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失って初めて知った、君の輝きを
小松紗江(こまつ さえ)は看守に一通の手紙を手渡した。そこには三文字、自白書と書かれていた。 薄手の囚人用ジャケットを羽織った彼女の瞳...
Chương (1)
第1章
小松紗江(こまつ さえ)は看守に一通の手紙を手渡した。そこには三文字、自白書と書かれていた。
薄手の囚人用ジャケットを羽織った彼女の瞳には、半分は無感情、もう半分は絶望が浮かんでいた。
「この手紙を篠田家に届けてください。彼が私を出してくれるなら、どんな罪でも認めます」
看守は嫌な顔をしながらそれを受け取り、去り際にツバを吐き捨てた。「今さら後悔しても遅いだろ?篠田さんが情けをかけたから、この程度で済んでるんだぞ」
紗江は口元を引きつらせながら、泣くよりもひどい笑みを浮かべた。
吉岡雛乃(よしおか ひなの)の前で、篠田晃(しのだ ひかる)が自分に情けをかけたことなんて、一度でもない。
「お嬢様、ご安心を。出所したら、すぐに家に帰りましょう」
山口(やまぐち)の声には抑えきれない興奮がにじんでいた。その言葉を聞いた瞬間、紗江の目に涙が浮かんだ。白く整った顔には青アザがいくつもでき、無残なほどやつれていた。かつては活き活きしていた美しい瞳も、今は虚ろで疲れ切っている。
あれほど大切に育てられたお嬢様が、今やこんな姿に。
あの日、彼女はその男の手によって刑務所に送られた。相手が許さぬ限り、一生出ることはできなかった。山口に見つけられるまで、紗江は、ここで一生を終える覚悟だった。
「山口さん、両親に伝えて。私は手塚家に嫁ぐ覚悟ができた。家にも戻る。数日後、迎えに来て」
第1話
小松紗江(こまつ さえ)は看守に一通の手紙を手渡した。そこには三文字、自白書と書かれていた。
薄手の囚人用ジャケットを羽織った彼女の瞳には、半分は無感情、もう半分は絶望が浮かんでいた。
「この手紙を篠田家に届けてください。彼が私を出してくれるなら、どんな罪でも認めます」
看守は嫌な顔をしながらそれを受け取り、去り際にツバを吐き捨てた。「今さら後悔しても遅いだろ?篠田さんが情けをかけたから、この程度で済んでるんだぞ」
紗江は口元を引きつらせながら、泣くよりもひどい笑みを浮かべた。
吉岡雛乃(よしおか ひなの)の前で、篠田晃(しのだ ひかる)が自分に情けをかけたことなんて、一度でもない。
「お嬢様、ご安心を。出所したら、すぐに家に帰りましょう」
山口(やまぐち)の声には抑えきれない興奮がにじんでいた。その言葉を聞いた瞬間、紗江の目に涙が浮かんだ。白く整った顔には青アザがいくつもでき、無残なほどやつれていた。かつては活き活きしていた美しい瞳も、今は虚ろで疲れ切っている。
あれほど大切に育てられたお嬢様が、今やこんな姿に。
あの日、彼女はその男の手によって刑務所に送られた。相手が許さぬ限り、一生出ることはできなかった。山口に見つけられるまで、紗江は、ここで一生を終える覚悟だった。
「山口さん、両親に伝えて。私は手塚家に嫁ぐ覚悟ができた。家にも戻る。数日後、迎えに来て」
山口は連絡手段を残し、涙をぬぐいながら立ち去った。
翌日、重い鉄の扉が開き、紗江は風雪の中を歩き出した。
路肩には一台のマイバッハが停まっていた。車の傍には、黒い傘を差した男が立っている。
入所して三年、紗江の肌はすでに荒れ、かつての誇り高い性格も完全に打ち砕かれていた。
だが、晃は何ひとつ変わっていなかった。
相変わらず美しく、誰もが見上げる存在のようだった。
冷たい風が彼のコートの裾を舞わせる。その気高く冷ややかな顔立ちは、より一層鋭さを増していた。
二人は遠くから目を合わせたが、しばらく言葉が出なかった。
晃は再会の場面を想像していた。彼女のわがままで泣き虫な性格からすれば、会った瞬間に大泣きして自分の辛さを訴えると思っていた。
この三年間、彼は彼女が早く非を認めるよう、刑務所側に性格を叩き直すよう命じていたのだ。
その効果はあったらしい。
再会した紗江は、ただ黙って彼を見つめた後、吹雪の中をよろめくように歩き出した。
彼女は元々痩せていた上、温かさのない囚人服のままでは、見るからに寒そうだった。まるで、風にさらわれて消えてしまいそうなほどに。
