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10年の愛は風と散る
文化財修復コンテストまであと一週間という頃、高橋美咲(たかはし みさき)は石井グループとの機密保持契約にサインした。 契約が発効すれば...
Chương (1)
第1章
文化財修復コンテストまであと一週間という頃、高橋美咲(たかはし みさき)は石井グループとの機密保持契約にサインした。
契約が発効すれば、これから三年間、誰ひとりとして彼女の行方を突き止めることはできない。
町中では、美咲が中村悠真(なかむら ゆうま)の溺愛する婚約者だということを知らない者はいなかった。
十八歳のとき、悠真は満天の星空の下で彼女に永遠の愛を誓った。
だが、あの日――美咲は偶然、悠真とその仲間たちの会話を耳にしてしまった。
「悠真、お前、美咲さんのコンテスト用の陶器をすり替えるなんて……バレたら別れられるかもって思わないのかよ?」
悠真は秘書を抱きながら、軽く笑って答えた。
「何を心配するんだよ。美咲は俺のことが好きすぎて、離れられるわけがない。
花音が優勝したいって言うなら、当然叶えてやるさ」
その瞬間、美咲は十年分の想いを手放し、彼の世界から、完全に消えることを決意した。
第1話
町中では、高橋美咲(たかはし みさき)が中村悠真(なかむら ゆうま)の溺愛する婚約者だということを知らない者はいなかった。
十八歳のとき、悠真は満天の星空の下で彼女に永遠の愛を誓った。
だが、あの日――美咲は偶然、悠真とその仲間たちの会話を耳にしてしまった。
「悠真、お前、美咲さんのコンテスト用の陶器をすり替えるなんて……バレたら別れられるかもって思わないのかよ?」
悠真は秘書を抱きながら、軽く笑って答えた。
「何を心配するんだよ。美咲は俺のことが好きすぎて、離れられるわけがない。
花音が優勝したいって言うなら、当然叶えてやるさ」
その瞬間、美咲は十年分の想いを手放し、彼の世界から、完全に消えることを決意した。
……
クラブの入口で、美咲は長い間使っていなかった電話番号にコールをかけた。
「機密保持契約、確認しました。一ヶ月後、予定通り参加します」
声は穏やかだったが、その言葉には揺るぎない決意が込められていた。
この契約が有効になれば、三年間、美咲の行方は誰にも分からなくなる。
電話の向こうで一瞬の沈黙があり、すぐに歓喜の声が続いた。
「高橋さん、考え直していただけて本当に良かったです!
一ヶ月後にはプロジェクトが始動します。迎えの者を手配しますので、ご安心ください」
通話が切れたあとも、悠真の冷たい言葉が美咲の脳裏にこびりついて離れなかった。
――十分前、VIPルームにて。
「悠真、本当に一ヶ月後に美咲さんの作品をすり替えるつもりか?」
美咲は個室の前で、その足がまるで地に縫い付けられたかのように動けなくなっていた。
中ではまだ話が続いていた。
「バレたら別れることになるって思わないのか?」
「そうだよ、悠真、美咲さんの性格からして、もし花音のためにやったって知られたら、大事になるぞ」
美咲の体が硬直する。
指先が手のひらに食い込み、息さえ止まりそうだった。
「心配ないって。俺は誰よりも知ってる。美咲は俺をどれだけ愛してるか。離れられるわけがないよ」
――ズンッ。
悠真のその一言は鋭く胸を突き刺す刃となって、彼女の心をずたずたに引き裂いた。
その場に立っているのがやっとだった。
「それに花音は……」
悠真はふっとため息をついた。
「あの子は頑固で、俺に養ってもらうのは嫌だって言う。だからせめて優勝させてやりたいんだ。
美咲は確かに実力はあるけど、優勝よりも俺の妻になることを望んでるからな」
男たちが一斉に笑い出した。
「悠真ってば、優勝は愛人に、妻の座は本命にってことか?」
「さすが悠真、うまくバランス取ってるな」
悠真は軽く「うん」とだけ答えた。
「とにかく、美咲には絶対に口を滑らせるなよ」
美咲の拳がぎゅっと握り締められる。
鋭い爪が皮膚に食い込み、チクリとした痛みが彼女の胸の痛みと重なった。
一ヶ月前、世界最高峰の考古学機関――石井グループが正式に文化財修復コンテストの開催を発表した。
優勝すれば、チームと共に考古学研修に参加し、さらにその後は石井グループ傘下の博物館での就職が約束されている。
悠真は美咲が出場を決めたと知り、少し不機嫌そうな表情を見せた。
その言葉はすべて、出場を辞退するように誘導するものだった。
彼女は最初、それが遠距離になるのを嫌がっているだけだと思っていた。
まさか、他の女に優勝を譲らせようとしているとは夢にも思わなかった。
美咲はかすかに苦笑し、くるりと身を翻して個室の前へ戻った。
「悠真、私に優勝させるの、そんなに嫌なの?」
甘くて柔らかい声が不意に響いた。
少し不満げに、拗ねたような口調だった。
「あなたが私を娶ってくれないから、私はせめて優勝くらい欲しいのよ」
どうやら、彼女があの藤井花音(ふじい かのん)という女みたい。
美咲は息を止めたまま耳を澄ませる。
悠真の優しい声が続く。
「よしよし、もちろん、嫌なわけないさ」
彼は彼女を引き寄せ、腕の中に包み込みながら囁いた。
「籍以外なら、何だって君にあげるよ」
花音はそれ以上、駄々をこねなかった。
そのまま悠真の胸に身を預け、口元をわずかに上げる。そして、何かに気づいたようにゆっくりと顔を上げた。
そして――
挑発するように、玄関口で固まっている美咲に視線を送る。
彼女は、自分のことを知っていた!
