私の葬式で愛してると言って

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私の葬式で愛してると言って

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「安里さん、お体はすでに多臓器不全の兆候を示しています。このまま治験を続ければ、3ヶ月ももたないでしょう」 医師が差し出した検査報告書...

Chương (1)

第1章

「安里さん、お体はすでに多臓器不全の兆候を示しています。このまま治験を続ければ、3ヶ月ももたないでしょう」 医師が差し出した検査報告書を見つめながら、安里梨花(あんり りか)はかすかに苦笑した。 「構いません、3ヶ月あれば十分です」 これは江川晨也(えがわ ともや)のそばにいられる、唯一のチャンスだ。彼女は、それを手放すつもりはなかった。 病院を出た彼女はそのまま自宅へと戻った。玄関に足を踏み入れた瞬間、寝室から熱を帯びた情事の声が聞こえてきた。 足元でだらりと下がっていた手が、無意識にきゅっと握りしめられた。彼女は知っていた。 晨也の周囲には常に女性が絶えなかったことを。 だが、自宅に女性を連れ込んだのは、今回が初めてだった。 こんな場面は見たくない――そう思って目をそらしかけたとき、ふと視界の隙間からその女の顔が見え、彼女は足を止めた―― 第1話 「安里さん、お体はすでに多臓器不全の兆候を示しています。このまま治験を続ければ、3ヶ月ももたないでしょう」 医師が差し出した検査報告書を見つめながら、安里梨花(あんり りか)はかすかに苦笑した。 「構いません、3ヶ月あれば十分です」 これは江川晨也(えがわ ともや)のそばにいられる、唯一のチャンスだ。彼女は、それを手放すつもりはなかった。 病院を出た彼女はそのまま自宅へと戻った。玄関に足を踏み入れた瞬間、寝室から熱を帯びた情事の声が聞こえてきた。 足元でだらりと下がっていた手が、無意識にきゅっと握りしめられた。 彼女は知っていた。晨也の周囲には常に女性が絶えなかったことを。 だが、自宅に女性を連れ込んだのは、今回が初めてだった。 こんな場面は見たくない――そう思って目をそらしかけたとき、ふと視界の隙間からその女の顔が見え、彼女は足を止めた。 血の気が引いていくのを感じた。あの女の顔は、彼女の脳裏に深く刻まれているものだったからだ。 呆然としているうちに、室内の気配が止み、晨也はだぶだぶのズボンを穿いて出てきた。彼女を見た瞬間、彼の目に冷たさが宿った。 「ちょうどよかった。新しい薬が届いた。今回は量を増やすぞ」 そう言って、彼は薬の瓶を彼女の手に押しつけた。 瓶を握りしめたまま、梨花の目に熱がにじんだ。「なぜ……望月念希(もちづき ねんき)なの?」 彼女は決して忘れない。望月念希、それは彼女の両親を死に追いやった仇の娘なのだ。 晨也の口元に嘲笑が浮かんだ。 「俺が誰と寝ようが、お前に許可を取る必要があるとでも?安里、まだ自分を俺の恋人だとでも思ってるのか? 俺は念希と寝ただけじゃない。彼女と結婚もするよ。 さっさと薬を飲め。念希の体はもう、時間がないんだ」 薬の瓶が、まるで火でもついたように熱く感じられた。彼女は目を見開き、呆然と晨也を見つめた。 「この半年、私が試していた薬は……全部、彼女のためのものだったの?」 命を削って試したその薬は、仇の娘のためだったのか? 胸の奥で怒涛のように感情が渦巻いた。彼女は唇を噛みしめ、血の味が口いっぱいに広がるまで、絶対に緩めなかった。 晨也の目に軽蔑の色が浮かんだ。「なんだよ、望月家のお嬢様と知った途端、今までの報酬が安すぎるとでも思ったか?」 彼は財布から万円札の束を取り出して、彼女の顔に叩きつけた。 「これで足りるか?さっさと飲め!倍の量だ!」 