風の果てに君はなく

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風の果てに君はなく

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深見紬希(ふかみ つむぎ)は、三年間も重いうつ病に苦しんできた。その間、篠原凌也(しのはら りょうや)は眠る暇も惜しんで、彼女の傍に寄り...

Chương (1)

第1章

深見紬希(ふかみ つむぎ)は、三年間も重いうつ病に苦しんできた。その間、篠原凌也(しのはら りょうや)は眠る暇も惜しんで、彼女の傍に寄り添い続けていた。 二十五歳の誕生日、凌也は盛大なバースデーパーティーを開き、皆の前で紬希にプロポーズした。 「紬希、一生をかけて、君を愛させてほしい。俺と結婚してくれ」 涙ぐむ紬希は頷き、二人は煌めく花火の下で、永遠の誓いを交わした。 特別に飾り付けられた高級ホテルのスイートルームには、バラの花びらが溢れていた。 凌也は紬希を何度も抱きしめ、夜が明けるまで、飽くことなく彼女を求め続けた。まるで彼女のすべてを、自分のものにしようとするかのように―― 紬希が疲れ果てて眠りに落ちるまで、凌也は名残惜しそうに、彼女を腕の中から離さなかった。 再び目を覚ましたとき、バルコニーから凌也の電話をする声が聞こえてきた。 「俺が紬希と結婚するなんて、あり得ないだろ?プロポーズなんか、演技に決まってるだろ。 紬希が結婚に同意しさえすれば、深見家は彼女の相続権を奪うはず。そうなれば、家業は全部玲奈(れいな)のものになる」 さっきまで熱く燃えていた紬希の身体は、今や震えるほど冷えきっていた。 第1話 深見紬希(ふかみ つむぎ)は、三年間も重いうつ病に苦しんできた。その間、篠原凌也(しのはら りょうや)は眠る暇も惜しんで、彼女の傍に寄り添い続けていた。 二十五歳の誕生日、凌也は盛大なバースデーパーティーを開き、皆の前で紬希にプロポーズした。 「紬希、一生をかけて、君を愛させてほしい。俺と結婚してくれ」 涙ぐむ紬希は頷き、二人は煌めく花火の下で、永遠の誓いを交わした。 特別に飾り付けられた高級ホテルのスイートルームには、バラの花びらが溢れていた。 凌也は紬希を何度も抱きしめ、夜が明けるまで、飽くことなく彼女を求め続けた。まるで彼女のすべてを、自分のものにしようとするかのように―― 紬希が疲れ果てて眠りに落ちるまで、凌也は名残惜しそうに、彼女を腕の中から離さなかった。 再び目を覚ましたとき、バルコニーから凌也の電話をする声が聞こえてきた。 「俺が紬希と結婚するなんて、あり得ないだろ?プロポーズなんか、演技に決まってるだろ。 紬希が結婚に同意しさえすれば、深見家は彼女の相続権を奪うはず。そうなれば、家業は全部玲奈のものになる」 さっきまで熱く燃えていた紬希の身体は、今や震えるほど冷えきっていた。 向こうの声は少し疑念を含んでいた。 「凌也、この三年、お前は本当に紬希に何の感情もないのか?ずっと彼女に優しかったじゃないか」 凌也は冷たく鼻で笑った。その声には、抑えきれない嫌悪が滲んでいる。 「感情?あんな女に与える価値なんてないよ。あいつがいたせいで、玲奈がどれだけ苦しんできたと思ってる? もし紬希が自分のうつが俺のせい、俺が密かに精神薬を盛ったせいだと知ったら、どう思うだろうな? 玲奈が失ったものは、全部あいつから取り戻してやるよ」 紬希は、あまりの絶望に、膝から崩れ落ち、全身が小刻みに震えた。 ――凌也は、最初から深見玲奈(ふかみ れいな)のために、わざわざ紬希に近づき、すべてを計算していたのだ。 床に崩れ落ちながら、紬希は信じてきた愛と信頼が音を立てて崩れていくのを感じていた。 この恋が、凌也によって仕組まれた罠だったなんて。 目の奥が熱くなるが、手を伸ばしても何も触れない。 痛みが極まると、人は涙さえも出ないものなのだと、紬希はその時初めて知った。 誰の目にも、紬希は深見家のお嬢様。幼い頃から贅沢に囲まれ、誰もが憧れるような暮らしをしてきたと思われていた。 だが、本当のことは紬希しか知らない。 外では数えきれないほどの女を囲い、家では表面だけの優しさしか見せない父親。 父の冷たさと、母のすすり泣きが、彼女の幼い日々のすべてだった。 広すぎる深見家の屋敷は、母と紬希を閉じ込める冷たい牢獄のようだった。 十歳のとき、父は外からどこの誰かも分からない娘――玲奈を連れてきて、母に無理やりその子を受け入れさせた。 紬希は、深見家の屋上に立ち、自分の命を盾に父を脅した。「この家に玲奈がいるなら、私はいらない」と。 父は結局折れて、玲奈をどこかに送り出した。 けれど、幼い紬希の心には、深い傷だけが残った。 その日から誰も信じられなくなり、周囲の人間すべてに警戒心を抱くようになった。 ――三年前、病院の検診で、白衣を着た凌也と出会うまでは。 彼は背が高く、優しげな目元で、その微笑みはまるで春風のように穏やかだった。なぜか、この人には自然と心を惹かれてしまった。 凌也は、彼女が重いうつ病にかかっていると告げ、きちんと治療するよう勧めた。 篠原家は医療の名門。紬希は凌也の言葉を疑ったことは一度もなかった。 指示通りに抗うつ薬を飲み続けても、症状は一向に良くならなかった。 うつの発作が来るたび、凌也は必ず彼女のそばに現れてくれた。 