かつて、彼のために命をかけた

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かつて、彼のために命をかけた

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恋人の薄井悠真(うすい ゆうま)が乗っていた車が爆発し、炎に包まれて命を落とす瞬間を目の当たりにした栗藤双葉(くりとう ふたば)は、彼の...

Chương (1)

第1章

恋人の薄井悠真(うすい ゆうま)が乗っていた車が爆発し、炎に包まれて命を落とす瞬間を目の当たりにした栗藤双葉(くりとう ふたば)は、彼のあとを追うようにそのまま火の中へと飛び込んだ。 彼女はそうすれば悠真のあとを追い、別の世界で早く彼に会えると思っていた。 しかし、救出された後、彼女の意識は身体よりも早く目覚めた。 なぜ自分が死ねなかったのか、なぜ悠真のそばに行けなかったのかと恨んでいるその時、耳元に悠真の声が聞こえた。 「治療はもういらない。生きてさえいれば、それでいいんだ」 第1話 恋人の薄井悠真(うすい ゆうま)が乗っていた車が爆発し、炎に包まれて命を落とす瞬間を目の当たりにした栗藤双葉(くりとう ふたば)は、彼のあとを追うようにそのまま火の中へと飛び込んだ。 救出されたものの、彼と共に逝けなかったことを悔いていたそのとき…… 耳元で、医師の探るような声が聞こえてきた。 「薄井社長、栗藤さんは全身の70%に火傷を負っています。本当に皮膚移植手術をやめるのですか?」 その言葉を遮るように、悠真は冷たく言い放った。 「やめろ」 双葉がその意味を理解する間もなく、彼の背後にいた取り巻きたちの声が耳を刺した。 「ははは、バカな女だな。本気で殉じるつもりだったのかよ」 「彼女はまだ知らないだろう。あの時、倉庫での『救出劇』ですら、悠真さんが自ら仕組んだことだ。そもそも、あいつは愛人の娘だし、希子さんをいじめるなんて、よくもまぁ」 「でも悠真さん、そろそろ希子さんも戻ってくるし、遊びもこの辺で切り上げないとね」 悠真の声は相変わらず冷酷で、一言一句が双葉の鼓膜に容赦なく打ちつけられた。 「まだ足りない。希子の母親は、あいつのせいで死んだ。もっと償わせなきゃならない」 …… 胸が潰れるような痛みに襲われながらも、双葉の体は動かなかった。 懸命に目を開けようとしても、ほんのわずかな隙間しか開かなかった。 視界に映ったのは、埃一つついていない完璧なスーツを纏った悠真の姿だった。 炎に巻かれた形跡は、彼の身体にはどこにも見当たらなかった。 彼だけが特別だったと、双葉はそう信じていた。今の言葉を耳にしなければ、決して疑わなかっただろう。 心も体も、地獄の底へ突き落とされたようだった。 裏切り、疑念、落胆、そして無力感……それらが渦巻き、彼女を完全に打ちのめした。 涙が次第に視界を滲ませていき、思い出は「あの夜」へとさかのぼる…… あの夜、十数人の不良に囲まれ、雑物室に閉じ込められ、母の葬儀にも出られなかった。 そのとき、扉を蹴破って助けに来てくれたのが、悠真だった。 彼は光のように、彼女の人生に差し込んできた。 彼女の閉ざされた心を開き、温かな約束をくれた。 更に、「俺が君の支えになる」と誓ってくれた。 双葉は母と二人きりで生きてきた。父と再会しても万野という苗字はもらえず、母と一緒に狭いメイド部屋で暮らしていた。 母以外の人間から初めて感じた愛情だから、悠真を心から愛してしまった。 彼が炎に包まれたと聞いた瞬間、何のためらいもなく火の中へ足を踏み入れた。 ただ一つの願い……それは、彼と共に死ぬこと。 だが、彼女が信じていた「救い」は、実はもっと深い奈落だった。 すべては、万野希子(まんの きこ)のための復讐劇だった。 すべてが、偽りだったのだ。 しかも……希子の母親は、死んでなどいなかった。 母娘そろって父親と共に、海外で平穏に暮らしていた。 死んだのは、双葉の母だけだった。 