に相手を押しのけた。「触らないで!」 その瞬間、玲乃の顔に一瞬笑みがよぎり、次の瞬間には取り乱したように悲鳴を上げながら、莉音の手を握ったまま階段の方へと後退していった。 「莉音、どうしてそんなひどいことをするの!」 そう叫んだ彼女は、突然手を離し、まるで紙切れのようにふわりと階段から転げ落ちていった。 階段下に叩きつけられた彼女の額は、鈍い音と共に床に激突し、真っ赤な血が一気に広がっていった。 ちょうどその時、慌てて戻ってきた彼女たちの父と、バスルームから飛び出してきた涼介が、その惨状を目にして目を見開いた。 二人はほぼ同時に、血まみれの玲乃に向かって、絶叫とともに駆け寄っていった。 第3話 「玲乃!」 二つの声が重なった。 涼介は一瞬の迷いもなく膝をつき、玲乃を抱き上げた。彼女の腕ににじむ鮮血を見た瞬間、彼の目には氷のような冷たさが宿った。 そのとき、鋭い平手打ちの音が響き渡った。 莉音の父は手を振り上げ、彼女の頬を容赦なく打ち据えた。 「莉音、君は正気か!」 怒りに胸を震わせながら怒鳴った。「やはり君は、あの女と同じで恥を知らぬ女だ!玲乃は君の実の姉なんだぞ、どうして手を出せるんだ!」 彼の掌は容赦なく、莉音をよろめかせて床に倒した。 唇が震え、涙がぼろぼろと落ちた。枯れた喉からは、声一つ出せなかった。 もうとっくに慣れたはずの痛みに、心が再び引き裂かれた。 玲乃は涼介の腕の中で、涙に赤く染まった目で囁いた。「ごめんなさい、全部私が悪いの……」 「君と仲直りできるかもなんて、まだ夢見てた私がバカだったの、ごめんね……」 話すうちに、血がスカートの裾からぽたぽたと落ちた。 涼介は苦しそうに目を赤くし、額に青筋を立て、氷のような声で言った。「彼女を病院へ連れて行く」 彼が迷いなく背を向けたそのとき―― 「涼介、私は彼女に触ってないよ。彼女が自分で落ちたの!」 莉音は泣き声混じりに、彼の背中をじっと見つめて訴えた。「私、痛いの……あなた……」 だが、涼介は一度も振り返らなかった。どんなときも彼女を守ってくれたはずの涼介は、ほんの一瞬の沈黙のあと、無言のまま、彼女を置き去りにした。 村上家の使用人たちはすぐに彼女を取り押さえ、無理やり祠堂へと連れ込んだ。 そこは狭く、圧迫感のある空間だった。彼女の父は全ての明かりを消させ、莉音に反省を命じた。 「玲乃が無事戻るまで、君はどこへも行くな!」 ドアが閉まる音が耳に突き刺さった。彼女はドアを激しく叩き、叫んだ。「出して!私はやってない、押してなんかいない!」 彼女は、重度の閉所恐怖症だった。 暗闇に包まれた空間は、彼女に思い出させてしまう。母が亡くなったあの日以降、その誰もいない、あの薄汚れたアパートの一室で、たった一人で過ごした日々のことを。 留学したばかりの頃、学校でいじめに遭っていた。 ひどい時には、トイレに閉じ込められ、全身に真っ赤なインクをぶちまけられ、意味不明な汚い言葉を浴びせられた。 「ごめんなさい、私が悪かった、全部私が悪いの……」 「お願い、お願いだから、出して……」 彼女は声が枯れるほど叫び続けた。乾ききった赤いインクが服にべったりと貼り付き、見るも無残なほどに惨めな姿だった。 土下座しても、泣き崩れても、頭をドアに打ちつけても―― 返ってくるのは、嘲笑ばかりだった。 かろうじて聞き取れる英語は「愛人の娘」「ビッチ」などの罵声ばかりだった。 錯乱する意識の中、防犯用のナイフで手首を切ろうとまでした。 そんなとき、涼介がドアを蹴り開けてくれた。 冷たい表情の彼が彼女を抱き上げ、破れた服に自分のジャケットをかぶせた。その香りに、彼女は救われる思いがした。 