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静かに燃え尽きる愛
かつて、蘇田桃恵(そだ ももえ)のために銃弾を受けてくれたあの人も、結局は別の誰かを愛するようになるんだ。
Chương (1)
第1章
かつて、蘇田桃恵(そだ ももえ)のために銃弾を受けてくれたあの人も、結局は別の誰かを愛するようになるんだ。
第1話
「子宮外妊娠の手術同意書、自分でサインします」
桃恵は看護師を呼び止めて、針跡で紫色に腫れ上がった手でペンを握ると、震える指先で自分の名前を書き込んだ。
手術室へ運ばれるとき、桃恵の頬を一粒、涙が伝った。
あのとき緊急避妊薬を飲んだのは、果たして正しかったのか、それとも間違いだったのか、もう分からない。
病院で療養している間に、桃恵は一か月後の海外行きの航空券を買った。
スマホを開くと、ネットでは「浜市の御曹司、数億を投じて恋人に愛を告げる」という話題がまだ炎上していた。
その「世紀の告白」の主役が、まさに桃恵自身なのだ。
三日前、城ヶ崎晏人(じょうがさき あきと)は記者会見を開き、個人名義で出資し、七年かけて完成させた宇宙船が、レコードを宇宙へ運ぶと発表した。
そのレコードには、晏人が桃恵に告白したときの音声が刻まれていて、宇宙の果てでも永遠に再生され続ける。彼の桃恵への愛を、宇宙のすべてが見届けることになる。
宇宙船の打ち上げ成功とともに、晏人と桃恵の長年の恋愛物語が掘り起こされ、ネットでは「21世紀の恋愛神話」と呼ばれるようになった。
お腹が鈍く痛む中、桃恵はネットのコメントを眺める。
【城ヶ崎社長と蘇田さんが幼馴染って、まだ知らない人いるの?もう25年近く知り合い、7年付き合ってるのに、まだラブラブって……羨ましすぎて泣ける】
【みんな城ヶ崎社長が蘇田さんにお金を惜しみなく使うことしか知らないけど、昔城ヶ崎社長が海外で蘇田さんのために銃弾を受けたの知ってる?この前のチャリティ水泳リレーに出た時、肩の傷痕が心臓まであと数センチだったって!】
【その時城ヶ崎社長、少しも迷わず蘇田さんを抱きしめたって聞いた。私のスマホには、城ヶ崎社長が担架で運ばれながら蘇田さんと指を絡めてる写真が残ってる。尊すぎてしんどい!】
【才能×美貌カップル、羨ましすぎて泣いたわ……】
【……】
イベントでの甘い視線の交換から、二人のドラマチックなエピソードまで、どれもが命を懸けて愛し合ってきた証拠ばかりだった。
桃恵の視界はじんわりと霞み、涙を拭いながら、ただただ皮肉に思う。
蘇田家と城ヶ崎家は代々の付き合い。桃恵が生まれた日、二歳の晏人は手術室の外に立っていた。
物心ついた頃から、晏人はいつも傍にいた。
十歳の年、蘇田家が破産し、両親は自殺してしまった。桃恵は一夜で孤児となり、城ヶ崎家がすぐに彼女を引き取った。
晏人に寄り添われながら、桃恵はやっと暗い影から抜け出した。
思春期の頃、桃恵は自分なんか晏人には釣り合わないと思い込んでいた。彼の愛が恋人としてのものだなんて、夢にも思わず、せめて妹のように傍にいられればそれで十分だと願っていた。
だが、成人式の日、晏人は名だたる人々の前で、正式に桃恵へ告白した。
彼の瞳に燃えるような愛情を見て、桃恵は迷わず、永遠を誓う真紅のバラを受け取った。
涙ぐみながら、彼の耳元で囁いた。「晏人、ありがとう。私の家族になってくれて。お願い、絶対に裏切らないで、私を置いていかないで……愛してる」
晏人はさらに強く抱きしめ、声を震わせて答えた。「桃恵、俺は命を懸けて誓う。絶対にお前を裏切らない。絶対にお前を置いていかない。永遠にお前を愛し続けるから」
付き合っていた間、晏人は本当に優しく、細やかで、思いやりに溢れていた。
でも、その「永遠」は本当だったのだろうか?