札束の衝撃にくらくらとしながら、梨花の脳裏には、長く封じ込めていた記憶が蘇った。 19歳の頃、道端で瀕死の状態で記憶を失っていた晨也を、彼女は家に連れ帰った。 すべてを失った彼と、肩を寄せ合って支え合い、お互いを人生で最も大切な存在とみなしていた。 20歳のある夜、酔った勢いで彼は恐る恐る想いを打ち明けた。その夜、二人は初めて結ばれた。 若さゆえの情熱は火のように激しく、二人は幾度も愛し合った。やがてその舞台は自宅からホテル、映画館の一角や路地裏へと広がっていった。 だが、最後の一度は、七つ星の高級ホテルだった。 梨花は裸で、全身にキスマークが残っていて、金持ちの御曹司はズボンを引き上げて立ち去った。 晨也は衝撃と怒りで叫んだ。「あのクソ野郎を殺してやる!」と。 だが結局は彼女を抱きしめてキスし、激しく求めた。 その夜、彼は何度も彼女の耳元でささやいた。「気にしない。愛してる」 だが梨花は、その涙をぬぐいながら、絶頂の瞬間に言った。 「私が望んだの。彼は私に、あなたでは一生稼げないほどの金をくれるの」 何を口走ったか覚えていない。ただ、彼を全否定したことだけは覚えている。 彼のことを夢想家だと言い、彼が一緒にいるのはただ欲望を満たすためだけだと言い、そんな人間はスラム街に住むのがふさわしく、一生這い上がれないと言った。 晨也は茫然と立ち去り、噂ではその夜、足を滑らせて頭を打ち、三日三晩の昏睡状態に陥ったという。 目覚めた彼は、すべての記憶を取り戻し、港町の御曹司として蘇った。 冷酷非情な存在となり、「梨花」という名前は、彼の中で決して口にしてはならないものとなった。 あれから5年――彼女はまるでこの世から消えたかのように姿を消した。 だが、真実を知るのは彼女だけだった。あの夜、彼の元を離れたのは、金のためじゃなく、彼を巻き込まないためだった。 16歳まで彼女も名家の令嬢だった。だが、望月家は彼女の父の会社を奪った。そして彼女の母を自分のものにするため、彼女の父を自殺に追い込んだ。 父の死から一週間後、母も手首を切って自ら命を絶った。数日で彼女はすべてを失った。 晨也と別れたのは、復讐のチャンスを掴んだからだった。彼を守るため、自ら悪女を演じた。 父母の仇に復讐を果たし、敵を52階のビルから突き落とした。だがその代償は、「過失致死」での服役だった。 出所後、生きるために職を探し、巡り巡って晨也の前に現れた。 そして彼も、復讐の機会を手にした。彼女に法外な報酬を与え、副作用の強い治験の薬を試させたのだ。 彼女の目が潤んだのを見て、晨也は再び口を開いた。その冷たい声には、わずかな期待がにじんでいた。 「まさか、お前が薬を試してた理由が、金じゃなくて、俺のそばにいたかったからか」 梨花は一瞬、はっとして我に返った。彼女は静かにしゃがみ、床に散らばった札束を一枚一枚拾い集めた。口元には、苦しさを押し殺すような笑みが浮かんだ。 「もちろん、お金のためよ」 一度嘘をついたら、最後まで演じきるしかない。彼と再び愛し合う資格なんて、もう彼女にはないのだから。 残された3ヶ月、彼のそばにいられるだけで、もう十分だ。 3ヶ月後には、この静けさを、全て彼に返してあげるつもりだった。 第2話 彼女の態度に、晨也の顔はますます冷え切り、歯の隙間から絞り出すように言った。 「そう言うなら、さっさと薬を飲め!」 梨花は目を伏せ、その瞳に宿っていた悲しみをすべて隠した。 彼女は静かに薬の瓶をひねって開け、倍量の薬を口いっぱいに押し込むと、そのまま早足で自分の部屋に戻り、鍵をかけた。 口の中の苦味が消えたころ、内臓を刃でえぐられるような激痛が襲ってきた。 彼女はベッドのシーツをぎゅっと握りしめ、顔面は青ざめ、この地獄のような痛みは1時間くらい続いた。 震える手で引き出しを開け、タバコを取り出した。 この死にそうなほどの痛みを紛らわすため、タバコに頼るしかない。