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霧が晴れてこそ、愛を語る
【確認します。宿主様は好感度99%の全てを、小林恵美(こばやし めぐみ)に譲渡しますか?】 【好感度がゼロになり次第、宿主様はミッション失...
Chương (1)
第1章
【確認します。宿主様は好感度99%の全てを、小林恵美(こばやし めぐみ)に譲渡しますか?】
【好感度がゼロになり次第、宿主様はミッション失敗と見なされ、存在を完全に抹消されます……】
遠野明日奈(とおの あすな)は、魂の抜けたような声で、力なく「ええ」とだけ答えた。
江口洋介(えぐち ようすけ)と江口友沢(えぐち ともざわ)が、あれほどまでに恵美を慈しみ、彼女のためならば明日奈を傷つけることさえ厭わないというのなら、いっそ自分が恵美のミッション達成を手伝い、彼女が永遠にこの世界に留まれるようにしてあげよう、と。
第1話
【確認します。宿主様は好感度99%の全てを、小林恵美(こばやし めぐみ)に譲渡しますか?】
【好感度がゼロになり次第、宿主様はミッション失敗と見なされ、存在を完全に抹消されます……】
遠野明日奈(とおの あすな)は、魂の抜けたような声で、力なく「ええ」とだけ答えた。
江口洋介(えぐち ようすけ)と江口友沢(えぐち ともざわ)が、あれほどまでに恵美を慈しみ、彼女のためならば明日奈を傷つけることさえ厭わないというのなら、いっそ自分が恵美のミッション達成を手伝い、彼女が永遠にこの世界に留まれるようにしてあげよう、と。
【再考を推奨します。あと1%でミッションは成功です。それに、洋介と友沢はあなたの幼馴染。かつてはあれほどあなたに優しかったではありませんか。もう少しの辛抱で、ミッションが完了する可能性は高いのです】と、システムはあくまで無機質に続けた。
ほんの少し前まで、明日奈もそう信じていた。
洋介と友沢は幼い頃から共に育ち、自分を実の妹のように可愛がってくれた。
これほど簡単なミッションはないとさえ感じていた。
少しばかり好意を示せば、二人の好感度は上がっていったのだ。
だが、彼女は自分がとんでもなく愚かだったことを、やがて知ることになる。
恵美がいる限り、自分のミッションが成功することは永遠にあり得ないのだと。
洋介と友沢は、恵美が攻略者であり、ミッション失敗の代償が「抹消」だと知っていた。
だから、明日奈が告白を決意したあの日、彼らは氷のように冷たく、彼女を突き放した。
「すまない、明日奈。俺たちは君を好きにはなれない」
「もし君への好感度が高くなりすぎると、恵美がミッション失敗と見なされ抹消されてしまう。彼女が死ぬのを、黙って見ているわけにはいかないんだ」
彼らは、明日奈にも攻略ミッションがあり、失敗すれば同じく抹消される運命だと知りながら、それでも恵美を生かすためだけに、頑なに好感度を99%で止めたのだった。
明日奈は力なく微笑んだ。
「もう、説得は要りません」
【承知しました。これよりクリアランス計画を起動。七日後、この世界における宿主様の存在痕跡は全て消去され、好感度は小林恵美に譲渡されます。蓄積ポイントにより、新たな身体との交換が可能です】
明日奈がシステムに礼を言った、その時だった。
別荘のドアが開き、友沢と洋介が、まるで稀代の宝物を守るかのように恵美を左右から囲んでいた。
そして、明日奈の姿を捉えると、その眼差しは瞬く間に氷のように冷たくなった。
「遠野明日奈、自分の過ちを認めたか?」洋介が薄い唇を歪め、吐き捨てるように尋ねた。
友沢もすぐに、嫌悪を隠そうともせずに続けた。
「兄さん、こいつは今夜ずっと外で跪かせておくべきだ。こんな性悪女、放っておいたらまた恵美をいじめるに決まってる」
A市の冬は気温が零下まで下がり、地面には厚い氷が張っている。
三人は暖かいコートに身を包んでいるというのに、明日奈は薄っぺらな春着一枚で雪の中に跪かされており、四肢の感覚はとうに凍えて失われていた。
恵美は唇を尖らせ、いかにも純真そうな顔で言った。
「洋介さん、友沢さん、もう明日奈を立たせてあげましょうよ。私の一番好きだった写真を割っちゃっただけなんだから。わざとじゃなかったのよ……」
友沢がその言葉を遮った。
「そんな簡単に許すな。君が甘いから、こんな悪辣な女にいつも利用されるんだ!」
彼女を陥れたのは恵美の方なのに。
しかし、洋介と友沢は明日奈の弁解に耳を貸さず、彼女が恵美に嫉妬しているのだと決めつけた。
雪の中で跪いて懺悔させるために、彼らは江口家が十五年間彼女を育ててやった恩まで持ち出したのだ。
彼女は麻痺したように頷いた。
「……はい。私が愚かで、恵美さんに嫉妬していました。申し訳ありません、全て私のせいです」
洋介は彼女を冷ややかに見下ろし、言い放った。
「君が傷つけたのは俺じゃない、恵美だ。彼女の許しを得られたら、見逃してやる」
その言葉に、明日奈ははっと顔を上げた。
一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと疑った。
三歳の時、両親を事故で亡くした葬儀で、洋介と友沢は幼い彼女に固く誓ってくれたはずだ。
「明日奈ちゃん、怖がらなくていい。これからは僕たちが君の家族だ。誰にも君をいじめさせないと誓う」
だが今、彼女の尊厳を踏みにじっているのは、その彼ら自身だった。
明日奈の苦悶に満ちた表情を見て、恵美は勝ち誇ったように口角を吊り上げてから、偽りの優しさで言った。
