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君といた、朝露と蛍火の頃
高級オートクチュールドレスに、ほんの少し触れただけだった。それだけで早川咲良(はやかわ さくら)の母は、手足を折られ、海へ突き落とされ...
Chương (1)
第1章
高級オートクチュールドレスに、ほんの少し触れただけだった。それだけで早川咲良(はやかわ さくら)の母は、手足を折られ、海へ突き落とされ、命を奪われた。
そして、娘である咲良が傲慢な令嬢を告訴したその日。法廷で下されたのは――まさかの無罪判決だった。なぜなら、被告側の弁護人は、水原市で敵なしと名高い大手法律事務所の創設者にして、咲良の夫――久我慎也(くが しんや)だったからだ。
裁判が終わると、端正で品のあるその男は、静かに被告席を離れ、咲良の目の前に一通の謝罪文を置いた。
「咲良、これにサインしてほしい。名誉毀損で訴えられて、牢に入るなんて君だって望んでいないだろう?」
声音はあくまで穏やかだった。まるで彼女のことを気遣っているかのように。だが、金縁の眼鏡の奥で光るその目は、冷たく、鋭かった。
涙で潤んだ瞳で彼を見上げながら、咲良はかすれた声で問いかけた。「……どうして、慎也?」
第1話
高級オートクチュールドレスに、ほんの少し触れただけだった。それだけで早川咲良(はやかわ さくら)の母は、手足を折られ、海へ突き落とされ、命を奪われた。
そして、娘である咲良が傲慢な令嬢を告訴したその日。法廷で下されたのは――まさかの無罪判決だった。なぜなら、被告側の弁護人は、水原市で敵なしと名高い大手法律事務所の創設者にして、咲良の夫――久我慎也(くが しんや)だったからだ。
裁判が終わると、端正で品のあるその男は、静かに被告席を離れ、咲良の目の前に一通の謝罪文を置いた。
「咲良、これにサインしてほしい。名誉毀損で訴えられて、牢に入るなんて君だって望んでいないだろう?」
声音はあくまで穏やかだった。まるで彼女のことを気遣っているかのように。だが、金縁の眼鏡の奥で光るその目は、冷たく、鋭かった。
涙で潤んだ瞳で彼を見上げながら、咲良はかすれた声で問いかけた。「……どうして、慎也?」
彼女には、どうしても理解できなかった。
自分こそが、彼の妻だったはずなのに。彼は自分を、誰よりも愛してくれていたはずなのに。
彼はかつて、一家の財産を捨て、久我家に軟禁されながらも、元は介護士だった自分を選んでくれた。
なのに、母が亡くなったあと、彼女は何度も泣いて縋った。今日の朝に至っては、九十九度目の嘆願だった。彼の足元に膝をつき、離婚すら持ち出して、どうかこの裁判だけは手を引いてほしいと願った。
だが、彼の返事はこうだった。
――「咲良、俺を追い詰めないでくれ」
苛立ったようにネクタイを緩めながら、慎也は静かに言った。「玲奈は違うんだ。彼女は十年も俺を想い続け、命まで救ってくれた」
「だから俺は、守らなきゃいけない。たとえ相手が、世界でいちばん愛してる妻であっても」
そう言うと、彼は手にしていたタブレットを操作し、画面を咲良に突きつけた。
「考える時間は二分。……自分のためじゃなくても、お母さんのことを思って、サインしてくれ。そうしたら、お母さんの遺骨を返す」
その画面の中では、海の上で、数人の屈強な男たちが檀木の骨壺を掲げている。その手が緩めば、骨壺は海に――
咲良の目から、涙が溢れ出た。「……あなた、本気なの?」
彼は眉ひとつ動かさず、冷ややかに言い放った。「無駄なことはやめよう。君の母さんが、ずっと海に沈んだままでいいのか?」
「慎也っ!」咲良は彼を睨みつけ、唇を血が滲むほど強く噛みしめた。「……私はあなたと離婚する」
けれどその言葉にも、彼の表情は変わらなかった。
「残り、三十秒だ」
その瞬間、咲良の心臓は、何本もの針で刺されたような痛みに襲われた。
――なんて、皮肉なんだろう。この男も、かつては彼女を命よりも愛していたのに。
八年前、慎也は咲良に一目惚れをした。
当時、咲良は慎也の祖父の介護士であり、身分差は天と地ほどあった。それでも彼は、百回にも渡って想いを伝えた。
彼女がキキョウの花を一瞥しただけで、庭のバラをすべて植え替えたこともあった。
足を捻った彼女のために、病院のワンフロアを丸ごと貸し切ったこともあった。
そして、あの頃、彼女は知った。慎也の背後には、幼なじみの令嬢・白石玲奈(しらいし れいな)の存在があることを。彼女は財閥の娘であり、彼を一途に想い続けていた。
けれど慎也は、決して目移りしなかった。
――「咲良、俺が愛してるのは君だけだ。玲奈と釣り合うかどうかなんて、関係ない。彼女には嫌悪しか感じないよ」
久我家は、そんな息子を諦めさせようと彼の持ち株を取り上げ、さらには海外の孤島に強制的に送り込んだ。
それでも慎也は、二十日間の絶食という手段で周囲を屈服させた。咲良の心をも完全に打ち抜いた。
そして、ふたりは結婚した。慎也は、言葉通り彼女を命よりも大切にした――
半年前、すべてが変わるまでは。
長らく海外にいた玲奈が、突然帰国したのだ。
彼は国際会議をキャンセルしてまで空港に迎えに行き、三日間家に戻らず、彼女のために豪華な帰国パーティーを開いた。
咲良が悲しげに見つめる中、彼はこう言った。「一年前、俺はイギリスで事故に遭った。……玲奈は俺を助けて、丸一年昏睡状態だったんだ」
「咲良、俺が愛してるのは君だけだ。けど、彼女には借りがある。……一年だけ、時間をくれないか」
咲良は、その言葉を信じた。
だが、玲奈の帰国パーティー当日。咲良は持病の発作で倒れ、緊急搬送された。何度連絡しても、慎也とは繋がらなかった。
連絡がつかず、やむなく咲良の母が代わりに会場の豪華クルーザーまで向かった。
……そしてそのまま、帰ってこなかった。
誰もが「自殺だった」と口を揃えた。
現場にいなかった慎也さえも、その説を信じてしまった。
だが、救急室から出た直後、咲良は、一本の電話を受けた。電話の向こうから聞こえたのは、混乱した騒音、玲奈の怒声、そして、母の悲鳴だった。
――母は、殺された。誰かに追い詰められ、海に落ちたのだ!