紬希のわがままも、気まぐれも、時に薔薇の棘のような鋭ささえも、彼はそのまま受け入れてくれた。 紬希がある日、自分の手首に刃を当てたとき、凌也もそばにいて、同じように自分の手首を切った。 真っ赤な血が床を染めていくのに、彼は気にも留めず、優しく紬希を抱きしめた。 「君が笑ってくれるなら、何だってする。一緒に死にたいと言うなら、俺も付き合うよ」 そのとき、紬希はようやく、自分にとっての救いがここにあると信じた。 深見家には「娘が嫁げば、相続権を失う」という古い決まりがある。 それでも紬希は、何の迷いもなく、凌也と生きていこうと決めていた。 本当の愛さえあれば、財産や権力なんて何の意味もない――そう信じていた。 だが今、紬希は心の底から自分が愚かだったと悟る。 全てを懸けて賭けたこの愛の先にあったのは、徹底的な計算だった。 身体にはまだ凌也の温もりが残っている。 そのままシャワーも浴びず、最低限の荷物だけまとめて、夜の闇の中へと身を投じた。 夜風が骨の芯まで冷たく吹きつけるのに、紬希の心はもう何も感じなかった。 ただ一つ、頭の中に響き続けるのは――「凌也から離れなきゃ」 それだけだった。 第2話 紬希が家に戻ったばかりの時、凌也から電話がかかってきた。 男の声には焦りが滲み、いつになく取り乱した様子だった。 「紬希、こんな夜中にどこ行ってたんだ?何かあったのか? 頼むから、俺を心配させないでくれ。 今どこにいる?すぐ迎えに行くから」 紬希は無理に元気なふりをして答えた。 「大丈夫よ、今日はちょっと疲れてて、先に家に帰って休んでたの。あなたも早く休んでね」 「分かった。じゃあ、ゆっくり休んで。 でも、こんな遅くに一人は本当に心配だから、次はやめてくれよ」 凌也は一瞬黙った後、言葉を付け加えた。 「それと、今夜の薬まだ飲んでないよな。忘れずに飲んでくれ」 「うん」 電話を切ると、紬希はバッグから凌也が特別に用意した抗うつ薬を取り出した。 小さな薬瓶を見つめながら、胸にぽっかりと穴が空いたような虚しさが広がっていく。 信じていたその薬は、実は自分を奈落に突き落とす毒だった。 薬も、人も、同じだった。 「お姉ちゃん、どうして帰ってきたの?」 部屋からは、身なりを整えた玲奈が現れた。 かつて紬希が何もかも捨てて凌也と一緒になろうとしたとき、父は玲奈を家に呼び戻した。 娘が外に嫁げば、自動的に相続権を失うことになる。 だから、深見家には新たな後継者が必要だった。 凌也のために、紬希は父のやり方を黙認した。だが、すべては玲奈が仕組んだ罠だったとは、想像もしていなかった。 紬希は玲奈を淡々と見つめ、口元に微かな笑みを浮かべた。 「ここは私の家。帰ってきて当たり前でしょ?」 玲奈は気まずそうに目をそらし、「じゃあ、お姉ちゃん、先に休んでて。私はちょっと出かけてくるね」と言って、玄関へ向かった。 リビングの灯りの下で、玲奈の首にかかったサファイアのネックレスがきらりと輝き、その光がちょうど紬希の目に飛び込んできた。 「待って」 紬希は立ち上がって玲奈の前に歩み寄り、彼女の首元からそのネックレスを容赦なく引き剥がした。 「家の宝石は全部私の名義よ。私の許可なく、誰にも使う権利はないの」 玲奈の顔色は一気に青ざめ、怯えた声で呟いた。 「ごめんなさい、お姉ちゃん。このネックレス、ずっと使われてなかったから、いらないのかと思って……」 紬希は冷ややかに笑った。 「状況が分かってないみたいね。この深見家で、たとえ一つのレンガでさえも私のものよ。 私がいらないと言っても、私の許可なく誰にも触る権利はないの」 「ごめんなさい、お姉ちゃん。もう二度としないから……」 玲奈は真っ青な顔で泣きながら走り去った。 彼女が家を出てすぐ、紬希も静かに玄関を出た。 玲奈の後を追い、車で凌也のマンションの前まで向かった。 夜の街灯の下、凌也はきちんと仕立てられたスーツ姿で立っていた。 柔らかな夜風がその裾をそっと揺らし、彼の立ち姿はひときわ端正で上品に見えた。 玲奈は子猫のように凌也の胸に飛び込み、頬にはまだ涙の跡が残っていた。 凌也の目には柔らかな光が宿って、そっと玲奈の涙を唇で拭った。 「どうした?また誰かがうちのお姫様を泣かせたのか?」 玲奈は唇を尖らせ、不満げに言った。 「誰だと思う?あの女に決まってるじゃない。嫡女の立場を盾に、何もかも私より上に立とうとして。ネックレス一つすら私には許してくれないの。 凌也、私、いつになったら幸せになれるの?」 凌也は玲奈の頭を優しく撫でながら、穏やかに囁いた。 「もうすぐだよ。紬希との婚約が成立して、深見家の跡取りに玲奈が指名されたら、俺たちの計画は成功だ。 そのあとは、玲奈が深見家のただ一人の跡取りだ。もう誰にも玲奈をいじめさせたりしない」 すべて覚悟していたつもりだったのに、この光景を目の当たりにすると、紬希の心にはどうしようもない痛みが走った。 信じていた真心は、周到に仕組まれた裏切りだった。 すべてを賭けて託した想いさえ、ただの偽りの罠にすぎなかった。 なんて滑稽で、なんて哀しいんだろう。 でも、この茶番ももうすぐ終わりだ。自分の人生を誰かのために投げ出す必要なんて、もうどこにもない。 紬希は目の前の光景を写真に収め、そのまま車で家へと戻った。 ほとんど迷うことなく、父の部屋のドアをノックした。 「エンカのプロジェクトを私に任せて」 深見家当主は少し驚いたように紬希を見つめた。