思い出は灰と涙に

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思い出は灰と涙に

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結婚して五年目、西園柚葉(にしぞの ゆずは)は、四年間育ててきた息子の蒼真(そうま)が自分の実の子ではないことを、ようやく知った。 病...

Chương (1)

第1章

結婚して五年目、西園柚葉(にしぞの ゆずは)は、四年間育ててきた息子の蒼真(そうま)が自分の実の子ではないことを、ようやく知った。 病院の医師のオフィスの外で、柚葉は偶然、夫の西園直樹(にしぞの なおき)と主治医の話を耳にした。 「西園さん、お子さんは特殊な血液型ですから、できれば早めに実のお母様を病院にお呼びください」 直樹は苦しげに眉間を押さえ、「分かった。できるだけ早く手配する」と答えた。 その瞬間、頭の中で「キーン」と耳鳴りがして、まるで雷に打たれたみたいに思考が真っ白になった。 実の母親?私こそが蒼真の母親のはずなのに―― 柚葉は扉の外にしばらく立ち尽くしたまま、ふたりの会話の意味を必死に繋ぎ合わせた。 あの「一生お前を愛して守る」と誓った男は、結婚前から裏切っていたのだ。しかも、彼女の子どもをすり替えていた―― 第1話 結婚して五年目、西園柚葉(にしぞの ゆずは)は、四年間育ててきた息子の蒼真(そうま)が自分の実の子ではないことを、ようやく知った。 病院の医師のオフィスの外で、柚葉は偶然、夫の西園直樹(にしぞの なおき)と主治医の話を耳にした。 「西園さん、お子さんは特殊な血液型ですから、できれば早めに実のお母様を病院にお呼びください」 直樹は苦しげに眉間を押さえ、「分かった。できるだけ早く手配する」と答えた。 その瞬間、頭の中で「キーン」と耳鳴りがして、まるで雷に打たれたみたいに思考が真っ白になった。 実の母親?私こそが蒼真の母親のはずなのに―― 柚葉は扉の外にしばらく立ち尽くしたまま、ふたりの会話の意味を必死に繋ぎ合わせた。 あの「一生お前を愛して守る」と誓った男は、結婚前から裏切っていたのだ。しかも、彼女の子どもをすり替えていた―― なぜ、そんなことを? ふたりは幼なじみで、一緒に育ってきた。 柚葉は直樹と結婚するため、自分のキャリアまで捨てて、専業主婦になる道を選んだ。 あのとき直樹は、涙ぐみながら膝をつき、「柚葉、お前はこんなにも犠牲を払ってくれた。俺は絶対にお前を裏切らない」と誓った。 その誓いの言葉がまだ耳に残っているのに、現実は、柚葉にこれ以上ないほど残酷な仕打ちをした。 朦朧としたまま病室へ戻ると、柚葉の胸は細い糸で締め付けられるように痛み、息ができないほどだった。 もう、蒼真の顔を見ることさえできなかった。このままでは、きっと衝動的にDNA鑑定をしてしまう。いや、それ以上に、自分が取り乱して誰かに笑われるのが怖かった。 柚葉は、もうその場にはいられず、病院を飛び出した。 ちょうどそのとき、病院の玄関で兄の朝倉慎一(あさくら しんいち)が車から降りてきた。柚葉の動揺した様子を見て、慎一は慌てて彼女の腕をつかむ。 「柚葉、そんなに慌ててどこに行くんだ? 蒼真は?様子を見に来た」 蒼真が病気になって以来、家族みんなが心配し、慎一も国際会議をキャンセルして夜通し帰国してくれたのだ―― 柚葉の両目は真っ赤に腫れ、涙があふれ出てくる。「お兄ちゃん、お願い。調べてほしいことがあるの」 「何だ?」 「蒼真が……」柚葉は泣きはらした目で顔を上げ、かすれた声で言った。「私の子どもじゃないかもしれない……」 …… 【柚葉、どこにいるんだ?蒼真が目を覚まして、お前を呼んでるよ】 直樹からメッセージが届き、柚葉の涙がスマホの画面に落ちる。 直樹は毎年年末、必ず蒼真を連れて山の別荘で一週間を過ごす。「親子の絆を深めるため」と言った。 四年間、柚葉は一度も疑ったことがなかった。 でも今思えば、あれは絆を深めるためなんかじゃなかった。本当は、直樹が蒼真を「実の母親」に会わせていたのだ。 もし今日、この話を偶然聞かなければ、柚葉はまだ騙され続けていたはずだった。 柚葉はスマホの写真アルバムを指で激しくスクロールし、三人家族の思い出が次々と表示される。窓の外は夏の太陽が照りつけているのに、柚葉の体はひどく冷え、止まらない震えに包まれていた。 やっぱり男の「永遠の愛」なんて信じてはいけなかった。 そもそも、男なんてみんな自分勝手なものだし、直樹みたいな立場の人なら、もっといい女なんていくらでもいる。 