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月光は霧のように消える
禁欲的な名門御曹司と結婚して七年、神谷美月(かみたに みづき)はついに心が冷え切り、この家を離れることを決意した。 「システム、七日後...
Chương (1)
第1章
禁欲的な名門御曹司と結婚して七年、神谷美月(かみたに みづき)はついに心が冷え切り、この家を離れることを決意した。
「システム、七日後に私を元の世界に戻して」
美月は顔を上げ、向かいのビルの広告スクリーンに映る映像を見つめ、胸が締め付けられるような思いに駆られた。
次の瞬間、彼女は迷いなくシステムを呼び出す。
【宿主様、ミッション終了を確認しました。帰還システム起動中】
しばらくすると、美月の頭上にカウントダウンが表示された。
【帰還システム起動成功。宿主様は七年前に攻略ミッションを完了しましたが、世界からの離脱が遅れたため、交通事故死としての離脱となります。残り時間:6日23時間59分……】
第1話
禁欲的な名門御曹司と結婚して七年、神谷美月(かみたに みづき)はついに心が冷え切り、この家を離れることを決意した。
「システム、七日後に私を元の世界に戻して」
美月は顔を上げ、向かいのビルの広告スクリーンに映る映像を見つめ、胸が締め付けられるような思いに駆られた。
次の瞬間、彼女は迷いなくシステムを呼び出す。
【宿主様、ミッション終了を確認しました。帰還システム起動中】
しばらくすると、美月の頭上にカウントダウンが表示された。
【帰還システム起動成功。宿主様は七年前に攻略ミッションを完了しましたが、世界からの離脱が遅れたため、交通事故死としての離脱となります。残り時間:6日23時間59分……】
美月は黙って頷き、冷ややかな目をしていた。
遠くのビルのスクリーンには、神谷グループ社長・神谷翔太(かみたに しょうた)が片膝をつき、目の前の女性にプロポーズする姿が映っていた。
いつもは冷静沈着な彼が婚約指輪を差し出す手をわずかに震わせ、彼女の「はい」の一言に理性を失ったように彼女を抱き上げ、嬉しそうにその場で何度も回った。
「桜井美月(さくらい みづき)と結婚できた!」
七年前と変わらない、幸せに満ちた声だった。
子どもを抱いた女性が隣の夫にため息まじりに言った。
「あなたも見習ってほしいわよ。奥さんのこと、どれだけ大切にしてるか。あの神谷社長、何万億円の資産家なのに、奥さんが花粉症だからっていつも吸入器を持ち歩いてるし、言うことも全部聞くし、ブランドバッグやジュエリーもポンと買ってあげて、和菓子を買いにヘリで他県まで飛んでいくくらいよ。
うちは?結婚して何年経ってるのに、バッグのひとつも買ってくれたことないじゃない」
制服姿の女子高生たちもキャッキャと声を弾ませた。
「神谷社長って、完全に恋愛脳だよね!美月さんが成人式を終えたばかりのときに告白して、卒業式には何億のピンクダイヤのティアラを贈って、三日連続で花火を打ち上げたんだって!」
「プロポーズの直後、美月さんが重病になったときには腎臓を提供して、それから九千九百九十九段の『天の階段』を登って、仏様に回復を祈ったって……こんな純愛、現実にあるんだね!」
……
美月はそれ以上聞いていられず、苦笑を浮かべてその場を離れた。
誰もが翔太を理想の夫と称え、美月がそんな男性に愛されていることを羨ましく思っている。
でも、誰も知らない。そんな彼が、裏では女性デザイナーとの間に二人の子どもをもうけていたことを。
幼稚園の門前で、翔太が満面の笑みで男の子二人を抱き上げ、四人で楽しそうに過ごしている光景を目にしたとき、美月の心は鋭い刃にえぐられたように痛み、思わずその場に膝をつきそうになった。
十四年前、美月は小説の世界に入り込み、継母に虐げられる少女になった。
雪の中で倒れかけていた彼女を抱き起こしたのが、翔太だった。赤く染まった目で、継母と無責任な父に向かって言い放った。「桜井家で娘さんを大切にできないのなら、神谷家で預からせていただきます!」
その後、翔太は彼女のために不良と衝突し、火災では命懸けで彼女を救い、両親が放火を企てていると知ると、屋敷ごと焼き払った……
やがて彼女と結婚するため、家業の跡を継ぐ道を捨て、自ら会社を興して彼女に相応しい立場を与えようとした。
起業時には、投資家との交渉で胃を壊すほど酒を飲み、病床に伏しても泣き崩れる美月を励まし続けた。
「美月、泣かないで。君を一生幸せにするって、そう誓ったんだから。絶対にやってみせる」
ミッションが終わったとき、美月は現実世界に戻ることもできた。でも、翔太を一人にできず、彼のそばに残ることを選んだ。
そして今、ようやく気づいた。彼の愛は、自分一人に向けられたものではなかったのだと。
胸の奥が軋むような痛みに襲われ、美月は視界が暗転し、その場に崩れ落ちた。