この半年、咲良は自責と悲しみに押し潰されながら、それでも必死に証拠を探した。ようやく一人の元乗組員から証言を得ることができた。
そして慎也に、何度も何度も助けを求めた。
けれど彼は、咲良の願いを突き放し、母を殺した張本人を守る側についた。
彼は、母を殺した相手をかばい、証言するどころか、咲良を逆に追い詰めた。「謝罪文」へサインするよう迫り、挙句の果てには母の骨壺を利用して脅してきたのだった。
目の前の男が、まるで地獄からやってきた悪魔のように思えた。
絶望と諦めの中、咲良は震える指で、謝罪文にいびつな署名をした。
「……これで満足でしょ。早く、海から引き返させて」
かすれた声で言い終わるより先に、法廷内がざわめいた。
玲奈が突然、頭を抱えてうずくまったのだ。「慎也……助けて……また、頭が……」
その瞬間、慎也はタブレットを放り出し、彼女のもとへ駆け寄った。
だが画面の向こうでは、すでにカウントダウンが終わっていた。命令がなかったため、護衛たちは骨壺を開け――
「やめて!サインしたじゃない!慎也、早く止めて!」
咲良が叫んでも、彼女の言葉に誰も耳を貸さなかった。
彼の心は、玲奈しか見えていなかった。咲良を押しのけ、彼女を抱えて法廷を出ようとした。
彼の肘が咲良にぶつかり、彼女は床に倒れ込んだ。額が机の角にぶつかり、タブレットの上に涙が落ちていった。
遅かった。
船の上から、母の遺骨が撒かれていく。冷たい海風にあおられ、灰は波の中へと消えていく――
心を引き裂くほどの後悔と絶望が、咲良を飲み込んだ。
母は、寒いのが苦手だった。冷たい海が、大嫌いだった。そんな場所に、彼女を閉じ込めてしまった。
「……ごめんなさい、お母さん……」咲良は泣き崩れた。
ああ、どうしてあの男を愛してしまったのか。どうして彼と、結婚なんかしてしまったのか。
後悔の鐘が、頭の奥でひたすら鳴り響いた。
視界がぐらりと揺れ、世界が暗く沈んでいく――耳に届いたのは、遠くで聞こえる彼の声だった。
「玲奈、頑張れ……お願いだから、君が元気でいてくれれば、俺は何だってする!」
第2話
目を覚ましたとき、そこは病院だった。
ベッドの傍らには、若いパラリーガルが立っていた。彼は困ったように眉を寄せながら言った。「咲良さん……この案件はすでに確定しています。あまりご無理なさらず、まずはご自身のお身体を大事にしてください」
咲良は、胸の奥に残る痛みに意識を引き戻され、腕に刺さった点滴も構わず、がばりと身を起こした。すぐにバッグを開け、必死で中身をかき回した。
「これ……この離婚届、有効か見てもらえますか?」手が震え、声もかすれたまま、ようやく取り出した書類を差し出した。
相手は素早く内容を確認し、うなずいた。「咲良さん、ご主人の慎也さんの署名がすでにあります。あとはあなたが署名して提出すれば、一ヶ月後には正式に離婚が成立します」
──今朝、咲良はこの書類を持って、慎也の前にひざまずいた。
あまりに急いで家を出たせいか、あるいは、まさか本当に彼女が離婚を望んでいるとは思わなかったのか――
彼は一瞥すらくれず、「偽物だろ」と決めつけたまま、すんなりとサインした。
だけど彼は、永遠に知ることはないだろう。
彼女の言葉が、全部、本当だったということを。
咲良は一刻も無駄にしたくなかった。自ら針を引き抜くと、すぐさま水原市の市役所に向かい、離婚届を提出した。
手続きを終えたあと、彼女は最後に海辺へ向かった。冷たい霧雨のなか、波打ち際で真っ直ぐ膝をついた。「お母さん……これからは、海のある場所に行くね。ずっと、あなたのそばにいるから」
返ってくるのは、冷たい潮風だけだった。
どれほどそこにいたのか、わからない。ようやく咲良は濡れた頬をぬぐい、震える指で電話をかけた。「……すみません、死亡偽装サービスの予約をしたいのですが」
その声には、決意しかなかった。「一ヶ月後、死因は他殺としてください。場所は私が用意します。あなたたちは、新しい身分を整え、私を国外へ送ってくれればいいです」
──そう、彼女はただ離婚するだけじゃない。
一ヶ月後、必ず自分の手で真実を暴き、慎也に生涯忘れられない贈り物を残すつもりだった。
すべてを終えて別荘に戻った頃には、すでに夜になっていた。
リビングには灯りがともり、慎也が椅子に腰かけ、スープを玲奈の口へ運んでいるところだった。
「慎也、あの謝罪文、ネットに載せたわ」
玲奈はそう言うと、甘えるように彼の肩にもたれかかった。「咲良、ずっと私を誹謗してきたから、ネットで少し炎上しても、自業自得だよね?慎也はもう何もしないで」
慎也は喉仏を動かし、少し間をおいてうなずいた。「……ああ、過ちを犯したなら、罰は受けるべきだ」
その瞬間、咲良はふとネット上で見たあふれる罵倒を思い出す。【母親が死んで当然】【所詮ただの下働きの女、令嬢の足元にも及ばない】――
胸がチクリと痛み、表情を変えることなく、リビングへ足を踏み入れた。
「どこに行ってたんだ?」