「もういいじゃない。明日奈ちゃんはもう跪いて謝ってくれたんだから、これ以上いじめないであげて」
だが、洋介と友沢は黙ったままだ。
明日奈は、彼らが自分からの完璧な謝罪を待っているのだと悟った。
一体自分がどんな天理に背く大罪を犯したというのか。なぜ彼らは自分をこれほどまでに邪悪な人間だと信じて疑わないのか。
喉まで出かかった言葉を、彼女は飲み込んだ。もはや、真相が何かなんて、どうでもよかった。
明日奈は操り人形のように、冷たい雪の上に重々しく額を打ち付けた。
「申し訳ありません、恵美さん……私が、間違っておりました」
新しい身体を手に入れたら、洋介と友沢から遠く、どこまでも遠く離れよう。そして、二度と会うことのない人生を。
第2話
明日奈は三時間も外で跪かされていた。
彼女の両脚はとうに感覚を失っており、立ち上がった途端、前のめりに倒れ込んだ。
洋介も友沢も、明日奈を助け起こそうとはしなかった。
あまりに長い時間同じ体勢でいた彼女を見かねて、痺れを切らした友沢がようやく歩み寄った。
「また芝居か。化けの皮を剥がしてやる」
明日奈のそばまで来ると、友沢は彼女を足で蹴りつけた。
その勢いで仰向けになった明日奈の顔が、紙よりも白いことに友沢は気づき、慌てて医者を呼んだ。
明日奈が目を覚ましたのは、それから二時間後のことだった。
瞼を開けた途端、耳に飛び込んできたのは友沢の苛立ちを隠そうともしない怒鳴り声だ。
「明日奈、白血病の発作が起きたなら、なぜそう言わない!」
「おかげで俺たちが、まるで無情な人間みたいじゃないか」
「小さい頃から一緒に育った仲だろうが。そんなに水臭い真似をするのかよ!」
友沢の口調に滲む気遣いに、明日奈は一瞬、意識が朦朧とした。
医者の説明を聞いて、自分が白血病に起因する重度の貧血で気を失ったのだと、ようやく理解した。
弁解の機会を与えなかったのは彼らの方なのに、今度はなぜ前もって言わなかったのかと責められている。
どうやっても、全てが自分のせいになるのだ。
きっと、この江口家では息をすることさえ間違いなのかもしれない。
彼らを見ていると、明日奈は初めて発作を起こした時のことを思い出した。
あの日、彼女はブランコから落ちた。
洋介と友沢はひどく動転し、彼女を抱きかかえて夢中で病院へと走った。
後に白血病だと診断され、医者からは重度の貧血のため、体をしっかり養うようにと言われた。
それからというもの、洋介と友沢は彼女にそれはもう甲斐甲斐しく世話を焼いた。
時間通りに食事を摂るよう見張り、家政婦には毎日献立を変えて栄養満点の食事を作るよう命じ、十分な休息を取るようにと常に気を配った。
やがて家政婦の料理で彼女の舌が肥えてしまうと、二人は毎日、手を変え品を変え彼女を宥めすかした。
明日奈がどれだけわがままを言っても、洋介と友沢は嫌な顔一つしなかった。
その頃から、彼女の後ろにはいつも二つの影があった。
振り返りさえすれば、そこには必ず洋介と友沢がいた。
あの過去は、彼女にとって最も美しい記憶だった。
まるで、あの頃に戻ったかのようだ。
目の前の光景は、あまりに甘く、非現実的だった。
明日奈が呆然としていると、洋介が家政婦の運んできたスープを受け取り、温かい匙を彼女の唇にそっと当てた。
「いくつになったんだ。まだ自分の面倒も見られないのか」
洋介は元来、感情を表に出さない性格で、これが彼の見せる最大限の優しさだった。
そして、いつもは短気な友沢も、ばつが悪そうに昔懐かしいフルーツドロップを二つ、彼女に差し出した。
「ほらよ、お前が一番好きだった飴だ」
そのドロップの製造元は三年も前に倒産している。
再び手に入れるために、友沢はきっと大変な労力を費やしたのだろう。
明日奈が口を開くと、微かに甘いお湯が喉を伝って胃に流れ込み、じんわりと体を温めた。
まるで夢を見ているようだった。
だが次の瞬間、洋介の言葉が彼女に投げかけられた。
「明日奈、恵美がアシスタントを欲しがっているそうだ。後で撮影現場まで送ってやる。しばらくの間、君が恵美のアシスタントを務めろ。それが、彼女への償いだ」
友沢は腕を組み、それに同調した。
「お前の体のことは心配だが、恵美を傷つけた件が帳消しになったわけじゃない。たかが数日、アシスタントをやるだけだ。ずいぶん軽い罰なんだから、有り難く思えよ」
その優しい声色は、真冬の氷のように、明日奈の幻想を容赦なく打ち砕いた。
結局、自分を気遣ったのも、ただ恵美により良く仕えさせるためだったのだ。
明日奈は俯き、長く濃いまつ毛が、その下に浮かんだ自嘲の念を隠した。
どうして自分は、洋介と友沢が本心から心配してくれたのだと、愚かにも信じてしまったのだろう。
明日奈はただ「わかった」とだけ答えた。
胸には大きな石が詰まったように苦しかった。
その息苦しさから一刻も早く逃れたくて、彼女は机の傍にあったカレンダーを手に取り、その上にある数字に、静かにバツをつけた。
あと六日。
六日経てば、彼女は新しい生を迎える。
第3話
洋介と友沢は明日奈を撮影現場へ送った後も、そのまま現場に残っていた。
今日、恵美が水に落ちるシーンを撮る予定だったからだ。
恵美が代役を使わず、自分でやると言い出すのを聞いて、洋介は同意しかねるといった様子で眉をひそめた。
「代役を使え。お前が飛び込んだら、間違いなく病気になる」
友沢も心底心配そうな顔だった。