目を開けると、ベッドサイドには翔太がいて、安堵の息を吐いていた。
「美月、気がついたんだな」
彼は埃だらけのスーツのまま、彼女の手をしっかりと握っていた。隣の秘書が、慌てた様子で説明する。「美月さんが倒れたと聞いて、社長は駆け出して……その途中で転んでしまわれたんです」
「余計なことは言うな」
翔太が低い声で制すると、秘書は察して病室を出て行った。
「これからは、付き添いをつけて出かけてくれ。もう、心配させないでくれよ」
翔太の声は、わずかに震えていた。
美月は彼の目を見上げた。その中にある焦りと愛情は嘘には見えなかったが、襟元に残るキスマークもまた、否応なく現実だった。
胸がきゅっと締めつけられた次の瞬間、翔太は美月を抱き寄せ、頬を彼女の首筋にすり寄せた。ちょうどその時、神谷真由(かみたに まゆ)が病室に入ってきて、その光景を見て舌打ちしながら声をかけた。
「兄さん、恋愛脳もここまでくると末期だね。その優しさ、ちょっとでも他の人に分けてたら、『氷の皇帝』なんて呼ばれてないと思うけど。お姉さん、兄さんに裏と表があるって気づいてる?」
翔太が冷ややかな目を向けると、真由は舌を出してから黒いベルベットのジュエリーボックスを差し出した。
「お姉さんのためにオーダーしてたネックレス、代わりに受け取ってきたよ」
中にはルビーのネックレスが、美しく輝いていた。翔太は美月の手を取り、低く穏やかな声で囁いた。「美月、これは君のために特別にデザインした、結婚記念日のプレゼントだ。世界にたったひとつだけのものなんだ」
彼がネックレスをつけようとしたその時、スマホが鳴り響いた。画面を確認した翔太の表情が一瞬曇り、美月の手を離して立ち上がる。
「美月、急な用事が入ってしまって。真由を残すから、ちょっと待っててくれる?」
ちらりと見えた画面には、「子どものママ」と表示されていた。それを目にした美月の胸は締めつけられた。それでも、表情ひとつ変えずに頷いた。
「いってらっしゃい」
彼がどこへ行き、誰と会うのか。もう気にするつもりもなかった。
どうせ、七日後にはすべてが終わるのだから。翔太も、もう無理に嘘をつく必要はない。
第2話
美月はその日のうちに退院手続きを済ませた。深夜、広い寝室でひとりになると、枕元のスマホが何度も鳴り響いた。
彼女はネット上で絵の個人販売をしており、自身のホームページに作品を掲載して注文を受けていた。
その購入者のひとりが、キャミワンピースを着た自撮り写真を投稿した。男性の腕に抱かれ、Vサインで顔を隠しているが、床にぼかしが入った部分には使用済みのコンドームがいくつも映っていた。
【旦那にこの絵を見られて、誰からのプレゼントか聞かれて「自分で買った」と言ったら、あたしが浮気してるんじゃないかって疑われて、めっちゃ詰められた。体中真っ赤っか……ほんと何もしてないのに(泣)!男って独占欲強すぎ!もうこんな遊びやめる!】
このコメントは瞬く間にバズり、フォロワーたちのコメントが続々と集まった。
【1個、2個……8個。買ったのは絵?それとも……(目を覆う)】
【お姉さん、私たちに隠し事しないなんて、やんちゃですね】
美月はページを閉じ、下唇を強く噛みしめて、涙を堪えた。
気にしないと思っていた。でも、写真の中の男の正体に気づいた瞬間、胸がひどく痛んだ。
彼女はそのコメントをスクリーンショットに残し、商品ページを削除した。
しばらくして、スマホにまた通知が届く。匿名アカウントが得意げに投稿していた。
【絵師さんの絵のおかげで、旦那の怒った顔が見られました。この感じだと、三人目もできちゃいそうです】
完全に目が覚めた美月は、その一文と写真を何度も繰り返し見つめた。目を閉じると、目尻から一筋の涙がすっとこぼれ落ちた。
彼女は立ち上がり、アトリエへ向かった。ここ数年は喘息の悪化で絵を諦め、この部屋も長らく使っていなかった。
だが、久しぶりに筆を手に取り、アクリル絵具のツンとした匂いの中、苦しみに耐えながら一筆ずつ丁寧に描いていった。
夜が明けるころ、最後の一筆を終えた瞬間、彼女は突然血を吐き、その飛沫がキャンバスの隅を濡らした。
鮮やかな赤は、ちょうど絵の中の桜の木に命を与えたようだった。
彼女はそれを額に収め、宅配業者に五日後、翔太のオフィスへ届けるよう依頼した。
シャワーを浴びてリビングに戻ると、ちょうど翔太が帰ってきたところだった。香水の匂いをまとった彼が抱き寄せようとしてきたが、美月は眉をひそめて身をかわした。
「その匂い、好きじゃない」
翔太の表情がわずかに曇り、慌てて言い訳をした。「昨夜は酔っててさ、デザインチームの女性に支えてもらったときについたんだと思う。気になるなら、すぐに洗い流すよ」
美月は何も言わず、そのまま階下へ向かおうとしたが、翔太は彼女の着ている服に気づき、手首を掴んだ。
