かつて秘めた恋心

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かつて秘めた恋心

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「今回の政略結婚は、私が行きます」 沢城絵理奈(さわしろえりな)がそう告げると、会議室に息を呑む音が響いた。 「ふざけるな!」 父親が...

Chương (1)

第1章

「今回の政略結婚は、私が行きます」 沢城絵理奈(さわしろえりな)がそう告げると、会議室に息を呑む音が響いた。 「ふざけるな!」 父親が真っ先にテーブルを叩いた。 沢城家には四人姉妹がおり、絵理奈は末っ子で、家族全員から最も愛されて育った。 幼い頃から欲しいものは何でも手に入れ、役員会の頭の固い年寄りたちでさえ、彼女には甘かった。 「今回の縁談は地獄へ身を投げるようなことだ。お前をそんな場所に追いやるわけにはいかん!速水のところの若いのとさっさと、そうだな、数日中にでも婚約を……」 「お父様」 絵理奈は父の言葉を遮った。 「和己が今日ここに来なかった。それが答えよ。彼に私と結婚する気がないのなら、待つ必要はありません」 父親の顔色が変わった。 「絵理奈くん、我々も方策は考える。だが、相手の周防家は人を食い物にするような連中だ。周防家の当主は、前の婚約者二人がどちらも精神病院送りになっているんだぞ!」 第1話 「今回の政略結婚は、私が行きます」 沢城絵理奈(さわしろえりな)がそう告げると、会議室に息を呑む音が響いた。 「ふざけるな!」 父親が真っ先にテーブルを叩いた。 沢城家には四人姉妹がおり、絵理奈は末っ子で、家族全員から最も愛されて育った。 幼い頃から欲しいものは何でも手に入れ、役員会の頭の固い年寄りたちでさえ、彼女には甘かった。 「今回の縁談は地獄へ身を投げるようなことだ。お前をそんな場所に追いやるわけにはいかん!速水のところの若いのとさっさと、そうだな、数日中にでも婚約を……」 「お父様」 絵理奈は父の言葉を遮った。 「和己が今日ここに来なかった。それが答えよ。彼に私と結婚する気がないのなら、待つ必要はありません」 父親の顔色が変わった。 「絵理奈くん、我々も方策は考える。だが、相手の周防家は人を食い物にするような連中だ。周防家の当主は、前の婚約者二人がどちらも精神病院送りになっているんだぞ!」 役員の一人が前に出て、必死に説得を試みるが、絵理奈はただスマートフォンの画面を見つめ、無意識に指先でなぞっていた。 彼女がかけた電話は一件も繋がらず、二十数件のメッセージもすべて未読のままだった。 五日前、速水和己(はやみかずみ)は今日の役員会に出席し、彼女にはっきりとけじめをつけると約束した。 だが、会議が始まって二時間が経つというのに、彼の姿はおろか影さえも見えない。 絵理奈はそっと目を閉じ、自嘲気味に笑った。 「分かっています……でも、沢城グループは今、資金繰りが悪化し、周防グループから敵対的買収を仕掛けられています。もしこの縁談を受けなければ、沢城家が築き上げてきたもの全てが、水の泡と消えてしまう」 「あなたにはお姉さんたちがいるじゃない。末のあなたが出ていく番じゃないわ」 三番目の姉が目を赤くしながら立ち上がって言った。 「一番上のお姉様は離婚したばかりで心を痛めている。二番目のお姉様は先天性の喘息で体が弱い。そして三番目のお姉様は……」 絵理奈は赤くなった目で一同を見渡した。 「あなたの会社が上場を控えた大事な時期よ。私だけが、一番適任なの」 父親は深くため息をつき、まるで一瞬で十歳も老け込んだかのようだった。 「絵理奈、これは遊びじゃないんだぞ。一度契約書にサインしたら、もう後戻りはできないんだ……」 絵理奈は何も言わず、契約書を引き寄せると、真剣な面持ちで自分の名前をサインした。 会議室は水を打ったように静まり返った。 会社を出ると、彼女はようやく長い息を吐き出した。 その瞬間、彼女はどこか肩の荷が下りたような気分だった。 これでもう、和己の背中を見つめ、彼が振り返ってくれるのを待つ必要はなくなるのだと、彼女は思った。 絵理奈が当てもなく歩いていると、聞き覚えのある声が現実に引き戻した。 「絵理奈?」 声の主である和己が大股でこちらに歩いてくる。 絵理奈は黙ったまま、彼の持つ薬袋に視線を落とした。 和己はその視線に気づき、袋を少し持ち上げて見せた。 「今朝、麻美が足を捻ってしまってね。薬を買いに行っていたんだ」 あまりに自然な彼の様子に、絵理奈は一瞬黙り込み、ふと尋ねた。 「今日が何の日か、覚えてる?」 「ん?」 和己は不思議そうな顔でスマートフォンを取り出して日付を確認したが、そこで初めて、いつの間にか電源が切れていたことに気づいた。 電源を入れると、メッセージが洪水のように押し寄せ、彼の顔色がわずかに変わった。 「役員会が今日だったなんて、忘れてた……」 彼は悔しそうな表情を浮かべた。 「すまない、あまりに忙しくて……でも、分かってる。