あと三歩のところで、晃はついに心を動かされた。傘を持って彼女に近づき、思わず手を取ろうとしたが、その声には無意識の嫌悪が滲んでいた。
「歩けなくなったのか?なんでそんなに遅いんだ」
紗江はすぐにその手を避け、うつむいたまま、素直でありながらどこか拒絶の混じった声で答えた。
「はい、私が悪いんです。ご迷惑おかけしません、篠田さん」
篠田さんという呼び方に、晃の眉をぴくりと動かした。
ちょうどその時、車の窓が開き、中から暖かい空気とともに冷風が入り込む。
白のタートルネックニットワンピースを着た少女が、思わずくしゃみをした。
晃はすぐに振り返り、隠せない心配そうな表情で声をかけた。
「雛乃、元々体が弱いのに無理してついて来たんだから、防寒もしっかりしないと」
車内からは、少女の甘えたような、澄んだ声が聞こえた。「私は大丈夫だよ、晃くん。
それに、紗江さんもちゃんと反省してくれたし、私も一歩譲るべきだと思って。だから一緒に迎えに来たの。仲直りできたら、晃くんも嬉しいでしょ?」
晃は険しい顔つきのまま、「彼女と君を一緒にするな。とにかく、先に毛布をかけて……」と答えた。
二人の会話が続く。
背後で凍え、頬を真っ赤に震わせている紗江のことをすっかり忘れていた。
雪に覆われたまつげを伏せ、彼女は小さく息を吐いた。
白い息は、すぐに空へと消えていった。
まるで、彼への最後の愛情のように。
紗江は何も言わず、そっと背を向け、深く積もった雪を踏みしめながら歩き出した。
第2話
篠田家の別荘。
目の前にある懐かしくもあり、どこか他人行儀な建物を見つめながら、紗江の心は一瞬遠くへ飛んだ。
初めてここへ晃と一緒に来たときの気持ちは、今でも鮮明に覚えている。
あの時は、本当に嬉しかった。まるで子供のようにはしゃいでいた。
理由は一つ。好きな人と家を持てることが、ただただ幸せだったのだ。
まるで長い間贅沢三昧に慣れすぎたせいか、紗江は苦汁をなめるような真似をしたがった。
本来の彼女は、浜市四大家のひとつ、小松家の令嬢だ。
本来なら、いくら篠田家が裕福でも、彼女に会う資格すらなかったはず。
六年前、紗江は怖いもの知らずの性格で、ひとり山登りに出かけた。
経験はあったが、自然の力を甘く見ていた。ひとりで山に閉じ込められ、次の瞬間には低体温症になる瀬戸際だった。
そんなとき、晃が現れた。自分の防寒具をすべて差し出し、一人増えれば、それだけ負担になると分かっていながらも、彼女を背負って山を下りたのだ。
紗江は、彼に命を救われた。
その瞬間から、彼に夢中になった。
彼女は両親と激しく言い争い、浜市から遠く離れたこの見知らぬ土地まで来た。
身分を隠し、彼のそばにいることを選び、彼だけを頼りに、全ての愛を注いだ。
けれど、待っていたのはかつて高嶺の花と呼ばれた小松家の令嬢が、囚人へと堕ちる未来だった。
二人は三年もの間、恋人として幸せな時間を過ごした。紗江は、いずれ両親を説得して、篠田家を受け入れてもらおうと考え始めていた。
だが、突如としてすべてが狂った。
晃の両親が亡くなる前に、晃には見合いが決まっていた。
相手は吉岡家の令嬢、雛乃だ。
彼女が帰国し、晃との婚約を履行しようとしていた。
その時のことを、紗江は今でも忘れない。晃は彼女を見つめ、真剣な瞳でこう言った。
「紗江、大丈夫だ。俺の心の中には、君しかいない。
たとえ親戚たちが俺にどれだけプレッシャーをかけても、妥協なんてしない。篠田家なんていらない、君さえいればそれでいい」
その言葉に、紗江は涙を浮かべて感動した。
だが、その裏で彼の心は、すでに明るく可愛らしい雛乃に傾いていた。
なにしろ、家柄が同じ者同士、自然と話題も多かった。
やがて晃は家に帰る時間が少しずつ遅くなった。
最初のうちは言い訳をしていた。
だが、次第に態度は変わり、不機嫌さすら露わになっていった。
「紗江、もうちょっと大人になれないのか?確かに、俺は雛乃との婚約を解消するつもりだ。それでもあっちの顔を立てないといけない。吉岡家とのビジネス関係だって長いんだから、少しは時間をくれ。
もういい、君にはこういうこと分からないんだよ。雛乃の方がよっぽど物分かりがいい」
彼の心が、少しずつ離れていくのを、紗江は痛いほど感じていた。
