もう二度と君を見返すことはない

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もう二度と君を見返すことはない

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結婚まで、あと1ヶ月。 けれど佐野千梨(さの ちり)は、まだその結婚を続けていいのか分からなくなっていた。 理由は彼氏が、親友の未亡人と...

Chương (1)

第1章

結婚まで、あと1ヶ月。 けれど佐野千梨(さの ちり)は、まだその結婚を続けていいのか分からなくなっていた。 理由は彼氏が、親友の未亡人との間に子どもを作ろうとしているからだ。 松井康太(まつい こうた)は言った。「徹(とおる)は俺の親友だった。突然亡くなって、優香には誰も頼れる人がいない。何度も自殺未遂をしてて、もし子どもができれば、生きる支えになるかもしれないって思ったんだ」 千梨には、どうしても理解できなかった。「彼女が子どもを望むなら、養子を迎えればいい。再婚することもできるし、海外の精子バンクを利用するって方法だってある。どうして、あなたがその相手じゃなきゃいけないの?」 第1話 結婚まで、あと1ヶ月。 けれど佐野千梨(さの ちり)は、まだその結婚を続けていいのか分からなくなっていた。 理由は彼氏が、親友の未亡人との間に子どもを作ろうとしているからだ。 松井康太(まつい こうた)は言った。「徹(とおる)は俺の親友だった。突然亡くなって、優香には誰も頼れる人がいない。何度も自殺未遂をしてて、もし子どもができれば、生きる支えになるかもしれないって思ったんだ」 千梨には、どうしても理解できなかった。「彼女が子どもを望むなら、養子を迎えればいい。再婚することもできるし、海外の精子バンクを利用するって方法だってある。どうして、あなたがその相手じゃなきゃいけないの?」 康太は静かに答えた。「徹は死ぬ間際、彼女のことを俺に託した。彼女は深城市では誰も知り合いがいないんだ。頼れるのは俺しかいない」 「康太、それってあまりに非常識すぎない?」 康太は答えた。「体外受精だよ。実際に何かがあるわけじゃない。俺はちゃんと君と結婚するよ」 彼と出会って15年、恋人として13年。ようやくたどり着いた、結婚という未来。 なのに神様は、こんな残酷な悪戯を用意していた。 千梨は聞いた。「じゃあ、その子はあなたのこと、どう呼ぶの?おじさん?それとも……父さん?」 康太の顔が一瞬こわばった。そして苛立たしげに言った。「子どもがどう呼ぼうが、俺は気にしない」 千梨が、それを受け入れられるはずがなかった。 その件で、彼とはもう何ヶ月も冷戦状態だ。 康太は言った。「もう一度考えてみてくれ。優香の精神状態は本当にギリギリなんだ。今は俺がそばにいてあげないと。結婚式の日にはちゃんと戻るから」 そう言って、彼は家を出て行った。 大きなスーツケースを2つも引いた。 着替えも、日用品も、全部持ってた。 千梨は、がらんどうになった新居を見つめた。窓ガラスにはまだ、新婚祝いの飾りが貼ってある。それが、今はただ皮肉にしか見えない。 その時、電話が鳴った。ウェディングドレスショップからだった。 彼女は電話に出た。 「もしもし、佐野様ですか?ドレスとタキシードのオーダーを急ぎたくて、ご本人と松井様のお二人のサイズを教えていただけますか?」 自分のサイズは分かっている。でも、康太のは知らない。 千梨は彼に電話をかけた。するとすぐに出た。「考え直した?」 その向こうで、女の声が聞こえた。甘く艶っぽい声で「誰から?」と聞いた。 その声を、千梨は知っていた。 康太の親友の未亡人、彼が言っていた市川優香(いちかわ ゆうか)だ。 康太は言った。「なんでもないよ」 「映画、ちょうどいいところだったのに。こんな時に電話なんて、興ざめ」 千梨は思わず笑ってしまった。「優香と映画?あんなに心を病んで、死にたがってるって話じゃなかったっけ?」 康太は急に声を荒げた。「気分転換に外に連れ出してるだけだ。家にこもってちゃ、徹を失った影から立ち直れないだろ?」 