これで、後悔のない別れになった

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これで、後悔のない別れになった

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花岡翠(はなおか みどり)が沖田湊(おきた みなと)の兄の葬儀を終えた直後にした最初のことは、三年間連れ添った夫との離婚だった。 理由は...

Chương (1)

第1章

花岡翠(はなおか みどり)が沖田湊(おきた みなと)の兄の葬儀を終えた直後にした最初のことは、三年間連れ添った夫との離婚だった。 理由は、沖田家の親族全員が、湊に亡き兄の嫁との間に後継ぎを産ませよう求めたからだ。 「翠、親も絶食して首まで吊る勢いで迫ってくるんだ。俺にはどうしようもないよ!それに俺と兄嫁は体外受精なだけで、別に何かあったわけじゃないんだ。なんで離婚なんて言い出すんだよ?」 湊の言葉に、翠は目を閉じた。胸に鋭い刃が突き刺さったような痛みが走り、長く堪えていた涙がとうとう頬を伝う。 「湊、私たちは夫婦なのよ?本気でこの状況がおかしいって思わないの?」 愛する人が、他の女と子どもを作ろうとしている。こんな理不尽があるだろうか。 第1話 花岡翠(はなおか みどり)が沖田湊(おきた みなと)の兄の葬儀を終えた直後にした最初のことは、三年間連れ添った夫との離婚だった。 理由は、沖田家の親族全員が、湊に亡き兄の嫁との間に後継ぎを産ませよう求めたからだ。 「翠、親も絶食して首まで吊る勢いで迫ってくるんだ。俺にはどうしようもないよ!それに俺と兄嫁は体外受精なだけで、別に何かあったわけじゃないんだ。なんで離婚なんて言い出すんだよ?」 湊の言葉に、翠は目を閉じた。胸に鋭い刃が突き刺さったような痛みが走り、長く堪えていた涙がとうとう頬を伝う。 「湊、私たちは夫婦なのよ?本気でこの状況がおかしいって思わないの?」 愛する人が、他の女と子どもを作ろうとしている。こんな理不尽があるだろうか。 湊は翠の涙を見て、少しだけ動揺した。そのとき、彼のスマホが鳴り出す。 通話を繋げた途端、鋭い声が響き渡った。「湊、早く戻ってきて!義姉さんが睡眠薬1瓶を全部飲んで自殺しようとしてるの」 「なんだって」 電話を切った瞬間、翠が何かを言う前に、車は非常駐車帯に停車した。 湊は慌てて言った。「翠、ごめん!ちょっとサービスエリアで待ってて!すぐ戻るから」 土砂降りの雨の中、翠は黙って動かなかった。次の瞬間、湊は彼女のシートベルトを素早く外し、強引に車外へ押し出した。「今は駄々をこねるタイミングじゃないだろ!人の命がかかってるんだぞ!どうしていつも自分のことばかりなんだよ」 足元を取られた翠はそのまま泥だらけの地面に倒れ込み、服は瞬く間に泥水に染まっていった。 彼女が遠ざかっていくテールランプを呆然と見つめながら、心が灼けつくような痛みに襲われる。思い出したのは、かつての彼が三度、自分を救ってくれたことだ。 一度目は、学校で悪い噂を流され、皆から指をさされたとき、彼は真実を突き止め、デマの主犯を暴き、彼女の名誉を守ってくれた。 二度目は、賃貸先で不良大家に襲われかけたとき、彼はその大家を殴り倒し、夜中に彼女を連れ出して別の家に移してくれた。 三度目は、真冬の湖に精神疾患の人が突き飛ばしてきたとき、命の危機に瀕した彼女を、湊はためらわず湖に飛び込み、救い出した。 周囲の誰もが知っていた。翠は、湊のすべてだったと。 恋人から妻へずっとこのまま、二人で生きていくのだと信じていた。それが、結婚からたった三年で、こんな結末になるなんて。 どしゃ降りの雨の中、翠は一人、非常駐車帯を歩く。泥に濡れた服から水が滴り落ち、ほどけた髪が頬と首元に乱れて張り付く。ハイヒールがかかとに傷をつけ、すでに血がにじんでいた。 家に戻ったときには、すでに深夜を回っていた。 ドアノブに手をかけようとしたそのとき、中から湊の電話の声が聞こえてきた。 「湊さん、本当に穂香さんと体外受精するの?子どもの頃からの夢、ついに叶うんだな、ハハハ」 「だよなあ!湊さんって昔から穂香さんに片思いしてたもんな。