「そんなにおしゃれして、どこへ行く?」
「映画。観に行くの」
美月は映画のチケットを見せた。
それは彼女が大好きな漫画家の映画だった。上映が決まったとき、翔太は「一緒に観よう」と約束してくれていた。
けれど、いざその日になると、毎回何かしらの理由で彼は来られなくなった。
当時は本当に仕事が忙しいのだと思っていたが、今となっては、たぶん白井麻衣(しらい まい)と子どもたちと過ごしていたのだろう。
今日は上映の最終日だった。
彼を待つつもりは、もうなかった。
「そういえば、一緒に観に行くって言ってたな」翔太は少し申し訳なさそうな顔で、優しく言った。「ちょっと待って。着替えてくるから、一緒に行こうか?」
これが、二人で観る最後の映画になる。
美月は翔太の瞳を見つめ、少し間を置いてから静かに頷いた。「……うん、いいよ」
映画館に着き、場内が暗くなる。スクリーンの柔らかな光が美月の頬を照らす。映画の音が流れ始め、光と影の織りなす幻想的な世界に、美月はしばし心を奪われた。
ふと翔太の方を見ようと横を向いた。彼はうつむき、スマホを操作していた。眉をひそめながら、メッセージを返信している。
美月の視線に気づくと、翔太はスマホをしまい、映画を見ようともせずに立ち上がった。「ちょっとトイレ」
どこへ、何のために行くのか。美月は分かっていた。それでも、彼のあとを追った。
シネマホールを出て廊下を進むと、翔太はベビーカーの赤ん坊の頬を撫で、麻衣の細い腰に腕を回し、長く唇を重ねていた。
「これで満足?キスまでしたんだし、もう駄々こねるな。早く子ども連れて帰れ。中に美月がいるんだから、見られないようにしろ」
麻衣は首に抱きついたまま、角の向こうに立つ美月をちらりと見て、勝ち誇ったように微笑んだ。
美月はその光景を見つめ、止まらぬ涙が頬を伝った。
胸が張り裂けそうに苦しく、立っていられず壁にもたれ、呼吸を整えてから席に戻った。
映画が終わるころ、翔太が戻ってきた。
「美月、顔色悪いな……泣いたの?」
心配そうに頬に触れ、涙の痕がくっきり残る目を見つめる翔太。
「映画が感動的だっただけ」
美月は淡々と答えた。
翔太は軽く笑いながら、指でそっと涙を拭った。
「美月は本当に涙もろいなあ。映画見て泣いちゃうなんて。お腹空いてない?食べたいものがあれば、予約するよ」
彼の満足げな顔を見て、先のことで美月はもう何も食べたくなかった。
けれど、麻衣のあの表情を思い出すと、やはりラストランの名前を返した。
翔太は彼女を喜ばせようと、レストランを貸し切り、お姫様抱っこで席まで運んだ。
ちょうどその場面を見た友人たちは、呆れたように口々に言った。
「まさか翔太とはね。派手すぎだろ」
「なにこれ、見てるだけで満腹だわ」
「お願いだから落ち着いてくれ。うちの嫁に見られたら、また比べられるじゃないか」
彼らの冷やかしにも翔太は返事もしなく、上着を脱いで美月の膝にかけた。「風邪ひくと困るからね」
数人の男は肩をすくめ、親指を立てて言った。
「翔太、まいったよ」
翔太は優しく笑った。「当然だ。俺の妻は姫君だからね。八十歳になってもお姫様抱っこしてやるよ」
それを聞いた美月は、唇の端をわずかに上げ、冷ややかに言った。「私が八十まで生きられるなら、ね」
彼女には、もう五日しか残されていなかった。
その言葉に、翔太は一瞬目を泳がせ、妙な胸騒ぎを覚えた。
そのとき、レストランの扉が開いた。黒のハイネックドレスに身を包み、宝石をこれでもかと散りばめた女が姿を現す。
翔太の視線がその女に向き、体がぴくりと固まった。
女は堂々とテーブルに近づき、明るい声で笑った。
「遅れてすみません、神谷社長。こちらが奥さんですね?」
美月は顔を上げ、目の前に立つ、艶やかな麻衣を見据えた。
第3話
美月が最初に目にしたのは、麻衣の首に光る真紅のルビーネックレスだった。それは、翔太が自分に贈ったものとまったく同じデザインだった。
翔太の顔から笑みが消え、すぐに視線を逸らし、スマホに視線を落として友人たちから届いたメッセージを確認した。
【麻衣も図太いな。今日、美月さんが来るってわかってるのに、よく顔出せるわ】
【翔太、お前、なんか言えよ!】
翔太は冷ややかな目で麻衣をにらみつけ、無言の警告を送った。
場の空気を察した誰かが、慌てて取り繕うように言った。
「白井さんとはお仕事の関係がありまして、今日近くにいらっしゃると聞いたので、お声がけしたんです。美月さん、気を悪くしないでください」
「そうそう、翔太が計画してる美術館のプロジェクト、彼女が責任者なんですよ」
美月は眉をひそめ、翔太を振り返って尋ねた。「あの星空美術館のこと?」
それは、翔太が彼女のために建てると約束してくれた美術館だった。そこで彼女は個展を開く予定で、そのために心血を注いできた。
その大切な場所を、どうして愛人に任せられるの?