晏人が最初に自分を愛してくれていたことは、疑ったことはない。でも、心なんてものはあっという間に変わってしまう。
もし桃恵が彼の浮気を知ることがなければ、今でも自分は世界一幸運な女だと信じていたに違いない。
晏人はうまく隠していたつもりかもしれないけど、愛も、不愛も、すべては細部に宿るということを。
彼の心はいつの間にか、他の何かでいっぱいになっていた。桃恵は耐えることも、見て見ぬふりをすることもできなかった。
また捨てられる痛みや絶望を味わうくらいなら、自分から去ることを選ぶ。
桃恵は子宮外妊娠の手術同意書を高級なギフトボックスに入れ、丁寧にラッピングした。そして、一枚のカードに書き添えた。
【二十七歳の晏人へ】
第2話
晏人が家に帰ってきたとき、桃恵はすでに退院しており、窓辺で静かに本を読んでいた。
「ごめんね、桃恵。出張が本当に忙しくて、急いで帰ってきたんだけど、お前の誕生日も、俺たちの記念日も間に合わなかった……」
晏人はスーツの上着を脱ぎ、桃恵のそばへ歩み寄って、優しく彼女を抱きしめた。
「これが最後だって約束するよ。これからは、どんなに忙しくても、大事な日には必ずお前のそばにいるって誓う。
桃恵、怒らないで、な?」
桃恵の心には冷たい笑いが浮かぶ。彼女は目を閉じ、彼の体から秦野悠香(はたの ゆうか)の香水の匂いを嗅ぎ取り、思わず吐き気を覚える。
悠香を連れての出張なら、それは忙しいはずよね。
でも、もうそんなことはどうでもいい。
桃恵は晏人をそっと押しのけ、平静な声で彼を見つめた。
「別に、気にしてないよ」
晏人はほっと息をつき、上品な黒いベルベットの箱を取り出して桃恵に差し出した。
「桃恵、これ、お前へのプレゼント。気に入ってくれたら嬉しいな」
箱を開けると、中には腕時計がひとつ。
パテックフィリップのグランドマスター・チャイム。お値段3,100万ドル、世界限定7本。
「スイス時計って、精密の象徴だろ?すべてのパーツがぴったり噛み合って動く。それって俺のお前への想いと同じなんだ」
晏人は丁寧に桃恵の手首に腕時計を嵌めていく。彼が口にする愛の言葉も約束も、桃恵にはもう何の感情も湧かない。
彼女は静かに立ち上がり、手術同意書と別れの手紙を入れたギフトボックスを取り出して、晏人に手渡した。
「これ、私からの誕生日プレゼント」
晏人は驚きと喜びで顔を輝かせ、すぐに開けようとしたが、桃恵がそれを制した。
窓からの光が彼女の痩せた頬を照らし、その横顔はどこか儚く、美しかった。
「誕生日の日に開けて。ちょうど一ヶ月後」
晏人は彼女の髪を撫で、愛しげな眼差しで微笑む。
「分かった。全部桃恵の言う通りにするよ。誕生日まで大事に取っておく。ありがとうな、ハニー」
その嬉しそうな顔を見ても、桃恵の笑顔は目に届かない。
晏人、あの夜あなたが私にしたこと、誕生日に思い出すといい。
そのとき、あなたはまだ嬉しそうにしていられるの?
翌日、城ヶ崎家は浜市中の名士を招いて、最大の屋敷を貸し切り、桃恵のために盛大な誕生日パーティーを開いた。
庭には桃恵の好きな赤いバラが一面に咲き誇り、宴会場もバラの花びらで埋め尽くされていた。誰もが晏人の桃恵への愛と大切にする気持ちに感嘆していた。
「城ヶ崎家が昔からの付き合いで桃恵を引き取ったって言っても、ここまで大事にはしないわよ。やっぱり晏人が彼女を溺愛してるから、こうして城ヶ崎家でも大切されてるのよ」
「本当よね。あの目線、十八歳のときに告白したときと全然変わってないじゃない」
「七年前も見せつけられたけど、七年経ってもまだラブラブだなんて……」
羨望の言葉が桃恵の耳にも届くが、彼女は城ヶ崎家の顔を立てて、静かに微笑むだけだった。
彼と自分の愛なんて、バラの花びらみたい。今は綺麗だけど、すぐに枯れてしまう。
宴の間、晏人は桃恵が酔わないようにと、積極的に彼女の酒を引き受けた。
誰かが桃恵に話しかければ、彼はすぐそばで静かに頷き、細やかにフォローする。視線をずっと彼女に注ぎ、まるで影のように寄り添い続けた。
バッグを持ち、エビを剥き、魚の骨を取る……細やかな気遣いも完璧だった。
本当に、芝居の天才だ。あまりに完璧な演技すぎて、浮気なんて自分の勘違いかもって、一瞬思いそうになる。
「本当にお似合いのお二人ですよね。もう結婚は?」
「そうそう、結婚式には絶対呼んでくださいよ!あなたたちが一緒に育ってきたの、私たちずっと見てるんだから!」
晏人は桃恵の手を握り、にこやかに答える。「もちろん。でも、結婚より先に、俺の桃恵には人生で一番盛大なプロポーズを贈らなきゃ」
桃恵は隣で微笑むけれど、内心はもう疲れ切っていた。
初めて晏人の恋人として城ヶ崎家の宴に出たときも、みんなが理想のカップルって誉めてくれた。
晏人は肩を抱き、茶化すように言った。「こんな彼女がそばにいてくれるなんて、俺、きっと前世でよっぽどいいことしてきたんだろうな。桃恵じゃなきゃ、俺、結婚なんて考えられないよ」
あのときの桃恵は顔を真っ赤にして、彼の胸にしがみつき、何度もプロポーズを夢見たものだった。絶対に、すぐに「はい」と答えるって。
でも今は──晏人、私はもう、あなたを待たない。
宴も終わりに近づき、晏人は桃恵の手を引いてステージに上がった。ジュエリーボックスからきらめくネックレスを取り出し、桃恵の首に自ら掛けた。
「桃恵、誕生日おめでとう」
そう言って、彼はそっと桃恵の額に口づける。
