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奈落の真紅はいつか散る
二宮知世(にのみや ちせ)は声をひそめて言った。 「二宮おじさん、この間おっしゃっていた条件……妹の代わりに、私があの家へ嫁ぐことを受...
Chương (1)
第1章
二宮知世(にのみや ちせ)は声をひそめて言った。
「二宮おじさん、この間おっしゃっていた条件……妹の代わりに、私があの家へ嫁ぐことを受け入れます」
その口調は柔らかだった。表情にも一切の動揺は見えない。だが、彼女の指先は、自分の掌の肉を深々と食い込むほどに握りしめられていた。
静まり返った居間で、知世の言葉は水があつい油鍋に落ちたかのように、一瞬にして激しい反応を引き起こした。
ソファの向こうでその言葉を聞いた優太の父は、思わず顔をほころばせた。
「本当にそう決めたのかい?君が本当に妹の代わりに嫁ぐってのか?」
知世はこくりと頷き、声を強くした。
「ええ、もう決めました」
「よし、よし……代わりに嫁ぐというなら、長谷川家の方は十五日もあれば式の日取りを決められるだろう。他のことはこっちで何とかする」優太の父はそう言うと、スマートフォンを操作し始めたが、何か思い出したように顔を上げた。「ところで知世、君が付き合っているって言ってた彼氏とは、もう別れたのか?」
知世は唇を噛み、重たいように「うん……」と答えた。
その様子を見て、優太の父は何かを悟ったようだ。
「まあ、いいさ。長谷川家の次男坊は、君の言う彼氏なんかより、あらゆる面でずっと優れた男だ。君の選択は間違ってない。ただな……長谷川家は常に海外で事業をしている。知らないどころで、多少の不便は覚悟しなきゃならんかもしれないがな」
優太の父は一呼吸置き、口調に少し後ろめたさを滲ませて続けた。
「知世よ、二宮家は君を長年育ててきた。もし君が望むなら、俺はこれからも君の父親であり続けたい。ただ……家族を、妹を恨まないでほしい。お願いだ」
優太の父の鬢の白髪を見つめながら、知世は唇を噛みしめ、伏せたまつげを上げた。口を開こうとしたその時だった。
「海外?……何の話をしているんだ?」
突然の声が、知世の言葉を遮った。
第1話
二宮知世(にのみや ちせ)は声をひそめて言った。
「二宮おじさん、この間おっしゃっていた条件……妹の代わりに、私があの家へ嫁ぐことを受け入れます」
その口調は柔らかだった。表情にも一切の動揺は見えない。だが、彼女の指先は、自分の掌の肉を深々と食い込むほどに握りしめられていた。
静まり返った居間で、知世の言葉は水があつい油鍋に落ちたかのように、一瞬にして激しい反応を引き起こした。
ソファの向こうでその言葉を聞いた優太の父は、思わず顔をほころばせた。
「本当にそう決めたのかい?君が本当に妹の代わりに嫁ぐってのか?」
知世はこくりと頷き、声を強くした。
「ええ、もう決めました」
「よし、よし……代わりに嫁ぐというなら、長谷川家の方は十五日もあれば式の日取りを決められるだろう。他のことはこっちで何とかする」優太の父はそう言うと、スマートフォンを操作し始めたが、何か思い出したように顔を上げた。「ところで知世、君が付き合っているって言ってた彼氏とは、もう別れたのか?」
知世は唇を噛み、重たいように「うん……」と答えた。
その様子を見て、優太の父は何かを悟ったようだ。
「まあ、いいさ。長谷川家の次男坊は、君の言う彼氏なんかより、あらゆる面でずっと優れた男だ。君の選択は間違ってない。ただな……長谷川家は常に海外で事業をしている。知らないどころで、多少の不便は覚悟しなきゃならんかもしれないがな」
優太の父は一呼吸置き、口調に少し後ろめたさを滲ませて続けた。
「知世よ、二宮家は君を長年育ててきた。もし君が望むなら、俺はこれからも君の父親であり続けたい。ただ……家族を、妹を恨まないでほしい。お願いだ」
優太の父の鬢の白髪を見つめながら、知世は唇を噛みしめ、伏せたまつげを上げた。口を開こうとしたその時だった。
「海外?……何の話をしているんだ?」
突然の声が、知世の言葉を遮った。
……
二人が声の方へ振り返ると、丁度帰宅したばかりの二宮優太(にのみや ゆうた)の姿があった。厄介な仕事を片付けてきたらしく、顔には少し陰りが浮かんでいた。長く続く仕事の疲れが、彼の目の下に隈を作っている。
優太は上着を脱ぎ、それを受け取った知世がおとなしく声をかけた。
「お兄さん、二宮おじさんと海外のニュースの話をしていたの」
優太は彼女を一瞥すると、優しい微笑を浮かべ、そっと彼女の頭を撫でた。
「そうか。それなら、ゆっくり話してくれ。俺は少し休みたい」
優太の背中が階段に消えるのを見届けると、知世は上着を傍らの使用人に渡し、優太の父に向き直ってほほえんだ。