美月は拳を握りしめ、爪が掌に食い込むほど力を込めた。
その時、テーブルの下で女の足が翔太のズボンの間に滑り込み、太ももをなぞるのが見えた。
翔太の体がわずかに震え、反射的にその足を押さえた。こめかみに浮かんだ血管が怒りを物語っている。
一瞬止めたかと思えば、つま先がいたずらっぽく動き始める。
「っ……」
翔太は抑えた声を漏らし、すぐ慌てて隣を見た。
だが、美月はとっくに視線を逸らし、下唇を噛んで血がにじみそうなほどだった。
もう限界だった。立ち上がろうとした瞬間、店内に甘やかなピアノの音色が流れ出した。
ウェイターが近づいてくる。手には大きな青いバラの花束、その中央には煌めくブルーダイヤのネックレスが添えられていた。周囲の客たちが息を呑んだ。
このネックレスは、ヨーロッパ王室の婚礼にも使用されたとされる逸品で、「永遠の愛」の象徴だった。
「美月、俺の君への想いは、永遠に変わらない」
翔太は片膝をつき、愛情に満ちた眼差しでネックレスを差し出した。
店内が祝福の拍手に包まれる中、ガシャンとグラスの割れる音が響いた。麻衣が赤く充血した目でこちらを見つめていた。「ごめんなさい、酔ってて……つい手が滑っちゃいました。どうぞ続けてください」
そう言いながら、彼女は翔太の幼馴染である男性の胸にもたれかかり、甘えた声を出した。「隆、もう足がふらふら……送ってくれる?」
翔太の鋭い視線を受けながら、麻衣は余裕を見せるように唇を歪めた。
「隆、話したいことが山ほどあるの。
神谷社長、美月さんへのプレゼント、素敵ですね。末永くお幸せに」
翔太は顔をしかめた。「そんなに急いでるのか?」
「だって今夜、楽しみにしてたから」
……
麻衣は隆の腕に絡みつきながら、去っていった。
彼女が姿を消すと、翔太はスマホを何度も点けては消し、落ち着かない様子だった。
やがてメッセージが届いた瞬間、彼は表情を変え、勢いよく立ち上がって美月にキスを落とした。
「美月、会社で急ぎの用件が入った。行ってくる。
運転手を手配するから、あとで送らせるよ」
振り返りもせずに去っていく翔太を見送りながら、美月はひとりレストランに残り、無理に笑みを浮かべていた。
二十分後、皆を見送った美月は、レストランの外で壁にもたれ、力なくその場に立っていた。口の中に血の味が広がり、唇は青白くなっていた。
そのとき、知らない番号からメッセージが届く。
【最上階のテラス】
レストランの最上階には、特別な個室があり、街の夜景を一望できた。翔太は、そこを美月のお気に入りの場所として借り続け、いつでも入れるようにしていた。
美月はそこに入るカードを持っていた。ふたりだけの静かな空間、誰にも邪魔されないはずの場所だった。
だからこそ、階段を上がりきったその時……女性のかすれた吐息と、低くくぐもった男の声が耳に届いた。
頭がぐらりと揺れ、耳鳴りがして、足が動かなくなく、ただ明かりの漏れる窓を見つめた。
ドアは開いていた。薄いカーテンの奥に、ふたりの影が揺れている。麻衣は窓際に押しつけられ、後ろから男の手が彼女の腰を抱えられていた。身体は激しく揺さぶられた。
麻衣のすすり泣きが混じる声が漏れていた。
「ご主人様、小兎ちゃんは悪い子でした。もう少し優しくして……」
泣き混じりの声に、怒気を含んだ男の声が返る。
「じっとしてろ」
「そんなに誘うのが好きなら、最後まで受けろ!」
すると、男がうなり声を上げながら麻衣を強く抱き寄せた。
第4話
美月はもう聞いていられず、口を押さえて最上階から逃げ出した。
疲れ果てて階段に座り込み、胸を押さえて息を整えようとしたが、涙が止まらなかった。
昨夜翔太が自分を置いて麻衣に会いに行ったときも、かなり胸が痛かった。けれど、実際に二人が抱き合っている姿を目にした今、息ができないほど苦しかった。
翔太は幼い頃、家族に寺に預けられ、周囲からは寡欲な少年として知られていた。美月と付き合う前は、女性に触れたことすらなかった。
手を繋いだ瞬間、翔太の手のひらが熱を帯びた。キスを交わすと、心臓が早鐘のように鳴り、恥ずかしさのあまり耳まで赤く染まっていた。それでも、彼はそれ以上を望まなかった。
美月は新婚の夜のことを忘れられずにいた。彼は彼女を大切そうに抱きしめ、かすれた声で囁いたのだ。「美月、本当に君が好きなんだ。今まで、どうやって我慢してきたか君には分からないよ……
でも、君が嫌だったら、しなくていい。君がそばにいるだけで満足だから」
その純粋な優しさに、美月の胸は熱くなった。自分は、これまでの人生の運を全部使って、ようやくこの人に出会えたのだと思った。
けれど、現実は違った。
泣きすぎて呼吸もできず、美月はその場にへたり込んだまま、長い時間動けなかった。
夜が明ける頃、ようやく自宅に戻ったが、翔太はまだ帰っていなかった。