彼女の顔色を見た慎也が少し驚き、声の調子が柔らかくなる。「……おでこの傷、どうした?」
咲良は応えなかった。
代わりに玲奈が甲高い声で話題をそらした。「咲良、ちょうどよかった!お土産買ってきたんだ、見て見て!」
慎也が小さく咳払いしながら、少し迷いのある表情で言った。
「咲良……玲奈は長く昏睡していたから、しばらくここで療養させるよ。気を配ってやってくれ。あいつは乳糖不耐症だから冷たいものはダメだし、美容のために十時まで寝る必要がある。それに果物もジュースにしてから飲ませてやってくれ……」
その一言一言が、咲良の心に突き刺さった。まるで彼女が……彼女が専属の世話係だとでも言うように。
咲良は冷たく笑った。「……私に、彼女の世話をしろってこと?」
「言うことをきいてくれ、咲良。昔のことはもう水に流そう。君はうちで介護士をしてたから、安心して任せられるんだ」
──言葉の続きを、慎也自身が飲み込んだ。
ダイニングテーブルの脇には、世話マニュアルと称された、267項目ものリストが並べられていた。
床には無造作に投げ捨てられたブランド品の紙袋、擦り傷のついたシャネルのポーチ、おまけで付いてきたエルメスのキーホルダー、明らかに使用感のあるディオールのヒール……
彼女への「お土産」とは、結局、ゴミ同然の残り物だった。
咲良はふと、昔のことを思い出した。かつて慎也の親友が、自分を「下働きの女」と呼んだだけで、慎也は激怒し、その夜、相手の数十億円規模の案件を強引にストップさせた。
──「咲良は俺の妻だ。彼女を貶めるのは、俺への侮辱と同じだ!」
……それが、今ではどうだ。自らの手で、母を殺した相手の身の回りの世話まで、自分に押しつけているんだ。
「愛してる」「一生守る」なんて言葉は、なんて脆くて儚いのだろう。
──もう、二度と信じない。
目の奥に湧いた涙を、咲良は必死にこらえた。残された三十日間、何があっても、すべて耐えてみせる──
……だがその夜、玲奈が突如として悪夢にうなされ、騒ぎになった。
裸足のまま主寝室に駆け込むと、慎也はちょうどシャワーを終えたところだった。
「慎也、ひとりじゃ眠れないの」玲奈はか細く甘ったれた声でそう言いながら、躊躇なく彼の裸の胸元に飛び込んだ。「ゲストルームのマットレスは硬くて眠れないの。怖いの……一緒に寝て?」
慎也の整った眉がわずかに動いた。
咲良にはわかった。──彼の感情は揺れ動いたのだ。
その証拠に、彼女が目の前にいるにもかかわらず、玲奈を抱き上げ、大事そうに膝に乗せて彼女の背中を優しく撫でていた。
そしてダブルベッドの左側を見ながら、こう言った。「咲良……玲奈はこれまで苦労を知らずに育ってきたんだ。だから……君は他の部屋で寝てくれないか?」
その瞬間、玲奈の顔にほんの一瞬、勝ち誇ったような表情が浮かんだ。
咲良は小さく笑い、枕を手にベッドから下りた。
「気に入ったなら、このベッドも、どうぞ好きにお使いください」
──そう、主寝室も、このベッドも。そして、あの男も、彼女にとっては、もう必要のないものだった。
第3話
その後の数日間、慎也が毎晩そばにいてやったおかげで、玲奈はみるみる元気を取り戻した。退屈すると、たまに女友達を呼んで、優雅にアフタヌーンティーまで楽しむほどだった。
「ねえ玲奈、慎也さんってやっぱりあなたのこと、ずっと想ってたんだよ。あなたが昏睡してたあの一年、彼、しょっちゅうイギリスまで飛んで来てたの。しかもさ、『玲奈が目を覚ますなら、妻と離婚してもいい』って神様に誓ったらしいわよ?」
咲良はちょうどその言葉を耳にしてしまった。胸の奥に、鋭いナイフで切り裂かれたような痛みが走る。
慎也の姿はなく、玲奈ももう仮面を被る気すらないのか、わざとらしく鼻を鳴らして咲良を呼び止めた。「咲良、このコーヒー……まるで出がらしみたい。見てるだけで気持ち悪くなりそうなんだけど?」
咲良は無表情のまま、黙ってカップを手に取ろうとした。だがその手首を、誰かが乱暴にひねり上げた。
「ちょっと何その態度?玲奈のお世話係のくせに、玲奈を気分悪くさせるなんて最低。土下座して謝りなさいよ、ほんとムカつく女!」
玲奈の目配せを受けた女友達の一人が、怒鳴り声を上げた。
咲良が反応する間もなく、その女に髪を掴まれ、直後、熱々のコーヒーが咲良の顔に向かってぶちまけられた――
「やめろ!」
その瞬間、玄関から低く怒鳴る声が響いた。帰宅したばかりの慎也が、冷たい顔で駆け寄り、咲良を背後にかばうように立ちはだかる。
「誰が彼女に手を出していいって言った?」
怒声が飛んだ次の瞬間、玲奈はまるでスイッチを切り替えたように、目に涙を浮かべ、腹を押さえて苦しげに身を縮める。
「ちがうの、聞いて慎也!……彼女たちを責めないで、全部、私のためなの。咲良が、私のコーヒーに乳製品を混ぜたの。だから……お腹がすごく痛くて!」
慎也の動きがぴたりと止まった。彼の目が、咲良に向けられる。その視線は、冷たい氷のように突き刺さった。
乳製品?
