鏡花水月に咲く愛

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鏡花水月に咲く愛

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橘夏織(たちばな かおり)は新堂拓海(しんどう たくみ)の臨床心理士として出会い、やがて恋人となった。 ふたりの熱くロマンチックな愛は、...

Chương (1)

第1章

橘夏織(たちばな かおり)は新堂拓海(しんどう たくみ)の臨床心理士として出会い、やがて恋人となった。 ふたりの熱くロマンチックな愛は、誰もが羨む理想のカップルだと称賛されていた。 だが、拓海が白石家の令嬢との婚約を発表したその瞬間、夏織はようやく悟る。 かつて自分のために肋骨を三本も折って守ってくれた、あの少年はもうどこにもいないのだと。 恋にすっかり絶望した夏織は、静かに彼の前から姿を消す。 ――それから時が経ち、拓海はようやく気づく。 本当に自分が婚約しようとしていた白石家の令嬢は、最初から「他の誰か」ではなかったことに。 けれど、そのときの夏織の隣には、すでに別の男性がいた…… 第1話 世間では、新堂家の御曹司・新堂拓海(しんどう たくみ)は気難しく、気分屋で、誰に対しても冷淡だと言われている。 だが、橘夏織(たちばな かおり)がそばにいるときだけは、まるで従順な猫のように穏やかになるのだった。 五年の歳月をかけて、カウンセラーと患者から始まったふたりの関係は、やがてお互いにとってかけがえのない存在となり、その愛は業界でも有名な美談となっていた。 父の遺影の前で、拓海は母親に無理やり三本の肋骨を折られた。 母は涙を流しながら手に持っていた棒を床に落とし、「出ていきなさい。もう新堂の家には戻らないで」と、彼を家から追い出した。 それでも拓海が最初にしたことは、病院へ行くことではなかった。 傷だらけの体で、土砂降りの雨の中、彼はただ一人、夏織の家の前まで歩いて行ったのだった。 その後五年、彼はほとんど母親と顔を合わせることはなく、ただ夏織のためだけに生きていた。 だが、パーティーで夏織の出自を嘲笑する者が現れると、拓海はまるで狂犬のようにその相手を殴り倒してしまう。 けれど、夏織が彼の名前を呼ぶと、その狂犬は首輪をつけられたかのように大人しく膝をつくのだった。 血まみれのまま夏織の前に跪き、泣きながら「自分を捨てないでくれ」と懇願し、挙句の果てには自ら胸にナイフを突き立てて謝罪するほど。 その愛は激しく、ロマンティックで、夏織自身も夢のような運命だと感じていた。 ――だが、ある日のこと。 レストランを出ようとした夏織は、偶然、拓海の会話を耳にしてしまう。 「本気で橘夏織と一生一緒にいるつもりか?お前、白石家の令嬢とは許嫁だろ」 「忘れてないよ」 「母さんが彼女を俺の治療のために呼んだだけだ。今まで白石家の令嬢が海外にいたから、付き合ってただけ。そろそろ終わりにするつもりだ」 拓海の声から、かつての優しさや思いやりは一切消えていた。 そこにあったのは、ただ冷ややかな嘲笑だけ。 まるで王様が足元で滑稽に跳ねる道化を見下ろすような、残酷な響きだった。 夏織の身体はその場で固まった。 「いいじゃん拓海、外で遊んでも家にはお嬢様が待ってるんだしさ」 「でもさ、夏織ちゃん、本気でお前のこと好きみたいだよ?もし付きまとわれたらどうすんの?」 「その時は外に囲っとけばいいだけ。うちみたいな家なら、家に一人、外にも一人、そんなの当たり前だろ。ちゃんとお嬢様にバレなきゃ何の問題もないし」 ――まるで、夏織がただの都合のいい「外の女」でしかないかのように、あっさりと言い捨てられた。 「夏織は、俺の最低な部分を何度も見てきたからな。あの顔を見ると、正直うんざりする時もある」 拓海の冷たい言葉が何度も頭の中で反響し、夏織の心を切り刻む。 気がつけば、ふたりが初めて出会った日の記憶が鮮やかによみがえっていた。 あの頃の拓海は、いま皆に理想の御曹司だと称賛されている姿とは違い、いつでも「躁うつ」の発作が起きてもおかしくない、不安定な青年だった。 そして、夏織は海外の大学を卒業したばかりの臨床心理士。 年齢も近く、専門知識もあった夏織を、拓海の母親が選び、彼の専属カウンセラーとして雇われたのが始まりだった。 五年という歳月―― 発作を起こせば、夏織は一晩中付き添った。 物を壊せば、黙って後片付けをした。 誰かを傷つけてしまえば、代わりに頭を下げて謝った。 眠れない夜には、朝までそばで物語を語り続けた。 