ポケットの中でスマホが震えた。あの匿名アカウントから、昨夜の個室で撮られた写真が届いた。彼女はあのブルーダイアのネックレスを身につけ、足元には男性のネクタイが無造作に落ちていた。
【この部屋、いいわね。ベッドも、ソファも、バスルームも……今はどこも私の匂いがするわ。それに、あなたに贈るはずだったブルーダイアも、今は私のもの。自分が邪魔だと思わない?】
胸がぎゅっと締め付けられ、息が詰まるような痛みが襲った。そんなとき、玄関のチャイムが鳴った。
誰かが置いていった小箱には「神谷美月」と書かれていた。翔太からのプレゼントだと思い、彼女はすぐ箱を開けた。
そして、中からたくさんの蜂が飛び出した。花粉が一気に美月の鼻腔に入り込み、喉が急激に締まり始めた。
「薬、私の薬……」
力が抜け、美月は這うようにしてリビングの薬箱を目指した。指先でようやく触れ、震える手で引き寄せると、箱は床に落ち、薬が散らばった。
けれど、肝心の喘息の吸入薬だけが見当たらなかった。
苦しさに顔が紅潮し、必死にもがく美月の呼吸は、どんどん荒くなっていく。
だめもとで翔太に電話をかけた。けれど、彼女が言葉を発する前に、向こうから冷たくかすれた声が返ってきた。
「美月、俺はまだ……会議中なんだ。後でかけ直す。
っ……」
一方的に電話は切られた。
死を覚悟した。けれど、まさか自宅で、こんな形で死にかけるとは。
絶望の涙が頬を伝い、窒息しながら意識が遠のいていく中、美月は目を閉じた。
次に目を開けたとき、そこは自宅の寝室だった。そばには家政婦がいて、さっき真由の担当教授が書類を取りに来た際、偶然発作を起こした彼女を見つけて助けてくれたと話してくれた。
真由の先生?
あの藤原先生?
美月がまだ信じきれずにいると、翔太が慌てた様子で部屋に飛び込んできた。数歩でベッドの前に膝をつき、震える声で訴える。
「美月、ごめん、俺が悪かった。もっと早く帰るべきだった!」
しわくちゃのスーツ、香水の奥に微かに混ざる違和感のある匂い。それらが胃を締めつけ、胸の奥がひりついた。
美月は手で翔太を押しのけ、その冷たい態度に翔太の心臓が一瞬跳ねた。何かを言おうとした彼に、美月は手のひらを上に向け、静かに差し出した。「あのネックレスは?昨日私にくれるって言ったじゃない。今、見たいの」
あのネックレス。
翔太はごくりと喉を鳴らした。昨夜、麻衣の甘えに負けて、あのネックレスを渡してしまったのだ。
どうせ美月は覚えていないだろうと高をくくっていた。似たデザインのものを新しく作らせれば、きっと気づかれないと、そう思っていた。
まさか彼女がそこまで気にしているとは思わなかった。
翔太は、嘘をつくしかなかった。「あのネックレスは……なくしてしまった。オークションのカタログを取り寄せるから、君が欲しいものは何でも買ってあげる。いいかい?」
その言葉を聞いた美月は笑った。
世界に同じネックレスは二つと存在しない。そして愛もまた、一つだけのものだった。
翔太は麻衣のために、幾度となく嘘をついた。この男の体も心も、すでに麻衣のものだった。
「いらない。もう欲しくないの」
彼女の様子に違和感を覚え、翔太の胸に不安が広がった。何かに気づかれたのではと焦りがよぎる。
だが、冷静に考えてみると――彼女の性格なら、もし本当に浮気を知っていたなら、とっくに家を出ていたはずだ。
そう考えて、翔太は少し安心した。「美月、ネックレスはなくしてしまったけど、君のために作った星空美術館が、あと五日で完成するんだ。あの場所の方が、ダイヤなんかよりもずっと意味があるだろ?もう、怒らないでくれ」
麻衣がデザインしたその美術館に、果たして美月にとって屈辱と皮肉以外にどんな意味があるのだろう。
もう、彼の声すら聞きたくなかった。美月は目を閉じ、そっけなく答えた。
「分かった。その日を待ってる」
彼女は、翔太が美術館で嬉しそうにパーティーの準備をしているときに、自分の冷たい遺体が届けられる光景を楽しみにしていた。
第5話
夜、美月は喉が渇いて水を飲みに行こうと部屋から出ると、真由の声が聞こえてきた。
「兄さん、お姉さんの絵を麻衣さんに渡してコンテストに出させて、国際デザイン賞まで取らせちゃって、お姉さんにバレたら怒られるんじゃない?」
彼女の絵?
美月はスマホで麻衣の名前を検索した。十七歳の時に翔太にプレゼントした『永遠』という作品が麻衣の作品になっているのを見て、頭が真っ白になった。
麻衣に愛情を奪われただけでも十分ひどいのに、まさか作品まで盗むなんて。
でも一番ショックだったのは、翔太がそれを許していたことだった。
低い声がはっきりと聞こえてきた。
「たかが絵一枚だ。アトリエに置いておいても埃をかぶるだけだろう。麻衣の長年の夢を叶えてやる方がいい」
妻の絵を使って、愛人の夢を叶える?