だからこそ、柚葉も彼女の子供も、あっさり捨てられたのだ。 けれども、あの人は「絶対に裏切らない」と言ってくれたはずだったのに…… 柚葉の心は、錆びたナイフでじわじわと切り裂かれていくようで、彼女は思わず体を丸めた。 ふたりは長い間恋人だった。直樹が柚葉をどれだけ愛しているかは、誰もが知っていた。 十四歳のとき、不良に絡まれた柚葉のために、直樹はたった一人で十数人と喧嘩し、骨折するほど殴られても、「これで気が済んだか?」と笑っていた。 十八歳のとき、柚葉が同級生とご飯に行き、連絡を怠っただけで、直樹は東都中を探し回り、見つけた瞬間、子どものように泣いた。 二十二歳のとき、直樹は母親に頼み込んで家の宝であるエメラルドの指輪を受け継いだ。 「柚葉、俺と結婚してほしい。絶対に一生お前を裏切らない」 少年だった直樹のまっすぐな瞳は、真夏の太陽よりも眩しく、柚葉はその言葉を信じてプロポーズを受けた。 結婚してすぐ、柚葉は妊娠した。 直樹は嬉しさのあまり涙ぐみ、わざわざ会社に長期休暇を願い出て、「出産までずっと柚葉のそばにいる」と言い出した。 だが、その行動は家族中の大反対を招いた。直樹の父親は「女にうつつを抜かしてどうする」と言い出し、しまいには家の決まりまで持ち出して、まるで目を覚まさせるようにと厳しく叱った。 それでも直樹は父親の書斎の前で一晩中膝をついて許しを請い、「柚葉のお腹の子は俺の子だ。絶対に自分で守る」と言い張った。 今になって思えば、直樹は本当に柚葉の世話をしたかったわけじゃない。ただ、お腹の子にもしものことがあったら、自分の「隠し子」を取り戻せなくなるのが怖かったのだろう―― スマホにビデオ通話の着信があり、画面には「私の旦那」という文字がやけに目立って見えた。 柚葉は無表情のまま応答ボタンをタップした。画面には直樹の端正な顔が映る。 「柚葉、お前、どこにいるんだ?顔色がひどく悪いぞ?」 以前なら、柚葉は少しでも理不尽な思いをしたら、すぐに直樹に「助けて」と連絡していた。彼が味方になってくれると信じていたからだ。 でも今は、もう彼の顔も見たくなかった。 「泣いたのか?一体どこにいるんだ?今すぐ迎えに行く」 直樹が椅子から飛び上がり、慌てた様子が画面越しに伝わってくる。 「大丈夫。ちょっとコーヒーを買いに出ただけ」柚葉は疲れきった声で、話を終わらせようとした。 直樹はほっと息をつきながらも、しばらく沈黙した後、優しい声で言った。「早く帰っておいで。蒼真もお前を待ってるよ」 柚葉は気のない返事をした。 ビデオ通話を切ろうとしたとき、画面の端に女の影が映り込み、そのまま直樹の膝の上に座った―― 柚葉は一瞬固まり、何も考えられなくなる。次の瞬間、通話は強制的に切断された。 その場に立ち尽くしたまま、柚葉は拳で胸を何度も打つ。あふれる痛みは、どうしても押さえられなかった。 直樹とあの女は、子どもの病室で―― 柚葉は肘に顔をうずめ、どうにか怒りを抑えようとしたが、嗚咽が漏れて止まらなかった。 これが絶望というものなんだ。こんなにも、痛い―― もしかしたら直樹も、巻き込まれているだけなのかもしれない、と考えたこともあった。 だけど、今の直樹は、明らかに自分からその道を選んでいる。 異変を感じた慎一が、コーヒーも取らずに駆け寄ってきた。柚葉の苦しげな様子に胸を痛める。 「柚葉、直樹なんかのために泣く必要はない」 涙が服の襟元を濡らし、広がっていく。 お兄ちゃんは見るからに心配そうに、ため息をつきながら柚葉の肩をぽんと叩いた。その声はわずかに震えていた。「心配するな。お兄ちゃんが必ず子どもを取り戻してやるからな。 直樹には、きっと自分で責任を取らせることになる。でも柚葉、お前はこれからどうするつもりなんだ?もう覚悟はできてるのか?」 柚葉は嗚咽しながら、力強くうなずいた。直樹に裏切られたあの日から、もう、すべては決めていたのだから。 第2話 柚葉はカフェで一晩を過ごし、その夜ずっと考え続けていた。 直樹のために、自分の羽をもぎ、未来も手放し、何年も黙って彼のそばにいた。 けれど、柚葉は元々、家族に大事に育てられた箱入り娘で、業界でも知られた服飾デザイナーの天才だった。 だから、どんなに深く傷ついても、また一からやり直す勇気だけは残っていた。 そう思ったとき、柚葉は遠くスイスにいる親友の桜井真理子(さくらい まりこ)に電話をかけた。「真理子、前に会社でチーフデザイナーを探してるって言ってたよね。私、受けさせてもらえないかな?」 電話の向こうで真理子が少し驚いた声になる。