でも穂香さんが好きだったのは兄貴のほうだったし、正直もう望みなんてないと思ってたよ。いや、にしても、もう体外受精なんてせずに、いっそちゃんと関係持っちゃえば?」 「黙れ」湊の声がかすかに震えながらも、優しい響きを帯びていた。「穂香さんは今、傷ついてる。変なこと言って、彼女を困らせるな。 でもさ、穂香さんとの子ども、やっぱ彼女に似たほうがいいよな」 「ハハハハハ」電話の向こうから、バカ笑いが響いてきた。「最初からこうするつもりだったんなら、湊さん、わざわざデマを流したり、不良大家や精神病患者の芝居を打ったりして、翠を騙す必要なんてなかったじゃないか!替え玉なんて本物には勝てない」 その瞬間、翠の視界がぐるりと回った。玄関のドアノブを握りしめ、必死にその場に踏みとどまる。 そうだったのか……全部そういうことだったのか…… 悪い噂を流した同級生が謝罪したあと、海外留学の支援を受けたと耳にしたのも。 殴られた大家が警察沙汰にせず、敷金も家賃もきっちり返してきたのも。 湖から救い出されたあと、どこを探しても社会ニュースに載っていなかったのも。 初めて沖田家を訪れたとき、皆が言っていた。「穂香さんに似てる」と。「沖田家の男は、だいたい同じ顔が好きなんだ」と。 全部、湊の計画だった。 翠の心臓は誰かの手に握り潰されているように締めつけられ、息ができなくなった。こらえきれない涙が、ぽろぽろと零れ落ちていく。 そのとき、胸元のスマホが震えた。 機械のように電話に出ると、先生の声が聞こえた。「翠、木彫りの先生の話、もう一度ちゃんと考えてみない?絶対に間違いない。あと七日で締切だよ。才能があるのに……」 先生の声を聞きながら、翠はドアの向こうを見据え、涙を拭うようにそっと目元を指で撫でた。 「先生、わかりました。行きます」 第2話 「ほんとに?」 電話越しに聞こえる先生の高ぶった声に、翠はスマホを握りしめた。胸の奥に、何重にも重なる苦さが込み上げる。 彼女はなんて愚かだったのだろう。紹介されたあの先生は、木彫の世界で最も名のある巨匠で、彼の手がける作品はすべて高額で競り落とされている。弟子になりたいと願う者も後を絶たない。 彼女は、湊の「翠、俺は遠距離恋愛が苦手なんだよ」というたった一言で、先生が必死になってつかんでくれたチャンスを、自ら手放した。 あの頃は、彼が自分を必要としているのだと思い込み、胸がいっぱいの甘さで、どんなに良いチャンスを逃しても惜しいとは思わなかった。 でも今なら分かる。彼が離れたくなかったのは、知念穂香(ちねん ほのか)に少し似ている顔だった。 「先生、七日後には、必ず伺います」 通話を終えたときには、湊の電話も終わっていた。 翠が家の中に入り、階段を上がろうとしたところで、湊の声が耳に入る。「よりよい環境で妊活を進めるために、今日から穂香、義姉さんが、うちのゲストルームに住むことになった」 言ったあとで気まずさを感じたのか、慌てて言葉を足した。「誤解しないでくれよ。俺だってどうしようもないんだ。義姉さんのメンタルが不安定で、あの状態で一人にするのは危ないし、これは親の希望でもあるんだ」 翠は立ち止まり、湊の言い訳がましい表情を見て、思わず苦笑いを浮かべた。「わかったわ」 いったい、何をそんなに取り繕っているのか。 彼女の落ち着いた声を聞いて、湊の胸に小さな違和感が生まれた。彼女のびしょ濡れの服に目が止まり、彼はようやく思い出す。翠をサービスエリアに迎えに行くと約束していたことを。でも、穂香が情緒不安定になったことで、翠のことなどすっかり忘れてしまっていた。 湊は謝ろうと足を踏み出したが、ひとつの影が彼の胸に飛び込んできた。 「湊、さっきあなたの兄さんの夢を見たの。どうして私がまだ生きてるのかって、怒ってた、私なんて生きる価値ないのに、死ぬべきだったのに!なんであのとき止めたのよ!どうして死なせてくれなかったの」 そう言って、穂香は再び外へ飛び出そうとした。 湊はそんな穂香の姿を見て、もはや他の考えなど頭に浮かばず、必死に彼女を抱き締めた。胸が締め付けられる思いだった。「それは夢だ!ただの悪夢なんだよ!夢は現実と逆なんだから」 抱きしめ合う二人の姿を見て、翠は静かに目を閉じ、踵を返して階段を上がっていった。 