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戻らぬ愛〜夫に求められない妻の決断〜
これは、朝霧玲子が九条蓮を誘惑しようと試みた、通算九十九回目の夜だった。 だが、九条蓮は容赦なく彼女を突き放した。 「夜は冷える。風邪...
Chương (1)
第1章
これは、朝霧玲子が九条蓮を誘惑しようと試みた、通算九十九回目の夜だった。
だが、九条蓮は容赦なく彼女を突き放した。
「夜は冷える。風邪をひくぞ」
その冷たい一言を聞いた瞬間、玲子の胸の奥で何かが軋む音がした。
玲子は衝動のままベッドの枕を掴み、蓮へ向かって投げつけた。
「九条蓮!私ってそんなに魅力がないの?それとも女が嫌いなの!?」
――そして玲子は、偶然にも蓮の書斎の片隅にある隠れ部屋を見つけてしまう。
そこには、壁一面に貼られた義妹・九条すみれの写真、乱れたシーツ、床に転がる湿ったティッシュの数々があった。
その瞬間、玲子は悟った。
彼は女を嫌っていたわけではなく、自分のことを拒絶していたのだと。
絶望の夜、玲子は祖父・朝霧宗一郎へ電話をかけた。
「おじい様、私、九条蓮と離婚するわ。
三日後、江城の一番大きなホテルで、自分自身をオークションにかける。
九条蓮よりも権力のある男と、結婚してみせるわ!」
そしてオークション当日――
噂を聞きつけ、会場に現れたのは、御神木財閥の跡取り・御神木猛だった。
彼が札を上げた瞬間、九条蓮の中で何かが壊れた。
その日を境に、蓮は冷徹な仮面を脱ぎ捨て、狂気へと堕ちていくのだった――
第1話
これは、朝霧玲子(あさぎりれいこ)が九条蓮(くじょうれん)を誘惑しようと試みた、通算九十九回目の夜だった。
黒いレースのネグリジェをまとい、裸足のまま、玲子は少しずつ蓮の胸元へと身を預けていったが、彼に容赦なく突き放された。
「夜は冷える。風邪をひくぞ」
その冷たい一言を聞いた瞬間、玲子の胸の奥で何かが軋む音がした。
玲子は衝動のままベッドの枕を掴み、蓮へ向かって投げつけた。
「蓮!私ってそんなに魅力がないの?それとも女が嫌いなの!?」
蓮は無表情のまま身をかわし、枕が床に落ちる音だけが部屋に響いた。
「早く寝ろ。書斎でまだ仕事が残っている」
それだけを告げると、蓮は部屋を出て行った。
残された玲子は、感情を爆発させるように泣き叫んだ。
けれど怒りが収まった後、玲子は牛乳を一杯用意し、書斎へと運んだ。
初めて蓮に会ったとき、黒のスーツに身を包んだ彼は、仏間に置かれた寒玉の像のように清冽で凛としていた。
その姿に、玲子は一目で心を奪われ、一生を誤った。
家に戻るなり祖父・朝霧宗一郎(あさぎり そういちろう)に縁談を願い出て、蓮以外の男とは結婚しないと訴えた。
朝霧家にとって玲子は政略結婚の駒であり、九条家との縁談は何より価値があったため、宗一郎はあっさりと承知して縁談を申し入れた。
思いがけないことに、蓮はその縁談を受け入れた。
それから三年。玲子が誘惑に失敗するたびに、蓮のそばに他の女の影がないことを理由にして、自分を慰めてきた。
玲子は書斎のドアをノックしたが蓮の姿はなく、代わりに部屋の片隅にある扉が目に入った。
「蓮……いるの?」
その扉を開けた瞬間、玲子の心は音を立てて地獄へ堕ちていった。
壁一面に貼られていたのは、蓮の義妹――九条すみれ(くじょうすみれ)の写真だった。
笑顔を浮かべ、弓なりの眉に愛らしいえくぼを湛えた少女の写真が、部屋中を覆い尽くしていた。
視線の先、ベッド脇には乱雑に転がるアダルトグッズ、乱れた寝具、湿ったティッシュ――
玲子の唇が震え、虚ろな笑みが浮んだ。
「……そういうこと、だったのね」
どれだけ下着を変え、どれだけ身体を投げ出しても、蓮が動じなかった理由がようやくわかった。
玲子が誘惑に失敗し、泣き叫ぶたびに、蓮はいつも淡々と言った。
「俺は仏道に帰依しているから、女色に興味はない。寂しさに耐えられないなら、離婚しても構わない」
だがそれは清廉の仏道ではなく、自分の罪深い愛欲を抑えるための仏教だったのだ。
玲子は、ただの隠れ蓑でしかなかった。
涙を拭いながら、玲子はスマートフォンを取り出し、祖父に電話をかけた。
「おじい様……私、九条蓮と離婚するわ」
電話の向こうで、宗一郎の苛立つ声が響く。