「そうだよ、恵美。こんな寒い日にわざわざ辛い思いをすることはないだろう。もし病気にでもなったら、兄さんも俺も心配で死んでしまう」
江口家がこの作品における最大の出資者であるため、監督も洋介の命令に背くことはできない。
だが、恵美は洋介が直々に指名したヒロインだ。
監督は板挟みになり、困ったように恵美を見た。
しかし、恵美はそれでも頑として譲らなかった。
「だめです、絶対に自分でやります。もしアンチに知られたら、プロ意識が低いって言われてしまいますから」
「それなら、後ろ姿が似ている人間を使えばいい」
友沢がそう言った途端、他の者たちの視線が一斉に明日奈へと注がれた。
この現場で、彼女と恵美の体つきが最もよく似ていた。
恵美のマネージャーが笑いながら言った。
「ここにうってつけの人間がいるじゃないか。遠野明日奈、君が恵美さんの代わりに飛び降りるんだ」
明日奈は何も言わず、ただ静かに洋介と友沢を見つめた。
この場で命令を下せるのは彼らだけであり、他の誰にも自分を指図する資格はないと知っていたからだ。
その視線があまりに真っ直ぐだったからか、友沢はバツが悪そうに視線を逸らした。
「兄さん、明日奈に代わってもらおう。恵美、まだ風邪が治っていないんだし」
明日奈は自嘲気味に笑った。
彼らは恵美が風邪を引いていることは覚えているのに、自分が昨日、雪の中に三時間も跪かされ、まだ体調が万全でないことなど、誰一人として気にも留めないのだ。
洋介はしばし沈黙した後、ためらうことなく明日奈に視線を向けた。
「明日奈、お前がやれ」
その短い言葉は、まるで巨大な山のように明日奈の体にのしかかり、彼女の体はぐらりと揺れた。
それでも負けじと顔を上げ、口の中に広がる苦々しさを堪えながら言った。
「洋介さん、私が丈夫じゃないことは知ってるでしょ。飛び込んだら、私にまだ命はあるの?」
氷水が自分の体にどれほどの害を及ぼすか、洋介と友沢が知らないはずはないと、彼女は信じていた。
洋介は答えなかった。
彼が躊躇しているのかは分からない。
友沢もまた、俯いて何を考えているのか読めなかった。
二人が口火を切らない限り、誰も決定を下せない。
膠着した空気を見かねて、恵美がいかにも親切心を装って言った。
「あらあら、明日奈ちゃんが嫌ならもういいですよ。私が自分で演じますから、そんなにご面倒はおかけしません」
「だめだ」
恵美の言葉が終わるか終わらないかのうちに、洋介と友沢の声がぴしゃりと重なった。
洋介は再び、明日奈に命じた。
「明日奈、俺はお前のご両親に代わって、お前を十五年間養ってきた」
洋介がこの言葉を口にするだけで、彼女がどれだけ強固に築いた心の盾も、一瞬で打ち砕かれてしまう。
育ててもらった恩は、何よりも重い。
彼女に反論する力はなかった。
そして、恵美は洋介のすぐ後ろに立ち、明日奈に向かって挑発的な笑みを浮かべていた。
一生かかっても、あなたに私は超えられないのよ、とでも言うように。
明日奈は掌を強く握りしめた。
爪が深く肉に食い込む痛みで、涙を無理やり押しとどめる。
彼女は深く息を吸った。
「わかった。なら教えて。あといくつ用事をこなせば、江口家の恩を返し終わることになるの」
洋介は、まるで鋭い剣で心臓を突き刺されたかのように、明日奈の目を直視できなかった。
彼は気のない返事で、適当にあしらった。
「あと、二つくらいだ」
洋介の答えを得ると、明日奈はスタッフに連れられて試着室へ向かい、撮影用の衣装に着替えた。
薄い生地の服一枚で、霜が張りそうなほどの池のほとりに立つ。
そばにいるだけで、骨身に染みるような冷気が感じられた。
監督が「スタート」と叫ぶ声と同時に、明日奈は動かなかった。
誰かに、池へと蹴り落とされたのだ。
氷のように冷たい水が一瞬で口や鼻に流れ込み、内臓が丸ごと冷凍庫に放り込まれたかのようだった。
彼女は必死に顔を上げて岸辺を一瞥し、そこで洋介と友沢が恵美を囲んで談笑しているのを見た。
何を話しているのか、恵美は口元が緩みっぱなしだった。
その瞬間、明日奈はもう冷たささえ感じなくなったようだった。
彼女の心は、もう完全に凍てついて死んでいた。
明日奈は命のない人形のように半分ほど水中にいたが、まだ岸に這い上がってもいないうちに、恵美が洋介に甘える声が聞こえた。
「洋介さん、今の角度、あまり良くなかったみたいです。もう一度撮り直していただけませんか?」
洋介は真っ青な顔をした明日奈に目をやったが、最終的には恵美の要求を呑んだ。
その言葉が耳に届くと、恵美はずぶ濡れの明日奈のもとへ小走りで駆け寄り、その手を取って申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさいね、明日奈ちゃん。私、お芝居が本当に大好きで、芸術へのこだわりが人一倍強いものですから。ですので、あなたには大変なご苦労をおかけしますが、私のために、もう数回お願いできますでしょうか」
もし本当に申し訳ないと思っているのなら、最初から洋介の同意を求めたりはしないだろう。
ましてや、恵美も自分も同じ攻略者なのだ。
どちらかがミッションを成功させれば、もう一方は抹消される運命にある。
明日奈は冷たくその手を振り払い、震える体を引きずって再び試着室へ戻り、新しい衣装に着替えた。
ただ水に落ちるだけの単純なシーンが、三十二回も繰り返された。
何度も何度も水に落ちるうち、明日奈の体は最初の震えから、やがて無感覚へと変わっていった。
現場のスタッフさえ見ていられなくなり、小声で囁いた。