吐き出した煙が部屋に漂う頃、隣の部屋からまたもや熱を帯びた声が響いてきた。 女性の甘い吐息とともに、晨也の声は信じられないほど優しく響いた。 「念希、君の病気が治ったら、結婚しよう。俺が自分の手で、世界で一番美しいウェディングドレスを着せてあげるよ」 このような言葉を、晨也もかつて梨花と二人で愛し合っていた頃、彼女の耳元で囁いたことがあった。 「梨花、愛してるよ。この人生で愛せるのは梨花だけ。世界で一番幸せな女性にしてあげる」と。 痛みが少しずつ和らぎはじめた頃、隣の部屋の音も静かになった。 しばらくして、外から女性の声が聞こえた。 「晨也、なんだかタバコの臭いがしない?私、タバコの臭いが一番嫌いなの」 その言葉の直後、梨花の部屋のドアが勢いよく開かれた。晨也が冷たい顔で立っており、眉をひそめていた。 「安里、お前……タバコまでも覚えたのか?」 彼女は煙を吐き出しながら、手にしていたタバコの火を押し潰した。 「江川さん、被験者がタバコを吸ってはダメって、そんなルールないでしょ?」 「晨也、これがあなたが選んでくれた被験者なの?」 念希が晨也の腕に甘えて寄り添いながら歩いてきた。 しかし梨花の顔を見た瞬間、彼女の表情は一変した。 「どうして、彼女なの?」 晨也は念希の変化に気づき、眉をひそめた。「どうした?知り合いなのか?」 念希の視線は、どこか含みを持って梨花に注がれていた。「まあ……そうね。父の数多く愛人の一人ってところかしら。 私は、父に媚びた女が大嫌いなの。タバコを吸う女も」 晨也の目にかすかな動揺が走ったが、すぐに消え、代わりに彼は念希の腰を優しく抱き寄せた。 「じゃあ、君はどうしたい?」 可愛らしい顔に、冷酷な笑みが浮かんだ。念希は一歩一歩、梨花に近づいていった。 スリムな指がタバコの箱から一本を取り出して火をつけたかと思うと、次の瞬間、火のついたままのタバコを梨花の腕に押しつけた。 焦げた肉の匂いが空気に広がった。梨花は歯を食いしばり、怒りに満ちた目で念希を睨みつけた。 晨也の背を向けた念希は、口元に冷ややかな孤独の笑みを浮かべた。そして腰をかがめ、梨花の耳元で、二人にしか聞こえない声で囁いた。 「泥にまみれたあんたみたいな女は、一生そこに沈んでいればいいのよ」 5年前、梨花は母親と七割似た顔立ちを武器に、念希の父親の愛人となった。 父の仇が彼女の身体を奪おうとしたその夜、彼女は酒に幻覚作用のある媚薬を混ぜて飲ませ、彼が屋上から身を投げるのを見届けた。 彼女は、家族を滅ぼした望月念希の父を憎んでいた。念希もまた、彼女を憎んでいた。 タバコの火が消えると、ようやく念希はその手を離した。 梨花の背中には痛みと冷や汗がにじんでいた。視線の先、晨也は、念希の手に残った灰を丁寧に吹き払っていた。 そしてその白く滑らかな手の甲に、唇をそっと当てながら言った。「こんなこと、君が自分でやる必要はない。汚れるだけだ」 念希は感激のあまり、晨也の首に腕を回し、熱く長いキスを交わした。 その光景は、梨花の心を鋭く貫いた。鋭利な刃で胸を切り裂かれるような痛みだった。 キスが終わると、晨也は念希を抱きかかえて部屋を出ていった。長く我慢していた涙が、ついにこらえきれずにあふれ出した。 梨花は必死に体を起こし、一人で腕の傷の手当てを始めた。 そのとき、再び晨也が戻ってきた。冷たい声で問い詰めた。 「お前と念希の父親の関係……一体どういうことなんだ? 教えろ。あの時、俺のもとを去ったのは、仕方がなかったからなんだろ?」 手が止まり、彼女は顔を上げた。晨也の硬い表情の裏に、わずかな期待が見えた。 もしかしたら、真実を話せば、彼はもう彼女を恨まないかもしれない。 だが、傷ついたこの体は、彼女に残酷な現実を告げていた。余命は、もうわずかだと。 彼女は目を伏せ、できるだけ穏やかな声で言った。 