「あれほど彼としか結婚しないと騒いでおいて、たった三年で離婚とは何事だ……!」
玲子は震えながらも口を開いた。
「半月後、お見合いパーティーを開くわ。江城中の独身男性を集めて、朝霧家に九条蓮より強力的な後ろ盾を見つけるから」
「何を拗らせておる。夫婦なんだから、気持ちなんてなくても子どもを作れば、お前の立場は守られる。それに、お前みたいなバツイチを誰が貰うというんだ?」
三年前、九条家との政略結婚は江城市中の美談だった。
だが今となっては、自分自身が笑い者だ。
「蓮は……一度も私に触れていないの」
その言葉に宗一郎は黙り込み、やがて吐き捨てるように言った。
「それなら、お前次第だ。もっと条件のいい男を捕まえろ。ただ忘れるな、朝霧家は一切手を貸さない」
玲子は目を閉じ、深く息を吐いた。
「……わかってる」
電話を切った刹那、廊下から慌ただしい足音が響いた。
玲子が慌てて隠れ部屋の扉を閉めた瞬間、蓮が書斎に入ってきた。
彼は眉をひそめ、不機嫌そうに言った。
「勝手に入るなと言ったはずだ。さっき誰と電話していた?またお前の祖父に告げ口か?」
蓮はいつも最悪の解釈しかしない。
だが、彼は知らなかった。玲子が今日初めて、朝霧家に真実を告げたことを。
玲子はじっと蓮を見つめた。
月光に照らされ、銀縁の眼鏡をかけたその横顔は、よりいっそう禁欲的に見えた。
この三年というもの、彼が仏典を開けば側に付き添い、書道を好めば隣で墨をすり、香木の文鎮が欲しいと知れば、自らお寺まで文鎮を求めて彼の誕生祝いに贈った。
すべては、いつか彼の心を開かせるためだった。
今思えば、なんと滑稽だったことか。
「何を黙っている?」
「話すことなんて、何もないわ」
玲子の冷たい返事に、蓮は目を細めた。
いつもなら甘えて体を預けてくる玲子が、今日はどこか違う。
「金が足りないのか?」
「十分すぎるほど足りてるわ。毎月二億もらっているもの」
玲子は皮肉な笑みを浮かべ、机の上に置かれた文鎮を手に取った。
「それは俺がもらったものだ」
玲子は目を潤ませながら睨みつける。
「もうあげたくないの。返してもらうわ」
「好きにしろ」
蓮は視線を逸らし、またいつもの冷たい表情に戻った。
「明日はすみれの誕生日だ。兄嫁として、プレゼントを忘れるな」
玲子はゆっくりと口角を上げた。
「彼女が私からのプレゼントなんて、欲しがると思う?」
蓮の顔が青ざめるのを無視し、玲子は書斎を出た。
手に持った文鎮をゴミ箱へ放り込むと、通りかかった使用人が目を見張った。
「奥様、それは何百段もの階段を登って、ご主人に届けたものでは……?」
玲子は手を払うと、きっぱりと言った。
「もういらないわ」
文鎮も、九条蓮も――玲子には、もう必要のないものだった。
第2話
玲子は、すみれの部屋の前を通りかかったとき、苛立ちに駆られて立ち止まった。
その視線は虚ろなまま、部屋の中でプレゼントを整理するすみれを見つめていた。
誕生日が近いこともあり、すみれの周囲にはプレゼントが山のように積まれている。
すみれが新しいプレゼントを棚に置いた拍子に、棚が揺れ、写真立てが床に落ちた。
写真に写る見慣れた人物に、玲子は思わず一歩踏み出した。
「お義姉さん、私の部屋の前で何してるの?お兄ちゃんからのプレゼントがそんなに気になるの?」
すみれは勝ち誇ったように微笑んだ。
いつもならすぐに言い返す玲子だったが、このときばかりは応じず、落ちた写真に目を凝らしていた。
その玲子の視線に気づき、すみれは慌てて玲子を突き飛ばし、写真を拾い上げて背中に隠した。
だが、もう遅かった。
そこに写っていたのは、眠る蓮に口づけするすみれ自身の姿だった。
その瞬間、玲子はすべてを悟った。
道理で、玲子と蓮が外出するたびに、すみれは転んだだの、具合が悪いだのと理由をつけて蓮を呼び戻していたのだ。
兄は妹を愛し、妹も兄を愛していた。
そして、自分だけが余計な存在だった。
ならば、いっそ成就させてやろう。
「な、何を見たのよ……!」
すみれが言いかけた瞬間、悲鳴を上げて尻もちをついた。
「ごめんなさい、お義姉さん!わざとじゃないの!怒らないで!」
そのとき、背後から温かいミルクのグラスを手にした蓮の声が響いた。
「玲子、何をしている!なぜすみれを突き飛ばした!?」
