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音もなく雪が降る
十年間、堀内瑞雪(ほりうち みゆき)はずっと文句を言わずに篠崎乃安(しのざき のあ)のそばにいてあげてきた。 何もない退学寸前の大学一年...
Chương (1)
第1章
十年間、堀内瑞雪(ほりうち みゆき)はずっと文句を言わずに篠崎乃安(しのざき のあ)のそばにいてあげてきた。
何もない退学寸前の大学一年生から、誰もが羨む篠崎グループの会長に、乃安が妻への深い愛情は、海市では周知のことだった。瑞雪自身も、そう思っていた。
しかし結婚して三年後、乃安は自分の囲い者と、二人の一歳になった子供を連れてきた。
帰るチャンスも捨て、自分の愛を全て捧げた報いは、裏切りだった。それなら、瑞雪は徹底的に、自分の愛を取り戻すしかなかった。
小川心晴(おがわ こはる)はただの遊び相手で、子供はただの意外で、いつまでも瑞雪だけが本命だと、乃安はずっとそう思っていたが、自分の命の一部だった彼女が行方不明になって、彼は気づいたのだ。この二年以上の裏切りで、とっくに自分は完敗したと。
第1話
「堀内さん、本当に自分に火葬の予約をするんですか?」
桃色の唇を軽くぎゅっとして、堀内瑞雪(ほりうち みゆき)は平然たる顔で頷いた。
「はい、予約したいんです。二倍の値段で支払ってもいいので、どうかこの2つの条件を満たしていただければと。まず、最高級の火葬炉が必要です。死体を残さず燃やせるために。そして、火葬した遺骨はすぐに海にばら撒いてください。プロセスは予め計画してくれるようお願いします」
支払って、予約の手続きを済ませて、半ヶ月後のスケジュールを確認した後、瑞雪は車で葬儀場を出た。
篠崎グループの本社を通りすがった瞬間、大型ビジョンに映るライブ配信の画面が目に入った。誰もが羨む篠崎グループの会長、篠崎乃安(しのざき のあ)は、記者からのインタビューを受けていた。
「一棟のビルくらい、全然寄付しますよ。海大は妻と知り合った母校なんです。母校が必要であれば、何でも差し上げますので。
東区のあの土地はまだ開発する予定はないんですね。残しておいて、自分で妻に夢のような家に設計してあげたいんです。
いきなり遊園地業界に手を出したことも大した原因はなく、妻は観覧車に乗るのが趣味で、全世界で唯一無二の観覧車をプレゼントしてあげたいからです。
ゲーム開発チームを買収したのも妻と少し関係がありまして、妻の好みに合って、女性向けのゲームを作ってあげたいんです。ゲームの世界でも、妻が変な人に影響されてしまったら困りますから」
最初から最後まで、妻のことばかりだった。
それほど深い愛情の込めた発言で、老若男女の関係なく、大勢の人が惹かれていた。
「篠崎会長、なんて愛妻家でしょう。毎晩こんな最高な夫と枕を交わして、その奥さん、どれほど幸せなのか、想像もできないわ」
「臆病者、妄想くらいいいでしょ。毎晩枕を交わすだけじゃ物足りないわ。毎日篠崎会長とショッピングしたり食事したり、愛の囁きで溺れたり、どこにだって連れてってもらったりして」
わいわいする喋り声が続いていた。ビジョンに映るインタビューを聞いて、例え昭和初期生まれの老人でも、まだ漢字も読めない純真な児童でも、その溢れんばかりのロマンチックな情熱に感心し、篠崎会長の愛情の深さを感じ取っていた。
「篠崎会長は愛妻家だな」と。
瑞雪は皮肉めいた笑みを浮かべ、目を逸らした。
彼女は十年前、事故で亡くなりそうになった時、この体の元主の念願に導かれ、この世界に来たのだ。
元主は乃安の幼馴染だったが、さまざまな誤解が故に、乃安と離れ離れとなり、闇堕ちさせてしまったのだ。彼の起業した企業が上場しても、尚彼女の乾いた心は癒されなかった。いっそのこと、上場の前日に自殺した。
生き返っても、自分は結局宿命には抗えないのではないかと心配で、死にそうな瑞雪を召喚してきたのだ。
生きていくために、瑞雪はずっと文句を言わずに乃安のそばにいてあげてきて、彼を何もない退学寸前の大学一年生から、誰もが羨む篠崎グループの会長にしてあげた。
会社が上場したら、自分は無事に帰って、元の世界で家族と再会できると思っていたが、長年一緒にいた日々の中、彼女はとっくに彼に惚れてしまったのだ。
現実ではないと知りながら、自分の愛を注いで育て上げたこの男を見て、彼女は自分の意志で帰るチャンスを捨て、せっかく手に入れた二回目の人生を、乃安に託した。喜びながら、彼の嫁になり、共白髪になるまで歩んでいこうと決めたのだ。
愛さえあれば、どこでも幸せになれると、同等な愛で報われると、そう思い込んでいた。
付き合ってからの四年間も、結婚してからの三年間も、まるで彼女が少しだけ傷つくことすら許せないかのように、乃安は表で全力でそう振る舞ってきた。
もっともっと可愛がれるように、三年間、子作りのことに関して一言も言わなかった。
二人の生活に邪魔者が現れてほしくないからだと。例えそれが何も知らない赤ん坊であっても。
子供はほしくないが、彼女にもアフピルを飲ませたくなくて、毎回する前にしっかりとつけていた。彼女の体を犠牲にするよりはマシだからだ。
そんな優しく、紳士的な男だが、彼女の知らないところで、囲い者と一歳の子供と家庭をもった。
【ね、知ってる?乃安が始めて子供ができたって知った時、めちゃくちゃ驚いて、大喜びしたのよ。
子供のベビー服もおもちゃもベビーカーも、乃安が自ら選んでくれたの。子供がもっと優れた環境で育てるように、庭園やプール付きの大別荘をくれたのよ。色んなところに子供の名前を書いててさ。
産後の私はお腹に妊娠線ができて、乃安に嫌われちゃわないかなって心配してたけど、乃安は額から足まで、至る所にキスしまくったの。嫌いになるわけないって。世界で一番綺麗で無垢な模様だって。
エレベーターに入ってから舌を絡めて、玄関に上がってから服を脱いで、部屋に入るまでもなく、歩きながらもう抑えきれなくなった感覚、わかるかな~?