「二宮おじさん、結婚式の件はすべてお任せします。でも、一つだけお願いがあります。他の誰にも、特に優太には……内緒にしていてください」
優太の父は理解できない様子だったが、深く考えずにうなずいた。知世は微笑むと、優太の後を追うように階段を上っていった。
階段を上りきった瞬間、彼女の腰に突然強い力が加わった。次の瞬間、彼女は何の前触れもなく、慣れ親しんだ腕の中に引き寄せられていた。
首筋が温かい湿り気に触れ、熱い息が頬にかかり、次に唇に軽く噛まれるような感触が走った。逃げ出そうとしたが、腰を締め付ける腕の力はますます強まり、この狭い場所で、彼女はまったく身動きが取れなくなっていた。
大人の男性の力に抗う体力など彼女にはなく、彼の次第に深くなるキスを、ただ受け入れるしかなかった。
優太は彼女の硬直した様子を感じ取り、長くはキスを続けず、そっと離した。
「どうしてそんなに嫌がるんだ?また俺の何かが気に障ったか?」
自由になった知世は、やっと息ができ、軽く喘いだ。彼女はうつむいたまま黙り込み、両手を二人の間に差し挟むようにして、無言の抵抗を示した。
答えを得られなかった優太の表情は次第に険しくなり、周りの空気は息苦しいほどに重くなっていった。
彼は彼女の顎を掴み、無理やりに自分の目を見させた。
「知世、理由もなくそういう態度を取られるのは嫌だって、言ったはずだ」
彼がこうなると怒っているのだと知っていた知世は、瞬きをして、声を柔らげて弱々しく言った。
「今日は雨だから……腕の関節が少し痛くて……お兄さんに反抗してるわけじゃないの……」
彼女が折れたのを見て、優太の表情はようやく和らいだ。
「そうか……前回、海外から持って帰ってきた薬は効かなかったのか?雨の日はまだ痛むのか?」
「うん……」
優太は彼女を解放した。「わかった。自分の部屋に戻って、暖房の温度を少し上げておけ」
知世はおとなしくうなずき、肘の関節をさすりながら急いで自室に戻った。
冷たい軟膏を塗って数分もすると、痛みはほとんど引いていた。ベッドに横たわっても、どうしても眠れなかった。
誰も知らない。優太の父が口にした「彼氏」とは、実は彼女の兄・二宮優太のことだということを。
第2話
十三歳の時、彼女は二宮家に孤児院から引き取られた。きっかけは優太が「妹がほしい」とふと言った一言だけ。そうして彼女は優太の、血の繋がらない妹となった。
十七歳、恋心が芽生える年頃。彼女はパソコンで「自分のお兄さんを好きになったらどうする?」と検索したところを優太に見つかってしまう。彼の探るような視線に顔を真っ赤に染めたその時、優太はそっと彼女の頭を撫でると、口元に軽くキスを落とした。
二十歳の時、二人は両親に内緒で禁断の果実を味わった。優太は責任を取ると言った。「両親が反対しても、血は繋がってない。お前を嫁に貰う」と。
そんな幸せがいつまでも続くと思っていた矢先、知世が二十四歳の誕生日を迎えた日、二宮家の幼い頃に迷子になった実の娘、尾松美沙(おまつ みさ)が戻ってきた。
美沙は迷子になった後、さほど苦労はせず、二宮家よりも裕福で権力のある尾松家に引き取られていた。しかし尾松家は彼女を政略結婚の道具としか見ておらず、長谷川家の障害を持つ息子に嫁がせようとしていた。嫁ぐ気のない美沙は、かつて目にした養子縁組の証明書を見つけ出し、実家に戻ってきたのだ。
尾松家はこれを知ると激怒し、「いずれにせよ、こちらの人間を一人嫁がせる」と言い渡してきた。
それを聞いた優太の母は、美沙を抱きしめながら「可哀想に……」と涙ぐみ、夫に「やっぱり知世を嫁がせるしかないんじゃないかしら?所詮は血の繋がらない子だし、育ててやった恩返しと思って」と相談した。
知世はそれを聞き、はっきりと断ろうと思った。しかし、自分を育ててくれた二宮家の両親が哀願するような目で見つめているのを見ると、心が揺らいだ。そこで優太に二人の関係を打ち明けて、両親に話せば、堂々と一緒になれるかもしれないと考えた。
しかし、その淡い期待は、その日、偶然にも優太と友人たちの飲み会に出くわしてしまったことで、完全に打ち砕かれてしまう。
その日、優太の母に哀願され、泣きはらした目で優太のもとへ駆けつけた知世だったが、個室のドアを開けた瞬間、友人たちの嘲るような言葉が飛び込んできた。
「二宮さん、あの家が引き取った孤児、遊んでみてどうだった?昔、俺らに『遊んでみるだけなら損はない』って言ってたけど、まだ手放してねーのかよ?」
「二宮さんが『嫁に貰う』って言った時、あの子メソメソ泣いてたのマジで笑えたわ。世間知らずの小娘は騙しやすいよな!」
遊ぶ?騙しやすい?
彼と一緒にいて、甘い言葉に乗せられて結ばれたのは、彼が好きだったからじゃない……ただ遊びやすくて、騙しやすいからだったのか!