希子の「ちょっとした嘘」によって、悠真は双葉に近づき、今日まで復讐を続けていたのだ。 双葉は、愛の果てに命すら投げ出し、全身の70%の皮膚を焼かれた。 鎮痛剤は投与されているはずなのに、焼けつくような痛みはまるで引かなかった。 けれど、身体の痛みよりも……心の痛みのほうが、遥かに辛かった。 涙が頬を伝って止まらない。 そのとき、悠真が病室のベッド脇に座り、優しく彼女をあやすように語りかけてきた。 「どうして泣いてる?きっと痛いよな。でも大丈夫、俺がついてるから」 彼は彼女の髪をそっと撫で、あたかも深い愛情を注いでいるかのように見せた。 「ありがとう……俺のせいだよ。車にいなかったって、ちゃんと伝えてれば……」 彼の瞳が一瞬、揺れた。 双葉が自分を深く愛していたことは知っていたが、まさか本当に命を捨てようとするとは思っていなかった。 今、火傷でボロボロになった彼女を前にして、喉が締めつけられるような思いを感じていた。 だが双葉は、その芝居がかった態度に、胸が悪くなるような思いだった。 植皮を拒否したのは、他でもない悠真自身だった……今さら心配するふりなど、滑稽でしかなかった。 彼女は苦笑を浮かべながら、問いかけた。 「悠真……私、これからもずっと、この火傷の姿で生きていくの?」 悠真は悲しげな表情を浮かべつつも、その奥底には複雑な色を宿していた。 「双葉……俺が悪かった。医者も……もう手の施しようがないって」 そう言うと、そっと医者に目配せした。 医者もそれに気づき、しぶしぶと口を開いた。 「栗藤さん……私たちは本当に、最善を尽くしました」 その嘘を聞いた瞬間、双葉の心は再びかき乱れた。 喉の奥で嗚咽を押し殺しながら、震えるように息をしながら、世界が崩れ、絶望と虚無にすべてが飲み込まれていくような感覚に陥った。 彼女はそっと目を閉じ、涙が静かに頬を伝った。 激痛が体を震わせ、ほんの少し動くだけでも全身が焼けるようだった。 悠真が彼女の手を取ろうとしたそのとき、突然、携帯の着信音が鳴った。 ……数分後。 電話を終えた悠真は、抑えきれない喜びを浮かべた。 「双葉、会社に戻ってちょっと用事を済ませてくる」 それだけを言い残し、彼女を病室に一人残して去っていった。 双葉は虚ろな目で彼の背中を見つめ、そのまま心まで空っぽになった。 彼女は涙を拭い、一つの番号に電話をかけた。 双葉は本来、文化財修復の専門家として将来を嘱望された逸材だった。 ただ、悠真のために、その道を捨てたのだ。 「先生、戻りたいです」 電話の向こうからは、年配の男性の興奮した声が返ってきた。 「双葉、やっと目が覚めたか!君が戻ってくれるなら、わしの技術も引き継がれる! でも……あの男のために辞めたんだろ?本当に戻る覚悟はあるのか? 戻るなら、修復プロジェクトに入ってもらうことになる。しばらく外部との連絡も絶たれるぞ?」 その優しい声に、乾いていたはずの涙がまた頬を伝った。 双葉は顔を上げ、涙が落ちぬよう空を見つめた。 もう……悠真のもとからも、すべてからも、逃げ出したかった。 かすれた声で、それでも確かな意志を込めて答えた。 「……はい、もう決めました」 第2話 電話の向こうから、心配そうな先生の声が聞こえてきた。 「双葉……本当に、薄井悠真のことを諦められるのか?」 こらえきれずに、双葉の目からまた涙がこぼれ落ちた。 しばらく俯いたまま、黙り込んで考えて、低く、しかしはっきりと答えた。 「……諦められます」 「それならいい。すぐに修復プロジェクトへの申請を出すよ。一度提出したら、取り消しはできないからね」 彼女はゆっくりと顔を上げ、窓の外に差し込む陽の光に目を細めながら、微笑んだ。 「ありがとうございます」 「それで……薄井のことは……」 何かを言いかけた先生の声を、双葉は無言で電話を切ることで遮った。 彼と共に過ごした三年間……その一途な愛のすべては、復讐という名の裏切りへと変わった。 もう二度と、あの愛を欲しいがらなかった。 悠真は病室を出てから、まる一週間、音信が途絶えていた。 