五年間、夏織は拓海のために心を砕き、ついには彼を明るく社交的な「理想の紳士」へと導いてきた。 だが、今や自分は彼の華やかな未来にとって、ただの「重荷」なのだと痛感する。 夏織は呆然と壁にもたれ、冷たい涙が頬を伝う。 ――そんなとき、スマホが震えた。画面には新堂夫人からのメッセージ。 【夏織さん、先ほどお話しした件、どうかご一考ください】 ほんの三十分前、夏織はその申し出をきっぱりと断っていた。 【一千万円で、拓海の前から姿を消し、白石家の令嬢との婚約を見届けてほしい】 それでも、夏織は信じていた。拓海の愛は、一千万円なんかよりずっと重いはずだと。 ――彼との愛は、お金では計れないものだと。 涙を拭い、夏織はゆっくりとレストランを出た。 【もう考える必要はありません。承諾します】 その後も新堂夫人から何か返信が届いていたが、夏織はもう見なかった。 エントランスを抜けると、見覚えのある車が待っている。 運転手がすぐさま駆け寄ってきて、丁寧に告げる。 「お嬢様、ご両親はもう帰国の飛行機に乗られました」 夏織は指輪に視線を落とす。 それは三年前、拓海が自分に告白したときにくれたものだった。 ただの銀の指輪——だけど、彼が自分の手で作ってくれた大切なもの。 あのときは、これが拓海の真心の証だと信じて疑わなかった。 だが今になってみれば、自分が彼にとってどんな存在なのか、まるでこの指輪のように、質素で取るに足らないものだったのだ。 夏織は車に乗り込み、低い声で命じた。 「両親に伝えて。新堂家との縁談は、もう白紙に戻すって」 世間では「白石家のお嬢様」と呼ばれているけれど、実は白石という姓ではなく、母の姓を名乗っているだけ―― 彼女の本当の名前は、「橘夏織」だった。 第2話 夏織が自宅に戻った頃には、すでに夜も更けていた。 ソファに腰を下ろすと、無意識のうちに拓海との数々の思い出が頭をよぎる。 大学卒業後、家族に内緒で帰国したのも、数年は自由に過ごしたいと思っただけだった。まさか拓海と出会うことになるとは思いもしなかった。 医師としての職業意識から、夏織は彼を放っておくことができなかった。 気づけば、五年の月日が流れていた。 その間、両親から何度も帰ってくるよう電話があったが、夏織はすべて断り続けてきた。 一か月前、自分が白石家の令嬢であることを明かし、拓海との婚約を申し出た。 あの日、拓海はたくさんお酒を飲み、何度も何度も「ごめん」と言いながら夏織を抱きしめた。 夏織は、彼にサプライズを用意していたつもりだった。 まさか、彼のほうから予想外の「衝撃」を受けることになるとは―― 「夏織……」 玄関のドアが開き、酒臭い体で拓海がふらふらと入ってきた。 彼の肩を抱えている女の子は、夏織の知らない顔だった。 女の子は顔を上げ、あどけなく澄んだ表情を見せる。 「橘さん、新堂さんは今日お酒を飲みすぎてしまって……家までお送りしました」 額には汗が滲み、拓海をそっとソファに寝かせる。 顔は真っ赤で、口の中では何度も「夏織…夏織…」と呟いている。 女の子はほっと息をつき、笑顔で言った。 「橘さんと新堂さん、仲が良いんですね」 夏織は冷ややかな視線で拓海を見つめ、心の中で自嘲した。 ――そうだ、誰もが知っている。拓海は夏織を溺愛していると。 彼の病状が安定してから唯一怒って手を出したのも、夏織のためだった。 バーで男にしつこく絡まれた夏織を見て、拓海は相手を床に叩きつけて殴りつけた。 目は血走り、拳は血だらけ、まるで理性を失った猛獣のようだった。 誰が止めようとしても、彼の怒りは収まらない。 けれど、夏織の声だけが彼を落ち着かせることができた。 まるで叱られた子供のように、拓海は怯えて泣きそうな顔をしていた。 「ごめん、夏織……わざとじゃないんだ……」 「悔しかったんだ、あいつが君に……」 あのとき彼の目に浮かんだ焦りが本物だったのかどうか、夏織はもう考えたくもなかった。 女の子は拓海を部屋に送り届けると、そのまま帰っていった。 以前だったら、夏織は拓海をベッドまで運び、着替えさせ、顔を拭いてあげただろう。 慌てて酔い覚ましのスープを作り、彼が目覚めた時に少しでも楽になるよう気を配ってきた。 けれど今回ばかりは、夏織は黙って自分の部屋へと戻った。 もう二度と、彼の世話を焼くつもりはない。たとえ一度も、もうしない。 翌朝、夏織は自分の体に重みを感じて目を覚ました。 目を開けると、そこには自分の上に覆いかぶさる拓海の姿。 「夏織、昨日、俺をソファに置きっぱなしだったよね?」 「頭が痛い……体も痛い……夏織、助けてよ……」 その顔はひどく拗ねていて、誰かが見たら驚くだろう。 