彼の目は墨のように黒く、冷静だった顔に、初めて殺気が宿っていた。 彼は静かに彼女の目を手で覆い、低く囁いた。「……遅くなって、ごめんね」 涼介がどうやって自分を連れ出したのか、彼女にはわからなかった。ただ、とても長く眠ったことだけは覚えている。学校に戻ったときには、かつて彼女をいじめていた人たちは、もう二度と姿を見せなかった。 今、莉音はあのときと同じように、頭を打ちつけ続けた。血を流しても、やめなかった。 窒息の恐怖が再び押し寄せ、彼女は無意識に首をかきむしり、目眩と痛みに意識が崩れ落ちていく―― そのとき、電話が鳴った。 相手が話す前に、莉音は泣き声で叫んだ。「涼介、ごめんなさい、玲乃を傷つけるつもりなんてなかった……全部私が悪いの。でも、本当に怖いの……お願い、助けてよ……」 呼吸が乱れ、涙が汗に濡れた髪から滴り落ちた。「お願い、お願いだから……来て……」 だが次の瞬間、受話器の向こうから聞こえてきたのはくすり、と笑う声だった。 涼介の声は冷たかった。「莉音が君に手を出すって分かってたなら、海外にいるときにもっと厳しくしておくべきだった」 彼は優しく玲乃の額の血を拭いながら、目に凶光を浮かべた。 「君が優しすぎるんだよ。毎回あの女に手を下したあとで罪悪感に駆られて、俺に頼んで助けに行かせるなんて。あんな女、助ける価値なんてないんだよ!」 玲乃はすすり泣きながら言った。「でも、やっぱり妹だから……母を殺して、今度はあなたと父まで奪おうとしてるのに……それでも、私は彼女を傷つけたくないの」 彼女は嘲笑を抑えつつ、嗚咽交じりにこう続けた。「涼介、私には……あなただけなの」 不意に、玲乃は彼の喉元に唇を重ねた。 涼介は息を詰まらせ、反射的に彼女の頭を抱き込み、深くキスを返した。「俺は、一生君を裏切らないよ」 絡み合う息づかいも、繰り返された「玲乃……玲乃……」の囁きも、すべてが電話越しに莉音の耳に流れ込んだ。 スマートフォンが手から落ち、画面に映った涼介の笑顔が、音もなく砕け散った。 莉音は震える体を抱きしめ、自分の腕に噛みついた。肉が裂けるまで、何度も何度も。ようやく力尽きて、床に崩れ落ちた。 涙が一粒、頬を伝って落ちた。 信じられなかった。海外で彼女を襲ったすべての暴力、いじめ、裏切りのこと、涼介はすべて知っていた。 彼が自分を守るために傷つくたびに、自分が厄介をかけたせいだと思い込み、莉音はいつも深く罪悪感に苛まれた。 高額な治療費を払うため、昼夜を問わずアルバイトに明け暮れ、明け方の三時に街頭で倒れることすらあった。 けれど、それらすべてが――ただの笑い話だったなんて。 彼女は唇を噛みしめ、滲み出た鮮血があごを伝って滴った。涙と血が混ざり合い、莉音はそのまま笑い出した。 「涼介、あなたって……ほんと、見事だよね……」 どれほどの時間が過ぎたのかもわからない。砕け散ったスマホの画面がぼんやりと灯った。 無表情のまま手を伸ばし、ロックを解除する時指先がガラスの破片で切られても、彼女は何の反応も示さなかった。 画面には彼女の父からのメッセージが表示されていた。【江原家が言ってきた。今月末までに嫁いでもらわないと困るそうだ】 【それから、結婚式は必ず霞ノ宮市で行うこと】 霞ノ宮市、あそこは江原湧仁の故郷で、ここから何千里も離れた遠い町だ。 まるで莉音が気が変わるのを恐れているかのように、彼女の父は珍しく長々と「慰め」の言葉を送ってきた。 【莉音、君の身分で江原家に嫁げるなんて、もともと一生手の届かないような富と地位を享受できるのだから、それは神様から与えられた幸運だ。感謝の気持ちを忘れるな】 少し間を置いて、さらに言葉を続けた。