双葉はひとりで入院生活を送り、火傷の傷は少しずつ癒えていったが、痕は一生消えない。 この三年間、悠真の生活のすべてを、双葉が支えてきた。 だからこそ、彼が予約していた高級ホテルやレストランの通知が、今も彼女のスマホに届き続けていた。 きっと今ごろ、彼は異母妹の希子と一緒にいるのだろう。 三年間も気づかなかった彼女が、情けなかった。 彼が彼女に近づいたのは、すべて希子のための復讐に過ぎなかった。 この仕組まれた罠は、あまりにも完璧だった。 ピン…… スマホに通知音が鳴った。 送信者は、希子。 【悠真って、本当に人の世話が上手ね。お姉ちゃんが教えたの?】 添付されていたのは一枚の写真だった。 そこには、エプロン姿でケーキを作っている悠真と、それを見つめる希子の笑顔が写っていた。 三年間一緒にいて、双葉は彼がケーキを作れるなんて、一度も知らなかった。 毎年の記念日も、誕生日も……ケーキを作っていたのは、いつだって彼女だった。 一緒に作りたいと願ったこともあったけれど、彼はいつも「仕事が忙しい」と言って断っていた。 ……愛というものは、人によってこんなに差別があるのか。 スマホの画面に映る幸せそうな二人を見て、双葉の胸が締めつけられた。息をするのも苦しかった。 震える指先で、メッセージ画面をそっと閉じた。 どれだけ泣いたのか、もうわからない。 彼女はバッグから、一冊の手帳を取り出した。 それは、悠真との日々を綴った、大切な想いの詰まった手帳だった。 【神様みたいなあなたが、私の世界に降りてきて、ボロボロだった私の人生を救ってくれた……】 【あなたのためにケーキを作るのが、私のいちばんの幸せ。これからも、毎年作ってあげる……】 【あなたと一緒にいられて、本当に嬉しい。毎日が夢のよう……】 【双葉は悠真を愛してる。ずっとずっと、一緒にいようね……】 けれど、それは彼女だけの「愛」だった。 彼が彼女を傍に置いたのは、ただ復讐を果たすため…… ページをめくり、少女の思い出がよみがえり、双葉は苦しくなった。 本来なら、この手帳を三周年の記念として悠真に贈るつもりだった。 でも今では、すべてが滑稽に思えて仕方なかった。 「全部、嘘だった。悠真が好きなのは万野希子……だったら、私ももう彼を好きでいない」 双葉は、まるで自分に言い聞かせるように、その言葉を繰り返した。 涙は止まらなかった。 滲んだ文字にそっと指を置き、彼女は静かにハサミを取り出した。 そして、一枚、また一枚と、ページを切り刻んでいった。 そのたびに、心の奥にあった彼への想いが、少しずつ消えていくような気がした。 最後のページまで切り終えると、彼女は紙片をすべてゴミ箱に投げ入れた。 張り詰めていた心が、ふっと緩んだ。 ようやく、ほんの少しだけ……解放された気がした。 ちょうどそのタイミングで、悠真が戻ってきた。 彼は不思議そうに彼女を見つめた。 「どうした?……さっき、泣いてた?」 双葉はティッシュで涙を拭い、ふうっと静かに息を吐いた。 「……なんでもない」 彼はそれ以上何も言わず、優しく彼女を抱きしめた。 「双葉……大丈夫。これからは、俺がずっとそばにいて、面倒を見るから」 かつての彼女なら、その言葉に喜び、涙を流しただろう。 でも、今の彼女は少し黙ってから、小さく笑った。 ……復讐のための愛情表現。 なぜ、そこまで演じる必要があるのか。皮肉としか思えなかった。 悠真は彼女の変化に気づき、すぐに言葉を継いだ。 「この間は仕事が忙しくて、あまりかまってやれなかったな。今度、ちゃんと埋め合わせるから」 双葉は顔を伏せたまま、静かに言った。 「……その必要はない」 悠真は不満げに眉をひそめた。 「双葉、そんなふうに拗ねるなよ」 そして、ふと思い出したように言った。 「数日後にチャリティー晩餐会があるんだ。ヨットの上で開かれるんだけど、一緒に行こう。 いつまでも病室にこもってないでさ」 双葉は必死に涙をこらえながら、自分の傷だらけの体を見下ろした。 そして、苦笑を浮かべてため息をついた。 