外では横柄な「御曹司」の拓海が、夏織の前ではまるで甘えん坊の犬のよう。 夏織は昔、そんな彼に何度も心を動かされた。 でも、今の彼のその態度が、ただただ虚しい。 「重いから、どいて」 夏織は冷たく言った。 「夏織、怒ってるの?昨日送ってきたのはバーの店員さんだけで、俺、本当に何もしてないよ」 拓海は首を埋めて、夏織の首筋にすり寄ってくる。 だが、夏織が答える前に、拓海の友人から電話がかかってきた。 「拓海、今日は約束したレースの日だろ。まだ来ないのか?」 「昨日飲みすぎちゃって。すぐ行くよ」 拓海は急いで夏織の上から離れ、出て行こうとしつつ、手を取った。 「夏織、一緒に来てくれない?君がいないと不安なんだ」 すでに新堂夫人からお金を受け取ってしまった夏織は、残り六日間は約束を守るつもりだった。 少し迷ったが、夏織は頷いた。 まさか昨日、拓海を送ってきたあの女の子もいるとは思わなかった。 「こちら、白石綾乃(しらいし あやの)。真面目そうだし、連れてきちゃったけど、気にしないよね?」 友人が拓海の肩を叩き、綾乃の方に目配せする。 綾乃はシャツの裾を握り、はにかんだ笑顔を見せる。 「好きにして」 拓海は冷ややかにそう言い、綾乃に一瞥もくれない。 友人は夏織を一度見やると、拓海の耳元でささやいた。 「なあ、昨日の夜、俺聞いちゃったんだぜ。綾乃が電話しててさ、『見た』『婚約』『悪くない』って……」 拓海は一瞬ぎょっとして、横にいる人たちを見渡した。 友人がひそかに目配せを送り、拓海はじっと考え込む。 まさか……白石家の令嬢が身分を隠して、彼を試していたのではないか? そうこうしているうちに、レースが始まることになった。 「拓海、お前が一番運転上手いんだから、綾乃も一緒に乗せてやれば?」 夏織は思わず眉をひそめ、拓海を見つめた。 でも、拓海の意識は夏織ではなく、綾乃に向けられていた。 「いいよ」 「夏織はレース嫌いだろうし、ここで待ってて」 実際、夏織はレースが嫌いなわけではない。 むしろ、刺激的なことは好きだった。 ただ、拓海には病気があるため、この手のアクティビティは治療に良くない。 それでも、彼の甘えに弱かった夏織は、ずっと我慢してきたのだ。 なのに、今はまるで彼女がレース嫌いな人間扱いされている。 夏織は拓海と綾乃の間をじっと見つめ、やがて静かにうなずいた。 「……わかった」 砂埃が舞い上がり、数台の車が夏織の目の前を勢いよく駆け抜けていった。 一周、二周、いつも拓海がトップだった。 しかし、三周目になっても車が戻ってこない。 夏織の胸に不吉な予感が広がる。 「大変だ!!拓海の車が横転した!早く誰か呼んで!」 第3話 夏織の体は、思考よりも先に動いていた。 人が集まる方へと駆け出す。 果てしなく長いサーキットを走るうち、心臓が胸から飛び出しそうになり、肺まで痛みが襲う。 拓海の笑顔、怒った顔、悲しそうな顔、ふざけて彼女を笑わせてくれた時の顔―― そのすべてが、夏織の脳裏をよぎる。 「患者を愛してはいけない」 医者として、絶対に破ってはいけない掟。 それでも夏織は、気持ちを止めることができなかった。 あの日、夏織が強盗に襲われたとき、命を顧みず自分の前に立ちはだかったのは拓海だった。 「絶対にケンカしちゃダメ」と言われていたから、頭から血を流しても、拓海は一度も手を出さなかった。 最後には真っ青な顔で、夏織の腕の中に倒れ込んだ。 唇には、微笑みさえ浮かんでいた。 「夏織、怖がらなくていい。俺がいるから」 自分の命さえ惜しまず、守ってくれた彼。 どうして、そんな彼を好きにならずにいられようか。 ――拓海さえ生きていてくれれば、それだけでよかった。 けれど、夏織がやっとの思いで事故現場にたどり着いた時、目にしたのは――綾乃の膝枕で目を閉じる拓海の姿だった。 拓海の足には枝が貫通し、顔にも傷跡がある。 一方の綾乃は、腕にかすり傷がある程度。 綾乃は泣き叫び、取り乱していた。 「お医者さん!早く新堂さんを助けてください!」 「私を守ってくれなかったら、こんなにひどい怪我にならなかったのに……」 ――時が巻き戻ったような感覚に襲われる。 命を懸けて守る相手が、もう自分ではないことを痛感させられる瞬間だった。 夏織は呆然と立ち尽くし、無表情で拓海が救急車に運ばれるのを見ていた。 その後を、泣きじゃくる綾乃が追いかけていく。 すべてが自分とはもう無関係になったようだった。 それでも一応「恋人」として、夏織も病院に向かった。 手術室の前で、綾乃は椅子に座って泣き続け、夏織は隣で無表情のまま静かに座っていた。 