【玲乃がこんなに良い縁談を君に譲ってくれたんだ。これ以上は望むな。君はもう十分に恵まれてるんだ】 第4話 【いい縁談だって?】 画面の青白い光が、莉音の血の気のない顔に映し出されていた。 彼女は冷笑を浮かべた。【そんなに良い話なら、彼女はなぜ自分で嫁がないの?】 【姉さんが村上家で二十年以上も贅沢に暮らしてた時、どうして私に譲ろうなんて思わなかったの?】 彼女は聞きたかった。自分と玲乃、同じ父親の娘なのに、どうしてこんなにも違うのか。 玲乃には、父の愛も、村上家の令嬢という肩書きも、そして涼介まで与えられた。 言葉にできないほどの思いが喉に詰まり、胸を焼き裂くような痛みが全身を襲った。 だが、父からの返事はなかった。 それはいつものことだから、莉音は慣れた手つきで、血のついた指先で最後のメッセージを送った。 【月末は長すぎるから、一週間後にしよう】 【私は江原湧仁と結婚するよ。そして、あなたの望みどおり、二度と戻ってこない】 彼女は操り人形のようだった。傷だらけの腕に包帯を巻かれ、サイズの合わないドレスに無理やり押し込まれた。 車に乗る前、彼女はいつものように聞いた。「涼介は?」 「青山さんなら、まだ病院で玲乃お嬢様についてます。電話して戻るよう言いましょうか?」 莉音は一秒だけ沈黙してから、「……いいわ」と答えた。 彼の心の中で、自分という「保護対象」が、玲乃より大切だったことなんて、一度でもあっただろうか? 晩餐会は、江原家が所有するホテルのホールで行われていた。 会場に足を踏み入れた瞬間、莉音は手の甲にかゆみを感じた。 袖をめくると、目に飛び込んできたのは真っ赤な蕁麻疹だった。 彼女の父はその様子に気づき、眉をひそめて振り返った。「何をしてる?早く来なさい。おじさんたちが待っているぞ」 広がるかゆみに身体が強張った。「私、アレルギーみたい」 「アレルギー?」 彼女の父はメガネ越しに鋭い目を光らせた。「ここまで来て、まだ何を企んでるんだ?」 「今はわがままを言っている場合じゃない。自分の立場を思い出せ!」 彼女は黙ってまつげを伏せ、宴会場へと歩を進めた。 そうだ。たとえ父が認めたとしても、彼女は所詮、どうでもいい隠し子だった。 わがままが許されるのは、玲乃だけ。 でも、まさか病院にいるはずの玲乃が今、宴会の真ん中で、笑顔を浮かべて立っているとは思わなかった。 彼女の隣には、高級なスーツに身を包んだ涼介が寄り添い、愛情深く彼女を見つめていた。 周囲の人々の視線が彼女に一斉に集まった。 「これが村上家の令嬢か。噂以上の美人だな。まさに安見市一の美女だ。あんな子を嫁にもらえる男は、どんな幸運だろうな」 「でも、あの隠し子の妹が、彼女の婚約者を奪ったって話も聞いたぜ?」 「ふん、所詮は隠し子。人前に出せるような器じゃないよ」 「聞いた話だと、莉音の母親は、酒を飲ませて村上社長のベッドに……」 話は最後まで言わなくても、聞く者全員が察して、嘲るように笑い出した。 悪意の視線が、雪崩のように莉音に向けられた。 彼女の手は微かに震え、ドレスの裾をぎゅっと握りしめることで、辛うじて感情を抑えた。 玲乃は、まるで今初めて気づいたかのように近づいてきた。 「妹ちゃん、遅かったね?私なんて病院から来たのに、ちゃんと間に合ったのよ?きっと私より早く来たと思ってたわ」 そして、わざとらしく前髪をかき上げて、絆創膏の貼られた額を見せつけた。「もしかして、お父さんはまた君が私を階段から突き落としたことで怒ったの?」 「お父さんもホント……君、わざとじゃなかったのにね」 そう言いながら、莉音の腕を取ろうとした。仲睦まじい姉妹を演じるために。 