どうにかして繋ぎとめようと、彼女は必死に彼の心を取り戻そうとした。
ようやく彼から、来月、結婚式を挙げようと約束を取りつけた翌日、雛乃が事件に巻き込まれた。
雛乃が誘拐され、チンピラたちに辱められそうになった。
必死の抵抗の末、彼女は傷だらけの状態で救出された。
そして、すべての証拠が紗江を指していた。
いくら否定しても、晃は信じなかった。
そのまま、彼は紗江を三年間も刑務所に送り込んだ。
あの日、晃は彼女にこう告げた。
「紗江、仕方ないんだ、俺がこうするしかなかった。
君には力もないし、吉岡家の許しを得られなければ、俺でも守れない。
大人しくしろ。早く罪を認めて、出てこい」
でも、彼女は何もしていない。なぜ、認めなければいけなかったのか。
第3話
一年目、紗江はまだ希望を捨てきれず、晃が自分を迎えに来てくれる夢を毎日のように見ていた。
二年目になると、刑務所の中で他の囚人たちのいじめや嫌がらせが始まった。まともに食べられず、寒さで震えるのは当たり前になった。
時には殴られて、這わないと動けないこともあった。
そうやって彼女を痛めつける人間たちはこう言った。
「篠田さんから頼まれてやってるのよ。吉岡さんを喜ばせるためだってさ」
三年目、紗江はようやく悟った。愛も希望も、すべては嘘にすぎなかったのだと。ここから出たいなら、誰にも頼らず自分の力で出るしかない。
だから彼女は、罪を認めてでも外に出ることを選んだ。あの事件の真相を、自分の手で突き止めるために。
鼻先で雪が溶ける。その冷たさに、彼女は過去から現実へと引き戻された。
別荘の中へ足を踏み入れ、記憶を頼りにかつての部屋へ向かう。だが、階段を上がったところで異様な光景が目に飛び込んできた。
彼女の昔の部屋のドアは大きく開け放たれ、中の物がまるでゴミのように放り出されている。
「何してるの?」
紗江の声は鋭く冷たかった。
使用人たちが振り返ってようやく彼女の存在に気づいた。
一人がわざとらしく叫んだ。「え、どこからのホームレス?警備は何してんのよ、こんなのまで入れて」
すると、くすくすと笑う声が空気を満たした。
誰かが、わざとらしく「気をつけなよ、小松さんだよ」と告げた。
だが、先ほど失礼なことを言った使用人は謝る気配もない。
むしろ居丈高に言い放った。「へぇ、小松さんだったね。でも帰ってくるなら一言くらい連絡してくれても、身なりくらい整えられればよかったのに。お祓いの塩も用意してた」
露骨な嫌がらせにも、紗江は怒る様子を見せない。
この家にやって来たときから、彼女のことを本気で受け入れてくれる人間など、最初からいなかった。
田舎から出てきた女が、金持ちの男にすり寄ってきた。皆、心の中でそう思っていたのだ。
紗江は黙って近づき、膝をついて自分の物を拾い始めた。
彼女は手早く荷物をまとめ、早く片付けて客間で休もうと考えた。できれば、あの二人とは顔を合わせずに済ませたかった。
だが、運命はそう甘くはなかった。
背後から、耳障りな甘ったるい声が届いた。「紗江さん、怒らないでね?だって、いつ出てくるか分からなかったし、晃くんがこの部屋を私の音楽室にすると言ったのよ」
紗江の手が、ふと止まる。
晃の、あの冷たく深い視線が、ずっと自分を見つめているのを感じた。
「そうですか」彼女は淡々と答えて、また片付けを再開する。
それを見ていた晃は、眉をひそめた。「雛乃は寛大なんだ、君もそんなに意地張るなよ。認めなかった君が悪い。
三年も経ってようやく自白書を出すなんて、まさか、刑務所が気に入ったのか?」
その冷ややかな皮肉は、耳に刺さるほど鋭かった。
だが紗江は、反論すらしなかった。
ただ、唇の端に薄い笑みが浮かぶ。
一方の雛乃は、内心で勝ち誇りながらも、不満そうな顔を作ってみせた。
「晃くん、そんなこと言わないで。紗江さんは間違いを犯しただけで、人間性まで否定しなくていいじゃない。
それに、今はきっと変わったと思う。もう私に何かしてくることもないでしょ」
そう言って、にこやかに紗江のそばへしゃがみ込み、無邪気な笑顔を向けた。
「そうよね、紗江さん?
私もお手伝いしよう」
第4話
紗江の「結構です」という言葉がまだ口をついて出ないうちに、晃の慌ただしい声が響いた。「気をつけろ!