ドアの前に立つ知世の頭の中で、一瞬で何かが弾けた。耳鳴りが止まらなくなり、足元から這い上がる冷気が全身を包み込んだ。腕の古傷もその時、疼き始めた。
彼女は立ち去らなかった。優太が反論するのを待っていた。彼がそんな風に思っているはずがない、騙したなんてありえない、ただ友達が悪いだけだと信じたかった。
しかし次の瞬間、聞き慣れたその声が、現実を突きつけるかのように彼女を打ちのめした。
「嫁に貰う?あれはただの慰めだよ。とっくに家の方は、身分の釣り合う相手と縁談を進めてるんだ。一ヶ月後には婚約式だ。俺が二宮家の長男だ。孤児を嫁に貰えるわけないだろ?」
彼の言葉が終わると、耳障りな野次と笑い声が一気に湧き上がった。暖房完備で年中暖かいはずの店内なのに、知世はまるで氷の穴に落ちたかのように、全身が震えるほど冷たくなった。
全部、嘘だったんだ。彼が本気で自分を嫁に貰うと思い込んでいたなんて、本当に馬鹿だった。
でも、もう違う。そんなことはもう考えない。彼女は美沙の代わりに長谷川家に嫁ぐことを承諾したのだから。
あと十五日後、彼女は優太の元を離れる。その日は、優太が婚約式を挙げる日でもある。彼が身分相応の相手と結ばれるのを、邪魔はしない。
ベッドに横たわり、こぼれ落ちた涙を拭いながら、知世は思った。もう、二人の間に未来はないのだと。
彼のどんな約束も、もう二度と信じない。
第3話
知世は翌朝、自然に目が覚めた。時計をちらりと見て、ベッドから起き上がり服を着替える。
鏡に映った、腫れぼったい自分の目を見つめ、冷たい水を手ですくって顔を洗った。決心がついたのは一瞬のことだったが、積み重ねてきた年月の感情は偽れない。本当に、すぐに諦められるものではなかったのだ。
彼女は真剣に考えた。後悔しないためには、優太ともっと関わることをなるべく避けるのが賢明だ。
階段を下りると、美沙と見知らぬ女性がソファで楽しそうに話しているのが見えた。
優太の母は目尻を下げて笑いながら、手招きした。
「知世、ご紹介するわ。こちらは優太の婚約者、安藤真希(あんどう まき)さんよ。美沙の親友でもあって、今日は結婚式の打ち合わせでいらしてるの。ちょっと台所に行って、おかず出してきてくれる?」
真希は立ち上がり、知世に優しい笑みを向けた。
「お手伝いしましょうか、二宮おばさん」
「いいえいいえ、お客様なんだから美沙とおしゃべりしてて。知世にやらせればいいのよ」
知世は喉が詰まるのを感じた。少し離れたところに座る優太をこっそり見ると、彼はこちらの反応をじっと見つめていた。視線が合うと、ただ薄く笑っただけだった。
知世は何も言わず、黙って台所へ向かい、おかずを運び始めた。
彼女が台所に入るやいなや、優太が後を追って入ってきた。
彼は彼女の肩を抱き、人目につかない隅に引き寄せると、顎をつまんでキスをしようとした。
知世は慌てて顔を背け、キスをかわした。
「やめてよ。婚約者が外にいるんだから。見られたら説明がつかないでしょ」
優太は軽く笑い、彼女の頬をつねった。
「焼きもち?彼女が今日来るなんて知らなかったんだよ。親が勝手に決めた結婚相手に過ぎないんだ。
好きなんかじゃない。俺が好きなひとって、わかってるだろ?」
知世は彼を見つめ、静かな瞳に一瞬、苦しみが走った。
それでも嘘をつくのか?知らないって?好きだって?でも、親が結婚相手を決めたことは知っているはずだ。自分が娶るのは家柄が釣り合う相手だけだとも言っていたし、彼女はただの遊び相手だとも言っていた。
好きでもないのに、なぜ嘘をつくのか?
そうだ、彼にとって、自分はただの面白いおもちゃに過ぎないのだ。
そんな彼女の様子に、優太の心に違和感がよぎった。
以前、知世が彼の妹だと思った女の子が、プレゼントやラブレターを渡すのを手伝ってほしいと知世に頼んできたことがあった。嫉妬深い彼女は毎回、こっそりラブレターを破り、プレゼントを捨てたものだった。
そんなことをした後は、いつも泣きわめいて、彼がなだめても収まらなかった。
今回、婚約者が家に来ているというのに、彼女があんなに平静を装えるとは?優太は不思議でならなかった。
問い詰める間もなく、知世は彼を押しのけ、おかずの皿を手に素早く外へ出て行った。
おかずがすべて並べられ、家族がいつものように食卓についた。
優太の母は、人数ぴったりの家具を買うのが好きだった。食卓の席も五人分しかない。
しかし、そこには美沙と真希が加わっていた。知世が座る場所は真希に譲られ、知世には席がなくなった。
誰も気にかけない。所詮、彼女はよそ者なのだから。
知世は何も言わず、台所に戻った。外から家族の楽しげな笑い声や話し声が聞こえてくる中、彼女はパンを数切れ取り出し、黙って口に運んだ。
彼らが食べ終わる頃合いを見計らって、ようやく外に出た。今日はやることがあった。勤めているウェディングドレス・デザイン店に辞める意思を伝えに行くためだ。
彼女はデザインの才能に恵まれ、その店で長く専属デザイナーを務め、同僚たちともとても良い関係を築いていた。
真希が彼女が出かけるのを見て、すぐに声をかけた。
「知世、お出かけ?ちょうどこれから私と優太、それに美沙がドレスを見に行くところなの。一緒にどう?」
断る口実を考えていると、美沙が口を開いた。
「そういえば、お父さんとお母さんから聞いたんだけど、姉さん、ウェディングドレスのお店で働いてるんでしょ?姉さんの店で選びましょうよ!」
真希が即座に続けた。
「本当ですか!それは素敵!」
優太の母も笑みを浮かべて言った。
「知世のデザインは雑誌にも載ったことがあるのよ」
優太の母がそう言うと、知世はこれ以上断れず、うなずいて承諾するしかなかった。