今回の縁談に行くのは三番目のお姉さんなんだろ?彼女が一番適任だから、君は心配しなくていい」 絵理奈は口を開きかけたが、結局、政略結婚に行くのが自分だとは告げなかった。 再び口を開いた絵理奈の声には、いくらか皮肉の色が滲んでいた。 「忙しい?何に?南条さんの看病にでも?」 和己の表情が変わった。 「絵理奈、僕は麻美を妹のようにしか思ってない。昔、学生時代に助けてもらった恩があるし、今は彼女の実家が大変なことになってて……」 「私に説明する必要はないわ」 たとえ心が千々に切り裂かれるような思いでも、絵理奈の表情は平静を保っていた。 和己は彼女がまた拗ねているだけだと思い込み、困ったように言った。 「分かってくれよ。麻美のことが落ち着いたら、すぐに婚約しよう。いいだろう?」 本来なら、二人はとっくの昔に婚約しているはずだった。 しかし、和己が麻美と再会してからというもの、彼の心はすっかり彼女の上にあって、決まっていたはずの日取りは延ばしになっていた。 そして今日、絵理奈はもう待つのをやめた。 だからこそ、あの政略結婚の契約書にサインしたのだ。 二人の間に、もう未来はない。 「絵理奈、分かってくれるよな?」 和己は彼女の手を取り、その瞳には誠実さが滲んでいた。 だが、絵理奈はその手を振り払った。 「ええ……理解してるわ。彼女のこと、しっかり面倒を見てあげて」 私たちのことは、これで終わり。 第2話 和己は絵理奈の表情をじっくりと観察した。 彼女の態度が自然で、本当に怒っている様子がないことに気づくと、途端に嬉しそうな顔になった。 「やっぱり君が一番分かってくれる。都心のあのマンションの名義を麻美に移したら、彼女もこの街で落ち着けるんだ」 そう言うと、彼は顔を寄せ、絵理奈の頬に口づけをしようとした。 しかし、絵理奈はさっと一歩下がってそれを避けると、震える声で和己をじっと見つめた。 「都心のあのマンションって……私たちの、新居の?」 和己の視線が一瞬泳いだ。 絵理奈の心臓は、まるで氷の洞窟に突き落とされたかのようだった。 あの新居は、二人が家を出て起業し、苦労して最初の契約をまとめた後に頭金を払い、共に内装をデザインし、少しずつ家具を揃え、ようやく完全に自分たちのものになった家だった。 二人にとって、この家はまったく違う意味を持っていた。 それなのに今、和己はこんなにもあっさりと、あの家を人に譲ると言うのか。 和己は自分が失言したことに気づいたらしく、慌てて言った。 「いや……君に相談しないつもりじゃなかったんだ。でも、麻美はこの街に慣れていないし、早く落ち着かせる必要があった。新しい家を買う時間はなかったから、とりあえずあそこに住んでもらったんだ」 彼は絵理奈をなだめるように、祈るような目で見つめた。 「もっと新しくて大きな家を買ってあげるから、いいだろう?」 その瞬間、絵理奈はまるで心臓にナイフを突き立てられたかのような感覚に襲われ、呼吸をするたびに胸が痛み始めた。 もう住んでいるなんて…… しかも、そのすべてを、和己が失言したせいで初めて知った。 彼の目には、自分はいったい何に映っているのだろう。 「和己、私がただ家を一軒欲しいだけだと思ってるの?」 すると彼は、こう言い放った。 「じゃあ二軒買ってやる!」 絵理奈の眼差しが、急に悲しみに満ちたものに変わった。 彼女は一度目を閉じると、和己のそばをすり抜け、大股で去って行った。 もういい。 相手が大切にしないのなら、自分だけがこの思い出を守っていても、何の意味があるというのだろう。 男の少し焦った声が、背後から聞こえてきた。 「絵理奈!麻美は一人で可哀想なんだ。この家は、君が彼女を傷つけたことへのお詫びでもあるんだ。そんなに心の狭いことを言わないでくれ!」 絵理奈は固く両手を握りしめた。 和己が言っているのは、麻美に会ってからまだ数日しか経っていない、あの日のことだ。 突然両親を亡くした麻美は、夜も眠れない日が続いていた。 和己は毎日彼女に付き添うしかなく、いくら彼が麻美に対しては何とも思っておらず、昔助けてもらった恩返しだ、と説明しても、絵理奈の心は晴れなかった。 彼女は麻美と話をしようと決めた。 しかし、絵理奈の来意を聞いた麻美は、慌てて泣きながら後ずさり、階段を踏み外して転落した。 ちょうど駆けつけた和己が受け止めたものの、足は捻挫してしまった。 絵理奈は、その時の和己の視線を今でも覚えている。 失望、不信、そして怒り…… 彼女がいくら説明しても、彼は絵理奈がわざと麻美を困らせ、突き落としたのだと思い込んでいた。 あの日から、和己は意図的に麻美を連れて自分を避けるようになった。 まるで、彼女が再び麻美を傷つけることを恐れているかのように。 絵理奈は今に至るまで胸を痛めており、冷笑したい気分だった。 どうせ自分はもう行くのだ。 それなら、あの二人を一緒にしてあげよう。 もう自分のせいで、こそこそする必要もない。 絵理奈は自嘲気味に笑い、かすれた声で言った。 「ええ、いいわ。あの家はあなたたちにあげる」 「末永くお幸せに」 最後の一言はとても軽く、風の中に消えていった。 