その瞬間、美咲は息をすることさえ苦しく感じた。
感情を必死に抑え、立ち去ろうとしたそのとき、花音が後を追ってきた。
「高橋さん、もう帰るの?」
ふたりの視線が交わる。
花音は微笑みながら言った。
「思ったより、冷静だね。ちょっと意外」
美咲はこれ以上関わる気もなく背を向けたが、花音に手首を掴まれた。
「彼があなたのこと、何て言ってたか知ってる?」
花音は彼女を上から下まで値踏みするように見てから、鼻で笑った。
「ベッドの上じゃ死んだ魚のようで、体位も変えられないって。毎回全然満足できないってさ。もうとっくに飽きてたんだって」
そう言って、襟元を引き下げた。
そこには無数のキスマークが刻まれていた。
さらに言葉を重ねる。
「ほら、私には我慢なんてしないの。妊娠したら産めって言われてるし。どうせあなた、産めないんでしょ?」
美咲の体中の血が逆流する感覚に襲われた。
深く息を吸い込み、低く問いかけた。
「……結局、何が言いたいの?」
花音は肩をすくめるように笑った。
「あなたみたいに役に立たない女は、さっさと退いてほしいってだけ」
美咲の体がかすかに震え、力任せに手を引っこ抜いた。
そのとき――手首に巻いていた数珠が切れ、床に散らばった。
見下ろした先には、ころころと転がる珠たち。
それは、かつて病気で倒れた美咲のために、悠真がわざわざ三千段の石段を登って、お寺で祈願してきたものだった。
全部で二十一珠。
「一生平穏でありますように」という祈りと、贈った者の真心、熱い愛がこもっていた。
今、その数珠は砕けて散った。
十年の愛をつなぎとめていた糸が、静かに、完全に切れたのだ。
「欲しいなら、あげるわよ」
美咲はそう言って、くるりと背を向けた。
長い廊下を、ゆっくりと、けれど迷いなく歩き出す。
十八歳のとき、悠真は満天の星空の下で誓った。
「一生、君を愛する」と――
けれど、その「一生」は、たった十年で終わった。
ならば、自分も、もう未練は残さない。
第2話
美咲が帰宅し、二階への階段を上がると、目の前の写真の壁に目をやった。
その視線には、一瞬の悲しみが走る。
そこには、ふたりのツーショットが並んでいた。
どの写真の中でも、ふたりの顔には幸せがあふれていた。
今の美咲には、それがただただ目に刺さるだけだった。
彼女は手を伸ばし、写真を吊るしていた紐をぐいっと引っ張った。
写真はバラバラと床に落ちた。
美咲はそれらを拾い集め、洗面器に入れて火をつけた。
炎が一気に立ち上がり、ふたりの甘い記憶を一瞬で焼き尽くす。
十年の恋。
美咲は彼を、未熟な頃から成熟へ、貧しい日々から成功の階段まで、いつもそばで支えてきた。
一番つらかった時期は、出前すら一人前しか買えなかった。
それでも彼女は一度も苦しいとは思わなかった。
愛があれば水だけで生きられる――それくらいの気持ちだった。
悠真は、「神様に誓って、一生、美咲だけを愛する」と言ってくれた。
彼女は信じた。でも、彼は忘れてしまった。
炎が最後の火花を上げて消えたその時――
悠真が帰ってきた。
大きな花束とプレゼントを抱えて、慌てて部屋に入ってくる。
顔には申し訳なさと後悔の色が浮かんでいた。
「ごめん、美咲……接待が長引いて、夕飯に間に合わなかった」
美咲は彼を見上げた。
スーツもシャツもネクタイも着替えていて、匂いも爽やかで清潔そのもの。
よくもまあ、ここまで完璧に装ってきたものだ。
「美咲、怒ってる?」
悠真は両手で彼女の顔を包み込んで、まるで子犬のような目で見つめた。
「俺が悪かったよ。プロジェクトのことで毎日残業続きで、あまり一緒に過ごせなかった……許してくれる?」
美咲がふと目を落とすと、彼の鎖骨にはっきりと残る噛み跡があった。
真っ赤で、やけに目につく。
この数日、花音の腕の中にいたはずなのに、残業だなんて……真顔でよく言えたものだ。
美咲はそれを指摘せず、適当に答えた。
「怒ってないよ。気にしないで」
悠真は嬉しそうに顔を近づけようとした。
「やっぱり美咲は優しいな。この週末さ、オークションに行ってジュエリーでも買おうか?」
美咲は彼を制して、静かに問いかけた。
「悠真、ずっと私を愛してくれるの?」
悠真は一切の迷いもなく答えた。
「もちろんだよ。ずっと愛してる。美咲だけを」
そんな言葉、美咲はもう何度も聞いてきた。
以前は信じて疑わなかった。
でも今は、その言葉すら侮辱に感じる。
他の女のために、彼女の夢を踏みにじって、作品を差し替えようとまでした男だ。
その時、悠真のスマホが鳴った。
彼は画面をチラッと見て、慌てて着信を拒否した。