「監督、もうやめさせた方が……このままじゃ、代役の子の体が持ちませんよ」
その言葉が、まるで洋介と友沢を現実に引き戻したかのようだった。
二人は足早に池のほとりへ歩み寄り、友沢が池の中から彼女を引き上げようと手を伸ばした。
「明日奈、お前、まだ……」
彼の言葉は、明日奈の氷のような眼差しに触れた途端、途切れた。
明日奈はためらうことなくその手を振り払い、自力で岸へと這い上がると、濡れた衣装が肌に張り付くのも構わずに立ち尽くした。
洋介は、これほど冷淡な明日奈に慣れていなかった。
彼はできる限り声を和らげた。
「明日奈、意地を張るな。呼んだ医者がすぐ来る。お前は大丈夫だ……」
だが、明日奈の視線は、目を射るほどに冷たかった。
第4話
明日奈は彼らに一瞥もくれず、濡れた体を引きずって撮影現場を後にした。
ホテルに戻ると、明日奈はバスタブに熱い湯を張り、三十分ほど浸かってようやく生き返ったような気がした。
お腹がぐぅと鳴ったので、階下のコンビニへ何か買いに行こうとした時、外から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「兄さん、さっきの明日奈の目、俺ちょっと怖かったよ。あいつ、俺たちのこと恨んでるのかな?やっぱり、俺たちは明日奈に対して少し残酷すぎた気がする」
「明日奈はもう十分すぎるほど辛い思いをしてきた。今諦めたら、これまでの苦労が水の泡になる。お前だって、明日奈と恵美のどちらかが死ぬのは見たくないだろう」
「でも……」
「解決策が見つかったら、明日奈にはちゃんと埋め合わせをする。あいつの苦労を無駄にはしない」
聞き慣れた声が、人のいない廊下に大きく響く。
洋介と友沢だった。
なんだ、彼らは自分が無実だと全部知っていたんだ。
それなのに、雪の中に跪かせ、氷水に飛び込ませた。
ただ、いわゆる好感度のバランスを取るためだけに。
以前、洋介と友沢が恵美のために自分を傷つけた時、彼女はただ悲しいだけだった。
だが、この瞬間、彼女は胸が張り裂けるような痛みを感じていた。
彼らが本気で恵美を好きになったのだと信じたかった。
自分のためだという大義名分を掲げて自分を傷つける、そんな事実は受け入れたくなかった。
だとしたら、自分がこれまで受けてきた仕打ちは、一体何だったというのだろう。
明日奈はさらに三日間、ホテルに閉じこもった。
三日後、恵美から連絡があり、イベント会場へ連れて行ってくれるという。
しかし出発前、マネージャーがパパラッチから連絡を受けた。
道中でサセンファンによる包囲が計画されている、と。
恵美は無邪気にぱちぱちと瞬きをしながら、その目をじっと明日奈に向けて尋ねた。
「どうしましょう!サセンって、一度暴走し始めたら、本当に恐ろしいですよ」
この国では、サセンが芸能人を刃物で傷つけた事件もある。
万が一、運悪く殺されでもしたら、どうするのか。
今回、珍しく洋介と友沢は沈黙を守っていた。
だが、明日奈は自ら口を開いた。
「私があなたの車を出す。あなたは別の車で会場へ向かって」
恵美のこととなれば、洋介と友沢がためらうことなく彼女の側につくことを、明日奈は知っていた。
たとえ、そうすることが自分にどれほどの害を及ぼすか、彼らが心の中ではっきりと分かっていたとしても。
それならば、いっそ自分から言い出した方がましだ。
その声を聞いて、友沢が焦ったように言った。
「だめだ。万一サセンがお前を恵美じゃないと気づいて、逆上したらどうするんだ?」
明日奈は静かに問い返した。
「じゃあ、他に何かいい方法があるの?」
その問いに、友沢は言葉を詰まらせた。
彼は、明日奈がどこか変わってしまったことを、ぼんやりと感じていた。
洋介も明日奈の異変に気づいていた。
いつもの泣き虫な彼女とは、あまりに違う。
だが、現状ではこれより良い解決策を見つけられなかった。
彼らの返事を待たず、明日奈は恵美の手から車のキーをひったくった。
彼女が車で高架道路に上がってから、サセンがどれほど恐ろしいものかを知った。
車線を隔てて、彼女の車に体当たりしてくる。
無理やりにでも停車させるためだ。
だが、明日奈の運転技術は元々平凡なものだった。
アクセルを踏み込んでも、ハンドルを切りきれず、そのまま橋脚の石柱に激突してしまった。
頭をフロントガラスに強く打ち付け、鮮血が一瞬で顔じゅうを覆った。
車がぶつかった衝撃で煙を上げ、フロント部分が大きくへこんでいるのを見て、サセンたちも責任を恐れ、運転手に命じて急いでその場を去らせた。
明日奈はそこでようやく、携帯電話を取り出して119番にかけることができた。
その指が、意図せず恵美から送られてきたメッセージを開いてしまう。
それは、イベント会場で、洋介と友沢が恵美の誕生日を祝っている写真だった。
彼女は美しいプリンセスドレスを着て、頭にはクリスタルのティアラを戴いている。
そして洋介と友沢は、まるで騎士のように彼女のそばに寄り添って守っている。
とても幸せそうな光景だった。
写真に写り込んだ横断幕から、明日奈は今日が恵美の誕生日であることを知った。
だが、それは自分の誕生日でもあった。
洋介と友沢は、忘れてしまったのだ。
次の瞬間、恵美からのメッセージがポップアップで表示された。
【明日奈ちゃん、これは洋介さんと友沢さんが私のために心を込めて準備してくれた誕生日パーティーよ。彼らの心にもうあなたの居場所なんてとっくにないの】
【物分かりがいいのなら、自分からミッションを諦めたらどう?