なんて立派な大義名分だろう。 未亡人と子どもを作るって話と、同じくらい馬鹿げてる。 「そっか、それなら続き楽しんで。切るね」 「千梨、ほんとおかしいぞ。電話してきて、何も言わないで、嫌味だけ言ってただけ?」 彼女は聞いた。「康太、この結婚、本当にするつもりあるの?」 「結婚しようがしまいが、優香との子どもを作るってことは変わらない。俺には、親友の血を繋ぐ責任がある」 「いいよ」 「承諾してくれたのか?」 「うん」 「よかった。じゃあ安心して。式にはちゃんと戻るから……」 その言葉の途中で、千梨は電話を切った。 結婚するかどうかなんて、彼にとっては大した問題じゃないというのなら、公平にしよう。 式は予定通り行う。ただし、新郎は別の人に変えるだけ。 第2話 千梨はInstagramにこう投稿した。 【結婚相手を募集します。信頼できる独身男性、紹介してください】 すぐにコメント欄は野次馬たちで賑わった。 【康太と喧嘩したの?男って外で遊ぶのは普通だよ。いちいち怒ってたら、いい男を失うよ】と説教じみたコメントがあった。 さらには、【こんなことして、康太さんに失礼だと思わないの?】と責める声もあった。 それを見て、千梨は思わず笑った。 康太が何も持っていなかった頃から、ずっと一緒にいて、起業を支え、どん底も乗り越えてきた。 彼女には、胸を張って言える。「私は、彼に十分すぎるほど尽くした」 先に無茶を言い出したのは彼の方だ。十数年の想いを、まるで意味のないもののように扱う。 もう、すべてを断ち切る時が来た。やり直さないと。 スマホが震えた。 また康太の友人たちが文句でも言ってきたのかと思ったら、意外にも、上司からのメッセージだった。 彼女が【極悪資本家】とメモしているその相手は、千梨の上司、宇野雅紀(うの まさき)だ。 極悪資本家【結婚相手、探してるの?】 極悪資本家【じゃあ、俺でいいじゃん】 千梨は固まった。しまった、上司に見られないようにブロックしてなかった。 極悪資本家【いつ結婚するの?】 おそるおそる、彼女はスマホを握りしめながら返信した。【1ヶ月後?】 極悪資本家【いいよ】 技術部千梨【本気なんですか?】 極悪資本家【今すぐ籍入れてもいいけど?30分後、迎えに行く】 慌てて彼女は止めた。 技術部千梨【いえ、まだ少し片付けたいことがあるので、1ヶ月後で。社長も、よく考えてください】 極悪資本家【考えることはない。1ヶ月後、そのまま結婚しよう】 雅紀からのメッセージを見つめながら、千梨はしばらく動けなかった。 その時、玄関の鍵が開く音がした。 康太が帰ってきた。顔色は良くない。 「千梨、俺たちの結婚式、延期しよう。優香の状態がまだ安定してなくて今、祝い事なんてしたら刺激になるかもしれない」 千梨は、静かにうなずいた。「うん」 康太は少し驚いたようだった。「怒らないのか?」 「なんで怒るの?」 「だって俺たち、十年以上も付き合ってきたんだぞ?」 千梨は、心の中で冷笑した。 十数年も付き合ってきて、結局は優香のために結婚式は延期したなんて。 この十数年、彼はすっかり慣れてしまったようだ。何もかも自分で決めた。 一度決めたことは千梨が従うしかない。反論など許されない。 千梨は、そうした細かな衝突を避けるために、ずっと譲ってきた。 けれど今回は、もう譲る気はなかった。 「彼女の状態、良くなったの?」 「まだ一人にしておけない。放っておくと、また色々考えちゃうみたいで。だから、子どもは早めにいた方がいいんだ」 「そう。じゃあ、できるだけそばにいてあげて」 康太はにこっと笑った。「やっぱり今回のケンカは効いたみたいだな。少しは聞き分けがよくなった」 違う。 聞き分けがよくなったんじゃない。 目が覚めたんだよ。 「一緒に猫のマネして、ニャーニャー」 突然、康太のスマホが鳴った。 千梨は驚いた。あの康太が、TikTokで流行った曲を着信音にするなんて。 彼はすぐに出た。聞いたことのない、優しい声だった。「優香?」 なるほど。優香専用の着信音、ってことね。 「なに?わかった、すぐ届ける」 電話を切ると、康太はすぐに立ち上がり、車のキーを手に取った。 