その視線は、彼女を見直すようなものだった。 「また何を言い出すんだ?お前には凌也との結婚を認めてやったばかりだろう」 紬希は無表情のままスマホを取り出し、凌也に関する全てのデータを削除した。 そしてふっと小さく笑って言った。 「お父さん、深見家の家業に比べたら、男なんて本当に取るに足らないものよ。やっと分かったの。 深見家の娘として、外には嫁がずに、あなたの跡を継ぎたい」 深見家当主の顔にわずかな安堵と誇りが浮かぶ。 紬希こそ、彼が家業の後継者として一から育ててきた、最も信頼する娘なのだから。 「よし、それでこそ俺の娘だ。忘れるな、感情なんてこの世で一番無駄なものだ。 エンカのプロジェクトはヨーロッパだ。一ヶ月後、現地で報告してくれ」 エンカは深見家が最も重視しているプロジェクトで、それを手にした者こそが後継者となる。 紬希の心には、もはや一片の迷いもなかった。 私生児に、この家の財産を奪わせるつもりはない―― 第3話 翌朝、玲奈は何事もなかったように家へ入ってきた。そのすぐ後ろには凌也の姿があった。 紬希は顔を上げ、口元にうっすらと笑みを浮かべる。 「あなたたち、息がぴったりだね」 凌也は足早に紬希のもとへ駆け寄り、手にした朝食を差し出し、微笑みかけた。 「昨日、君が何も言わずに出て行ったせいで、俺、一晩中眠れなかったんだ。 今朝は早起きして君のために朝ご飯を買いに行ったんだよ。 まさか玄関で玲奈さんとばったり会うとは思わなかったけど、すごい偶然だね」 玲奈もすかさず会話に加わる。 「そうだよ、お姉ちゃん。凌也お兄ちゃん、本当にお姉ちゃんに優しいよね。私、羨ましいなあ」 紬希は二人を静かに見つめた。 玲奈の首筋にはいくつもの薄紅色の痕が残り、凌也の目の下にはうっすらと寝不足のクマが見えていた。二人は昨夜、ずいぶんと親密な時間を過ごしたのだろう。 それでも、紬希は何も見なかったふりをした。 「紬希、熱いうちに食べて。この店の名物はいつも行列ができるんだよ。かなり待ったんだから……」 「捨てて」 紬希の声はいつになく冷たかった。 「え……?」 凌也は思わず言葉を失った。 「黒川(くろかわ)さん、私の朝食はできている?」 まもなく、リビングのテーブルには色とりどりの豪華な料理がずらりと並べられた。 凌也はその場で立ち尽くし、どうしていいかわからず戸惑っていた。 家政婦の黒川は凌也の手から食べ物を受け取ると、口をとがらせて呟いた。 「篠原さん、うちのお嬢様は小さい頃から大事に育てられてきたから、来歴の分からない食べ物なんて食べさせられませんよ」 凌也の心に冷たい風が吹き抜けた。 まるで、昨夜の出来事を境に紬希が全くの別人に変わったかのようだった。 以前は、凌也と一緒なら、どんな食事でも笑顔で分け合ってくれたのに――。 玲奈は黒川の手を取って止めた。 「お姉ちゃん、これは凌也お兄ちゃんがわざわざ買ってきてくれたんでしょ?そのまま捨てちゃうなんて、あんまりじゃない? 彼の気持ちだってあるのに……」 紬希は食器を置き、ゆっくりと顔を上げて玲奈を見た。 「そんなに彼が大事なら、いっそあんたが彼を彼氏にすれば?」 「な、何言ってるの!」 凌也と玲奈がほぼ同時に声を上げた。 「紬希、どういう意味だよ?昨日、君は俺のプロポーズを受けてくれたばかりだろ?俺のどこかが気に入らなかった?それとも、何か誤解してるのか?」 凌也の声は、微かに震えていた。 「お姉ちゃん、誤解だよ。私、どうしてお姉ちゃんの……欲しがるわけないじゃない……」 玲奈は今にも泣き出しそうな顔をして、うつむきながら小さな声で言い訳した。紬希は口元を拭い、冷ややかな声で言い放った。 「それなら結構。自分の立場くらい、ちゃんとわきまえておきなさい」 凌也はすぐに黒川の手から食べ物を奪い取り、そのままゴミ箱へ捨てた。 「玲奈さん、俺と紬希のことに口出ししなくていい。紬希がいらないと言うものは、もう必要ないんだ。今日の俺が悪かった。今後は気を付けるよ」 凌也は迷いのない目で紬希を見つめ、さっきまでの戸惑いも、今は柔らかな優しさへと変わっていた。 紬希は終始冷ややかなまま、この茶番がどこまで続くのか、黙って見守ることにした。 「紬希、今日は君の再診の日だ。一緒に病院へ行こう」 朝食が終わると、凌也は有無を言わせず紬希を車に乗せ、病院へと向かった。 道中、紬希は薬瓶を取り出し、楽しそうに訊ねた。 「ねえ、なんであなたがくれた薬をこんなに長く飲んでるのに、うつは全然よくならないの?薬が合ってないんじゃない?」 凌也の顔に一瞬、動揺の色が浮かんだが、すぐに平静を装った。 「うつ病なんて、もともとそんなすぐに治るものじゃないよ。薬はあくまで症状を抑えるためのものだし、これ以上良い薬はないんだ。 ちゃんと飲み続ければ、きっと効果が出てくるよ」 いつも通り、凌也は紬希を診察室へ連れて行き、一杯のぬるま湯を手渡した。 「紬希、水でも飲んで、ここでちょっと休んでて。俺は治療の準備をしてくるから」 凌也が部屋を出ると、紬希はその無色透明な水を見つめ、口元にかすかな苦笑を浮かべた。 毎回、凌也が病院へ連れてくるたびに、紬希は「催眠治療」と称される処置を受けていた。 夢の中で孤独に追い詰められ、泣き叫びながら目覚めることもしばしばだった。 そのたびに、凌也はそばで優しく寄り添い、紬希のすべてを受け止めてくれた。 