知らない人が見たら、綾乃こそが拓海の恋人だと思うかもしれない。 新堂夫人が駆けつけてきたとき、彼女が目にしたのは冷淡な夏織の姿だった。 怒りで震えながら、夫人は夏織に近づき、いきなり頬を平手打ちした。 乾いた音がその場の空気を切り裂いた。 夏織は顔をそらし、白い頬にはくっきりと手形が残る。 「夏織!私がしっかり拓海を見ててくれって言ったわよね?これがあなたの言う『しっかり見てる』ってこと?」 「誰が彼をレースに行かせていいって言ったのよ!」 「私にはこの子しかいないのに……もし拓海に何かあったら、絶対に許さないから!」 新堂夫人の夫は早くに亡くなり、それ以来母子二人きりで生きてきた。 今も全身を震わせ、目には涙が溜まっている。 慌てて立ち上がった綾乃が、新堂夫人の隣に寄り添い、小さな声で言う。 「ごめんなさい、全部私のせいなんです……私を守ってくれようとしたから、新堂さんがこんな目に遭ったんです……」 さっきまで激怒していた新堂夫人は、綾乃を見るなり別人のような優しい顔になった。 「そんなこと言わないの、バカな子ね。拓海があなたを守るのは当然のことよ」 「私は小さい頃から、拓海に『弱い者を守りなさい』って教えてきたの。その通りにできてるわね」 新堂夫人は、夏織が今まで一度も見たことのないような優しい笑顔を浮かべ、綾乃の手を引いて隣に座らせた。 そして、綾乃の頬に流れる涙を優しくぬぐってあげる。 綾乃は呆然としたまま、思わず夏織の方を見た。 だが夏織は口元に皮肉な笑みを浮かべ、無言でその場を離れた。 ――もう、ここに自分の居場所はどこにもないのだと悟った。 夏織は家に戻り、自分の荷物をまとめ、拓海の私物もきちんと整理した。 この家は、かつて拓海が「ふたりの愛の巣」と言って贈ってくれたものだった。 でも、愛がなくなった今となっては、ただの無駄な空間でしかない。 夏織は自分の物は全部捨てた。見ているだけで吐き気がした。 拓海の物をどうするか迷ったが、それを処分する権利はない。 仕方なく、新堂家に返しに行くことにした。 玄関先で、偶然新堂夫人の会話が聞こえてきた。 「本当に間違いないの?」 「間違いないです!私、確かに聞いたんです。あの綾乃さん、きっと白石家のお嬢様ですよ!」 「今は身分を隠して、拓海のことを調べてるみたいですけど、絶対に彼女に夏織さんとの関係を知られないようにしてください。もしバレたら、この縁談も台無しになっちゃいますから」 「ふん、心配いらないわ。あの夏織なんて親もいない子が、五年も拓海のそばにいられたのは奇跡よ。自分の身の程ってものを知ってほしいわ。うちの拓海がどれだけ『素晴らしい子』かもわからないのよ」 ――素晴らしい? 夏織は思わず鼻で笑った。 五年前、彼女が出会ったばかりの拓海は、まるで森の原始人のようで、すぐ怒鳴り散らす、世間の笑いものだった。 今では新堂夫人にとって「素晴らしい息子」になったらしい。 それにしても、自分に妹ができた覚えはない。 夏織はスマホでさっきの会話を録音したばかりだった。 そして、拓海の私物をそのままゴミ箱に放り込み、背を向けて家を出た。 第4話 拓海は足を怪我し、しばらく車椅子で生活することになった。 綾乃は「私が看病します」と自ら申し出て、そのまま新堂家に住み着くことに。 初日、綾乃はおどおどとした目で、ためらいがちに言う。 「橘さん、新堂さんは私のせいで怪我したんです。本当に、新堂さんの体が治ったら、すぐ出ていきますから!」 夏織が何も返さないうちに、拓海が先に口を挟んだ。 「出ていく必要なんてないよ。君のご両親はもういないんだろ?若い女の子が一人で暮らすなんて危ないし、うちは部屋がたくさんある。気にせずここにいなよ」 綾乃の目が一瞬ぱっと明るくなり、しかし無意識に夏織の表情をうかがう。 冷淡な顔のままの彼女を見て、やっと微笑みを浮かべた。 「そ、それじゃあ、お言葉に甘えます……ありがとうございます、新堂さん!」 綾乃はそのまま拓海の車椅子を押して部屋を出ていった。 最初から最後まで、拓海は夏織に一度も目を向けなかった。 すでに心はボロボロなのに、また新たな痛みが突き刺さった。 綾乃が新堂家で暮らし始めて、もう二日が経つ。 婚約パーティーまで、あと五日。 朝から二人の姿が見えず、夏織は綾乃のSNSでようやく拓海が彼女をショッピングに連れていったことを知った。 九枚の写真、どれにも拓海が写っていて、その目は綾乃にだけ向けられている。 日が沈む頃、二人が帰宅したとき、綾乃は頭からつま先まで「新しい自分」に変身していた。 地味だったTシャツとジーンズは姿を消し、身につけているのはシャネルの新作ワンピースとエルメスのバッグ。