そういうことだったのか。
洋介と友沢が恵美に仕事を用意したのは、ただ彼女にサプライズを仕掛けるためだったのだ。
かつて、恵美のいたその場所は、自分のものだった。
洋介と友沢はいつも言っていた。
お前は優しすぎて純粋すぎるから、俺たちが一生をかけて守ってやる、と。
だが今、彼らはその「優しさ」を、いとも容易く他の誰かに与えてしまった。
明日奈は返信せず、ただ黙ってメッセージを削除し、それからバースデーケーキの画像を検索した。
心の中で、そっと願い事をした。
あの三人が、一生幸せでありますように、と。
第5話
明日奈は救急車で病院へ運ばれ、医者に傷の手当てをしてもらった。
彼女が家に戻るまで、洋介と友沢から罪悪感を示すような電話の一本もかかってくることはなかった。
その代わり、恵美のSNSのタイムラインは絶えず更新されていた。
恵美が投稿した写真から、洋介と友沢が彼女に付き添って幸魂神社(さちみたまじんじゃ)へ願掛けに行ったことが分かった。
彼らは百年樹に赤い紐を結んでいた。
今後の幸せと無事を祈願するという。
【こういう神頼みって、元々は信じてないんだけど、隣にいるこの二人がすごくご利益あるって言うから、まあ、彼らのために信じてあげることにしましょう】
その下には、恵美のマネージャーからのコメントがあった。
【早く正妻の座に就いて、あのクソ女を排除しなきゃね】
この「クソ女」が、明日奈を指していることは疑いようもなかった。
これらを見ても、明日奈は何の反応も示さなかった。
彼女の意識は、とっくに過去へと飛んでいたからだ。
この幸魂神社は、洋介と友沢、そして彼女だけの秘密基地だった。
幼い頃から病気がちだった彼女を、洋介と友沢はよくここに連れてきてお祈りをしてくれた。
「明日奈、ここのご利益が本物かは分からない。だけど、お前のためになることなら、俺も友沢も何だって試したいんだ」
そんな場所でさえ、彼らは恵美を連れて行ったのだ。
明日奈は我に返り、自嘲の笑みを浮かべた。
幸い、あと二日もすれば自分はここを去るのだから、と。
洋介と友沢が帰ってきたのは、翌日の朝だった。
彼女の頭に包帯が巻かれているのを見て、二人の瞳には一瞬、罪悪感の色がよぎった。
友沢は手に持っていたたこ焼きを、昔のように彼女に差し出した。
「明日奈、これ、兄さんと一緒に『たこマン!』で買ってきたんだ。熱いうちに早く食べろよ」
紙袋の中には、たこ焼きが三つしか残っていなかった。
しかし、『たこマン!』は普通、十個入りでしか売っていない。
そして、明日奈は彼ら二人がそこのたこ焼きを好きではないことを覚えていた。
唯一の説明は、これが恵美の食べ残しだということだ。
明日奈はちらりと見ただけで、粥をすすりながら顔を戻した。
「いらない。私、『たこマン!』のは好きじゃないから」
洋介が訝しげに尋ねた。
「お前、『たこマン!』が一番好きじゃなかったか?」
「ついさっき、嫌いになった」
明日奈の返事を聞いて、リビングの空気は沈黙に包まれた。
友沢は気まずそうに笑い、話題を探し始めた。
普段は無口な洋介までもが、それに二言三言相槌を打った。
明日奈は何かおかしいと感じ取った。
「何か用?」
洋介と友沢は顔を見合わせた。
互いに相手に口火を切らせたいようだ。
最終的に、口を開いたのは洋介だった。
「明日奈、恵美が最近風邪気味でな。今夜、ステージの裏で彼女の代わりに、あの代表曲を歌ってはくれないか?」
恵美のその代表曲は、明日奈が大学時代にレコーディングしたものだった。
ただ、発表する前に、洋介に言われて恵美に譲ったのだ。
恵美は元の歌い手ではないのだから、当然歌えるわけがない。
明日奈は洋介と友沢を長い間見つめ、とても静かな声で尋ねた。
「二人とも、この歌の意味を知ってる?」
この歌は、彼女が亡くなった両親を偲ぶために作ったものだった。
歌詞には両親への想いが溢れんばかりに綴られており、そして、自分はこれからもちゃんと生きていくと、両親に伝えていた。
歌うたびに、彼女は泣いてしまう。
両親が交通事故で、肉塊になるまで轢かれた光景を思い出してしまうからだ。
それは、癒えかけた傷口を、もう一度引き裂かれることに等しい痛みだった。
それなのに今、洋介は恵美のキャリアの肥やしにするために、彼女にこの歌を歌えと強要している。
明日奈は彼らに答えを迫らず、胸の奥から込み上げてくる苦しさを押し殺した。
「これが、二つ目の用事ってこと?」
洋介は何かを説明しようとしたが、魔が差したかのように、ただ「ああ」とだけ応えた。
友沢も何を言うべきか分からなかった。
「明日奈、このイベントが終わったら、兄さんと一緒にモルディブに遊びに行こう。お前、一番行きたがってただろ?」
「行かない」
そう言うと、明日奈はまっすぐ別荘を出て、タクシーでイベント会場へ向かった。
恵美の楽屋へ着いた途端、明日奈は彼女とマネージャーの会話を耳にした。