会場は拍手喝采。
桃恵は胸元のネックレスを伏し目がちに見つめ、その視線の先、メインテーブルには悠香の姿があった。
彼女は暗い顔で、憎しみのこもった目でこちらを睨み、まるでその場に馴染めていない。
桃恵は口元を歪め、目に冷たい嘲笑を浮かべた。
悠香はそれに気づき、さらに顔色を悪くし、歯を噛みしめてその場を去った。
この渦巻く感情の波に、周囲の誰も気づかない。祝福の声だけが響いている。
だけど桃恵だけは知っていた。自分と晏人の愛は、もう燃え尽きて、行き止まりへ辿り着いてしまったのだと。
第3話
晩餐会が幕を下ろし、まばゆいシャンデリアの下、舞踏会が始まった。
晏人はすっと桃恵の前に立ち、礼儀正しく腰を折り、開幕のダンスに誘った。
桃恵は一瞬だけためらったものの、城ヶ崎家の顔を潰したくなかったので、手を伸ばそうとしたその時だった。
「城ヶ崎社長、会社で急ぎの案件が入ってきました。すぐにご対応いただきたいです!」
息を切らしながら駆け寄ってきたのは、悠香だった。
その言葉を聞くやいなや、晏人はすぐに背筋を伸ばし、何があったかも問わず、申し訳なさげに桃恵へと目線を向ける。「ごめん、桃恵……急いで会社に戻らなきゃいけない。夜には必ず迎えに来るから、ね?」
会場中の視線を一身に浴びながら、桃恵は差し掛けた手をそっと引っ込めた。「行ってらっしゃい」
二人が慌ただしく去っていく背中を見送りながら、桃恵の胸に鈍い痛みが広がった。
四ヶ月前、悠香は晏人の義理の従姉として城ヶ崎家に身を寄せた。理由は、夫を亡くしたばかりで身寄りもなく、行く当てもなかったから。彼女を気の毒に思った城ヶ崎家は、しばらくの間だけと彼女を受け入れたのだった。
最初、晏人のもとに突然現れた遠縁の従姉について、桃恵はまったく疑うことはなかった。むしろ、夫を失ったばかりの悠香に対して、彼女なりに気を遣い、よく世話をしていた。
たとえ悠香が晏人の秘書に抜擢されたときも、桃恵は城ヶ崎家の優しさだと思っていた。
だが、やがて晏人と悠香の距離が親しすぎるほど近づき、桃恵ですら目を逸らせないほどになった時、ようやく彼女は違和感に気づくのだった。
かつての晏人は、桃恵しか見ていなかった。選択肢なんてなかった。常に答えは「桃恵」一択だった。
なのに、最近はどうだろう。桃恵の目にもはっきり分かるほど、彼は迷いを見せる。いや、もう迷ってなどいない。彼は何のためらいもなく、悠香のもとへ向かうようになったのだ。
桃恵は体調が優れないと口実を作り、舞踏会を早々に抜け出して、静かな部屋でひとり休むことにした。
その頃、晏人と悠香は慌ただしくオフィスへと向かっていた。
「で? 何の急ぎの用なんだ?」
「ふふ、道中で一度も聞かれなかったから、てっきり私たち、心が通じ合ってるのかと思っちゃった」妖艶な笑みを浮かべ、悠香は晏人のネクタイを指で弄ぶ。
晏人は眉をひそめ、悠香の手を強く掴む。「無茶するなって言っただろ!今日は桃恵の誕生日を祝ってやる日だって、分からないのか?」
「晏人、そんなに怒らないで。もう、赤ちゃんだって三ヶ月なんだから、少しは私のことも……恋しくなってるんじゃない?」
「悠香……」
「前に言ってたよね?オフィスでしてみたいって」悠香はコートを脱ぎ捨て、露出の多い大胆なビジネススーツ姿を晒す。
「晏人、あの人で満足できる?」
晏人の目が、獲物を狙うように悠香の全身を舐める。もう自制はできなかった。彼は強く彼女の腰を抱きしめ、唇を重ねた。
炎が燃え上がり、そして静かに消える。
すべてが終わったあと、晏人はシャツについた口紅を拭きながらスマホを開いた。しかし、桃恵からの連絡はなかった。
一瞬、晏人の心臓がドクンと音を立て、不安に駆られる。
「今夜は、うちに来る……よね?」
ボタンを留めながら、晏人は悠香の手を振り払った。「張本に送らせるよ。俺は桃恵を迎えに行く」
泣きそうな悠香の顔を無視し、晏人は車でその場を去った。
帰り道、晏人はわざわざ市内で一番有名な老舗和菓子屋に寄り、桃恵の大好きな桃の餅を買い求めた。
「桃恵、大丈夫か?お母さんが、体調悪いって」晏人はリビングから桃恵の部屋まで駆けてきた。
「平気よ」桃恵はベッドから起き上がり、首を振る。
晏人は優しく桃恵の頭を撫でる。子供をあやすように。「ほら、お前の一番好きな桃の餅だよ。ちょっと食べてくれないか?食べたら家に帰ろう」
それは、幼い頃から晏人が桃恵を喜ばせようと、長い行列に並んで買ってきてくれた和菓子屋だった。桃の餅、羊羹、どら焼き……
桃恵は目を伏せる。鼻腔には悠香の濃厚な香水の匂いが残っていて、吐き気を催すほどだった。
どうして、どうして、最後の最後くらい、せめて演じる努力すらしてくれないの?
晏人の手を払いのけ、掠れた声で言った。「いいの。帰ろう」
晏人、かつては、あなたが買ってきたから、私はどんなものでも好きだった。でも今は、もう好きじゃない。
家にも帰らなくていい。あなたが私を裏切ったその瞬間、私の居場所なんて、もうどこにもないのだから。
第4話
桃恵は道中、ほとんど口を開かなかった。
晏人はすぐに桃恵の機嫌が良くないことに気づいた。
「桃恵、俺が会社に戻って仕事をしてたことで怒ってる?ごめん、本当にごめん。今のプロジェクトが終わったら、もう絶対にお前を一人にしないから。
それとも、俺がいない間に誰かが余計なことでも言った?何か気に障ることがあった?