すぐにすみれの前に立ち、守るように腕を広げる蓮の姿に、玲子は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「どこをどう見たら、私が彼女を突き飛ばしたように見えるの?私はそんな卑劣で暇じゃないわ。でも忠告しておくわ。今度また私を怒らせたら、殺人だってやりかねないから」
蓮は玲子の背中を見つめ、後ろで怯えるすみれを振り返った。
「大丈夫か、怪我はないか?」
「大丈夫だよ、お兄ちゃん……お義姉さんはわざとじゃないの。ねぇ、少しここで休んでいって?」
部屋の扉が閉まる音がした。
玲子が振り返ると、口元の笑みはより一層、苦く滲んでいた。
──翌朝。
九条家は、パーティーの準備で慌ただしい空気に包まれていた。
すみれは養女でありながら、実の娘同然に扱われている。
その誕生日パーティーは、玲子と蓮の結婚式を凌ぐほど盛大で、江城中の名家とセレブが集まった。
ドレスに着替えた玲子が階段を降りると、蓮が待っていた。
窓から差し込む光が彼の横顔を照らし、その美しい輪郭に一瞬、玲子は見惚れそうになったが、すぐにあの写真の記憶が蘇り、視線を逸らした。
ドレスの裾を持ち上げて階段を下りていく玲子に、蓮は伸ばしかけた手を虚しく引っ込めた。
今日の玲子は、いつもと違っていた。
笑い声とグラスの音が響く中、玲子はすぐにすみれを見つけた。
高価なドレスに身を包み、優雅にグラスを持ちながら、九条夫妻の隣で微笑んでいた。
玲子に気づくと、すみれは駆け寄ってきた。
「お義姉さん、やっと降りてきたのね!」
わざとらしくよろめいたすみれの手から、赤いワインが玲子のドレスにこぼれ落ちた。
玲子は冷ややかな視線ですみれを睨みつけた。
「目、ついてる?」
すみれはすぐに涙目になり、階段の上の蓮に助けを求める視線を送った。
「ごめんなさい、お義姉さん……わざとじゃないの」
蓮はすぐに駆け寄り、すみれをかばうように立ちはだかった。
「ドレスが汚れただけだろ。すみれもわざとじゃないと言っている」
すみれは媚びるように笑った。
「お義姉さん、ドレスなら私の部屋にたくさんあるわ。全部お兄ちゃんが買ってくれたのよ。好きなのを選んで着替えて?」
玲子は鼻で笑った。
「他人が贈った服を、さも自分のものみたいに誇るなんて滑稽ね。ドレスが欲しければ、自分で手に入れるわ。人のお古なんて、願い下げよ」
「玲子ッ!」
蓮が珍しく大声で玲子を呼びつけた。
「いい加減にしろ。今日はすみれの誕生日だ、場をわきまえろ」
玲子は静かに笑った。
「ええ、知ってるわ。だから約束通り――彼女への特別なプレゼントを用意してきたの」
玲子が手を叩くと、会場中央のスクリーンが静かに光を帯び、映像が映し出された。
そこに映し出されたのは、九条蓮の写真の数々。
どれもすみれが盗撮したと一目でわかるアングルだった。
二十五歳から三十歳の蓮の姿――書斎で本を読む姿、窓辺で資料を眺める横顔、そして眠る蓮にそっと口づけを落とすすみれの姿まで。
華やかだった会場は、一瞬で凍りついた。
第3話
「これは、一体……」
「九条家の養女が兄に好意を抱いてるって噂は聞いてたけど……まさか本当だったなんてな」
「これって近親相姦でしょ?兄を好きになるなんて正気じゃないわよ。恥知らずにも程があるわ」
「清楚な顔して、やっぱりロクな女じゃなかったな。兄はもう結婚してるってのに、こそこそ想いを寄せてたんだろ?結局養女じゃなくて、九条家の奥様になりたかったんじゃないか?」
「九条家で、まさかこんなスキャンダルが起きるなんてね……」
大広間に渦巻く声が、無数の矢のように飛び交った。
九条夫妻は顔面を蒼白にし、今にも気を失いそうになっていた。
スクリーンに次々と映し出される写真を前に、すみれは泣き崩れた。
「お義姉さん……どうしてこんなことするの……! この写真は……そ、そんな意味じゃなくて……ただ、お兄ちゃんに憧れてただけなの……だから……」
震える声は空しく、映し出され続ける現実の前でかき消された。
「やめろ!今すぐ止めろ!」
蓮がテーブルの花瓶を掴むと、スクリーンめがけて力任せに叩きつけた。
ガラスの破片が飛び散り、割れる音が広間に響く。
血走った目で振り返った蓮は、玲子を鋭く睨みつけた。
「……お前、正気か?自分が何をしたか分かってるのか!?こんなことをして、すみれがどれだけ傷つくと思ってるんだ!お前は彼女を破滅させたいのか!?