「恵美さん、江口様、本当にあなたに優しいんですね。ショーのトリを、はいって即決してくださるなんて」
「あんな馬鹿二人、私にメロメロで頭がおかしくなってるのよ。私が言えば何でも聞くんだから。あなた、見てなかった?あの二人が私のために、明日奈をどれだけ酷い目に遭わせてるか」
第6話
「やっぱり恵美さんはすごいわ。江口家にお嫁入りする日も近いんじゃないですか!」
「誰があんな間抜け共と結婚なんかするものよ。用が済んだら、さっさと捨ててやるわ。あいつら、私には不釣り合いなのよ」
その言葉を聞いて、明日奈はポケットの中のボイスレコーダーのスイッチを、静かに押した。
これが、洋介と友沢が守ってきた女の正体。
裏ではこんな風に、彼らを刺していたのだ。
彼女は全ての会話を録音し、そしてシステムに依頼した。
自分が死んだ後、このボイスレコーダーを洋介と友沢に渡してほしい、と。
これが、彼らに贈る最後のプレゼントだ。
明日奈は気持ちを整え、それから楽屋へと足を踏み入れた。
彼女の姿に気づくと、恵美は綺麗な眉を吊り上げ、嘲るように言った。
「明日奈ちゃん、まだ恥知らずにも洋介さんたちに付きまとってるの?彼らがどれだけあなたを嫌っているか、分からない?」
明日奈はただ彼女を見つめ、淡々と口を開いた。
「ええ、私は身を引く。あなたたち三人、永遠に一緒にいればいい」
そのあまりに平坦な口調を、恵美は皮肉だと誤解した。
彼女は逆上し、テーブルの上の化粧品を床に叩きつけた。
「何よその態度は!得意げになっちゃって!私があなたに勝てないとでも思ってるの?言っておくけど、あなたを殺すなんて、蟻一匹を潰すのと同じくらい簡単なんだから!」
空気が張り詰めたその時、スタッフが恵美の出番が近いことを告げに来た。
彼女は明日奈のそばを通り過ぎる際、わざと肩を強くぶつけてきた。
恵美がステージに上がると、観客席から甲高い歓声が上がるのを明日奈は聞いた。
皆、恵美のファンだ。
彼女は、今年最も勢いのある新人歌手なのだ。
恵美の歌の歌詞も、曲も、そして元の歌い手さえもが自分であることなど、誰も知らない。
それなのに、ステージの上で眩いばかりに輝いているのは恵美で、自分はまるで日の光を浴びられない鼠のように、舞台裏に隠れるしかない。
やがて、聞き慣れたメロディーが流れ始めた。
明日奈は記憶を頼りに歌い始める。
この歌を歌うのは久しぶりだったが、口を開いた途端、目の奥がたまらなく熱くなった。
歌い終える頃には、彼女はとっくに涙で顔を濡らしていた。
客席から雷鳴のような拍手が沸き起こり、明日奈を悲しみから引き戻した。
見れば、客席の観客たちも、歌に込められた悲しみに感動し、涙を流していた。
最前列に座る洋介と友沢までもが、うっとりとした眼差しで恵美を見つめている。
彼らは恵美が口パクだと知っているのに、それでも彼女に付き合って芝居を続けるのだ。
明日奈は涙を拭った。
まるで誰かに心臓をナイフで抉られるような、息が詰まるほどの苦しさを感じ、ほうほうの体でその場から逃げ出した。
彼女の苦しみを察したのか、長く沈黙していたシステムが自ら口を開いた。
【宿主様、気を落とさないでください。あと一日です。あと一日で、宿主様はこの世界から解放されます。その時にはきっと、心温かい人に出会えるはずです】
冷たい風が、刃物のように明日奈の顔を切りつけた。
その痛みで意識がはっきりする。
彼女は鼻をすすり、自分に言い聞かせるように答えた。
「そうね。あと一日で自由になれるんだから、喜ばなきゃ」
椅子にどれくらい座っていただろうか。
明日奈が楽屋へ戻ると、真正面から友沢の平手打ちを食らった。
「明日奈、お前、恵美をどこへやった!」
友沢はその一撃に、ありったけの力を込めていた。
明日奈は歯がぐらつくのを感じ、頬が火傷するような熱い痛みに襲われた。
洋介もまた、険しい顔で彼女を見下ろし、低い声で警告した。
「お前は本当に、俺たちに甘やかされてつけ上がったな。もし恵美にもしものことがあったら、ただじゃおかないぞ」
明日奈はそっと頬に触れた。
指先に走る鋭い痛みで、これが夢ではないと悟った。
なぜ、目の前の友沢と洋介は、まるで仇でも見るような目で自分を見ているのだろう。
彼女はしばらく呆然とし、それから不確かな様子で自分を指さした。
「私が恵美さんを誘拐したって言ってるの?あなたたちの心の中では、私はそんなに悪辣な人間なの?」
「お前が恵美に嫉妬してるんじゃないかと、誰が疑わずにいられる?彼女のマネージャーが聞いたんだ。お前が電話で、恵美を誘拐するよう指示するのをな。さっさと彼女を解放しろ、聞こえたか」
友沢が吐き捨てるように言った。
明日奈の唇に、苦い笑みが浮かんだ。
「信じるか信じないか知らないけど、私は彼女を誘拐したりしてない」
「明日奈、お前は痛い目を見ないと分からないようだな。もう一度だけチャンスをやる。言うのか、言わないのか?」