お願いだから、俺のこと無視しないでくれよ、桃恵……」
社長として敏腕を振るう晏人も、桃恵の前ではまるで忠犬のようにしおらしい。
ただ、かつての桃恵は忘れていた。犬ってのは、結局、悪癖を直せないものなのよ。
「ただ、疲れてるだけ」と、桃恵は淡々と答える。
晏人は桃恵の様子を注意深く伺っていた。その夜、そっと彼女のベッド脇に腰を下ろした。「このプロジェクトも、あと一ヶ月くらいで終わるよ。桃恵、どこか行きたい場所はない?一緒に旅行でも行こうか」
一ヶ月後には、もうあなたの隣にいないのに。
桃恵は首を横に振った。
「桃恵、一体どうしたんだ?何があっても、ちゃんと話してほしい。そんな顔されると、俺すごく心配で……」
晏人は桃恵の冷たい手を両手で包み込む。
どれほど心配しているのだろう?桃恵は晏人の瞳を見つめるが、そこに偽りの色は微塵も見えなかった。
でも、こんなにも自分を大切にして、愛してくれて、命まで懸けてくれたこの男が、彼女が大きな手術を受けていたことすら気づかず、平然と彼女の目の前で裏切っていたのだ。
桃恵は手を引いた。「何でもない。ただ、舞踏会で愛妻家で有名な福田(ふくだ)社長が、実は外に女を何人も囲ってて、最近離婚裁判になってるって聞いて、人の心ってわからないなって思っただけ」
「桃恵、安心して。俺は絶対、そんな男にはならないから」
晏人は即座に約束し、桃恵を強く抱きしめながら、誓いの言葉を口にした。「桃恵以外の女を好きになったら、俺が地獄に堕ちても構わない」
桃恵はそっと目を閉じ、涙が静かに頬を伝う。
ずっと信じていた約束なんて、晏人にとっては簡単に口にできる嘘だったのだ。
その後のしばらく、晏人はプロジェクトを理由に、家に帰ることがほとんどなくなった。
桃恵も、むしろその方が気が楽で、少しずつ別れの準備を進めていた。
ある日、彼女は離れる前に、久しぶりに実家の古い屋敷を訪れることにした。
屋敷は市内西側にあり、両親が亡くなった後、晏人の家が金を出して買い戻し、名義も桃恵に移った。しかし、桃恵は思い出に傷つくのが怖くて、ほとんど足を運んでいなかった。
何年ぶりかで玄関を開けると、驚くほど家はきちんと整えられていた。庭の池も植木も、まるで今でも誰かが住んでいるかのように手入れされている。
これもきっと、晏人が人を雇って管理させていたのだろう。
その気遣いに、桃恵は思わず胸が少しだけ熱くなった。
恋人にはなれなかったけれど、家族としてなら、もしかして……
桃恵は懐かしい壁や柱を撫でながら、二階に上がって子供の頃の部屋を掃除しようとした。
そして、階段の踊り場で、ふと窓から庭を見下ろすと、そこに二人の人影があった。
なんと、晏人と悠香だった。
その瞬間、桃恵の血の気は一気に引き、頭の中が真っ白になった。
二人とも、まともに服も着ていないまま、誰にも見られていないとばかりにイチャつき、下品な言葉がまるで雹のように桃恵の耳を打った。
悠香が着ているのは、桃恵が子供の頃に着ていたワンピースだった。
「晏人、これ、似合う?似合ってるって言ってくれないと、もう着てあげないからね?」
「俺の気持ち、伝わってない?じゃあ、もっと頑張っちゃおうかな」
「もうっ、ひどい!もっと言ってほしいのに」
「……」
心臓を鋭い刃で何度も切り裂かれるような痛みで、桃恵は呼吸さえも苦しくなった。
たった五分前、自分が晏人と家族としてやり直せるかもしれないなんて、そんな愚かな希望を抱いていた。
桃恵は口を押さえ、力なく窓の下に崩れ落ちて、声もなく泣き崩れた。
涙は頬を伝い、木の床にぽつりぽつりと水の跡を作った。
晏人と過ごした七年、本当にどれだけが本心だったのか。
自分は本当に晏人のことを知っていたのだろうか。
記憶の中の晏人は、初めてキスするときさえ、まるで儀式のように真剣だった。
あの日、何度も手のひらを拭ってから、やっと桃恵の手を握り、まっすぐに見つめてきた。
「桃恵、キス、してもいい?」
桃恵は笑顔でうなずいた。
盛大な花火の下、二人はそっと息を重ね、晏人は何度も桃恵の鼻先や耳を優しくキスして、まるで彼女を自分の一部にしてしまいたいかのように。
「桃恵……俺の桃恵……」
その時、桃恵はこの人となら世界のどこでも家になる、そう信じて疑わなかった。
けれど今、目の前の晏人は、全く知らない他人にしか見えなかった。
結局、約束なんて愛している間しか効力はないし、誓いの言葉も、信じたい人しか信じないものなのだ。
第5話
両親が生前、幸せな時を過ごしたこの古い屋敷も、今となっては彼らの愚かさで穢れてしまった。
桃恵は苦しみに膝をつき、ついにこの屋敷を売る決意をした。
彼女は誰にも気づかれぬよう淡々と手続きを進め、抜け殻のように帰宅した。
夕暮れの光が、かつて晏人と甘い思い出を重ねてきた部屋に差し込む。桃恵はその場に立ち尽くし、だんだんと暗くなる中で、すべてのカップル用品が目に刺さるように眩しく、涙を誘った。
置物、写真、スリッパ、パジャマ、歯ブラシ……そして晏人が書いたラブレター。
桃恵は見える限りのペアグッズをすべて段ボールに放り込み、無感情なロボットのように同じ動作を繰り返した。