乃安は最高で、たまらなかったって言ったわ。あんた、堀内瑞雪と一緒では味わえないけど、私だからこそ味わえる感覚だって】
自慢さが溢れ出しそうな文章が送られてきた。様々なシチュエーションや体勢の写真と動画付きで。
それは三年前、小川心晴(おがわ こはる)がまだ入社したばかりのインターン生だった頃から始まっていた。出産して母親になるまで。妊娠中でも、彼は休ませなかった。
なんと相思相愛で、ラブラブのカップルなのでしょう。
赤くなり、涙が溢れそうな目を擦り、瑞雪はスマホをカバンに入れた。そして横断歩道を渡って、篠崎グループ本社の向かいのカフェに入った。
弁護士はすでにそこで待っていた。
入ってきた彼女を見て、弁護士はカバンから分厚い書類を取り出し、彼女に渡した。
「堀内さん、おっしゃる通りにご用意した離婚協議書と、遺産を婦人子供のための財団法人に寄付する代理声明文で……」
まだ話の途中で、瑞雪は素早く書類を受け取り、迷いもせず二種の書類にともはっきりと署名した。
「遺産の処置は任せます。離婚協議書は、半ヶ月後必ず篠崎乃安の手に届けてください。死ぬまで、あいつと名前が並んでるのが嫌ですから」
要件を伝え終わると、瑞雪はお金を払い、カフェを出た。
篠崎グループの本社の周りの広場に戻ると、突然見慣れた姿が本社から現れ、こちらへ歩いてきた。
「本当に瑞雪だ」
乃安のそのハンサムな顔に、喜びが隠せずに浮かんでいた。
「こんな暑い中、どうしてここに?部下が君を見かけたって言い出した時、見間違いだと思ったよ」
第2話
それを聞いた瞬間、彼女の細い眉毛がビクッとした。瑞雪はただ黙りこくって、返事しなかった。
長身の乃安はその異常に気づかなかったかのように、すっと寄ってきて、いきなりその肩に手を回した。
「家で休まないで、こんなところに来て、そんなに会いたかったの?一緒にご飯、食べたくなってきたの?」
二年前、瑞雪が低血糖で倒れてから、また倒れてしまうのが心配で、乃安は仕事を辞めさせた。
大切に世話をしているだけでなく、屋敷の至るところまで監視カメラを設置した。彼女に何かあったら、すぐにわかるために。
監視カメラを設置したものの、彼の心は、すでに他の女に移った。
そうでなければ、彼女が朝っぱらから出かけたことも知っているはずなのに。
どうでもいい。もう帰ると決めたのだから、彼の心がどこに移ろうが、もうどうでもいい。
男の体から薄々と香る匂いが鼻をついた。自分とは真逆な激しいバラの香りだった。瑞雪は顔を横に向け、息を詰めるようにして言った。
「この近くのフランス料理が食べたくなってきて」
「じゃ食べに行こう。食べ終わったらまた戻って、一緒に昼寝しよう」
乃安は笑いながら、更に力強く彼女を抱きしめた。
「瑞雪、知ってるはずだ。君がいなきゃよく眠れないんだ。こんな毎日俺に付き合わせたら、君も疲れちゃうからさ。でないと朝昼晩、君を縛りたいぐらいずっと一緒にいてほしかったよ」
一緒にいて、会社を経営しながら妻を可愛がると同時に、他のところで良い夫、いいパパを演じる時間管理術抜群の二股男の実演でも見せられるの?