彼女の物は雑然としている。怪我でもしたら大変だ」
雛乃は振り返り、晃に向かってちゃっかり舌を出した。
「晃くん、わかってるってば。私、そんなにドジじゃないもん!」
まるで三年間も付き合ってきた恋人同士のような、慣れ親しんだやり取りだった。
そんな自分の態度に気づいたのか、晃はどこかぎこちなく、紗江にも一言付け加えた。「君も気をつけろよ」
彼の言葉に、紗江の睫毛が微かに揺れた。それでも何も言わず、まるで聞こえなかったかのように沈黙を貫く。
「わあ、紗江さん、この翡翠のカップきれい!どこで買った偽物なの」雛乃が勝手に彼女の閉じていた箱を開け、中から緑色のカップを取り出して、わざとらしく振り回す。
その瞬間、紗江の瞳孔が一気に縮んだ。
「返して」
彼女は急いで取り返そうとした。
でも手が雛乃に触れるより早く、雛乃はわざとらしく転び倒れ、その瞬間、手にしていたカップを勢いよく投げつけた。
床に粉々に砕け散ったカップを見て、紗江の目は瞬く間に赤く染まり、涙が溢れそうになった。
「晃くん、痛いよ」雛乃の甘えた泣き声が耳に残る。
次の瞬間、紗江は誰かに肩をぐっと掴まれた。
そして、強い力で後ろへ突き飛ばされる。
そのまま、そのまま雑物の山へと放り出された。
三年間の刑務所暮らしで紗江の体はすでに衰弱しきっていた。
この一撃で、彼女の顔色が一瞬で真っ白になり、額には冷たい汗が浮かぶ。浮かんでいた涙は堪えきれず、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
だが晃は、そんな彼女に一瞥すらくれず、すぐに地面に倒れた雛乃を抱き起こした。
雛乃はその腕にしがみつき、顔を埋めて涙を流す。「晃くん、紗江さんが本当に反省したと思ってたの。ちゃんと仲良くなりたくて頑張ってたのに、なんで私にこんなことをするの。
私、そんなに嫌われるの?押されたところ、本当に痛い」
雛乃は手は震えながら、涙を流していた。
見た目は痛々しいほど転んだように見えるが、髪が一本たりとも崩れていない。
演技でもなんでもいい。晃が信じてくれさえすればそれでいい。
案の定、彼の整った顔に、怒りの色が走る。地面に座り込んだままの紗江に向ける目は、明らかに怒りと憎しみに満ちていた。
「雛乃を突き飛ばしておいて、まだそんな被害者ぶっているつもりか?
さっさと立て」
怒声が耳を打つたびに、心がひどく揺さぶられる。
三年間付き合ってきた中で、彼がこんなふうに怒鳴ったのは、これが二度目だった。
一度目は、雛乃をいじめた犯人が、自分の手先だったと吹き込まれた時。
まるで強い酒を一気に飲み干したような感覚。
胸の苦しさで舌先まで痺れるようだった。
晃の怒りと嫌悪に満ちた顔を見つめ、紗江はもはや弁明する必要もないと悟った。
つまらない。
第5話
晃は、紗江が必ず言い訳を始めると思っていた。
だが、ふらつきながら立ち上がった紗江は、いきなり二人に向かって頭を下げた。
彼女が顔を伏せていたせいで、表情は見えない。だが、耳に届いたのは一切の感情を排した冷たい声だった。
「吉岡さん、すみません。私が慌ててしまって、ぶつかってしまいました。
わざとじゃありません」
その言葉に、晃も雛乃も思わず目を見開く。
雛乃の泣き声も、ぴたりと止んだ。
彼女は晃の胸に顔をうずめたまま、目に複雑な光を浮かべている。
やがて、雛乃は晃の服の裾を軽くつまんで、上目遣いに甘えたように言った。
「もういいよ、晃くん、彼女が本気かどうかは別として、謝ってくれたんだし。あなたのためにも、私は騒ぎたくないの」
寛大な一言に、晃の目に一瞬浮かんだ迷いも消えた。
卑屈に頭を下げる紗江の姿を見て、彼は冷笑を浮かべる。
そういうことか。
これまで一度でも、こいつがわきまえていたことがあったか?