そんな時間を重ねるほど、紬希の中で凌也への依存はどんどん強くなっていった。 だが今日、紬希はそっと席を立ち、水を流しに捨ててしまった。 ――本当に、彼はどんな治療をしようとしているのか、確かめてみたくなったのだ。 ところが、椅子に座り直した瞬間、突然、全身の力が抜けていく。 目がどうしても開かず、やがて意識が薄れていった。 うっすらとした意識の中で、男女の会話が聞こえてくる。 「さすが凌也だね。あんなに威張ってた深見家のお嬢様だって、今じゃただの操り人形。好きにしていいんだよね?」 ――玲奈の声だ。 女の声は刺すように鋭く、どこにもかつての遠慮がちな態度はなかった。 紬希は必死に目を開けようとしたが、体は全く動かなかった。 「玲奈、言いたいことは今のうちに全部ぶつけたらいい。もう彼女には何も分からない。 今日は水に睡眠薬を仕込んだだけじゃない。部屋にも催眠用のアロマを焚いておいた。 二重の保険だよ」 凌也の冷え切った声が、まるで氷の刃のように胸に突き刺さる。 ――なるほど。あの水を飲まなくても、どうせこの部屋にいるだけで眠らされる運命だったのか。 いったい二人は、彼女に何をするつもりなのか。 紬希はこのまま眠り込まないよう、なんとかして気をしっかり持とうとした。 「じゃあ、遠慮なく――」 玲奈は机の上から長い銀の針を取り上げると、容赦なく紬希の腕に突き立てた。 彼女の笑い声は、もはや正気の沙汰とは思えなかった。 「お姉ちゃん、あなたが毎回この治療室で私に痛めつけられているって知ったら、どんな気分?悔しいでしょ?」 激痛が腕を走り、紬希の体は小さく震えた。 ――結局、凌也が病院に連れてくるたびにやっていた「治療」なんて、全部嘘だったんだ。 どうりで、目覚めるたびに体中が傷だらけになっているはずだ。 でも、彼はいつも「それは催眠中に自分で傷つけたものだ」と言い聞かせていた。 紬希はその言葉を、何の疑いもなく信じていた。 ――まさか、その信頼が、彼女自身を何度も切り刻む刃になり、全身が傷だらけになるなんて。 第4話 ほどなくして、紬希の体は細かな針痕で覆われ、柔らかな肌からはじんわりと血が滲み出ていた。 「お姉ちゃんは本当に肌がきれいだよね。まるで陶器みたいにすべすべ。私なんて、小さい頃から苦労ばかりしてきたのに…… でも、これからは私が幸せになる番だよ」 玲奈の瞳に一瞬、険しい光が宿る。針では満足できず、今度は小さなナイフを取り出して紬希の顔の前で弄び始めた。 「ほんと、世の中って不公平だよね。 家柄もいいし、その上こんなに綺麗な顔まで持ってるなんて……でも私は、この顔がどうしても気に入らない。 今日、ここで全部壊してやる。もう二度と威張れないようにね」 玲奈は手首をさっと振り上げ、ナイフの刃先を紬希の顔めがけて勢いよく振り下ろそうとした。 紬希は全身が粟立ち、息もできないほどだった。もしこの刃が本当に振り下ろされたら自分はどうなるのか、想像しただけで体がすくんだ。 その瞬間、冷たい刃が頬に触れたかと思うと、「カシャン」と鋭い音を立ててナイフが床に落ちた。 「やめろ!」 凌也が玲奈の手からナイフを叩き落としたのだ。 張り詰めていた紬希の心臓は、ようやくほんの少しだけ落ち着いた。 「凌也、もしかして心配になっちゃった?本気であの女に情でも湧いたの?」 玲奈は不満げに問い詰めた。 「何を言ってるんだ、玲奈。俺の心の中にいるのはお前だけだ。 もし紬希がここで大怪我したら、深見家が黙っていないだろ? 計画が台無しになるのは避けたいだけだよ」 凌也は落ち着いた口調で説明した。 玲奈は意識を失ったままの紬希を一瞥し、皮肉な笑みを浮かべた。 「まあ、いいわ。急ぐ必要もないし、私が深見家の跡取りになった後、ゆっくりあの女を始末すればいい。 凌也、私ちょっと用事があるから、後はお願いね。絶対に彼女に気付かれないようにしてよ」 玲奈が去った後、凌也は深く息をついた。 目の前の傷だらけで意識のない紬希を見ていると、心のどこかが妙にざわついた。 無意識に彼女の傷に手を伸ばすが、触れる直前で思わず引っ込めてしまう。 愛しているわけじゃないのに、さっき玲奈が彼女を刺した時、なぜか凌也は自分の胸まで痛んだ気がした。 凌也は首を振り、部屋に漂うアロマの火を消した。 数分後、紬希はうっすらと目を覚ました。 凌也は何事もなかったかのように彼女を抱き寄せ、その体にできた傷を指先で優しくなぞった。 「紬希、さっきは本当に驚いたよ。あんな太い針を自分で刺すなんて、どうしてそんなことを……」 男の体温が肌に触れているはずなのに、紬希の心は氷のように冷たかった。 彼女は反射的に凌也を突き飛ばし、その頬を平手で打った。 「これ、本当に私が自分でやったと思ってるの?」 凌也は頬を押さえ、内心動揺した。まさか気づかれたのか? いや、倍量の睡眠薬を使ったはずだ。 それに紬希の性格なら、もし意識があれば玲奈にやられっぱなしなんて絶対にありえない。 凌也は気を取り直し、再び紬希を強く抱きしめ、彼女の手を自分の頬に当てた。 「紬希、全部俺が悪い。君をちゃんと見てなかったから、こんなことになった。 だから、もっと殴ってくれていい。君が気が済むなら、それでいい」 紬希はあまりの滑稽さに思わず笑った。そのまま笑いながら、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。 針の痕からはまだじんわり血が滲んでいる。