皮肉な笑みを浮かべ、瑞雪は乃安と一緒に駐車場に行き、車で近くのレストランに向かった。食事の後、また本社に戻った。
昨夜メッセージが来てから、彼女は長らく便座に座っていて、ほぼ一睡もできなかったから、昼寝と言って、かなり長時間爆睡していた。
起きたら、もう午後4時過ぎだった。乃安は真面目で一心不乱な目をしていて、パソコンの前で仕事に没頭していた。
足音を聞いて、彼はすぐに仕事を後ろ倒しにし、何かを貢ぐかのように簡易冷蔵庫から用意しておいた果物とデザートを取り出した。
「随分寝てたな。お腹空いただろ?君、昨夜あんまり眠れなかったみたいだから、早めに切り上げて、美味しいものを食べに連れて行こうと思って。食事が済んでからまた帰って休んで、ね?」
自分から言い出したことは、半時間も経たずに反故にされた。
突如着信音が鳴って、その目鼻立ちの整った顔から躊躇ったような表情が見えた。
「ごめんな、瑞雪。プロジェクトからちょっと急用があって、会長の俺が自ら処理しに行かなきゃいけないから、今晩は一緒にいてあげられないんだ。好きなレストランに食べに行って。それからどっかでショッピングしてもいいよ。俺からの補償として、買いたいものがあったら何でも買っていいから」
瑞雪は知っているはずだった。
自分は一人ぼっちだが、心晴には子供もいることを。
乃安は自分のためにこんなに時間を裂いてくれたのだから、飽きてしまって心晴とその子供のところに行きたくなるのも、無理もない。
しかし、彼女はやはり不愉快に感じた。だから、わざとらしく嫌がらせを言った。
「何の急用?アシスタントの前田さんに伝言させずに、そのままあなたのスマホに電話するなんて。まだ帰ってないことを知らなかったの?」
乃安の瞳は一瞬で曇った。
それに気づいた瑞雪は淡々と続いた。
「でも会社のことなんだから、私が怒ってもしょうがないし、あなたのせいでもないからね。こんなでかい会社を一人で経営するのもう結構大変なのに、妻として何も手伝ってあげられなくて、だからこそ仕事のことでもっと寄り添ってあげなきゃよね」
乃安は明らかにほっとした。
「やっぱり瑞雪が一番わかってくれるな」
「こういう私だから好きになったんでしょ?」
手を引っ込めようとした瞬間、瑞雪はふと乃安のスマホの画面に目を走らせた。画面に映っているのはラインでの短いやり取りと、送られた一枚の写真だった。
少し距離があったため、写真の内容ははっきり見えなかったが、間もなく、自分のスマホにも届いた。
透け感のある黒いパジャマの自撮りだった。
角度が絶妙で、表情も色気があった。そのような妖艶な姿は、いつもまともで地味な自分よりはずっと誘惑的だった。
乃安が約束を破ってまで心晴に会いに行くものだ。
ただ、両方を駆け回っている中、彼は忘れてしまったようだ。結婚したばかりの頃、彼女とも毎日やる気満々だったことを。毎晩4、5回やっても満足できず、翌日の朝にはまたやりたくなるくらいだった。しかしある時期、彼女は生理が一週も遅れてしまい、彼も怯え始めた。つけていてもそのような頻度ではできなかった。
彼は「控えめにしないと。妊娠させたら邪魔者が現れてしまう」と言っていたが、結局控えめにするのは妊娠させてしまうのが心配だからとかではなく、心晴のところで最大限に発散するためか。
長い睫毛が垂れていて、冷笑するような瞳を覆った。瑞雪はカバンを持って、篠崎グループの本社を後にした。
車でぐるっと回って、彼女は乃安の言う通りにレストランに行ったのではなく、そこでタクシーを捕まえてまた戻ろうとした。
まだ近づいていないのに、遠くから急いでいるような乃安が見えた。焦っているような顔色をした彼は本社の向かいの二棟の多目的ビルに駆けていった。
ふとその向かいに、乃安の買ったレジデンスを思い出して、瑞雪は顔色が急に変わった。
まだ付き合っているだけの時期に、彼は「会社でゆっくり休めないかもしれない」と、わざわざ二人の昼寝用にレジデンスを買った。
この日の昼頃、自分は本社と多目的ビルの間で乃安に会った。
となると、彼は社員の話を聞いて自分を迎えに来たのではなく、向かいに心晴に会いに行く途中だったのか。
ただちょうど自分とバッタリ会ったから、行けなかった。
ようやく自分が離れたら、また我慢できずに心晴のところに。
あんなにも待ち遠しく。
すでに帰る決意をしたのに、この瞬間、瑞雪の心はやはりチクチクと疼いた。
右手で胸元を押さえ、彼女の小顔は真っ青になった。冷や汗も滲み出しそうになった。
「どうしたのですか?具合が悪いんですか?病院に行きます?」
運転手は焦りながら問いかけた。
病院?そうだ。具合が悪いなら病院にいかないと。それに誰かについてもらわないと。
深呼吸をしてなんとか気持ちを落ち着けてから、瑞雪はスマホを取り出し、乃安に電話をかけた。
「乃安、急に胸が痛くて、苦しいの。家に帰って、病院に連れてってくれない?」
第3話
遠くない歩道で、電話に出た乃安は急に足を止めた。
後ろを振り返って、また前を見て、躊躇っていた。
この先は、彼の買ったビルで、子を産んでから尚昔のように自分を満足してくれる優しい心晴が、そこで自分を待っていた。
後ろは、篠崎グループで、瑞雪と共に建てた会社であった。そこには、二人の数えきれないほどの思い出が詰まっていた。