和己は彼女の後ろ姿を見つめ、なぜか胸騒ぎがした。 彼は無意識に一歩前に出て、何かを言おうとしたが、その時スマートフォンが鳴った。 麻美の、優しい声が響いた。 「和己さん、ずいぶん長いのね?」 和己の意識はすぐに引き戻された。 彼は薬を手に急いで来た道を引き返しながら、彼女をなだめた。 「今戻るよ。待たせたね……」 第3話 その後数日間、絵理奈から和己に連絡することはなかった。 周防グループとの契約締結は始まりに過ぎず、まだ多くの手続きが残っていた。 彼女は最近、これらの処理に追われていた。 周防グループが契約書を受け取ったその日に資金が振り込まれ、沢城グループ全体がどうにか一息つくことができた。 今夜は取引先との会食があり、絵理奈は身なりを整えた後、アクセサリーケースから今日の服装に合うものを選び始めた。 しばらく探していたが、彼女の動きは次第に遅くなり、やがて息を呑んだ。 母方の祖母からもらった、あの翡翠の腕輪はどこに? 彼女の心臓はきゅっと縮こまった。 ケースの中身をすべて取り出したが、どこにもあの腕輪の影はなかった。 彼女の寝室には他の者は入れない。 お手伝いさんが持っていったとは考えにくい。 彼女はいくつか電話をかけ、家族や友人に尋ねたが、誰もが見ていないと答えた。 絵理奈は途端に上の空になったが、時間が迫っていたため、ひとまず会食に向かうしかなかった。 長い長い時間が過ぎ去ったように感じられる会食が終わり、彼女は急いで外へ向かった。 歩きながら電話をかけ、監視カメラの映像を取り寄せ、不審な人物が家に入っていないか確認しようとした。 ところが、出た途端、隣の個室から出てきた和己と鉢合わせになった。 「絵理奈?」 和己は彼女の姿を認めると、ぱっと表情を明るくして大股で歩み寄ってきた。 そのすぐ後ろから、麻美が姿を現した。 絵理奈の心臓がわずかに締め付けられた。 和己は仕事の会食にまで麻美を連れてきているというの? そう思った瞬間、彼女の視線がふと下に向けられ、そのまま固まった。 「絵理奈、今夜の契約は順調で……」 和己が言い終わらないうちに、絵理奈が猛然と一歩前に踏み出し、麻美の手を強く掴んだ。 その声は、凍えるほど冷たかった。 「その腕輪、どこで手に入れたの?」 麻美は驚いて悲鳴を上げ、必死に手を引っこめようとした。 「沢城さん……離してください、これは和己さんがくださったものです!」 「絵理奈!何をするんだ!?」 和己は慌てて麻美を自分の後ろに庇い、険しい表情を浮かべた。 しかし絵理奈は彼を気にする余裕もなく、麻美を睨みつけ、鋭い声で言った。 「それは私のものよ!」 彼女が見間違うはずがない! それは母方の祖母が亡くなる直前、自らの手で彼女の腕にはめてくれたものだ。 腕輪のすべての模様は、彼女の心に刻み込まれている! 「沢城さん、やめてください。これは間違いなく和己さんがくださったものです。もしお好きなら、そう言ってくださればいいのに。お譲りしますから……」 絵理奈は深呼吸をした。 抑えられた声には、わずかな震えが混じっていた。 「あれは元々私のものなの!そこには私の苗字が彫ってあるのよ!」 和己は途端に気まずい表情になり、声を潜めて彼女をなだめた。 「絵理奈……この腕輪は有名な作家の限定品で、すぐに他のものが手に入らなかったんだ。麻美がその作家の作品を好きだと言うから、僕の判断で数日間だけ彼女に貸してあげたんだ……」 絵理奈は信じられないといった様子で目を見開いた。 感情がほとんど抑えきれない。 「あれが母方の祖母の形見だって知ってたでしょう!私にとってどれだけ大事なものか、あなたも知ってるはずよ!」 和己は唇を固く結んだ。 「絵理奈、こんな場所でみっともない真似はよせ。たかが腕輪一つじゃないか。明日、君に十個買ってやるから、いいだろう?」 「普通の腕輪じゃない!」 絵理奈は目の奥が熱くなり、呼吸が荒くなった。 彼女は勢いよく前に出て、和己を突き飛ばした。 「どいて!それを返して!」 麻美は途端に狼狽し、しどろもどろに言った。 「ごめんなさい、これが沢城さんのものだとは知りませんでした」 彼女は目を赤くして慌てて腕輪を外そうとした。 しかし、腕輪が滑りやすかったのか、それとも何か他の理由があったのか、彼女は突然甲高い声を上げ、腕輪が手から滑り落ちて飛んでいった。 絵理奈は受け止めようと飛びついたが、間に合わなかった。 パリンと砕ける音が響き渡り、周囲は一瞬にして静まり返った。 絵理奈はよろめき、狂ったように地面に膝から崩れ落ちた。 震える指で、翡翠の破片に触れようとした。 「ごめんなさい!本当にわざとじゃありません、ただ、ただこれを外してお返ししようと……」 麻美はしくしくと泣き始めた。 絵理奈の目は瞬く間に赤くなり、ついに涙が溢れ出した。 彼女は顔を上げた。 「わざとやったんでしょう?」 麻美は恐怖にびくっと体を震わせた。 和己はわずかに眉をひそめ、無意識に麻美の前に立ちはだかると、申し訳なさそうに絵理奈をなだめた。 「絵理奈、麻美はわざとじゃない。