今だって、ただの芝居に過ぎない。
やはり階層が違うのだ。雛乃のような器量は、いつまで経っても持てないのだろう。
彼は紗江を愛しているのだ。ただ、彼女はあまりにも救えない。
そう考えるほど、晃の胸はイラ立ちに満たされた。「謝るなら、もっと誠意を見せろ。君は彼女に借りがあるんだからな。この部屋は今後、雛乃に使わせる。お前には別の部屋を用意させる」
そう吐き捨てると、彼は雛乃を抱きかかえたまま、その場を足早に去ろうとした。
廊下はそう広くない。
わざとなのか、偶然なのか。通り際、雛乃のハイヒールが紗江の頭を蹴った。
紗江は何も言わず、ただ静かに屈辱を受け入れる。
誰にも気づかれなかったが、その眼差しは氷のように冷たく凍てついていた。
別の部屋を用意すると言っていたが、与えられたのは物置部屋だった。
この屋敷の使用人たちは、もともと紗江を見下してる。
彼女が刑務所から出てきたと知れば、将来の篠田夫人になる可能性などないと確信する。
晃が今、彼女を追い出さないのはただの情けでしかない。
だから、誰もが彼女に対してぞんざいだった。
紗江はすべてを受け入れていた。
なぜなら、さっき執事から送られてきた連絡を読んだからだ。すでに手続きは整っていて、問題がなければ、三日後には小松家に戻れる。
さらに、執事からもう一つ知らせが届いていた。
「お嬢様、以前、吉岡雛乃を拉致した連中のこと、調べがつきました。吉岡家とお金のやり取りがあったようです」
「ふざけた吉岡家め。お嬢様にこんなことを仕掛けるなんて……」
画面越しでも、執事の怒りと焦りが伝わってくる。
それこそが、彼女を心から思ってくれる人の反応だ。
昨日、彼女と再会してからまだ24時間も経っていない。それでも執事はすでに裏を取っていた。
つまり、吉岡家のやり方は稚拙だったということ。
晃が本気で動けば、とっくに真相にたどり着けたはずだ。
けれど、彼は動かなかった。
つまり彼の中では、自分こそがそんなことをする人間だと決めつけられていたのだ。
鼻の奥がつんと痛む。胸の奥が痙攣するように締めつけられる。
彼女は涙を堪え、執事に静かに言った。
「山口さん、このことはまだ両親にも兄にも言わないで。私が自分で片をつけるから。
親不孝でごめんなさい。こんなに長く家を離れて、心配ばかりかけて」
彼女の頼みに、執事はため息をつきつつも承諾した。
そして、彼女が昔よく使っていた私物をいくつか送ってきてくれた。
それらは箱に収められていた。
紗江がそれを取り出そうとした時、部屋の扉は、いきなり乱暴に開かれた。
第6話
「紗江、あんたってほんとに厚かましいわね。そんな立場になってまで、まだ晃くんのそばに居座ろうとするなんて」
扉が乱暴に開かれたのと同時に、雛乃の軽蔑と傲慢が入り混じった声が部屋に響いた。
彼女はいつだって紗江を見下している。
晃の前でだけは猫を被っていただけだ。
もともと雛乃にとって、紗江など敵にする価値もない存在だった。
だが、晃が本気で紗江に惹かれていると思わなかった。
だからこそ、被害者を演じて紗江を刑務所へ送り込んだのだ。
せめて10年は刑務所の中で苦しんでいればいい。
最悪、金を使って中で事故でも起こしてもらえばいい。
なのに、たった三年で戻ってきた。
しかも、ピンピンした姿だった。
突然の来訪に、紗江はまだ荷物を片づけていなかった。その手に持っていた、重厚な装飾のある箱は、すぐに雛乃の目に留まった。
もう隠そうとしても無駄だった。
「何よ?」雛乃の笑みが、すぐに冷ややかなものへと変わる。眉を少しつり上げて、冷たい声で言い放った。「まさか、晃くんからもらったものって自慢したいわけ?
バカみたい。そんなもの私ならいくらでも持ってるわ。貧乏人らしい発想ね。
この家の女主人は私よ。晃くんがくれたものは返してもらう権利があるわ」
そう言って、彼女は箱に手を伸ばした。
だが紗江は、さっと身を引いてそれを避けた。無表情のまま冷たく言い放つ。「これは私の物よ」
「あなたの?」雛乃は一気に声を荒げた。
先ほどの一瞥で、中身が何かは見えていた。
翡翠のアクセサリーだ。
しかも、高級品の琅かんだ。
もしそれが晃の贈り物でないなら、偽物に違いない。
とはいえ、その出来はよくできていた。
彼女の脳裏に、さっと一つの計画が浮かぶ。だが顔には出さず、腕を組み、あごを少し上げて見下ろすように言う。
「晃くんとちゃんと話し合ったの。明日、晃くんの友人たちが来るの。だから、明日が終わったら、さっさと出ていってちょうだい。まあ、どうしても出ていかないっていうなら、私と晃くんの結婚式にも参加させてあげなくもないけど」
その皮肉に、紗江は珍しく顔を上げた。そして、薄笑いを浮かべた。「へえ、もう晃、結婚発表の相手の名前、差し替えたの?」
刑務所に入る前、晃は篠田グループの公式サイトで、彼女との結婚を発表していた。
あれは今もまだ、取り下げられていない。
もちろん、今の状況を見れば、相手が雛乃に変わるのは時間の問題だ。
紗江自身も、そう思っていた。
だが、それでいい。
少なくとも今のところ、彼にその気はないらしい。
今はこの事実が、雛乃の心をえぐるナイフになる。
案の定、雛乃はお嬢様らしい上品さを保てず、整った顔が怒りで歪んだ。