地獄の選択に、乃安は一瞬だけ迷った。一瞬だけ。
「今本当に忙しくて、手が離せないんだ。ごめんね、自分で病院に行って。それか、江平先生を呼んでくるとか……」
瑞雪は電話をピッと切った。
探るのはいい。探る必要もなくなったし。
仮面を被って接しなければ感じられない愛なら、それはもう愛ではない。さっさと手放すべきだ。
スマホをサイレントモードにし、カバンの一番奥にしまって、瑞雪はその場でタクシーを降りた。篠崎グループの本社の前の道を沿って、一歩一歩、足でこの都市をなぞるように歩き回っていた。
計算したら、この世界に来てすでに十年も経っていた。
十年間、彼女は乃安のことで頭がいっぱいで、乃安のことで笑って、乃安のことで泣いてきた。この辺りの景色はちゃんと見たこともなければ、ちゃんと感じ取ることもなかった。今、彼女は初めて気づいた。この作者に書かれた本の世界は、実はこんなにも美しい都市なのだと。
半ヶ月後、彼女は徹底的にここを出ることになる。今のうちにしっかりと目に焼き付けないと、いつか思い返しても、語ることもできないであろう。
外で夜10時過ぎまで遊んで、家に帰ったらやはり誰もいなかった。
不在着信や未読のメッセージはたくさん来ていたが、瑞雪は全部無視して、削除した。
小屋裏から空っぽのダンボールを取って、部屋に戻り、荷物を片付け始めた。
高いブランドのジュエリーやカバンから。
本の外から来たのだから、本の中のものは持ち帰れないし、乃安や心晴に残すわけにもいかない。だとしたら、自分の名義の株式や不動産と一緒に寄付したほうがマシだ。弁護士の手伝いもあるし。
ダンボール一箱があっという間にいっぱいになった。
中身は瑞雪がこの十年間使ったすべてのジュエリーやカバンだった。自分で買ったものも、乃安からもらったものも。
【翌朝、取りに来てください】と、弁護士にメッセージを送ってから、瑞雪はようやく安心して、歯を磨いて眠れた。
いつの間にか、乃安は帰ってきた。起きた時点で、彼女はすでに抱きしめられていた。
気持ち悪く感じ、瑞雪は反射的にその腕から抜け出した。
乃安は顔を下げ、空っぽな両腕を見て、悲しそうな顔色をした。
「ごめんな、瑞雪、わざと一人にしたわけじゃないんだ。昨日本当に忙しかったんだ。謝罪するために、朝ご飯に瑞雪の大好きな海鮮粥を作ってあげたよ。仕事が大変で妻と一緒にいられなかった俺も可哀想だからさ。今回だけは許してくれない?」
一夜も帰らなかったくせに責任転嫁とは、よくもできるね。
瑞雪は口を半開きにし、何か言おうとしたところで、乃安の少し乱れたパジャマの襟から、何気なくあの挑発的な赤いキスマークを見た。
あんなに赤く輝いているのだから、昨日残したものに違いない。
心晴がどれほど力強く、こんなキスマークを残したのだろうか。
乃安は知っているだろうか。もし知っているなら、隠そうとはしているのだろうか。
それとも、彼からして、彼女はただの自我のない人形で、何でも自分の言うことを信じるとでも思っているのだろうか。
自嘲するように軽く口角を上げ、瑞雪は細い声で言った。
「もちろん許してあげるわ。あなたはこの家のために、駆け回ってるんでしょ。ただ、いつも一人で寝てるから、いきなり誰か来て、ちょっと慣れてないだけ」
乃安は固まった。ふと一週間前、子供の病気で、出張の日程を三日後ろ倒しにしたことを思い出した。
三日間の子供の看病と四日間の出張と一日の密通で、瑞雪とは、もう八日間も一緒に寝れていたなかった。
乃安は後ろめたくなってきた。
「一人で会社を経営するの、確かに昔よりは忙しくなったな。落ち着いたら、長期休暇を取って、ちゃんとそばにいてあげるよ、な?」
言い訳をする時まで、被害者面か。
瑞雪は更に意味深な笑みを浮かべた。
「うん。待ってるわ」
乃安は結構料理が上手だった。
海鮮粥の食感は柔らかく、上手く組み合わせた料理と合わせて、向こうの人は目障りだが、瑞雪はお腹がいっぱいになるまで食べた。
満足げに朝食を済ませた彼女を見て、乃安も安心して出勤に出かけた。
彼が出てから間もなく、弁護士の土谷さんが来た。
片付けた荷物を土谷さんに渡し、瑞雪は引き続き荷物の片付けに取り組んでいた。
知り合ってから三年後、付き合って四年を経て、結婚してまた三年経った今、この十年間ずっと一緒にいた時間で、思い出になるものは数え切れなかった。
渡したばかりのジュエリーやカバン以外、クローゼットに詰まった洋服や靴、どこにでもある花瓶や掛け絵などの小物、お出かけや旅行の時に買った記念品やお互いに贈ったプレゼントなどなど。
自分で買ったものにせよ、乃安からもらったものにせよ、瑞雪は自分の所有するものを全部集めた。
あと十四日で、彼女は消えるのだ。
消えるなら、跡も残さず消えたかった。
彼女は紙切れすら、丁寧に片付けて処理した。乃安にメッセージが残せるものを全部。
気づいたら、もうすぐ正午だった。出前を待っている間、乃安が先に帰ってきた。
海市の夏はよくゲリラ豪雨が降り出していた。雨に打たれ、じめじめになった服を乾く余裕もなく、彼は暗い顔色をして部屋に駆けてきて、瑞雪に問いかけた。
「俺達の結婚指輪は?瑞雪、君が失くしたのか?」
もうバレたの?