昨日、すみれがお前に説明しただろ。その時は黙っていたくせに、今さらこんな場で……玲子、お前は最低だ!」
玲子は乾いた笑みを浮かべながら、冷たく答えた。
「最低?むしろ感謝してほしいくらいよ。ねぇ九条蓮……あなたの妹は、あなたを愛してるわ。そして……あなたも彼女を愛してるんでしょ?」
言葉を吐くたびに、玲子の胸はずきずきと痛んだ。
互いに想い合っているなら――その愛を成就させてあげればいい。
そうでなければ、自分は一生この家で笑われるだけのピエロだ。
「お前は……!人間のクズだな!」
蓮の目に浮かぶ憎悪は、今にも玲子を殺しそうなほど鋭かった。
「蓮……正直に答えなさい!」
九条夫妻も顔を青ざめながら問い詰める。
「まさか、お前……すみれを……」
蓮は拳を握りしめ、喉の奥で声を絞り出した。
「違う……父さん、母さん。俺はすみれを妹としか思っていない。すみれは……俺にとって汚すことなどできない、純粋で大切な存在だ」
その言葉を聞いた瞬間、玲子は声を上げて笑った。
「ふふっ……あはは……」
清廉潔白を装う仏のような男が、平然と嘘を吐く姿は、滑稽でしかなかった。
蓮の母親の心臓が弱くなければ、あの隠れ部屋のこともすべて暴露していただろう。
だが――もういい。
今日はもう十分に楽しんだ。
玲子は深く息を吐き、九条夫妻へ頭を下げた。
「お義父様、お義母様……ご興を削いでしまい、申し訳ありません。少し実家に戻ります。しばらくこちらには帰りません」
その場にいた誰もが息を呑んだ。
玲子は部屋へ戻ると、ドレスを脱ぎ捨てるように着替え、スーツケースを手にして階段を降りていった。
そして人々の同情と憐憫の視線を背に浴びながら、玲子は九条家を出て行った。
だが――向かった先は朝霧家ではなかった。
玲子が車を止めたのは、街外れのネオンが滲む暗いクラブだった。
重低音の響く空間で、玲子はボックス席に座り、友人たちと笑いながら酒を煽り、音楽に合わせて体を揺らしていた。
「玲子、もういいじゃん。三年も未亡人みたいに我慢して、十分頑張ったよ」
「そうそう。九条蓮がどれだけイケメンでも関係ないって!あいつ、あんたなんか眼中にないんだから」
「玲子、あんたを狙ってる男なんていくらでもいるわよ!」
「ってか、見てこれ。あの養女のスキャンダル、今トレンド一位になってる!マジで笑えるわ!」
スマホの画面を突きつけられた玲子は、酒瓶をテーブルに叩きつけた。
「もういい……今夜は九条蓮の話は禁止!ホストを呼んで、十人よ!」
「任せて!二十人でも呼んであげるわ!」
「よっしゃ……」
玲子は顔を上げて笑ったが、その瞳には涙が滲んでいた。
「私ね、九条蓮と離婚する。その時は、お見合いパーティーを開くわ。あんたたちも来て、相手を選ぶの手伝ってよ」
友人たちは目を丸くした。
「お見合いパーティーって……本気で言ってるの?」
玲子が答える間もなく、ステージ横に十九人のホストが整列した。
「朝霧様!」
玲子は一人ずつ視線を滑らせたが、どの顔も胸に響かなかった。
最後に遅れて入ってきた男が顔を上げた瞬間――玲子は息を呑んだ。
一瞬だけ、その男の顔が蓮と重なって見えたのだ。
「……あんたに決めたわ。上に来なさい」
玲子は立ち上がり、ふらつきながらその男の手を引き、クラブの二階へと向かった。
二階のプライベートルームへ入ると、男は笑みを浮かべ、酒を差し出してきた。
「朝霧様、今夜はゆっくり楽しみましょう」
玲子は何の警戒もなく、その酒を一気に飲み干した。
――次の瞬間、視界が揺れ、足元が崩れ落ちる感覚に襲われる。
そのまま玲子は音もなく床へ倒れ込み、静かに意識を失った。
第4話
目を覚ますと、江城市はすでに別世界になっていた。
耳元で友人たちの焦燥した声が響く。
「玲子!お願い、起きて!ねぇ玲子、早く起きてってば!」
目を開けると、周りには友人たちが取り囲み、スマホのバイブがけたたましく鳴り続けていた。
画面を見ると、祖父から十数件の不在着信が入っており、その間にもニュース速報が次々と通知されていた。
『名門・朝霧家の令嬢、九条家への復讐のためイケメンホストと一夜を共に!?』
『衝撃!朝霧玲子氏と九条蓮氏、それぞれ別の相手と関係を持つ!?三年前のセレブ婚が崩壊の危機に!』
無意識に記事をタップすると、画面いっぱいに昨夜のホストと自分がベッドで並んでいる写真が無数に表示された。
服を着ているものもあれば、裸で抱き合う写真もあった。
一夜にして九条すみれの炎上はかき消え、自分がスキャンダルの渦中の主役へと変わっていた。
玲子は震える手でスマホを握りしめ、そのまま床へ叩きつけた。
「上等じゃない……九条蓮。……見事ね」
すみれを守るために、結婚三年の妻を陥れるなんて――
自分で撒いた種は、自分で刈らせるってことか。
実に、立派な兄だこと。
車は曲がりくねった山道を登り続け、やがて山頂の朝霧家の本邸へと入った。
玄関を開けると、リビングには朝霧家の親族が全員集まり、無言で玲子を見つめていた。
祖父・宗一郎の顔色は険しく、浮き上がった血管が額を走り、眼光は刃のように玲子を射抜いた。