その仕草に、周囲はますます面白がって彼女を見つめた。 隠し子が本家の令嬢を陥れた。まさに劇的な構図なんだ。 莉音は無表情に一歩引き、「いいわ。私たちは母親が違うから、私を『妹』なんて呼ばなくていいよ」と言った。 玲乃の笑みが凍りつき、涼介は眉をひそめて拳を握った。 「それから、私はあなたを突き落としてないわ。騙すなら他人だけにして。自分まで騙さないで」 彼女は二人の顔を無視し、まっすぐに涼介を見つめて言った。「間違ってなければ、あなたは今でも私のボディガードよね?」 ドレスが肌に擦れ、蕁麻疹は肩まで広がっていた。かゆみと痛みに、もう限界だった。 莉音は我慢の限界に達し、全身のかゆみを堪えながら背を向けて立ち去った。 涼介は眉間に深い皺を寄せ、拳を握っては開き、再び握った。 彼は何度も玲乃の様子を気にしてから、ようやくゆっくりと莉音の後ろに歩み寄った。 ただ、その視線は一度も玲乃から外れることはなかった。 莉音は構わずグラスを手に取り、微笑みながら一気に酒を飲み干した。 「莉音お嬢様、胃を悪くしてるよ……」 反射的に、涼介が彼女の手首を握って止めた。「これ以上飲んだらダメだ」 母を失った後、彼女は長く鬱に苦しみ、重い胃病を患った。 この五年間、涼介の細やかな気遣いが、彼女を深い闇から引き戻してくれた。 その涼介の存在があったからこそ、莉音は父に逆らい、江原家に嫁ぐことを拒んで祠堂に十五日間も閉じ込められた。 やっとのことで治った胃を、またもや彼女は自分で壊したのだ。 喉に広がる鉄の味、胃の中のざわめきが波のように押し寄せ、痛みで目が赤く染まった。 涼介の力が強すぎて、ワイングラスが彼女の手から地面に落ち、甲高い音を立てて砕け散った。 莉音は構わずに手を放し、口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。 「あなたには関係ないわ」 涼介は信じられないという表情で手を離し、問いかけるように言った。 「まだ俺が玲乃……玲乃お嬢様を病院に運んだことを怒ってるのか?」 彼は深く息を吸い込み、大きな譲歩をするような口調で言った。 「彼女を階段から突き落としたのは莉音だよ。俺は君のボディーガードとして、後始末をしただけださ」 第5話 莉音は笑いが込み上げてきて、彼を置いて父のそばへと歩いていった。 宴会場では酒が交わされ、眩しい白いスポットライトが彼女を照らし、ドレスの複雑な刺繍模様が浮かび上がった。 彼女の父は咳払いをひとつして、親しげに彼女の手を取った。 「本日は娘を伴ってこの宴に参加したのは、大事な発表があるからでして──」 言葉が終わるよりも早く、莉音の正面にあったシャンパンタワーが轟音とともに崩れ落ちた。 目を見開き、思考が一瞬で空白になった。 999杯のシャンパンで組まれた巨大な塔が、まっすぐに彼女へと崩れ落ちた。人々は叫び声を上げて四方へと散った。 その瞬間、たった数歩の距離にいた涼介が、疾風のごとく玲乃を抱きしめてかばった。 彼はまるで宝物のように、彼女を腕の中に大事そうに包み込んだ。ふわりと広がったドレスの裾には、一滴の酒すらついていなかった。 莉音が我に返った時、自分はすでに血の中に倒れていた。 砕け散ったガラス片がドレスを裂き、手のひらには無数の破片が突き刺さっていた。痛みで冷たい息を吸い込んだ。 視界が赤く染まった。 彼女はようやく手を上げ、自分の顔にまとわりつく粘り気のある血に触れた。 鋭利なガラスが喉元に突き刺さり、呼吸するだけで胸が裂けるように痛かった。 あと数センチ深ければ、気管が破れていたかもしれない。 視界の中で人々の顔がぐるぐると回り出した。 