瑞雪の黒い瞳に、いきなり背徳の快感の含んだ光が輝いた。
「失くしたんじゃなくて、財団法人に売ったのよ。
急に寄付がしたくなってね。あなたがくれたジュエリーやカバンを、ぜーんぶ片付けて売ったの。
乃安自身にも貧困だった時期があるから、きっとわかってくれるよね?応援してくれるよね?」
第4話
さりげない口調に、乃安は呆然とした。
数秒間ぼんやりしてから、彼はかすれた声で返事した。
「ジュエリーくらいなら、飽きたらまた買ってあげればいいが、結婚指輪は……」
彼は片膝をついて、大きな手で瑞雪の小さな手を握りしめ、ポケットから見覚えのあるサファイアブルーのボックスを取り出し、誠意を込めてその手のひらに置いた。
「他のジュエリーはまた買ってあげるよ。だが、結婚指輪だけは唯一無二なんだ。俺が自ら南アフリカから原石を探してきて、心を込めて作ったものなんだ。例え何もかも失って、命をかけても、どんな手を使っても、必ず取り戻してあげるから」
言いながら、彼はその愛情に満ちた眼差しで、深く彼女を見つめていた。
自分を見つめる眼差しは、あんなにも優しく、自分の手を握りしめる男らしい手は、あんなにも温かかった。
どれも昔と変わらないようだった。しかし瑞雪は知っていた。今の自分も彼も、完全に気持ちが変わって、昔とは全然違うことを。
「わかったわ」
嗚咽の含めた声で言いながら、瑞雪は手を引っ込めようとしたが、引っ込められなかった。
「瑞雪」
乃安は床についた右足で体を支え、ゆるりと起きながら、大きな体で彼女を押し倒し、彼女の唇を奪おうとした。
不快感を覚えた彼女を顔を背けて、その唇を避けた。
「今は昼間よ。控えめにするって言ったんじゃないの?」
乃安は眉を顰めて、気づいたら、唇の行き先は彼女の唇ではなく、その少し冷たかったほっぺただった。
「衝動を抑えられなくて、ごめんね」
彼は何事もなかったかのように笑って、そのサファイアブルーのボックスの蓋を開けてあげた。
綺麗で高そうなピンクの指輪は、七色の光を宿し、目がチカチカするほど輝いていた。お城ほどの価値があるというか、お城よりも価値があるかもしれない。
乃安はこの指輪を作るのに、確かに全身全霊を打ち込んでいた。彼女のことを一番愛していた時期だったから。ただ、その愛はあまりにも短く、裏切りと嘘だけが残っていた。
癒えたばかりの傷口に、またナイフが刺さったかのように、瑞雪は胸苦しかった。
「はい、ちゃんと持って。もう失くすなよ」
乃安は指輪を彼女につけ直し、温かい指先でその額に当てた。
目と目が合った瞬間、色々言いたいことがあるようだったが、結局何も言わずに、ただ軽く彼女を抱きつき、会社へ戻った。
何かを察したのか、後ろめたく思ったのか、この夜、乃安は案外早く帰ってきた。
自ら晩ご飯を作ってあげた上、その後瑞雪と出かけて、雑談しながら散歩していた。
優しくされた以上、彼女も素直にその優しさを受け入れた。一緒にいる時間はもう長くはないし、夫婦らしいスキンシップ以外、彼女は彼の好意を拒まなかった。
もちろん、この前の出来事で直接に言い争うこともなく、上手く口実をつけたのだ。
「昨夜急にお腹が痛くなったのは、この前雨に打たれたからかもしれない。それに生理も来そうだし、それで病院に行きたいくらい痛かったの」と。
乃安はいつも彼女のことを最優先にしてきたから、困らせるような真似はしなかった。逆に、今回の生理があまり苦しまないように、丁寧に足浴用のお湯を沸かし、お腹を暖かくしてあげた。
大雑把に見えるが、彼には意外と気遣い上手なところがあって、そんな彼に世話されて、瑞雪は本当に苦しまずにこの生理日を乗り越えた。
心地よく数日間休んで、生理が終わったこの日、瑞雪は焦りだした。
妊娠させないように、乃安は性欲を控えめにしてきたこの三年間、いつもつけながらしてきたが、生理が終わったばかりの日にだけ、気にせず発散するのだ。一番リスクが低いからだ。
この日を逃さないように、彼は出張の時でも、わざわざ深夜に飛行機で帰ってきて、彼女と一夜を共にしてからまた出張先に戻ったのだ。
もし今夜、彼はやる気満々だったらどうしよう?大喧嘩してまで断るべきなのだろうか。
お風呂に入っている時、瑞雪はずっと考えていた。
お風呂から出て、スマホを持って焦っている顔をした乃安を見た瞬間、彼女は胸を撫で下ろした。
考える必要はある?
今は心晴というもっと気にせず発散できる女がいるし、色々制限がかかっていて、性欲も気持ちよく発散できない自分と一緒にいるはずがない。
毎日の昼休みでも時間を裂いて心晴に会いに行く人だものね。
今回は大人しく数日間自分のそばにいてくれたし、ようやく自分は生理が終わったところで、彼はもう離れたくて仕方がなかっただろう。
やはり、瑞雪の予想が当たった。
まだスキンケアを塗っている最中、乃安は機嫌を取るように寄ってきて、髪を乾かしあげた。
乾かして、綺麗に梳かしてあげてから、彼は探るように口を開いた。
「瑞雪、この後大学のクラスメイトと待ち合わせがあるんだ。プロジェクトの話だって。知ってるだろ。彼が最近元会社を辞めて、起業したこと」
確かに、そのクラスメイトは起業し始めた。しかし、乃安の今の身分からして、彼の一挙一動もグループに関わってしまうから、軽率な行動をすることはできない。起業したばかりの会社の社長と、気軽に待ち合わせの約束なんかするはずがない。
自分に対しては相変わらず、下手な口実ばかりだな。
瑞雪も迷いせず、気さくに手を振った。
「行きな」
「ありがとう、瑞雪」
乃安は満面な笑顔で言って、バタバタとシャツ、ネクタイやスーツを選んでいた。
髪の毛まで喜びで飛び跳ねそうなその姿を見て、瑞雪の心がチクッとした。
不倫をしたのはただ自分に飽きてしまったから?それとももう愛していないから?
心晴との密通は、そんなにも魅力的なの?長年間自分と愛し合ってきた情は、とっくに置き去りにされて、完全に忘れ去られたの?