運転手の手には紙袋がいくつもぶら下がっている。 「きゃっ、橘さん、まだご飯食べてませんよね?すみません、私、久しぶりの買い物でつい夢中になっちゃって……今すぐ何か作ります!」 そう言いながらも、まったく動こうとしない。 予想どおり、拓海が口を挟む。 「放っておけばいいよ。お腹が空いたら自分でデリバリー頼むでしょ」 綾乃の目に、ほくそ笑むような光が浮かんだ。 その夜、拓海が夏織の部屋をノックした。 綾乃が家に来て以来、拓海は別の部屋で寝るようになっていた。 無表情な夏織に、彼は柔らかく笑いかける。 「どうしたの、夏織。そんな怖い顔して……もしかして怒ってる?」 拓海が手を伸ばして夏織の頬に触れようとしたが、彼女は一歩下がって避けた。 彼は少し眉をひそめつつも、なだめるように続けた。 「夏織、綾乃は白石家のお嬢様なんだ。身分を隠して俺に近づいたのは、俺たちの関係を調べるためさ。俺が君に冷たくするのは、君を守るためだ」 「俺が結婚しても、俺たちの関係には何も変わりはない。忘れたのか?俺は一度、君にプロポーズしたことがあるんだぞ」 ――その優しい笑顔を見て、夏織の心は一瞬だけ、あの秋の日へ引き戻された。 一年前、拓海が誘拐されて生死不明になった時、夏織は家族のコネを使い、三日三晩眠らずに必死で探し続け、ようやく海辺の岩場で彼を見つけ出した。 そのとき、拓海は病気の発作寸前で、誰の言葉も通じず、ついには夏織を刺してしまった。 その傷跡は今も消えない。 病院で、拓海は泣きながらその傷に触れ、「一生かけて君を守る」と誓った―― だが、その誓いも今では幻だ。 「わかった」 その一言に、拓海は満足そうに彼女の手を握り、部屋を出ていった。 三日目――婚約パーティーまで残り四日。 その日はちょうど綾乃の誕生日だった。 拓海はどうしても盛大なバースデーパーティーを開いてやりたいと言い張った。 クルーズ船でのパーティー会場に入ると、夏織は奇妙な視線を感じた。 噂の伝播は早いもので、拓海の「心変わり」もすっかり周知の事実になっていた。 誰もが夏織の転落劇を見たがっている。 「橘さん、前はあんなに自信満々だったのに」 「やっぱり変だと思ったわよ。新堂さんが本気であんな普通の女に夢中になるなんて」 夏織の前に、過去に拓海に告白して振られたことのある女性たちが立ちはだかる。 夏織は眉をひそめ、冷たい声で言う。 「どいて」 「自分がまだ新堂さんに特別扱いされてると思ってるの?」 「絶対どかないわよ、どうするの?」 女たちは夏織をどんどん壁際に追い詰めていった。 「何してるの!?」 沈黙の中、聞き覚えのある声が響く。 顔を上げると、綾乃が大きな歩幅でこちらに向かってきて、夏織の前に立ちはだかった。 「橘さんは新堂さんにとって、とても大事な方です。そんなことしたら、新堂さんが絶対に許しません!」 第5話 綾乃の立場は、もう以前とはまるで違う。 さっきまで夏織を追い詰めていた女たちも、顔を見合わせてため息をつき、何も言わずにその場を離れていった。 綾乃の後ろ姿を見つめながら、夏織の胸の中には複雑な気持ちが渦巻く。 彼女に対する思いは簡単に言い切れないが、浮気したのは拓海であって、綾乃じゃなくても、きっと他の誰かだったのかもしれない。 「ありがとう」 少し迷ってから、夏織は自分からそう口にした。 綾乃はくるりと振り返り、にっこり微笑む。 「橘さん、そんなに気にしないでください。私が誤解されているのは分かってますけど、私はあなたの敵になりたいわけじゃありません」 そう言って、綾乃は手を差し出してくる。 そのまっすぐな笑顔に、夏織は思わず深呼吸して、ゆっくりと手を伸ばし、綾乃の手を握り返す―― だが、その瞬間。 綾乃の笑顔が急に変わった。 無垢さは消え、侮蔑の色が浮かぶ。 綾乃はぐっと夏織の手を引き寄せ、顔を近づけて耳元でささやく。 「ふふ、橘さん、ほんとにお人好しね」 夏織が驚いている間に、綾乃の体は後ろへと大きく傾いた。 背後に広がるのは、どこまでも続く海。綾乃の顔には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。 気づいた時には、すでに手遅れだった。 「きゃーっ!誰か海に落ちた!」 「早く助けて!」 夏織はその場に呆然と立ち尽くす。 すぐ脇を走り抜けていった影――それは、拓海だった。 夜の冷たい海に、迷いなく飛び込んでいく。 現場は一気に混乱する。 夏織の脳裏に焼きついているのは、落ちる直前、綾乃が見せたあの蔑みの笑みだけ。 どれくらいの時間が経ったか分からない。 