「えっ、柚葉が?直樹さんは、それでいいの?」 「うん、もういいの。私、離婚するつもりだから」 「離婚?何があったの?」真理子の声が急に真剣になる。「直樹さん、何かしたの?」 柚葉は唇をかみしめて、涙をこらえながら話した。「詳しくはスイスに行ったら話すよ。とりあえず招待状を出して。明日すぐビザの手続きに行くから」 二人はそう約束し、電話を切った。そのあと柚葉はカフェの化粧室で身なりを整えてから、外に出た。 まず警察署に行き、「行方不明者届」を提出し、何度も子どもの捜索をお願いした。同時に、自分でも私立探偵を雇った。 次に弁護士事務所に行き、弁護士に離婚協議書の作成を依頼した。 すべてを終えたあと、柚葉は化粧を直し、病院に戻った。 今はまだ直樹に疑われてはいけない。彼の性格なら、少しでも異変を察したら絶対に離婚させてくれないし、子どもを見つけることもできなくなる。 それに、蒼真は自分が手塩にかけて育ててきた。そう簡単に諦められるはずもなかった。 ――けれど、どうやら考えすぎだったようだ。 病室の前まで来ると、中から蒼真の大きな笑い声が聞こえてきた。 窓越しに見ると、一人の女性が蒼真にご飯を食べさせながら、二人で楽しそうに笑い合っている。 柚葉は一瞬、女性の黒いワンピースに目を奪われた。 あのワンピース、昨日ビデオ通話に映っていた女の人が着ていたやつじゃない? 何かが腑に落ち、柚葉は息を飲み、必死にこみ上げる怒りを抑えて背を向けた。そのとき、廊下の奥から直樹が慌てて駆け寄ってくるのが見えた。 直樹は目の下に濃いクマを作り、明らかに寝ていない様子だった。 柚葉は首をかしげた。昨日は自分がいなかったから、ふたりには好きなだけ時間があったはずなのに。直樹の表情は、まるで楽しい夜を過ごした人には見えなかった。むしろ、一晩中走り回って疲れきっているようだった。 そんなことを思っているうちに、直樹が目の前まで来て、いきなり柚葉を抱きしめた。 直樹の腕は昔と同じように温かく、かすかにシトラス系の爽やかな香りがした。 けれど、今の柚葉には、むしろその匂いさえ気持ち悪く感じられた。 「柚葉、お前、昨夜どこ行ってたんだ?何度も電話したのに、全然出ないから心配したぞ。 蒼真のことを心配しすぎだって。もうちゃんと輸血も終わったし、大丈夫だから安心しろ」 直樹の目は本気で心配そうだった。作りものの感情には見えない。 柚葉には、いまだに理解できなかった。一生愛して守ると何度も口にしていた直樹が、どうして他の女と子どもを作り、挙句の果てに自分の子まで取り替えたのか―― 柚葉は白い唇をぎゅっと噛みしめ、喉の奥で全ての怒りと悲しみを飲み込んだ。問い詰めたい、泣き叫びたい。でも、理性が「やめておけ」と囁いた。 もういい。子どもは自分で探す。この男のことなんて、もうどうでもいい。 「私は平気よ。昨日はうっかりカフェで寝ちゃって、目が覚めてすぐに戻ってきたの」 直樹はようやく表情を和らげ、「これからは、どこに行くにも前もってちゃんと連絡してくれよ。お前がいなくなると、本当に心配でどうにかなりそうなんだから」と言った。 直樹の声はあまりにも優しくて、聞いているだけで心が揺れてしまいそうだった。 でも柚葉には、その視線が時おり病室の方へ流れているのがはっきり分かった。 その女はベッドのそばに座り、じっとドアの外を見つめていた。直樹は少し目をそらし、「昨夜眠れてないなら、今日は家に帰って休んでくれ。蒼真のことは心配しなくていい、ちゃんと面倒を見る人がいるから」と言って、そっと柚葉を押し出そうとした。 柚葉は思わず苦笑いをこぼした。自分が追い出されていることくらい、バカじゃないから分かっている。 でも、もうどうでもよかった。ただ、胸がちょっと痛むだけ。 柚葉は冷めた表情でうなずき、帰ろうとしたとき、部屋のドアが開いて女が出てきた。「柚葉さん、こんにちは。私は昔、直樹さんに援助していただいた大学生で、白鳥綾乃(しらとり あやの)と言います。一度お会いしたことあります」 その女性は若々しくて華やかで、どこか自分の若いころに似ていた。 柚葉は何も答えず、無表情のまま彼女を一瞥すると、そのまま歩き去った。 ところが病院の玄関まで来たところで、綾乃からメッセージが届く。【あなたの子どもがどこにいるか知りたければ、地下駐車場に来てください】 第3話 柚葉は何も考える余裕もないまま、慌てて地下駐車場へと走っていった。 エレベーターを降りた瞬間、車の前で直樹と綾乃が激しくキスをしているのが目に入った。 思わず、声を殺して自分の口を手で塞ぐ。