だが、すぐまた鳴る。
数秒迷った末に、また拒否。
すると今度は、メッセージが届いた。
それを見た途端、悠真の眉間がぐっと寄った。
「美咲……会社でちょっと急用が……」
「悠真、私たちが付き合い始めた日、私が何て言ったか覚えてる?」
美咲の突然の質問に、彼はぎくりと胸を突かれた。
「私、言ったよね。もしあなたが心変わりしたら、正直に教えて。私は絶対にあなたを責めないって」
一瞬の間を置いて、美咲は悠真をじっと見つめ、微笑んだ。
けれどその笑みは、瞳の奥まで届いていなかった。
「でも、もし騙したら……私はあなたの前から永遠に消える。絶対に振り返らない」
悠真は拳を握りしめ、指の関節が白くなるほど力が入っていた。
そして、しばらくの沈黙の後、無理に平静を装って口を開いた。
「美咲、俺がどれだけ君を愛してると思ってるの?どうして騙すなんて思うんだ」
悠真は彼女の手を取り、まっすぐにその瞳を覗き込んだ。
「君が俺と一緒にいてくれるって決めた瞬間から、俺は永遠の愛を誓ったんだ。ただ君だけを愛すると」
その言葉には、確かに熱がこもっていた。
けれど――美咲はもう、その一言一言を信じることができなかった。
だから、悠真を見送ったあと、美咲も静かにその後を追った。
第3話
悠真はやはり会社には行かず、病院へ向かっていた。
花音は道端に立っていた。
悠真が車を降りると、彼女はすぐにぴょんぴょん跳ねるようにして彼の胸に飛び込んできた。
その笑顔はまぶしいほどに幸せそうだった。
次の瞬間、美咲はただただ目の前の光景を見つめるしかなかった。
道端で二人は、周囲をまるで気にする様子もなく、深くキスを交わし始めたのだ。
そのキスは激しく、まるで相手を骨の髄まで貪ろうとするような勢いで――
誰が見ても、悠真の情熱は明らかだった。
美咲の胸はしくしくと痛み、張り詰めるような苦しさがこみ上げてきた。
ズキズキと鼓動に合わせて痛む。
彼女は静かに見つめていた。どれほど時間が過ぎたのかもわからない。
すると花音が突然バッグから一枚の紙を取り出し、悠真の目の前に差し出した。
「悠真、見て。赤ちゃんできたの」
美咲の身体がその場で凍りついた。
少し離れた場所で、悠真は宝物を扱うように花音をそっと抱き上げ、そのままくるりと一回転。
顔には、初めて父親になる男の歓喜が溢れていた。
花音が妊娠した?
二人に……子どもが?
美咲は車の中で、胸の痛みで呼吸すらままならなくなっていた。
震える手でスマホを取り出し、悠真の番号を押す。
悠真は花音の唇に軽くキスを落としたあと、少し離れた場所に歩いていき、電話に出た。
「もしもし、美咲?今会社にいるんだ。ちょっとプロジェクトの件で手こずってて……帰るの遅くなるかも。
帰りに君の好きなスイーツ買ってくから……」
美咲はその言葉を遮って、静かに言った。
「悠真、振り返って。
すぐ後ろにいるわ」
その瞬間、まるで鋭い刃が彼の背中に突き刺さったかのように、悠真の身体がビクリと固まった。
美咲の目には、彼の背筋がピンと張り詰め、一切動かなくなる様子が映っていた。
しばらくしてから、悠真は全身を震わせながら、ゆっくりと振り返った。
彼の背後、絶え間なく流れる車の列の中――
美咲が車から降り、淡々とした表情で彼を見つめていた。
悠真は、息をすることすら忘れてしまったかのように固まっていた。
彼女は、まるで雷に打たれたかのような彼の顔を見つめ、やがてふっと笑みを浮かべた。
「何、その顔」
悠真は一瞬呆然としたあと、すぐに焦りと心配を浮かべた表情に切り替えた。
「美咲……どうして病院になんて来たんだ?どこか具合でも悪いのか?ケガでもした?」
彼は突然、美咲の両肩を掴み、上から下までじっと見つめて、必死な様子で問いかけた。
――芝居が上手ね。
美咲は皮肉を込めて、口元をほんの少しだけ吊り上げた。
「ちょっと胃薬をもらいに来ただけ」
「胃が痛むのか?」
美咲は答える代わりに、落ち着いた声で問い返した。
「会社にいるって言ってたけど……どうして病院に?それに彼女は誰?」
悠真の瞳に、明らかな動揺が走った。
喉がごくんと動いたが、口はもごもごと動くだけで言葉が出なかった。
「高橋さん、中村社長を責めないでください」花音が歩み寄ってきた。
「私は会社の社員なんです。赤ちゃんができたんですけど、彼氏が『暫く』責任を取れない状況で……」
そう言いながら、まるで世の中すべてに見放されたかのように目を潤ませた。
「誰にも知られたくなくて……だから、中村社長にお願いして内緒にしてもらってたんです。嘘をついたのは、仕方なかったんです……」
――暫く?