「咲良……俺、ちゃんと言ったよな。玲奈は乳糖アレルギーなんだって」
……なんて滑稽だろう。彼女をかばっていた男が、たった一言の嘘で手のひらを返すなんて。
「私はやってない!彼女、嘘をついてるの!」熱いコーヒーが髪を滴らせる中、咲良の声は震えていた。
けれどその声は、玲奈の完璧な演技と、彼女の友人たちによる見事な「証言」にかき消されていった。
慎也は怒りを爆発させ、テーブルの上のカップを叩き割ると、玲奈をひょいと抱き上げた。「咲良、君はここで頭を冷やせ!」
それでも玲奈はまだ満足しなかった。潤んだ瞳で慎也を見上げ、震える声で訴えた。「……病院なんて行きたくない。こんな風に人にいじめられたの、初めてなの。……もう耐えられないよ、慎也。いっそ、このまま死なせて……」
慎也の顔に迷いがよぎったものの、やがて彼は完全に冷たくなり、低い声で護衛たちを呼びつけた。「……咲良を後ろの禁固室に連れていけ!」
――禁固室。それは久我家に仕える護衛たちが、「鉄の規律」を破った者が送られる、制裁部屋だった。
その広さはわずか二畳、窓も光もなく、なかにはあらゆる虫や蟻が放たれている……
咲良は護衛に両腕を拘束されながら、必死に抗った。
「お願い、やめて!お願いだから、やめて!」
けれど、玲奈を抱きかかえて別荘を出ていく慎也は、一度も振り返らなかった。
――24時間。咲良は暗室の隅に丸まって、全身を刺すような痛みに耐え続けた。
無数の虫が肌を這い回る感覚に、気が狂いそうになった。
何度も泣き叫んだ。それでも、外にいる護衛たちはただ黙って立っているだけで、彼女の声など一切聞こえないふりをした。
やがて意識が薄れていく中、咲良は自分の肌に残された赤く腫れた痕をなぞった。もう痛みすら感じなくなっていた。ただ、一筋の涙が頬を伝い落ちた。
……その最後の一滴とともに、彼への愛情も、すべて消えていった。
「……咲良、お願い、目を覚ましてくれ……」
聞き覚えのある男の声が、彼女の意識を現実へ引き戻す。
ゆっくりと目を開けると、そこはゲストルームのベッドだった。天井には、水晶のシャンデリアが煌めいていた。
ベッドの横には慎也が座っていた。彼女が目覚めたのを見て、ようやく安堵の表情を浮かべた。「……咲良、怒ってるのはわかってる。でも、君がやったことは間違ってた。どんな理由があったとしても、玲奈を傷つけるなんて」
目を覚まして最初に聞かされるのが、そんな言葉だとは。
咲良は小さく笑った。その笑みには、皮肉と絶望が混じっていた。「……そんなに彼女の言うことを信じるの?」
慎也は眉をひそめ、不機嫌そうに吐き捨てた。「もうやめろよ。母さんの遺骨、海辺で供養してもらってきたんだ。これ以上、揉めたくないんだよ。今は玲奈の体調の方が問題なんだ」
「小さい頃から大事に育てられてきた彼女が、今回のことでショックを受けて、原因不明の症状が出て……夜も眠れないんだ。呼んだ霊媒師が言ってたよ。……彼女を傷つけた人間が、その手でイバラを削ってお守りの数珠を作らないといけないって」
咲良は、言葉を失った。
彼が自分のそばにいた理由。彼女が目覚めるのを願っていた理由。すべては――玲奈のためだった。
第4話
「慎也、今の私がどんな状態か……本当に見えていないの?」咲良は震える声でそう言いながら、腫れ上がった腕をゆっくりと持ち上げた。
そこには一面、赤黒く腫れあがった皮膚と、生々しい傷痕が広がっていた。元の肌の色など、もうどこにも残っていない。
だが、慎也はしばし黙り込み、やがて冷酷に言い放った。「玲奈はもう丸一日休まずに作業してるんだ。数珠は今夜中に仕上げなきゃいけない」
咲良の目にうっすら涙が浮かんだ。それでも、もう泣けるほどの力すら残っていなかった。「……もし、私が嫌だって言ったら?また禁固室に閉じ込めて、あの毒虫に私を噛ませるつもりなの!?」
慎也は咲良の痛みに耐える顔から目を背け、しばらく目を閉じていたが、やがて低く言った。
「咲良、少しだけ……ほんの少し、我慢してくれ。玲奈の身体が完全に回復するまで――そして、俺が命の恩を返し終えるまで。そしたらまた、昔みたいに戻れるから」
それは約束のようでもあり、願望のようでもあった。そして彼は冷たく態度を切り替えると、数本の太いイバラの枝をベッド脇に置き、静かに言い添えた。「言っておくけど、やらなきゃ、護衛が力づくでやらせるぞ。人の血を吸った手作りの数珠が一番効く――そう言われてるんだ」
ドアが「バタン」と重い音を立てて閉まった。
すぐに数名の護衛がベッドのそばに並び、無表情で告げた。「奥様、お時間がありません。旦那様のご指示で、イバラの棘はすべてご自分の手で抜き取っていただきます。珠は一粒ずつ、すべて紙やすりで磨いていただくことになっております」
その夜、咲良はベッドから引きずり下ろされ、一睡も許されなかった。
イバラの棘が指に食い込み、紙やすりで何度も擦られた指は、裂けて血を流し、動かすたびに焼けつくような激痛が走った。
そして、ようやく朝日が差し込むころ、主寝室から玲奈の満足げな声が聞こえてきた。「慎也、この数珠……本当に効くわ。つけた瞬間、ふわっと頭が軽くなったの」
慎也は優しく応じた。「よかった。少し眠ろう、傍にいるから」
咲良はひっそりと自分の身体をベッドの隅に縮こまらせ、傷だらけの手を握りしめた。その指先から滴る血が、シーツにゆっくり染みこんでいった。それを見ているうちに、涙も出ず、胸の奥がひどく乾いていくのを感じた。