虫食いだらけの美しい着物も、もういらない。その着物を贈ってくれた人も、もういらない。
もう、何もかもいらない。
晏人が帰宅するとき、家はがらんとしていた。
桃恵はソファに座り、ぼんやりとしていた。
「家の中、どうした?俺のスリッパは?俺たちの写真は?」
桃恵は我に返り、静かに答えた。「最近、断捨離が流行ってるでしょ?うちの物も、もう七年だし、そろそろ新しいものに変えようかなって。全部、古いのは処分したの」
言葉には、二重の意味が込められていた。晏人の足が一瞬止まったが、すぐに何事もなかったかのように振る舞った。
彼は桃恵の隣に腰を下ろし、優しく抱きしめた。「桃恵が変えたいものは、何でも変えていいよ。でも、俺だけは変えないでね」
桃恵はかすかに口元を歪めた。
「このカードで、好きなもの買っていいから」
「結構よ」
晏人はこれまでにも何枚もカードを渡してきたので、桃恵の拒否にも深く気にしなかった。
しばしの沈黙の後、晏人はふと思い出したように寝室に向かい、引き出しを探し始めた。
「桃恵、俺にくれたペアのビーズの絵は?」
「それも、捨てた」
晏人は理由もなく胸騒ぎを感じ、急いで桃恵の前に戻った。「あれはお前が自分の手で作ってくれた大切なものだろ、桃恵」
桃恵は晏人を見上げ、瞳の端を伏せ、何も言わなかった。
晏人は見透かされそうな気がして視線を外し、上着を手に家を飛び出しながら言った。「他はいい。でも、あれだけはダメだ。探してくる」
「下のゴミ置き場に捨てたから、もう回収されたかも」桃恵は淡々と告げた。
「ダメだ、桃恵!あれは、俺たちが一緒になって初めてお前がくれたプレゼントなんだ。大切な思い出だから、捨てられないんだ」
桃恵はもう止めなかった。
彼女は暖かな寝室の窓から、雪の中、ゴミ収集所で必死に探し物をする晏人の背中を見つめていた。
今年の浜市には、珍しく雪が降った。
晏人は吹雪の中、誰にも頼らず自分の手で探し続け、二時間近くが経って、ようやくビーズの絵を見つけ出した。
彼は桃恵の視線に気づいたのか、ビーズを手に取ると彼女の方を見上げ、遠くから目を合わせた。
ビーズを高く掲げ、眉を下げて笑うその姿は、まるで褒めてもらいたい子供のようだった。
桃恵の心に複雑な感情が渦巻く。
晏人、私を愛してくれたあなた、私を裏切ったあなた、どちらが本当のあなたなの?
だがもう、答えを知りたいとは思わなかった。
桃恵は微笑み返さず、そっとカーテンを閉めた。
その晩、晏人は実家からの電話を受けた。「今度の週末、家族の夕食会がある。ちゃんと来い」
晏人はソファに座る桃恵を見やりながら、眉をひそめた。最近の桃恵はずっと元気がなく、会話もどこか淡白で、痩せてしまった。
「最近、桃恵の体調が良くなくて……俺が家で食事を作ってあげるから、今回は欠席したい」
「馬鹿者!家族の集まりをそんな理由でサボるつもりか!桃恵が来なくても、お前は絶対来い!」
「だから、俺が桃恵のこと看病したいんだ!」
「お前は……」
桃恵がそっとスマホを取り上げ、優しく言った。「お父さん、週末は出席します。怒らないでください」
桃恵が話すと、晏人もそれ以上は何も言わなかった。
電話を切った後、晏人は言った。「無理に行かなくていいのに。こんな家族会、一度くらい欠席しても大丈夫だよ」
「でも、お父さんを怒らせる必要もないわ」桃恵は答えた。
本当は、悠香を城ヶ崎家に迎え入れたとき、他の家族が晏人と悠香の関係を知っていたかどうか、桃恵には分からなかった。
けれど、長年世話になった城ヶ崎家への恩義を思えば、去る前に騒ぎを大きくしたくはなかった。
ただ、彼女はまだどこかで、晏人が全てを隠し通してくれていることを、かすかに願っていた。
第6話
週末、家族会が始まる前に、晏人の祖母が桃恵をそっと自分の部屋へ呼び寄せた。
タンスの奥から、大切そうに翡翠の腕輪を取り出し、桃恵の手首に優しくはめてくれる。「桃恵、これ、あげるわ」
桃恵は下を向いてその腕輪を見つめる。内側には小さく「永遠の絆」と彫り込まれていた。
「これはね、代々嫁ぐお嫁さんにだけ受け継がれてきたものなのよ。桃恵、これからもあの子が何かしたら、すぐにおばあちゃんに言いなさい。絶対に桃恵の味方だからね」
桃恵は唇をぎゅっと結び、少し潤んだ瞳で静かに頷く。「ありがとう、おばあちゃん」
宴の席で、晏人の父が突然、浜市の海沿いの別荘を桃恵に贈ると発表した。「桃恵、あの別荘は海が見えて気持ちがいいから、もし気分が落ち込んだときは、何日か泊まってリフレッシュしなさい」
晏人の母も負けじと声をかける。「桃恵、この新作の限定バッグ、好きなのがあれば持っていっていいのよ。今度、永楽(えいらく)モールが完成したら、一緒にショッピングでもしよう」
家族の温かい気遣いに、桃恵は戸惑いを隠せなかった。
この家の誰ひとり、晏人と悠香のことを知らないのだと、改めて痛感する。
だけど、もうすぐ自分はここを去るのだ。
晏人からの裏切りを、この家族の優しさだけで許せるほど、桃恵の心は軽くなかった。
胸に積もった想いが重くて、息苦しくなった桃恵は、「少し疲れたので……」と言って、先に部屋へ戻った。
