愛とは十の誓いと九つの偽り

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愛とは十の誓いと九つの偽り

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「お嬢さん、この婚姻証明書の番号は偽物ですよ」 山口真奈(やまぐち まな)は目を見開いた。 「そんなはずないです。もう一度確認してくださ...

Chương (1)

第1章

「お嬢さん、この婚姻証明書の番号は偽物ですよ」 山口真奈(やまぐち まな)は目を見開いた。 「そんなはずないです。もう一度確認してください」 「確認した結果、証明書の番号も押印も偽物でした。妊娠の登録には、正式で有効な書類が必要なんです」 真奈の指先がかすかに震えた。偽の婚姻証明書をぎゅっと握りしめ、ふらつく足取りで産婦人科を後にした。 急いで家に戻ると、リビングには六年間行方不明だった姉・山口結菜(やまぐち ゆな)の姿があった。 「真奈、やっと帰ってきたのね」 母が一番に駆け寄ってきて、真奈の手を取った。目には涙が溢れていた。 「真奈、結菜は病気なの。肝臓がんの末期で、もう時間がないのよ。彼女の最後の願いは、航平と結婚すること……お願い、叶えてあげて」 第1話 「お嬢さん、この婚姻証明書の番号は偽物ですよ」 山口真奈(やまぐち まな)は目を見開いた。 「そんなはずないです。もう一度確認してください」 「確認した結果、証明書の番号も押印も偽物でした。妊娠の登録には、正式で有効な書類が必要なんです」 真奈の指先がかすかに震えた。偽の婚姻証明書をぎゅっと握りしめ、ふらつく足取りで産婦人科を後にした。 彼女は震える手でスマホを取り出し、夫の小林航平(こばやし こうへい)に連絡を取ろうとする。 しかし、電話の向こうから流れてきたのは冷たい機械音だった。 「おかけになった電話は現在出ることができません。しばらくしてからおかけ直しください」 真奈はすぐに自宅へと向かった。玄関前に見覚えのある車が停まっている。父の車だった。 状況を考える間もなく、家に入るとリビングには六年前に姿を消した姉・山口結菜(やまぐち ゆな)の姿があった。 「真奈、やっと帰ってきたのね」 母が最初に駆け寄り、涙を浮かべながら真奈の手を握った。 「真奈、結菜は病気なの。肝臓がんの末期で……彼女の最後の願いは航平と結婚すること。お願い、叶えてあげて」 「お母さん、何を言ってるの……?」 真奈は顔色を失い、母をじっと見つめた。体の横に垂れた手が止まらず震えていた。 母は病に伏せる結菜を見つめ、切なそうに懇願する。 「真奈……お姉ちゃんにはもう時間がないの。お願いだから譲ってあげて」 「嫌よ!絶対に嫌!」 あまりの理不尽さに、真奈は信じられないという表情で母を睨んだ。怒りと混乱が胸の奥で渦巻き、呼吸すら苦しくなる。 母はさらに激しく泣き出した。涙が止めどなくこぼれ落ちる。 「真奈、お母さんだってわかってる。あなたにとってどれだけ酷なことか。でも……お姉ちゃんは、好きな人と最後の時を過ごしたいだけなの。どうか、理解してあげて……」 真奈が何かを言おうとしたその時、兄の山口陽斗(やまぐち はると)が隣にいる航平の襟を掴んだ。 「航平、俺たちは長年の友だちだろ。頼む、妹のために力を貸してくれ」 「兄さん……じゃあ、私は?」 真奈は痛々しいほど真っ直ぐに兄を見つめ、震える声で問い返す。 「私はあなたの妹じゃないの?」 陽斗が答える間もなく、父の怒りのこもった声が響いた。 「もうやめろ、真奈!お前がそんなに駄々をこねるなら、もう二度と娘とは思わん!」 