「……こんな姿じゃ、晩餐会に出たって笑われるだけ」 悠真は彼女の頭を胸に抱き寄せ、そっと囁いた。 「全部、俺に任せておけ」 第3話 双葉はチャリティー晩餐会への参加を断ろうとしたが、悠真にあっさりと却下された。 宴の前夜、彼に連れられて、彼女はメイクスタジオを訪れた。 化粧台の前に座った双葉は、不安げに鏡を見つめた。火傷を負ってから、初めて鏡を見るのだった。 全身の70%が火傷。鏡の中に映る肌は、見るに耐えないほどで、顔にも焼け跡がはっきりと残っている。 かつての純粋無垢な双葉は、あの火事とともに消え去り、今そこにいるのは、どこかよそよそしく、冷たい表情を浮かべる別人だった。 化粧師は彼女の傷跡をじっと見つめたあと、顔色をさっと変え、そのままトイレに駆け込んで吐いてしまった。 「うちって、高級メイクスタジオじゃなかった?なんでこんな人連れてくるのよ。 この肌、マジで無理……昨日のごはん全部戻しそう」 その言葉は、はっきりと双葉の耳に届いた。彼女は鏡の中の自分の傷跡を、何度も見つめ直した。 傷は、まるで根を張るように全身に広がり、治りきっていない部分からは血がにじんでいた。化粧師の言うとおり、確かに目を背けたくなるほどだった。 彼女は鏡に向かって、ひとり苦笑し、立ち上がろうとしたが、悠真が彼女の肩を掴み、強く椅子へ押し戻した。 「お前ら、よくもそんな言葉を言えたな?」 その声は鋭く、氷のように冷たかった。 「これがお客様への対応か?『京栄市一の化粧師』の看板、そろそろ降ろすべきだな」 店長が慌てて化粧師の腕を引っ張り、謝罪させた。 「薄井社長、本当に申し訳ございません。ご同伴の方がそれほど大切なお客様とは、全く知りませんでした……誠心誠意、対応させていただきます」 悠真は鼻で笑った。「化粧、できるんだろうな?」 店長が肘で化粧師を小突くと、ようやく我に返った化粧師は、すぐさま深々と頭を下げた。 「はい、全力でやらせていただきます……」 悠真が口を出してからというもの、化粧師は何も言わず、黙々と手を動かし始めた。 彼は後ろの席でじっと見守っていたが、どこか落ち着かなかった。 化粧師は目立つ傷跡に分厚くコンシーラーを重ね、その上から何度もファンデーションを塗り直していく。ようやく、人前に出られる程度にまで仕上がった。 その姿を見つめ、悠真は呆然となり、回し続けたペンもいつの間にか止まっていた。自分でも気づかないうちに、思考は彼女に奪われていた。 どうしても、あの日の双葉の姿が脳裏から離れなかった。 火の中に、何の迷いもなく飛び込んでいった双葉の姿。 自分が死んだと聞かされた彼女は、ほんの一瞬のためらいもなく命を投げ出した。それほど、この世に未練がなかったということだろうか。 彼女の全身に刻まれた傷跡は、いつしか彼の心にまで痛みを与えるようになっていた。 手の中でペンを回し続けることだけが、かろうじて平静を保つ術だった。 彼が好きなのは希子だった。ただ、復讐のために双葉と一緒にいただけだった。 それなのになぜ、こんなにも胸が痛むのか。 気づけばメイクはすでに完成していた。鏡の中の双葉は、かつてのようなやさしく美しい顔を取り戻していた。 思わず、悠真は口を開いた。 「……綺麗」 双葉は鏡を見つめながらも、心の奥には虚しさが広がっていた。 目元には、微笑みすら浮かんでいなかった。「残念ね。全部、偽りに過ぎないわ」 その言葉に、彼は何も言い返せなかった。代わりに黙ってしゃがみ込み、彼女の靴先を拭いた。 「靴が汚れてる」 その光景を見た店長は、思わずつぶやいた。 「薄井社長って、本当に理想の男性ですね……こんなにも彼女を大切にされて。双葉さん、本当にお幸せですね」 その言葉を聞いた悠真は、不自然に動きを止めた。数秒の間、何もできずにいた。 やがて黙って立ち上がり、手に持っていたティッシュをゴミ箱に放り込むと、眉をひそめ、双葉の目をまっすぐ見ることができなかった。 彼女は、そんな彼を横目で冷ややかに見つめている。 