つまり、花音はもう確信してるんだ。最終的には自分が悠真と結婚できるって。
美咲は悠真の強張った表情を見て、思わず心の中で冷たく笑ってしまった。
だが、その感情を一切顔には出さなかった。
「彼女の言ってること、本当なの?」
悠真は食い気味に頷いた。
「当然だよ!美咲、俺のこと分かってるだろ?この理由以外で、君に嘘なんて絶対つかないよ」
美咲は目を伏せた。
心の中の皮肉さは、さらに深まっていく。
これまでどれだけ、彼に嘘をつかれてきたか。
「じゃあ、帰りましょ」美咲は淡々と言った。
彼がそこまでして隠したいなら、協力してあげる。
――どうせ、最後に待ってるのは別れだけなのだから。
第4話
帰り道、美咲のスマホはずっと震えていた。
取り出して見ると、すべて花音からのメッセージだった。
【本当に哀れね、私の嘘を暴く勇気もないなんて。中村夫人の座を失うのがそんなに怖いの?】
【残念だけど、私はもう子どもを授かったの。きっとすぐにその座は私のものになるわ】
【人も賞も、全部手に入れる】
自信満々なその口ぶりに、美咲は思わず眉をひそめた。
だが、返信する気にはなれなかった。
もう去ると決めた以上、言い争う意味はなかった。
画面を消したタイミングで、悠真がそっと彼女の手を取った。
「美咲、今日は俺が悪かった。嘘をついてごめん。償いに、オークションに連れてってジュエリーを買ってあげたいんだ。どうかな?」
美咲はどこか疲れた様子で、首を横に振って断った。
「いいの、私、ジュエリーは好きじゃないから」
しかし悠真は引き下がらず、そのまま車を会場へと走らせた。
「身につけなくてもいい。でも、持っていないのはダメだ」
オークション会場では、美咲を喜ばせるために、彼女が少しでも目を留めた品――骨董品でも宝石でも、すべて悠真が惜しげもなく落札していった。
前半が終わり、会場は一旦休憩に入る。
そのタイミングで、大勢の記者たちが一斉に押し寄せ、フラッシュがあちこちで光り始めた。
そして、周囲の人々からも羨望の視線が注がれる。
「うわぁ、噂には聞いてたけど…中村社長って、本当に婚約者に甘いのね。目の当たりにしちゃった」
「やっぱりいい男って、他人のものよね。羨ましい~」
「ほんとそれ。まさに理想のカップル!」
そんな声を背後に聞きながら、美咲はふと目を伏せて、目の奥の嘲りを隠した。
もし彼らが知っていたらどうだろう――「愛妻家」と呼ばれている男が、すでに浮気していたとしたら、今みたいに羨ましがるだろうか?
「どうした?騒がしくて気分でも悪くなった?」
悠真の心配そうな声が、美咲の思考を中断させた。
彼女はごく淡々と首を横に振った。
「大丈夫よ」
やがて、後半のオークションが始まり、会場の照明が再び落とされた。
そのとき、大きな扉が突然開かれ、ひときわ小柄な女性が堂々と入ってきた。
――花音だった。
彼女は案内しようとするスタッフを押しのけ、何の迷いもなく悠真の隣に腰を下ろす。
そして、薄暗い照明の下、彼にそっと体を寄せた。
美咲の体がピクリと硬直し、思わず悠真の方へ視線を向ける。
すると、花音が現れた瞬間、悠真の顔には一瞬動揺の色が浮かび、彼女を追い払おうとしたようだった。
だが、花音の足先が彼のすねに触れた瞬間、悠真の喉仏が上下に揺れ、そのまま何も言わずに花音の行動を許してしまった。
その瞬間、美咲は息が詰まりそうになった。
彼女は必死に感情を抑え、何も見ていないふりをした。
後半のオークション中、美咲の心はどこか上の空だった。
だが、会場の空気が一変したのは、目玉商品の「トゥルーラブ」と名付けられたジュエリーセットが運び込まれたときだった。
ざわめきとともに、美咲の意識も現実に引き戻された。
見上げれば、眩しいほどに輝くルビーのネックレスが、黒いベルベットの上に静かに横たわっていた。
隣では競売人が、そのネックレスを熱っぽく紹介している。
ルビーは希少で高価な宝石。
その意味は、唯一無二で誠実な愛の証――
美咲がそのネックレスに数秒視線を止めたのを見て取ったのだろう、悠真は何の迷いもなく札を上げた。
「3億!」
すぐさま響いたのは、花音の声だった。
「6億!」
振り返ると、花音が彼女に向かって札を軽く振りながら、挑戦的な笑みを浮かべていた。
「ごめんなさいね、中村社長。私の子の父親も私を大切にしてくれるの。このネックレス、プレゼントしてくれるってさ」
――子ども。
その一言を聞いた途端、悠真の曇っていた顔から一気に険が消えた。
だが、美咲が隣にいる手前、花音に何も言えず、彼は代わりに競売人に合図を送った。
「即決です!中村様が『トゥルーラブ』シリーズを落札です!」
「おめでとうございます!」
第5話
拍手喝采が鳴り響く中、悠真は美咲の頬にそっとキスをした。
「ここで待ってて。ネックレス、取ってくるから」
そう言ってその場を離れた悠真を見送り、美咲は席を立ち、洗面所へと向かった。
冷たい水で顔を何度も叩き、頭を冷やそうとしていたが、その背後から挑発的な声が響いた。