彼女は引き継ぎを済ませようと思っていたのに、こうなるとまた延びてしまう。でも、辞めることは決めている。そうすれば、優太にも知られるだろう。
あれこれ考えたが、他に良い方法はなかった。優太に知られたところで、どうということはない。むしろ、彼は自分を振りほどけると喜ぶかもしれない。
そう思うと、彼女は先に車庫で待つことにした。しかし、現れたのは真希と美沙だけだった。
二人は満面の笑みを浮かべて近づいてくる。知世の胸に、たちまち嫌な予感がよぎった。
美沙が彼女の行く手を遮り、真希が彼女の耳元に口を寄せ、わざと声を潜めて言った。
「二宮知世、あなたが私のこと気に入ってないってこと、わかってるのよ。私たちの世界じゃ、あなたと優太が普通の兄妹じゃないってことも知ってるわ。あなたはただの孤児で、優太に釣り合うわけがない。今、彼は私と婚約するの。釣り合うのは私たちよ。大人しくして、余計なことするなよ。今、美沙が戻ってきたんだから、妹の座も譲るべきよ」
美沙もまた、見下すような目で彼女を見ていた。
「孤児のくせに、長い間、私の居場所を奪ってたこと、今さら責めたりはしないわ。あなたの役目はね、代わりに長谷川家の、誰にも相手にされない足の不自由な息子と結婚することだけよ」
第4話
知世の胸の奥が、かすかに震えた。二人を見つめ、反論しようと口を開いたその時だった。
次の瞬間、まるで昔からの親友かのように、二人が彼女の服装を褒めちぎったのだ。ふと後ろを振り返ると、優太が近づいてくるのが見えた。
車に乗り込み、彼女の働く店を目指して向かった。
店に着くと、美沙は真希を引っ張り、ウェディングドレスの試着を始めた。横では店員が、二人が気に入った何着ものドレスを抱えている。
優太も選びに加わるよう促され、知世のことを気にかける余裕などなかった。
知世はその隙を見て編集長を見つけ、とっくに書き上げていた辞表を手渡した。
編集長はその辞表を受け取ると、少し驚いた様子だった。知世は以前、この仕事が好きでずっと続けたいと言っていたからだ。
「急にどうしたの?何か不満でも?給料?それとも休みが欲しい?何かあれば言ってよ、上に掛け合ってみるから」
知世は編集長の好意を丁重に断った。それ以上は言いにくそうにしていた編集長も、しばらく残念そうにした後、受け入れた。
「……そう。わかった。じゃあ、奥で荷物をまとめておくね。業務の引き継ぎはもう済んでるし、あとは私に任せて」
「知世――」
少し離れたところから、真希が興奮した声で呼んだ。「ねえ、見て見て!知世がデザインしたスタイルのドレスばかり持ってきてもらったんだけど、私に似合うの少ないみたい。選んでくれない?」
知世は口元をわずかに緩めて、よそよそしく返した。「真希がいいと思えばそれでいいんじゃない?美沙にも相談してみたら?」
真希は甘えた調子で言った。「だって、いいのが選べないから知世に頼んでるんだよ。それに、披露宴の時に宣伝してあげるからさ、ね?」
「人それぞれ似合うドレスは違うもの。本人が気に入るかどうかが大事で、私が選んで真希が気に入らなかったら困るでしょう」
まだ断ろうとしている知世を見て、真希の口調が急に柔らかく弱々しくなった。「知世、そんなこと言うのは……私のこと嫌いなの?優太を横取りしたって思ってるの?」
知世はその言葉に喉を詰まらせた。言い訳したいのに、どう言えばいいのかわからなかった。
真希は涙を浮かべて、そばにいた優太を見た。「優太……知世は、私のこと嫌いみたい」
優太は言った。「そんなことあるか」
「だって、ドレス選びすら手伝ってくれないんだもん。私を受け入れてなくて、この家に入るのも望んでないんだよ」
優太は眉をひそめ、知世の腕を掴んで真希の前に引っ張り出した。その口調には疑いの余地がなかった。
「選べないなら、真希専用のドレスをデザインしろ」
優太に掴まれた腕が痛んだ。彼が自分に向けたことのないその表情を見て、知世の目が一気に熱くなった。
真希はそれを聞くと、たちまち嬉しそうな顔を見せた。「いいの?知世?」
知世は深く息を吸い込み、うなずいた。
ずっとどんよりとしていた空が、その時を選ぶように雨を降らせ始めた。やがてそれは激しい雨となり、まるで知世の悔しさを代弁しているようだった。
「やった!知世がドレスを作ってくれるんだね!でも、式の日が近いから、早めに取りかかってくれない?私たち、指輪を選びに行くから、先に行くね」
真希はそう言うと、他の人たちを車に乗せ、知世をそこに置き去りにした。
編集長が仕事場から彼女の荷物をまとめて出てくると、知世が一人でロビーに立っていた。「さっきまで一緒にいた方たちは?外はこんな大雨だよ、帰れるの?」
知世は笑って言った。「大丈夫です。タクシーを拾いますから」
彼女は、雨の日がタクシーのピーク時間だということを甘く見ていた。外に立ってずいぶん待ったが、一台もつかまらない。家までそう遠くないと思い、編集長に傘を借りて歩いて帰ることにした。
雨は激しく、風も強く吹いていた。傘を差していても、全身がずぶ濡れになるのは避けられなかった。
第5話
家に戻って初めて、腕や下腹部に痛みを感じた。トイレに行って確かめると、生理が始まっていた。
生理のせいで体はさらに弱り、何度も寒気に震えながら無理をして熱いシャワーを浴びたものの、結局風邪をひいてしまった。
ベッドに倒れ込み、布団にくるまっても、少しも温かさを感じられない。そうして間もなく、うつらうつらと眠りに落ちた。
夢の中では、自分が奇妙な世界にいるような気がした。物の大きさが変わり、目の前で天井がぐるぐる回り、尖った棘が追いかけてくる。足がふらついて、全く走れない。
目を開けると、知世は自宅ではなく、病院のベッドの上にいた。そして、自分を抱いているのは優太だった。