だが激怒した彼女は手を振り上げたが、結局振り下ろさなかった。
代わりに、不気味な笑みを浮かべて言った。
「紗江、いいわ、ゆっくりしよう。
あんたみたいな女が、私を敵に回してどうなるか思い知らせてやる」
紗江は遠慮せず、雛乃の体を無理やり押し出すと、扉をばたんと閉めた。
雛乃が言っていた宴会など、参加する気はさらさらなかった。
むしろ使用人たちが荷物をまとめてくれたおかげで、かえって都合がよかった。
疲れ切った体を引きずるようにして、彼女はその夜一睡もせず、これまでこの家で使っていた私物をすべて集め、まとめて裏庭の人工池に捨ててしまった。
第7話
捨てるたびに、紗江の顔から少しずつ重苦しさが消えていく。
……
最後のものが水面から沈んで消えた瞬間、痩せた顔にふっと柔らかな笑みが浮かんだ。
もうすぐ、彼女は生まれ変わる。
だが、翌日、晃は紗江に無理やり宴会への参加を求めてくるとは思わなかった。
ボディーガードがサイズの合わない服を2着届け、ドアの前で待機している。
これを着て宴に出るか、それとも部屋に閉じ込められるか。
紗江は一目で、それらが吉岡雛乃の着古した服だと気づいた。
もしこれを拒めば、残るのは昨日着た汚れた服だけ。
かつての彼女なら、この露骨な嫌がらせにすぐさま声を荒らげ、晃に泣きついていただろう。
けれど今はもう違った。
紗江は黙って、そのドレスをゴミ箱に突っ込み、昨日の服に着替えた。
やがて部屋から出てきた紗江を見て、ボディーガードは一瞬呆気に取られた後、皮肉げに口元を歪めた。
「小松さん、自分で選んだんですからね。誰にも強制されてませんよ?あとで篠田さんの前で泣きついたって知りませんから」
その言葉に、紗江は冷ややかに彼を見返した。瞳に一瞬だけ閃いた険しさに、男は思わず身を引いた。
陽光の中、彼女は痩せた背筋をピンと伸ばしていた。琥珀色の瞳には溶けない氷が張り詰めている。
彼女は冷ややかに言い放った。
「世の中の人間が全員、吉岡と同じだと思わないで」
それだけ言い残して、紗江はまっすぐその場を後にした。
宴にはすでに多くの人が集まっていた。ほとんどが晃の友人で、紗江にも見覚えのある顔ぶれだ。
まだホールに着かないうちから、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
皆がテーブルを囲み、ゲームをしたり、昔話に花を咲かせたりと、実に賑やかだった。
話題は晃の学生時代のことばかり。
「晃さ、俺たちずっと思ってたんだよね。最終的には絶対、雛乃と一緒になるって。家柄も似てるし、同じ学校で育った幼馴染なんだし」
「まあまあ、今日は楽しくやろうよ、そんな話はよそう」
「はっきり言わせて、あの紗江、親の素性すら分からないような田舎育ちの孤児だろ?顔が綺麗でも、晃のためにならない」
「やっぱ晃と雛乃の方がお似合いだって。あの女、しかも刑務所帰りなんだろ?晃、忠告しておくけど、たまには責任感を捨ててもいいんじゃないか。普通の人間なら、一生見られない世界を見せてやったんだから、感謝されるべきだよな」
中心にいた晃は、何も言わず、黙ってグラスを傾けていた。
紗江はしばらくその姿を見つめていたが、やがて静かに前に進み出た。
彼女の姿が現れた瞬間、先ほどまで好き勝手に語っていた連中は一斉に口をつぐんだ。
そして、彼女の服装に気づいた者たちは目配せをし、不快そうな嘲笑を隠そうともしなかった。
だが紗江は、まるで見えていないかのように振る舞い、冷静に声を上げた。
「私の席は?わざわざ手を尽くして招いたのに、まさか席も用意してないの」
その言葉に視線を向けられたのは晃の隣に座っていた雛乃だった。
雛乃は一瞬目を伏せ、わざとらしく悲しげな表情で立ち上がった。
だが晃は彼女の手を握り、優しくも強引に言った。
「君がここに座ってろ」
第8話
何しろ、紗江と晃はまだ正式に別れたわけではない。彼が今ここで取った行動は、紗江の顔に平手打ちを食らわせるようなものだった。
彼女は唇の端を皮肉に引き上げたが、何も言わなかった。
だが晃は怒りをこめた黒い瞳で紗江を見据え、低く鋭い声をぶつけてきた。「どうして執事が用意したドレスを着なかった?そんな格好して、皆に自分が虐げられているとでもアピールしたいのか」
紗江は、笑顔を浮かべながらも、その目は冷ややかだった。
「送られてきたのは吉岡の服よ。汚らしくて着る気にならない」
その瞬間、雛乃の目から涙が次々とこぼれ落ち、しゃくり上げながら声を絞り出した。
「晃くん、私は本当に精一杯やってるのに、紗江さんが、どうしてこんなふうに私を責めるのか……」
「責めてないわ」紗江は雛乃の芝居を遮り、堂々と皆と視線を合わせ、生まれながらの気高さと誇りを持って語った。「ただ、あなたの服は捨てるだけ。もし晃が送ってきたものなら燃やすわ。
縁起でもないね」
その最後の一言で、晃の表情は一気に冷えきった。
彼は立ち上がり、まっすぐに紗江の前へと歩み寄る。
その顔には怒気が満ち、黒い瞳には怒りと殺気が宿っていた。場の空気が一瞬で凍りつく。
誰もが、晃がここまで激怒した姿を見るのは初めてだった。
彼は紗江の肩をがっしりと掴み、一語一語をかみ砕くように言い放った。「本当に、俺が婚約を取り消すと思ってないのか?
