夢に沈む、想いの歳月

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夢に沈む、想いの歳月

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陸遠真(りく とうま)に囲われていた女は失踪癖があった。 そのうえ見つかるたびに彼女は、如月清夏(きさらぎ さやか)の仕業だというのだっ...

Chương (1)

第1章

陸遠真(りく とうま)に囲われていた女は失踪癖があった。 そのうえ見つかるたびに彼女は、如月清夏(きさらぎ さやか)の仕業だというのだった。 西村乃愛(にしむら のあ)が九度目の失踪を遂げた時、遠真は清夏をサウナルームに閉じ込めた。 室内の温度は容赦なく上昇していく。 60℃...... 70℃...... 80℃...... 清夏の顔は真っ赤に染まり、蒸し焼きのように息ができない。 その様子を前にしても、遠真は指に嵌めた指輪を弄びながら低く問い詰めた。 「これが最後のチャンスだ。乃愛をどこに隠した?」 第1話 陸遠真(りく とうま)に囲われていた女は、決まってふいに姿を消した。 見つかるたびに彼女は、如月清夏(きさらぎ さやか)が自分を殺そうとしたと訴えるのだった。 九度目の失踪のとき、遠真は清夏をサウナ室に閉じ込めた。 ガラス扉が施錠されるやいなや、熱気が無数の針となって肌を突き刺し、容赦なく痛みが広がっていく。 温度計の針はぐんぐん上昇し── 60℃...... 70℃...... 80℃...... 清夏の顔は茹で上がったように紅潮し、呼吸すらままならない。 遠真は扉の外に立ち、手元の指輪を回しながら低い声で言った。 「これが最後のチャンスだ。乃愛をどこに隠した?」 清夏は扉に縋りつき、必死に叩いた。 手のひらは焼けつくように熱く、血の滲んだ痕がガラスに残るがそれも蒸気に飲まれてすぐに消えた。 「知らない......本当に知らないの......」 喉は干上がり、裂けそうだった。 「遠真......お願い出して、もう限界......」 彼女には生まれつきの心臓疾患があり、二十代まで生きられたのも奇跡に近い。 この高温下では、いつ命を落としてもおかしくなかった。 だが遠真はまるで聞こえていないかのように温度調整のボタンを指先で叩きながら言った。 「たかがサウナだ。死にゃしないさ。お前が乃愛にやったことを思えば、この程度の痛みなんてどうってことない」 「まだ白状しないか?」 ボタンが押される音と同時に、清夏は自分の心臓が激しく脈打つのをはっきりと感じた。 「なら──もっと上げるぞ」 意識が遠のきかけたその瞬間、彼女の脳裏に数日前、西村乃愛(にしむら のあ)がSNSに上げていた位置情報がよぎった。 最後の力を振り絞り、叫ぶ。 「言う......!北市の遊園地、備品倉庫よ......!」 遠真はすぐに駆け出し、出ていく直前、部下に命じた。 「俺から連絡があるまで、絶対に開けるな」 ──三十分後、ようやく電話が鳴った。 遠真は乃愛を見つけ出し、それをもってようやく清夏は解放された。 全身汗まみれで、体温は異常な高さを示していた。 彼女はそのまま意識を失い、昏睡状態で一夜を越えた。 うなされる中、遠真との記憶が走馬灯のように脳裏を巡る。 遠真は父の古い友人だった。 まだ幼かった頃清夏は内気で病弱で、彼はそんな彼女を気遣って、毎日のように如月家を訪れていた。 食も細い彼女のために、世界中から旬の果物や野菜を届けてくれた。 アメリカのパイナップルストロベリーや、アフリカの角瓜──夜明けに摘まれたばかりのそれらは、昼には清夏の食卓に並んだ。 スターたちが奪い合うような高級オーダードレスも、「きれい」と清夏がぽつりと漏らせば、翌日には贈り物として届いていた。 父はいつも彼女の頭を撫でながら冗談めかして言っていた。 「遠真の奴、お前をお嫁さんにするつもりなんじゃないか?」 清夏は「ないない」と笑いながらも、顔を真っ赤に染めていた。 ──十八歳の誕生日。 遠真は、街全体を巻き込んだようなプロポーズを仕掛けた。 清夏の好きな白バラで街中が埋め尽くされ、北市の空にはドローンが「清夏、俺と結婚してくれ」と文字を描いたそれは、三日三晩空に浮かび続けた。 