「高橋さん、別に悪く言うつもりじゃないけどさ、悠真があんたにいくら使ったと思ってるの?もうちょっと女らしくしなよ。いつまでそんな保守的な格好してんの」
顔を上げた美咲の目に映ったのは、鏡越しに軽蔑の色を浮かべた花音の姿だった。
「見てよ、私を」
そう言いながら花音はコートをばっと開き、黒いレースのセクシーなランジェリーを見せつけた。
「男なんて所詮、見た目で動く動物よ。下半身に支配されてんの。
この格好を一目見せれば、悠真なんてあっという間に私のもの。ネックレスだって、喜んで差し出すに決まってるわ」
美咲の肩が小さく震えたが、何も言わずに手を拭き、席へと戻った。
間もなくして花音も戻ってきた。
そして、悠真のそばを通り過ぎる時、コートをわずかに開いてその中身をさりげなく見せた。
悠真の視線が一瞬だけ彼女に向いた。
喉がごくりと動き、瞳の奥が一気に暗くなる。
次の瞬間、彼は何事もなかったかのようにネックレスをポケットにしまい、急に立ち上がった。
「美咲、ネックレスにちょっと傷があったみたい。すぐに直してくるから、ちょっと待ってて」そう言うと、美咲の返事も聞かずに足早にその場を離れた。
そのあとを追うように、花音も立ち上がり、意味ありげな視線を美咲に向けてから歩き出した。
二人の背中が見えなくなるまで、美咲は息を殺して耐えていた。
だが、胸に刺さる痛みは、何度も何度も刃を突き立てるように彼女を切り裂いていく。
苦しくて、ただ一つの願いが心に浮かぶ――悠真を、引きずり下ろしてやる。私と同じ地獄へ。
美咲は深く息を吸い、二人のあとを追った。
階段の踊り場に差し掛かった時だった。
聞き慣れた声が聞こえた。
「ちょっと……痛いってば、鍵もかけてないのに……」
……花音の声だ。
「君がどうしてもって言ったんじゃないか……この場所がいいって」
悠真の声には、抑えきれない欲の気配が混じっていた。
「痛いなら我慢しろ。俺が手加減すると思うなよ」
花音がくすっと笑った。
「ほんと、冷たいんだから……ねえ、あのネックレス。私、欲しいって言ったでしょ?くれるの?」
「持ってきてるだろ。もう答えはわかってるだろ」何かをくわえたままなのか、悠真の声は少しこもっていた。
「動かないで、もっと脚を上げて……」
隙間から見えた二人の交わる影に、美咲の全身から血の気が引いた。
胃が激しくうねり、吐き気が込み上げる。
口を押さえ、震える身体をどうにか支えながら、壁にもたれた。
涙がとめどなく溢れてきて、立っているのがやっとだった。
そして顔を上げたその瞬間――
花音がこちらを見て、唇だけを動かして言った。
「また、負けたね」
美咲の身体がぐらりと揺れた。
もう、これ以上は見ていられなかった。
踵を返し、その場を逃げるように駆け出した。
家に帰った美咲が最初にしたことは、全ての使用人を帰らせることだった。
胸の奥に溜まった怒りを押さえながら、家の中に残されたペアグッズをすべてかき集めた。
これらは、ここ数年かけて少しずつ集めてきたもの。
それらを見るたび、恋人だった頃の悠真を思い出す。
彼は子供みたいにベタベタしてきて、「ペアじゃなきゃイヤだ」なんて言って、嬉しそうに笑っていた。
湯飲み、歯ブラシ、パジャマ――
どれも安物の日常品だったが、悠真はそれが何より嬉しそうだった。
そして、彼が美咲に贈ったものといえば、決まって高価なアクセサリーばかり。
一つひとつが、何十万円、何百万円もする代物だった。
しかし、片付けの最中、美咲の脳裏にふと過去の記憶が蘇った。
23歳の誕生日、悠真は「ちゃんとしたアクセサリーを買ってあげたい」と言って、ジュエリーショップに連れて行ってくれた。
そのとき、美咲が一目で気に入ったのは、ダイヤモンドのネックレス。
けれど、まだ二人の事業は始まったばかりで、そんな高額な買い物はできなかった。
悠真は彼女の手を握りしめ、悔しそうに目を潤ませて言った。
「美咲、こんな思いさせてごめん」
「俺、絶対にいっぱい稼いで、今度はこの商業施設ごと買い取って、君に全部贈るから」
そしてそれは、決して嘘ではなかった。
彼は実際、何十、何百ものモールを買い取れるほどの財を手にした。
だが、その約束に宿っていた愛は、いつの間にか他人と分け合うものになっていた。
これ以上思い出に浸ってはいけないと、美咲はアクセサリーをすべて箱に詰め、寄付する準備を始めた。
最後に手をかけたのは、悠真がプロポーズのときに贈ってくれた指輪だった。
そのときの彼は、子供のように泣きじゃくりながら指輪をはめてくれた。
「絶対に盛大な結婚式を挙げるから」――そう、嗚咽まじりに誓った。
だが今や、全ては変わり果ててしまった。
あの約束の結婚式も、もう訪れることはない。
第6話
美咲がすべてを片付け終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。そこへ、突然悠真が駆け込んできた。
慌てて彼女の前まで走り寄り、緊張を滲ませながら言った。
「美咲、一人で帰ってきたのか?」
美咲は彼の手元を一瞥した。案の定、何も持っていなかった。