先ほどの擁護、そして靴を拭く仕草、どれも演技にしか見えなかった。 こんな薄っぺらな「優しさ」なんて、もう必要ない。 そのとき、悠真は珍しく手を差し伸べた。 「もう行こう。晩餐会はすぐに始まる。今行かないと間に合わない」 第4話 車は高速道路を駆け抜け、あっという間に埠頭へと到着した。 二人は並んで甲板へと上がった。その瞬間、一つの人影が勢いよく悠真の胸元へ飛び込んできた。 双葉が目を凝らすと、それは希子だった。 真紅のドレスを身にまとい、生まれながらにして光をまとうような華やかさを放っていた。 「悠真さん、やっと来てくれたのね」 それから、まるで双葉の存在などなかったかのように、悠真は希子の手を取り、歩き出した。その眼差しは、彼女に向けた優しさで溢れていた。 「遅くなったのは俺のせいだ。罰として三杯飲もう」 だが、悠真がグラスを手にしたその瞬間……まだ一滴も口にしていないのに、希子がそっと彼の手を押さえた。 ぱちぱちと瞬きをしながら、冗談めかして微笑んだ。 「冗談よ。悠真さんが飲むなんて、私が許すわけないじゃない」 双葉は、完全にその輪から外されていた。 悠真の取り巻きたちは、彼女をまるで邪魔者でもあるかのように端へと追いやった。 「双葉さん、今日のメイク、めっちゃ良いじゃん。傷、全部隠れてるし、気合い入れてきたんだね」 「双葉さん、ほんとに綺麗。この一杯どうぞ、飲まないわけにはいかないよ」 そう言いながら、誰かが無理やりグラスを彼女の前に差し出し、あたかも二人の間に割って入り、強引に酒を飲ませようとした。 その時ようやく、悠真が双葉の存在を思い出したかのように、希子を脇に押しやり、彼女の手から酒杯を取り上げ、自ら一気に飲み干した。 「彼女は今、体に傷を負ってる。酒なんて、飲めるわけがないだろ」 その声には、かすれた響きがあった。 周囲の人々は顔を見合わせ、戸惑いの表情を浮かべた。 たかが一杯の酒だ。それなのに、悠真さんがここまで過剰に反応するとは…… そのとき、希子がワイングラスをくるくると回しながら、ゆっくりと双葉の前に歩み寄った。 唇には微笑をたたえながら、優雅に声をかけた。 「お姉ちゃん、お久しぶりだね」 何気ない挨拶の中で、彼女はさりげなく手首のブレスレットを見せつけるように動かした。 双葉はそのブレスレットに目を奪われ、息を呑んだ。 それは、亡き母が残した唯一の形見だった。ずっと探していたものが、まさか……希子の手首にあるなんて。 胸が締めつけられるような痛みに襲われた。 「そのブレスレット……なんであなたが持ってるの?」 希子はにこりと笑いながら答えた。 「お姉ちゃん、何か勘違いされてるのでは?これはパパが、私の帰国祝いにくださったものよ」 双葉は思わず彼女の手を掴んだ。 「それは、母の物だったの。返して!」 ブレスレットを外そうとした瞬間、悠真が眉をひそめ、彼女の頬を平手で打った。 パチン…… その瞳は鋭く、明らかに警告の色を宿していた。希子をかばうように腕で守りながら、冷たく言い放つ。 「双葉、もうやめろ。ここはお前が好き勝手していい場所じゃない」 双葉は痛む頬を押さえながら、自嘲するようにかすかに笑った。 希子は誰からも愛されるお嬢様、自分は誰にも顧みられない隠し子。 母の形見さえ、父にとっては希子に与える玩具に過ぎなかった。自分に、何が取り返せるというのか。 希子は完璧な微笑みを保ちながら、わざとらしく心配そうに歩み寄ってきた。 「お姉ちゃん、ごめんなさい……全部、私が悪いのよ。 そのブレスレットがそんなに好きなら、譲るわ。私は構わないから」 彼女は手首にあるブレスレットを外そうとした。だがその時、突然、強い風が吹きつけ、船が大きく揺れた。 ブレスレットは宙に舞い、そのまま甲板の外へと飛んでいった。 「だめ!」 双葉はとっさに両手を伸ばしたが、届かなかった。 ブレスレットは海面をふわふわと漂い、今にも沈んでしまいそうだった。 それは、母が残した唯一の形見。このまま海の底へ消えてしまうの…… とっさに、悠真に助けを求めようとした。