「跪け!」
玲子はためらわず、音を立てて床に膝をついた。
その瞬間、背中に鋭い痛みが走った。
鞭が振り下ろされ、皮膚が裂ける音が部屋に響く。
だが、玲子は眉をひそめただけで、声を一切上げなかった。
「自分が何をしたかわかっているか?」
宗一郎の問いかけに、玲子はうつむいたまま答えた。
「……朝霧の名を、汚しました」
宗一郎が最も重んじるのは、朝霧家の名誉だった。
母は不倫の末、父に殺され、その父も後を追うように自ら命を絶った――世間には、両親は事故で亡くなったことになっている。
叔父たちは玲子が失脚する日を待ちわびていた。
そして今、その日が訪れたのだ。
もし九条家との縁がなければ、朝霧家はとっくに潰れていただろう。
玲子には、最初から選択肢などなかった。
「……過ちを認めます」
流出した写真がすべてを物語っており、今さら否定しても無駄だった。
「よろしい。だがこれで済む話ではない……九条家の御意向は、これで満足いただけましたか?」
宗一郎の言葉が落ちると、屏風の奥から二つの影が現れた。
九条蓮と、九条すみれだった。
その姿を見た瞬間、玲子の胸がきしむように痛んだ。
なぜ彼がここにいるのか。
なぜ祖父は彼にそう問いかけるのか。
「お義姉さん、大丈夫?痛かったでしょ?」
すみれが近づき、玲子の耳元で囁いた。
「私ね、お兄ちゃんにお義姉さんを責めないでってお願いしたの。でもね、お兄ちゃんがどうしてもって言うから……私を責めないでね?だって、お兄ちゃんは私を大事にしてくれるけど、お義姉さんのことは――」
「……あんたって女は……!」
この女は、まさに筋金入りの悪女だ。
玲子の胸には憎悪より深い失望が広がった。
蓮はすみれを守るために妻を陥れ、それだけでは飽き足らず、すみれを連れて朝霧家に来たのだ。
玲子が罰を受ける姿を、その目で見届けさせるために。
「既婚者でありながら他の男と関係を持ったのは事実です。朝霧家はすでに玲子を罰しました。九条家に他にご意見がなければ、今日はこれまでにいたしましょう」
宗一郎の言葉で場が収まろうとしたとき、蓮が玲子に手を差し出した。
「すみれを傷つけたお前を罰した。これでおあいこだ。だが、もし次にすみれを傷つけることがあれば、朝霧家を江城市で生かしてはおかない。わかっているだろう、俺は有言実行だ」
結婚三年の中で、これほど冷たい声を彼の口から聞いたのは初めてだった。
「……さすがね、九条蓮」
玲子はその手を無視し、自力で立ち上がった。
痛みで意識が遠のきそうになりながらも、一段ずつ階段を上がる玲子の背中に、すみれの声が降り注ぐ。
「お兄ちゃん、お義姉さんに少し厳しすぎない?パパとママは、仲直りして連れ戻せって言ってたのに……どうしておじい様に打たせたの?」
「罰を与えなければわからないんだ、あいつは。すみれ……お前を拾ったあの日から決めていた。お前を傷つける奴は、絶対に許さないって」
階下で交わされる会話が、玲子の心を無数のガラス片で切り裂いた。
――よかったじゃない、二人は相思相愛で。
玲子は歪んだ笑みを浮かべながら、一歩、一歩と階段を上がった。
あの日、あの隠れ部屋の写真を暴露しなかったことを、玲子は心の底から後悔していた。
第5話
部屋へ戻ると、玲子はスマートフォンを開いた。
一番上に表示されていたのは、すみれの投稿だった。
『二十二歳の誕生日の願い事:レーサーの彼氏が欲しいな』
「いいね」が無数に並ぶ中で、一番最初に目に飛び込んできたのは――蓮の「いいね」だった。
玲子は無言でスマホを放り投げ、見たくもないとばかりに顔を背けた。
一睡もできない夜を過ごし、夜が明けた。
離婚を決めた以上、迷っている時間はなかった。
夜明けと同時に、玲子は弁護士事務所へ向かった。
彼が持つものは、自分もすべて持っている。だが、本来自分のものであるものだけは絶対に取り戻すつもりだった。
ほどなくして弁護士から離婚協議書を受け取り、玲子は九条家へ戻った。
だが、蓮とすみれの姿はなかった。
玄関先で、九条夫妻が慌ただしく外出の支度をしている。
「玲子さん!帰ってきてくれてよかった!蓮がね……事故に遭ったの!レーサーの大会に行ったらしくて、事故を起こして今病院なの。一緒に来てくれない?」
玲子の口元が、冷たく歪んだ。
――あの投稿を見て、本当にレーシングに行ったんだ。
江城の人間なら誰もが知っている。
蓮はスリルを好むような男ではなく、何事も慎重で冷静な男だった。
あの投稿さえなければ、彼がそんなことをするはずがない。
――それが、よりによってすみれの誕生日の願い事だなんて。
玲子は小さく息を吐くと、淡々と口を開いた。
「お義父様、お義母様。今日は離婚の件で参りました。これが離婚協議書です。ご確認ください」
「……離婚!?蓮と離婚するつもりなの!?すみれのことで?もう説明したでしょう、蓮のことは兄として慕っているだけだって……私たちもきつく言ったし、あの子はあくまでも九条家の娘よ……」
玲子は冷たい瞳で二人を見据えた。
「――もし、『娘』じゃなかったら?」