やっとのことで、拓海と綾乃は海から救い上げられた。 綾乃は拓海の腕に抱かれたまま気を失い、顔色は真っ青だ。 人ごみを抜けて、夏織はそっと前に出る。 「拓海、私……」 この誤解は自分じゃないことを言いたかった。 全部、綾乃の仕掛けた罠だと説明したかった。 五年も一緒に過ごしたのだから、拓海なら自分のことを分かってくれると信じていた―― けれど、その思いは、最後まで言葉にならない。 拓海がきつく睨みつけてきた。 その目に浮かぶのは、愛情ではなく、ただ苛立ちと怒り。 冷たい視線だけで、夏織の喉は塞がれ、何も言えなくなる。 拓海は慎重に綾乃を地面に横たえ、ゆっくり立ち上がる。 少しでも希望を持って見上げた夏織―― だが、次の瞬間。 パシッ! かつて夏織の足が傷ついただけで泣きそうになっていた男が、今はためらいもなく彼女の頬を平手打ちした。 顔に焼けつくような痛み。それ以上に、心の奥がズタズタに切り裂かれる。 周囲の視線も、ささやきも、すべてが夏織への嘲笑と蔑みで満ちている。 しかし、その中で唯一はっきりと届いたのは、拓海の冷たい声だった。 「綾乃は白石家の令嬢だ。俺の唯一の婚約者なんだ!」 「お前ごときが、他のことを考えるなんて身の程を知れ!」 拓海の言葉は鋭い刃となり、夏織の胸に深く突き刺さる。 「えっ、綾乃さんって白石家のお嬢様だったの!?全然そんな風に見えなかったのに……」 「本当だよ、あんな大人しそうな子がまさか……」 「新堂さんがそう言うなら間違いないでしょ。はぁ、橘さん、今回は本当に終わりだね」 「自分が治療した恩を盾にして彼女面してたけど、所詮は身の程知らずの小物だよ」 「本命が出てきたら、そりゃ外野は消えるしかないよね」 夏織はゆっくりと顔を上げ、拓海を見つめる。 痛みと絶望に満ちた瞳に、拓海の心が一瞬だけ動揺する。 ひとすじの涙が静かに夏織の頬を伝う。 「……私が他のことを想ってるって、本当にそう思ってるの?」 「拓海、あなたは、どうしてそんな言葉を……」 大雨の夜、家の前で泣きながら「行かないで」とすがりついたのは、他でもない拓海だった。 何度も「結婚しよう」と言って手を握ってきたのも、彼だ。 拓海の胸に、一瞬だけ何かがよぎる。 だが、その時。 「新堂さん!綾乃さんが高熱を出しています!」 慌てた声に振り向き、拓海は綾乃を抱き上げる。 「病院へ行くぞ」 夏織のそばを通り過ぎるとき、拓海は足を止めて言った。 「君も来い」 夏織の心に、不吉な予感が広がっていく。 第6話 病院の廊下、拓海は眉間に深い皺を寄せ、抑えきれない不安をその目に滲ませていた。 ベッドの上で、綾乃はまるで壊れた人形のように青白い顔で横たわっている。 拓海はゆっくりと振り返り、夏織の方へ手を伸ばす。 「まだ痛むか?」 夏織は一歩下がり、その手を避けた。 だが、拓海は気まずがる様子もなく、大きくため息をつく。 「夏織、俺を責めないでくれ」 「綾乃の家柄を考えれば、俺が君に手をあげなければ、きっと白石家が何をしてくるか分からなかった」 「全部、君を守るためなんだ」 どれほど情熱的に聞こえても、その言葉は夏織にとって、世界一滑稽な嘘にしか思えなかった。 彼女は口元を歪め、皮肉めいた笑みを浮かべる。 「そう……じゃあ私、あなたに感謝しなきゃいけないってこと?」 その冷ややかな声に気づくことなく、拓海は淡々と続けた。 「分かってくれればいい」 「綾乃の熱が下がるまで、ずっとここで跪いてろ」 まるで当然のような命令に、夏織は思わず声を出して笑ってしまった。 拓海の顔色が変わる。 「何を笑ってるんだ?」 「お前、俺のそばにいたいんだろ?これくらい我慢できるよな?」 「我慢できない」 夏織はじっと拓海を見据え、低い声で言った。 その真剣な瞳に、拓海の胸にかすかな不安が湧く。 まるで今にも、自分の手から彼女がこぼれ落ちてしまいそうな――そんな予感。 けれど、その不安を彼自身がすぐに否定した。 夏織が自分を離れるはずがない。 あれほど自分を愛してくれたのだから。 母親に公衆の面前で侮辱されても、必死に堪えてくれた――あの姿を、今でも覚えている。 ワインを頭からかけられても、目に涙を浮かべながら、ただ立ち尽くしていた。 すべては新堂夫人に、ふたりの愛を認めてもらうためだった。 そんな思い出をよぎらせながら、拓海の苛立ちは徐々に薄れていく。 「夏織……俺を困らせないでくれ」 「心配しないで、拓海。あなたはもう悩む必要なんてない」 「今日から、私はあなたと何の関係もない。二度とあなたの前に現れることもない」 「これで、あなたも悩まずに済むわ」 本当はもっと淡々と伝えたかった。 