美月は初めて、この人を愛したのは間違いだったと思った。
もう何も感じなくなって、壁にもたれかかって寒気を感じていると、真由の笑い声が聞こえた。
「兄さん、麻衣さんからお祝いパーティーに来てって連絡があったよ。急がないと遅れちゃう」
二人が出て行った。
その後、美月は暗闇の中で車の影が完全に見えなくなるまで見ていた。
今度は一滴も涙が出なかった。
彼女は黙って、静かに翔太からもらったものを整理した。ラブレター、一緒に撮った写真、彼が彼女をモデルに手彫りした人形、全てを燃やした。
宝石やアクセサリーは、全て20円の福袋としてネットで売った。
翌日、福袋から206カラットのピンクダイヤのティアラが出てきた動画がネットでバズった。やらせだと疑う人もいたが、他の宝石を買ってた人たちが次々と本当のことだと証明した。
美月がリビングでのんびりコーヒーを飲んでいると、翔太が慌てて帰ってきた。彼女の前に駆け寄り、震え声で尋ねた。
「美月、俺が君にプレゼントした成人祝いのティアラを、20円で他人にあげちゃったのか?」
美月は彼を見上げた。彼の胸は微かに上下し、唇は青白く、瞳は彼女を深く見つめていた。
彼女は静かに言った。「あなたが私にくれたんだから、私のものじゃない?」
「でも……」
翔太の胸が痛くなり、目が赤くなって、泣きそうな声で言った。「あれは俺が初めて君にプレゼントしたティアラだったんだ。一生大切にするって言ってくれたじゃないか」
美月はただ静かに前を見つめ、表情に皮肉が浮かんだ。
彼は一生彼女だけを愛すると約束したのに、ダイヤより輝くはずだった彼女のデザイナー人生を麻衣に奪われ、彼は最初から知っていたのに、愛人のために何年もかばい続けた。
誓いが嘘だったなら、愛の証だったジュエリーに何の意味があるだろう?
ティアラがなくなっただけで、こんなに動揺して悲しんでいる。
それなら数日後、自分の死体を前にした時の彼はどんな顔をするのか、見えないのが残念だった。
美月は軽く笑い、落ち着いて言った。「あのティアラ、もう好きじゃないの。古いものがなくなったら新しいものを買えばいいじゃない。人は誰でも新しいものが好きだろう?それに、お母さんがいつも私は子供が産めないから徳がないって言って、善行を積みなさいっておっしゃるから、善いことをしてるのよ」
それを聞いて、翔太の胸が痛み、彼女の手をきつく握った。「君の言う通りだ。物なんてなくなってもいい。俺がもっとたくさん買ってあげる」
翔太は理由もなく不安になったが、何度も自分に言い聞かせた。美月は毎日アトリエで絵を描いているし、友達もいないし外出も好きじゃない。絶対にバレることはない、と。
美月は何も言わず、立ち去ろうとした時、スマホに麻衣からメッセージが届いた。
彼女が子供たちと翔太の実家でブランコに乗っている写真だった。
【今日は子供たちを連れてじいちゃんとばあちゃんに会いに来たよ。神谷家のみんな、私のことすごく気に入ってくれて、私がいるおかげで家族の幸せを感じられるって言ってた】
【あんたなんかが奥さん面してるとか、恥ずかしくないの?】
恥ずかしい?
美月は心の中で笑った。人の夫を誘惑し、人の作品を盗んで成り上がった女が、正妻に恥について語るなんて。
隣で翔太が彼女の顔色が悪いのを見て、近づいて優しく尋ねた。「美月、どうした?」
美月はじっと彼を見つめ、しばらくして微笑んだ。「久しく実家に帰ってないから、急に帰りたくなった」
それを聞いた途端、翔太の目に一瞬動揺が走ったが、長年商売をしてきた彼はすぐに冷静になった。「実家なんて行ってどうする。母さんに会ったらまた小言を言われるだけだ。家にいる方が静かでいいだろう」
美月は彼の一瞬の動揺を見逃さず、言い続けた。「一生顔を出さないわけにもいかないだろう。今日は天気もいいし、実家を見てから、近くの寺でお守りをもらってこようかと思って」
そう言って、翔太の返事を待たずに車の鍵を取って外に向かった。
実家に着くと、雰囲気が変だった。家族全員が美月が来たのを嫌がっているのが分かった。
美月の視線がふっと隅のベビーカーや、片付け忘れた家族写真を捉えた。その写真では、麻衣が子供を抱いて翔太に寄り添い、翔太の両親も真ん中で笑顔を浮かべ、幸せそうだった。
翔太の母は元々機嫌よく孫と遊んでいたが、美月が現れると気分が悪くなり、いい顔をしなかった。