それでも、この皮膚の痛みなど、心の痛みに比べれば何でもなかった。 凌也はすぐにティッシュで彼女の涙を拭い、額に何度もキスをしながら、消毒綿棒で傷を丁寧に消毒した。 「紬希、俺を信じて。俺がそばにいれば、君の病気はきっとよくなるから」 まるで壊れやすい宝石でも扱うかのような優しさで、彼は彼女を包み込んだ。 だが、紬希はその手つきに心の底から嫌悪感を覚えた。 「私は大丈夫。今日はもう帰るね、ちょっと疲れちゃったから」 凌也は紬希の表情が落ち着いたのを見て、ほっと胸をなで下ろした。 「じゃあ、俺が送ろうか?」 「大丈夫。あなたも仕事があるでしょ」 病院を出ると、紬希はそのまま別の病院へ向かった。 「深見さん、この薬、どこで手に入れたんですか? これは禁止薬物で、長期間服用すると精神に深刻な影響を与えるだけでなく、最悪の場合は知的障害や認知症を引き起こす可能性もありますよ」 医師の言葉を聞きながら、紬希の心は深い闇に沈んでいった。 どうりで、最近どんどん物忘れがひどくなって、頭が働かなくなっていたのか。 篠原家は医療の名家。 その凌也は玲奈のために、医者としての良心も、医師免許を失うリスクさえも顧みず、違法な薬を紬希に処方したのだ。 彼らは紬希から財産を奪うだけでなく、本当に人として壊そうとしていたのだ。 紬希は爪が手のひらに食い込むほど強く握りしめ、湧き上がる怒りをどうにか抑え、無理やり涙を引っ込めた。 病院を出ると、外には藤の花が満開だった。 だが紬希は知っている。どれほど美しい花でも、支える棚がなければ、やがて泥に落ちてしおれてしまうことを。 でも自分はもう、誰かに支えられなければ生きていけないような、か弱い蔓じゃない。 男の愛なんて、もう必要じゃない。 これだけ凌也が自分の名誉も立場も顧みないのなら、紬希はさらにその背中を押してやるつもりだった。 第5話 紬希は、何気なく通報窓口に電話をかけた。 「もしもし、仁愛病院(じんあいびょういん)の精神科医、篠原凌也が職権を利用して、違法な薬物を投与している件で通報します」 「通報内容は記録しました。証拠があれば郵送してください。 確認が取れ次第、すぐに調査を開始します」 家に戻ると、紬希はこの数年、凌也から渡された診断書や薬、そして、録音データも証拠としてすべて管理当局へ送った。 その後、凌也がくれたプレゼントや、二人で出かけた時の写真、そして何百通ものラブレターも一つ一つ取り出し、まとめて箱に入れた。 美しい封筒を指先でなぞるうちに、紬希は涙が自然と頬を伝った。 かつては一通一通が凌也の愛の証だったはずなのに、今やすべて、自分が騙されていたという屈辱の象徴となった。 紬希はラブレターや贈り物に火をつけた。 火が「ぼっ」と燃え上がり、炎がすべての思い出の品を一瞬で飲み込んでいく。 紬希は、目の前で燃え尽きていく灰の山をぼんやりと見つめながら、心の中で静かにため息をついた。 ――これで、ようやくすべてが終わるのだ。 その後数日、紬希は一歩も家を出ず、ひたすらエンカのプロジェクトに没頭した。 もう長い間、家業の仕事から離れて、すべての時間と心を凌也との儚い恋に費やしてきた。 紬希は今、このプロジェクトを完全に把握しなければならない――後継者として、万全を期すために。 凌也からは何度も電話がかかってきたが、すべて適当にあしらった。 だがある日、家の防犯カメラを確認すると、凌也が屋敷にやってきている映像が映っていた。 しかも彼が入っていったのは、紬希の部屋ではなく、玲奈の部屋だった。 紬希が部屋にこもっている間、二人は連日連夜、まるで世界に二人きりかのように愛し合っていた。 寝室から書斎へ、書斎から倉庫へ、倉庫から庭へ――どこにでも、二人の情事の痕跡が残されていた。 二人は誰にも気づかれていないと思っているようだが、紬希はかつて父親の浮気の証拠を探すため、屋敷のあちこちに防犯カメラを仕掛けていたのだ。 モニターに映る親密な光景を見ても、紬希の心はどこまでも静かだった。 ――まさにお似合いの腐れ縁だ。 そんなある日、凌也が紬希の部屋にやって来た。 「紬希、最近は一体何をそんなに忙しくしてるの?全然会ってもくれないし……」 男の視線は、甘く満ちあふれていた。 紬希はゆっくりと顔を上げた。昨夜の享楽がまだ影を落とす緩んだ表情の男を、冷ややかに見つめ、淡く微笑む。 「別に。ただ最近、ちょっとインスピレーションが湧いて、家で絵を描いてただけよ」 絵を描くのは紬希の趣味だった。窓際に並べられたイーゼルを見て、凌也はそれ以上問い詰めなかった。 だが、部屋を見渡すと、以前はあれほど物で溢れていた空間が今では驚くほどがらんとしている。 心を込めて贈ったはずのプレゼントも、跡形もなく消えていた。 「紬希、前にあげたプレゼント、どこ行ったの?」 「ああ、全部片付けてもらったの」 紬希は何気なくそう言った。 凌也は興奮したように紬希をぎゅっと抱きしめ、その瞳には溢れんばかりの優しさが浮かんでいた。 「じゃあ、新居に持っていくって決めたんだね?結婚したら、もっとたくさんプレゼントしてあげるよ」 勝手に盛り上がる彼の様子を、紬希は特に否定することもなく、黙って見守った。 「紬希、君が好きなブランドのウェディングドレスショー、今夜開催されるんだ。席も二つ取ってあるよ。 時間がないから、早く行こう。一緒に一番素敵なドレスを選ぼう」 いまはまだ、凌也に不審を抱かせるわけにはいかない。 