彼女はすぐには答えず、逆に問い返した。
「ネックレスは?」
悠真は一瞬動揺し、視線を逸らした。
「ごめん、美咲。あのネックレス、傷がひどくて修復できなかったんだ。だから、新しいのを買い直したよ」
そう言うと、新しいネックレスを取り出して丁寧に彼女の首にかけた。目には愛情が満ちていた。
「美咲には、傷なんてあるものをつけさせたくないから」
宝石の輝きは目が眩むほどだった。
美咲は視線を落とし、それを静かに眺めた。でも、ひと目で分かった。品質は、以前のものに遠く及ばない。
思わず、笑いそうになった。
昔の彼は、彼女に唯一で、一番大切なものをくれた。
でも、今や彼女は花音の次、二番目になってしまった。
悠真が彼女を抱き寄せようとしたその時、ふと家の様子に違和感を覚えた。
周囲を見渡し、胸に奇妙な感覚が湧いた。
「美咲……なんか家の中、物が少なくなった気がするけど、色々無くなってない?」
「ちょっと整理しただけ。いらないものを処分したの」
美咲の表情は変わらない。ただ、その言葉の最後に――「自分自身も含めて」とは言わなかった。
だが、悠真の不安は収まるどころか、ますます膨らんでいった。
写真の飾られた壁を指差し、震える声を漏らす。
「美咲……俺たちの写真、どこに行ったの?」
美咲はその視線の先を追った。
その場所は目立つ位置にあった。でも彼が気づいたのは、何日も経ってからだ。
かつての彼なら、十数分もあれば気づいていたはず。
だけど今の彼の心は、別の女の子でいっぱいだ。
異変なんて、すぐに気づけるはずがない。
美咲が口を開こうとしたその瞬間、悠真が彼女を強く抱きしめた。声は震え、恐怖が滲んでいた。
「美咲、どういう意味だよ。俺たちの思い出を全部捨てたのか?まさか、俺のこと……捨てる気なのか……?
俺、もし何か悪いことしてたなら教えてくれよ。ちゃんと直すから……だからお願いだ、俺を見捨てないでくれよ……」
最後の方は、ほとんど泣き声だった。
けれど、美咲はただ静かに前を見つめていた。その瞳には、冷めた諦めと、自嘲の色が浮かんでいた。
そんなに彼女が去るのが怖いなら、どうして他の女を作ったのだろう。
しかも、その女には子供まで産ませて……
彼は、自分の隠し事が完璧だとでも思っていたのか。それとも、美咲が何も気づかない間抜けだと思っていたのか。
今の彼は、ほんの少しの変化を察知しただけで、この慌てぶり。
ならば、コンテストが終わった日が来れば――彼女が完全に姿を消したその日には、一体どんな顔を見せるのか。楽しみで仕方なかった。
美咲は静かに彼を押しのけ、冷静な表情で言った。
「落ち着いて。古いものが多すぎただけよ。
それに、私たち、もうすぐ結婚するのよ、理由もなく、私があなたから離れるわけないでしょ……まさか、私に隠れて何かしてるの?」
悠真は最初の一言で胸を撫で下ろしかけたが、後半の言葉に顔をこわばらせた。
彼は彼女の手を握りしめ、必死に誓った。
「美咲、俺は絶対に裏切ってない。今までも、これからも、絶対に」
美咲は唇の端を少しだけ引き上げ、淡々と答えた。
「じゃあ、何をそんなに怯えてるの?もう遅いわ、休みましょう」
そう言い残し、彼女は背を向けて歩き出した。
悠真の胸のざわめきは止まらなかった。それでも、自分に言い聞かせる。
美咲は自分を愛している。きっと大丈夫だ。
もうすぐ結婚するんだ。
何も変わらない――絶対に、何も変わらないはずだ。
第7話
深夜、悠真はそっと美咲に声をかけた。
「美咲、もう寝た?」
優しい口調で何度も彼女が眠ったことを確かめると、悠真は静かに起き上がり、バルコニーへと向かった。
「いい子にしてて。今夜は本当に行けないけど、明日には必ず行くから。
明日、トップレベルのハッカーに連絡して、大会当日に監視システムをハッキングして作品をすり替えてもらう。それで優勝は君のものになるよ」
美咲は黙って聞いていた。
ほんの数歩の距離――一枚のガラス戸を隔てて。
彼女の恋人は、甘く優しい声で愛人に囁いていた。
「心配しないで。君にあげるって約束した優勝、ちゃんと守るから」
彼の指先からは、白い煙がふわりと立ち上っていた。
美咲は呆然と、その姿を見つめていた。
そして、何かを感じ取ったように悠真が振り返り、ガラス越しに彼女と目が合った。
その瞬間、彼は硬直した。
「……美咲」
美咲は目を閉じ、一度息を整えて、かすれた声で問いかけた。
「悠真、こんな時間に誰と電話してたの?」
「会社の部下だ。プロジェクトでトラブルがあって、相談してきたんだよ」
悠真はスマホをポケットにしまい、美咲の方へ歩み寄った。
その声は、違和感のないほど自然だった。
まるで、何度も使い古した嘘を口にすることに、もう慣れてしまっているかのように。
美咲は、彼の体からかすかに漂う煙草の匂いに気づいた。咳を二度、軽くすると、悠真は慌てて彼女の額に手を当てた。
「寒かった?急に冷えてきたから、あとでエアコンの温度ちょっと上げようか?」
そう言いながら、彼の視線はさりげなく彼女の目元を探った。