その言葉に、空気が張り詰めた。
「いっそ記者会見でも開いたらどうですか?『すみれさんは最初から養女ではなく、九条家の嫁として育てられてきた』――そう発表すれば、二人は堂々と一緒になれます。娘から嫁になるだけです。ご両親にとっても、悪い話ではないでしょう?」
あまりの冷淡さに、九条夫妻は言葉を失った。
玲子は二人を促し、これまで立ち入ることさえ許されなかった奥の隠れ部屋へと案内した。
そこには壁いっぱいに写真が貼られ、記録映像が並んでいた。
蓮が、どれほど長い間すみれだけを見つめてきたのか――
妻である玲子に触れもしなかった理由を、二人はようやく理解したのだ。
「病院まで送ります。私も蓮に直接話がありますので」
動揺する二人を車に乗せ、玲子は自らハンドルを握り病院へ向かった。
病院に着くと、ちょうど医師が入院同意書を持ってきたところだった。
玲子は書類を受け取り、そのまま病室へ入った。
蓮は片足をギプスで固定され、腕や顔には擦り傷や打撲が残っていたが、命に別状はないらしい。
病室のドアを開けると、すみれが蓮の胸に顔を埋め泣いていた。
「お兄ちゃん、どうしてこんなことを……お義姉さんが悲しむわ……」
「バカだな、すみれ。レーサーの彼氏が欲しいんだろ?これでお前の彼と話を合わせられる」
「私が本当に好きなのは――」
「……ゴホン、邪魔するわ」
玲子はわざとらしく咳払いをして、書類の束を蓮に突き出した。
「入院手続きの書類よ。サインして」
蓮は眉をひそめた。
「……こんなにあるのか?」
「できないなら、私が代わりに書いてあげましょうか?」
玲子が書類を取り返そうとした瞬間、蓮は無言でペンを走らせた。
書き終わった彼が書類をめくり、中身を確認しようとした時――玲子はすばやく書類を奪い取った。
その中には、離婚協議書も混ざっていた。
その書類に蓮のサインがあるのを確認した瞬間、玲子の目がわずかに赤く滲んだ。
――これで、本当にすべてが終わったのだ。
第6話
「お義姉さん、お兄ちゃんを責めないで。お兄ちゃんがレースに出たのは、別に深い意味なんてなくて……ただ、私の将来の彼氏を見極めたいってだけなの……」
すみれは玲子を見るなり、慌てて蓮の胸元から身を起こした。
玲子は微笑むと、肩を軽くすくめる。
「あら、気にしないで。続きをどうぞ」
そう言って背を向けて歩き出す。だが数歩進んだところで、ふと何かを思い出したように立ち止まり、手首にはめていたバングルを外した。
それは、九条家の嫁にだけ代々受け継がれる家宝だった。
それを玲子は、すみれの手首にはめた。
「二人が結ばれるといいわね」
「お義姉さん、何言ってるの……これ、私なんかがもらえるわけないよ……だってこれ、お義姉さんが結婚式の日にママから受け取った大切なものじゃない……」
すみれが慌てて外そうとしたとき、蓮の声が冷たく響いた。
「あいつが渡したんだ。お前が着けろ。お前の方が、そのバングルに相応しい」
彼の視線も声も、いつもと変わらず冷たかった。
玲子は悟った。
――この男は、一度だって私に心を動かしたことなどなかったのだと。
だがかつては、彼が自分を想ってくれていると信じていた。
一緒に本を読んでいる最中に眠ってしまった自分へ、そっと毛布を掛けてくれたこと。
墨を磨き続けて指にできたマメを見て、新しいハンドマスクを贈ってくれたこと。
階段を登って水ぶくれができたとき、足湯を用意し、履き心地の良いフラットシューズを揃えてくれたこと。
あの文鎮でさえ、渡した翌日からずっと使ってくれていたことも。
そのひとつひとつが、彼の愛情の証だと信じて疑わなかった。
――だが、それはすべて勘違いだったのだ。
「そうね。持っておきなさい。私はもう、九条家の嫁じゃないから」
その言葉は、蓮には届かなかった。
病院を出ると、玲子はすぐに親友の葉月しずく(はづき しずく)へ電話をかけた。
「しずく、私……離婚したの。自由になったわ!お願い、三日後――九条蓮と結婚して三周年の日に、婚活パーティーを開いて。招待状には『朝霧玲子、自分をオークションにかけます!』って書いて。今度は、あの男より金も権力もある男と結婚してやるんだから!」
電話口でしずくの笑い声が弾ける。
「任せて、すぐ会場を押さえるわ」
玲子が一眠りして目を覚ます頃には、全ての準備が整っていた。
「どう?気に入った?」
しずくが差し出した招待状を眺めながら、玲子は眠そうに目をこすり、一行を書き加えた。
『初夜を競売にかけます。高値落札者に贈呈』
「ちょっと……玲子、本気なの?」
玲子は無言で頷き、布団をかぶって再び眠りについた。
祖父の言う通り、二度目の結婚でいい男などそうそう現れない。少しでも彩りをつけなければ、誰も寄り付かないだろう。
万が一、誰も来なかったら――その時はその時だ。
しずくは溜息をつきながらも、玲子の言葉通り、蓮よりも権力と財力を持つ男たちに招待状を送った。
この「お見合いオークション」は、たちまち街中の話題となった。
――ただ一人、蓮だけが知らなかった。
その頃、蓮は病院のベッドで療養中で、すみれは毎日見舞いに来ていた。