ドアまで来てようやく千梨に告げるのを思い出した。 「優香の服、俺の車に置きっぱなしだったみたいで。今から届けてくる」 「どんな服?」 康太の表情が突然変わり、言葉を濁した。「普通の服だよ。じゃ、行ってくる」 第3話 今週末は、担任だった吉川先生の誕生日だった。 千梨は朝早く、クラス委員から電話を受けた。「康太と一緒に来てね」 彼女がカラオケ店に到着した時には、すでに同級生たちが大勢集まっていた。だが、康太の姿はなかった。 クラス委員は彼女の後ろをチラッと見て、聞いた。「旦那さんは?車停めに行ったのかな?」 千梨は淡々と答えた。「今は、旦那じゃない」 クラス委員は冗談めかして笑った。「今は、って……でももうすぐ結婚でしょ?あれだけ長い付き合いだったんだし、ここで喧嘩して終わっちゃうのはもったいないよ。もうゴール寸前なんだから、仲直りしなよ」 吉川先生は昔と変わらず穏やかに微笑んでいた。ただ、あれから十年以上が経ち、白髪も増えていた。 「そうよ、千梨。あなたたちが付き合い始めた頃から見てきたんだから。今回は優香の件でギクシャクしてるんでしょ?きっと誤解よ。松井くんは市川くんととても仲が良かったし、彼が亡くなって、ただ友人として優香の面倒を見ているだけ。十年以上の関係、信じてあげなさい」 吉川先生は国語の教師で、ずっと優しくて親切だった。 千梨もそんな先生が大好きだった。 でも、もう学生じゃない。先生は知識は教えてくれても、結婚生活の舵取りまではできない。 「吉川先生、気持ちはわかってます。大丈夫です」 吉川先生は納得したように笑みを深めた。「あなたは本当にいい子ね、きっとわかってくれると思ってた」 その時、ドアが開き、康太が入ってきた。 「吉川先生、お誕生日おめでとうございます」 吉川先生は嬉しそうに笑った。「ありがとう。もうすぐ結婚するんだってね。私まで幸せをもらえそうだわ」 しかし、その笑顔は、次の瞬間ぴたりと止まった。 優香が、康太の後ろにぴったりとついてきたのだ。しかも、彼の上着を羽織り、腕を絡めた。 優香はニコニコとプレゼントを差し出しながら言った。「吉川先生、こんにちは。優香です。遅れてしまって本当にすみません。急に生理がきちゃって……康太がナプキンを買いに行ってくれて、少し時間がかかっちゃいました」 康太。 その呼び方が、すべてを物語っていた。 クラス委員もあ然とし、康太の肩を叩きながら言った。「千梨、ここにいるんだけど?なんで彼女も連れてきたの?」 康太は答えた。「優香は最近、情緒不安定でね。ひとりにしておけないんだ」 「じゃあ、千梨はどうするの?」 康太は一瞥しただけで、無関心に言い放った。「大丈夫だよ、放っておいても」 そう言いながら、優香の手を引いてソファに座らせ、フルーツやお菓子をたくさん取って彼女の前に置いた。「安心して。ここにいるのはみんな俺の友達だから、みんな優しくしてくれるよ」 優香はまるで恋人のように彼の肩に頭をもたれかけ、甘えた声で言った。「うん、康太がいてくれるから、安心できる」 今日ここに来ていたのは、全員が同級生だった。 千梨と康太が付き合っていることなんて、誰でも知っている。 そんな中で、誰もどう反応していいかわからず、場は一気に凍りついた。 クラス委員は、まだ仲を取り持とうとしていたのだろう。 けれど、この状況ではその気持ちも無駄になってしまった。 吉川先生の誕生会は、ずっと気まずいまま終わった。 みんなが帰り支度をする頃には、まるで重い荷物を下ろしたかのような解放感すらあった。 ただ康太と優香を除いて。 帰り際、康太は優香の手を引きながら千梨の横を通り過ぎ、冷たく言った。「優香を送っていかないと。今夜は帰れないかも。タクシー呼んで、ひとりで帰って」 その横で、優香が小さく康太をたしなめた。「ダメだよ。千梨さんはあなたのフィアンセなんだから、私のせいでひとりで帰らせるなんて失礼だよ。千梨さん、車に乗ってよ。先に送ってもらって?」 まるで自分がこの場の本妻であるかのような口ぶりだ。 そして千梨の方が、部外者であるかのように。 