案の定、その夜、湊は部屋に戻ってこなかった。 そのすきに、翠はスーツケースを出し、淡々と荷物を詰め始めた。 夜明けまでかけて、彼女がスーツケースをクローゼットにしまい、部屋を出た。隣の部屋の前に来たとき、足が止まる。 部屋の中では、湊が穂香のベッドサイドに座り、これまで翠に見せたことのないほど優しい眼差しを向けていた。 翠の脳裏に、これまでの年月が一気に蘇る。 付き合って一年目、高熱で寝込んだときに、最もそばにいてほしいタイミングで、彼は「緊急の仕事だ」と電話一本で出ていった。その通話の向こうからは、穂香の声が聞こえた。 二年目、仕事の飲み会に付き添いで参加したとき、彼女は何本もの酒を無理やり飲まされ、胃を壊した。けれど湊は、一通のメッセージを受け取ると、彼女を置いてその場を離れた。メッセージの送り主のアイコンは、穂香だった。 三年目、四年目、五年目…… 毎年、同じようなことが繰り返された。 彼女はずっと「たまたま」だと思っていた。 でも今なら分かる。すべては必然だったのだ。 翠はこらえきれずに涙がこぼれる。けれど、それもすぐに指先で拭き取った。 七日後には、すべて終わる。 朝食時、二人の姿はすでになかった。翠は作業部屋に入り、彫刻刀を手に取ったところで、スマホが鳴った。親友の永山茜(ながやま あかね)からのメッセージだった。 【翠、ちょっと信じられないんだけど、今、湊が兄嫁と産婦人科にいるよ】 【兄さん亡くなったばかりでしょ!何なのあれ!】 続けて、いくつかの写真も送られてきた。 どの角度から撮っても、湊が穂香を支える姿は、親密でまるで夫婦のようだった。 ズズッ。 翠の手元が滑り、彫刻刀が木材を外れて、自分の指をかすめた。 遅れて鋭い痛みが走る。血がぽたぽたと、足元の木彫に落ちていく。 翠はその木彫を見下ろした。これは湊の姿を模したものだった。 以前、湊はそれを見てからかってきたことがある。「そんなに俺と離れたくないのかよ?」 「うん。私が作業してるときも、ずっとそばにいてね」 今は血に染まったその木彫を見つめた翠は、何のためらいもなくそれを拾い上げ、外に出て、ごみ箱へと投げ入れた。 もう、彼がいなくても生きていける。 第3話 湊が穂香を連れて帰宅したのは、すでに夜になっていた。食卓で一人、夕飯を食べている翠の姿を見たとき、湊の表情が一瞬だけ固まった。 かつては、どれだけ遅くなっても、翠は必ず彼と一緒に食事をとっていた。何度諭しても、彼女が聞き入れなかった。 しかし今、彼女は自分ひとりで静かに食事をしている。湊の胸に得体の知れない違和感が広がる。彼が言葉をかけようとした瞬間、隣の穂香が彼の腕をそっと掴んだ。 「湊、明日の予定、翠さんに言わなくて大丈夫?」 その言葉に、湊はすぐ反応した。「翠、医者が言ってたんだけど、穂香さんのメンタルが今すごく不安定で、このままだと体外受精にも悪影響が出るかもしれないって。だから気分転換が必要なんだ。穂香さんはダイビングが好きだから、明日一緒に行ってくる」 翠は静かに席を立ち、階段へ向かう。「ご自由に」 彼らの茶番に付き合っている暇など、彼女にはもうなかった。 部屋に入った瞬間、湊が後を追ってきて、強く彼女の手を掴む。「翠、君が体外受精のことで不満があるのは分かる。でも穂香さんには関係ないだろ?なんで彼女に当たるんだよ」 翠は視線を落とした。包帯で覆った指先からは、掴まれた拍子にまた血が滲み出している。 自分はただ、行かないと言っただけ。それだけで彼は、あっという間に彼女を責め立て、穂香を必死でかばう。「湊、彼女は兄嫁よ。あなたの兄の妻なの」 その一言に、湊はまるで尻尾を踏まれた猫のように逆上し、彼女の腕を振り払った。「翠、本当に心が汚い!何度も言ってるだろ!体外受精なんだよ!何もしてないんだ。 両親はただ、兄に子どもを残してあげたいだけだ。誰も供養する者がいないなんて、そんなの可哀想だろ!俺が止めなきゃ、両親は本当に死んじゃうかもしれないんだぞ!なんで少しも俺の気持ちをわかってくれないんだよ」 翠は何も言わず、ただ自分に言い聞かせるように喋る湊を静かに見つめた。 湊は気まずそうに視線をそらし、そのまま逃げるように背を向けた。 翠はそっと包帯を外した。