泣き声が漏れないように。 直樹は息を荒げていて、すでに理性を失いかけているようだった。次の瞬間、彼は綾乃を強く抱きしめ、そのまま押し倒す。 「本当に、魔性の女だな」 綾乃は両脚を直樹の腰に絡め、妖艶な目で見つめ返す。 「そんなに焦らないで。あなたの奥さん、さっき出て行ったばかりよ?私は別に、こんなことをしに来たんじゃない。あの子のことを報告しに来たの」 「話はあとでいい、今は……」 直樹は綾乃の言葉を遮り、強引に彼女のドレスを引き裂いた。白い脚がむき出しになる。 綾乃は窓の外をちらりと見やり、わざとらしく言う。 「直樹さん、どうしてそんなに冷たいの?あの子、あなたの子どもでしょう?聞いた話だと、今は親がいなくてひどい扱いを受けてるって。あなた、本当にあの子を迎えに行かなくていいの?」 直樹は数秒だけ動きを止めて、その場に座り込むと眉間を押さえてうなだれた。 「もういいさ。これだけ年月が経ったんだ。もし柚葉に蒼真が本当の子じゃないって知られたら、あいつはきっと耐えられない」 「ふん、結局、奥さんのことが一番大事なんでしょ?じゃあ私と私の子はどうなるの?」 綾乃は拗ねたように体をそらす。 直樹は微笑みながら、綾乃を腕の中に引き寄せる。「何を言ってるんだ?お前と蒼真のことが一番大事だから、これだけ手を尽くして蒼真を連れ戻したんじゃないか。蒼真が西園家を継げるようにな。お前と子どもに将来困らせたくなくて、ここまでやったんだ。 柚葉に関しては、幼なじみだし、一度は俺の子を産んでくれた相手だ。あんまりひどいことはしたくないんだ」 その時、綾乃はまた窓の外に視線を向け、ふと目が合った。 そこには、顔色を失った柚葉が、呆然と立ち尽くしていた。 「本当に、あの子を迎えに行かないの?このまま柚葉さんにずっと隠し続ける気?」 直樹は疲れたようにため息をついた。「もういいよ。柚葉には蒼真がいれば十分だ。あの子のことは、たまに様子を見に行って、お金でも渡してやればいい」 綾乃は直樹のネクタイを引き寄せ、手を彼の太ももに滑らせた。「分かってるよ。私は柚葉さんには敵わないって。でも、どんな母親だって自分の子どもに一番いいものを与えたい。蒼真に「隠し子」なんてレッテルを貼られて生きてほしくない……だから、ごめんなさい」 その言葉を聞いた直樹の目に、ほんの一瞬、優しさがにじんだ。彼は綾乃を腕の中に引き寄せ、静かに言った。 「謝ることなんてないよ。全部、俺が好きでやってることなんだから。責めるとしたら、運が悪かったあの子だろう。たまたま柚葉の子として生まれてきてしまった、それだけのことさ」 直樹は手を伸ばし、綾乃の芝居がかった涙をそっと拭った。その優しい仕草は、まるで鋭い刃物のように、柚葉の心をずたずたにした。 拳を握りしめた手のひらには爪が食い込み、血がにじんでいる。でも、柚葉には痛みなど感じられなかった。 そう、手の痛みなんかより、心の痛みのほうが、よほど耐えがたかった。 病院を出たとき、柚葉はもう、自分がどこに向かっているのかも分からなかった。 照りつける太陽の下、魂の抜け殻みたいになって、ふらふらと道路の真ん中をさまよい歩いた。 汗と涙が入り混じって視界がぼやけ、服もすっかり濡れてしまっているのに、柚葉はそのことにさえ気づかなかった。ただ、どこに向かうあてもなく歩き続けていた。 いつのまにか靴もなくなり、裸足の足は血で染まり、傷だらけになっていた。 車に撥ねられた額からは血が流れ続けている。 どれほど歩いたのか分からない。気づけば、ようやく西園家の玄関にたどり着いていた。 その姿を見て、家政婦が驚き駆け寄ってきた。「奥様、どうなさったんですか?旦那様が一晩中探してましたよ。もう心配で心配で……お会いになりましたか?」 柚葉は、口元に力なく笑みを浮かべた。 みんなは直樹が自分を心から愛していると信じて疑わなかった。 でも、本当のことなんて、私にしか分からない。 首を横に振り、かすれた声で「大丈夫よ。少し休めば平気だから」とだけ答えた。 ふらふらと階段を上り、そのまま浴室へ入って扉を閉める。 ドアのそばに座り込み、頭の中には直樹と綾乃が絡み合う光景が何度もフラッシュバックする。もう我慢できなくなって、うずくまり、吐いてしまった。 自分はもう全部受け入れたと思っていたのに、裏切りを目の当たりにした今、心の傷はまた開き、前よりずっと深くえぐられていく。 浴室に響き渡る自分の泣き声は、いくらシャワーの音でごまかしても消えなかった。 本当は直樹に聞いてみたかった。どうして自分の前では優しい夫を演じながら、裏であんな裏切りを続けられるのか。 