千梨は優香が触れてきた手を振り払って、冷たく言った。「いいわ、もう車来てるから」 プップッ。 黒のマイバッハが、彼女の前に静かに止まった。 第4話 千梨は、康太と優香の目の前で、ためらいなくマイバッハに乗り込んだ。 数人の同級生たちも外に出てきて、ふざけながら言った。「最近のマイバッハって、もう配車サービスまで始めたの?」 康太の顔が一瞬、引きつった。 彼が乗っているのはホンダの車。普通に見れば悪くないが、マイバッハと並ぶと、一気に見劣りする。 千梨が家に帰って間もなく、康太が戻ってきた。 彼女は少し驚いた。「今夜は帰らないって言ってなかった?」 康太の表情は暗く、重たかった。「お前さ、俺が帰らない方がよかったんだろ?」 千梨は冷静に返した。「病気なら病院行けば?」 「今日迎えに来た男、誰なんだ?」 「あの男のこと?私の夫よ」 康太は突然吹き出して、笑い始めた。「はは!やっぱりな!」 千梨には、彼が何言っているのか、理解できなかった。 康太はソファにどっかと座り、勝ち誇ったように言った。「お前、わざとだろ?俺を嫉妬させようとして。関心持たせようとして。マイバッハなんて、レンタルしたら相当高いんだぜ?最近妙に静かだと思ったら、そういう作戦かよ」 千梨はあきれて何も言えなかった。 「そう思うなら、どうぞご自由に」 康太はうんざりしたように言った。「もうこんな手、やめてくれよ。ほんとにくだらない」 「どう思われてもいいわ」 「千梨、結婚式を急にキャンセルされたのは、お前だって不満だろ?ずっと俺と結婚したがってたんだろう?でもな、優香はまだ夫を亡くしたばかりなんだ。まずは彼女を優先すべきなんだよ」 千梨は思わず聞いてしまった。「じゃあ、優香が一生立ち直れなかったら、あなたも一生結婚しないつもり?」 「千梨、お前ってほんとに性格悪いな。どうしてそんな酷いこと言えるの?優香が何かお前にした?呪う必要なんてないだろ」 康太が優香をかばうのは知っていたが、「性格悪い」とまで言われるのは初めてだった。 特に、十数年愛し、十数年尽くし、あと少しで夫になるはずだった男から。 千梨の心はさらに冷えていった。 「車のキー、貸して」 康太は少し警戒した。「何するつもり?」 「車に私物を置きっぱなしにしてたの。取りに行くだけ」 かつて、千梨は自分でお守りを作り、フロントガラスに吊るしていた。 「無事でありますように」と願った。 でも今の康太に、守る価値なんてもうない。 康太は渋々言った。「中には優香のものもあるんだから、勝手に漁るなよ。一緒に行く」 「どうぞ」 彼女は地下の駐車場へ降りた。 康太がロックを解除し、車のドアを開ける。千梨は無言でその中に入り、お守りに手を伸ばした。 だが、以前しっかり結んでおいたため、解けない。 迷った末に、千梨は力を込めてそれを引きちぎった。手元に残ったのは、ただの赤い糸の塊だった。 康太は聞いた。「なんで壊すんだよ?」 「もう必要ないから」 車を出ようとした時、千梨の視界の端に何かが映った。助手席の隙間に何か黒いものが挟まっている。 そっと指でつまみ上げると、それは女性用の黒いストッキングだった。 持ち主が誰なのか、もう聞くまでもない。 これが康太が言っていた「ただの服」なのだろう。 康太は急かす。「終わったか?勝手に物を漁るなよ」 千梨は無表情のまま、そのストッキングをまた隙間に戻した。 「うん、終わった」 彼女が車から降りると、康太はすぐにドアをバタンと閉め、素早くロックした。 千梨は無関心だった。手の中の、バラバラになった赤い糸をぎゅっと握り、近くのゴミ箱に投げ入れた。 そのとき、携帯が鳴った。 「もしもし」 「いつ時間ある?結婚式は1ヶ月後でもいいけど、先に籍を入れよう」 雅紀だった。 「え……そんな急がなくてもいいんじゃない?」千梨は答えた。「今って、役所での手続きもすごく簡単だし。結婚式の日に入籍しても、問題ないよ」 その言葉を聞いて康太の顔色が変わった。「入籍?何の入籍だって?」 第5話 電話の向こうで、雅紀が尋ねた。「さっきのは、元カレ?」 彼の言い方には、すでに「元」という前提がついていた。 千梨は答えた。