何かを言おうと口を開いたが、声が出なかった。 意識が遠のく直前、彼女は見た―― 父が目を真っ赤にして玲乃を抱きしめ、「玲乃、無事でよかった!もし君に何かあったら、お父さんはお母さんに顔向けできないよ……」 そして涼介が片膝をつき、玲乃の脱げたハイヒールを心を込めて履かせていた。 玲乃は彼の腕を揺らして甘えた声で言った。 「涼介さん、この靴、私の成人式の時にあなたがくれたの。傷がついちゃったけど、捨てたくないなぁ」 涼介は微笑みながら、彼女の鼻を軽くつつき、いつもの冷たい顔に温もりを宿らせた。「ただの靴だろ?玲乃が欲しいなら、もっといいものを十足でも百足でも贈ってやるさ」 「ああっ!」 その甘い空気を断ち切るように、誰かが叫んだ。 「村上さんが倒れました!すごい出血です……」 …… 「もしもう少しガラス片が深く刺さっていたら、命に関わっていたでしょう」 医師がカルテを閉じ、ベッドで血の気のない顔をした莉音を見ながら、同情の表情を浮かべた。 「外傷だけでなく、検査結果によると胃の病状もかなり悪化しています。ご家族のサポートが重要で……」 「いいえ」涼介は医者の言葉をきっぱりと遮り、重たいまなざしで玲乃を見つめた。 しばらく沈黙が続いた後、冷えきった声で言った。「俺は、彼女の家族じゃありません」 病室の扉の外から、すすり泣き混じりの玲乃の声が聞こえてきた。 涼介の胸がチクリと痛み、思わず足早にその場を後にした。 彼はあまりにも急いで立ち去ったため、病室のベッドで意識がないように横たわっていた彼女が、ちょうど彼が背を向けた瞬間に目を開けたことには気づかなかった。 ドア一枚隔てた向こうから、父の怒りを抑えた叫び声が聞こえてきた。 「玲乃、君……なぜ彼女のドレスに細工をしたんだ?」 「今日は大事な場なんだぞ!宴の途中で莉音に何かあったら、誰が代わりに江原家に嫁げると思ってるんだ!」 莉音は虚ろな目で肌に残る桃の産毛を見つめ、小さくため息をついた。 彼女は桃にアレルギーがある。 ほんの少しでも触れれば、全身に発疹が出て、重症時には呼吸困難に陥るほどだ。 それを知っているのは、涼介だけ。 案の定、次の瞬間には涼介が身を乗り出して玲乃の前に立ち、彼女の父の渾身の平手打ちを代わりに受けた。 彼女の父が去った後、玲乃は涼介の腕の中で顔を伏せた。 「ごめんなさい、涼介。ただ、ちょっと懲らしめたかっただけなの。こんなに大事になるなんて思わなかったわ」 「それにあのシャンパンタワーが倒れたのも、本当に私じゃないのよ!」 彼女はしゃくりあげながら泣きじゃくった。「涼介、まさかあなたまで私を疑ってるの?」 涼介の瞳は人よりも深い色をしていて、見つめられるととびきり情熱的に思える。 彼はため息をつき、力強い腕で彼女を優しく抱きしめて、穏やかに言った。「君を信じないわけがないよ」 「君のためなら、俺は青山家の事業を捨てて、五年間も莉音の側でボディーガードのふりをしてきた。玲乃、君以外に、俺をここまでさせられる人間なんていると思うか?」 玲乃は泣き笑いになり、幸せそうに彼の胸に顔を埋めた。 二人が抱き合っていた時間と同じだけ、莉音は静かにその様子を見つめていた。 看護師が薬の交換に来たとき、涼介が病室に入ってきた。唇の端にはまだかすかな紅が残っていた。 莉音は無言で、看護師に首の包帯を丁寧に解かれ、赤く滲む傷跡が露わになった。 彼女が消毒液の刺激に目を閉じるのを見て、涼介は大股で近寄り、慣れたように手を彼女の口元に差し出した。 「莉音お嬢様、ごめんなさい……あのとき、俺は焦っていて、玲乃お嬢様を莉音お嬢様と勘違いしてしまった」 莉音は痛みに最も弱かった。 