滲み出した血が、手のひらを染めていく。 昔なら、ほんの小さな切り傷にだって、彼はすぐ気づいて手当してくれたのに。今は、こんなに血が出ていても、見向きもしない。 湊の中で、穂香は兄嫁なのか、本人にしか分からないのだろう。 翌朝早く、湊は翠の意思を無視して、強引に彼女を車に乗せた。湊と穂香は前の座席、翠だけが後部座席にひとりきり。 かつて湊は、「運転中の会話は危ない」と言って、車内で話すのを嫌がった。 でも今は彼と穂香は、笑いながら楽しそうに話していた。 海辺で、二人はダイビングスーツに着替えて海に入っていった。 それから三十分ほど経った頃、穂香が水面に現れた。「翠さん、潜らないの?」 翠は首を振る。「いいえ。泳げないので」 「そうか」 そう言うと、穂香は突然、翠の手を掴んだ。「水の中って楽しいよ。こんなところで一人で待ってても退屈でしょ?一緒に行きましょ」 次の瞬間、穂香は翠をぐいっと水の中へ引きずり込んだ。 突然のことで、驚いた翠は反射的に彼女を掴もうとしたが、もう姿は見えない。 冷たい海水が口と鼻を塞ぎ、翠の身体はあっという間に沈んでいく。 「助けて!湊!湊!」 翠はもがきながら必死に叫ぶ。視界に、一つの影が猛スピードで近づいてきた。湊だった。彼の顔には明らかに焦りが浮かび、叫ぶ。 「翠!大丈夫だ、すぐ助けるから」 だが次の瞬間、恐怖に満ちた穂香の声が響いた。 「湊、助けて、足がつって動けないの」 その声を聞いた瞬間、湊の動きがピタリと止まった。彼は振り返り、もう一方を見やった。 海の中、穂香が必死に水面を叩き、足は動かず、身体が深みへと沈んでいっていた。 徐々に視界がかすれていく中、翠は湊が一瞬こちらを見るのを感じた。ほんの一秒で、湊は迷いなく背を向け、穂香の方へと泳いでいった。 その背中を見送りながら、翠の手から力が抜けていく。体がどんどん海の底へと沈んでいく中、彼女は目を閉じ、かすかに唇を歪めた。 まだ、何かを期待していたんだろうか。 第4話 翠は悪夢にうなされて目を覚ました。 冷たい海水がどこまでも押し寄せ、逃げ場などどこにもなく、ただ飲み込まれていく。 目を開けた瞬間、湊の姿が勢いよく飛び込んできた。「翠、大丈夫か?本当に心配したんだ!」 目の前の湊を見て、翠がまだ何も言わないうちに、湊は焦ったように続けた。「穂香さんを責めないでくれよ。ただ一緒に海に入りたかっただけなんだ。まさかそんなに怖がるとは思わなかったんだよ。穂香さんも怖がって足がつって、もうちょっとで大変なことになるところだった。だからこれでおあいこ、ってことでさ」 目が覚めて最初に聞かされたのが、まさかそんな言葉だなんて。 翠の胸に冷たい波が押し寄せた。彼の顔をまっすぐ見つめた。「湊、本当に死にかけたのよ。わかってる?」 どうして、そんな言葉が平然と言えるのか。 湊は眉をひそめ、「そんなにムキになるなよ。死ななかったんだし。それに穂香さんだって溺れかけたんだぞ。それじゃ足りないって言うのか?死んで詫びろって? 些細なことをいつまでも根に持つな。以前の君はこんなじゃなかった。わがままにも程がある」 些細なこと…… そうか。まだ死んでない。ただ些細なことなんだ。 たぶん、仮に死んだとしても、彼にとっては些細なことなのだろう。 馬鹿馬鹿しさに、翠は顔を背けた。「もう休みたいの」 「わかったよ。よく考えてみろ」それだけ言うと、湊は病室を出て行った。 その後の二日間、彼は一度も顔を見せなかった。看護師が点滴に来るたびに隣の病室のことを楽しげに話してくる。「隣のご夫婦、ほんとに仲が良いのよ。奥さんがちょっと溺れただけで、旦那さんがずっと付きっきりでね、ほんとに羨ましくなっちゃうわ」 点滴スタンドに手を添えて、翠はふらりと廊下に出た。案の定、隣の病室では湊がベッドの傍らでりんごの皮を丁寧に剥きながら、穂香の口元にやさしく差し出していた。 もう覚悟はできていたはずなのに、胸の奥が無理やり握りつぶされるような痛みに襲われる。 引き返そうとしたその時、穂香が手にしているものに気づき、翠は凍りついた。 我を忘れて病室に駆け込み、穂香の手からそれを奪い取った。「それ、私がコンテスト用に作った木彫だ!どこで手に入れたの?」 