けれど、どうしても涙が滲んでしまう。 夏織は必死に目を見開き、拓海の前で泣かないよう堪える。 背を向け、歩き出した瞬間――溢れ出した涙が頬を濡らした。 背後から、拓海の怒鳴り声が響く。 「夏織!今なんて言ったんだ!? その言葉がどういう意味か分かってるのか?俺は本当に失望したぞ! 綾乃は俺の正式な婚約者だ!彼女に謝ることがそんなに屈辱なのか!?」 何を言われても、夏織の足は止まらない。 病院を出て、夜風が濡れた頬を冷やす。 手のひらで涙を拭い、携帯を取り出し、母親の番号を押す。 「お母さん……」 声は震え、かすれていた。 どれほど強がっても、親の前では全てが崩れる。 ――本当は婚約前日に帰ろうと思っていた。けれど、もうここに残る理由はなかった。 「お母さん、今日帰るね、私……」 その瞬間、頭から何かがかぶせられ、息が詰まる。 悲鳴も上げる暇もなく、何か硬いもので後頭部を殴られ、意識が遠のいていく。 携帯が地面に落ち、夏織の身体は誰かに抱えられ、車に押し込まれた。 次に目覚めた時、彼女は薄暗い部屋の床に転がされていた。 麻袋の隙間から、かすかな光が漏れる。 ぼんやりと見えるのは、目の前に立つ二人の男の影―― 心臓は壊れそうなほど高鳴るが、夏織は必死で寝たふりをした。 二人の男の会話が聞こえてくる。 「依頼主、太っ腹だな。たった三日、閉じ込めておくだけでいいらしいぜ」 「どうも、あいつの婚約者を傷つけたとかで、きつい目に遭わせてやれってよ」 「へぇ、愛が深いねえ……」 第7話 夏織の頭の中で、耳鳴りのような轟音が響いていた。 誘拐犯たちの声が、ぐるぐると夏織の耳にまとわりつく。 ――「婚約者にひどいことをしたから、たっぷりお仕置きだとよ」 ……何を言っているの? 「婚約者に害を与えた?」 「懲らしめてやれ?」 意味が頭の中でぐちゃぐちゃになりながらも、拓海の顔がふと浮かぶ。 どうしても、それが現実だとは信じたくなかった――五年も一緒に過ごしてきたのに、彼が自分にそんな仕打ちをするなんて。 胸に重たい石が沈み込んだようで、息さえ苦しくなる。 その時、一人の男が異変に気づき、夏織の頭から麻袋を乱暴に外した。 突然、目が合う。 男はしばらく黙っていたが、ニヤリと笑って言う。 「お、起きてたのか。まあ、心配すんな。俺たちは金で動く。言うこと聞いてれば、三日で解放してやる」 「そうそう、下手な真似したら……どうなるか分かってるよな」 もう一人が、手にしたバットをゆっくり振ってみせる。 脅迫めいた雰囲気がその場に広がる。 夏織は顔面蒼白で、唇の血の気もすっかり失せていた。 ここで抵抗しても勝ち目はない。三日間だけ、耐えればいい――そう自分に言い聞かせる。 「分かった……」 大人しく従う素振りを見せると、男たちは露骨に機嫌を良くした。 バットを持った男が近づき、夏織の顎を無理やり掴む。 「へぇ、なかなかの美人さんだ。こんなふうに大事にしてくれる奴がいないのは、世の中ってやつだよな」 「なぁ、俺たち兄弟についてこないか?金持ちにはなれなくても、うちは人数だけは多いぜ。好きなだけ抱いてやるよ」 下卑た笑いとともに、男の視線が夏織の体をなめ回す。 夏織は恐怖で歯がガチガチと鳴っていたが、身体は微動だにできなかった。 「依頼した人は、あなたたちに私に手を出すなって言ってるはずよ」 「あとで面倒にならないの?」 「ふっ、お前、本気であの男が自分を大事に思ってるとでも?」 そう言いながら、男はバットで夏織の背中を叩いた。 「『たっぷり懲らしめてやれ』って言われたから、何しても文句はねぇんだ」 「兄貴、どうする?俺、女に飢えて仕方ねぇんだよ」 もう一人は、呆れたように肩をすくめて笑った。 「好きにしろよ。殺さなきゃ、何してもいいってさ」 恐怖が一気に全身を包み込み、夏織は必死に床から身体を起こした。縛られた足を何度も擦りつけながら、少しでも目の前の男から離れようとした。 「お金なら出すから、やめて!いくらでも払うから、お願い!」 「もう十分もらってるよ。だが、今欲しいのは金じゃなくて女だ!」 男はバットを放り出し、乱暴に夏織の肩を掴む。 「やめて!」 夏織は悲鳴をあげた。次の瞬間、男の手が彼女の胸元のボタンを乱暴に引きちぎる。 冷気が虫のように全身を這い回り、夏織の身体は震え続ける。 必死にもがくが、服はどんどん剥がされていくばかり。 「くそ、もう女なしの生活は限界だ!兄貴、この女、先に俺がいただくぜ!」 男は手を伸ばし、夏織の身体を捕まえようとした。 絶望の中で夏織は目をぎゅっと閉じる。