留学中、高熱で意識が飛んでも注射は嫌がり、涼介が何度も頼み込んでようやく彼女を救急に運んだ。 注射のたびに唇を噛み切ってしまうほどで、傷が癒えぬうちにまた裂け、いつまでも治らなかった。 涼介はついに彼女の顎を押さえ、自分の手を噛ませるようになった。 「お嬢様、つらかったら俺の手を噛んでね。 自分を傷つけないで。 俺がいる限り、君はもう痛みを感じなくていいよ」 留学一年目、莉音は何度も悪夢にうなされた。 うつ病はすでに重度だった。 リストカット、頭突き、飛び降り……あらゆる手段で自傷を試み、亡き母の記憶から逃れようとした。 そのたび、涼介が最後の一瞬に現れた。 ナイフをはたき落とし、無言で彼女を浴室に運び、冷水で正気に戻した。 莉音は浴室で号泣し、混乱したままつぶやいた。「ごめんなさい、涼介、ごめんなさい……」 「こんなことしたくなかった、でも……どうしても無理だったの」 「苦しすぎる、痛すぎるの……」 涼介は浴室の外に座り込み、磨りガラス越しにその大きな背中が見えた。それを見ると、彼女は安心できた。 彼は何も慰めることなく、彼女の知らないお経を静かに唱え続けた。 その声は冷たくて平坦なのに、なぜか心が落ち着いた。 あの日から、莉音はもう悪夢を見なかった。 痛みにも、怯えなくなった。 ふと我に返り、莉音は一瞬戸惑いを見せ、彼の手を避けた。 その冷たい瞳は、涼介の方に一度も向けられることなく、目を閉じて背を向けた。 喉元まで込み上げてきた言葉を、涼介は結局、何も言えなかった。 入院の三日間、涼介は毎日一番に病院に来て、彼女に一輪の鮮やかなバラを届けた。 けれど莉音の視線は、そのバラを通り過ぎて、ただ窓の外に向けられていた。 ただの一度も、彼の顔を見ることはなかった。 退院の日、涼介からあらかじめメッセージが届いた。【お嬢様、あと10分で着くよ】 村上家の人間が迎えに来るはずもない。彼女の喉はまだ治りきっておらず、言葉を発することも難しく、タクシーを呼ぶことすらつらい状況だった。 莉音は少し迷った末、結局「わかった」と返信した。 そして、病院の入り口で彼女は日が暮れるまで待ち続けた。 快晴だった空が、やがて雷鳴轟く嵐へと変わった。だが、涼介は最後まで現れなかった。 通りすがりの看護師が不思議そうに尋ねた。「村上さん、ご家族の方はまだですか?お手伝いしましょうか?」 「いえ、結構です」 莉音は、涼介にかけた37本目の電話を切り、スーツケースを引いて雨の中へと歩き出した。 行き交う車の泥水が彼女に容赦なく降りかかり、全身はすぐにびしょ濡れになった。 足元の滑りやすさに耐えきれず、数歩進んだところで彼女は倒れ込んでしまった。 縫合されたばかりの掌の傷口が再び開き、点々と血がにじみ出た。 病院から村上家までの道のりを、彼女は4時間もかけて歩いて戻った。 ドアを開けると、リビングからは笑い声が溢れていた。 玲乃は涼介の上に半跪きの状態で、極めて艶めかしい姿勢のまま、彼の腹筋に口紅で自分の名前を書いていた。 周囲にいたのは玲乃の友人たちで、誰もが羨望と妬みに満ちた歓声を上げていた。 「玲乃、やるじゃん!あの青山家の御曹司を、こんなにもメロメロにしちゃって!」 「今度あんたが青山家に嫁ぐときは、私たちのこと忘れないでよ」 「ねぇ、妹ちゃんが自分のボディーガードが義兄になるって知ったら、どんな顔すると思う?」 「聞いたんだけどさ……彼女、留学中は青山さんを誘惑しようと必死だったんだって。さすがは愛人の子だわ。ボディーガード相手でも、長くいれば我慢できなくなるもんなんだねぇ」 彼女たちは笑いながら、玲乃と涼介にシャンパンを浴びせかけた。 