どれくらい眠ったのかわからない。ぼんやりと目覚めた桃恵は喉が渇き、水を飲もうと階下へ降りようとした。
そのとき、階段の踊り場から、リビングの悠香の姿が見えた。彼女は堂々と晏人の隣に座っている。
「もう何ヶ月目?」と祖母が尋ねる。
「もうすぐ四ヶ月です」と、悠香は可愛らしく答えた。
「医者に確認したの?本当に晏人の子なのかい?」
桃恵の息が止まりそうになる。
悠香が妊娠していることは、表向きには晏人の従兄の子どもだとされていたはずだった……
晏人が静かに答える。「うん、間違いなく俺の子だ」
その夜の浜市には、激しい雨と雷が轟いていた。雷鳴が桃恵の心を貫いた。
「産めばいいさ」と父が言う。「城ヶ崎家は誰一人、女も子供も養いきれないような家じゃない。西郊外の別荘は環境もいいし、しばらくそこに住みなさい」
悠香は素直に鍵を受け取った。「ありがとうございます、お父様」と微笑む。
母はお茶を飲みながら、「この子、物静かで欲張らないし、そりゃあ晏人が気に入るのも分かるわ」と呟いた。
「私は……本当に晏人のことが好きなんです。ただ一緒にいられるだけで十分。ほかのことは、望みません」
その言葉に、晏人は満足そうに悠香を抱き寄せた。まるで戦に勝利した王のような眼差しで、彼女の額にキスを落とす。「いい子だ、先に部屋で待ってて。あとで行くから」と囁いた。
悠香は素直に立ち上がり、もう片方の階段から自分の部屋へと消えていった。
「おばあちゃん、父さん、母さん、これでいいよな?」と晏人が尋ねる。
祖母は杖で床を軽く叩く。「私はもう年だし、若い者のことには口出ししない。ただ、早く曾孫の顔を見たいのよ。桃恵は体が弱くて、何年もかけて治療してるのに、まだ難しいみたいだから……産めないなら、他の人が産めばいいわ」
母も頷いて、「おばあちゃんの言うとおりよ」と賛同した。
「女が何人いようと構わんが、結婚するのは桃恵だけだ、わかったな?」と父が晏人の肩を叩いた。
「そうだよ。絶対に桃恵と結婚しなきゃダメだ。蘇田家への義理のためだし、我が城ヶ崎家の名誉のためでもあるから、それに悠香の家柄じゃ…」
晏人は静かに約束した。「大丈夫。他の人と結婚するつもりはない。どんなことがあっても、一番愛しているのは桃恵だ。全部ちゃんと隠すから、安心して」
一番愛している、だって?晏人、その愛はどれほど尊いものなの?
私はあなたに「一番愛してもらえて」感謝しなきゃいけないの?
桃恵は今自分が立っていることさえ不思議に感じた。
自分の未練も、罪悪感も、迷いも、結局は滑稽なだけだった。
みんな知ってた。みんな、彼女を騙してた。
桃恵は両手で口を押さえ、ようやく嗚咽を堪えた。
第7話
桃恵は部屋に駆け戻ると、洗面所の冷たい床にうずくまり、壁にもたれて震えていた。
トイレにしがみつき、何度も吐きそうになりながら、胃の奥が焼けつくような痛みに耐えていた。
あの夜のことが、波のように脳裏をよぎる。
酒に酔った晏人が部屋の扉を乱暴に開け、容赦なく彼女を押し倒した。どんなに抵抗しても、桃恵は逃れられなかった。
晏人の口からは「桃恵」と繰り返し呼ぶ声が漏れていた。
だが桃恵にはわかった。晏人の心は、彼女ではない誰かに向いているのだと。
優しくて、大切にしてくれるはずの晏人。そんな人が、こんなひどい仕打ちをするはずがない。
晏人に裏切られた。桃恵がそう思ったのは、あの夜が初めてだった。
そのあと、桃恵は念のために緊急避妊薬を飲んだ。
だがまさか、その薬のせいで、子宮外妊娠になるなんて思いもしなかった。
手術のあと、医者は淡々と告げた。「蘇田さん、あなたの体では、今後の妊娠は難しいかもしれません」
それなのに今、悠香が新しい命をその身に宿し、家族みんなから祝福されている。
心も体も切り刻まれるような痛みが、桃恵を意識の淵まで追い込んだ。
意識が遠のくその瞬間、晏人が血相を変えて駆け寄ってくるのが見えた。
「桃恵!」
目を覚ますと、晏人が枕元にいた。家族も、かかりつけの医者も、みんな部屋に集まっていた。
晏人の顔には疲れがにじみ、赤く充血した目が、夜通し眠れなかったことを物語っていた。
みんなの心配そうな言葉も、桃恵には空々しく響くだけで、答える気になれなかった。
気まずい沈黙を、隣の部屋から響いてきた悠香の叫び声が破った。
「痛い、痛いよ……」
集まっていた家族は次々と桃恵の部屋から去り、隣の部屋へと駆けていった。
桃恵は真っ白な天井を見つめ、もう涙も枯れていた。
その後、晏人だけが戻ってきて、「みんなが兄さんの忘れ形見を大事にしすぎて、少し神経質になってるだけなんだ」と、どこか言い訳のように説明した。
桃恵は無表情のまま、うなずくこともせず、ただ黙って聞いていた。
自分が欲しかった家、信じていた家族。それはまるで幻のようで、触れればすぐに壊れてしまうガラス細工だった。
自分が、ただの夢見がちだっただけ。もう二度と、期待なんてしない。
第8話
桃恵が浜市を離れるまで、あと一週間。
ある日、社長秘書を名乗って悠香が突然訪ねてきた。
腕を組み、どこか勝ち誇ったような態度で、桃恵の目の前に立つ。「もうとぼけるのやめたら?晏人が浮気してるの、あなた気付いてるんでしょ?