その言葉に航平が動いた。真奈の手を取り、彼女を背中にかばうようにして立った。 彼は肩を抱いて優しく語りかけた。 「真奈、君が辛いのはわかってる。でも……一度だけ、君の両親の言うことを聞いてみないか? 結菜とするのは、本物の結婚じゃない。ただのセレモニーさ。子どものおままごとみたいなものだよ。な?」 「嫌よ、私は嫌!」 真奈は崩れ落ちるように首を振った。 「航平、あなたが結菜と結婚式を挙げるって……じゃあ私は?私は一体何なのよ!」 「真奈、俺たちはもう婚姻届を出してるんだ。何を怖がることがある?」 航平は真奈の背中を優しく撫でながら、穏やかな口調で言った。 「みんな家族だろ?お姉さんが後悔を残して逝くのを、俺たちが黙って見てるわけにはいかないさ」 真奈は彼の腕を力いっぱい振りほどき、数歩後ずさった。 彼女は数日前に妊娠が判明し、今日はその登録のために病院へ行ったはずだった。 けれど、そこで知らされたのは――婚姻証明書が偽物だという現実。 航平はずっと嘘をついていた! そして今、家族全員が彼女を騙そうとしている! だったら――もう、誰のことも信じない!誰のこともいらない! 第2話 真奈は突然、背後の冷たい壁にぶつかり、背中に鋭い痛みが走った。しかし、その痛みも心の悲しみには到底及ばなかった。 航平の気遣う声がリビングに響き、目の前の現実がまるで悪い冗談のように思えてくる。 山口家と小林家の婚約は、もともと決められていたものだった。 本来なら航平が結婚するはずだったのは、彼女の姉・結菜。しかし結菜は大学を卒業した後、金髪の男と駆け落ちして海外へ行ってしまった。 皆が航平を笑いものにしていたその時――彼は突然、真奈に告白したのだ。 「俺がずっと好きだったのは結菜じゃない、真奈なんだ。これからは堂々と真奈を追いかけられる!」 彼は三年間追い続け、そして三年間共に暮らした。 彼が愛してくれたその六年間が、今ではまるで笑い話のように胸を締めつける。 次の瞬間、陽斗が素早く前に出て、父親の前に立ちはだかった。 「真奈、無理を言ってるのはわかってる。でも航平の言う通り、これは偽装結婚だ。君たちの生活に影響はない。結菜の時間はもう残されてないんだ、お願い、助けてやってくれ」 そう言いながら、陽斗は手を伸ばして真奈をなだめようとしたが、彼女に強く突き放された。 「私が助ける?」 真奈は皮肉めいて口元を歪め、目の前の人々を見渡す。 ――ここに立っている誰一人として、本当の意味で自分のことを考えてはいない。 この大きな別荘が、まるで巨大な牢獄のように思えた。彼女の半生を閉じ込めていた檻。 真奈は踵を返し、玄関へと駆け出す。ヒールが磨かれた床を叩きながら、乱れた音を響かせた。 「止まれ!」 父の怒鳴り声が鋭く響き、顔には怒気が満ちていた。 「真奈、今日この家を出て行ったら、二度と戻ってくるな!」 真奈は一瞬足を止めたが、振り返ることなくそのまま外へ出た。 目的もなく道を歩き続ける。風が耳元で容赦なく吹き荒れていた。 ふいに、腹部に鋭い痛みが走る。鮮やかな赤がスカートに広がっていくのが見えた。 真奈は動揺し、反射的に携帯を取り出して航平の番号を押した。 長い呼び出しのあと、冷たく機械的な声が耳に届く。 「おかけになった電話は、現在つながりません。後ほどおかけ直しください」 携帯を握る手に力が入り、その行動自体が滑稽に思えて、目の奥が熱くなった。 すぐに彼女は救急に電話をかけた。 意識が遠のく直前、救急隊員の姿がぼんやりと目に入った。 次に真奈が目を開けた時、真っ白な天井が視界に広がっていた。 下腹部に走る痛みが、彼女の意識を一気に引き戻す。