まるで、さっきの会話をどこまで聞かれていたのかを確かめるかのように。
美咲は、パジャマの襟を軽く合わせながら、柔らかく答えた。
「うん、いいよ」
その声は、いつもと変わらず穏やかで優しかった。
悠真は安堵の息を吐き、肩の力を抜いた。
「さあ、もう寝よう」
ベッドに戻ると、彼はすぐに眠りについた。
布団をきっちりと掛けられた美咲は、天井の暗闇をじっと見つめていた。
目を閉じるたびに、さっきの言葉が脳裏をよぎる。
彼は誰よりも知っているはずだった。
彼女が文化財修復という道にどれほど努力してきたかを。
一番辛かった頃は、両手が傷だらけで、日用品すら持てなくなった。
それなのに、今の彼は、あっさりとその努力の結晶を他人に譲ると言った。
月明かりの下で、美咲はゆっくりと顔を向け、静かに彼の目元を見つめた。
悠真――あと五日。
私はあなたの元を、永遠に去るつもり。
だからどうか、どうか忘れないで。
今、あなたがしているすべてを。
私を裏切った一つ一つの瞬間を。
そして、そのすべての報いを、必ず受け止めて。
第8話
文化財修復コンテスト当日。
悠真はいつも通り、美咲を会場まで送り届けた。
彼は右手で美咲の指を撫でながら、そっと声をかけた。
「美咲、緊張してる?」
美咲は彼の横顔を見つめ、ふと微笑んだ。
「ちょっとだけ」
「大丈夫、俺が応援してるから」
そう言って、悠真は美咲の手を口元に持っていき、そっとキスを落とした。
「俺の美咲は、誰よりもすごいんだから……」
手のひらに伝わるぬくもりに、美咲は軽く吐き気を覚えた。
彼女は聞きたくなった――その口で、花音にも同じようなことをしたんじゃないのか、と。
黙って手を引き抜き、窓の外へと顔を向けた。微風が髪を揺らし、心臓の鼓動が穏やかに響いていた。
……もういい。どうでもよくなった。
美咲は気づかなかった。悠真がバックミラー越しに、深い目でじっと彼女を見つめていたことに。
車を降り、修復対象の文化財を受け取ったあと、美咲が口を開いた。
「私、優勝できると思う?」
その言葉に、悠真の身体が一瞬こわばり、目にかすかな動揺が走った。
しばらく黙ったまま、あいまいに答えた。
「優勝してもしなくても、美咲は俺の中で一番だよ」
少し間を置き、さらに続けた。
「終わったら……結婚式の日取り、決めよう」
彼は目尻を下げ、愛情を込めたように微笑んだ。
まるで、まだ他の女を愛しているようには、とても見えなかった。
美咲はただ静かに笑った。
「本当に決めたの?」
花音のために、私の夢を犠牲にするって――
悠真、本当にその覚悟、できたの?
悠真は答えようとしたが、胸の奥に鋭い痛みが走り、次第に焦りに飲み込まれた。
突然、美咲の肩を握りしめ、わずかに震える声で言った。
「なにを決めたって?結婚の話?
そんなの、もう前から決めてたじゃないか。一緒になった日から、絶対に君を嫁にするって誓った」
美咲が答えないのを見て、彼はさらにおそるおそる尋ねた。
「ねえ、俺たち、絶対に結婚するよな?」
美咲はじっと彼を見つめ、ゆっくりと答えた。
「もちろん」
迷いのない肯定の言葉が口をついて出た。悠真に何度も騙されたのだから、たった一度彼を騙すくらい、許されるだろう。
約束の言葉に、悠真はほっと息をついた。
「もうすぐ始まるよ。行ってらっしゃい。
俺、外からずっと見てるから。応援してる」
美咲は軽くうなずき、修復室へと足を進めた。
「カチャン」と扉が閉まり、鍵がかかる音が響く。美咲は深く息を吸い込み、椅子に腰を下ろした。
ここから先、七時間は密室で修復作業に集中するしかない。
監視カメラで常時チェックされる中、時間が来るとスタッフが入室し、順に作品を回収して専門家による検品が行われる。
美咲はすぐに集中モードに入り、髪をざっくりと後ろでまとめて、白く整った顔をあらわにしたまま、目の前の文化財に細やかな手を伸ばした。
その指先はまるで魔法でもかけられているかのように、触れた部分が次々と完璧に蘇っていく。
美咲の腕前はずっと高く評価されていた。大学を卒業した年には、古文書の修復で特別採用枠を勝ち取り、美術館への就職が内定していた。
だが、あのとき悠真は野心に溢れ、投資判断を誤って会社に大きな損失を与えた。
それを見た悠真の父は激怒し、跡継ぎの座を私生児に譲ることを検討し始めた。
そのとき、美咲は美術館への就職を迷いなく断り、伝家の宝を売って、悠真の損失を埋める資金に替えた。
その日、彼女は石井グループへと断りを入れに行き、ビルの前でひとり泣いていた。
石井グループの社長・石井陸翔(いしい りくと)はちょうど車中にいて、涙ぐむ彼女の姿を見つけ、しばらく沈黙したあと、隣にいた秘書に尋ねた。
秘書がすべてを打ち明けると、指に挟んだ煙草を止めたまま、しばらく動かずにこう言った。
「彼女に、チャンスを与えてくれ」
石井陸翔――彼はなぜか、同情心を覚えた。
彼女の伝家の宝を高額で買い取ったうえ、三年後に会社でのポストを用意し、その席を空けて待っていたのだ。
そこまで思い返した美咲は、今回だけは自分のために生きようと、心を決めた。