「私に会いに来る暇があるなら、寺でお経でも写しなさい。あなたの罪が重いから子供ができないのよ!」
以前は言い方がまだ遠回しだったが、今日はきつかった。
翔太が険しい顔で口を開いた。「母さん、少し黙ってくれないか。美月は体が弱いだけだ。どうして罪がどうとかいう話になるんだ。そんなことを言い続けるなら、もう二度と来ないよ」
昔、彼が美月のために家族と決別した件で、翔太の母はまだ嫌な思いをしていた。彼女は突然二階に隠れている麻衣のことを思い出し、にやりと笑った。
「翔太、仏間で私が写した経典を取ってきて」
翔太は行く前に、美月がいじめられるのを心配して、一緒に二階に上がり、寝室で待っているよう言った。
彼が仏間に入って、そこに隠れていた麻衣を見た時、顔色が沈んだ。
「どうしてまだいるんだ?」
麻衣は彼の胸に飛び込み、甘えた声で言った。「今日は赤ちゃんの誕生日なの。一緒にお祝いしたくて。それに、赤ちゃんへのプレゼントだけじゃなくて、あなたにもあるのよ」
そう言って、コートのボタンを外し、中の兎のコスプレ衣装を見せた。
翔太は息を詰まらせ、喉が締まった。寝室の方をちらりと見て、美月が隣にいることを思い出し、麻衣を突き放そうとした時、彼女が膝をついた。
一枚のドアを隔てて、美月はまだ明かりがついていたスマホを握りしめた。一分前に送られたメッセージがあった。
【仏間においで。いいものを見せてやる】
生々しいキスの音が薄いドア越しに聞こえ、無数の刃となって彼女の心臓を貫いた。
抑えた男性のかすれた声が命令した。
「いい子だ、飲み込め」
「んん……」
「早く!」
この気持ち悪い音を聞いて、美月は何も感じなかった。
ただ、自分はどうしてこんな男を愛してしまったのだろうと思った。
見た目は鮮やかで美しいのに、一口かじれば、舌に広がるのは毒の味――彼は、まさにそんな男だった。
彼女は昔、彼が天の階段の前で跪き、仏様に祈っていた姿を思い出した。
雪が激しく降る中、その影は氷雪の世界と一体化しそうになりながらも、なお敬虔に両手を合わせ、最愛の女性が目を覚ますよう何度も祈っていた。
あの時、翔太の心にも目にも彼女しかなかった。
「世の中に完璧なものはないけれど、君が俺の人生唯一の人だということは確かだ」
誓いなんて、こんなにも脆くて儚いものなのか。時が経てば、甘い香りの裏に潜んだ腐敗が露わになる。
翔太が愛を信じさせ、勇気を出して賭けさせたのに。
彼女が一番幸せだった時に、一番痛くて致命的な一撃を与えたのも彼だった。
第6話
三十分後、翔太が仏間から出てきた。
美月は玄関の階段に座り、手のひらのお守りを見せた。「これ、あなたが昔私のために頼んでくれたお守りよ。さっき気づいたんだけど、少し色褪せてるの。翔太、この世のものって、みんな色褪せる日が来るのかしら?」
「そうだな」翔太は軽く笑い、彼女の手を握り返して、そっと唇を寄せた。「でも俺の君への愛は、絶対に色褪せない」
美月はにっこりと笑った。
愛してると言いながら、どうしてそんなにも簡単に嘘がつけるのだろう。
最初は静かにこの家を去るつもりだった。だが今は、少し気が変わった。
翔太に思い知らせてやりたい。自分の演技がどれほど下手なのか。
麻衣がどんなふうに彼女を追い詰めたのか。
そして、彼の裏切りと嘘が、美月を死へと追いやったことも。
美月は穏やかな笑みを浮かべながら、彼を見つめた。「あなたが私を愛してくれてるのは、ちゃんと分かってるわ。この数日、寺に行ってくるわね。美術館が完成する日に、また会いましょう。そのとき、私からも贈り物があるの」
美術館完成の日、翔太は多くの来賓の前で、美月の交通事故死を知らされることになる。
その後、次々と突きつけられる現実。自分の浮気が、彼女を絶望させたこと。そして、自分の手で最愛の妻を失ったという事実を知ることになる。
それらを知った彼は、きっと毎晩今日のことを夢に見る。最後に会ったとき、言えなかった「さよなら」を、彼はきっと何度も心の中で繰り返すだろう。
「お寺に行くなら、俺が山まで送るよ」翔太の瞳には寂しさと優しさが滲んでいた。「あと三日だな。美術館で待ってる」
美月は彼の手を静かに振りほどき、太陽に向けて微笑んだ。
「山までは一時間以上かかるから、ここにいた方がいいわよ。待ってる人もいるでしょ」
翔太は一瞬きょとんとした表情を見せた。考えすぎか?どうして妻の言葉に、別の意味があるように聞こえるんだ?