紗江、来週には式を挙げようと思ってたんだ。君がこんなふうにふざけてばかりだ。
刑務所に入ったのは自業自得だろ。反省もしないで、ますます図に乗りやがって。もう一度、ぶち込まれてえのか?」
紗江はふっと笑った。涙がにじみそうになるのを、鼻の奥のつんとした痛みをこらえて押し返す。
たった一言を返した。
「あなたに、その資格はない」
晃の怒りはさらに増したが、それ以上に心に広がったのは不安だった。
確かに、紗江は気が強く、誇り高い女だ。
帰ってきてからの彼への態度も冷たかった。
だが、晃はそれが駆け引きで、自分の気を引きたいだけだと思った。
けれど今日の彼女は、何かが違った。
彼女の言葉は怒りのせいではなく、本心から出たものだった。
目に宿る軽蔑も、演技ではなかった。
だが、その動揺も一瞬のこと。晃はすぐに冷静さを取り戻す。
晃は知っていた。紗江が孤児で、行く当てがなく、彼の元に戻るしかない。
3年も刑務所に入り、結局しょぼくれて戻ってきた。
「お嬢様」突然、使用人が雛乃のもとへ駆け寄り、息を切らして報告する。「あの翡翠のジュエリーセットが見当たりません!奥様からいただいたセットです」
「な、なに?」雛乃は慌てて立ち上がり、取り乱した様子で言った。「すぐに探して」
晃も気を取られ、紗江の肩から手を離す。
紗江は、しびれた肩をそっと動かしながら、翡翠という言葉に胸の奥がざわついた。
案の定、場内は騒然となった。
すぐに紗江の部屋から箱が見つかり、中には紛れもなく翡翠のジュエリーセットが収められていた。
雛乃は見事な演技で、箱を見つけると飛びつくように抱きしめた。
「よかった、本当になくなったかと思った」
だが、次の瞬間、意味ありげに視線を紗江へ向ける。その瞳には、ごく自然な疑念を浮かべながら。「でも、どうして、紗江さんの部屋から?」
そして慌てて付け加えた。「いや、きっと誤解よね。だって、晃くんも、紗江さんにたくさんプレゼントしてたもの」
だが晃は、険しい顔をして冷たく言い放つ。「これは、俺が贈ったものじゃない」
紗江はその箱をはっきりと認識した。雛乃は、彼女のものを奪うだけでなく、泥棒の濡れ衣まで着せようとしている。
だが紗江は慌てず、ただ冷ややかに雛乃を見下ろした。
「吉岡、前に私に冤罪を着せたのはもう許したけど、今回は、ちゃんと自分で返してもらうわ。
だって、その箱の中のもの、あなたには持つ資格すらないから」
それは、紗江の成人祝いに母親が贈ってくれた、小松家に代々伝わる宝物だ。
雛乃には、触れることすら許されない。
雛乃は内心で怒りに震えながらも、傷ついた様子を装った。
「じゃあ聞くけど、そこまで高価な翡翠、一体どこで手に入れたの?」
第9話
紗江は本当のことを言おうとした。けれど、ふと横に立つ晃の嫌悪に満ちた顔が目に入り、その言葉を飲み込んだ。
もし可能なら、一生この男とは関わりたくなかった。
だから紗江はただ冷たく言い放った。「これをどこで手に入れたかなんて、あなたには関係ないわ。
どうしても私に罪を着せたいなら、監視カメラでも確認したら?盗んだのが誰か、はっきりするでしょ」
雛乃は唇を噛み、目を潤ませながら屈辱的な表情を見せた。「いいよ、じゃあ監視カメラを見よう」
その場にいた人たちはすぐさま彼女の味方につき、紗江を一斉に非難した。
「紗江、お前頭おかしいんじゃない?貧乏人のくせに、普段は晃に寄生して生きてるくせに、そんなもの買えるわけないだろ」
「これ、雛乃のものだよ。前に彼女の家で見たもん」
「監視カメラなんていらないでしょ?以前だって、雛乃にひどいことしてたじゃない」
雛乃は晃の袖を握り、すすり泣きながら言った。「晃くん、監視カメラを確認しよう?」
「本当はこんな騒ぎにしたくなかったの。誰にも知られずに解決したかった。
でも、紗江さんが私を疑うなら、仕方ないよね。私は構わないよ。
ただあなたが傷つくのがつらいだけ」
晃の拳が固く握られた。黒い瞳は底知れぬ冷たさを湛え、静かに紗江を見つめていた。
彼は頑なに謝罪しない紗江を見つめ、諦めたように口を開いた。
「紗江、本当にここまでするつもりか?」
その失望に満ちた眼差しを見て、紗江は思わず笑ってしまった。
突然、悔しさが込み上げてきた。
「晃、監視カメラを見れば済む話でしょ。
どうしてそんなに拒むの?