冷や汗が背中を伝って流れた。 「目が覚めましたね」 穏やかな女性の声がして、白衣を着た医師がベッドのそばに立ち、手元のカルテを確認しながら言った。 「今の体調はいかがですか?」 真奈は口を開こうとしたが、喉が乾ききっていて声が出なかった。 しばらくして、ようやく搾り出すように言葉を紡いだ。 「先生……私の赤ちゃんは……」 言葉の続きを言えなかったが、医師には伝わった。 医師は顔を上げ、優しい眼差しで彼女を見つめた。 「山口さん、最近かなり無理をされていたようですね。流産の兆候があります。赤ちゃんを望まれるなら、これからは絶対に安静にして、感情の起伏も避けてくださいね」 「……わかりました」 真奈は震える手でお腹に触れた。複雑な思いが胸に溢れる。 医師が病室を出ていくと、部屋には静寂が戻る。 真奈の手は、平らなままのお腹の上に置かれたままだ。けれど、そこには今の彼女にとって唯一の希望がある。 少し落ち着いてから、彼女は携帯を取り出し、「死亡偽装サービス」の責任者にメッセージを送った。 【島村さん、私を『死んだこと』にして、この場所から消えさせてください】 これから彼女が守る家族は、お腹の中の子だけ。 それ以外は、もう何もいらなかった。 第3話 真奈は死亡偽装サービスの責任者・島村慎也(しまむら しんや)の約束の時間を決めると、すぐに立ち上がって向かおうとした。だが、病院の曲がり角で思いがけず航平を見かけてしまった。 彼は背筋を伸ばし、結菜のそばに立ち、まるで宝物のように彼女を気遣っていた。 「結菜、今もまだ体調が悪いか?」 その言葉を耳にした瞬間、真奈はその場に立ち尽くした。爪が掌に食い込むほど拳を握りしめる。 薄暗い廊下の影に身を潜めながら、真奈は結菜が弱々しく航平の胸に寄りかかっているのを見た。 「航平、私は大丈夫。そんなに心配しないで」 結菜の声はか細く、まるで今にも消えてしまいそうだった。その響きには、深い依存と愛情が込められていた。 航平は手を伸ばし、そっと結菜の背中を撫でた。 「結菜、無理するな。医者も安静が必要だって言ってた。結婚式のことはもう手配した、あと数日で挙げよう。 結菜、今回は君に最高のものを全部あげる」 その言葉に、真奈の呼吸が一瞬止まり、鈍い腹部の痛みがまた襲ってきた。 唇を噛みしめ、血の味を感じてやっと、心の奥底でうねる衝動を押さえ込む。 ――あの「偽装結婚」の話は全部、嘘だったんだ。 航平は本気で結菜と結婚しようとしていた。 次の瞬間、結菜の病弱な声が再び聞こえた。 「航平、妹はまだ私たちの結婚に反対してるのに、こんなに急に決めちゃって……彼女が知ったらきっと……」 その言葉の途中で、結菜は口元を押さえて軽く咳き込み、視線を角の影に向ける。そこには、真奈の服の端がわずかに出ていた。 「真奈は末っ子だから、ずっと大事に育てられてきた。私は姉として、何でも譲ってあげられる。でもね、航平だけは……どうしても譲りたくないの」 結菜は腕を伸ばし、航平の腰をそっと抱きしめながら、低い声で言った。 「もし真奈が、あなたがずっと私を待ってたことを知ったら……どれだけ傷つくかしらね」 「結菜、君は何も悪くない。今回は、誰にも俺たち愛し合う二人の結びつきを邪魔させはしない!」 ――愛し合う二人? 真奈は失笑し、口角を引きつらせながら拳をさらに強く握りしめた。 ――結局、航平がずっと好きだったのは、最初から結菜だったんだ。 少し離れたところで、結菜がまた咳き込むと、航平はすぐに心配そうに声をかけていた。 「結菜、もう他人のことなんて気にするな。