彼は痛々しい表情で、熱いタオルで何度も彼女の体を拭いていた。その目には、本当に彼女を失うかもしれないという恐怖があふれていた。
知世が目を覚ましたのを見て、優太は慌てて額で彼女の熱を確かめ、ほっとしたように長く息をついた。
「本当にびっくりしたよ!何度呼んでも返事がなくて……中に入ったら全身が火のように熱くて……よかった、熱は下がったみたいだ」
優太の焦る様子を見て、以前の知世ならきっと感動しただろう。でも今、彼女が思ったのは、優太の演技が本当に上手いんだな、ということだった。
「水……飲みたい」
「ああ、ちょっと待ってて」
優太はすぐに立ち上がり、水を汲みに病室を出て行った。
知世が水を飲みたいわけではない。ただ今、優太の顔を見たくなかっただけだ。
彼が出て行くのを確認すると、震え続けていたスマホを取り出した。開いてみると、真希が作ったグループチャットだった。
真希はSNSに一枚の写真を投稿していた。指輪をはめた二つの手がしっかりと握り合い、そのダイヤモンドがきらめいている。その光が、知世の目を刺すように痛かった。
投稿には祝福のコメントが並んでいた。
【SNSで二人のイチャイチャ見ちゃったよ~!マジ羨ましい!絶対結婚式行って、ごちそうしてもらうからね!】
【羨ましすぎる……あなたたちの結婚式がどれだけ豪華になるか、想像もつかないわ】
すると、真希からの個人メッセージが届いた。
【このペアリング、いくらだと思う?あなたにはくれてなかったでしょ?】
確かに優太は知世に指輪を贈ったことはない。でも彼は言っていた。生涯で最初で最後の指輪は、必ず知世の指にはめるって。
優太……本当に嘘つきね。まる四年も、彼女が手にしたのは大きな嘘だけだったんだ。
最初から最後まで、彼女は甘い砂糖で包まれた毒の中で生きてきた。それを食べれば食べるほど、耐え難い苦しみを感じる。
これまでの甘い思い出を思い返せば思い返すほど、それは静かにじわじわと彼女を苦しめる拷問のようで、心に深く突き刺さって、ただただ痛い。
知世はただ、とても疲れたと感じた。もう、この嘘つきのゲームは続けたくない。
その時、優太がぬるま湯を持ってドアを開けた。彼女の様子を見て、優太の心に不吉な予感がよぎった。
「どうした?まだ具合が悪いのか?」
知世はうつむき、顔をそらして、真っ赤になった目を見られないようにした。声はかすれていた。
「優太……昔、私に言ってくれたあの言葉……本当だった?私に嘘はつかないって約束したよね?」
突然の問いに、優太の心は理由もなく慌てた。すぐに彼女を抱きしめ、優しく声をかけた。「どうしたんだい、知世?急にどうして?俺がお前に嘘をついたことなんてあったかい?」
嘘をついたことなんてあったかい?彼は最初からずっと嘘をついてきたんじゃないのか。
彼女は本当に彼が理解できなかった。自分を好きじゃないなら、なぜ彼女の言葉にそんなに慌てて見せるのか。優太から『ふさわしくない』と言われたのに、どうして彼は今になって離さないの?そんな芝居をして、疲れないのか?彼が疲れなくても、見ている彼女はもう疲れた。
だから、彼の芝居に付き合うのはやめよう。
十数日後、彼はもうこんなに疲れることもなくなる。彼の世界から、彼女は完全に消えるのだから。
そして彼女も、もう自分にふさわしくないものを夢見たりはしない。
第6話
知世の熱が下がったその日、家まで迎えに来ると約束していた優太は現れなかった。代わりに携帯に届いたメッセージには、今日は会社に用事があるから行けず、代わりに運転手を向かわせたと書かれていた。
しかし、病院の正面玄関で待てど暮らせど、見慣れた車の姿は一向に見えない。
タクシーで帰ろうかと思い立ったその時、携帯が鳴った。真希から送られてきたのは一枚の写真だった。
そこに写る優太は、「会社の用事」などとは程遠い様子で、真希の服を丁寧に畳んでいた。
写真と一緒に送られてきたのは、真希の音声メッセージだった。
【バカめ、まだ運転手が迎えに来るの待ってるの?あの運転手、私が荷物の運びに呼んだんだから。優太も知ってるよ。今日、私たちが選んだ新婚用の家に引っ越すんだから】
嘲笑をたっぷり込めたその声に、知世は返信せず、ただ一人タクシーで家に戻った。
真希と出会ったあの日以来、彼女からのメッセージは、まるでベタベタくっついて離れない絆創膏のように、毎日のように送られてくるのだった。
台所で優太が彼女のために料理を作る背中の写真、彼女のそばで優太が眠っている写真、そして鎖骨のあたりに浮かんだ赤い痕跡……
知世が無視すれば無視するほど、真希は挑発的なメッセージを送り続けた。
【二宮知世、この写真見てどう思う?優太はあなたのこと、犬みたいに弄んでるだけなのに、あなたは本当に何の尊厳もなくしがみついてるんだね。孤児の根性ってやつか?愛に飢えてるのはどうやっても治らないんだな】
知世はただ黙っていた。
家に着くと、彼女は寝室の鍵のかかった大きな戸棚を開けた。そこには、人には見せられない、優太にまつわる彼女の秘蔵品がしまわれていた。
二人で過ごしたこの数年間に買った恋愛の記念品や、出かけた先で買い求めた骨董品、それに、優太のために彼女が自ら編んだペアのマフラーや小さなぬいぐるみ、ブレスレットまで。
思い出でいっぱいのそれらの品々を眺めながら、知世はただただ滑稽に思えた。
愛おしい気持ちは確かにある。けれど、脳裏をぐるぐる駆け巡るのは、優太が口にしたあの言葉。
彼は孤児を妻にはしない、本当に面白い、騙しやすいって。
まるで悪夢のように、あの言葉はあの日以来、四六時中彼女の頭の中で行ったり来たり、彼女を嘲笑っている。