浴室で夜を明かし、朝になってようやく、柚葉は立ち上がる気力を取り戻した。 今日はスイス大使館でビザの申請をする日だった。これだけは絶対に遅れるわけにいかない。 傷の手当てをして、濃いめの化粧をし、きちんとした服に着替える。 その間、直樹からは何度も電話やビデオ通話が届いていたが、すべて無視した。 昼過ぎ、すべての手続きを終えて疲れ切って帰宅すると、リビングには綾乃がいて、蒼真と一緒に楽しそうにゲームをしていた―― 第4話 綾乃はソファに腰かけ、すっかり家の主のようにふるまっていた。近くでは蒼真が「綾乃おばちゃん!」と何度も呼びかけて、すっかりなついている様子だ。 柚葉が部屋に入ると、綾乃はすぐに立ち上がり、明るい笑顔で言った。 「柚葉さん、お帰りなさい。今日は蒼真くんが退院する日だったので、直樹さんに頼まれて、一緒に蒼真くんを送り届けたんです」 柚葉は思わず拳を握りしめ、心の奥底から怒りがこみ上げてきた。 直樹はもうここまで堂々としている。隠れて浮気するだけじゃ飽き足らず、ついには女を家の中にまで連れ込むようになったなんて。 柚葉の表情が険しくなるのを見て、直樹はあわてて説明した。「あ、えっと、蒼真だよ。どうしても綾乃の手を離そうとしなくて。せっかく病気が治ったばかりだし、蒼真の好きにさせてやろうと思って……」 柚葉は目を見開き、直樹を睨みつけた。怒りで体が小刻みに震える。 この二人は、あまりにも人を馬鹿にしている! 「直樹、蒼真には母親がいるはずでしょ?なんで他の女に面倒を見させるの?」声まで震えて、目には怒りの色が浮かんでいた。 直樹は気まずそうに苦笑し、すぐに柚葉の前にやってきて言った。 「柚葉、そんなに怒るなよ。最近ずっと蒼真の看病で大変だったろ?だから、綾乃にちょっと手伝ってもらおうと思っただけなんだ。お前に少しは休んでほしくて。 でも、もし嫌なら、今すぐ帰ってもらうよ」 柚葉は顔を引きつらせ、無表情のまま直樹を見つめた。 本当に、上手いものだ。この男は。 みんなの前では、あくまで「柚葉が一番大切」だと振る舞い、彼女の気持ちを第一に考えるふりをする。 今も、柚葉が不機嫌になると、すぐに綾乃を帰らせようとしてる。 でも、どれだけ芝居が上手くても、もう本当のことを知ってしまった自分だけは騙せない。 柚葉は口を開きかけ、真実を打ち明けようとした。 その瞬間、蒼真が彼女の前に駆け寄ってきて、スカートの裾をぎゅっとつかんだ。「ママ、綾乃おばちゃんを帰らせないで。僕、綾乃おばちゃんが好き。一緒に遊びたいんだ」 蒼真の泣き声が頭の奥に響き、柚葉は思わずこめかみを押さえた。 涙にかすむ目で、四年間育ててきた息子を見つめると、胸の奥がきゅっと痛んだ。 「蒼真、本当に綾乃おばちゃんが好きなの?でも、ママはあの人のことは好きじゃない。蒼真ならどうする?」 「だったらママが出ていけばいい。綾乃おばちゃんにここにいてほしい。ずっと一緒に遊びたいんだ」 柚葉の瞳がさっと揺れ、喉の奥に苦いものが込み上げてきた。息をするのもつらくなる。 本当は、こうなることなんて分かっていたはずなのに。それでも、どこかで奇跡を信じていた自分が、まだいた。 直樹の腕を振りほどき、そのまま階段を上って寝室にこもった。 直樹は焦った様子で何度もドアを叩いた。「柚葉、ごめんって。今すぐ綾乃を帰らせるから。な? ……今は話したくないなら、ゆっくり休んでくれ。落ち着いたら、またちゃんと話そう」 柚葉はドアの内側で身を寄せ、何も返事をしなかった。 階下から蒼真の笑い声が聞こえてくる。そのたびに、胸の奥の傷口がまた痛み出す。 ここから出ていくべきなのは綾乃じゃなくて、自分の方かもしれない。結局、本当の家族はあの三人で、自分は何者でもない。 あまりにも疲れ果てて、もう目を開けている力さえ残っていなかった。 どれほど時間が経ったのか分からない。気がつくと、床の上で眠ってしまっていた。目を覚ますと、目の前には綾乃が座っていた。 「何しに来たの?」柚葉は無理やり体を起こし、睨みつける。「今すぐ部屋から出ていって」 綾乃は口元に薄く笑みを浮かべ、ゆっくりと柚葉の前に歩み寄った。「柚葉さん、そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。私はただ、あなたの子どもの居場所を教えてあげようと思って来ただけなのに……」 柚葉は冷たく鼻で笑った。綾乃がそんなに親切な人間じゃないことは、最初から分かっている。「自分の子どもは、自分で探すから。今すぐ出て行って」 「そう?