君が奪い取ろうとしたから、彼女を怖がらせてしまったんだ……」 「もういい!」 絵理奈はかすれた声で叫んだ。 「二人とも、消えて!」 和己が一歩前に出ようとしたが、麻美が彼の服の裾を掴んだ。 彼女の怯えた様子を見て、彼は結局、心が揺らいだ。 彼は向き直って麻美を抱きかかえ、外へ向かいながら、急いで言った。 「絵理奈、まずは落ち着いてくれ。僕を信じて、必ず埋め合わせはするから」 絵理奈はただ、地面の破片をゆっくりと集めながら、声もなく涙を流した。 埋め合わせ? 彼に何ができるというの? 砕けてしまったものは、二度と元通りにはならない。 腕輪も、そして二人の関係も。 第4話 その夜、絵理奈は和己から十数件の謝罪のメッセージを受け取った。 彼女はそれに一瞥をくれただけで、一件も返信しなかった。 腕輪は海外に空輸して修復する必要があった。 絵理奈は和己の名前を見るだけで心身ともに疲れ果ててしまい、新居の鍵を切り替え、夜中過ぎにようやく眠りについた。 翌日の早朝、彼女は玄関の警報音で目を覚ました。 誰かが何度も間違った暗証番号を入力し、スマートロックが警報を鳴らし始めていた。 「絵理奈!中にいるんだろう!」 和己がドアを叩く音が響いた。 「どうして暗証番号を変えたんだ?まだ僕に怒ってるんだろう?」 絵理奈は冷ややかにモニターの映像を見つめた。 和己は手に持った箱を持ち上げながら、下手に出て言った。 「絵理奈、君のために、急いで人に頼んで質の良い翡翠の腕輪を十個手に入れたんだ。もう機嫌を直してくれないか?」 「昨日のことは……麻美が悪いわけじゃない。彼女は君に返そうとしていたんだ。君が奪い取ろうとして、彼女を怖がらせてしまったんだ……」 絵理奈の握りしめた手が震え始めた。 この期に及んで、彼はまだこの件を自分のせいにすると言うのか! そもそも彼が自分の腕輪を盗み出さなければ、こんなことにはならなかったのに! 和己はさらにいくつか機嫌を取るような言葉をかけたが、ドアはぴくりとも動かなかった。 彼は最終的に諦めたようにドアを一瞥し、箱を玄関の前に置いて立ち去った。 絵理奈は家から出なかった。 彼女は市内配送サービスを呼び、玄関の前の箱を梱包して和己のもとへ送り返させた。 彼女は和己に会いたくなかったが、沢城と速水は提携関係にあり、顔を合わせることは避けられなかった。 取引先が主催したパーティーに、絵理奈は少し遅れて到着した。 会場に入るとすぐに、皆にちやほやされている麻美と和己の姿が目に入った。 誰かのからかうような声が聞こえてきた。 「和己さん、そんなに綺麗なお方をずっと隠していたなんて、俺たちに紹介したくなかったのかい?」 和己は笑みを浮かべたが、その言葉に含まれる曖昧なニュアンスを否定しなかった。 絵理奈は心臓が一瞬締め付けられるのを感じた。 彼女は俯いてその場を通り過ぎようとしたが、誰かに気づかれ、輪の中に引き入れられてしまった。 和己は彼女を見ると、わずかに目を輝かせた。 「絵理奈」 彼の態度は喜びに満ち、自然だった。 なぜなら、彼は一度家に戻って確認し、玄関の前の箱がなくなっているのを見ていたからだ。 つまり、絵理奈が彼の謝罪の品を受け取ったのだから、当然、彼を許したということになる。 周りの空気が、どこか奇妙に張り詰めた。 その場にいるのは皆、世慣れた人たちばかりで、互いに目配せを交わした。 突然、あまり友好的とは言えない声が響いた。 「そういえば、我々は和己さんの隣で沢城さん以外の方をお見かけしたことがない。こちらの……南条さんについては、和己さんから伺ったことがありませんね?」 微笑んでいた麻美の表情が一瞬、硬直した。 しかし、他の者がさらに彼女を問い詰める前に、和己が何気ない素振りでそっと麻美の腰に手を回した。 それは、彼女を守るかのような仕草だった。 「大切な人のことを、誰にでも話す必要はないでしょう。誰もが彼女のことを知る資格があるわけではありません」 絵理奈はぐっと手に力を込めた。 その仕草はあまりにも親密で、さらに和己の口調に含まれる隠しようもない庇護の色は、まるで全世界に向けて所有権を主張しているかのようだった。 彼女はわけもなく、息が苦しくなるのを感じた。 周りの者は気まずそうに笑った。 誰かが諦めきれない様子で口を開いた。 「そういえば、南条さんは海外で芸術を学ばれたとか。それならきっと多才でいらっしゃるでしょう。何か一つ、我々に披露していただけませんか?」 周りは一瞬にして静まり返った。 その場にいた誰もが知っていた。 これが、富裕層の集まりで慣用的に行われる「洗礼」のようなものであることを。 皆、顔が知れた名士ばかりだ。 人前で芸を披露し、品定めされようなことを、誰もしない。 和己の顔つきが、途端に険しくなった。 「そうですよ、南条さん、どうかご謙遜なさらずに」 「たとえ私たちが南条さんの芸を見るに値しなくとも、このパーティーにいる社長方が相手なら、不足はないでしょう?」 「それとも、南条さんは我々に顔を立ててはくださらないと?」 これはもう、相手を後には引けない状況に追い込んでいるも同然だった。 