ついに知世は耐えられなくなった。それらの品を全部まとめ、裏庭の安全な場所まで引きずっていった。段ボール箱の上に油をたっぷりと注ぎ、ライターを持つ手はわずかに震えた。
未練はあった。本当に。だが――
彼女はライターに火をつけると、箱の中へと力いっぱい投げ込んだ。
たちまち、火柱が上がった。無情な炎は、彼女がかつて大切にしていた「思い出」を飲み込んだ。
次に彼女が振り返ったのは、一番奥にある小さな庭だった。
そこにはたくさんの白バラが植えられていた。彼女と優太が一緒に種をまき、育ててきたものだ。ただ彼女が「好き」と言ったというだけで。
最初の白バラが咲いた日、優太は彼女を抱きしめながら、その花を見つめて笑った。二人の結婚式には、自分たちの手で育てたバラをいっぱいに飾ろう、と。
知世はしゃがみこみ、手を伸ばした。一輪また一輪と、美しく育った白バラを引きちぎっていく。鋭いトゲが掌を刺し、血の玉がにじむまで。
彼女は折られた白バラを火のそばまで運び、一輪ずつ火の中へ投げ入れた。
最後の一輪が炎に飲み込まれるまでそうして、ようやく彼女は部屋へと戻った。紙を机に広げ、ペンを手に取り、デザイン画を描き始めた。
鉛筆が真っ白な紙の上を滑ると、腰から胸元へと這い上がるように茨の模様が描かれていった。鉛筆と共に白い紙の上に流れた掌の血も、彼女はまるで見えないふりをした。
決して心から真希のウェディングドレスを作りたいわけではなかった。ただ、最後の未練を断ち切るために。
彼女は数多くの婚礼衣装をデザインしてきたが、ウェディングドレスだけは一度も手がけたことがなかった。
高額を提示されてデザインを依頼されても、すべて断ってきた。初めてのウェディングドレスは、優太との結婚式のために取っておきたかったのだ。
自分がデザインしたドレスを纏って彼の前に立つ姿を、二人の盛大な結婚式を、海外での結婚生活を……ありありと想像していた。
今思えば、本当に馬鹿みたいに愚かだった。
隠されたままの関係が、未来などないと悟った。
第7話
知世は自室に何日も閉じこもり、ウェディングドレスのデザインに没頭していた。
胃の不快感が警告を発して、ようやく彼女は丸一日何も食べていないことに気づいた
階段を降りてキッチンに入り、冷蔵庫を開けると、適当にヨーグルトを手に取った。差し迫った空腹を和らげてから、広い二宮家の屋敷に誰もいないことに気づいた。
優太の結婚式が近づき、二宮家もてんてこ舞いだ。養女として引き取られた孤児である彼女に、今や実の娘である真希が戻ってきた以上、誰も構うはずがない。
何年も育ててくれたこの家を、憎むことはできない。少なくとも、二宮家は彼女を飢えさせたり苦しめたりはせず、今の彼女のキャリアを築くための多くのリソースも与えてくれた。
疲れ切った体を引きずりながら、知世は再び仕事を続けるため階上へ戻ろうとした。ドレスが完成したら、全てをきっぱり捨てて、ここを離れる時だ。
ドアノブに手をかけたその瞬間、彼女は荒っぽい力で廊下の壁際に押しつけられた。
数えきれないほどのキスが雨のように降り注ぎ、首筋を伝って下へと向かう。
突然の出来事に思わず悲鳴を上げそうになった知世は、必死にもがいたが、微動だにできないほど強く押さえつけられた。
しかし、鼻に届いた懐かしい香りに、喉元まで上がっていた心臓の鼓動がようやく少し落ち着いた。次の瞬間、唇が柔らかな感触に包まれ、空気を奪われた。
知世は唇を固く結び、優太のキスを避けようとした。だが、彼女が避ければ避けるほど、優太はより重く深く吻を刻んだ。
目が回るほどキスされ、耐えきれずに心を鬼にして彼の唇を噛んだ。痛みに優太が離すと、知世はようやく手に入れた空気を大きく大きく吸い込んだ。
話そうとしたその時、階下の玄関ドアが開く音がした。二宮家の人々と真希の声が聞こえてくる。
彼らは婚約パーティーの打ち合わせをしているようだった。ふと真希が優太の部屋を見たいと言い出し、優太の母親は即座に承諾し、階上へ案内しようとしていた。
優太の部屋は知世の部屋の真向かいにあり、二人は今まさにそのドアの前でキスしていたのだ。
階段を上がってくる足音に、知世の心臓の鼓動はますます速くなった。優太の拘束から逃れようと、必死にもがき始めた。
しかし、彼女がもがけばもがくほど、優太の力はますます強まった。
焦った知世は声を潜めて警告するしかなかった。「離して!あなた、頭おかしいの!?」
その言葉に、優太は目を赤らめて冷笑した。次に、無数の熱い息を伴ったキスが、彼女の耳元に落ちた。
耳は知世の最も敏感な部分だったため、その一撃で思わず声を上げそうになった。
足音がすぐそこまで迫ったその時、階下から優太の父の声が響いた。二人にまず式場の予約を確認するよう呼びかける声だった。足音が再び階下へと向かうのを聞いて、知世の胸の高鳴りがようやく収まった。
足音が遠ざかるのを確かめると、知世は自分を押さえつける優太をぐいと押しのけた。声には嗚咽が混じっていたが、大声には出せなかった。
「一体何考えてるの!?バレたらどうするの!?」
優太はただクスッと笑い、口調は全くからかうようなものだった。
「バレでも構わん。家族全員に見つかって、俺たちが何をしているのか、どんな関係なのか、ちゃんと見てもらおうか」
そんな彼の態度に、知世の心にあった得体の知れない悔しさが一気に込み上げてきた。
「どんな関係?私たちは兄と妹の関係でしょ、違うの?」
「何度言わせるんだ。お前は俺の女だ。それと、どうしてここ何日も電話に出ないんだ?何を拗ねてる?会社が忙しいって言っただろ?」
会社の用事?優太、いつまで私を騙し続けるつもり?ずっと真希と一緒にいるくせに、会社で仕事が忙しいなんて嘘をつくなんて。私がバカだと思ってるの?私が何も知らないと本気で思っているのか!?