かつては、たった一度バラの棘で指を傷つけただけで、慎也はあんなにも慌てて心配してくれたというのに――今では、彼女の血で染まった数珠を、別の女を喜ばせるために差し出すようになった。
慎也、あなたは言ったよね。また、前みたいに戻れる――
でも、それは違う。
もう、私は――あなたを愛しきってしまったのよ。
翌朝、玲奈は数珠のおかげで一晩ぐっすり眠れたらしく、機嫌よく慎也を連れて外出した。
咲良はそのことを、玲奈がSNSに上げた日常投稿で知った。彼らはギリシャに行き、夕日を見ていた。
写真には、サントリーニの白壁を背景に、玲奈が慎也の指をしっかりと握りしめている写真が添えられていた。キャプションにはこう書かれていた――【あなたを好きになって十年目、ようやく願いが叶った……】
咲良はその写真をじっと見つめながら、心の中がぽっかりと風に吹き抜けられるように感じた。けれど、不思議ともう痛みはなかった。
彼女は静かに、左手の薬指にはめていた指輪を外した。
そして庭に出て、満開だったキキョウの花をすべて根こそぎ引き抜いた。一本一本、鋏で細かく切ってゴミ箱へ放り込んでいった。
すべてを終えたあと、咲良はパソコンを開き、悪意のコメントで溢れたあのアカウントにログインした。一か月後に自動投稿されるよう設定し、こう書き記した。【この手紙が投稿されたころには、きっと私はもうこの世にいないと思う……】
その「遺書」は、何日もかけて少しずつ書き続けていたもので、最後の句点を打ち込んだとき、外から車のエンジン音が響いた。続いて、玄関のドアが乱暴に開かれ、慎也が慌てた様子で屋敷に駆け込んできた。
「なんで……なんでキキョウを全部抜いちゃったんだ、咲良。あれ、君が一番好きだった花だろ?俺が……俺が昔、君のために植えたやつだろ……」
なぜか、彼の顔は青ざめていて、袖口から血が滲んでいた。
咲良は彼を静かに一瞥し、何も聞かず、ただパソコンを「パタン」と閉じた。「根が腐ってたの。……もう次は、別の花にしようかなって思って」
「次」という言葉が出た瞬間、慎也の表情に微かに安堵の色が戻った。「そうか……じゃあ、また今度、新しいのを一緒に植えよう」
第5話
慎也が帰国したその夜、水原市の上流階級の間で催されるチャリティー晩餐会があり、咲良も同席することになっていた。
夕方、彼らを乗せたロールスロイスは会場へ向かう前に、一度スタイリングサロンに立ち寄った。
慎也はわざわざ車を降りて咲良を迎えに行った。玲奈は、何千万もするオーダーメイドのドレスに身を包み、希少な皮革とダイヤモンドをあしらったバッグを手にしながらも、ただその場に立ち尽くしていた。
慎也は気まずそうに後部座席のドアを開けた。「咲良、ほら……」
だが、彼が言い終わる前に、咲良は無言で車を降り、そのまま助手席へと乗り込んだ。
チャリティー晩餐会は郊外の別荘で開かれた。1階のホールでは、七宝焼きのシャンデリアが煌めき、光と影が交錯していた。
玲奈が慎也の腕を取って姿を現した瞬間、会場の視線が一斉に彼女へと注がれた。社交界の令嬢たちはすぐさま集まり、口々に賞賛の声をあげた。
「玲奈さん、慎也さんって本当にあなたに夢中なのね!このドレス、世界で初めて着たのってあなたなんでしょ?」
「そうよ、この間も彼、海外にいたとき、パリの富豪からこのドレスを勝ち取るためにカーレースの賭けまでしたって聞いたわ。しかも、腕までケガして……」
——まさか、そのケガはこのドレスのためだったなんて……
話を聞きながら、玲奈の目にはうっすらと涙がにじんだ。「やめてよ……思い出すだけでつらいの。血もたくさん流したのよ。私が『これ好き』って一言言っただけで、彼ったら……」
「ふふっ、それって、命を懸けてまであなたを愛してるってことじゃない!」
みな一斉に羨望の声を上げ、誰かが冷笑を浮かべて咲良を一瞥した。「どこかの誰かさん、何年も前の型落ちしたドレスなんか着て、自分がシンデレラにでもなったつもり?お嬢様の靴磨きにも及ばないのにね!」
咲良はふと、自分が着ているドレスに目を落とした。それは慎也が用意させたものだった。
だが、咲良は何も言わず、ただ強く指先を握りしめていた。
やがて晩餐会が本格的に始まり、中盤にはチャリティーオークションのコーナーが設けられた。玲奈にとっては取るに足らない品ばかりだったが、慎也は彼女の顔を立てようと、毎回惜しげもなく札を上げていた。
けれど、翡翠の指輪だけは間に合わず、別の買い手に先を越されてしまった。
ところが玲奈は、その指輪だけはどうしても欲しかったらしく、慎也の袖をつかんで甘えるように言った。「ねえ慎也……あの指輪、本当に欲しいの。手に入らなかったら、今夜はご飯も喉を通らないかも……」
たったそれだけで、慎也はオークション終了後、自らその買い手の元へ足を運んだ。「佐原さん……ご希望の金額をおっしゃってください。十倍でも百倍でも構いません」
だが、相手はふっと笑って言った。
「慎也さん、私の流儀はご存知でしょう?お金には興味がないんです。ただ、最近インスピレーションが湧かなくてね、モデルが欲しいなと思っていたところで……そうだ、こういうのはどうでしょうか」
咲良はトイレに向かう途中、偶然その会話を角で聞いてしまった。
「あなたの奥さん、とても魅力的だね。もし彼女が一度、私の被写体になってくれるなら、あの指輪は元値で譲ってもいい」
慎也の表情が一瞬で曇った。「……考えさせてください」
その瞬間、咲良の全身から血の気が引いた。
——考える?