洋介が低い声で警告した。
第7話
明日奈は、人を食い殺さんばかりの洋介と友沢の眼差しを、恐れることなく正面から受け止めた。
「何度言っても同じ。私は恵美さんを誘拐なんてしてない」
「そうか」
「なら、お前のその声ももう要らないな」
明日奈が呆然としていると、洋介がポケットから粉末の入った袋を取り出し、その指で彼女の顎をこじ開け、無理やり口の中に押し込んだ。
舌先に嘗め知った味が広がり、それが声帯に損傷を与えるというコデインだと、彼女は悟った。
明日奈は激しく抵抗し、そんな残酷なことはしないでくれと洋介に懇願したかった。
彼らは、自分がどれだけ自分の声を大切にしているか、知っているはずなのに。
だが、彼女の両腕は友沢に固く掴まれ、洋介が水を彼女の口に流し込むのを、ただなすすべもなく見ていることしかできなかった。
涙が、絶望と共に目尻を伝って滑り落ちていく。
洋介が手を離すと、明日奈は水にむせて激しく咳き込んだ。
しばらくしてようやく落ち着き、恨みを込めた瞳で洋介と友沢を睨みつけた。
「あなたたち、後悔するわ」
彼女の声は、割れたドラのような、聞くに堪えないしゃがれ声になっていた。
その時、警備の者が突然駆け込んできた。
「江口様、小林さんが見つかりました!」
明日奈も後について行った。
もうすぐこの世界を去るとはいえ、こんな大きな濡れ衣を着せられたままではいたくなかった。
恵美は、宴会場の裏手にある廃屋で見つかった。
洋介と友沢の姿を認めると、彼女は泣きながら半裸の体を抱きしめた。
「洋介さん、友沢さん、見ないで。私、もう汚されちゃった……」
恵美は誘拐されていた二時間の間にわいせつな写真を撮られ、黒幕はその写真をネット上にまで拡散していた。
国内の規制が及ばず、彼女の写真は海外のサイトを通じて瞬く間に広まり、その夜のネットニュースのトップは、恵美のその写真で埋め尽くされていた。
洋介は心を痛め、恵美を抱きしめて優しい言葉で慰めた。
一方、友沢は素早く自分のコートを脱いで彼女の体にかけ、同じようにそばにしゃがみ込んで慰めの言葉をかけていた。
どれくらい経っただろうか。
恵美の気持ちがようやく落ち着くと、彼女は突然、明日奈の姿に気づき、半狂乱で明日奈に突進してきた。
「どうして私を陥れたの?私、誰にも恨まれるような覚えはないのに、どうして私の純潔をめちゃくちゃにするようなことをしたの?私がどれだけ努力して今日まで来たと思ってるのよ、全部あなたが台無しにした!」
洋介は興奮した恵美を抱きしめ、友沢は明日奈の腹を蹴りつけた。
「まだ跪いて恵美に許しを乞わないのか?」
明日奈は痛みに顔をしかめた。
目の前の光景を、ただただ皮肉なものだと感じていた。
防犯カメラを調べさえすれば自分の無実は証明されるはずなのに、洋介と友沢は他人の一方的な言い分だけを信じている。
彼女は深く息を吸い、かすれた声で言った。
「じゃあ、警察を呼びましょう。あなたたちがそこまで私を疑うなら、刑務所に入れてもらえばいい」
そう言って、明日奈は携帯電話を取り出した。
だが、番号を押し終えるかどうかのうちに、友沢にそれを奪われ、地面に強く叩きつけられた。
「だめだ。お前がここまで悪辣だったとは思わなかった。まだ恵美の名誉を傷つけるつもりか。警察を呼んだら、世界中が知ることになるんだぞ」
そして洋介もまた、冷え切った目で彼女を見つめ、まるで何か重大な決定を下したかのように言った。
「友沢、後で広報部に連絡して、ネットのニュースをもみ消させろ。写真の女は、遠野明日奈だと言っておけ」
その言葉は、爆弾のように明日奈の耳元で炸裂した。
その瞬間、彼女は聴覚を失ったかのようだった。
信じられない思いで、洋介と友沢を見つめた。
「私の、評判を、めちゃくちゃにするってこと?」
友沢が怒りを抑えきれない様子で言った。
「そもそもお前が先に過ちを犯したんだろうが。自業自得だ」
「大人なら、自分のしたことには責任を取るべきだ」
洋介は冷たくそう言い放つと、恵美を抱きかかえて去っていった。
友沢は彼女のそばを通り過ぎる際、明日奈を荒々しく突き飛ばした。
彼女は、粉々になった自分の携帯電話の前へと、無様に倒れ込んだ。
そして、恵美が振り返り、彼女に向かって挑発的な笑みを投げかけた。
完敗だった。
恵美は、ただ一度芝居を打つだけで、自分が十五年間暮らした江口家から、自分を追い出すことができたのだ。
この時になって初めて、彼女は洋介と友沢との絆が、いかにもろく、不堪一撃であったかを悟った。
空は、いつの間にか牡丹雪を降らせていた。
明日奈は地面から這い上がった。
彼女は、幼い頃に両親がかけてくれた言葉を思い出した。
「これから、もし明日奈ちゃんが辛い時は、空を見上げてごらん。そうすれば、涙は流れずに済むからね」
彼女はその通りにしてみたが、涙は雨のように頬を伝った。