紬希はそのまま彼に従った。 ショー会場では、モデルたちが美しいドレスに身を包み、まるで天使のように舞っていた。 紬希もその華やかさに思わず見入ってしまった。 凌也はそっと耳元でささやいた。 「紬希、気に入ったドレスがあれば、どれでも選んでいいよ。きっと結婚式の日、一番美しい花嫁になるから」 もしも彼と玲奈の裏切りを知っていなければ、今ごろ紬希は愛されている幸せに涙が溢れていたかもしれない。 けれども今の彼女の心は、すでに凪いだ湖のように静まり返っていた。 華やかに見えても、何の意味もない虚飾には、もうとっくに魅力を感じなくなっていた。 「どれも高すぎるわ。やっぱりやめておく」 凌也は彼女の手をぎゅっと握り、その目には真っ直ぐな愛情があふれていた。 「大丈夫だよ、紬希。うちは深見家ほど裕福じゃないけど、ドレス一着くらいなら十分買えるさ」 紬希は適当に一着を指差した。 「じゃあ、これでいいわ」 どんなドレスであろうと、もう凌也と結婚するつもりはなかった。 ショーが終わると、オーダーした顧客はそれぞれVIPルームへ案内された。 専属のスタッフがドレスの試着を手伝ってくれるという。 紬希は指定されたVIPルームに入り、スタッフが用意したドレスに袖を通す。 「深見さん、こちらが先ほどお選びいただいたドレスです。よろしければ、今からご試着なさってください」 そのウェディングドレスはとても重くて、紬希は身に着けるのにかなり時間がかかった。 「では、少しドレスの着心地を確かめていてください。お履き物をご用意いたしますので、しばらくお待ちください」 紬希は思わず鏡の前に立つ自分の姿を見つめた。 ウェディングドレスに身を包んだ自分は、想像していたよりもずっと端正で美しく、上品に見えた――まさに、凌也と結婚すると夢見ていた花嫁の姿だった。 心の奥で苦笑いがこみ上げる。 きっとこれが、人生で最初で最後のウェディングドレスになるのだろう。 そのとき、鏡に黒い影がすっと映り込んだ。 紬希がまだ状況を理解する間もなく、誰かに後ろから抱きしめられた。 「やめてよ!」 紬希はてっきり凌也だと思い込んだ。 だが、次の瞬間、男の声が背後から響き、全身が凍りついた。 「やめる?ふざけるな……こんな綺麗な女、ずっと我慢してきたんだ」 紬希は恐怖に駆られて叫んだ。 「あなた誰?何をするつもりなの?」 第6話 「何をするつもりだって?…すぐ分かるさ。お嬢さんには、今日は存分に楽しませてあげるよ」 男は信じられないほどの力で、ほんの少し腕に力を込めただけで、紬希をソファに押し倒した。 「離して!もし何かしたら、深見家が黙っていないわよ!」 紬希は何とか抵抗しようとしたが、体にまるで力が入らない。 男の手は蛇のように紬希の体を這い回り、彼女は全身が震え、吐き気を覚えた。 「助けて、助けて……誰か……!」 彼女を返ってくるのは、底知れぬ静寂だけ。 「無駄だよ、深見のお嬢さん。ここじゃ誰も助けに来ない」 男はウェディングドレスを乱暴に引き裂き、彼女の身体をむき出しにした。 「こんな美人、人生で見たことがない。たとえここで死んでも悔いはないさ」 紬希は胸元を必死に押さえ、絶望的な目で男を見上げた。 「お願い、私に何が欲しいのか言って、何でもあげるから……」 男はにじり寄りながら、口元にいやらしい笑みを浮かべた。 「そんな殊勝なこと言ってもダメだよ。せっかくの美人なんだから、存分に楽しませてもらう」 そう言うが早いか、男は飢えた獣のように紬希に覆いかぶさり、息のかかった口元で彼女を下から上まで舐めるようにキスした。 男の体の硬さが彼女に押し当てられ、もう少しで侵入される――その瞬間、紬希は人生で初めて味わう屈辱と絶望に、死んでしまいたいほどの憎しみが心を覆った。 そのときだった。突然、男の体がぐらりと紬希の上に崩れ落ちた。 驚いて目を開くと、凌也が棍棒を手に、男を容赦なく殴りつけていた。 これほどまでに激怒した凌也を見るのは、紬希も初めてだった。彼の瞳には獣のような紅い炎が燃えていた。 一発、二発、三発――男は床に崩れ落ち、そのまま血の海に沈んだ。 凌也はようやく棍棒を捨て、裸同然の紬希を急いで服で包み込み、何度も謝り続けた。 「ごめん、紬希……全部俺のせいだ。さっき患者から電話があって外に出てたんだ。まさか、こんなことになるなんて……」 彼の涙が紬希の胸元にぽたりと落ちる。 その一瞬だけ、紬希は再び彼の体温と、かつての優しさを感じてしまった。 その後、凌也は片時も紬希の側を離れず、身の回りの世話も、薬の塗布もすべて自分で行った。 数日のうちに、彼は目に見えて痩せていった。 だが、紬希は毎夜悪夢にうなされ、夢の中であの男に体を引き裂かれていた。 夜中に何度も飛び起きるたび、凌也は彼女をしっかりと抱きしめ、優しく慰めた。 彼は家中の人間に、紬希の療養を邪魔しないようにと厳命し、誰にも彼女の病状を漏らさないようにした。 玲奈が見舞いに来たときも、凌也はすぐに追い返した。 「紬希、心配しないで。このことは誰にも言わない。すべて俺が責任を持つから」 朦朧とした意識の中で、紬希はふいに温かな気持ちがよみがえった。 もしかしたら、三年にわたるこの関係の中で、凌也も本当に彼女に情を持っていたのかもしれない。 あれだけ深く結ばれていた二人なのだから、どんなに冷たい心にも、わずかなぬくもりが残っているのだろう。 