翠の勢いに驚いて、穂香が怯えたように湊の腕にしがみついた。 「湊……」 湊も翠の出現に驚き、慌てて穂香を抱き寄せながら、面倒くさそうに眉をひそめた。「俺が持ってきたんだよ。穂香さんがちょっと見て、気に入ったからさ、触らせてやっただけだろ。何がいけないんだ? 君くらいの腕があれば、またすぐ作れるだろ。そんなに怒ることないだろ、怖がらせんなって」 「またすぐ作れる?」 翠は湊を見つめた。「私がどれだけ心を込めたか、知ってるはずよ。四ヶ月もかかったのよ」 この作品のために、彼女は毎日作業室にこもり、倒れるまで作業を続けて、それでも手を止めなかった。 それなのに、どうしてこんなに軽く言えるの? 湊の表情が変わる。「たかがコンテストじゃないか。今までいくつも賞を取ってきただろ?一個くらい減ってもどうってことない」 翠は木彫を握りしめながら、目の前の作品が変わり果てた姿になっているのを見つめた。視界が涙でぼやけていく。 もう抑えきれなかった。「湊、あなたにとって、私は一体なんなの? 少しでも、ほんの少しでも私を愛してくれたことがあった?それとも、本当に愛してる人は最初から別の人なの?」 怒鳴り声に野次馬が集まり始めていた。湊はベッドから立ち上がると、苛立ちを爆発させた。「何言ってるんだよ、頭おかしくなったんじゃないのか?医者に診てもらえ!君は恥ずかしくないのか」 彼が触れようとした瞬間、翠は彼の手を振り払った。 「触らないで!」 手の甲から点滴の針が抜け、血が滲み出す。 湊は翠の手から溢れ出る血を見て、慌てて駆け寄り傷口を押さえようとした。「翠、手が……」 「大丈夫」 翠は無表情に自ら傷を押さえ、血が手のひらから指先までじんわりと広がっていく。 「続きをどうぞ」 第5話 病室の外で、翠はどれだけ歩いたのかわからなかった。 午前三時、ようやく家に戻ってきたとき、灯りをつけなかった。部屋の扉に手をかけたその瞬間、中から泣き声が聞こえてきた。 「湊、こんなの間違ってるよ。私が悪いの。もうこれ以上続けちゃいけない」 ベッドの上、二人の衣服は乱れ、穂香の顔は赤く染まり、酒の匂いが部屋に充満していた。「あなたは弟でしょ?ダメなの。もう体外受精でいいのよ、それしかないの」 そう言って、穂香はベッドから降りようとする。 けれど、少しでも動くと、背後から湊がすぐに彼女を引き寄せた。胸の奥に押し込んでいた感情が、あふれ出しそうになる。だが、言葉にしようとした瞬間、彼はまた飲み込んだ。「穂香さん、本当は、俺……」 扉の前、翠は目を伏せた。彼が言えないことを、彼女はもう知っていた。 穂香は兄の妻、湊は弟。 それに、彼には家庭がある。 彼は、すべての感情を押し殺して生きている。限界まで、抑え込んで。「医者が言ってたんだ。体外受精も確率は高いけど、早く子どもを授かるには自然妊娠の方が可能性は上がるって。俺たちはまだ若いし……」 彼の手が、穂香の腰にそっと触れる。「俺のこと、お兄さんだと思えばいい」 穂香は彼を見つめ、かすれた声でつぶやいた。「湊……」 すぐに、部屋の中からは喘ぎ声が聞こえ始めた。 翠はその場から逃げ出したかった。けれど、身体が凍りついたように、その場に立ち尽くすしかなかった。 中から聞こえてくる音が、鋭い針のように身体の奥へ突き刺さる。痛くて、苦しくて、呼吸すらままならなかった。 ようやく終わりが訪れたとき、翠の胸の奥が激しく波打った。 彼女は階段を駆け下り、外へ飛び出し、路肩に膝をついた。そして、すべてを吐き出すように嘔吐を繰り返す。 何度も、何度も、吐くものがもうないのに、それでも止まらず、涙だけがこぼれ落ちた。 泣きながら、彼女の脳裏に浮かんだのは、湊と結婚した日のことだった。彼女が両親を早くに亡くし、送り出してくれる家族もいなかった。 彼は確固たる態度で彼女のそばに立った。「翠、一生君を大切にする。君だけを想って生きる。他の誰にも目を向けない」 あの日、彼女は感動で泣き崩れた。 しかし、あれからたった三年で、その誓いはすべて嘘になった。 夜が明けた。翠は涙を拭い、ビザの申請をするために、タクシーを呼んで領事館へ向かった。 家に戻ったときには、すべてが何事もなかったかのように元通りになっていた。まるで何も見なかったかのように、翠も淡々とふるまう。 