麻美は助けを求めるように和己に視線を送り、その目は潤み始めていた。 和己はすっと立ち上がった。 彼は麻美の前に立ちはだかると、不意に言った。 「披露するのは構いませんよ。皆様がそれほどお望みなら、私と絵理奈で一曲お聞かせしましょう」 その言葉が終わるや否や、絵理奈は反応する間もなく、和己に手首を掴まれてぐいと引き起こされた。 次の瞬間、彼女はピアノの前に座らされ、男の有無を言わせぬ声が頭上から降ってきた。 「絵理奈、ピアノを一曲弾くだけだ。断らないよな?」 それと同時に、会場中のすべての視線が一斉に彼女の上に注がれた。 驚き、嘲笑、そして面白い見世物を期待する眼差しが、まるで実体を持っているかのように突き刺さる。 絵理奈は目の前がくらむのを感じた。 和己は、麻美を助けるためだけに、自分に人前での演奏を強制するというのか! 第5話 「心配しないで、僕も一緒にいるから」 和己の声は相変わらず優しかったが、その行動は強引だった。 低い声が、再び絵理奈の耳元で響いた。 「みんなが見ている。もし弾かなければ、大笑いされるだけだ。君はもともと多才なんだから、ピアノ一曲くらい、わけないだろう」 絵理奈は心臓が凍りつくのを感じた。 振り返って彼を問い詰めたいと思ったが、それ以上に深い無力感がこみ上げてきた。 和己が言うように、彼女はすでに注目の的だった。 今ここで騒ぎ立てれば、皆の笑いものになるだけだ。 絵理奈は一度目を閉じ、手を上げ、最初の音符を弾き落とした。 彼女にははっきりと見えた。 そばにいると約束したはずの和己が、遠く離れた麻美と視線を交わし、安心させるような笑みを浮かべているのが。 曲が始まってから、彼の視線は一度もその人から離れなかった。 一曲弾き終えると、絵理奈はよろめくようにして化粧室へ向かった。 彼女は冷たい水で何度も手を洗い、ようやく震える指先を落ち着かせた。 外に出ると、怒りに満ちた父親とばったり会った。 「速水家のあの若造は何様のつもりだ!どうして、どうしてお前を……!彼に文句を言ってくる!」 絵理奈は慌てて父親を引き留めた。 彼女は小声で言った。 「お父様、今、速水家と揉める必要はありません。どうせ……私たちはもうすぐ、何の関係もなくなるのだから」 父親はぐっと目を閉じ、そして長いため息をついた。 宴会が本格的に始まったのは夜になってからだった。 席では酒杯が交わされ始め、絵理奈はそつのない笑みを浮かべ、周りの人々の挨拶に応じていた。 友人が一杯のジュースを彼女の前に置き、小声で言った。 「ほら、あなたのために用意したジュースよ。他の人には分からないから」 彼女は感謝して言った。 「ありがとう」 彼女はアルコールアレルギーだったが、このような場では飲酒を避けるのが難しく、いつもこの方法でごまかしていた。 「和己さん、私が代わりに飲みます」 麻美が和己の前に立ちふさがり、杯の酒を一気に飲み干した。 彼女は途端に目尻を赤くし、顔を背けて咳き込んだ。 和己は心配そうな顔で彼女を抱き寄せた。 「大丈夫か?飲めないのに無理するな」 周りからいくつかのからかうような笑い声が聞こえた。 絵理奈は視線をそらし、意識的にあちらの様子を気にしないようにした。 スマートフォンには、和己からの謝罪のメッセージが静かに表示されていた。 【絵理奈、わざとじゃないんだ。ただ麻美をこちらの人たちに紹介して、今後彼女がいじめられないようにしたかっただけなんだ】 文字が鋭いナイフとなり、容赦なく彼女の心臓に突き刺さった。 絵理奈は自嘲気味に笑った。 彼女は気づかなかった。 和己が麻美の手から酒を取り上げた後、あたりを見回し、そしてテーブルのそばにあったジュースを何気なく手に取ったことを。 彼は麻美に近づき、小声で言った。 「これはジュースだ。これを飲んで」 そして、酒はそのままジュースがあった場所に無造作に置かれた。 麻美は顔を赤らめながらジュースを受け取り、ちびちびと飲んでいた。 二人が並んで座っている姿は、どう見てもお似合いの恋人同士だった。 絵理奈の心はわずかに苛立ち始めた。 彼女はジュースを手に取ると、一気に呷った。 辛い感覚が喉を滑り落ちた時、彼女はようやく何かがおかしいことに気づき、激しく咳き込んだ。 「絵理奈!どうしたんだ?」 物音に気づいた和己がすぐに彼女のそばに駆け寄ってきた。 その声には、隠しようもない焦りが滲んでいた。 アルコールが喉を通ると、絵理奈はめまいがし始め、体中が耐え難い痒みに襲われた。 彼女は目の前の人物をぐっと掴み、歯を食いしばりながら震える声で言った。 「これ……アルコール……」 そう言うと、彼女は目の前が真っ暗になり、そのまま意識を失った。 …… 絵理奈がゆっくりと意識を取り戻した時、最初に感じたのは体中の痛みと、胃の焼けるような感覚だった。 目の前は真っ暗で、まだ目を開けるのが難しかった。 周りから、意図的に抑えられた声が、聞こえるか聞こえないかというくらいで伝わってきた。 「和己さん……ごめんなさい、全部私のせいです。私がいなければ……」 「君のせいじゃない。