ほどなくして、深見家の恒例のチャリティーパーティーが開かれる日が来た。 例年、司会進行は紬希の役目だったが、今年は怪我のため玲奈に譲ることになった。 それでも、長女としてパーティーには出席しなければならなかった。 玲奈は彼女が会場に現れると、すぐに駆け寄ってきた。 「お姉ちゃん、最近ずっと療養してるって聞いたけど、もう大丈夫?体は平気?」 玲奈の心配は本物のように聞こえたが、紬希はあまり語る気になれなかった。 「もう大丈夫よ」 それでも玲奈はなおもしつこく言う。 「お姉ちゃん、私が支えてあげるよ。ここの石畳は滑りやすいから、気をつけて」 紬希は断ろうとしたが、来客が多いこともあり、玲奈に身を預けるしかなかった。 今回のチャリティーパーティーは湖畔で行われ、ステージは湖の中央に設置されていた。ステージに上がるには、木製の橋を渡らなければならない。 「お姉ちゃん、足元に気をつけてね。路面が濡れてるから滑りやすいよ」 玲奈が小声でささやく。 ヒールを履いて慎重に進む紬希だったが、橋の途中で玲奈が急に体を押してきた。 思わず身を引いて手を振り払おうとした次の瞬間、玲奈自身が冷たい湖水に落ちてしまった。 「助けて、助けて!」 玲奈は湖の中で水をかき分けて、ばしゃばしゃと手足を動かしていた。 ちょうどそこへ凌也が駆けつけ、迷わず湖に飛び込んで玲奈を引き上げた。 玲奈は全身びしょ濡れで、震えながら訴えた。 「お姉ちゃん、私は親切で支えてあげただけなのに、どうして私を突き落としたの?」 玲奈の優しい声には、涙をこらえたような哀しみが混じっていた。 「私は押してない。あなたが勝手に落ちたんでしょ」と紬希は反論する。 「もういいよ、お姉ちゃん。今回のパーティーは私が担当したせいで、不機嫌なんだよね?お姉ちゃんの気持ちは分かってるつもり」 玲奈の涙がぽろぽろと落ちた。 その時、会場の人々の間から、ささやき声が湧き起こる。 「やっぱり噂は本当だったんだね。深見家の長女は、ずっと妹を目の敵にしてたって……」 「てっきり名家のお嬢様は上品かと思ったのに、結局こんな陰湿なことするなんて失望したわ」 「どこの名家でも、跡継ぎ争いはこんなもんだろうな。次女も、家では苦労してるんだろう」 そんな噂話を聞きながら、紬希はただ滑稽だと思うだけだった。 玲奈と同じレベルで争うつもりは、さらさらなかった。 紬希はそのまま何もなかったかのように席に戻る。 やがてパーティーが始まり、予定通り紬希が挨拶のために舞台に立った。 「本日は、ご来賓の皆様をお迎えでき、大変光栄です……」 紬希は堂々と挨拶をしていたが、突然、会場の観客席からどよめきと、何とも言えない感嘆が漏れた。 何事かと振り返ると、背後の大型スクリーンに目を奪われる。 そこに映し出されていたのは、紬希自身が試着室で襲われている映像だった。 裸同然の彼女が見知らぬ男に組み敷かれ、必死に叫び声を上げている――その一部始終が、容赦なく再生されていた。 「やめて!お願い、映像を止めて!」 紬希が絶叫しても、舞台裏のスタッフたちはまるで何も聞こえないかのように、誰一人スクリーンを止めに動かなかった。 観客席のざわめきは、やがて嘲笑や冷やかしへと変わっていった。 中にはこんな声も上がる。 「さっきまで妹に偉そうにしてたくせに、これが天罰ってやつだな」 「意外とスタイルいいじゃん……こりゃ見応えあるな」 「どんなに高貴ぶってても、裸にされたら皆同じさ。所詮、人形にされるだけだろ」 「最近ずっと引きこもってたのって、こういう理由だったのかもな。どうせ身体のどこかケガでもしてたんだろ?」 …… 耳を塞ぎたくなるような言葉に、紬希は消えてしまいたい思いでいっぱいだった。 脳が真っ白になり、ただどこかへ逃げたい一心で舞台裏へ走り出す。 だが、足元のコードに足を取られ、そのまま壇上から転落してしまった――次に意識を取り戻したとき、紬希は脚を高く吊るされ、病院のベッドに縛り付けられていた。 外では、騒がしい声が響いていた―― 第7話 「動画を流すだけでよかったんじゃないの?どうして彼女の足まで折る必要があったんだ?」 凌也の声には、あきらかに不満の色がにじんでいた。 玲奈は得意げに笑った。 「私は、ただ彼女の名誉を地に落とすだけじゃなくて、本当に使いものにならない人間にしたいのよ。 この日を、どれほど待ち望んできたと思う?ようやく夢が叶うのよ」 「でも……やりすぎじゃないか?」 凌也は眉をひそめた。 「凌也、前にあなたが無理やり助けに入らなかったら、あの浮浪者に紬希はもう…… もしかして、あなた本気で紬希に同情でもしてるの?」 凌也の心はふと揺らぎ、どこか胸の奥の柔らかい部分を突かれたような気がした。しかし、それも一瞬のことで、すぐにその思いを否定した。 「何を言ってるんだ、俺が好きなのは最初から玲奈だけだよ。全部は紬希の信頼を得て、彼女と結婚するためのものだ。 そうしなきゃ計画が進まないだろう」 …… そのすべてを、病室の中で紬希は聞いていた。指先が手のひらに食い込み、血がにじむほど握りしめても、その痛みすら感じなかった。 痛い、胸が切り裂かれるように痛い。凌也の優しさも、守りも、全部嘘だったのだ。 扉が開き、凌也がいつも通り穏やかな顔で入ってきた。 「紬希、今回のことは本当に不運だった。玲奈がもう調査に動いてるし、すぐに真相も分かるはずだ。 