部屋に戻ると、スーツケースが引っ張り出されているのが目に入った。一瞬立ち止まると、湊がやや気まずそうに近づいてきて言う。「医者の話だと、体外受精するには体調を整え、薬もちゃんと飲まなきゃいけない。穂香さんはうっかり忘れがちだから、近くで見ておきたいと思って…… これは両親の望みを早く叶えるためだよ。穂香さんが早く妊娠すれば、俺たちも二人の時間を取り戻せるし」 しどろもどろな言い訳に、翠は思わず口元を引きつらせた。よくもまあ、ここまで都合のいい話を考えついたものだ。 「いいわよ」彼女はあっさりと応じた。 すると湊は嬉しそうに彼女を抱きしめた。「やっぱり、翠はわかってくれると思った!本当に優しくて、思いやりがあるんだな」 彼の体からは、明らかに他の女の香水の匂いがした。翠は吐き気をこらえながら、彼を突き放す。そして、黙々と荷物をまとめていく。 本来なら荷物をすべて持ち出すと疑われるところだが、今は堂々とできる理由ができた。 翠がすべての荷物を持ち出していくのを見て、湊は慌てて口を開く。「そんな全部持ってかなくても、穂香さんがいるのも一時的なもんだし、そのうち……」 最後の洗面道具をまとめながら、翠は微笑んで振り返った。「私が必要なものを使おうとした時、いちいち入るのは迷惑でしょ」 第6話 その後の数日、翠はゲストルームで寝起きし、目覚めるとすぐに仕事場へ向かった。 先生は弟子の才能を何よりも重視しており、訪ねる際には最新の作品を持参するように言われていた。時間はない、課題は多い。 けれど、どうしたことか最近の彼女はひどく疲れやすく、異様に眠かった。彫刻をしている最中にも、ふと意識が途切れてそのまま眠ってしまうことが何度もあった。 翠は嫌な予感がした。 病院を出て、検査結果の数値を見たとき、彼女は力なく椅子に腰を下ろした。 どうして…… 結婚当初、二人は子どもを心待ちにしていた。 あらゆる方法を試しても、なかなか授からなかった。 そのうち、湊は「無理しなくていいよ、自然に任せよう」と言ってくれた。 もう、望みなんてとっくに諦めていたはずなのに…… 翠はそっと自分の腹に手を当て、目が赤くなる。赤ちゃん、時を間違えたんだ。 ポケットの中のスマホが鳴った。電話を取ると、はしゃいだ声が響く。「翠、早く来て!いい知らせがあるの」 義両親の家に着くや否や、翠は中へと引っ張り込まれた。 誰もが嬉しそうな顔をしている。「翠!穂香が妊娠したのよ」 翠は驚いて顔を上げ、ソファに座る二人を見つめた。そんなはず、ない…… 次の瞬間、穂香が頬を赤らめて言った。「義母さん、そんなに決めつけないでくださいよ。まだ数日ですし、検査にも行ってませんから」 「何言ってるのよ!私の目が節穴だとでも?二人を産んだ母親の直感に間違いなんてあるわけないでしょ」 義母の断言に、穂香は恥ずかしそうにうつむき、自分の腹にそっと手を添えた。 「翠、穂香には赤ちゃんができたのよ。これからはしっかり支えてあげなさいね。何しろ……」 言葉の最後は飲み込まれたが、翠にはわかった。これは穂香の子供であると同時に、夫である湊の子供なのだ。 湊がすぐに口を挟む。「母さん、翠なら、絶対しっかり穂香さんを支えてくれるって、信じてるから」 「そうそう!」 家族中が穂香の妊娠に沸き立つなか、誰一人として翠の気持ちに目を向ける者はいなかった。 今はまだここを離れるわけにはいかない。そう思った翠は、黙って二階に上がった。 昼寝のあと、急な吐き気に襲われ、翠はトイレに駆け込み何度も吐いた。 「翠さん、大丈夫?」 ふいに、背後から声がした。 振り返ると、いつの間にかそこに穂香が立っていた。翠は冷たく答えた。「なんでもないわ」 「翠さん、私のことを責めてるのはわかってる。でも、これは私のせいじゃないの。お義父さんとお義母さんが望んだことなの」そう言いながら、穂香は腹に手を添え、静かに続けた。「それに、湊も同意してたわ」 翠はもう話す気もなく、口をゆすぎ、口元を拭ってその場を立ち去ろうとした。 「わかってる」 すれ違いざま、不意に穂香が彼女の手をつかんだ。顔をゆがめるようにして、彼女は言った。「この子は、私にとってたった一人の子なの。