ジュースと酒を入れ替えたのは僕だ」 「絵理奈さんが目を覚ましたら、私たちのこと、怒るかしら……」 しばらく沈黙が続いた後、和己のかすれた声が聞こえてきた。 「彼女は君に八つ当たりするかもしれない……だから、僕たちが彼女に言わなければ、問題ない」 絵理奈はその一言一句をはっきりと耳にし、心臓が粉々に砕けるような激痛に襲われた。 胃が焼けるように痛み、彼女は思わず咳き込んだ。 「絵理奈、目が覚めたのか!」 和己は焦った様子でベッドのそばにやってきた。 その心配そうな表情は、嘘には見えなかった。 絵理奈は彼を見つめ、かすれた声で尋ねた。 「あの、お酒……どういうこと?」 和己の視線が一瞬泳いだが、すぐにきっぱりと口を開いた。 「たぶん君が……注意していなくて、間違えて取ったんじゃないかな」 第6話 絵理奈の瞳の中で、何かが少しずつ砕けていった。 彼女の眼差しには、言いようもなく複雑な感情が流れていた。 それを覗き込んだ和己の心臓が、激しく震えた。 その瞬間、彼は何かが指先から急速にこぼれ落ちていくような感覚に襲われ、心にぽっかりと穴が空いた。 彼は無意識に絵理奈に近づき、思わず口を開いた。 「絵理奈、僕は……」 その言葉が終わらないうちに、ドアが勢いよく開けられた。 彼のアシスタントが慌てた様子で言った。 「ボス、大変です!南条さんが……南条さんが先ほど、病室の前で何者かに連れ去られました!」 その言葉を聞いた和己は顔色を変え、勢いよく立ち上がった。 「どういうことだ!?」 アシスタントはしどろもどろで言葉が出ない。 和己は怒鳴った。 「お前たちは一体何をやっているんだ、なぜ止めなかった!?」 アシスタントは泣きそうな顔をしていた。 「ボス……止めるなんてできません。彼らは……彼らは沢城さん側の人間だと!」 そう言うと、彼は絵理奈と目を合わせられない様子だった。 和己は勢いよく振り返った。 絵理奈は眉をひそめた。 「私を疑うの?」 和己の心はひどく混乱していた。 彼は怒りを抑えるかのように、低い声で言った。 「絵理奈、もし君がやったのなら、今すぐあの者たちに……」 「私は意識を失って、今しがた目が覚めたばかりよ。私に何ができるっていうの?」 絵理奈の瞳が冷たくなった。 しかし、傍らに置かれた手はシーツを固く握りしめていた。 彼女は歯を食いしばり、一言一言区切るように言った。 「あなたに、私を疑う権利なんてどこにある?」 彼女の表情は冷淡だったが、その口調は嘲りに満ちていた。 和己は本当に変わってしまった。 以前の彼は、その視線のすべてを自分に注ぎ、何があっても真っ先に自分の味方をしてくれた。 彼はかつて、永遠に君を信じると言った。 それなのに今、一人の麻美のために、彼は何度も何度も自分を悪意のある人間だと決めつける。 なんて荒唐無稽なのだろう。 和己の顔色が変わった。 彼はそれ以上何も言わず、歯を食いしばって黙々と外へ向かった。 絵理奈は腕の点滴針を直接引き抜き、冷たい声で言った。 「待って、私も一緒に行く」 車が疾走する中、和己はずっと電話をかけて麻美の居場所を特定しようとしていた。 彼はあらゆる人脈を駆使し、監視カメラの映像を調べて麻美の場所を見つけ出した。 そこは、郊外にぽつんと立つ廃ビルだった。 彼ら一行が到着した時、目にしたのは椅子に縛り付けられた麻美の姿だった。 数人の男たちが、険しい顔つきと下品な口調で彼女を見ていた。 「なぜお前がここに縛られているか分かるか。お前が、ある方のお気に召さなかったからだ」 麻美は恐怖に顔を歪め、ただ黙って涙を流していた。 「お前は他人の恋愛に割り込む女だ!俺たちは今日、本命の方のためにお前を懲らしめに来たんだよ!」 「物分かりがいいなら、このお灸を据えられたら、とっとと消えな。二度と俺たちの雇い主様の目に触れるんじゃねえぞ!」 麻美は声を上げて泣き、必死に首を横に振った。 「ごめんなさい、沢城さんと和己さんの関係に割り込むつもりはなかったんです。私たちは本当に何でもないんです……どうか沢城さんに、私を見逃してくれるようにお願いしてください。私はここから去りますから」 車から降りたばかりの和己と絵理奈は、同時に顔をこわばらせた。 「麻美!」 和己はもう我慢ならず、怒りで目を赤くし、一番近くにいた男に殴りかかった。 そしてすぐに麻美を腕の中に抱きしめた。 「もう大丈夫だ……」 麻美は彼にしがみつき、声を上げて泣いた。 「和己さん、本当にわざとじゃなかったんです」 「君のせいじゃない。もう泣かないで」 固く抱きしめ合う二人を見て、絵理奈はただ麻痺したような感覚に陥り、何の表情も作れなかった。 よろめきながら起き上がった男が、彼女に向かって叫んだ。 「ボス!どうしてご自らお越しに!」 絵理奈は彼を睨みつけ、低い声で言った。 「あなたなんて知らない」 男は途端に焦りだした。 「知らないなんて……ボス、このアマを懲らしめろって言ったじゃないですか!今さら、白を切るなんてできませんぜ!」 絵理奈の心は、少しずつ冷え切っていった。 