豪華客船の甲板で遠真は彼女を背後からそっと抱きしめ、顎を首筋に埋めた。 「清夏、俺と結婚してくれ。今生でも、来世でも、そのまた次の世でも、ずっとお前を愛し続ける」 盛大な花火の下、清夏は涙を浮かべながら頷いた。 ──だが、半年も経たないうちに、如月家は破産した。 父はそれを悔やみ病に倒れ、最期の時──遠真の手を握りながら、掠れた声で言い残した。 「遠真......清夏を頼んだぞ。絶対に傷つけるんじゃない......」 遠真は深く頷いた。 「任せてくれ」 それ以来、清夏は陸家で暮らすことになった。 北市では誰もが噂していた──遠真は、自分のすべての愛を如月清夏に捧げている、と。 ......あの女が現れるまでは。 西村乃愛。 新しく雇われた助手で、不器用で、エビの殻すら自分で剥けない女だった。 「この子さ、ほんとドジで。エビも剥けないんだよ」 「書類もすぐ無くすしさ」 遠真が清夏の前で初めて乃愛に触れたとき、その声には確かに甘さが宿っていた。 高級茶葉を安物のミルクティーにすり替えて、大口の契約を潰しても遠真は彼女の頭を撫でながら笑った。 「うちの乃愛は、純粋で素直なんだ」 清夏のクローゼットにあった限定ドレスにインクをぶちまけても、遠真は眉ひとつ動かさず、すぐに同じものを買って乃愛に与えた。 ──清夏の二十一歳の誕生日。 ケーキを切っていた遠真の手が止まり、ぽつりと呟いた。 「乃愛、ブルーベリー好きだったな」 「ここにいたら、ケーキ全部食べるって騒いだだろうな......」 ──そのとき、清夏の中で何かが壊れた。 乃愛という女はすでに遠真の心の中に入り込んでいた。 彼女の居場所は、どこにもなかった。 やがて乃愛は屋敷での立場を確立し、さまざまな手口で清夏を挑発してきた。 清夏は歯を食いしばり、すべてを堪えた。 気づかぬふりを決め込んだ。 だから──乃愛は失踪ゲームを始めたのだ。 わざと清夏に居場所のヒントを漏らし、首を傾けて笑う。 「ねえ、遠真が私のために、あなたをどこまで追い詰めるか......賭けてみない?」 ──このゲームは八度繰り返され、清夏は八度、すべて敗れた。 夢の中で遠真の冷ややかな顔が迫ってくる。 清夏は叫びながら目を覚ました。 寝間着は冷たい汗でぐっしょりと濡れていた。 彼女はベッドに背を預け、窓の外をぼんやりと見つめた。 ......もう、いいかもしれない。 かつて救いだと信じていた遠真は、もうどこにもいなかった。 そう悟ったとき、彼女はトランクの底から合格通知書を取り出し、ひとつの電話番号を押した。 「須藤先生......M国の芸術学院、予定どおり入学します」 第2話 「清夏、本当にいいのかい?」 須藤先生の声には驚きがにじんでいた。 「君は身体が弱いし、ご家族の許可は得たの?」 以前、清夏も留学を考えたことはあった。 けれどそのたびに遠真に止められてきた。 最初のうちは、彼も辛抱強く言い聞かせてくれた。 「清夏、いい子だからね。お前は体が弱いし、遠出なんてさせたくない。病気がよくなったら、俺が世界中連れてってやるから」 ──でも、次第にその口ぶりは冷たくなった。 「お前の父さんはお前を俺に託していったんだ。ちゃんと守らなきゃならない。わかるよな?無駄に手間かけさせないでくれ」 その態度が変わらなかったからこそ、清夏は今回も、海外の学校に合格したことを言い出せずにいた。 「......私にはもう家族なんていません」 清夏は口元を引きつらせながら、かすれた声で言った。 「須藤先生、どうしても......自分の力で外の世界を見てみたいんです」 電話の向こうでため息がひとつ聞こえた。 「......わかったよ。開講まではあと一週間。準備を急ぎなさい」 電話を切った直後だった。 階下で玄関のドアが「バンッ」と激しく叩き開けられる音がした。 遠真が荒々しく踏み込んでくる。 その身に纏う冷気に、空気まで凍りつきそうだった。 一言も発さず、彼は清夏の腕を乱暴に引き外へと連れ出そうとする。 昨日の火傷で痛む手のひらを強く握られ、清夏は顔をしかめながらも抵抗した。 「どこに連れてくつもり......!」 「乃愛に謝りに行くぞ」 その言葉に、清夏の胸が音を立てて沈んだ。 