誰にも、絶対にこの子の愛を奪わせない」 翠は意味がわからず、離れようとした瞬間、自分の検査結果を穂香が握っているのに気づいた。 嫌な予感がし、翠は手を振り払い、お腹を守りながら後ずさった。 「何をするつもり?」 穂香は彼女が腹部を庇う様子を見て、全てを確信した。「翠、このタイミングで妊娠なんて、間違ってるわ。 湊と私の赤ちゃんから、誰にも愛を奪わせない」 翠の心臓が早鐘のように打ち鳴り、彼女は踵を返して走り出した。声を張り上げる。 「湊!湊!」 穂香はすぐに追いかけてきた。「無駄よ、誰もいないわ。ドライフルーツ食べたいって言ったら、みんな買いに出ちゃった。 翠、あの人たちの中で一番大事にされてるのは、私なのよ」 翠は鋭い目で彼女をにらみつけた。「穂香、争うつもりなんてない。私が出ていく。湊も、沖田家も、全部あなたのものにすればいい」 だが、穂香は笑った。「出ていく?それだけじゃ、足りないのよ」 第7話 穂香が近づいてくるのを見た瞬間、翠はすぐに背を向けて階段を駆け下りた。 だが次の瞬間、背中に強い衝撃を受け、身体は制御を失って、そのまま下へと投げ出され階段に激しく叩きつけられ、転がるように何段も落ちていった。 「翠!」 焦った声がすぐ近くから響いた。 玄関先でフルーツチップスを持っていた湊の手から、それが落ちると同時に、彼は全力でその方向へ走り出す。 「うっ!」 湊が今まさに翠のもとへ駆け寄ろうとしたそのとき、穂香が突然うずくまり、腹を抱えて苦しみ始めた。 「湊、お腹がすごく痛い。病院に連れてって」 湊の足が止まる。地面に倒れた翠を見てから、苦しむ穂香へと視線を移し、その顔に迷いが浮かぶ。 穂香がさらに苦しそうに呻くと、彼は迷いを断ち切るように、翠の体をまたぎ、一気に階段を駆け上がって穂香を抱きかかえた。 通り過ぎざま、彼は翠に向かって叫んだ。「翠、動かないで!まず穂香さんを病院に連れてくる!すぐ戻るから」 湊が立ち去った瞬間、翠の下半身から鮮血が溢れ出した。彼女は青ざめた顔で叫んだ。 「湊!湊!」 彼女は声を振り絞って泣き叫ぶ。 赤ちゃんを助けて! その叫びを背に、湊の足が一瞬止まった。翠の我慢強さは彼も知っていた。以前、交通事故で複数の骨を折ったときも、彼女は痛みに耐えて笑いながら「大丈夫」と彼を慰めた。 振り返ろうとしたが、彼の腕の中で、再び嗚咽が響く。「湊、お腹が痛いの。うちの赤ちゃんが……」 子どもが、ダメになるわけにはいかない。 わずかの逡巡の後、湊は振り返ることなくそのまま走り去った。 血の海に倒れたままの翠は、痛みに顔を歪めながら少しずつ身体を動かし、必死に近くにあったスマホへと手を伸ばし、なんとか救急車に電話した。 救急車がサイレンを鳴らして到着する。 病院へ向かう途中、突然一台の車が進路を塞いだ。 車内の救急隊員は焦って叫ぶ。「前の車、道を開けてください!ナンバー6547の方、速やかに退避をお願いします」 「6547」その数字を聞いた瞬間、翠の目が見開かれる。 湊の車だ。 前方の湊も、後方のサイレンに気づいて車を停めようとした。しかし隣にいる穂香がさらに激しく泣き始めた。湊は迷った末、アクセルを踏み込んだ。後ろの救急車のサイレンなど完全に無視して、スピードを上げて走り出す。 「大野(おおの)先生、大変です!患者の出血が止まりません。どうしましょう?」 看護師の声に医師が駆け寄り、シーツ越しに溢れる血を見て、表情が変わる。「すぐに手術の準備を!」 「でも前の車がどかないんです、どうしましょう!」 医師も焦りを隠せない。前方のドライバーが事態の深刻さに気づき、無理やり車列を抜けた。 病院に着くと、翠が診察室へ入れられた直後、湊が穂香を支えながら急ぎ足で入ってきた。まだ何も言わぬうちに、看護師の声が響いた。 「患者花岡翠さん、流産による大量出血です。ご家族の方、いらっしゃいますか?」 病室。 翠が目を開け、自分の腹を押さえようとしたが、誰かの手が彼女の手を握った。震える声が耳に届く。「翠、ごめん。全部俺が悪い、必ず償うから」 横を向けば、顔面蒼白の湊がいた。脳裏には彼が穂香を抱きかかえて階段を駆け上がったあの姿が、勝手に蘇ってきた。翠の手がピクリと震え、彼の手をそっと振り払った。 もう結果はわかっていた。 