メディアにも頼んで対応させたから、動画が広まることはないよ。 今はとにかく、しっかり休んで回復することだけを考えて」 完璧すぎるほど、隙のない物言いだった。 紬希は冷たく笑った。 「不運?私の身に、今まで何度『偶然』が起きたか、気づいていないの?」 凌也はその言葉にわずかに眉をひそめ、紬希を見つめる視線にも迷いが浮かんだ。 さらに何か言おうとしたが、紬希はもう目を閉じていた。 「もう休みたいから、ここにいなくていい」 凌也は、紬希が心身ともに疲れ切っているだけだと思い込み、部屋を出ていった。 彼が去ると、紬希はスマートフォンを手に取った。 そこには、自分が襲われる映像がネット中に拡散されていた。 コメント欄には、見るも無惨な言葉が並んでいる。 【なあ、あのオヤジ、最後までやっちまったのか?】 【もうあそこまでいったら、やらないわけないよな?】 【うらやましいよなあ、あのお嬢様がどんな味か、一度味わってみたいもんだ】 紬希は全身を震わせながら、手にしていたスマートフォンを力いっぱい床に叩きつけた。 次々と襲いかかる出来事に、体も心も限界を迎え、ついには目の前が真っ暗になって気を失ってしまった。 …… 「起きろよ!」 冷たい水が顔にかけられ、紬希は意識を取り戻した。 「お姉ちゃん、評判が地に落ちた気分はどう?」 玲奈は不気味な笑みを浮かべながら言った。 「やっぱり私生児はやることも卑しいね。きっとあんたの母親譲りだろう?」 紬希の唇には、かすかな嘲笑が浮かぶ。 パシン――鋭い音が響き、玲奈の平手が紬希の頬を打った。瞬時に顔が腫れ上がる。 「紬希、今やあんたにできるのは強がることだけ。もうすぐ深見家は私のものだよ」 玲奈はゆっくりと指を握りしめ、口元に勝ち誇ったような笑みを浮かべた。 「玲奈、あんたみたいなやり方、必ず報いを受ける」 「へぇ、でも今のところ、罰が当たったのはむしろお姉ちゃんの方みたいね…… お姉ちゃん、自分が今どんな姿になってるか分かってる?私、それを見るたびに本当に嬉しくてたまらないの。 小さい頃、私はどんなに辛い思いをしてきたか……その間、お姉ちゃんは贅沢に囲まれて生きてきたんだもの。思い出すたびに、あんたを殺してやりたいくらい憎んでたよ」 玲奈は歯を食いしばり、傍らにあった鞭を手に取ると、容赦なく紬希の体を打ち据えた。 紬希の肌は、鞭に打たれると裂けて血が滲んだ。 唇が真っ青になりながらも、紬希は必死に問いかける。 「……父さんに知られたらどうするつもり?きっとあなたを許さないわ」 玲奈は高らかに笑った。 「お姉ちゃん、これが全部私の仕業だって証拠でもあるの? それに、パパが選ぶの後継者は、スキャンダルまみれの娘じゃなくて、素直で身ぎれいな娘よ。分かるでしょ?」 そう言うと、玲奈は紬希の体を百回も鞭で打ち据えて、ようやく手を止めた。 「まさか、こんなに疲れるなんて思わなかったわ」 玲奈は肩を軽く回しながら、紬希の顎を無理やり掴み、じっと顔を覗き込む。 「もしお姉ちゃんがもうすぐ凌也と結婚しなければ、この顔なんて今すぐ切り裂いてやるのに。 そうだ、新婚祝い、気に入ってくれた?ふふふ……」 ――紬希はほとんど意識が遠のくほどに痛めつけられ、そのまま病院に放り込まれた。 やがて、紬希の醜聞動画が拡散されたことを知った深見家当主が、病院に怒鳴り込んできた。 「どうしてあんな恥知らずなことをしたんだ!深見家の名をどうしてくれる!」 しかし、紬希は静かに答える。 「お父さん、私は誰かに嵌められたの」 「誰がそんなことを?」 「玲奈だよ」 深見家当主は顔を真っ赤にして怒鳴った。 「お前は昔から玲奈のことが気に入らなかったが、濡れ衣を着せるなんて最低だ! 玲奈はたしかに家で育ててはいないが、いい子だ。 もういい、これからはエンカのプロジェクトも深見家も、全部玲奈に任せる」 紬希は苦笑いを漏らした。 玲奈の言う通りだわ。父はいつも損得勘定でしか人を見ない。今の自分より玲奈の方が「役に立つ」と思っているだけ。 そのとき、紬希はかすかに笑い、静かに告げた。 「……じゃあもし、玲奈が本当に深見家の血を引いていなかったら?」 深見家当主の顔色がさっと変わる。 「何を言ってる?」 紬希は親子鑑定書を父の目の前に差し出した。 「信じられないなら、自分で確かめればいい」 ――翌日、深見家当主は再び病室を訪れ、今度は紬希の手を握ってこう言った。 「紬希、父さんが悪かった。父さんにはお前しかいない。これからは深見家のすべてをお前に託す。 お前を傷つけようとする者は誰であれ、絶対に許さない」 紬希は静かに頷いた。 こうして、まもなく紬希が深見家を継ぐことになるだろう。 その後、凌也が何度も面会を申し込んできたが、「治療に専念したい」と紬希は全て断った。 結婚式が近づいてきても、彼はメッセージで式の段取りや準備についてひたすら尋ねてきた。 【このホテルでいい?】 【この料理でいい?】 【結婚式の内容はこれで満足?】 紬希の返事はすべて【任せる】で済ませた。 どうせ彼女が出るつもりのない結婚式に、エネルギーを使う気はない。 最高の医療チームによる治療で、紬希の傷は順調に回復していった。 結婚式の前日、彼女は完全に元気を取り戻した。 そして当日――紬希は父のプライベートジェットに乗り込む。 彼女は、スマホからSIMカードを抜き取り、それを遥か上空から窓の外へと放り投げた。 さようなら、凌也。