誰かに拾ってほしい……そう思った矢先、 背中を誰かに押されて、バランスを崩した彼女は、そのまま海へと落ちてしまった。 水中で顔を上げると、甲板の上には、希子を抱いて慰めている悠真の姿が見えた。陽光に照らされ、まるで絵のように美しかった。 双葉は泳ぎが苦手だった。水面で必死にもがいていた。 彼女の心にあったのは、ただ一つの想いしかなかった。 ……母のブレスレットを、取り戻さなければ。 手を伸ばしても、ブレスレットに届かなかった。冷たい海水が肌を刺し、化粧はすぐに落ち、醜い火傷の痕が露わになった。 甲板では、人々が面白がるように集まり、冷ややかな声が飛び交った。 「見て、あいつの肌……ひどい、全身火傷の痕だらけよ!」 「当然でしょ。希子さんのお母さんを怒らせて死なせたんだから。因果応報よ」 「これでもう、京栄市の社交界で彼女の居場所なんてなくなったわね」 こんな中、悠真の瞳だけが揺れ、じっと海面を見つめていた。呼吸すら苦しそうだった。 双葉は、誰の声にも反応しなかった。ただ、ブレスレットを追い続けていた。 体温はどんどん奪われ、冷たい海水が耳と鼻を満たした。 目の前のブレスレットは、ぼやけて、いくら手を伸ばしても届かなかった。 意識が遠のいていく中で……彼女は、悠真が心配そうにこちらを見ている視線を感じたような気がした。 そして彼女は、彼に向かって微笑み、そっと目を閉じた。 第5話 目を開けると、双葉の関節が鈍く痛み、全身から力が抜けていた。 厚い布団に包まれているのに、体は震えるほど冷え切っていた。 双葉は周囲を見回した。自分がスーパーヨットの豪華な客室にいることに気づいた。 しかも枕元には、母のブレスレットが、静かに置かれていた。 戸惑っていると、少し開いたドアの隙間から話し声が聞こえてきた。 「悠真さん、なぜ彼女を助けるの?それに、希子さんのブレスレットまで渡して……」 「そうよ。僕たちは双葉に復讐するって約束したじゃないか。水に落ちたくらいで、あれは彼女の自業自得だよ」 すると、悠真は突然、声を荒げて叫んだ。 「俺は命を奪いたくなかっただけだ!」 その場の空気が一気に凍りついた。 皆が一斉に彼を見つめた。 彼は血管が浮き上がるほど怒りを露わにし、周囲は言葉を失った。 悠真も自分がなぜあれほど怒ったのか分からなかった。 水中で必死にもがく双葉の姿を思い出し、焼けただれた傷を目の当たりにして、胸が締めつけられたのだろう。 あの日、葬儀で彼女を救って以来……どれだけ冷たくあしらっても、彼女は変わらず彼に尽くしてくれた。 命をかけてまで、彼と一緒に死のうとした。 その時、希子のすすり泣く声が聞こえた。 「悠真さん、あのブレスレットなんてどうでもいいの…… でも……まさか、栗藤のこと、好きになったんじゃない?」 悠真は呆然とした。 自分が双葉を好きだと? 彼女に近づいたのは復讐のためだけ。 愛などあるわけがない。 頭の中で何度もそう繰り返し、自分に言い聞かせた。 でも……なぜ彼女が傷つくたびに、こんなにも胸が痛むのか? 彼は眉をひそめ、長いまつ毛が震えた。 希子は彼の表情の変化に気づき、涙混じりにさらに続けた。 「忘れないで……彼女は、母を殺した人なのよ」 その言葉を聞いた瞬間、悠真の目は迷いから冷静へと変わった。 ……そうだ。双葉は、希子の母を死なせた。 彼女は悪い女で、愛される資格なんてない。 そう何度も思い直すほどに、心の奥で揺れる気持ちを必死に抑え込んだ。 本当に、あの優しくて小さな虫すら踏み殺せなかった双葉が……人を殺すなんてありえるのか? 当時の事件に何か誤解があったのでは? 悠真の胸に、静かに疑念の芽が生まれ始めた。 彼が希子の顔を見ようとしたその瞬間…… 彼女は突然口を押さえ、背を向けて吐き気を催した。 慌てて彼女を支え、悠真は低く優しい声で尋ねた。 「希子、大丈夫か?」 希子は震える体を抱え込みながら、泣き出した。か弱く、頼りなげな姿で。 「悠真さん……わたし、妊娠したの。あなた、パパになるのよ」 悠真はその言葉に凍りつき、鼓動も高鳴った。 