自分の子どもやっと、ほんの一日前にその存在を知ったばかりだったのに…… 翠の涙が止まらなかった。湊も声を詰まらせていた。「翠、俺たちには、また子どもができるさ」 そう、子どもはまたできるかもしれない。でももうこの人とは二度と。 翠は目を開けて湊を見た。「穂香は?」 湊は目を逸らしながら答える。「休んでるよ。翠、今回のことは穂香さんも悪気があったわけじゃない。二人が喧嘩しててきっと事故だったんだ。 彼女はまだ妊娠してるから、ショックを与えちゃいけない。君はもう子どもを失った。でも穂香さんには、失わせたくないんだ」 今なお穂香をかばう湊に、翠の胸が張り裂けそうになった声まで震える。「湊、私たちの子だったんだよ!たった一人の子だ」 あんなに待ち望んだ命が、この世に来てまだ三ヶ月も経っていないというのに! 「分かってる!分かってるんだ」 湊が翠を強く抱きしめる。「俺が悪い! でも穂香さん、本当にわざとじゃないんだ。妊娠してて情緒不安定なんだよ。彼女を許してくれ。君が欲しいものなら、何でもやる。償うから」 翠はその言葉に返す声も失い、喉まで込み上げていた思いをただ涙に変えた。 大粒の涙が次々に頬を伝う。 もう、何も期待すべきじゃなかった。 湊が何か言いかけたとき、彼のスマホが鳴った。 電話の向こうからは、穂香の声が聞こえてきた。「湊、お腹、また痛くなってきたの。今どこにいるの?」 今度は湊が口を開く前に、翠が言った。「行ってあげて」 その姿を見て、湊はどうすればいいかわからなくなった。なぜか、彼女が自分からどんどん遠ざかっていくような気がした。 病室を出る前、彼は彼女の手を握りしめ、何度も繰り返した。「戻るから待っててくれ」 湊が病室を出た瞬間、翠はゆっくりと体を起こした。だが次の瞬間、看護師が慌てて駆け寄ってきて、彼女を押さえた。 「まだ動いちゃダメです!さっき子宮摘出術を受けたばかりなんですから!」 子宮摘出術。 翠の身体は雷に打たれたように震えた。彼女は呆然としたまま、動けずにいた。 もう、子どもを産むことはできないんだ。 看護師が、気の毒そうに言った。「もう少し早く病院に着いていれば……」 もう少し早く病院に着いていれば…… 翠の頭に、救急車の中で聞いたナンバーが浮かんだ。次の瞬間、彼女の頬を濡らす涙は止まらなかった。 第8話 翌朝早く、翠は医者の止める声を振り切って退院した。 持ち物はほとんど整理し終わり、簡単にまとめただけだった。 階下に降りると、湊と穂香も戻ってきていた。翠の姿を見ると、湊は慌てて駆け寄った。 「翠!まだ体が回復してないのに、どうして帰ってきたんだ! 早く!病院に連れて行く!」 そう言いながら彼女の腕を掴んで引っ張ろうとした。 翠は首を振って言った。「もう大丈夫よ」 湊は何度も尋ねたが、彼女が頑なに拒み、仕方なくそれ以上は言わなかった。 彼は翠を抱えて寝室へ運び、丁寧に布団をかけると、優しく言った。「翠、きっと全部うまくいくから」 翠は何も答えず、スマホの着信音が鳴った。 手に取ると、穂香から送られてきたものだった。それは病院のトイレで二人が愛し合っている動画だ。 返事がなかなか返ってこないのを見て、湊は顔を上げて翠を見た。口を開こうとしたその時、翠がぽつりと言った。 「湊、金庫の暗証番号、何だった?」 結婚した時、湊は彼女を安心させるために、離婚協議書を書き、署名済みのものを金庫に入れた。ただ、誰も簡単に開けられないように、6桁のパスワードを設定し、それぞれが3桁ずつ覚えることにしていた。 湊は気にせず言った。「俺のは君の誕生日だ。君のは知らない」 「わかった」 午前3時、翠は起き上がり、金庫を開けた。 その六桁のパスワードは、まるで彼らの6年間の時間が一瞬で過ぎ去ったかのようだった。 離婚協議書は2通、彼女は署名を済ませて階下のテーブルに置いた。 ドアを開けて、キャリーケースを引きながら外に出ると、すでに先生の車が待っていた。 出てきた翠を見て、先生が後ろを振り返りながら言った。「翠、旦那さんは送ってくれなかったのか?」 翠は車に乗り込み、シートベルトを締め、6年間使っていたスマホをゴミ箱に投げ捨てた。 「必要ないわ」 それから先、もう彼女には彼が必要ではなかった。