修復作業は間もなく完了した。
美咲は裏口からひっそりと出て行った。
陸翔が手配した助手・田村が丁寧に言った。
「高橋様、こちらです」
美咲は軽くうなずき、ふと後ろを振り返った。
閉ざされた修復室の扉越しに、まるで悠真の顔が浮かんだような気がした。
少しして、美咲は視線を戻し、迷いなく車に乗り込んだ。
エンジンが静かにかかり、車が走り出す。
彼女は悠真に最後のメッセージを送った。
【明日の授賞式、あなたにサプライズを用意してる】
田村が一枚の資料を差し出す。
「高橋様、秘密保持契約はすでに有効になっております。プロジェクトが完了するまで、誰にも居場所は知られません」
第9話
翌日、授賞式が行われた。
悠真は早めに会場に到着し、あたりを見回したが、美咲の姿はどこにも見当たらなかった。
メッセージを送っても、電話をかけても、美咲からの返事は一切ない。
胸の奥に、得体の知れない不安が広がっていく。
昨夜、悠真は家には帰らなかった。美咲から【サプライズがある】というメッセージを受け取った後、花音が彼にしがみついて離れなかったのだ。
甘えるようにまとわりつき、「一緒にいて」とせがんでくる花音。
そんな花音の甘えに、悠真は昔から弱かった。
結局、美咲に一言連絡を入れたあと、花音と一夜を共にした。
今、美咲がどこにもいないことに、悠真は不安を拭いきれずにいたが、「きっとサプライズの準備をしてるんだ」と自分に言い聞かせるしかなかった。
そんな悠真の心のざわつきの中、授賞式が始まった。
司会者が手元のカードを片手に、にこやかな笑みを浮かべて言う。
「それでは、今年の優勝者を発表します――藤井花音さん、おめでとうございます!」
花音は内心でガッツポーズを取りながら、わざとらしく口元を手で押さえ、驚いたふりを見せた。
会場の拍手と歓声に包まれながらステージへと上がっていくと、目は会場をさまよい、美咲の姿を探していた。
この瞬間を、絶対にあの女に見せつけたかったのだ。
「それでは藤井さん、受賞のコメントをお願いします」
司会者の進行に、花音は視線を戻し、軽く息を吐く。
まあいいわ。どうせ、美咲もどこかで見てるに決まってる。
そう思いながらマイクを受け取り、感極まったように涙を浮かべて語り始めた。
「このような素晴らしい賞をいただけて、本当にありがとうございます。ここまで来るのは本当に大変でした……でも、諦めなくてよかったです」
彼女の目が赤く染まり、まっすぐ悠真へと向けられる。
「そして、いちばん感謝したい人は、私の彼氏です。
彼がいつもそばで励まし、支えてくれたからこそ、私はここまで来られました」
観客席からは歓声とざわめきが沸き起こり、「彼氏って誰だ?」と好奇の声が飛び交う。
悠真はその声に包まれながら、優しく微笑み、花音と視線を交わす。
だがその瞬間、大型スクリーンが一瞬暗転し、すぐに映像が切り替わった。
花音と悠真の親密な写真、花音が美咲に送った挑発的なメッセージ、録音データ、さらに花音が作品すり替えを共謀していたと思われる動画――次々と映し出されていく。
会場は一瞬で騒然となった。観客の誰もが、息を呑んでスクリーンを見つめる。
「えっ……何これ?」
「中村社長って、美咲さんの婚約者じゃなかったっけ?なんで花音と……?」
「じゃあ、この優勝って裏があるってこと?最低すぎる!」
「うわ……この二人、マジで無理……」
ざわめきは止むことなく、メディアのカメラもスクリーンへ向けて一斉に動く。これだけのスクープ、逃すわけがない。
悠真の顔から血の気が引き、額には冷や汗が滲む。
全身が震え、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
――終わった。
そう悟った彼は、震える手で美咲に何度も電話をかけるが、まったくつながらない。
周囲の視線は冷たく、あからさまに嫌悪と軽蔑が混じっている。中には指を差してくる者までいた。
「こいつだよ、気持ち悪っ。愛人の受賞スピーチなんか見てやがる。マジ吐きそう」
ステージ上の花音も、観客からの怒号にさらされていた。
「さっさと降りろ!恥知らず!」
「まだ立ってるとか、正気かよ?」
花音の顔は真っ青になり、涙が次から次へと頬を伝う。まるで助けを求めるように悠真を見つめ、嗚咽混じりに叫ぶ。
「悠真……!」
だが悠真は、一切耳を貸そうとしなかった。
必死にスマホを握り締め、美咲へとメッセージを送り続けるが、既読もつかない。
背筋を這い上がってくるような焦燥と恐怖に、手が震え、指の関節は真っ白になるほど力が入っていた。
――美咲……俺の美咲は、どこだ……?
限界だった。
悠真は立ち上がると、無言のままその場を去った。
「悠真!どこ行くの!?」花音が喉を潰すような声で叫ぶが、彼は振り返らない。
頭の中には、ただ一つの言葉だけがぐるぐると回っていた。
――家に帰らなきゃ。
悠真は車に乗り込むと、エンジンを一気にかけ、アクセルを踏み込んだ。
車は猛スピードで会場を離れ、あっという間にその姿を消した。