着替えて、顔と手をきちんと洗って、ちょっぴり男性用の香水を吹きかけてから、乃安は出かけた。
五分も経たずに、瑞雪のスマホが鳴った。
車の後部座席で寄り添い合う二人の写真が届いてきた。写真の中で、乃安はシャツが乱れ、ベルトも落ちていた。
それから、一本の動画も。
「ねえ、乃安。数日間私に会えなくて、子供と私のこと、恋しくてしょうがなかったでしょ?」
乃安は気持ちを抑えているように、低い喘ぎ声で答えた。
その答えに不満に思っていたのか、心晴は問いただしていた。
「何か言ってよ、乃安。私に会えない日々、恋しくてしょうがなかったよね?
この体、恋しかった?
私の女たる魅力は?
玄関からバスタブまで私をめちゃくちゃにしたくない?
子供のことは?
この子、『パパ』って呼べるようになったのよ。聞きたくない?私が一緒に『パパ』って呼んであげようか?ね?」
言葉が導火線のように、乃安の情欲はむらむらと燃えてきた。
退路もなく、彼はもはや制御不能になりそうで、彼女の頭を抱いて、喘ぎながら返事した。
「ああ、そうだ。恋しかったよ。君のこともこの子のことも。早くして。お願い、もっと早く」
第5話
ここで動画が終わった。
瑞雪は窓の前まで歩いて、夜を照らす月明かりを頼りに、ガーデンゲートの隣の木の下で微かに揺れている車を眺めていた。
温かい涙で、視線がぼやけていた。瞼を濡らしながら、彼女は突然自分はすでに思い出せないことに気付いた。十年前初めて出会った時の乃安、七年前自分に告白した時の乃安、それと三年前自分と結婚して、「一生」を誓った時の乃安は、どんな姿だったかを。
やはりそういうことなの?
それとも今感じ取れるものが、彼が出せる最大限の愛なの?
原作では、彼はただどんどん闇落ちしていき、このゲームのような人生で闇に呑まれていくクズだった。
救ってあげたつもりで、結局はただ彼の表を美化し、一心不乱でまともな人間に見せかけるようにしただけだった。
実際のところ、彼は結局底からクズで、ただ偽りがあまりにも上手だから、じっくり観察してみないと、その腐りきった性根を、彼の心の内が見極められなかっただろう。
十年にわたって夢を見続けて、やがて空回りだったのだ。生きていくための信念が、崩れていった。
この胸の激しい痛みが、この十年間築いてきたものがすべて無駄だと告げた。乃安のことは救えなかったし、同じく、自分の命を引き換えに助けてくれた元主のことも救えなかった。
心が痛くて、痛くて、死ぬほど痛かった。瑞雪は腰を折り、フェンスに寄りかかって、息を荒くしながらもがいていた。
一夜眠れず、腫れた目に、大雨に濡らされた体。気づいたら、彼女は深夜になるまで雨中で立ち尽くしていた。
乃安が帰った時、ぐっしょり濡れた彼女がリビングのソファーに横たわって、熱で顔が真っ赤になり、すぐにも倒れそうだった。
「瑞雪!大丈夫か、瑞雪!?」
乃安は焦りだして、考えもせず彼女を病院まで送ってあげた。
応急処置の後、瑞雪はやっと意識を取り戻した。けれど、高熱で併発した肺炎で、数日間入院せざるを得なかった。
むしろそのほうが良かった。帰る時日まで、あと最後の六日。この間、彼女はただ病院でゆっくり休みたかった。あんな家になんて、帰りたくもなかった。最後の六日間を、あの嘘ばかりの男に使いたくなかったから。
しかし瑞雪は油断していた。自分がここに引きこもっても、彼らは勝手に入ることはできるのだった。
「すみません。小児科がどこなのか知ってます?」
目の前の女はセクシーな縦ロールをして、鮮やかな赤いドレスを纏って、頭から足までおしゃれだった。なのに、身につけているベビーキャリーのせいで、違和感しかなかった。そのベビーキャリーに、色白で、目がきゅるんとしたかわいい子供を入れていた。瑞雪はすぐにわかった。この女は間違いなく、写真や動画で自分に絡んできた小川心晴だと。
胸が急にぎゅっとした。
瑞雪は目を閉じて、数秒後、また開けた。
「外に医者や看護師がたくさんいるじゃない。小川さんは外で聞いてみたら?」
「わかったのね、篠崎奥さん?」
心晴は満面な笑みで腰を伸ばして、胸元で座っている子供を前に出した。
「よく見なさい。この子が乃安と私の息子よ。もう一歳なの。お利口さんで可愛い子なのよ。身体検査でどれも優秀だって。乃安はこの子のことが大好きで、別荘やヨットをプレゼントしてくれただけでなく、将来会社での株式をこの子に譲ってくれるんだって」
瑞雪はその自慢話を最後まで聞いて、そして含み笑みを浮かべた。
「で、幼いお子さんに、病気にでもかからせるつもりなの?」
心晴は顔色が変わった。
「どういう意味?自分が産めないから、嫉妬してるの?」
瑞雪は微笑みながら、ベッドの横にあるプレートを指差した。
「来る前にちゃんと確認しなかったの?私は雨に降られてからの高熱で併発した肺炎よ。肺炎は移るのよ」
言い終わって、彼女はわざとらしく咳払いをした。
心晴は一瞬で血の気が引いて、慌てながら子供の顔を手で覆って後ずさった。
勢いで、外から入る乃安とぶつかるところだった。
乃安は何気なく彼女の体を支え、心晴だとわかった瞬間、顔色が暗くなった。
「どうしてここに?」
ふと、彼はすぐここが瑞雪の病室だと思い出して、また顔を瑞雪のほうに向け、ベッドの横まで寄ってきた。
「ごめん、瑞雪。小川に迷惑をかけられなかった?