今はとにかく、君の体をしっかり治すことが先決だ」 真奈は深く息を吸い込み、その場を静かに後にした。 その後、彼女は慎也と直接会い、出発の日時を最終決定した。 そして航平との家に戻ると、ただ着替えるつもりだったのに、クローゼットの隅で見慣れない茶色の大きなギフトボックスを見つけた。 箱を開けると、中には大量の封筒がぎっしりと詰まっていた。 一通目の手紙を開くと、そこには航平の躍るような筆跡が記されていた。 【結菜、いつから君を好きになったのかは自分でも分からない。でも、君を好きだってことは確かだ】 二通目の手紙では、航平の字は明らかに整っていて、より丁寧に綴られていた。 【結菜、君が好きだ。君にふさわしい男になれるよう、頑張ります】 三通目を開くと、まず一枚のスケッチ画がひらりと落ちた。 描かれていたのは結菜だった。長い髪が風になびき、穏やかな笑顔を浮かべる姿は、優しさそのものだった。 その下には、こう書かれていた。 【結菜、君のためにデッサンを習った。これは一番うまく描けた一枚だ。これからも、たくさん描き続けるよ】 …… 茶色の大きなボックスの中には、そうした手紙がいくつも入っていた。 真奈は最後の一通を読み終えるころには、すでに涙で顔が濡れていた。 最後の手紙には、航平の筆跡が勢いよく綴られていて、どれほど気持ちが昂っていたかが伝わってきた。 【結菜、君を待って六年……ようやく、君とずっと一緒にいられる】 第4話 真奈は泣きながら一通一通手紙を元に戻し、そのまま床に崩れ落ちた。目は虚ろに宙を彷徨っていた。 彼は最初から、自分のことなんて好きじゃなかったんだ。 結菜が戻ってきた時、彼があんなに嬉しそうだったのは、真奈のためなんかじゃなかった。ただ結菜の姉と結婚することで、両家の関係を丸く収めたかっただけ。 三年間の熱烈なアプローチも、結婚後の甘やかしも、全部――嘘だった。 バカみたいだ。自分は一生幸せでいられると思ってたのに。 突然、真奈の胃が激しくかき回されるような吐き気に襲われた。体を支えながら、フラフラと洗面所へ駆け込む。 「うっ……」 何度もえずいても、何も吐けなかった。 鏡に映った自分の顔は青白く、まるで死人のようだった。ふと、今日、階下で見た結菜の姿が脳裏をよぎる。 あのときの結菜も、同じように青ざめて、か弱くて、無力そうだった。でも、みんなが彼女を庇っていた。 誰もが、結菜のことしか見ていなかった。 「お嬢さん、この婚姻証明書は偽物です」 病院の職員の言葉が頭の中で蘇る。なぜか、その職員の顔が、以前役所で見た職員の顔と重なって見えた。 そういえば――あのとき、航平と一緒に婚姻証明を取りに行った際、あの職員が真奈に向けた視線は、どこか複雑なものだった。病院の職員と同じような、何かを知っている目だった。 そうして、あの婚姻証明も、自分たちの目の前で印刷されたものではなかった…… でも、航平は自分を愛していないのなら、なぜあんなにも大袈裟に愛を語り、追いかけ、結婚までしたのか? 真奈は冷たい洗面台の縁に手をつき、指先が白くなるほど力を込めた。 航平がこの数年見せてきた優しさ、思いやり、愛情――それらすべてが、結菜のためだった。 あの年、結菜が海外へ行ったあと、小林家は婚約者に逃げられたことで世間から冷ややかな目を向けられ、山口家もその余波で大きなプレッシャーにさらされていた。 そんな中、航平は言った。自分が本当に好きなのは結菜ではなく、真奈だと。これでやっと堂々と真奈を追える、と。 今になって思えば、あれはただ両家の面目を保つための芝居だった。 三年間の熱烈なアプローチ。三年間の寵愛。誰もが、彼の愛が深いものだと信じていた。真奈自身も、そう信じていた。 