本当に知りたくないの?その子が男の子なのか女の子なのか、今どんな姿をしているのかも?」そう言って綾乃はスマホで動画を見せてきた。 画面には、四、五歳ぐらいの男の子が映っている。体中傷だらけで、顔も腫れている。その子の髪を乱暴に引っ張りながら、何かを無理やり口に押し込んでいる大人の姿があった。 柚葉はその場に立ち尽くし、胸の奥がきしむように痛んだ。 会ったことがなくても分かる。この子は、間違いなく自分の子どもだ。 「どうして、こんなにひどい目に遭ってるの?口に入れられてるのは……何?」柚葉は怒りで拳を強く握りしめ、指先が真っ白になるほどだった。 「さあね。親のいない子はみんな、こんなふうにいじめられるものなんです。あれは牛の糞か、馬の糞か、人の糞か、私にも分かりません。ただ、とにかく毎日、何度も口に入れられているみたいです」 綾乃は得意げでどこか狂気じみた笑みを浮かべ、目には悪意があふれていた。 柚葉はもう我慢できず、勢いよく綾乃に駆け寄って、思いきり平手打ちした。 その直後、直樹が部屋に飛び込んでくる。 綾乃はとっさに直樹の背中に隠れ、泣きじゃくりながら訴えた。「直樹さん、私はただ謝りたくて来たのに、柚葉さんがいきなり殴ってきて」 怒りが収まらない柚葉を前に、直樹の視線は二人の女性の間を行き来していた。 次の瞬間、彼は荒々しく綾乃の腕をつかんで引き寄せた。「柚葉にちゃんと謝れ!殴られて当然だろう。人を怒らせるお前が悪いんだから」 綾乃は顔を押さえ、信じられないという表情で直樹を見つめた。 そんな様子を見て、直樹はさらに怒鳴った。「聞こえなかったのか!」 柚葉はかすかに苦笑いを浮かべ、もうこれ以上二人の芝居に付き合う気はなかった。きっぱりと二人を部屋から追い出した。 第5話 一睡もできないまま朝を迎え、柚葉は夜明けと同時に家を出た。 自分の子どもが、今もどこかで人として耐えられるはずのない苦しみを受けている。もう、これ以上待つことなんてできなかった。 警察に駆け込んで、子どもを取り戻すつもりだった。 けれど、家を出てすぐ、黒服の男たちに袋をかぶせられ、拉致された。 気がつくと、廃工場の梁から手首を吊られていた。周囲には十人以上の黒服たちが立ち並び、その後ろから綾乃がゆっくりと現れる。 「柚葉さん、目が覚めましたか?」 その声はやけに優しかったが、目つきには毒が混じっていた。 柚葉は怯えたまま睨みつける。「綾乃さん、何をする気?」 「何をするかって?」綾乃は鉄パイプを手に取り、勝ち誇ったように笑った。「昨夜の平手打ちのお返しよ」 そう言うと、綾乃は黒服たちの方を振り向いた。「さあ、遠慮しないで。思いきりやりなさい。直樹さんからも、殺さなければ好きにしていいって言われてるから」 柚葉の全身が凍りつく。まさか、直樹の指示なの? 昨日、綾乃を一度叩いただけで、直樹は自分を殺すつもりなの? 柚葉は信じられずに必死で抗う。 そんなはずがない。絶対に、綾乃の嘘に決まってる―― 「どうしたんですか?」綾乃はにこやかに柚葉の前まで近づいた。「直樹さんの仕業だなんて、信じられませんか? じゃあ、チャンスをあげますね。直樹さんに電話してみてください。もし出てくれたら今日は見逃してあげますけど、出なかったら……そのときは覚悟してくださいね」 そう言って、綾乃は男たちに合図し、柚葉の縄をほどかせた。 柚葉は震える手でスマホを握りしめ、直樹に電話をかける。 しかし、コールが一度鳴っただけで、すぐに無情にも切られた。 諦めきれず、すぐにもう一度かける。だが、またしても切られる。 三度目も、四度目も―― 何度かけても、つながることはなかった。 九十九回目の発信で、ついにスマホの電源が切れた。その瞬間、柚葉の心も、すべて凍りついた。 やっぱり、直樹なんだ…… 柚葉は虚しく笑い、涙が静かに頬を伝った。 息をつく間もなく、次の瞬間、誰かに髪をつかまれて無理やり引きずり起こされる。 鉄パイプがうなりを上げて振り下ろされた―― 最初の一撃は頭に、鮮血が額をつたう。 二撃目は腰、息が詰まるほどの激痛。 三撃目は膝、骨が砕ける音がした気がした。 …… 何発打たれたか分からない。気づけば、血と泥にまみれて地面に倒れていた。 柚葉は口元をゆがめ、ふと、自分がまるで滑稽な存在になった気がした。 こんなにも必死に直樹を信じてきたのに。たとえ夫婦でいられなくなっても、彼だけは自分を裏切らないと思い込んでいた。 なのに結局、別の女のために自分を殺そうとするなんて。 なんとか顔を上げると、綾乃の勝ち誇った笑みが目に入った。