酒に濡れた玲乃の額の髪は額に張り付き、涼介の整った筋肉の輪郭をはっきりと浮かび上がらせた。 莉音は思い出した。彼は、酒が大嫌いだった。 その彼のために、母から譲り受けた高級酒はすべて処分したのだ。 なのに、玲乃の前では、その「嫌い」すら微塵も見せなかった。 第6話 涼介は少し苛立ったように眉をしかめたが、玲乃の視線を感じた瞬間、甘えるような笑みで彼女の髪についた酒の跡をそっと拭き取った。 「お姫様、いい加減やめてくれないか?」 ――バンッ。 突然、スーツケースが床に落ちた音が響いた。 涼介は思わず顔を上げた。 莉音が、全身ずぶ濡れのまま玄関に立っていた。 足首には転んだ痕がいくつもあり、包帯の巻かれた傷跡がむき出しになっていた。痛々しくて、目を背けたくなるほどだった。 頭で何も考える前に、涼介は本能的に玲乃を突き飛ばし、慌ててシャツのボタンをかけ始めた。 「どうして一人で帰ってきたんだ?」 彼は唇をきつく結びながら言った。「すまない、玲乃お嬢様が無理やり真実か挑戦かをやろうって言ってきて……携帯も充電切れてたんだ」 その場にいたのは、いずれも安見市で名の知れた御曹司たちだった。涼介の素性も当然知られている。 その中の一人が、彼の莉音へのへりくだった態度に耐えきれず、皮肉めいた口調で言った。 「たかが表に出せない隠し子に、青山家の御曹司がそこまで尽くす必要あるか?青山さん、あの子はもう目の見えない男と結婚するのよ。甘やかす必要なくない?」 「ああいう女はな、もっと……」 「黙れ!」 涼介が突然激怒した。 その平手打ちは重く、やつは一気に酔いが醒めたような顔色で、その場にひれ伏した。 「すみません、俺が悪かったです!本当に、許してください!」 涼介はゆっくりと手を引き、莉音に向き直った時、その瞳にはどこかしら卑屈さが浮かんでいた。 「俺は『青山家の御曹司』なんかじゃない。ただの雇われだ。村上さんは俺の雇い主。そんな彼女を前に侮辱するなんて、お前、死にたくなったのか?」 「頭を下げるなら、俺にじゃなくて、村上さんにだ!」 男は彼に蹴飛ばされ、莉音の足元に倒れ込んだ。震える手で頭を地面に打ちつけながら叫んだ。「村上さん、本当にすみません……隠し子なんて言って……俺が間違ってました……」 玲乃は顔面蒼白になりながらも、そっと涼介の服の裾をつかみ、ぎこちない笑顔を浮かべて言った。「涼介さん、彼もわざとじゃないの。お願い、許してあげて?」 「みんな私の大切な友達なの。せめて私の顔を立ててくれても……」 それでも涼介が何も言わなかったので、彼女は涙を滲ませて莉音に視線を向けた。 「ごめんね、莉音。今日があなたの退院日だなんて知らなかったの。全部私が悪いのよ……真実か挑戦かなんてやるために無理に涼介さんを誘ったりして……」 「私が誘わなければ、君が雨に濡れることもなかったのに……」 莉音は顔の雨をぬぐい、無表情で二人を見つめた。 琥珀色の瞳に映った涼介の姿が、瞬きとともに波紋のように広がって壊れていった。 彼女は静かに言った。「そうね」 玲乃は動揺で言葉を失った。 「あなたがいなければ、私は雨に濡れずに済んだ」 「だからお願い。もう私の前から消えて。私は部屋に戻ってシャワーを浴びたいだけ」 「それと、涼介。あなたはボディガードなのに、何度も私を守れなかった。彼女と遊ぶのがそんなに楽しいなら……願いを叶えてあげる。あなたはクビよ」 喉の傷のせいで、声はかすれていた。 それでも、その一言は涼介の目を真っ赤に染めた。 夜。莉音は浴室にこもったままだった。 まずは泥まみれになった身体を丁寧に洗った。 そして、よく研がれたナイフで、少しずつ、鎖骨の皮膚を裂いていった。 