あの佐原という男は、この界隈でも有名な「遊び人」だった。変わった趣味があり、撮る写真も……とても「普通」とは言いがたい。
咲良の身体は震え、踵を返してその場を離れた。
だが、そう遠くないうちに、会場の隅で腕を掴まれた。
「咲良、ちょっと話したいことがあるんだ」
慎也が立ち止まり、まるでご機嫌を取るように、彼女に果実酒を手渡した。「見ただろ?玲奈、最近やっと元気になってきて、もう少ししたら引っ越せるはずなんだ。ただ……彼女、今日あの指輪が本当に気に入っちゃって」
「それで、買い手の人が言うには――もし君が一度だけ、モデルの撮影を引き受けてくれたら、その指輪を譲ってもいいって。だから……」
「ふざけないで!」咲良は震える身体を押さえつけながら、慎也を思い切り突き飛ばした。「慎也……あなたは私を、何だと思ってるの?」
胸の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出し、咲良は手にした果実酒を一気に飲み干した。
そして、ふらふらとホールを出たそのとき——突然、頭の奥がくらりと揺れて、身体がふっと宙を舞ったように後ろへ倒れていった。
……このお酒、何かが入ってる。
かすむ意識の中、咲良は誰かに抱きとめられた気がした。耳元で、慎也の囁きが聞こえる。「ごめん、咲良……これが、最後だ」
第6話
カシャッ――
突如、照明用の強いライトが点き、咲良は眩しさに目を細めながらゆっくりと目を開けた。
そこは完全に遮光された部屋で、彼女は裸のまま、柔らかな布の上に横たわっていた。
冷たい空気が一瞬で身体中を駆け巡った。
咲良は慌てて身をすくめ、細い腕で胸元を覆ったが、そんな仕草はまるで意味をなさず、全身から力が抜け、起き上がることすらできなかった。
「咲良さん、本当に美しい。特に、僕のカメラ越しで見るあなたは最高だよ」
男の不気味な笑い声がカメラの向こうから聞こえてくる。黒いレンズが咲良に向かって無慈悲に突きつけられていた。まるで人を喰らう獣のように。
「この変態!通報してやる!これは犯罪よ!」咲良は声を振り絞って叫んだ。
すると男は冷たく鼻で笑い、こう言った。「へえ?じゃあ僕を訴えるって?それとも…君の旦那をか?」
男は嘲るように続けた。「ここは僕の敷地だ。ちょっとヌードモデルとしてアートに貢献してもらっただけ。慎也との約束どおり、撮るだけで触れはしないさ。でも、もし君のほうから他の希望があるなら……」
「ふざけないで!!」
咲良は限界だった。涙がとめどなく溢れ、裸のまま、まるで逃げ場のない小動物のように、柔らかな布の上で震えていた。
だが男は執拗に続けた。「いいね。泣いてる顔、もっと魅力的だよ」
カメラのフラッシュが、鋭く咲良の心を切り裂いていく。何度も何度も。どれほどの時間が過ぎたのか――ようやく、撮影は終わった。
咲良はどうやって服を着たのか、自分でも覚えていない。ただ、重い身体を引きずるようにして、あの部屋から出た。
まるで糸の切れた操り人形のように、足取りは鈍く、屈辱に満ちていた。
「咲良さん、僕はこれまで一万人以上の女性を撮ってきたが……自分の夫に差し出された女は、君が初めてだよ」背後から皮肉めいた声が投げつけられた。
咲良の指は、ドアノブを握りしめたまま真っ白になっていた。今は反撃するときじゃない。
乾いた笑みとともに、決然とした声で告げた。「私はもう離婚したの。慎也は――もう、私の夫じゃないわ」
そして、背後の扉がようやく閉まった。
咲良は全身を震わせながら、両腕で胸を抱いた。少しでも寒さを和らげたかった。
ちょうどその頃、一階のパーティーは終盤を迎えていた。咲良が無表情のままホールを出ようとしたとき――「ドンッ!」と大きな音が響いた。次の瞬間、夜空いっぱいに花火が打ち上がった。
閃光が形作ったのは、はっきりとした文字。【玲奈、お誕生日おめでとう!】
……そうだ、今日は玲奈の誕生日。慎也が用意していたサプライズだったのだ。
花園の中心では、慎也が夜空を見上げながら微笑んでいた。どこまでも優しい目で、玲奈を見つめながら。「誕生日おめでとう、玲奈。ドレスでも、指輪でも、君が望むものなら、何だって手に入れてあげるよ」
そう言って、彼は小さなジュエリーボックスを開けた。そこにあったのは、あの翡翠の指輪――咲良を犠牲にして手に入れた指輪だった。
「キス!キスしろー!」と、周囲は騒然となり、歓声が飛び交った。
慎也が反応するより先に、玲奈は背伸びをして彼にキスをした。
その光景に、咲良の内側から込み上げてくるものがあった。吐き気だった。彼女はその場にしゃがみ込み、何度も吐いた。涙と一緒に、込み上げる感情も全部。――憎しみ。嫌悪。それ以外、もう何も残っていなかった。
ようやく立ち上がったとき、あたりは小雨が降り始めていた。遠くでは、慎也が玲奈の手を引いて車に乗り込んでいる姿が見えた。
すぐに、ロールスロイスのヘッドライトが雨の中を切り裂き、ゆっくりと離れていった。
そして咲良のスマホには、たった二件のメッセージが届いていた。【咲良、ごめん。先に玲奈を送っていく。君には車を手配してある】
【つらいのは分かってる。でも、あと一ヶ月だけ我慢してくれ。必ず埋め合わせをするから】
咲良はそのメッセージを、何の表情も見せずに削除した。迎えの車が来るのを待つこともなく、一人、静かに雨の中を歩き出した。
第7話
別荘に戻ったときには、すでに深夜を回っていた。
リビングのテーブルには、吹き消されたろうそくの残るケーキが置かれ、慎也は玲奈とソファに並んで座り、プレゼントを開けていた。
咲良が全身びしょ濡れで戻ってくるのを見て、慎也の手がぴたりと止まった。「咲良……迎えの車を出したはずだろ?」
眉をひそめ、彼はすぐに立ち上がってタオルを掴み、咲良の髪を拭こうとした。
けれど、咲良の視線はあまりにも冷たかった。彼女は一瞬の迷いも見せず、その手を振り上げた。
そして、彼女のその手は鋭い音を立てて、彼の頬を打った。その刹那、誰かの影が勢いよく割り込んで、慎也を庇うように立ちはだかった。
パシッ!