心がえぐられ、全身が怒りで震えた。今すぐこの女と直樹を自分の手で殺してやりたい、そう思った。 でも、それはできなかった。自分にはまだやるべきことがある。あの子を、絶対に自分の手で取り戻さなければ―― 「さあ、さっさとあの女を吊るしなさい!直樹さんは殺すなと言ったけど、せいぜい干からびて死ねばいいのよ!」綾乃の声が冷たく響き、男たちが再び柚葉を梁から吊るす。 宙に浮いた瞬間、全身に鋭い痛みが走り、意識が遠のきそうになる。腕の傷口に縄が食い込み、骨が見えるほど深くえぐられていた。 柚葉はまるで使い古しの布切れのように吊り下げられ、もう生気さえ感じられなかった。 綾乃は少し離れたところで、冷たい目で睨みつける。「分かってますよね?さっさと直樹さんと離婚して、二度とこの家に戻ってこないでください。そうしないと、これから先どんな目に遭うか分かりませんよ」 そう言い捨てて、綾乃は出ていった。 遠ざかる綾乃の背中をぼんやりと見つめながら、柚葉の頭はどんどん朦朧としていく。耳に残るのは、自分の荒い息遣いだけだった。 第6話 再び目を覚ましたとき、目の前にはまぶしいほどの白い天井が広がっていた。 直樹がベッドのそばの椅子に腰かけ、目を閉じてじっとしている。 目の下には濃いクマができ、髭も伸びている。ひどくやつれた様子だった。 柚葉が目を開けると、直樹は突然身を乗り出してきて、強く彼女を抱きしめた。「柚葉、やっと目を覚ましてくれた!」 柚葉はしばらく固まったまま、やがて苦しそうに直樹を押しのけた。 心が死んでしまうほどの絶望―― 何よりもつらいのは、この腕がかつて、自分の必死の助けを何度も拒んだことだった。そのことを思い出すたびに、胸の奥に冷たい絶望が広がる。 柚葉は直樹に一言も声をかけることなく、ただ虚ろな目で天井を見つめていた。頭の中では、どうやってこの病院から抜け出して警察に通報できるか、そればかりを考えていた。 その後の数日間、直樹はまるで取り憑かれたように、片時も柚葉のそばを離れようとしなかった。 身体を拭いたり、食事を手伝ったり、本を読んだり、くだらない冗談まで言ってみせたり―― 必死に柚葉を元気づけようとした。 でも、柚葉はもう二度と笑うことはなかった。心はすっかり死んでしまったのだ。 彼女はゆっくりと直樹を見上げ、冷たく告げた。「もうそばにいなくていいわ。私は大丈夫だから」 直樹は戸惑いを隠せず、かすれた声で答えた。「ごめん、柚葉。あの日、会議中で電話に出られなかったんだ……」 柚葉はふいに笑い出した。笑いながら、いつのまにか涙が頬を伝っていた。 本当に電話に出られなかったの?違う、最初から出る気なんてなかっただけじゃないの―― 「そう?じゃあ、私にどうやって償うつもり?それから、綾乃さんにはどう責任を取らせるの?」 直樹は困ったように眉をひそめ、言葉に詰まった。「綾乃は、社会に出たばかりで何も分かってないんだ。柚葉、お願いだ。今回は許してやってくれないか?もう二度とお前を傷つけたりしないって約束するから」 柚葉は信じられない思いで直樹を睨みつけた。まるで悪い冗談でも聞かされているみたいだった。 自分が綾乃に殺されかけたというのに、夫はその加害者のために必死で言い訳をしている―― 「じゃあ……」柚葉は眉間に深い皺を寄せて問い詰めた。「ここ数日、私のそばにいたのは、彼女のことで『許してあげてほしい』って頼みたかったから?」 直樹は慌てて首を振って否定したが、柚葉にはもう分かっていた。 これこそが、彼の本当の目的なのだ。 「出ていって!」柚葉は声を張り上げた。「あなたなんていらない。今すぐここから消えて!」 直樹は慌てて柚葉に近づこうとしたが、彼女は力いっぱい跳ねのけた。その拍子に傷口が開き、包帯から鮮血が滴り落ちる。 激痛に汗が噴き出し、柚葉はベッドの上でうずくまる。それでも、叫び続けた。「出ていって!お願いだから、放っておいて!」 仕方なく、直樹は病室を出ていった。残された柚葉は、ベッドの上で息を切らしながら、胸の奥を握りつぶされるような痛みに耐えていた。 しばらくじっとしてから、柚葉は震える手でスマホを取り出し、警察に電話をかける準備をした。子どもの捜索がどこまで進んでいるのか、どうしても確かめたかった。 ちょうどそのとき、警察から電話がかかってきた。「西園さん、良い知らせです。お子さんの居場所をほぼ特定しました。これから救出に向かいます!」 「本当ですか?!」柚葉は涙を拭いながら、何度も聞き返した。 その一報が、どん底の淵にいた彼女に、もう一度生きる力を与えてくれた。 