「うん」 「できるだけ早く引っ越して」 「わかった」 「入籍の件は、都合のいい日を教えて。予定合わせるから」 電話を切ったあと、康太がじっと彼女を見て言った。「こんな時間に、誰からの電話だ?」 千梨はさらっと答えた。「入籍しようって誘われたの」 康太は鼻で笑った。「千梨、そういう芝居、1回やれば十分だよ。2回目はさすがに白ける」 千梨は深く息を吸い込んだ。「そう」 「聞いてんのかよ?」 「安心して。もうあなたに何も言わないから」 康太はそれで満足したようだ。 「もう遅いし、優香のところに戻る」 「どうぞ」 帰り際、彼は振り返りながら言った。「もう少しだけ待ってくれ。優香の状態が落ち着いたら、ちゃんと籍入れるから。長年一緒にいたお前に、俺なりのけじめはつけるつもりだ」 その言葉に対して、千梨は何も答えなかった。 翌日、千梨は引っ越しの準備を始めた。 服は少なく、最も大事なのはパソコン。 プログラマーとして、これまでの全てのプロジェクトがそこに詰まっている。 雅紀が迎えに来たとき、千梨はパソコンバッグ一つだけを持っていた。彼は目を細めて言った。「それだけ?」 千梨は頷いた。「うん、それだけ」 「女の子って、もっと服とかバッグとか、たくさん持ってるもんだと思ってたよ」 そう、誰だって綺麗な服やブランド物が欲しい。 でも康太の起業を支えるため、だんだん生活が苦しくなった。 千梨は自分のアクセサリーを売り、服も何年も新しいものは買っていなかった。 今回も、下着だけ残し、あとはすべて慈善団体に寄付した。 雅紀はそのバッグを見て、そっと言った。「今週末、服を買いに行こう」 「いいよ、そんなの……」 「どうして?」 「……今月の給料、まだ入ってないし」 雅紀は思わず笑った。「じゃあ、前借りさせてあげようか」 千梨は唇を軽く舐め、まだ少し怯えた様子で聞いた。「社長、本当に私と結婚する気あるの?」 「どうしてそんなこと聞くの?」 「家からのプレッシャーがすごいとか?」 「まあ、それもあるけど。既婚者ってことで、株主の信頼も得やすくなる。会社にとってもメリットがあるからね」 「なるほどね。さすが極悪資本家……損することはしないんだ」 「今、なんて呼んだ?」 千梨は慌てて手を振った。「な、なんでもない」 雅紀は口角を上げた。「そろそろ、LINEの名前、変えた方がいいんじゃない?」 「今すぐ変える!即変更」 彼女はスマホを開いて、【極悪資本家】から【優しい人】に即変更した。 そして雅紀に画面を見せる。「ほら、変えたよ」 雅紀はチラリと画面を確認すると、車をゆっくり路肩に停めた。 「えっ、どうしたの?」 彼はスマホを取り、何か入力してから彼女に返した。 再び車が走り出したとき、千梨のLINEには【優しい人】が消えていた。 そこに表示されていたのは、たった二文字。【旦那】 「社長、まだ結婚してないのに、これはちょっと露骨すぎじゃない?」 雅紀は眉を上げて言った。「じゃあ今から、役所行く?」 そう言って、本当にUターンしそうになる。 「や、やめて!今日だけは無理」 「さてはまた言い訳あるな?」 「だって……運転免許証、まだ持っていない」 康太が千梨からの電話に出た時、彼は優香とショッピングを楽しんでいた。 優香は肩を大胆に出したミニドレスを試着して、鏡の前でポーズを取りながら色気を振りまいていた。 康太がぼーっと見惚れた瞬間、彼女はその顔をパシャリと隠し撮った。 さらに自撮りも追加。 Instagramにこう投稿した。 【きっと神様が間違えて結んだ赤い糸。ようやくあなたが私の元に来てくれた】 写真は二枚。一枚は彼女のセクシー全身ショット。もう一枚は、後ろから康太が彼女を見つめているショット。 男を手玉に取る快感に、彼女は酔いしれていた。 でも、すぐに康太の視線が外れ、眉をひそめながら通話に出た。 「千梨、今は言ったよな?数日は優香のそばにいるって。なんでまた電話してくるんだ?」 「運転免許証、どこにある?」 「運転免許証?何に使うつもりだよ?」 「ちょっと、手続きに必要で」 「何の手続きだ?」 優香は男の注意を引き戻すように、甲高い声で呼びかけた。