嫌な予感が胸をかすめた。
次の瞬間、スマホが鳴った。麻衣からのメッセージだった。
【旦那さま。さっきの小兎ちゃん、まだお腹すいてるの。早く彼女を帰して、続きをしない?】
翔太は息を荒げ、脳裏をよぎった不安など、瞬く間に霧散していった。
「それじゃ、道中気をつけて。三日後、迎えに行くから」
美月は一度も振り返ることなく、その場を去った。
彼女は寺に着くと、本堂で長く跪き、色褪せたお守りを強く握りしめた。
やがて住職が現れ、それを見てため息をついた。
彼女は振り返り、ため息の意味を問いかけた。
「ご住職様、そんなため息ついて、何かあったんですか?」
住職の瞳には、慈悲深さが見えた。「そのお守りですが、あの日、あの方は二つお求めになったのです。私はそのとき忠告しました。欲張りすぎると、一生の縁を壊しかねませんよと。まさか、こんなにも早くその報いが来るとは……本当に、悲しいことです」
二つ?
美月はしばらく何も言わなかった。そして、小さく笑った。
あの時、彼があの天の階段で祈っていたのは、自分一人のためじゃなかったんだ。
美月は手の中のお守りを、静かに火の中へ投げ入れた。思い出も、愛も、いまはもう灰に還ればいい。
星空美術館の完成式典当日。
翔太は何度も美月に電話をかけたが、応答はなかった。
宴会場の入り口、明るい照明の下で、翔太はそわそわと落ち着かない様子だった。ちょうどまた電話をかけようとした時、秘書が血相を変えて駆け寄ってきて、声を震えながら言った。
「神谷社長、たいへんです!奥さんの……奥さんのお車が、先ほど市内へ入った直後、中央通りの交差点で……大型トラックと衝突したとの連絡が……!」
翔太の瞳孔が一瞬で小さくなり、全身が固まった。
次の瞬間、彼は秘書の襟を掴み、顔を歪めた。「なんだと……?」
第7話
「あなた、赤ちゃんがパパに会いたいって言ってるの……」
麻衣はお腹をさすりながら近づいてきたが、翔太の険しい表情を目にした瞬間、甘えた口調を飲み込んだ。
秘書が事故現場の写真を差し出すと、翔太はそれを受け取り、数秒後に力なく手を放した。後ずさりしながら首を横に振り、現実を拒絶するように動揺していたが、突如口から血を吐いた。
「神谷社長!」
「あなた!」
皆の叫び声が響く中、翔太は胸を押さえ、麻衣を突き飛ばし、よろめきながら駐車場へと走り出した。
美月は死んでいない、自分で迎えに行かなきゃ!
車に飛び乗った翔太の目に、助手席に置かれた美月のコートが映った。
胸が苦しくてたまらない。コートを手に取り、彼女の香りを吸い込んだ瞬間、涙が一気にあふれ出した。心が痛くてたまらなかった。
どうして、美月をひとりで寺に残したんだ!どうして、あのとき一緒にいてやらなかったんだ。どうして、今日、迎えに行かなかったんだ!
どうして!
答えは簡単だった。二人の子どもの保護者会に急いで戻る必要があった。麻衣の新しい遊びにも気にかけていた。美月が寺にいることなんて、すっかり忘れていたのだ。
翔太は事故現場の交差点へ向かって、車を走らせた。サイレンを鳴らしながら救急車とパトカーが通り過ぎ、道端の大道芸人が悲しげなバイオリンを奏でている。噴水広場では、水が高く噴き上がっていた。騒がしさの中で、翔太は地面に横たえられ、白い布を掛けられた人影を見つけた。
全身の血が引いた。
手が震え、車のドアを開けようとするが、足がまったく動かなかった。
「神谷さん」救急隊員の一人が近づき、透明な袋を差し出した。中には遺品が収められている。「現場で奥さんの携帯電話と指輪が見つかりました。また、DNA型鑑定の結果、身元は神谷美月さんご本人と確認されました。死亡確認書にサインをお願いします。早急にご遺体の安置手続きを進めてください」
翔太はゆっくりと袋を開け、指がスマホに触れると、画面が点灯した。スキー場で撮った、美月とのツーショットが画面にあった。
美月は幸せそうに笑っていた。彼への愛と未来への希望に満ちた瞳だった。
翔太はゆっくりと、地面に横たわる遺体を見た。耳鳴りがし、視界が揺れる。
しばらくして、現実に引き戻されると、叫び声を上げた。
「そんなはずない!これが美月のはずがない、何かの間違いだ!」
救急隊員のリーダーが深くため息をつき、同情の色を浮かべた。
「神谷さん、お気持ちは痛いほど分かりますが、鑑定の結果に誤りはありません……どうかサインを。美月さんを、安らかに眠らせてあげてください」
翔太はさらに怒り出し、相手の襟を掴んだ。
「ふざけるな。俺の妻は死んでない!生きてるんだ!これ以上言ったら容赦しないぞ!」
周囲の人々が慌てて翔太を引き離した。
翔太はその場に崩れ落ち、しばらくボーッとした。やがて呟くように、ぽつりと言葉をこぼした。「今日は美術館の完成の日なんだ。美月に、永遠の星空を贈るって、約束してたんだ。今日、会う約束をしてたんだよ」
盛大に準備したはずのパーティーは、一転して葬式となった。
長い時間が過ぎ、ようやく翔太は現実を受け入れ始めた。手で美月の結婚指輪をぎゅっと握りしめ、涙が次々にあふれた。三日前が話し合える最後の日だったのに。自分はあの日、麻衣のことしか考えていなかった。あの日の自分を許せなかった!