体の痛みをこらえながら、大使館とお兄ちゃんにも連絡を入れた。 大使館には子どものための臨時ビザを申請するため、お兄ちゃんには、綾乃が自分を拉致した証拠を集めてほしいと頼むために…… 第7話 柚葉は病院で一週間過ごした。 退院の日、直樹が自ら車を手配し、柚葉を家へ迎え入れた。 けれど、玄関をくぐった瞬間、リビングのソファには真っ赤なシルクのナイトウェアを着た綾乃が、すっかりこの家の主のような顔で座っていた。 柚葉は無言で口元を引きつらせ、そのまま階段を上がる。 もう綾乃とやり合う気力もなかった。 警察からは「子どもを救い出すまでは、何もなかったふりをして決して警戒されないように」と忠告されている。今は、とにかく波風を立てないことが大事だった。 しばらく寝室でぼんやりしていると、蒼真がコップを持って入ってきた。 蒼真の顔を見ると、それだけで柚葉の心がほんの少し和らいだ。 この子は自分が四年かけて育ててきた大切な存在。どんなに裏切られても、やっぱり愛しい。 柚葉がベッドに腰かけていると、蒼真はおとなしくコップを差し出した。 「ママ、いつもありがとう。お水、どうぞ」 柚葉は自然と微笑み、何も疑わずに一気に飲み干す。 けれど、すぐに体の異変に気づいた。 唇をかみしめ、眉をひそめて苦しさに耐えながら、かすれ声で尋ねる。「蒼真……今の、何の水だったの?」 蒼真は小さな悪魔みたいに無邪気な笑顔を浮かべながら「ただのお水だよ。ちょっとだけお薬を混ぜただけ」と平然と言った。 「だってママがいつも綾乃おばちゃんを追い出そうとするから、綾乃おばちゃんが言ってたよ。ママがこのお水を飲めば、病気になって元気がなくなる。そうすればもう、綾乃おばちゃんを追い出せなくなるって」 柚葉は息を呑み、目の前の子が信じられなかった。自分が四年もかけて愛し、育ててきた子どもが、他人のために、こんなことをするようになってしまったなんて―― ……いや、違う。この子の「ママ」は、自分じゃない。本当の母親は、綾乃だったのだ! 唇に苦い笑みが浮かぶ。柚葉はそのまま意識を失った。 かすかに、「綾乃おばちゃん、来て!ママが倒れた!」という蒼真の声が遠くに聞こえた。 次に目を開けたとき、柚葉は地下室にいた。 あたりは真っ暗で、静寂の中に「シューッ、シューッ」と小さな音が響いている。 手探りで灯りをつけると、全身が凍りついた。 床いっぱいに、ぬらぬらと光る無数の毒蛇が、舌をチロチロと出しながらこちらを見ていた。 柚葉は恐怖で思わず後ずさり、顔が真っ青になる。 そのとき、幼い蒼真の声が響いた。 「ママ、このヘビたち、かわいいでしょ?」 柚葉は何も答えられず、ただ扉に手を伸ばした。だが、扉はしっかりと施錠されていて、びくともしない。 焦りと恐怖で手が震え、額をぶつけて血がにじんだ。 血の匂いに興奮したのか、ヘビたちが一斉にこちらに這い寄ってくる。 もう逃げ場はなく、柚葉の足に、一匹の毒蛇が噛みついた。 鋭い牙が肉に突き刺さり、痛みで全身が汗まみれになる。 次から次へと、二匹目、三匹目、四匹目…… 噛まれたところがどんどん紫色に腫れ上がり、唇の色も透き通るほどに青ざめていった。 そのとき、上から家政婦の叫び声が聞こえた。「綾乃さん、どうか奥様を出してあげてください!本当に命に関わります!」 綾乃は口元を冷たく歪めてしゃがみこみ、蒼真を抱き寄せて言った。「どうする?蒼真くん、ママを助けてあげる?」 蒼真は首を横に振り、大声で叫ぶ。「やだ!ママが出てきたら、また綾乃おばちゃんを追い出しちゃう!僕、綾乃おばちゃんと一緒がいい!」 その声を聞いたとき、柚葉の心は完全に壊れた。 この家で、唯一の希望だった蒼真さえも―― もう、何も執着する理由がなくなった。 体中の感覚が薄れていく。 そのとき、地下室の扉が勢いよく開いた。 ぼんやりした意識の中で、柚葉はお兄ちゃんが駆け寄ってくるのを見た。 気がつくと、また病院のベッドの上にいた。 そばにはお兄ちゃんと、小さな男の子が立っている。 柚葉はその子を見て、そしてお兄ちゃんを見て、すべてを悟った。 ようやく、自分の本当の子どもが帰ってきたのだ―― 柚葉は嬉しさのあまり、子どもを抱きしめて涙が止まらなかった。 二日後、柚葉と息子はお兄ちゃんに付き添われて、スイス行きの飛行機に乗った。 見送りのゲートで、お兄ちゃんは優しい眼差しで言う。「もう大丈夫だ。子どもを連れて、この場所を離れなさい。あとのことは全部、俺に任せていいから」 柚葉は涙をこらえてうなずき、息子の手をしっかりと握った。そして、二度と振り返ることなく、そのまま飛行機へと乗り込んだ。