「......なんで、私が?」 「昨日、お前が乃愛を拉致したせいで、足を捻挫した」 その声は氷のように冷たかった。 「病院で一晩中泣いてたんだ。いまも目が腫れぼったい。原因を作ったお前が、謝るのが筋だろ」 清夏は、ふっと笑った。 何かと思えば──たかが捻挫。 「......遠真、それ、私じゃない」 胸の奥が重く痛むのを堪えながら、静かに言い返した。 「乃愛のSNSに投稿された位置情報をたまたま見ただけで......」 そこまで言いかけて、言葉を飲み込んだ。 彼の目の奥に浮かんでいたのは、怒り、疑念、そしてほんのわずかな憎しみ──そう、これまでの八回と何も変わらない。彼は最初から信じていなかった。 「言えよ。もっと巧く作り話でも考えてみろよ」 口元を歪める彼の声には、露骨な嘲りがにじんでいた。 「清夏......あんな誠実だったお前の父さんが、どうしてこんな女を育てたんだろうな」 ──父の名を彼が口にしたのは、亡くなって以来初めてだった。 まさかそれが罵りの言葉になるなんて。 遠真は清夏に反論の暇さえ与えず、本棚に蹴りを叩き込んだ。 バサバサと音を立てて、本が床に散乱する。 「謝ることからは逃げられない。大人しく来るか、それとも......無理やり連れていかれたいのか」 部屋が騒然とする中、入口から乃愛が足を引きずりながら現れた。 泣き腫らした目、かすれた声──「遠真......彼女を責めないで」 彼女はうるんだ瞳で遠真を見上げ、涙をぽろぽろと流しながら言う。 「悪いのは私なの......勝手に出歩いた私がいけなかったの。清夏さんは関係ないわ」 そう言いながら、なんと彼女は清夏の目の前で膝をついて土下座した。 遠真の目がみるみる赤く染まり、清夏の腕を振り払うと、乃愛をそっと抱き上げる。 乃愛は彼の腕の中で小さく身をよじりながらも、泣きじゃくるように言った。 「遠真、私を下ろして。謝るべきなのは私のほうよ。私のせいで、二人がこんなことに......私、本当に最低よ」 彼は乃愛をそっとソファに座らせ、振り返ったときのその目には、憎悪ともいえる激情が渦巻いていた。 「──なあ、これが見たかったのか?満足かよ、清夏」 清夏は、手のひらの火傷に爪を立てた。 刺すような痛みで、なんとか涙をこらえる。 次の瞬間、遠真は清夏を強引に引き寄せ肩を掴んで床に押しつけた。 「土下座して謝れ。自分の非を認めれば、今日のことは水に流してやる」 清夏はじっと背筋を伸ばし、まったく動かなかった。 「......そうか、謝らないんだな」 遠真の声は一層冷たくなった。 「なら、お前はあの部屋で十日間、写経だ」 清夏の身体がびくりと震えた。 乃愛が失踪を始めてからというもの、遠真はことあるごとに彼女をあの暗い小部屋に閉じ込め、蝋燭一本の灯りのもとで仏典を写させた。 光も空気も乏しいその部屋に何日も閉じ込められれば、出てきたときには、生きている心地もしない。 あと七日で出発なのに、これ以上無駄にはできない──清夏は唇をかみしめ、恥辱に耐えながら、「ゴン、ゴン、ゴン」と三度、額を床に打ちつけた。 「......乃愛さん、ごめんなさい」 乃愛はすぐにすまし顔で清夏の腕を取って起こし、笑顔で囁いた。 「そんなに気にしないで。もう怒ってないから」 立ち上がると、乃愛は清夏の耳元にそっと顔を寄せ、蛇の舌のように細く低い声で囁く。 「──また、私の勝ちね。如月清夏」 清夏はふらつきながら身を起こし、床に散らばった自分のリュックを拾い上げた。 そのとき──ファスナーの隙間から滑り落ちた一枚の紙が、ふわりと絨毯に舞い落ちた。 それは、芸術学院の合格通知書だった。 素早くそれを拾い上げた遠真が、眉をひそめながら顔を上げた。 「......これは、なんだ?」 第3話 清夏の心臓が一瞬ひやりと凍りついた。 次の瞬間、彼女は飛びかかるように遠真に体当たりし、勢いのまま彼を床に押し倒した。 その隙に彼の手から合格通知書を素早く奪い取り、何食わぬ顔で言った。 「......ただの工作用の画用紙よ。大したものじゃないの」 遠真は顔をしかめながら立ち上がり、服の埃を払い落とす。 「清夏、お前もいい歳なんだから、いつまでも子どもみたいなことするなよ」 「明日の夜、会食がある。