彼が本当にあなたを愛してるとでも?世間体がなきゃ、あなたみたいな没落した家の娘と結婚するわけないじゃない。
お嬢様ごっこはそろそろやめて、晏人から身を引きなさいよ!捨てられて、もっと惨めになる前にさ。
それに、私のお腹には晏人の子がいるの。あなたは、もう子供を望めないんじゃなかった?
晏人が私に心移りしたのも、仕方ないわよね。ベッドの中でも、私にはとても情熱的だけど……あなたには、きっと何の反応もないんでしょ?」
桃恵は、湧き上がる感情を必死に抑え、手にしていたお茶を静かに置いた。そして、悠香の前に立ち、無言で彼女の頬を打った。
「な、なによ、私を叩くなんて!」悠香は頬を押さえて叫ぶ。
桃恵は一切答えず、すぐに警備員を呼ぼうとした。
その時、晏人がドアを押し開けて入ってきた。
晏人の声を聞くや否や、さっきまで強気だった悠香は、急に大人しくなり、うつむいて涙声を作ってみせた。
「蘇田さん、私、何か気に障ることをしましたか?ただ、社長のために書類を取りに来ただけなのに、どうして叩かれなくてはいけないんですか?」
晏人の顔がみるみるうちに複雑な色に変わる。彼は桃恵を見て、どこか焦ったような表情を隠せない。
「桃恵……これは……」
「私が叩いたの。何か問題でも?」桃恵は晏人をまっすぐ見据えた。
「いや、何も……桃恵がそうしたなら、それだけの理由があるはずだ」晏人は桃恵の隣に立つと、今度は悠香を鋭い目つきで睨みつける。「誰の許可でここに来た?桃恵を不快にさせて、何泣いてんだよ!」
「晏……社長……」
「出ていけ。二度とここに来るな!」
悠香は警備員に連れられ、部屋を後にした。晏人は何度も桃恵に、なぜ悠香を叩いたのか聞こうとしたが、桃恵は適当な理由を言った。「彼女、私のインテリアのセンスをバカにしたの」
そんな苦しい言い訳にも、晏人はあっさり納得した。「それは腹立つよな。だって、桃恵のセンスは最高なんだから」
桃恵は心の中で冷たく笑う。
本当にセンスが良ければ、晏人なんて選ばなかったのに。
悠香が余計なことを言っていないのを確認すると、晏人は「まだ仕事がある」と慌ただしく出て行った。
桃恵は彼を追わず、そっと後ろ姿を見送った。案の定、少し離れた場所で悠香が晏人を待っていた。
晏人は、悠香の打たれた頬に優しくキスをし、甘い言葉を囁いてから、二人で仲良く車に乗り込んでいった。
心が痛みすぎて、もう何も感じない。桃恵は涙をこらえ、静かに家へと帰った。
それから二日後。
晏人は記者会見を開き、「この街最大の和菓子体験型ショップ――桃恵堂(ももえどう)を、誕生日に合わせて見川岸辺(みがわきしべ)にオープンする」と発表した。
その日、彼は恋人の桃恵と共にオープニングセレモニーを行うとメディアに言いきった。
そのニュースを見ながら、桃恵は晏人への誕生日プレゼントをそっと見つめる。
晏人、恋人の桃恵と共になんて、あなたがもうできないはず。せいぜい驚きなさい、私からの最後の誕生日プレゼントを。
第9話
仕事に追われる日々、そして密かな浮気に明け暮れる晏人は、家に帰る時間すらほとんどなかった。
その一方で、桃恵は家で晏人と悠香の写真を何通も受け取っていた。
それは悠香の差し金だった。
愛なんて、演じることもできる。好きな人への仕草も、結局どれも似たようなもの。
晏人は遊園地を貸し切り、悠香を連れ出して楽しませていた。それはちょうど桃恵が十六歳の誕生日に、晏人からもらった思い出のサプライズと同じだった。
桃恵は、何年も前から自分と晏人のために写真を撮ってくれていたカメラマンに連絡し、全てのネガを処分してもらった。もちろん、あの遊園地での写真もすべて。
晏人と悠香は神社で縁結びの錠を掛けた。それもまた、かつて二人の交際二周年の記念日に、晏人が桃恵と一緒にやったことだった。
桃恵は丸一日かけて、昔晏人と二人で願いをかけた錠前を探し出した。
そこには「晏人と桃恵、末永く離れず」と彫られていた。
長い年月の風雨に晒されて、文字はかすんでいた。桃恵は鉄ノコを借りてその錠前を切り落とし、刻まれた誓いを何度もなぞって削り取った。
宇宙で回り続けるレコードだけ、桃恵にはどうすることもできなかった。
この世に残された、愛し合った証拠という証拠を、桃恵はできる限り消し去った。
桃恵は、送られた写真の束をきちんとまとめて、晏人に渡す誕生日プレゼントのボックスにそっと収めた。
去る前夜、珍しく晏人が家に帰ってきた。
「うん、私が言った通りにして。明日……」
「明日、何だ?」不意に晏人が桃恵の背後に現れた。
桃恵は一瞬驚いたが、すぐに電話を切って振り返る。「なんでもないよ。明日、あなたの誕生日でしょ?サプライズを用意したから、もう聞かないで!」
晏人は優しく微笑み、桃恵の髪にキスを落とす。「わかった、もう聞かないよ」
「今日はどうして早く帰れたの?」
「明日は桃恵堂のオープニングだから、細かいところ、ちゃんと話しておこうと思って。それと、一番有名なヘアメイクさんも予約したんだ。最高に綺麗な桃恵を皆に見せたいから」