そこには、「青山涼介」という名前のタトゥーがあった。 彼が二十歳の誕生日の夜、彼女は頬を赤らめながら聞いた。 「涼介、どんな女の子が好きなの?」 彼の顔はロウソクの火に照らされて、信じられないほど優しく見えた。 涼介は微笑みを浮かべながら莉音を見つめていたが、その眼差しはまるで遥か遠くを漂っているかのようだった。 「俺は……山茶花みたいに純粋な女の子が好きなんだ。好きになった人にも、ずっと俺のことを好きでいてほしいと思ってるよ」 その夜、莉音は手元に残っていた数千円を握りしめ、街角のタトゥーショップへと向かった。 喜びに満ちた彼女は、身体にこう刻んだのだった。 「莉音はずっと涼介を好きでいる」 それは、彼への約束だった。 だが彼女は、気づくのがあまりにも遅すぎた。それは涼介が彼女じゃなく、玲乃に捧げた約束だったのだ。 第7話 鏡の中の少女は涙を湛えた瞳で、自分の肩に刃先を当て、唇を噛みしめたまま手首をひねり、深く刺し込んだ。 血が噴き出し、滑る感覚にナイフが手から落ちそうになった。 莉音は、微かに、ゆっくりと息を吐いた。 汗で額はすでに濡れており、その顔色は紙のように白かった。それでも、まだ終わっていなかった。 夜が明ける頃、彼女はついに、一筆一筆、自分の身体から涼介の痕跡を消し去った。 翌朝早く、莉音はスーツケースを引いて部屋の扉を開けた。 ドアの前には、一睡もしなかった男がいた。彼は慌てて立ち上がり、充血した目で言った。 「お嬢様、ごめんなさい……」 涼介は必死にドアを支えながら、ポケットからくしゃくしゃのお守りを取り出した。「このお守り、見つけてきたんだ。最近の俺が悪かった。君のこと、ちゃんと見てあげられなかった……」 頭を深く下げ、その声には悔しさと懇願が滲んでいた。 「どうか……もう一度だけ、チャンスをくれないか?」 莉音は彼の手の中のお守りを見下ろした。 A国と安見市は遥かに離れているのに、一晩で同じものを探してきたことは確かに大変だった。 ただ、彼は知らなかった。本物のお守りは、莉音が自ら燃やしてしまったことを。 彼女は微かに笑った。「涼介、もう私を……解放してくれない?」 彼は玲乃のために五年間も復讐し続けた。彼女を守るふりをして、美しくて優しい「救い」の物語を作り上げたのも彼自身。それを壊したのも、彼だった。 今、莉音は負けを認めた。 彼の望みどおり、彼を本当に愛する人のもとへ返してあげる。同時に、自分自身も、ようやく手放すのだ。 なのに、なぜ彼はまだ自分を許さないの? いまさらの引き止めは、まだ彼の中に使っていない「もっと酷い手」があるからなの? 涼介の体がこわばり、目線が泳いだ。「お嬢様、それは……どういう意味?」 「もういいわ」莉音は彼にこれ以上の言葉を費やす気になれなかった。「涼介、東辺りのあの店、そこのモモ味のクッキーが食べたいわ。悪いけど、買ってきてくれる?」 「買ってきてくれたら……許してあげるわ」 涼介は一瞬驚いた後、目を輝かせて階段を駆け下りた。 「お嬢様、待っててね!」 そしてすぐに彼のメッセージが届いた。【必ず戻るから!絶対に待ってて!】 莉音は短く「いいよ」と返信した。 それから、タクシーに乗り、何の渋滞もなく空港へ向かった。 空港の入口で、村上家と涼介の連絡先をすべてブロックした。 飛行機がゆっくりと滑走路を離れ、空に浮かび上がった時、莉音は帰国して以来初めて、心からの微笑みを浮かべた。 涼介、あなたは忘れていたのよね。私は桃にアレルギーがある。モモ味のクッキーなんて、一度だって口にしたことはない。 本当にそのクッキーが好きなのは、玲乃なんだ。 そして私は、あなたとはもう二度と会わない。