私を信じたくないの?それとも、吉岡が実は性根の腐った女だって、認めたくないの?」
晃の目には、さらに深い失望が浮かんだ。
「雛乃が性根が悪いって?それより君のほうがよっぽどだろ。
この件が広まれば、俺の顔に泥を塗ることになる。それくらい分かってるはずだ。
正直、後悔してるよ。
あのとき、山の中で助けるべきじゃなかったのかもな」
ぱたん。
涙が、意識もなく頬を伝い、地面に落ちた。
刑務所で苦しんでいたときも、誰かにいじめられていたときも、涙など浮かばなかった。
でも今は、心の底からつらかった。
この気持ちを、どう表現すればいいのか。
失望、悔しさ、そして滑稽さ。
こんな男のために、全てを傷だらけにされた自分が滑稽でたまらなかった。
紗江は素早く涙を拭い、何もなかったかのように表情を整えた。「で?今度は私をまた刑務所に送るつもり?」
晃は視線を外し、もはや顔を見たくもないといった様子だった。「俺は正式に婚約を解消する。
でも今日の件は、きっちりケジメをつけさせてもらう。
君が本気で考え直してから来い。そのときに結婚の話を再検討する」
紗江はあっさりと答えた。「いいわよ」
晃は思わず歯を食いしばり、手を強く握った。「こいつを外に放り出せ」
すぐにボディーガードが紗江を連れ出した。
だが、玄関の外に出た瞬間、彼らは手を緩めるどころか、彼女を力任せに地面へ押し倒した。
胸騒ぎを覚えた紗江は身をよじりながら叫んだ。「何するつもりよ?」
ボディーガードは冷たい笑みを浮かべ、手に持った棒を見せつけた。「物を盗んだんだ。罰を受けるのは当然だろ」
そう言うと、容赦なく棒を振り下ろした。ゴツッ、バキッと音が鳴るたびに、紗江の手に激痛が走った。
波のように押し寄せる痛みで身体はけいれんし、息をすることすら困難だった。
血の気が視界を覆い、叫ぶ力もなかった。
自分の手が折られていくのをただ見つめるしかなかった。
憎しみと怒りが胸の奥で渦巻き、紗江はかすれた声を絞り出した。
「晃の命令か?」
ボディーガードは冷酷な目で見下ろし、吐き捨てるように答えた。「それはお前が、自分の分を弁えなかったからだ」
そう言って、彼女をまるでゴミのように山道の途中に放り捨てた。
紗江は動けず、冷たい風と闇に身を晒したまま、ゆっくりと意識を失いかけていた。
そのとき、彼女の前に二つの影が差し込んだ。
どこかで聞いたことのあるすすり泣きが聞こえた。山口だった。
「お嬢様、連絡が取れなくなって、もしやと思って!
慌てて手塚様にも同行をお願いして来たんですが、間に合わなくて、本当に申し訳ありません」
手塚様?
痛みによって朦朧とする意識の中で、紗江はその名前を繰り返し思い出していた。
そして、彼女の身体は誰かにそっと抱き上げられた。
温かく、どこか懐かしい香りに包まれるその胸に、紗江は抵抗しなかった。
耳元で、澄んだ優しい声がささやいた。あの頃、幼い頃に聞いたあの声で、彼はこう言った。
「紗江、もう大丈夫。俺が家に連れて帰る」