晏人の目は、まるで自分の最高傑作を見つめるように、桃恵に注がれていた。
だが、もう桃恵はその視線に溺れることはなかった。
「晏人、私たちもう七年以上一緒にいるけど、私、あなたに何か裏切るようなこと、したことあったかな?」
晏人の心臓が一瞬止まる。なぜそんなことを聞くのか、理由がわからなかった。
「あるわけないよ。桃恵」
「じゃあ……あなたは?私を裏切るようなこと、しない?」
「絶対にしない」晏人は即答する。「俺が愛してるのはお前だけだ、絶対に裏切ったりしない」
その瞬間、桃恵は気づいた。晏人の約束や誓いは、自分のためじゃなく、彼自身を納得させるためのものなのだと。
彼は、自分に言い訳をしているだけだ。
愛してるのが桃恵なら、たまに他の子と遊んだり、キスしたり、ベッドを共にしたって問題ない、と。
桃恵は静かに微笑み、淡々とした目で言った。「別に裏切ったなんて言ってないのに、どうしてそんなに慌てるの?」
「桃恵、信じてくれ、な?」
桃恵は何も言わなかった。
晏人は、最近の桃恵の様子がどこかおかしいことに気付いていた。しかし、どれだけ見ても、桃恵が真実を知っているようには見えなかった。もし本当に知っていたなら、泣き叫んだり、責めたりするはずだ。
いや、万が一桃恵が本当に知っていたなら、その時は即座に悠香と手を切り、ひざまずいて桃恵に許しを乞うつもりだった。
晏人は桃恵を強く抱きしめる。
絶対に手放せない、愛しい人。
その時、スマホが鳴った。
画面をちらりと見ると、悠香からのメッセージだった。
【脚、見てみたい?晏人~】
【写真】
【待ってるね~】
晏人は慌ててスマホを閉じ、桃恵が何事もなかったようにお茶を飲んでいる様子を見て、探るように口を開く。「桃恵、今夜は会社でオープニングの最終確認があるから、もう帰ってこられないんだ。明日の式で会おう?終わったら、しばらく休み取って、ずっと一緒にいるから」
一緒にいる?誰と?もう、勝手にすればいい。
桃恵は手の中のカップをぎゅっと握った。
「うん、行ってらっしゃい」そう、にっこりと微笑んで答えた。
第10話
晏人の誕生日の朝、彼は悠香の隣で目を覚ました。
二人の体には、昨夜の熱がまだほのかに残っていた。
晏人はちらりと時計を見て、静かに身を起こそうとしたが、悠香にぎゅっと抱きしめられる。
「晏人、私、本当にあなたを愛してる。お願いだから、桃恵と結婚しないで。私も、私たちの子も、あなたがいなきゃ生きていけないの……」
「悠香……」晏人は彼女の手を握りしめた。「これ以上は求めるな。お前に与えたものはもう十分だ。正妻の座まで望むべきじゃない」
「でも、私たち、こんなに心も体も通じ合ってるじゃない!桃恵にできることは、私にも全部できる。桃恵ができないことだって、私ならできる!」
晏人は深く息をつき、まるで自分自身に言い聞かせるように、静かに言った。「悠香、俺がお前に抱いているのは愛じゃない。俺が本当に愛しているのは桃恵だけだ。この人生で、俺が妻にするのは彼女だけだ」
「どうしてそんな酷いこと言うの、晏人。私は、ずっとあなたのそばにいたのに……心が……痛いよ……」悠香の声は震え、今にも涙がこぼれそうだった。
晏人は少しだけ心が揺れ、強く悠香にキスをして、まるで子猫をあやすように優しく囁いた。「もう、泣くな。いい子にしてくれたら、俺はお前を見捨てたりしない」
彼は悠香をなだめきったと思うと、すぐに身支度を整え、桃恵堂へと向かった。
今日は、ただのオープニングセレモニーではない。晏人が桃恵にプロポーズする、特別な日でもあった。
この日のために、晏人は年初から準備を重ねてきた。手土産の包装紙から店内レイアウト、内装の細部に至るまで、すべて自分で目を通し、決めてきた。
桃恵に、浜市中の誰もが羨むような幸せを贈りたいって。
式が始まる二時間前、各メディアが現地に集まる。
晏人は桃恵の携帯に電話をかけた。
「もしもし、桃恵、俺が選んだドレス、気に入ったか?」
黒いドレス姿でキャリーケースを引きながら、桃恵はエレベーターに乗り込んでいた。
「うん、すごく素敵よ」
「メイクは?お前の好きな感じにできてる?」
桃恵は黒いサングラスをかけ、ほぼノーメイクで答える。「ええ、いい感じ」
「ハニー、早く会いたいよ。なんだか今日は、俺が世界一幸せな男になれる気がする!今夜は、お前が用意してくれたプレゼントを一緒に開けような!」
桃恵は黒のビジネスカーに乗り込んだ。「私も、今夜を楽しみにしてるわ、晏人」
電話を切ると、車は静かに発進した。
そして、プロポーズ会場。川面に夕陽が差し込むタイミングで、晏人はスタッフに合図を送った。
バラ、指輪、桃恵が大好きなデザートと音楽。
だが、リハーサル通りに美しい主役は現れなかった。
代わりに響いたのは――
「城ヶ崎社長!蘇田さんが……交通事故で亡くなりました……」