これが自分を陥れるための罠だと、彼女は理解した。 仕掛けたのは誰? 麻美なの? 彼女は冷静に言った。 「警察に通報します。あなたに連絡してきたのが誰なのか、警察がはっきりさせてくれるでしょう。私たちの間には何の関係も……」 その言葉は、怒りに満ちた声によって遮られた。 「もういい!」 和己はすでに麻美を横抱きにしていた。 今、彼が絵理奈に向ける視線は、失望と不信に満ちていた。 「言ったはずだ。僕と麻美はそういう関係じゃないと。それなのに君は……」 彼はぐっと目を閉じ、再び開いた時、その目にはかつてないほどの冷たさが宿っていた。 「この件をこれ以上、見苦しくしないでくれ。僕はもう追及したくない。君もここで芝居をする必要はない」 そう言うと、彼は大股で車に向かっていった。 絵理奈は彼が去っていくのを見つめ、その声は震えていた。 「和己、私を信じないのなら、警察に通報すればいい。調べればいいじゃない」 男は、少しも立ち止まらなかった。 「見苦しい騒ぎにしたくない。麻美は病院に連れて行く必要がある。君は一人で帰ってくれ」 そう言うと、彼は車のドアを強く閉め、走り去った。 第7話 和己は去った。 周りにいた数人の男たちも、いつの間にか姿を消していた。 絵理奈は唇を引き結び、無意識にスマートフォンを探したが、何もなかった。 彼女の動きが止まり、さっと顔色が悪くなった。 彼女は病院から直接ここへ来た。 急いでいたため、スマートフォンを持ってくるのを忘れたのだ。 あたりは荒涼としていて、見渡す限り人気はなかった。 絵理奈はその場にしばらく立ち尽くしていたが、やがて歯を食いしばり、来た道を一歩一歩辿り始めた。 太陽は次第に傾き、間もなく空は暗くなっていった。 絵理奈は一瞬たりとも立ち止まれなかった。 両足がすでに刺すように痛み始めていたが、それでも彼女は小走りを続けた。 暗すぎた。 周りは、あまりにも暗すぎた。 さらさらという風の音を除けば、あたりは死んだように静まり返っていた。 彼女は恐怖を感じ始め、唇が自分の意思とは関係なく震えだした。 夜の風は冷たさを増していく。 目の前が何度も暗くなり、アレルギーの症状もまだ完全には消えていなかった。 彼女はほとんど力尽きかけていた。 しかし、気を失うわけにはいかなかった。 こんな場所で倒れたら、誰にも発見されないだろう…… 絵理奈の脳裏に、和己の無情な後ろ姿が蘇る。 目の奥が熱くなり、涙が溢れ出した。 ―― 和己の車に乗った後も、麻美はまだ震えていた。 和己が優しい声でいくつか言葉をかけると、彼女はようやく落ち着いてきたが、その表情はまだ不安げだった。 「沢城さんを一人だけ残して、大丈夫なのでしょうか?」 和己は一瞬黙り込み、かすれた声で言った。 「大丈夫だ。沢城家には運転手ならいくらでもいる。自分で連絡するだろう」 しばらくして、彼は疲れたように言った。 「今回の件は絵理奈が悪い。だが、彼女は幼い頃から蝶よ花よと育てられて、少しわがままなところがあるんだ。どうか……彼女を責めないでやってくれ」 麻美は慌てて首を横に振った。 物分かりのいい口調で言う。 「私が至らないばかりに、和己さんにいつも助けていただいて……でなければ、沢城さんも誤解なさらなかったはずです」 和己の表情が和らいだ。 「やはり君は物分かりがいいな」 彼は麻美を病院に連れて行って全身を検査させ、問題がないことを確認してようやく安堵のため息をついた。 病院を出ようとした、ちょうどその時、スマートフォンが鳴った。 絵理奈の父の、怒気を含んだ声が響いた。 「絵理奈はどこへ行った!?」 和己は呆然とした。 「まだ戻っていないのですか?」 父親は怒鳴った。 「午後からずっと連絡がないんだ。お前、彼女に何をした!?」 和己の心は一瞬沈んだが、すぐに冷静さを取り戻した。 絵理奈がまた癇癪を起しているのだ。 今頃、わざとどこかに隠れているに違いない。 そう考えると、彼は腹が立ってきた。 今日の出来事は、彼の一線を超えていた。 絵理奈がなぜこれほど悪意に満ちた人間になってしまったのか、彼には理解できなかった。 だから、まだ彼女と再び顔を合わせる準備ができていなかった。 そのため、和己は淡々と言った。 「おじさん、今日、郊外から戻って以来、彼女には会っていません。ですから、私にも分かりません」 そう言うと、彼は電話を切り、麻美を抱きかかえて大股で去っていった。 沢城家は多くの人を送り出し、ようやく郊外へ向かう道端で座り込んでいる絵理奈を発見した。 体には細かい傷が無数にあり、足は血豆だらけだった。 助けに来た人の姿を見た瞬間、張り詰めていた彼女の精神は途切れ、完全に意識を失った。 絵理奈は丸一日意識を失い、ようやく痛みの中で目を覚ました。 目を開けると、三番目の姉の真っ赤な目と視線が合った。 「絵理奈、目が覚めたか」 三番目の姉は声を詰まらせ、歯を食いしばって言った。 「あなたを置き去りにしたのは、和己っていうあの野郎でしょう!」 絵理奈は黙って目を伏せた。 三番目の姉は怒りに震えた。 「あのろくでなし、あなたにはもったいないわ!