慎重に彼女をソファに座らせ、氷のようだった目も、やがて柔らかくほどけていった。 そっと彼女のお腹に手を当てた。触れるのが怖いほどの優しい力で。 「本当なのか?……俺たちの子どもができたんだな?」 希子は恥じらいながら小さく頷き、唇を軽く噛んだ。 「うん」 その会話を、双葉は部屋の中ですべて聞いていた。 彼女の目から光は消え、深い沈黙に染まった。 希子は、双葉が聞いていることを知っていた。 わざとドアに隙間を残し、時折中を覗き込みながら、勝ち誇った視線を向けていた。 妊娠の発表も、双葉に見せつけるため。 この男は自分のものだと誇示するための演出だった。 悠真が喜びに満ちた表情を浮かべた瞬間…… 双葉の心は深く沈んだ。 その幸福は、決して自分のものにはならない。 彼女は震える体を無理に起こし、そっとドアを閉めた。 その夜、悠真はチャリティー晩餐会で、希子の安産を祈って二億円を寄付した。 その話を耳にした双葉の瞳は、さらに陰りを増した。 かすかに笑みを浮かべながらも、その胸には鋭い痛みが走った。 夜が更け、船が港に着くと、双葉は母のブレスレットを握りしめ、誰にも気づかれずに船を降りた。 だがその直後、何人かの男たちに囲まれた。 彼女の頭に袋が被せられ、どんなに抵抗しても、無理やり連れ去られてしまった。 第6話 双葉がどれほど抵抗したのかは分からないが、ついに誰かが彼女の頭の袋を外した。 一群のチンピラが彼女に近づいてきた。全員の脂ぎった顔には邪悪な笑みが浮かんでいた。 彼女は彼らの顔を覚えていた。あの日、母の葬儀のときも、この連中が物置に閉じ込めて外に出さなかった。しかも…… チンピラたちは唇を舐めながら彼女に近づき、荒々しい指で彼女の顔を撫で回した。 「こいつ、傷跡は気持ち悪いけど、顔も体もまぁまぁのもんだぜ」 「俺たちがちゃんと可愛がってやるよ」 「やめて!離れて!来ないで!」 双葉は必死に抵抗したが、叫んでも誰にも届かなかった。 彼女は絶望し、恐怖に震えながら彼らを見つめ、目を閉じて涙を一筋流した。 服は一枚ずつ、チンピラたちに剥ぎ取られ、彼女は震え続けた。 最後の服を破られそうになったその時、突然ドアが勢いよく開いた。 悠真がボディガードを連れて駆け込み、チンピラたちを一気に制圧した。 彼は急いで双葉の元へ駆け寄り、焦りを混じえて言った。 「もう大丈夫だ」 悠真が彼女を抱きしめようと手を伸ばしたが、双葉はそれを避けた。 彼女は隅に縮こまり、傷ついた子鹿のように身を竦めた。近づくほどに彼女は後ずさりした。 悠真は足を止め、後悔の込もった目で彼女を見つめた。 「双葉、ごめん。俺が守れなかったんだ」 口にした言葉に、彼自身も一瞬戸惑った。 彼女に復讐しようとしていたのは、結局は彼の考えだったのに。 意味ありげに双葉を見つめ、宙に浮いた手を引っ込めた。 双葉はどうしても彼に近づかせず、彼は仕方なくメイドに彼女を別荘へ連れて帰らせた。 …… リビングでは皆が口々に話し合っていた。 「悠真さん、これは一体どういうことか?なぜまた彼女を助けるんだ?」 「俺たちは早く復讐を済ませて、悠真さんが安心して希子さんと一緒にいられるようにしただけだ」 隅にいた希子も不機嫌な顔をしている。 悠真の周囲の気圧が一気に下がり、彼は皆を睨みつけるように見回した。顔色は暗く沈んだ。 彼は重くテーブルを叩きつけ、叫んだ。 「誰の指示だ?」 皆が声を出せずにいると、希子が突然、笑い声を上げて静寂を破った。 「悠真さん、私よ。何かあったら私に言って」 悠真の目は一気に柔らぎ、彼女の髪を撫でた。 「希子、彼女への復讐は俺に任せろ」 希子は彼の目を真っ直ぐに見つめ、涙を流した。 「悠真さん、あなたはいつ栗藤と別れるの?私たちの子どもを隠し子にさせるつもり?」 彼女が涙をこぼすと、悠真は一瞬黙り込んだが、やがて約束した。 「明日は俺たちの三周年記念日だ。直接彼女と別れて、最後の一撃を与える」 希子の目尻が上がり、甘い笑みを浮かべた。 