だが、実際には、山口家が再び社交界での地位を確立するため、小林家の顔を立てるため、結菜の評判を取り戻すため―― そのためだけに、自分は利用されたのだ。 真奈が呆然と立ち尽くす中、突然、外からドアの鍵が回る音が聞こえた。 「カチャッ」 その音とともに、部屋の中から航平の穏やかな声が響いた。 「真奈、どこにいるの?」 真奈は返事をしなかったが、彼はすぐに洗面所にいる彼女を見つけた。 そして、まるで何もなかったかのように、彼女に向かって優しい笑みを浮かべた。 「真奈、君の大好きなアーモンドクッキー買ってきたよ。食べたら、もう怒らないでくれるかな?」 アーモンドクッキーの甘い香りが漂い始めた瞬間、真奈の胃が再び大きく波打ち、何度もえずいた。 航平は慌ててクッキーを置き、心配そうな顔で洗面所に駆け寄った。 「真奈、大丈夫?」 「……大丈夫」 真奈は無表情に、航平の差し出した手を振り払った。 そして、ふと彼の首筋に目が留まった。そこには、赤く残る痕があった。 「……その首の赤い痕、どうしたの?」 第5話 航平は一瞬、目に見えて動揺したものの、すぐに気持ちを整えたようで、穏やかな口調で説明を始めた。 「さっき両親を送って帰る途中で、蚊に刺されたみたいで」 「嘘をつき慣れると、顔色一つ変えずに話せるようになるんだね」 真奈の皮肉な言葉が終わると同時に、航平は眉をひそめて問い返した。 「真奈、それってどういう……」 言い終わる前に、そばに置いていた彼のスマホの画面が突然光った。 誰かからの着信だった。表示された名前は【妻】 真奈は、それが結菜からの電話だとすぐに察した。 彼女は軽く首を傾け、画面を見なかったふりをした。 航平は慌てて電話を切り、笑顔を作って言い訳した。 「ただの迷惑電話だよ」 真奈は彼を冷ややかに一瞥し、無言のまま洗面所を出て行った。 航平はその後をついて出て行き、歩きながら尋ねた。 「真奈、今日怒って出て行ったんじゃなかった?どうして急に戻ってきたの?」 彼女が答える前に、航平の優しい声がまた響いた。 「真奈、俺はもうお姉さんに未練なんかない。結婚式を挙げようと思ったのも、本当に君のためなんだ。 君は小さい頃からずっと、家で甘やかされて育ったから、家族のことをすごく大切にするのが当たり前になってるだろ?だから、君を困らせたくなくて、彼らの言うことを聞いてしまったんだ」 真奈は口元を皮肉げに引きつらせ、黙って何も言わなかった。 航平はその沈黙を承諾と受け取り、待ってましたとばかりに本題を切り出した。 「真奈、うち広いし、結菜の通院先も近いから、明日から結菜をここに住まわせよう。 今は体が弱ってるし、日当たりの悪い部屋じゃダメだ。主寝室が一番陽当りが良いから、まずは彼女にあそこを使ってもらって、俺たちはしばらくグストルームに移ろう」 「いいよ、全部あなたの好きにして」 真奈は足を止めて、淡々と応じた。 航平はその言葉を聞いて、ほっとしたように笑顔を見せた。 そして、優しく真奈の頭を撫でようとしたが、彼女はさっと身をかわして避けた。 航平は驚いたように手を止め、ため息をついた。 「真奈、まだ怒ってるのか?」 そう言って、額を強く押さえながら続けた。 「俺がお姉さんと結婚するのは、全部君のためなんだ。君にはずっと何も心配せずに幸せでいてほしい。だから家族と揉めてほしくないし、悲しい顔も見たくない。 ここまでしたのに、君は全然感動しないのか?」 感動? 真奈は目の前の男を見つめながら、思わず眉をひそめた。これほどまでに気持ち悪く感じたのは初めてだった。 航平は、彼女に「愛されている妻」の役を演じさせようとしていた。 