「何って……私の体が欲しい彼と、彼のお金が欲しい私。お互い様ってだけ」 その無関心な態度が、晨也の胸に怒りを呼び起こした。テーブルの薬瓶が、彼の手で床に叩き落とされた。 「お前、いつからそんなに卑しくなったのか?金のために、自分の父親ほどの年の男に身を任せるのか!?」 床に散らばった薬を見つめながら、梨花の目には痛みがにじんだ。だが、顔を上げたとき、その痛みもすべて消していた。 いつものように、無表情な笑みを浮かべて言った。 「そうよ、私は卑しい女。お金さえもらえれば、なんだってするわ。もし当時あなたにお金があったら、きっとあなたの望みも全部叶えてあげたのに。 鞭でも、ロウソクでも、犬になっても。何でもね」 「やめろっ!」 晨也は拳を握りしめ、歯ぎしりをしながら、今にも飛びかかりそうな勢いだった。 だが、結局彼は一言も言わず、勢いよくドアを閉めて出て行った。 扉が閉じられた瞬間、梨花の目から再び涙がこぼれ落ちた。胸の痛みが、息をすることすら許さなかった。 ――この痛みは、彼女が一人で背負えばいい。 あの穢れた過去を、晨也が知る必要はないのだから。 第3話 翌朝早く、梨花の部屋に何人かの使用人が押し入ってきた。 彼女が反応する暇もなく、彼らは彼女の荷物を次々と箱に詰め始めた。 「なにしてるの!?」 止めに入ろうとしたが、使用人の一人が言った。 「今日は望月お嬢様とそのご家族が、江川様と結婚の話をしに来られます。江川様のご命令で、安里様は裏庭の小屋に移っていただきます」 言葉が理解できる前に、彼女の荷物はすでに小屋へ運ばれていった。 晨也がいつか別の女性と結婚することは覚悟していた。だが、それがこんなにも早く、しかも相手が望月念希だとは思わなかった。 別荘は賑やかで、裏庭の狭い木造の小屋は静まり返っていた。 私は彼の幸せを邪魔する資格なんてないと、自分に言い聞かせるものの、胸の奥は見えない手で引き裂かれるように痛んだ。 「ギィィ──」小屋のドアが開き、淡いピンクにパールをあしらったドレスを着た念希が立っていた。目には侮蔑と嘲りが浮かんでいた。 「安里、あんたが昔、晨也を助けたからって、恩を売るつもり?あんたみたいな誰にでも遊ばれる女、あの人が相手にするわけないでしょ。 もし、あんたが刑務所にいたことを晨也に知られたくなかったら、さっさと彼の前から消えなさい!」 望月家は念希の父親の名誉を守るため、彼の死因を隠蔽し、梨花の「過失致死」での服役も秘密裏にした。 念希自身も、そのことを晨也には知られたくないと思っていた。 「大丈夫。私は彼の世界から消えるつもりよ」 しかもその日は、もうすぐ来る。 小屋の中は薄暗く、扉一枚隔てた外は明るくまぶしい日差し。念希は目を細めながら言った。 「ただ消えるだけじゃ足りないのよ。彼にあんたを憎ませなきゃ、完全に忘れられないから」 珍しく梨花は彼女と同じ意見だった。「どうすればいい?」 念希の目が梨花の薬指にあるシンプルな指輪に向けられた。目に見える企みが浮かんだ。 「その指輪を、湖に投げ捨てなさい」 その指輪はかつて晨也が手作りしてくれたもの。彼と梨花、それぞれが一つずつ持っていた。 この指輪は、彼女の副葬品として残しておくつもりだ。 「いや、それは無理よ」 念希は冷笑し、手を振ってボディガードに命じ、無理やり梨花の指から指輪を奪い取った。 「安里、私があんたと交渉してると思ったの?」 念希は軽く腕を振り、指輪を湖に投げ捨てた。 ぽちゃん。 軽い音がした瞬間──念希もそのまま湖に飛び込んだ。 「念希!」 晨也が駆け寄ってくると、ほとんど迷わず湖に飛び込んだ。 執事が慌てて叫んだ。「早く!若様を助けて! 昔、若様は奥様と一緒に水に落ち、若様は助けられましたが、奥様は亡くなられました。それ以来、若様は水を極端に怖がっておられるのです!」 その言葉が耳に届いたとき、梨花の顔から血の気が引いた。 