「悠真さんはやっぱり一番優しいわ」 周囲の者たちはため息をついた。 「悠真さん、びっくりしたよ。本当に栗藤のことを好きになったのかと思った」 悠真は希子の手を握ったまま震え、双葉の誠実な瞳を思い出して恐怖を感じた。 彼は酒を一口飲み、胸の中の感情を押し殺した。 双葉は暗がりに身を潜め、全ての会話を心に刻んだ。 彼女は唇を引き結び、冷笑した。自分の哀れさを嘲笑い、血色のない唇を噛み締め、惨めに笑った。 かつて待ち望んだ三周年記念日が……悠真に裁かれる終焉の日だとは。 第7話 双葉が眠りから覚めると、窓の外から細かい話し声が聞こえてきた。 彼女は警戒して起き上がり、カーテンの陰に隠れて覗き見した。 希子の目つきは鋭く、昼間の弱々しさとはまったく別人だった。 「いっそ明日、あのクソ女を焼き殺そう」 しかし皆は慎重に言った。 「いい案だけど、本当に悠真さんに言わなくていいのか?」 希子は口元に歪んだ笑みを浮かべた。 「分かってないね、皆。悠真の心はもうあのクソ女に半分持っていかれてるんだよ。 もし明日二人きりで会わせたら、悠真はきっと離れられなくなる。 それに私が妊娠を偽らなければ、悠真は本当に彼女に奪われてたかもしれない。それは絶対に許せない、あいつ、隠し子のくせに、なんで私の愛を奪うの?」 皆も乗ってきて言った。 「そうだな、俺も気づいた。悠真さんは最近変だ、本当に彼女を好きになったみたいだ」 「どうせ彼女は悠真さんのために死ぬ覚悟だ。なら、俺たちもその願いを叶えてやろう」 「彼女が死ぬことで希子のお母さんに謝罪させる、それこそ俺たちの復讐ゲームは完結するんだ」 「賛成!あのクソ女を焼き殺してしまえ!」 皆が口々に話す中、双葉はカーテンを握る手が震え、冷や汗が全身を濡らした。 まさか同じ父親を持つ異母妹がここまで彼女を憎み、嘘をでっち上げて悠真に復讐させるどころか、殺そうとまで思っているとは。 彼女は袖で冷や汗をぬぐい、怖さを噛みしめながら唾を飲み込んだ。 しばらく考えた後、双葉はゆっくりと冷たい視線を浮かべた。 希子が彼女を焼き殺そうとしているなら、こちらもその望みを叶えてやろう。 どうせ悠真にもう会いたくないし、今は絶好の機会だ。 スマホが鳴った。 画面を開くと、先生からのメッセージだった。 【双葉、プロジェクトチームの申請が通った。近日中に来てほしいって】 双葉は画面の文字を見つめ、少し安心した気持ちになった。 指先で画面を素早くスワイプし、飛行機のチケットを購入した。 さらに、彼女と同じ体型の人形を急ぎ注文した。これで彼らとの芝居を最後まで続けるつもりだ。 再び電話が鳴り、今回は悠真からのだった。 【明日は俺たちの三周年記念日。助手に迎えに行かせる】 双葉は【わかった】とだけ返事をした。 …… 記念日の当日、悠真はレストランで助手が双葉を連れて来るのを待っていた。 彼は指でテーブルを叩き続け、どうやって彼女に別れ話を切り出すか、まだ準備ができていない様子だった。 双葉は毎年彼のために記念ケーキを作り、今日も彼は彼女にケーキを用意していた。 埋め合わせのつもりで、悠真は目を閉じて考えた。 しかし目を閉じると、彼の頭には双葉との思い出が浮かび、優しい彼女の姿が離れなかった。 彼自身も分からなかった。自分が本当に双葉を好きなのかどうか。 だが、彼にはすでに希子との間に子供がいた。 この双葉への復讐劇は、ここで終わらせるべきだった。 一方で、計画通り希子は放火した。 外はすぐに炎が燃え盛り、煙が立ち上った。 双葉はあらかじめ部屋を出ており、替え玉の人形を部屋に残していた。 急ぎの注文だったため、人形の出来は少し粗かったが、ちょうどう彼女の傷跡によく似ていた。 火事の後、人形を彼女だと皆は信じ込むだろう。 炎は激しくなり、すべてを灰に変えようとしていた。京栄市に栗藤双葉という人物はもう存在しなくなる。 彼女は別荘の裏口から出て、空港までの車を呼んだ。 飛行機が離陸した。彼女は窓の外を見て、久しぶりの安堵を味わった。 薄井悠真よ、もう二度と会わない。