しかし、予想していた痛みは訪れず、代わりに殴打や蹴り合う音が響く。 おそるおそる目を開けると、二人の男はすでに床に倒れていた。 そして、彼女の目の前にしゃがみ込んでいたのは、どこか懐かしくも見知らぬ男だった。 「夏織、迎えに来たよ……」 夏織の意識はそこで途切れ、再び闇に飲み込まれていった。 第8話 その夜、拓海は何度もスマートフォンを手に取り、画面を見つめてはため息をついていた。 自分で夏織を誘拐させたにもかかわらず、心の奥底では彼女のことが気がかりで仕方がない。 ――すべては夏織が「分をわきまえなかった」せい。 そうでなければ、こんな決断をすることなんてなかったはずだ。 結局、悪いのは夏織だと、拓海はすぐに自分を納得させた。 婚約パーティーが終わったら、彼女を旅行にでも連れていき、埋め合わせをしよう――そう決めていた。 「拓海、私、本当にもう大丈夫だから……」 綾乃の声が、拓海の思考を現実へと引き戻す。 彼はスマホをポケットにしまい、ベッドに横たわる綾乃に優しく声をかける。 「まだ無理はしないで。やっぱり体が一番大切だから。それに、あと三日で婚約パーティーだし、君のご両親にも、ちゃんと大事にしているって思ってもらいたいからね」 綾乃は一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて小さく笑った。 「はい……」 従順で素直な綾乃の様子に、拓海の胸には一抹の違和感がよぎる。 ――聞くところによれば、白石家のお嬢様は明るくて、気が強く大胆な性格のはず。 けれど目の前の綾乃は、まるで別人のように大人しく、控えめだった。 だが、拓海はすぐに「自分を好きすぎるからだろう」と納得してしまう。 そうでなければ、ウェイトレスに化けてまで自分に近づこうとするはずがない。 彼の表情はさらに優しくなり、そっと綾乃の頭を撫でた。 この三日間、拓海は一度も誘拐犯に連絡を取って夏織の様子を確かめようとしなかった。 ただ綾乃のそばを離れず、周囲からは理想のカップルとして羨望の視線を向けられるばかりだった。 婚約パーティー当日、拓海は特注のオートクチュールドレスを綾乃に贈る。 綾乃の目が一瞬輝き、そのドレスを大切そうに撫でる。 「すごく素敵……ありがとう、拓海。本当に嬉しい」 「気に入ってもらえてよかった。君はたくさんドレスを見てるだろうから、普通だと物足りないかと思ってた」 綾乃はそっと俯き、ぎこちない笑みを隠す。 白石家と新堂家の婚約パーティーには多くの招待客が集まっていた。 拓海が綾乃をエスコートして現れると、会場の視線が二人に集中する。 「えっ……今日は新堂さんの婚約式なのに、その隣の方は……?」 拓海は綾乃を見つめ、はっきりとした声で宣言した。 「俺の隣にいるのが、白石家の令嬢、綾乃です」 その言葉に会場はざわめく。 拓海は自信満々のまま、一部の冷ややかな視線にも気づかない。 綾乃の手を引きながら人波を進むと、周囲から声がかかる。 「まさかあなたが白石家のお嬢様だったなんて!ずっと噂になってましたよね」 「海外で心理学を学んでいたって、みんな知ってますよね!」 拓海の笑みがわずかに強ばる。 ――心理学? なぜか、胸の奥で嫌な予感がした。 綾乃はぎゅっと口元を結び、曖昧な笑顔を浮かべる。その様子を見て、周囲はなんとも言えない空気に包まれた。 拓海が何か言いかけたその時、会場の扉が開き、白石家の当主夫妻が現れる。 拓海の顔がぱっと明るくなり、綾乃の手を引いて急いで迎えに行こうとする。 綾乃の顔色が急に青ざめるが、拓海の勢いには逆らえず、渋々従った。 「伯父様、伯母様」 白石当主は拓海を無言で見つめ、その沈黙に拓海の笑顔が徐々に消えていく。 しばらくして、ようやく当主が口を開く。 「久しぶりだな、拓海」 「伯父様は全然お変わりありませんね」と拓海は笑顔で返す。 「君はすっかり変わったな。最初、誰だか分からなかったよ」と含みをもたせて言う。 拓海は戸惑いを隠せない。 隣の白石夫人は、冷たい目で綾乃を見ていた。 「今日は白石家と新堂家の大切な婚約式」 「拓海、あなたは別の女を連れてきてどういうつもり?」 ……別の女? 拓海は驚き、隣の綾乃の青ざめた顔に気がつかない。 「それはどういう意味ですか?綾乃は……伯母様の娘ですよね?」 白石夫人は軽蔑の笑みを浮かべ、その笑いは拓海の心を重く沈ませた。 「私の娘?」 「夏織、ここに「妹になりたい」人がいるわ」 白石夫人は自分の後ろに手招きする。 コツ、コツ、とヒールの音を響かせて、夏織がゆっくりと現れる。 「ごめんなさい。うちの両親は、妹なんて産んだ覚えありませんので」