今なお平然と嘘をつこうとする優太を見て、知世の目が一気に熱くなった。
「あなたと真希は結婚するんでしょ?それでも私があたなの女?私ってそんなに軽い人間に見えるの!?」
「知世!言っただろ、俺と安藤真希は家の決めたお見合いだって!俺の心が向いてるのは、好きなのはお前だけだって!」
優太は本気で怒っているようだった。知世が彼をこんなに怒らせたのは初めてだった。
もし彼の言うことが本当なら、あの言葉はどう説明する?あの写真は?ここまで来て、それでも本当のことを言わないのか。
「遊んで捨てる」って言ってなかった?彼女の心はとっくに彼に預けてしまった。彼が傷つけたければ、どうぞ、と。今、彼女はそれを返してほしいだけなのに、それすらも返してくれないのか?
どうして彼女を放っておいてくれないの?
知世は彼の言葉に返答しなかった。ただ、長い間堪えていた涙が堤を切ったように溢れ出し、床に落ちて微かな「ぽたぽた」という音を立てる。
もう、こんなの、本当に嫌だった。
第8話
彼女の涙が玉のようにこぼれ落ちるのを見て、優太の胸にはなぜか慌てるような気持ちが渦巻いた。
付き合ってからというもの、知世だって泣いたりわがままを言ったりしたことはあった。でもそれはいつだって、少女のちょっとした気まぐれに過ぎない。優太がなだめればすぐに収まるものだった。だが今、目の前で彼女が無力感に打ちひしがれ、苦しそうに泣いているのは初めてのことだ。
長い沈黙が続いた末、優太が先に折れた。彼は彼女を抱き寄せると、その涙にそっと唇を落とした。
「ごめん、兄さんが悪かった。感情を抑えきれなくて……許してくれないか?」
これまでは優太が謝れば、知世は必ずその言葉に乗って、甘えるように彼に抱き着いた。だが今回は違った。彼女は優太をまっすぐに押しのけた。
「気分が悪いから、部屋に戻らせて」
そう言い残すと、彼の返事を待たず、小走りに自分の部屋へと消えた。
知世の視線が、真っ白なウェディングドレスをまとったマネキンの方へ向く。胸元はぽっかりと空いていた。あと一か所手を加えれば完成だ。その時こそ、彼女が優太のもとから完全に去る時でもある。
それからの日々、知世が優太の姿を見かけることはほとんどなかった。それでも、真希からの嫌がらせは時折届いた。
今日は彼女が去る日、そして優太と真希が婚約を交わす日でもある。
知世はマネキンからドレスを丁寧に外し、入念にチェックを済ませると、梱包して安藤家へと送らせた。自分の荷物はとっくにまとめ、先に長谷川家へ送ってある。
二宮おじさんが彼女を婚約パーティーに誘ってくれた。兄の大事な日を一緒に祝おうというのだ。どうせ知世の飛行機は午後発ち、時間は重ならない。
ただの片隅でやり過ごすつもりだったが、車を降りた途端、目ざとい真希に見つかってしまった。
真希は得意げな眼差しで知世を見つめ、全身から勝ち誇った者の余裕がにじみ出ていた。
真希はとっくに知世の作ったドレスに袖を通している。純白のそのドレスはふわりと軽やかで、見る者誰もが褒めずにはいられない出来映えだった。両親に連れられてきた子供たちまでが、彼女を取り囲んで「お姉さん、きれい!」と声を上げる。
「ありがとね、知世。優太が見た時、目が離せないくらいって言うの。こっちまで恥ずかしくなっちゃったよ」
真希はそう言いながら、知世の腕を引いて会場の中へ連れて行く。入ってすぐ、グレーのスーツに身を包んだ優太が目に入った。彼もまた入念に身繕いをしている。二人が並ぶ姿は、誰がどう見ても似つかわしく、まさに絵になるようだった。
知世が会場を見渡す。そこかしこに飾られた白バラの花が、彼女の目をじりじりと刺すように痛んだ。
優太……あの時、あなたが私に誓った約束は、今は別の女に捧げられている。
「知世、最初の一枚はあなたに撮ってほしいの。私の願いなんだ。叶えてくれるよね?」
差し出されたカメラを見て、知世は一瞬、優太をまっすぐに見た。彼が何の反応も示さないのを確かめると、カメラを受け取った。
彼女がカメラを構えると、高精細のファインダーに二人の姿が映る。シャッターを切ろうとしたその瞬間、真希が突然つま先立ちになると、優太の首を引き寄せてキスをした。
優太はほんの一瞬、驚いたように見えたが、すぐに優しく真希の後頭部を支え、そのキスを深めた。
知世の指先がじんと痺れた。彼女はシャッターを押し、その光景をカメラに閉じ込めた。
キスが終わると、真希はカメラを受け取り、写った二人のキス写真を見て目尻を下げて笑った。
「わあ、知世、すごく上手に撮れてる!パーティーが終わったらプリントしてベッドの上に飾ろう。そうだ、知世へのお返しも用意してあるのよ」
「お返しは結構だ。私も二人へのお祝いの品を用意してあるから」
知世は無理やり笑顔を作ったが、胃のあたりがむかむかと押し上げてくるのを感じた。口を押さえ、言い訳をしてトイレへ駆け込んだ。
蛇口をひねり、手のひらに水を溜めて顔を洗い、ようやく少し落ち着いた。手を拭いてトイレを出て少し歩くと、真希がにこやかな笑みを浮かべて待ち構えていた。
「そんな浮かぬ顔して、私があなたのお兄さんを奪ったみたいじゃない?せっかくのおめでたい日に、誰にそんな顔を向けてるの?」
知世は相手にする気もなかった。どうせ午後にはここを離れるのだから。
通り過ぎようとしたその時、腕を真希に掴まれた。頭を貫くような痛みが走り、知世は思わず真希を強く押しのけた。