「康太、このワンピース似合ってる?」 康太の注意力はたちまち引き戻された。 彼女が可愛くもセクシーなポーズを取る様子を見ながら、彼は早く電話を切りたいと思った。 「リビングのキャビネット、三段目の引き出しにある。今は忙しいんだ、用がなきゃもう電話してくるな、じゃあな」 第6話 もうすぐ雅紀の家に着くというころ、千梨は少し考えた。今日はもう役所もすぐに閉まる時間だし、手続きは、また今度にしよう。 とはいえ、彼女はもうすでに雅紀の家に住んでいた。 本当は、自分で部屋を借りて住んだ方がいいと思っていた。 だが、雅紀の言い分はこうだった。「結婚してるのに別居って、記者に撮られたらまた記事にされる」 結局、社長の仕事に協力する形で、千梨は雅紀の家に住むことになった。 ただし、彼女は「ゲストルームで寝る」と主張した。 この点に関して、雅紀は特に強引に何かを求めてくることはなかった。 しかし、千梨が持ってきた服をクローゼットにしまっているとき、雅紀は腕を組んでドアにもたれ、じっと彼女を見ていた。 「千梨、俺が言ってる結婚は、本気のやつだからな」 彼女は一瞬その言葉の意味が掴めず、うなずいた。「うん、わかってる。ちゃんと法的な手続きするし、籍も入れるってことだよね?記者に調べられても問題ないし」 雅紀は少し語気を強めた。「そうじゃなくて。本当の結婚の話だ。法律上だけじゃなくて、夫婦としての日常も含めて」 千梨はその意味にようやく気づいた。 彼女の顔が、ふわっと赤くなった。服をしまう手も、どこかぎこちなくなっていた。 雅紀はその様子を見て、くすっと笑い、やさしく言った。「安心しろよ。食べたりしないって」 康太が自宅に戻ってきたのは、それから3週間後のことだった。 この3週間、彼は優香と共に、彼女の好きなことばかりをしていた。 ディズニーランドで一日中遊び、海で朝日を見上げ、砂漠で天の川を眺めた。 帰り道、優香が彼にこう言った。「康太、私、妊娠したみたい。 この子に父親がいないなんて、そんなの可哀想じゃない?パパのいない子だなんて言われたら、あなたは耐えられる? 徹さんが私をあなたに託したのは、私を守ってほしかったから。この子を一緒に育てて、子供が大きくなったら、徹のお墓参りをさせて、義理の父親として……そうすれば、すべてが丸く収まるじゃない? それに、千梨とは十何年も一緒にいたかもしれないけど、まだ籍を入れてたわけじゃないよね?結婚してなければ、お互いフリーだよね。自由に選べるものでしょ? 彼女が怒っても、どうせ私、あなたの子どもをお腹に宿してる。さすがに、それを理由に中絶させるような酷いことはできないでしょ?」 その最後の一言に、康太は怒鳴った。「俺の子どもに手を出したら、俺が絶対に許さない!一生後悔させてやる」 優香は彼の胸に甘えるように身を預け、甘え声で言った。「康太、ほんとに男らしい。そりゃあ千梨が何年もあなたに夢中になるわけだよ。こんな素敵な男、どの女だって惚れちゃうよ。私も……」 彼女の甘い囁きと媚びた表情に、康太の虚栄心は大いに満たされ、心地よい高揚感に包まれていた。 だが家に戻ると、彼の気持ちはどこか落ち着かず、複雑だった。 千梨に対して、ほんの少しだけ罪悪感があった。 康太は玄関のドアを開けた。リビングに人影はない。 寝室のドアは、しっかりと閉じられている。 康太はそっと近づき、ドアをノックした。「千梨、中にいるんだろ?」 返事はない。 「悪い、また約束を守れそうにない。結婚の話だけど、やっぱり無理かもしれない。 優香が妊娠したんだ。子どもに父親がいないなんて、そんなことはできない。 俺は、徹の代わりとして彼女と子どもを守らなきゃならないんだ。だから、千梨、お前には申し訳ないけど。 そうだ……4万円やろう。これまでの償いだ。 返事がないなら了承したとみなす?ちゃんと計算してあるんだ。1年で2000円、十数年一緒にいたとしても、本来なら3万円ぐらいで済むところを、お前が長年尽くしてくれた分を加味して、4万円ってことで」 「千梨?」 黙り続ける部屋に、康太はゆっくりドアノブを回した。 その中には、誰もいなかった。