乾いた音がリビングに響く。玲奈が頬を押さえ、悲鳴をあげた。
「きゃっ!」彼女の白い頬には、みるみるうちに赤い掌の跡が浮かび上がり、彼女はそのまま慎也の腕の中に崩れ落ちた。涙で濡れた瞳が、どこまでも儚げだった。
「玲奈、大丈夫か?」
慎也は彼女をしっかりと抱きしめ、その頬にそっと手を伸ばす。その指先は微かに震えていた。
やがて彼の指が腫れ上がった頬に触れたとき、怒りが爆発した。彼はタオルを振り上げ、それを咲良の額に向かって勢いよく振り下ろした。
「咲良、君は……気がおかしくなったのか!」
タオルの端が鞭のように風を切り、咲良の濡れた巻き髪を乱した。彼女の体はよろめき、倒れそうになる。
「慎也……私、あなたを見誤ってた」涙をこらえながら、咲良はかすれた声でつぶやいた。その言葉には皮肉の色が滲んでいた。
「たった一つの、何の意味もない指輪のために、私を他人に渡そうとするの?そんなあなたって、本当に最低だわ」
慎也の表情が一瞬だけ揺らいだ。言葉を失い、胸の奥のかすかな良心が疼いたその瞬間――
玲奈が、またしても慎也の前に立ちふさがった。泣きそうな声で言った「慎也をそんなふうに言わないで。咲良、怒るのはわかる。でも、もし気が済まないなら……私を叩けばいい!」
まるで純粋な愛情を貫く乙女のように――完璧な演技だった。
慎也の中に残っていたためらいは、その一言で粉々に砕け散った。彼は玲奈を抱きかかえながら言った。「玲奈、任せろ。俺が何とかする」
そして、咲良に冷たい視線を向ける。「写真は……半年後にオークションに出されるはずだ。百億だろうが千億だろうが、必ず取り戻す。だがな、咲良、君が玲奈に手を上げたことだけは、絶対に許さない」
半年後?
そんなときには、自分はもうこの世にいないのに。
彼の冷酷な宣言に、咲良はふっと笑った。虚ろな笑みだった。
慎也が階段を上がろうとしたそのとき、咲良は彼の吐き捨てるような言葉を耳にした。
「今すぐ庭に出て、そこで跪け。さもないと、傷害罪で今夜拘留されるぞ」
夜半、再び雨が降り出した。
別荘には医師の車が何台も到着し、ライトの光が濡れた夜を照らしていた。
咲良は数人の護衛に監視されながら、庭で黙って膝をつき続けた。
それから二時間が過ぎた頃、主寝室のバルコニーに二つの影が現れ、下を見下ろしていた。
「慎也……咲良って、かわいそうね」
玲奈の甘ったるい声が夜気に溶けていく。だが、その口調の裏には、勝者の傲慢さが滲んでいた。「頬の腫れが引くまで、誕生日パーティーは延期ね。でも、咲良も呼びましょう?あなたがくれたヨット、まだ彼女に見せてないんだし」
暗がりの中、慎也が静かに応じた。「いいだろう。玲奈が決めてくれ……ごめん、守りきれなくて」
過剰なまでの優しさと情が、咲良の最後の希望を踏みにじった。
そうだ――かつて彼女を想ってくれた慎也は、とうに死んでしまったのだ。幾度も、幾度も。
咲良は拳をきつく握りしめた。
ヨット?