それはただ、結菜への六年間の執着と未練を隠すために。 そして今、結菜が戻ってきた途端、すべてを当然のように真奈に譲らせようとする。まるでこの六年間の愛情も、お腹の子も、ただの埃のように消し去れるものだとでも言うように。 それでいて、感動しろと? 真奈は視線を落とし、まだ膨らんでいない自分の腹を見つめた。頭の中はぐちゃぐちゃだった。 この子は、この茶番の中で一番無垢な犠牲者だ。でも、こんな嘘と計算にまみれた環境で、本当に生まれてくるべきなのか? 航平はしばらく待っても真奈の返答がないことに気付き、困ったように尋ねた。 「真奈、何を考えてるの?」 「何でもない。あなたがやりたいようにすればいいわ」 真奈はそっけなく答え、踵を返して階段を下りていった。 航平はその言葉に満足したのか、笑顔で結菜に報告しに向かった。 一方その頃、真奈はリビングに降りると、見慣れないスキー用品とダイビング装備が目に入った。 彼女が何も言わないうちに、そばにいたメイドが小声で説明した。 「奥様、これは旦那様が結菜様とご旅行に行くためにと、準備させたものです」 スキーとダイビング? 真奈の指先が微かに震え、唇は無意識に引き結ばれた。 それは、かつて彼女が航平と一緒にやってみたいと願っていたことだった。 時間がない、仕事が忙しいと言われて、何も叶わなかったこと。 けれど、相手が変われば、いくらでも時間は作れるのか。 それにしても、肝臓がんの末期の人が、スキーやダイビングをする体力があるなんて―― その時、不意に結婚当初の出来事が頭をよぎった。 あの時、航平は「人生最高の結婚式をしてやる」と言っていた。 何もかも最高のものを用意すると。 でも、式の直前になって小林家に問題が起き、式は延期されたまま。 結局、彼女たちは式も挙げず、新婚旅行もなかった。 けれど、結菜に対しては、何もかも自分の手で準備している。 愛しているか、愛されていないかって、これほどまでに違うのか。 真奈がスキー用品とダイビング装備をじっと見つめたまま動かないのを見て、メイドはそっと声をかけた。 「奥様?」 「ん?どうしたの?」 我に返った真奈は、目の前のメイドに疑問の眼差しを向けた。 メイドは丁寧に頭を下げた。 「いえ、ご指示がなければ、私はこれで失礼します」 「ええ」 真奈は淡々と返事をし、くるりと背を向けた。 その時――彼女の視界に、ひときわ見慣れた女の姿が映った。 結菜だった。 第6話 「真奈、会いに来たわよ」 結菜は笑顔を浮かべながら真奈に歩み寄り、彼女の目の前で立ち止まった。 「私の妹も成長したのね。全部が嘘だって分かってるのに、よくもまあ黙って耐えていられるわね。 六年ぶりに会ったけど、見直したわ」 真奈の手が無意識にわななき、拳を握りしめる。彼女は何も言わずに俯いたままだった。 結菜の顔には、隠そうともしない勝ち誇った笑みと、哀れみが浮かんでいた。 彼女は少し身を屈め、声を潜めて嘲るように囁いた。 「真奈、この六年間、あなた本当におめでたかったわね。あの人の愛なんて、ぜーんぶあなたと周りの人に見せるための演技よ。もうお芝居は終わり。だから、そろそろ引き際をわきまえなさい」 真奈は挑発に乗らず、静かに視線を結菜の背後にやった。そこには新品のスキー板とダイビング装備が並んでいる。 「肝臓がん末期……」 その声はかすかで、どこか空虚で落ち着いていたが、口にした言葉は氷のように鋭かった。 「スキーにダイビング?ずいぶんと体調が回復してるみたいね、お姉ちゃん」 結菜の表情が一瞬だけ強ばったが、すぐにまたか弱く可憐な顔に戻った。 「真奈、お医者さんがね、気分よく過ごすことが大事だって言ったの。