使用人たちが慌てて晨也を岸に引き上げた。 彼女ははっきりと見た――晨也の体は恐怖に震えていた。けれど、彼が岸に上がって最初にしたことは、望月念希をぎゅっと抱きしめることだった。 「念希、もう大丈夫よ。俺がいるから」 念希は涙ぐみながら、手のひらをそっと開いた。そこには──さっき奪い取られた、あの指輪があった。 「晨也……私は知ってる。安里さんがあなたを助けた。でも彼女は金持ち男のためにあなたを捨てたの。 彼女に『もうあなたを傷つけないで』と伝えたかっただけ。でも彼女は言ったのよ。あなたとの過去が気持ち悪いって。そしてこの指輪も、平気で湖に捨てたわ」 晨也の目に複雑な色が浮かんだ。「君……この指輪を拾うために飛び込んだのか?」 念希はうつむいて小さく頷いた。「あなたがこの指輪を大事にしてること、知ってたから。だって……今でも男物をずっとつけてるじゃない?」 彼女は彼の胸に身を預け、まるで雨に打たれた百合のように儚く見えた。 晨也は彼女の頬をそっと撫で、それから強い意志をもって自分の指から男物の指輪を外し、湖の底へと投げ捨てた。 「これからは、もうその指輪はつけない」 梨花の心がきゅっと締め付けられた。感情を必死に押し殺し、ズボンの裾を握りしめて涙を堪えた。 そして晨也は冷たい視線を彼女に向けた。「安里、お前に薬を試させる必要はもうない。 お前みたいなクソ女、ここにいる資格なんかない!」 第4話 日差しの中に立っているというのに、梨花の全身は凍えるような寒さに包まれていた。 ぎこちなく唇を引きつらせ、かすれた声で言った。「……わかった、江川さん。今月の協力費、忘れずに振り込んでくださいね」 「出て行け!」 晨也は怒鳴り声をあげた。 背を向けた瞬間、こらえていた涙がぽろぽろと零れ落ちた。 彼女はゆっくりと別荘の門へと歩き出した。一歩一歩が異様に重かった。 ようやく門を出た瞬間、喉の奥から鉄のような味がこみ上げてきた。 「ゴホッ──」 鮮やかな赤が口元から噴き出した。 もはや限界を超えた身体は、そのまま意識を失って崩れ落ちた。 目を覚ますと、見知らぬ部屋のベッドの上だった。目に映ったのは、心配そうな晨也の親友、嘉本樹(かもと いつき)の顔だった。 「……そんなに体が悪いって、晨也には言ってあるのか?」 梨花は身を起こそうとし、内臓すべてが引き裂かれるような痛みに顔を歪めた。「嘉本先生……助けてくれてありがとう。でも、私の体のことは、晨也には言わないでください」 その言葉が終わるや否や、鋭い声が部屋に響いた。「俺に言わないで?お前、何を隠してるんだ?」 その視線に、梨花の心臓が跳ねた。布団を握る手が震え、言葉が出なかった。 さっきの会話……彼はどこまで聞いていた? 晨也は冷笑を浮かべた。「安里、お前って本当に金のためなら手段を選ばない女だな。俺から搾り取れなかったら、次は樹に乗り換えるのか?」 梨花はほっと息をついた。幸いにも、彼は何も聞いていなかった。 彼女の顔色は青ざめており、わざと軽薄な笑みを浮かべた。 「そうよ。それが何?江川さんがくれるお金なんて治験の協力費だけ。私の身体ごと買うつもりなら、それなりの金額を払ってくれないと」 晨也の顔が一瞬で氷のように冷たくなった。「お前の目には金しかないのか?」 そう言って、彼は手の中からあのシンプルな指輪を取り出した。「安里──俺の物を欲しい時だけ欲しがって、いらなくなったら捨てる?俺をなんだと思ってる?」 梨花は一瞬驚いた。あの指輪、湖の底に沈んだはずなのに、どうして? でも彼女はすぐに笑みを整え、肩をすくめた。「あなたを何だって?お金を出し惜しみする男なんて、興味もないし、関心もないわ」 「その指輪、今後二度と人前で出さない方がいいわよ。そんな安っぽい指輪を女に贈ったなんて、笑い者になるだけだから」 晨也の顔に怒気が走り、無言のまま窓辺に立ち、ビルの20階から、その指輪を思い切り投げ捨てた。 