そして彼女はまだ知らなかった。
本当の嵐が、すぐそこまで来ていることを。
第8話
この世界に留まる最後の二時間、彼女は江口家に戻った。
自分が十五年間暮らした場所を、もう一度だけ見ておきたかったのだ。
しかし、別荘の門にたどり着いた途端、彼女は数人の女に公園へと引きずり込まれた。
「この泥棒猫!男に媚を売りやがって!」
「私の恵美ちゃんに仇を討ってやるんだから、あんたのその顔、ズタズタにしてやる!」
「こいつと無駄口叩くことないわ。今回は徹底的に目にもの見せてやらないと」
明日奈は知らなかった。
昨夜のうちに、恵美が一本の動画を投稿していたことを。
その中で、明日奈が自分の名誉を毀損しようとしたと涙ながらに訴え、ファンの怒りを極限まで煽っていたのだ。
中でも特に胆の据わった数人のファンが徒党を組み、明日奈に思い知らせてやろうと待ち構えていた。
だから、彼女たちの攻撃に手加減は一切なかった。
無数の拳や蹴りが、明日奈の体に降り注いだ。
彼女は必死に頭を抱えたが、誰かが取り出したナイフが、無造作に彼女の手の甲を切り裂いた。
血が噴き出す、生々しい傷口。
明日奈が痛みに喘ぐと、誰かが汚い雑巾を彼女の口に無理やり押し込み、両手は手錠で拘束され、身動き一つ取れなくなった。
「このクソ女、これで逃げられないでしょ。言っておくけど、私は医学を学んでるの。あんたを蜂の巣にしたって、法医学者は軽傷だって判断するだけよ」
その言葉が終わるや否や、目の前の清楚な顔立ちの少女が、ナイフを明日奈の腹部に突き立てた。
目玉が飛び出るほどの激痛が走り、彼女は意識を失いかけた。
彼女は脂汗を流しながら、必死に意識を保ち、システムに呼びかけた。
「システム、私を前倒しで抹消してくれないかな。もう、耐えられない。痛いよ……」
【申し訳ありません、宿主様。プログラムは固定されており、繰り上げることは不可能です。宿主様の痛覚を最大限、遮断することしかできません】
システムは明日奈の痛覚を遮断したが、それでも彼女は、ナイフが皮膚や肉を切り裂く感覚をはっきりと感じることができた。
彼女の顔は、狂ったファンたちによって、ホラー映画の老婆よりも恐ろしいほど無残に切り刻まれた。
腹部にもいくつもの穴が開き、血が止まらない。
その光景が、少女をますます狂気へと駆り立て、その手は一層重くなっていった。
明日奈の視野の端に、何かが映った。
彼女は興奮したように頭を上げ、塞がれた口から「うー、うー」という声を漏らした。
だが、二階にいた友沢は全く気づいていない。
彼は酒を飲みながら、洋介に笑いかけていた。
「兄さん、恵美のファンってマジでやること過激だな。恵美のためなら何でもするって感じだ。まあ、もし誰かが兄さんにこんなことしようもんなら、俺はもっと酷いことするけどな」
洋介はちらりと目をやっただけで、冷たく言った。
「自業自得だ。後で揉み消しておけ。恵美の将来に影響が出ないようにな」
彼らは、恵美のファンが嬲っているのが明日奈だとは夢にも思わず、後にこの光景を思い出しては、断腸の思いをすることになる。
洋介が全く反応を示さないのを見て、明日奈の瞳は絶望に染まった。
どれほどの時間、拷問に耐えただろうか。
ついに、システムの音声が脳内に響いた。
【これより、好感度の全てを小林恵美に譲渡します。同時に、遠野明日奈がこの世界に存在した一切の痕跡を消去します】
次の瞬間、明日奈の心臓が停止した。
ほんの一瞬の出来事だった。
システムは、彼女にこれ以上苦しみを味合わせるに忍びなかったのだ。
疲れたのだろうか、例の少女の手が止まった。
彼女はふと、明日奈の首にかかった綺麗なネックレスに気づき、それを荒々しく引きちぎった。
太陽の光にかざしながら、唾を吐きかけるように言った。
「あんたなんかが、こんな良いもの持ってんじゃないわよ。これは、私の恵美ちゃんにこそ相応しいんだから」
だが、階上にいた友沢がそのネックレスを見た途端、手にしていたワイングラスが足元に滑り落ち、粉々に砕け散った。
それが、明日奈のものであると、彼には分かったからだ。
それは、彼と洋介が、明日奈の十八歳の成人の祝いに贈ったものだった。
彼の声は震えていた。
「兄さん、あいつらが殴ってたの、もしかして……明日奈じゃ……」
その声に、洋介は眉をひそめた。
「あり得ないだろう」
「でも兄さん、あれは、俺と兄さんが明日奈に贈ったネックレスだ。あいつが、あの女の首からそれを引きちぎるのが見えたんだ」
友沢が震える指で指し示す方を見て、洋介は慌てふためいて立ち上がり、階下へと駆け下りていった。
友沢もその後を追い、ファンたちを蹴散らした。
友沢と洋介は、震える手でその体を仰向けにした。
切り刻まれた明日奈の顔が、二人の目に飛び込んできた。
その瞬間、彼らの眼球は張り裂けんばかりに見開かれ、苦痛に満ちた叫び声を上げた。
「明日奈っ!」