あなたが入院したって伝えたのに、信じようともしないのよ。彼が今何をしているか、見てみなさい!」 姉はスマートフォンを差し出した。 画面には、一本の動画が再生されていた。 バーの中、人々に囲まれた和己と麻美が寄り添っている。 周りからはやし立てる声が「キスしろー!」と叫んでいた。 そして和己がゆっくりと近づき、麻美の唇にキスをした。 絵理奈の顔からさっと血の気が引き、心臓が空っぽになった。 「絵理奈、彼を庇う必要なんてないわ。あんな男、あなたにはもったいないわ!!私、今すぐお父様に―」 絵理奈は姉の手を掴んだ。 その笑顔は、血の気が引いていた。 「ううん、彼じゃないの」 沢城家は今、正念場だ。 面倒事を起こすわけにはいかない。 この件を家族に話す必要はない。 家族が衝動的に行動するのを避けるためだ。 彼女は静かに言った。 「大丈夫よ、お姉様。もう、彼のために心を痛める価値なんてないことくらい、分かっているから」 だから、二人に未来はない。 第8話 絵理奈は黙って退院した。 周防家との結婚式が近づき、彼女は荷物の整理を始めていた。 実は、彼女が持っていけるものは何もなかった。 家の中で名残惜しく思っていたのは、すべて和己との思い出の品々だった。 あの編み目が粗く、色合いもいまいちなマフラーは、和己が彼女のために手編みしたものだった。 彼はかつて、可哀想なふりをしながら、自分の手のひらを彼女の前に広げて見せた。 「見てくれ、絵理奈。指が針で穴だらけになっちゃうよ」 絵理奈が心配そうにすると、彼は笑って言った。 「君の笑顔が見られるなら、僕はなんだってするよ」 オーダーメイドのアクセサリーは、和己が自らデザインし、三ヶ月もかけて完成させたものだった。 積み木は、ある雨の日に二人で寄り添いながら組み立てたもの。 その日、和己は彼女にキスをしながら約束した。 「君は永遠に、僕の中で一番だよ」 スマートフォンには、色々な場所で撮った二人の写真があった。 洗面所には、ペアグッズが並んでいた…… 絵理奈はそれらを一つ一つ整理し、箱に詰め、そしてすべてゴミ箱に捨てた。 家に帰る途中、スマートフォンの特別な通知音が鳴った。 和己からだった。 彼はSNSに投稿をしていた。 麻美を連れて気晴らしの旅行に出かけた写真で、二人はカメラに向かって甘く微笑んでいた。 絵理奈の表情に変化はなかった。 彼女はスマートフォンをしまうと、タクシーを拾い、二人が最初に稼いだお金で手に入れた新居へと向かった。 いくつかメッセージが届いていた。 一番上は、三番目の姉からだった。 【不義理な二人ね!】 添付されていたのは、麻美のSNS投稿へのリンクだった。 【和己さんがアクセサリーを買ってくれたんだけど、色がちょっと派手かな。ストレートのセンスって本当に最悪。高価すぎるから、受け取れないわ】 次のメッセージは和己からで、アクセサリーセットの写真が添えられていた。 【気に入ったかい?君のために特別に買ったんだ。一目見て、君にぴったりだと思った。もうすぐ持って帰るから、機嫌を直してくれないか?】 絵理奈はそれをしばらく見つめ、ふと鼻で笑った。 彼女は指をわずかに動かし、和己の連絡先をすべて削除した。 家の前に着いて、彼女はようやく気づいた。 暗証番号はすでに変更され、もう中に入ることはできなかった。 絵理奈は自嘲気味に笑った。 踵を返して去ろうとした時、数人のリフォーム業者がやってきて、彼女に声をかけた。 「家主の南条様でしょうか?本日ご予約いただいた内装業者です」 業者たちは慣れた様子でドアを開け、ハンマーを手に中へ入っていった。 「全部、取り壊しでよろしいんですよね?」 絵理奈は、その一瞬ですべてを察した。 麻美がここの内装を気に入らず、すべて壊したがっていること。 きっと和己もそれを知っていたのだろう。 二人が少しずつ飾り付けた家は、彼にとっては本当に何でもなかったのだ。 それもそうか。 あれほど意味のあるこの家でさえ、他の人に渡してしまったのだから。 絵理奈は視線を巡らせ、最後にこの家を一瞥した。 そして、微笑みながら静かに言った。 「ええ、壊してください」 ガンガンガン! 二人で一週間かけて選んだシャンデリアが砕け散り、手ずから絵を描いた屏風がただの木屑になり、ツーショットの写真が引き裂かれ、一緒に組み立てた積み木が瓦礫の下敷きになり、並んで手に入れたアルバムがゴミになった…… 思い出の品々が一つずつ壊されていく。 それはまるで、見えない誰かの手が、二人の記憶を少しずつ消し去っていくかのようだった。 それでいい。 その方が、いい。 絵理奈はずっと微笑みながら見ていた。 すべての思い出が瓦礫に変わるのを見つめ、心の中に残っていた最後の感情も、音を立てて崩れ落ちた。 彼女はゆっくりと後ずさり、そして容赦なく背を向けると、大股でその場所を去った。 ゴウゴウという破壊音を背中に聞きながら、彼女はもう二度と振り返らなかった。 周防家から迎えに来た車に乗り込むと、絵理奈はそっと目を閉じた。 和己、これで、私たちの縁は終わり。 もう誰も、振り返らない。