小川はうちの会社の社員で、最近は産後昇格のことで会社で騒いでるんだよ。会社側じゃ昇格してくれないから、病院まで、君に助けを求めに来たのか?」
産後昇格?
浮気相手が子供を産んで妻の位置を手に入れるのも、ある意味の「昇格」ではあるね。
「産後昇格は大事なことよ」
瑞雪は少し考えてから、「五」のジェスチャーをした。
「五日後。五日後またその話を持ってきて」
心晴は喜ぶような目で見上げた。
「篠崎奥さん、助けてくれるの?」
「もちろんよ」
瑞雪は口角をぎゅっと上げて、真摯な笑顔を見せた。
「母親はみんな大変でしょ。産休を取ったからって、会社へ、会長への貢献をなかったことにはできないし。五日以内、全快して退院してから、必ず望み通りの結果を見せてあげるから」
その黒い瞳には陰険な光が揺らめいて、彼女は色目で乃安を見て、そのまま去っていった。
乃安は口を半開きにし、何か言いたそうなところで、瑞雪に遮られた。
「妻としても、昔の創業メンバーとしても、あなたでは解決できないトラブルを解決してあげるのは当たり前よ。気にしないで。一旦ゆっくり休ませて、その話は後にしましょう、ね?」
乃安は言葉を呑んで、淀んだ瞳でしばらく瑞雪を見つめていたら、やっと目を逸らした。
「やっぱり瑞雪は世界で一番優しくて、一番可愛くて最高な妻だよ。君に出会えたことが、人生で一番幸せなことだ。これから例え何があっても、必ず昔のようにずっとそばにいてあげるから。どんな困難に立ち向かっても、永遠に」
時間の流れが早く、あっという間に瑞雪の退院の日が来た。
同じく、ここにいる最後の一日だった。
朝っぱらから、土谷さんから電話が来た。
彼女はこの前伝えたことを繰り返した。
「遺産の処置は任せます。離婚協議書を時間通りに篠崎乃安に届けばいいです」
続いては、葬儀社からの電話だった。
「本当に今夜の零時に、霊柩車でお家に死体を運びに参ってよろしいんでしょうか?」
瑞雪は笑った。
「さもないと?もう死んだし、早く運ばないと、死体が腐ったらどうするんですか?」
花束を抱えている乃安がドアの外から入ってきて、ちょうどその一言だけ耳に入った。彼は困惑した口調で聞いた。
「誰が死んだって?朝っぱら、何を言ってるの?」
瑞雪は一瞬びっくりして、頷いた。
「ごめんね。もう言わないから。最近縁起悪いことばっかりだから、ちょっと病んじゃったかも」
寒気でお腹が壊れて、そして生理も来て、それから雨に打たれて高熱に肺炎。確かに縁起が悪かった。
すべて彼のせいだ。
乃安は心が痛んで、思わず彼女を腕に抱きしめた。
「退院してから、まず俺達の将来の子供の健康を祈るために、お寺にお参りに行こう。君の体が完全に回復したら、子供を作ろう、な?」
第6話
「子供を作ろう」と言い出すとは。
瑞雪は戸惑った顔で彼を見上げたが、その顔はおぼろげで、深くて濃い霧に包まれているようだった。いくら頑張って見開いても、ただの幻にしか見えなかった。
幻なら、もういい。
退院の手続きを済ませ、帰って普段着に着替えて、二人でお寺のある山に向かった。
山下に車を止めて、天へと続く石段を見て、乃安は躊躇った。
「瑞雪、いける?病み上がりで、こんな高い山を登るの耐えられる?」
「大丈夫よ」
瑞雪は決意を固めた。
「それに、あなたもいるでしょ?結婚する前に、あなたは私を背負いながら登ったんじゃない。まだ結婚して三年しか経ってないし、支えながら登るくらい、できるでしょ」
結婚する前の最後の旅行で、二人で一緒に雪山を登りに行った。
もうすぐ山頂なのに、瑞雪は体力が続かなくなり、動くことすらできなかった。ガイドに引っ張られても、微動もしなかった。
その時、乃安が、迷いもせず彼女を背中に乗せ、一歩一歩山頂へ向かっていった。そこからの絶妙で美しい眺めを、二人の宝物にした。
あの時期、二人は本当に仲良しだったな。
乃安も心から、本気で彼女のことを愛していた。命まで、自我まで捨てても構わないくらいに。
鼻がツーンとなり、瑞雪は一生懸命深呼吸して、なんとかその感覚を抑えた。
乃安に支えられながら、一歩一歩登っていった。
曲がりくねった坂を何回乗り越えたか、あと一本の曲がり道を通ったら、山頂だった。目の前には、すでに立派なお寺が見えるようになった。
しかしその時、乃安のスマホが鳴った。
距離がそんなに近くはなかったのに、スマホの向こうから届いてきた心晴の狂ったような泣き声は、はっきりと瑞雪の耳に入った。
「大変よ、乃安!私達の子はさっきベッドから落ちて、頭がすごい腫れたの!それにずっとゲロ吐いてて」
無意識に瑞雪に目が行って、乃安の垂れていた手が、握りしめられた。
「どうしたの?」
瑞雪は困惑しているような、疑いもないような目をした。
「また会社の急用?今すぐ行かなきゃいかないの?」