梨花の心が、彼のその行動に呼応するかのようにきつく締め付けられた。 「……俺が、お前みたいな女に何か期待してるんだ?バカだったな、お前にまだ恥を持ってると思っていたなんて! 金が欲しいんだろ?だったら、これからはずっと念希の被験者をやってろ。生きてる限り、お前はその役目から逃れられない!」 それだけ言い放ち、晨也はボティガードに命じて彼女を連れ帰らせようとした。 樹が眉をひそめた。「晨也……安里さんの体の状態、わかってるのか?」 「嘉本先生!」 梨花が慌てて樹の言葉を遮った。「ご迷惑をおかけしました」 彼女は哀願するような目で樹を見つめた。その目が、どうか晨也には黙っていて欲しいと懇願していた。 樹は何も言わず、ただ深くため息をついた。 屋敷に戻った直後、念希が嬉しそうに現れた。彼女は晨也の腕に絡みつき、楽しげに言った。「晨也、最近オープンした闘獣場、行ってみたいなぁ。付き合ってくれる?」 晨也は優しく頷いた。「いいよ。行こう。君が行きたいなら今すぐにでも」 二人が玄関に向かおうとした時、念希がくるりと振り返り、梨花を指差した。「安里さんも一緒に来て。人が多い方が盛り上がるでしょ?」 梨花が動かないのを見て、晨也が不機嫌そうに眉をひそめた。「何してるんだ?念希の言葉、聞こえなかったのか?」 「……はい」 梨花は頭を垂れ、二人の後ろに従った。念希は楽しげに晨也の腕にしがみつきながら、闘獣場の話を弾ませていた。 この闘獣場が人気なのは、猛獣との戦いに勝利すれば、高額の報酬がもらえるからだ。 だが、敗者は命を落とすこともある。そのため、出場者は皆、承諾書に署名する必要がある。 第一試合、第二試合と、梨花は金持ちたちが人命をなんとも思っていない現実を思い知らされた。血まみれの遺体が引きずられていく中、観客は歓声を上げていた。 第三試合、司会者が報酬を告げた。「今回の勝者には──永遠の愛を象徴する、ルビーのネックレスが贈られます!」 その瞬間、念希の目が輝いた。「晨也、あれ欲しい!」 晨也は微笑みながら頷いた。「君が欲しいなら、俺が取りに行くよ」 梨花は目を見開いた。彼は……命を捨てるつもりなの? 彼をよく知っている。どんなに落ちぶれても、彼は常に気品を失わなかった。 ただ一度だけ、プライドを捨てたことがあった。 それは、梨花が彼と別れようとした時。彼は彼女の前に跪いて引き止めた。 猛獣との戦いは、気品や誇りを失うだけではない。死ぬ可能性もあるのだ。 胸が痛んだ。彼はそれほどまでに、念希を愛しているのか…… だが、念希は甘えるように言った。「そんな危ないこと、晨也にはさせられないわ。代わりに──彼女に行かせて」 指先は、まっすぐに梨花を指していた。 第5話 晨也は眉をひそめ、梨花を見つめた。彼の唇はきつく結ばれ、彼女の小さな体が獣の衝撃に耐えられるかどうか、思案しているようだった。 念希は唇を弧にし、喜びの表情を浮かべながら、手に持ったカードを梨花に差し出した。 「お金が好きなんでしょう?このカードには6千万が入ってるわ。そのネックレスを取ってきてくれたら、これが安里さんの報酬よ」 この6千万、報酬というより命の値段だった。 晨也が口を開こうとした瞬間、梨花はあっさりと答えた。 「いいよ。望月さんは本当に太っ腹だね。そのネックレス、必ず手に入れてくるわ」 「お前、正気か!?」晨也は信じられないという目で彼女を見つめた。 梨花は手を挙げ、ゆっくりと闘獣場へと歩いていった。会場の歓声は一層激しくなり、小さな体は獣の前ではあまりに脆く見えた。 観客席からは嘲笑が飛んだ。 「美女と野獣だな!野獣にかじられた美女は、あの男どもよりマシかもな!」 「金のために命を捨てる女なんて初めて見た!ルビーのネックレス一つで命を差し出すなんて!」 