真希は箱入り娘として育ち、誰にもそんな扱いを受けたことがなかった。烈火のごとく怒り、知世に飛びかかった。
「二宮知世、何を気取ってるの?そんなに男が欲しくて寂しいんだったら、私が紹介してあげるよ。どんなタイプがいい?それとも……あの気持ち悪い関係が好きなの?あんたってほんと下品ね」
「何言ってるの!?」
その言葉に知世の怒りが爆発した。ためらうことなく、手を高く上げて真希の頬を力一杯叩いた。
その一撃は強く、真希の柔らかな肌にはすぐに赤い掌痕が浮かび上がった。
しかし、怒りに震える知世を見て、真希はむしろ笑みを深めた。
「そんなに逆上するなんて、やっぱり当たってるってこと?親切で言ってるのに。選り好みしないなら、うちの運転手でも紹介してあげようか……」
真希の侮辱の言葉を聞くにつけ、知世は思わずまた手を上げた。
だが今度は、その手が真希の頬に届く前に、誰かに力強く掴まれてしまった。
第9話
知世が振り返ると、そこには険しい表情を浮かべた優太が立っていた。
肝心の人物が到着したと見るや、真希はたちまち、大きな屈辱を受けたような表情に変わり、優太の胸に飛び込んだ。嗚咽をまじえながら訴え始める。
「優太……私、知世に、私たちの正式な結婚式の時にぜひブライズメイドを頼みたいって話してただけなの。そしたら突然怒って私を叩いたの。顔が痛い……もしかして、私ってお嫁さん嫌われてるのかな?もしそうなら……私、行くから……」
胸の中で泣く彼女があまりにも痛々しく、腫れ上がった頬を見て、優太の怒りは頂点に達した。
「知世、真希がせっかく誘ってやってるんだぞ?気に入らなければ人を殴っていいとでも思うのか?二宮家がお前をそんな風に育てたのか?俺がそう教えたのか?お前の教養はどこへやったんだ?」
知世は悔しさで目尻を赤くした。腕に鋭い痛みが走る。振りほどこうとしたが、優太の握る力は強く、もみ合ううちに「ブリッ」と不気味な布の裂ける音が響いた。
次の瞬間、真希の悲鳴が上がった。彼女の顔が一気に赤らむ。なんとウェディングドレスが太ももから胸元まで裂けてしまい、少しでも動けば完全に肌が露出してしまう状態だったのだ。
真希はすぐに追い打ちをかけるように、さらに大きな声で泣きわめいた。その声は遠くまで届き、人々の視線を集めた。
「私のことが嫌いなのは分かってる!でもどうして私のドレスに細工までするの!?もうすぐ挙式なのに、私を人前で恥をかかせようってわけ!?」
突然の展開に知世は呆然とした。彼女は確かに人に頼んで届けてもらう際、付いていた待ち針は全て外し、入念にチェックしたはずだ。布を傷つけるような鋭いものが残っているはずがない。
「私……そんなことしてない、違う……」
この光景を目にした優太は、ためらうことなく知世を平手打ちにした。力は強く、彼女はその場に打ち倒れた。
優太はスーツの上着を脱ぎ、真希の露出した部分を覆った。挙式は延期すると告げると、冷たい目で床に倒れる知世を睨みつけた。
「知世、本当にお前には失望したよ。いますぐ、真希に人前で謝れ!」
謝る?何の真相究明もせずに、公衆の前で頬を打たれて、謝罪を強要する?
真希に侮辱され、陥れられた彼女が、白黒もつけずに謝れだなんて。
結局のところ、長年共に過ごしてきたにもかかわらず、彼は彼女を信じていなかったのだ。
髪を乱したまま、知世は何も言わなかった。心臓を締めつけられるような痛みを必死にこらえ、脇に放り出されたバッグを拾い上げると、会場を足早に飛び出していった。
「二宮知世!」
優太が彼女を引き止めようとしたその時、真希が涙を浮かべて彼の腕を引いた。
「優太……私、着替えに付き添ってくれない?知世は、きっと気分が悪かったんだよ。少し一人にさせてあげようよ」
知世の遠ざかる背中を見て、優太の心はなぜかざわついた。まるで、彼女がこのまま二度と戻ってこないような、そんな気がした。
しかし、真希の様子を見て、彼は彼女を抱き上げ、控え室へと向かった。
彼が知世を殴ったのも、知世のためだ。後でちゃんと話せばいい。
会場のドアを出るなり、知世はすぐにタクシーを拾い、空港へ向かうよう告げた。
知世は家を出る前に、古い携帯電話を贈り物の箱の中に入れておいた。電話にはパスコードはかかっていない。不要なものは全て消去し、残されているのは、真希がここ数日彼女に送りつけてきた写真と、メモ帳に書き残した別れの手紙、そしてそれらの写真への思いだけだ。
優太が家に帰れば、必ず目にするだろう。
優太、この恋の勝負はあなたの勝ちよ。私は負けた。
空港のラウンジで数時間待つ間、知世のもとに届いたのは真希からのメッセージだけだった。
【結局は私の勝ちね。これからはおとなしく『お義姉さん』って呼んでよね】
続いて届いたのは優太からのメッセージだ。
【真希はもう許してくれた。帰ったら、ちゃんと話そう】
帰る?彼が帰っても、もう彼女には会えない。
その時、外国人の男性が彼女の前に現れ、流暢な日本語で丁寧に尋ねた。
「二宮知世様でいらっしゃいますか?長谷川家よりお迎えに上がりました者です。何なりとお申し付けください」
知世は軽くうなずいた。「ええ、よろしくお願いします」
搭乗案内のアナウンスが流れると、知世は新しい携帯電話の電源を切り、SIMカードを抜き取り、二つに折ってゴミ箱に投げ捨てた。
飛行機に乗り込み、窓の外に広がる夕焼けを見つめながら、彼女は目を閉じた。
優太、もう二度と会わないで。
飛行機が滑走路を走り、やがて空へと舞い上がる。この街に、知世という存在はもういない。