彼女はまた強調するように、「急用」という言葉の語気を強めた。彼は少しでも耳を傾けたら、察するはずだった。しかし今の彼は心晴と子供のことで頭がいっぱいで、彼女が何を言ったか、どんな表情をしたか、彼にとってどうでも良かった。
「ああ。急用だ」
振り向いて見上げると、そのお寺はあと約百メートルくらいで着くはずだ。彼は表情が固まって、長らく迷っていた。
「本当に急用なら行ってよ」瑞雪は平気そうに手を上下に振った。
「長い道を一緒に歩んでくれてありがとう。最後の一歩は、一人で歩けるよ。人生でも自分で歩まなければいけない道がたくさんあるからさ。あなたがいつまでもそばにいてくれるとは限らないし」
乃安は喉仏がビクッとして、思わず彼女の名前を口にした。
「瑞雪……」
「行きなさい」
瑞雪は手を振って、微笑んだ。いつものような優しい声で別れを告げた。
深くは考えず、乃安は背を向けて歩き出した。どんどん遠くへ、どんどん足早に。
先ほど通ってきた曲がり道の際に、彼の姿は完全に消えていなくなった。瑞雪のずっと我慢し続けてきた涙が、やっと制御できずにぽろぽろとこぼれ落ちた。
無言で涙を拭いて、彼女はまた重い足で山頂へ向かって。
息が荒くなるにも関わらず、彼女は一歩一歩石段を上がって、最後の百メートルくらいの石段をなんとか乗り越えた。立派で巨大なお寺に入り、彼女は真摯に手を合わせた。
「今世も来世も、もう篠崎乃安と会いませんように」
おみくじを引き、絵馬を掛け、お賽銭も十分あげてから、瑞雪は山を降りて家に帰った。
彼女はゴミ収集車を呼んで、この数日間片付けた荷物を全部運んでもらった。新婚初夜に買ってきた壁掛けなども全部外して、一緒に運んでもらった。
空っぽな家を目にし、瑞雪はにこりと微笑んで、静かに唯一残っているソファーに座って、午前零時の訪れを待っていた。
午後から夜まで、ずっと。そろそろ零時なのに、乃安は姿も見せなかった。それどころか、電話すらかかって来なかった。
心晴はもう待ちきれなくて、自ら動き出したようだ。まるで自分と乃安を急かしているように。
冷笑を浮かべながら、瑞雪はファイルに入れておいた写真や動画を、四千万円と一緒に土谷さんに送った。
【土谷さん、最後にもう1つお願いがあります】
スマホを横に置いて、彼女は用意しておいたナイフを取り出した。
鋭い刃先が肌を裂いて、あまり痛みを感じずに、鮮血が勝手に湧き出た。
魂が体内で揺らいでいた。一刻も早くこの体を離れたがっているように。瑞雪は見上げて、その唯一自分のものであるクリスタルペンダントライトを見つめた。照明が必要だから、残したものだった。
仄暗い明かりに見入っている中、薄々とどんどん近づいてくる霊柩車のクラクションが聞こえた。
よろしい。物事はすべて予定通りに進んでいく。
篠崎乃安、あなたも喜ぶでしょうね?
乃安は昼間、ずっと心晴に付き合ってあげていた。
子供の審査から、薬を飲ませることまで。一日中ギャーギャー泣いていた子供はやっと泣き止んで、家政婦に連れ去られた。心晴はまた柔らかい体で抱きついてきた。
「乃安、会いたかったよ。奥さんが入院してから、乃安はずっと看病で忙しくて、全然できなかったわ。今度は新しいパジャマを買ってきたよ。バニーなの」
バニーの魅力には抗えずに、乃安の呼吸は一瞬で熱くなった。
リビングからバスタブ付きのシャワールームまで。シャワールームからそのために作ってもらった特大ウォーターベッドまで。
終わった後、乃安はベッドに座って、休んでいた。色目をつかった心晴はその胸に粘りついていた。
彼女の指はまた動き出して、「もっとほしい」と言わんばかりに、彼の肌に触っていた。その時、乃安はいきなり不安になってきた。なぜか、昼間に離れる時の瑞雪のその優しくて、揺らぎのない表情が思い浮かんだ。
彼女はあんなにも素直で、何でも信じてくれていた。
会社のほうに用事があると言ったら、本当に信じてしまって、「子供を作ろう」と言ったら、一人でも頑張って山頂まで登って、子供の健康のために仏様に祈りを捧げた。
こんなにも優しくて良い妻なのに、深夜まで帰らずに、一人にするなんて。
「もういい」
なだめるように、乃安は心晴の額にキスをして、その触り続ける手を止めた。
「急にまだ用事があるって思い出して、先に帰るね。子供のことは頼んだ。また来るから」
「乃安?」
心晴はよろよろとベッドから降りて、うさ耳で彼にスリスリした。
しかし乃安はまったく見えていないかのようだった。クローゼットにあるシャツはブランドから色まで全部一緒で、彼はその中から一枚取って、纏った。
そしてリビングのソファーの上からコートを手にし、羽織ってから駆け出ていった。
瑞雪と結婚してからずっと住んでいる住宅街まで、駆けつけていった
まだ近づいてもいないのに、遠くからすでに霊柩車のクラクションが聞こえた。
精神も体も疲れ切っている乃安は、目を見開いた。
誰か亡くなったのか?
出棺するのは誰だ?
霊柩車は確かに、二人で住んでいる家から走ってきたようだ。
瑞雪……