梨花は闘獣場の中央に立ち、対面には獰猛な獣がいた。首輪のロープは調教師の手にあったが、すでに鋭い牙を剥き出しにし、彼女を睨みつけていた。 彼女は分かっていた。望月念希は彼女の死を望んでいる。 もしかしたら、こんな死に方なら、晨也はさらに彼女が金に執着していると思い込み、彼女の死を当然の報いだと感じるかもしれない。 調教師がロープを放した瞬間、獣は飛びかかってきた。 梨花は身を翻して、なんとかその一撃を避けた。だが、運はそう長くは続かなかった。 獣の突進で地面に叩きつけられ、鋭い牙が彼女の腕に噛みついたとき、彼女はその腕がもう自分のものではないように感じた。 激痛で顔が真っ青になった。だが彼女は唇をかみしめ、叫び声をこらえた。 血が止まることなく流れ続ける。誰もが彼女が獣に食い殺されると思ったそのとき―― 闘獣場に人影が飛び込んできた。 晨也だった。手には刃物。振り下ろしたその刃は、獣の首に突き刺さった。 獣の顎はようやく開いたが、梨花の腕はすでに血肉がえぐられ、意識もほとんど失いかけていた。 晨也は彼女を抱きかかえ、真っ赤な目で叫んだ。「命が惜しくないのか!?」 梨花は唇を引き、顔色のない笑みを浮かべた。「江川さん、お金をくれないなら、せめて稼がせてよ」 その言葉に、晨也の足が止まる。彼の顔には怒りと戸惑いが入り混じっていた。「金が命より大事なのか?」 「そうよ。お金がなきゃ私は生きられないって、あなた知ってたでしょ?私の中では何より金が大切なの」 晨也の瞳が揺れた。「じゃあ、俺が金を出せば戻ってくるか!?俺が金をやれば、お前は……」 胸を野獣に噛まれたかのような痛みが走る中、梨花の目に涙が滲んだ。「晨也……そんなこと言わないで……そうされたら、私……迷っちゃうじゃない……」 「やっぱり、お前は俺を愛してるんだな?梨花、やっぱりお前は……」 彼は小さく呟いた。目には涙が光っていた。 梨花は声を震わせながら、心の奥に長く秘めていた想いを口にした。 「あなたを愛してるよ。愛してないなんて嘘よ……あなたは私の人生でたった一人の男。死ぬまで、ずっとあなたを愛してる……」 晨也の体は固まり、目には隠しきれないほどの感情が溢れていた。「やっぱり……そうだと思ってた……」 しかし、次の瞬間、梨花は笑った。「江川さん、私の演技どうだった?さっきのセリフ、いくら払ってくれるの?あなたが金さえくれれば、何でも言ってあげるわよ」 まるで雷に打たれたように、晨也の目から光が消えて行った。そして、氷のような冷たさがそこに宿った。 「安里、やっぱりお前は冷酷な女だ!」 そのとき、一人が走ってきた。「江川さん、望月さんが気を失いました!」 晨也は一瞬の迷いもなく、梨花の血まみれの体を地面に放り出し、慌ただしく去っていった。 彼の背中を見ながら、梨花は力なく笑った。そして、意識を手放した。 どれほど眠っていたのか分からない。腕の激痛が彼女を再び目覚めさせた。 目を開けると、白衣を着た医者たちに囲まれており、病院のベッドはラボへと運ばれていた。 「江川さんの命令で、望月さんの容体が危険のため、治験の進行を加速しろとのことです!」 彼女が反応する間もなく、顎が乱暴につかまれ、口を強制的に開かされ、大量の薬が無理やり流し込まれた。 第6話 今回の薬は、これまでより副作用の出方がはるかに早かった。 梨花は苦しみに身をよじらせながらベッドに横たわり、まるで内臓が引き裂かれるような激痛に耐えていた。 今この瞬間、彼女は心から「死んでしまいたい」と願った。 ラボのドアが開き、険しい表情の晨也が入ってきた。「治験の様子はどうだ?」 そう尋ねながら彼は梨花の顔色が真っ青になっているのを見て、眉をひそめた。「どういうことだ?」 医師が急いで説明した。「今回は薬の投与量を増やしたので、副作用もかなり強く出ています」 「副作用を和らげる方法はないのか?」 「ありません。