それで航平が少しでも気晴らしになるようにって……」 真奈は皮肉気に口元を引き上げ、冷たく言い放った。 「結菜、あなたの勝ちよ。航平も、あの吐き気がする家族も、全部あげる。私はいらないから」 そう言い終えると、真奈は踵を返し、その場を去ろうとした。だが、結菜が彼女の手首を掴んで引き止めた。 「そんな風に終わらせるなんて、納得できないわ」 結菜の言葉に、真奈は一瞬戸惑いながらも、彼女の手を振り払おうとした。 「真奈、ごめんね。お姉ちゃん、傷つけるつもりなんてなかったの。全部お姉ちゃんが悪かった……」 言い終わる前に、結菜の身体が急に後ろへ倒れこみ―― 「きゃああっ!」 甲高い叫び声が室内に響いた。 「結菜!」 航平が慌てて駆け寄り、真奈を乱暴に押しのけて、結菜を抱きかかえた。 不意を突かれた真奈は、バランスを崩して後ろにふらつき、ついには床に激しく倒れ込んだ。 激痛が腹部を襲い、背中には生温かく粘つく血の感触が広がっていく。 「航平……お腹が……痛いの……お願い、救急車を呼んで……」 「真奈、お前は昔から丈夫だっただろ。ちょっと転んだだけじゃないか、大袈裟すぎるんだよ。結菜なんて肝臓がん末期でも、お前よりずっと我慢強いんだからな!」 「航平、そんな言い方しないで」 結菜が航平の腕をそっと引き、優しく言った。 「真奈は昔からお芝居が好きだったけど、もう子どもじゃないもの。私達を騙したりするわけないわ」 「犬は死ぬまで糞を食うもんだ」 航平は吐き捨てるように言い、結菜を抱き上げてそのまま外へと歩き出した。 「結菜、念のためにもう一度病院で診てもらおう。君の身体が心配なんだ」 その声が遠ざかる中、真奈は一人、冷たい床に倒れ込んでいた。 彼女は身体を丸め、腹部の激痛に顔を歪める。まるで無数の針が内臓を突き刺し、息をするたびに痛みが肉を裂いていくようだった。 しばらくして、外から車のエンジン音が聞こえ、タイヤが地面を擦りながら急発進する音が響いた。 屋敷の使用人たちはどこかに消え、広いリビングには、真奈の荒い呼吸だけが響いていた。 子宮の中で何かが引き裂かれ、削がれていくような感覚……それはまだ形にもなっていない、微かな希望を託した命を、自分の中から無理やり奪い去るような痛みだった。 真奈は震える手でスマホを取り出し、慎也にメッセージを送った。 【事故に遭った。すぐ迎えに来て。計画、前倒しで始めよう】 翌日、航平と結菜の結婚式は予定通りに行われた。 式場は海辺に設けられ、砂浜には結菜の好きなローズが一面に咲き誇っていた。 潮風が花びらを揺らし、花嫁の白いヴェールをふわりと舞い上げる。 精巧に仕上げた花嫁メイクの下でも、結菜の顔には病弱な青白さが滲んでいた。 結菜は恥じらいを含んだ笑顔で航平を見つめ、航平もまた、彼女に甘い視線を注いでいた。 二人の間に立つ司会者の声が、スピーカーを通して波音の中に厳かに響く。 「小林様、あなたは病気であろうと健康であろうと、貧しくても富んでいても、彼女を愛し、尊重し、守り、永遠に忠実であることを誓いますか?」 「誓います」 航平は一切の迷いもなく、深く情熱的な声で答えた。その言葉は出席した全ての人々の胸に染み渡っていく。 同じ問いが結菜にも向けられ、彼女もまた、はっきりと答えた。 式場は一気に盛り上がりを見せ、司会者の声が一段と高らかに響く。 「それでは、新郎新婦、指輪の交換をお願いします!」 その瞬間―― 小林家の執事が血相を変えて式場に駆け込んできた。 「大変です!奥様が、海に飛び込みました!捜索隊が二時間探しましたが、未だに見つかっておりません……おそらく、もう……ご遺体すら……」