「お兄ちゃん、これ……すみれが心を込めて作ったスープなの。飲んで、早く元気になってね」
火傷の痕が残るすみれの細い指先を見て、蓮は眉をひそめる。
「これ、作ってる時にできたのか?」
すみれは涙目で頷いた。
「うん……お兄ちゃんに早く元気になって欲しくて」
「バカだな。家には使用人がいるだろ。こんなことはお前がする必要はない」
「でも、どうしてもお兄ちゃんのために何かしたかったの」
子鹿のような瞳で見上げるすみれの黒髪を、蓮はそっと撫でる。
「わかったよ。俺は、すみれが大好きだ」
その時、テレビからニュースが流れた。
『江城市で注目を集めるオークションがモールホテルで開催予定。目玉はローゼン氏寄贈のダイヤモンドリング――愛と幸福の象徴とされる婚約指輪……』
すみれはその画面を見つめ、目を輝かせて呟いた。
「いいな……大好きな人から贈られたら、きっと素敵だろうな……」
その視線に気づいた蓮が問う。
「欲しいのか?」
「うん……愛する人からもらえたら、きっと素敵だろうなって」
「じゃあ……オークションに連れて行ってやるよ」
二人の視線が重なった瞬間、甘く湿った空気が漂う。
すみれは頬を赤らめ、瞳を伏せる。
――その瞬間、蓮の頭に玲子のことが過った。
入院して三日、彼女は一度も顔を見せなかった。
――あいつらしくない。
だが蓮は気づかなかった。
そのニュースの続報で、「朝霧玲子、自身をオークションに出品」と報じられていたことに――
第7話
オークション会場へ向かう車内で、玲子は無言のまま頭を窓に預け、外のネオンが滲む夜景をぼんやりと見つめていた。
隣のしずくが、不安げに玲子の手を握りしめる。
「玲子……今夜、誰があんたを落札すると思う?内緒だけど、招待した中にはデブでハゲで、見るのもキツイおっさんもいるんだよ?そいつらに抱かれるとか想像しただけで吐きそう……」
玲子はゆっくりとしずくに顔を向け、ふっと笑った。
「私でさえ恐れてないのに、心配しないで」
「嘘でしょ……本当に怖くないの?」
玲子は目を伏せず、静かに答えた。
「怖くないわ」
その言葉に嘘はなかった。
両親が死んでから二十年、朝霧家で玲子はたった一人で生き延びてきた。
祖父以外の親族は皆、笑顔の裏で虎視眈々と遺産を狙い、あらゆる手段で彼女を追い詰めてきた。
祖父でさえ、遺産に興味はなくとも、玲子を使って家の地位を守り続けていた。
両親が亡くなってからの年月、自分がどう生きてきたのかも、もう覚えていない。
――怖いものなど、何もなかった。
ただ、愛に飢えていただけ。
だからこそ、蓮を愛し、彼の愛を渇望していた。
彼がほんの少し笑顔を見せるだけで、全てを捧げたくなった。
だが――結局、選ぶ相手を間違えたのだ。
ホテルへ到着すると、玲子はマイバッハから静かに降り立った。
数歩歩いたところで、人々の嬌声が夜の空気を震わせる。
「キャーッ!九条蓮様よ!カッコいい!」
「隣にいるのって九条すみれだよね?蓮様が女性にあんなに気遣うの見たことない!」
「ほんとだよ、スカートの裾まで直してあげて……私も彼の妹だったらなぁ!」
玲子が振り返ると、ライトの下で蓮とすみれが並んで立っていた。
絵に描いたような、美しい二人だった。
玲子に気づいたすみれは、すぐに蓮の腕から手を放した。
「お義姉さんも、オークションに来てたの?誤解しないで。私は、あのダイヤの指輪が欲しくて来ただけなの。ちゃんと、自分のお金で買うつもりだから……」
怯えたように視線を落とすすみれを見て、蓮の眉間にしわが寄る。
「どこで情報を嗅ぎつけたのか知らないが、俺が今夜ここに来ると知ってついてきたんだろ?だが言っておく、今夜の同伴はすみれだ。お前じゃない」
蓮の声が冷たく空気を裂いた。
「それに、すみれが欲しい物は全部、俺が落札する。いくら金を積んでもな」
玲子は顔を上げて穏やかに笑った。
「ねぇ、九条蓮。あなた、ここ数日家に帰ってないわよね?」
「それがどうした?」
やはり家に帰ってないから、彼はまだ気づいていないのだ。
――受理された離婚届が、もう家に届いていることに。
「九条蓮、今日が何の日か知ってる?」
「何の日だ?」
結婚記念日のことなど、彼は覚えていない。
玲子は小さく首を振った。
「……なんでもないわ」
そう言って玲子はくるりと背を向け、歩き出した。
蓮はその場に立ち尽くした。
いつもなら、笑顔で腕に縋りついてきた玲子が――背を向けて去っていく。
すみれが蓮の服の裾を引いた。
「お兄ちゃん……お義姉さん、怒ってるのかな。今日って、結婚記念日だよね?」
「そうか?ただの三周年だろ。来年祝えばいい」
そう言って蓮は、自然にすみれの手を握り歩き出した。
「玲子のことは気にするな。行くぞ」
その会話は、玲子の耳にまで届いた。
結婚して三年、記念日を一緒に過ごしたことなど、一度もなかった。
だが――もう来年など無いのだ。
オークション会場へ向かう蓮は、別のホールへ歩いていく玲子の姿を見つける。
ライトが照らすドレス姿の玲子が、なぜか胸をざわつかせた。
どうしようもなく、綺麗だった。