この薬はそもそも健康な体でも……」 「江川さん!」 医師の言葉が途中で遮られた。慌てて誰かが駆け込んできたのだ。 「江川さん!望月さんの病気がまた発作しました!」 晨也の顔色が一瞬で険しくなり、他のことなど眼中になくなった。 「薬の量をさらに増やせ、30分ごとに採血して状態を観察しろ!今日中に念希に使える安全な薬を完成させるんだ!」 医師は梨花の痛みに歪む表情を見て、わずかにためらったが、やがてアシスタントに命じた。 「注射剤を持ってこい」 アシスタントが注射剤を手に戻ってくると、医師は一言「ごめんなさい」と呟き、容赦なく針を彼女の体に刺した。 薬剤がゆっくりと体内に注入されると、身体中の隅々にまで焼けつくような痛みが広がった。 「……あああっ!」 ついに彼女は耐え切れず、悲鳴を上げた。 その様子を見て、駆けつけた樹は愕然とした。 「晨也、このまま薬を使い続けたら、安里さんは死んでしまうぞ!」 彼の心配そうな様子は、まるで一本の棘のように晨也の心に突き刺さった。彼は冷たい表情で、まるで気にしていないかのように言った。 「彼女の安い命が、念希の命と比べられるものか? 念希さえ無事なら、他のことなんてどうでもいい!」 そう言い捨てると、晨也は振り返ることなく去っていった。 ベッドの上で苦しむ梨花は、自分の体をかきむしった。白い肌は爪で引っかかれて血まみれになった。 樹は見ていられず、彼女を病院へ運ぼうとしたが、医師に止められた。 「嘉本先生、江川さんの指示で、安里さんはここで薬の試験と採血を続けなければなりません」 「命を落としそうなのにまだ試験の話?あなたたちは本当に医者か!?」 医師は困ったように言った。「どうしようもないんです……江川さんの命令ですから」 そのとき、「ゴフッ……」梨花は突然、黒ずんだ血を吐き出した。全身の血の気が引き、まるで白紙のような顔色になった。 生体モニターが警告音を鳴らし始めた。彼女の命が、限界に近づいていることを告げていた。 天井の灯りを見つめながら、梨花はかすかな声で苦笑した。 「やっぱり、お医者さんの言うこともあてにならないわ……3ヶ月は生きられるって……言ってたのに……」 死を意識した瞬間、なぜか彼女は少し楽になった気がした。 もしかしたら、死こそが自分の救いなのかもしれない。 両親が無理やり死に追いやられたあの日から、彼女の人生に幸せなんて一瞬もなかった。 今ならようやく、父と母の元へ行ける…… 樹は医者として、目の前の患者が死にゆくのを黙って見ていられなかった。 「もう少しだけ頑張ってくれ!今すぐ晨也に電話する! あいつは口では憎んでるって言っても、きっとまだ安里さんを気にかけてるはずだ!安里さんが死ぬのを黙って見てるような人じゃない!」 梨花は力なく唇を動かした。無駄だと言いたかったが、もう声すら出なかった。 ようやく電話が繋がった。樹は焦りながら状況を伝えた。「晨也、安里さんの容態が危ない!今すぐ病院に連れていかないと命が危ない!」 晨也は鼻で笑った。 「また同情を買おうとしてるんだろう。あれが彼女のやり口さ。 念希の医師は、この薬には軽い副作用しかないって言ってた。命の危険なんてないよ」 樹は怒りを抑えきれなかった。 「彼女のあの苦しそうな様子が見えなかったのか!?あれが軽い副作用だとでも?」 「樹……まさかその金に目がくらんだ女に惚れてるんじゃないだろうな?」 その瞬間、電話の向こうから心電図の警告音が響いた。 樹はしばらく沈黙し、やがて重い口調で言った。「安里さんが、亡くなった」 晨也は足を止めた。「今、何て言った……」 受話器の向こうから、樹の声がもう一度聞こえてきた。 「晨也、安里梨花が……死んだんだ」 バンッ。 手にしていたスマートフォンが床に落ちた。晨也の頭は真っ白になり、ただその言葉だけがぐるぐると渦巻いていた。 安里梨花が、死んだ。