いいわ。そこを、最後の決着の場にしましょう。
その夜、雨に濡れながら膝をつき続けた彼女の足には、紫色の痣が残った。
二日経っても痛みは引かず、それでも彼女は足を引きずりながら役所に向かい、離婚届受理証明書を受け取った。これが離婚の証明となる書類だ。
別荘に戻ると、すでに護衛の車が玄関前で待っていた。
「奥様、玲奈様の誕生日会へお越しくださいと、旦那様からのご指示です」
咲良は離婚証明書を主寝室の枕元に置くと、引き出しの奥から長い間つけていなかった結婚指輪を取り出した。そして、ただ静かに会場へ向かった。
――豪華なヨットの甲板には、贈り物が山のように積まれ、シャンパンタワーがライトに反射して輝いていた。洗練された装いのスタッフたちが行き交い、華やかさは極まっていた。
「慎也、お前って本当に玲奈のことばかり気にしすぎだろ?彼女が飲もうとするたびに、いちいち止めて!」
長テーブルでは、業界の若者たちが玲奈とゲームに興じていた。
咲良が会場に入ったとき――ちょうど回っていた酒瓶の口が、ピタリと彼女を指し示した。
誰かが小さく吹き出す。
「わあ、タイミングぴったり!瓶が指した人は、罰ゲームだよね?」
第8話
咲良は、その場に漂う悪意にすぐ気づき、きっぱりと言い放った。「そんなくだらないゲーム、私はやらない!」
そう言って二歩後ずさった瞬間だった。先ほど話していた若い御曹司が突然立ち上がり、彼女が反応する間もなく、頬に思い切り平手打ちを食らわせた。
すると周囲は一斉に笑い声を上げた。「ざまぁみろ!玲奈をぶった報いだ!」
玲奈は無邪気な笑みを浮かべたまま、まるで何事もなかったかのように言った。「咲良、気にしないで。ただのゲームよ?」
そして彼女の隣にいた慎也は、冷ややかな視線を投げたまま、黙ってまた酒瓶を回しながら、低く一言放った。「続けて」
その瞬間、咲良はようやく悟った。彼らが自分をこの場に呼び出した、本当の意味を。
あの雨の夜、跪いた程度ではまだ足りなかったのだ。
彼女が玲奈を平手打ちしたその代償を、慎也は人前で、何倍にもして返させようとしていた。
酒瓶は、何度も何度も彼女を指し続けた。
十回。最後の一発が頬に響いたあと、護衛はようやく彼女の腕を離した。
咲良はぼうっとする意識と耳鳴りが続く中で、頬に手を当てた。腫れあがった感触が指先に伝わってきた。
そのとき――「ねぇ、慎也。今夜は私のために、手作りのバースデーケーキを作ってくれるって約束したわよね?」玲奈が急に甘えるような声を出して言った。
慎也は微笑みを浮かべ、すっと立ち上がった。「待ってて、今行くよ」
その場を立ち去る前、彼は咲良をじっと見つめた。しかし、言葉を交わすことは一切なかった。
彼が去った後、玲奈の態度は一変していた。もう、さっきまでの柔らかい笑顔などどこにもなかった。
「どう、咲良?ぶたれた気分は?」
だが咲良は挑発に乗らず、肩をすくめるように薄く笑って立ち上がり、何も言わずその場を後にした。
――彼女には分かっていた。勝ち誇ったように笑う令嬢が、必ず後を追ってくることを。
予想通り、彼女がヨットの最上階へ足を踏み入れたとき、背後から高いヒールの音が響いてきた。
「玲奈――まさか、本気で勝ったと思ってるの?」
咲良はふいに口を開き、手すりの前で足を止めた。ふっと笑って、続ける。
「知ってる?慎也が言ってたの。あんたの身体が完全に回復したら、借りを返して――すぐに家から追い出すって」
「……黙れ!」玲奈が声を荒げる。「ただの下品な介護士が、私の敵になるなんて思わないで!」
彼女が一歩一歩近づいてくる中、咲良はくるりと振り返り、玲奈の高級ドレスのレース襟をぐっと掴んだ。
「……あの晩、母さんもこんなふうだったのよね?ちょっとあんたのドレスに触れただけで、あんたは――」
続きの言葉は声にならず、涙声にかき消されてしまった。
咲良のその苦しみが、かえって玲奈の意地悪な気持ちをかき立ててしまった。「そうよ、そうだったわ。あんたの母親、私のドレスに触れて謝ろうともしなかった。だから……ちょっと教えてあげたの」
「両腕を折られ、口を塞がれて、叫ぶこともできない姿……想像してみなさいよ」
「この甲板の上でね、彼女の血は海へ流れたわ。……ああ、そうそう。本当は右脚も折ってやろうと思ったの。でも彼女、自分で海に落ちちゃったのよ、必死でもがいた拍子に」
そのあまりにも無惨な言葉に、咲良の目には激しい憎しみの炎が灯った。「……あんた、人殺しよ」
だが玲奈は、平然と笑った。「それがどうしたの?慎也は私の味方よ。裁判でも、私を守ってくれたんだから」
咲良は襟元を掴む手に、さらに力を込めた。
「でも忘れないで。私は彼の妻なの。慎也は絶対に離婚しない。私がいる限り、私は永遠に久我家の奥様よ!」
その一言一言が、玲奈の怒りに油を注いだ。
その瞬間、彼女は我を忘れ、咲良の首を両手で締めつけた。
絞めつけられる首に力がこもり、顔が赤く染まっていく。「や、やめて……殺すつもり……なの……?でもね……私が生きてる限り……あんたは……絶対に……!」
最後の言葉が途切れると同時に、玲奈は咲良を手すりに強く叩きつけた。その衝撃で咲良の背に電流のような痛みが走り、薬指にしていた結婚指輪が、静かに滑り落ちた。
必死の抵抗の末、咲良の身体は大きく傾き、手すりの外に乗り出してしまった。そして――そのまま、三階の高さからまっすぐに落下していった。
二階の宴会場は、今も笑い声に包まれていた。誰一人、彼女が落ちたことに気づかない。
冷たい海水が肺の奥にまで染みわたる。その瞬間、咲良は不思議と、どこか温かさすら感じていた。
この海は、母が最後にいた場所だった。
だから、怖くない。泣きもしない。
静かに目を閉じる咲良の胸元――ドレスの第二ボタンが、ふと赤く瞬いた。
そこには、小型の隠しカメラが仕込まれていた。
海に沈んだすべての真実は、いずれ陽の下にさらされることになるだろう――