「玲子、どこへ行くつもりだ?オークション会場はこっちだぞ」
「そうよ、お義姉さん。オークションに来たんじゃないの?」
玲子は立ち止まり、振り返ると淡く笑った。
「私はオークションに来たわけじゃないの。だから、あなたの妹が欲しがってる物を奪うこともないわ。……早く行きなさい。彼女のお目当ての指輪、逃さないようにね」
そう言い残して玲子は背を向け、夜風に髪を揺らして歩き去っていく。
その姿が完全に消えるまで、蓮は立ち尽くしていた。
「……行こう、すみれ」
第8話
オークションはすでに始まっていた。
蓮はすみれの手を引き、会場の最前列に腰を下ろす。
一方その頃、別のホールでも、もう一つのオークションが幕を開けていた。
玲子は舞台の中央に立ち、これから自分自身が競りにかけられる瞬間を、静かに待っていた。
視線の先に広がるのは、人で埋め尽くされた客席。ざわめきと熱気が渦を巻き、湿度を含んだ空気が肌に張り付く。
壇上でマイクを握ったのはしずくだった。
「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。今宵、皆様に競っていただくのは――朝霧家の令嬢、朝霧玲子さんです!」
その頃、蓮のいるホールでも司会の声が響く。
「今夜の一品目はローゼン氏特製の婚約指輪!モロディコ産最高級ルビーをあしらった逸品、開始価格は一億円から!」
「お兄ちゃん、始まったよ!」
すみれが目を輝かせて蓮の手を握り、蓮は競り札を上げようとした――その瞬間。
客席の誰かが立ち上がり、続くように人々がざわざわと立ち上がり、外へと駆け出していく。
「お、おい、何だ!?」
「聞いたか?隣のホールで女が自分を競りにかけてるらしいぞ!しかも、あの御神木家の御曹司まで来てるって話だ!」
「マジか!?誰だよ、そんな真似をするのは?」
「朝霧玲子だよ!江城一の魔性の女だ!」
「は?あいつは九条蓮の嫁だったろ?」
「離婚したんだとよ。今夜、自分の初夜を競りにかけるらしいぜ!結婚三年で未経験とか、九条蓮も大したことねえな!」
「ハッ、こりゃ見物だな!」
下卑た笑いと嘲りが飛び交う中で、蓮の全身が灼けつくように熱くなる。
ドン、と椅子が弾けるような音を立てて蓮は立ち上がった。
「お兄ちゃん、どこ行くの!?指輪は……!」
すみれが慌てて蓮の袖を掴む。
「すぐ戻る……!」
普段なら決して取り乱さない蓮の声が掠れていた。足元がもつれ、転びそうになりながらも、群衆を押し分けて走り出す。
すみれは慌ててその後を追うしかなかった。
会場前は押し寄せる見物客でごった返し、蓮は苛立ちを隠せない。
「どけッ!」
九条家の当主の気迫に道は割れるが、ホールの扉前で黒服の警備員が無言で立ちはだかる。
「九条様、申し訳ありません。招待状のない方は入場できません」
「俺が誰だかわかっているのか!?九条蓮だ!あいつは俺の妻だぞ!どけッ!」
警備員は表情一つ変えず答える。
「失礼ですが、招待状をお見せください」
「何の招待状だ……?」
「朝霧玲子様が発行した、本日のオークション専用の招待状です」
「……あの女、正気かよ……!」
蓮の頭に血が上り、思考が霧散する。玲子が他の男に触れられる場面だけが脳裏を支配し、吐き気が込み上げる。
「九条様、どうされました?」
駆けつけた九条家の護衛が警備員を押さえつけ、その隙に蓮は中へと飛び込んだ。
スポットライトが交差する舞台中央で、玲子は純白のロングドレスを纏い、静かに立っていた。
その姿は息を飲むほど美しく、ただ立っているだけで場を支配するほどの存在感があった。
「二千億!」
「四千億!」
「六千億!」
荒唐無稽な数字が飛び交うたびに、熱気が会場を震わせる。
それでも玲子は微笑んでいたが、その瞳は誰のことも映してはいなかった。
「朝霧玲子ッ!!」
怒声が場内を裂いた。玲子が顔を上げると、そこには息を荒げ、瞳を血走らせた蓮がいた。
蓮は舞台に駆け上がり、玲子の腕を乱暴に掴む。
「何をしているんだ!自分がどんな立場か分かっているのか!?朝霧家だけじゃない、九条家にも泥を塗るつもりか!?」
玲子はその手を振り払い、冷たい瞳で蓮を見下ろすように見つめた。
「九条蓮……今日から私は、九条家とは一切関係ないわ」
「何を言っている!?お前は俺の妻だろ……!」
「違うわ」
玲子はしずくから手渡された封筒を蓮の胸元に叩きつけるように押し当てた。
「九条蓮、あなたはこの書類に自分でサインしたのよ。それに、九条家のバングルも返したわ。これで私たちは、完全に赤の他人よ!」
蓮が視線を落とすと、そこには確かに、自分の署名が入った離婚届があった。
「……あの日、入院手続きだと言ってサインさせたのは、これだったのか……」
「そうよ。それが、あなたが望んだことでしょう?」
玲子の口元に冷たい笑みが浮かぶ。
「それと、これも――返しておくわ」
玲子は封筒を破り、中にあった写真を一気にばら撒く。
「九条蓮、これで終わりよ!」
無数の写真が宙を舞い、会場全体に降り注いだ。
写真を見た観客の表情が、一瞬で凍りついた。