一緒に来い。ちゃんと身なりを整えておけ」 行きたくはなかったが、今はなにより気配を消すのが先だった。 ──あと七日、この七日を、何事もなかったように過ごすしかない。 ホテルの車寄せに陸家の車が停まり、清夏が車のドアを開けた瞬間、エントランスから賑やかな声が聞こえてきた。 「陸社長、お久しぶりです!その隣の女性、お美しくて気品もある......ご婚約者の如月さんですね?」 乃愛が真紅のドレスをまとい、首には宝石が燦然と輝いていた。 彼女は上品ぶった仕草で手を口元に当て、くすりと笑う。 「そんな、ご冗談を。私はただの陸社長の助手です」 彼女の目尻がすっと清夏をかすめ、その笑みに棘が宿る。 「健康で容姿にも恵まれているのが、私の取り柄ですから。如月さんのように病弱ではありませんのよ」 遠真は小さく笑い、親しげに彼女の鼻先をつついた。 「おまえは口がうまいな。だが外じゃそんなに甘やかされないぞ」 「だってほんとのことだもん」 そう言って、乃愛は彼の肩にもたれかかる。 「それとも、陸社長は私に、もっと特別な役目でも......?」 その親密すぎる光景に、清夏は視線を背けた。 立ち去ろうとしたそのとき、遠真の声が背中から飛んでくる。 「宴が始まるってのに、どこへ行くんだ」 乃愛を抱いたまま彼は振り返りもせず、淡々と命じるように言った。 「いい加減にしろ。外で子どもじみた癇癪を起こすな。俺に恥をかかせたいのか」 清夏は二歩ほど後ろに下がってついていく。 純白のワンピース姿は、華やかな場の中で浮き、まるで付き人のようだった。 上流階級というものは、強い者を讃え、弱き者を踏みつける。 遠真の冷淡な態度に、他の客たちの目も冷たさを帯びはじめた。 酒宴が進み、三巡目の酒がまわったころ──ふらふらと酔った男が清夏のもとへ近づいた。 東駿(あずま しゅん)──東家の長男だ。 酒杯を揺らしながら、彼はいきなり清夏の顎に手を伸ばした。 「おやおや、これは如月家のお嬢さんじゃないか。お父様がどれだけ大事にしてたか、まるで温室の花のようだったが......今日見たら、たしかにイイ女になってるな」 清夏は彼を知っていた。 昔、彼女が外出を控えていた頃、駿は不良仲間を引き連れて彼女の部屋の窓の外で下品な言葉を叫んでいた。 「おとなしくて病弱な美人なんて、絶対面白いに決まってる」──そう言いながら。 あのとき、遠真は激怒して、夜中に東家に乗り込み、彼を半殺しにした。 ──あれからずっと、彼は根に持っていたのだ。 清夏が一歩下がって避けようとした途端、駿はさらに図に乗り、腰に腕を回し、もう一方の手でスカートの裾をまさぐろうとした。 「なに澄ました顔してんだ。あの陸社長だって、もう新しい女に夢中なんだぜ?俺はまだお前を女として見てやってるんだ、感謝しろよ」 清夏はとっさに手近にあったグラスを掴み、中の酒を彼の顔にぶちまけた。 駿はそのまま大げさに床へ転がり、怒鳴り散らす。 「このクソ女!俺に水かけやがって!」 騒ぎは瞬く間に宴会場中の注目を集めた。 乃愛が遠真の隣から慌てたふりで叫ぶ。 「清夏さん、なんてことを......東家はうちの陸グループと大きな取引があるのよ?わざと敵を作って、会社を潰す気?」 遠真の表情が一気に険しくなる。 乃愛はすかさず給仕にタオルを持ってこさせ、駿に駆け寄りながら拭いてやった。 「すみません、清夏は長らく人前に出ていなかったので、ちょっと感情的になってしまって......」 「全部私の責任です。彼女はまだ療養中なんです......」 すぐに、あちこちからささやきが広がる。 「心臓病って性格にも出るの?わがままに育っただけじゃない?」 「如月家が潰れたら、人としてのマナーまで失ったのね」 「もとはお嬢様だったのに、いまやただのトラブルメーカー」 「乃愛さんのほうが、よほど品があるじゃない」 「陸社長も大変ね、あんな爆弾背負って......」 駿は周囲の同情を得て、ますます気勢を上げた。 「陸社長、この件、どうケリをつけるつもりだ?」 騒ぎの渦中で、清夏は遠真を見つめた。 まるで救いを求めるように。 「お願い、一度でいい、私を信じて......あの人が先に手を出してきたの。私は──」 「如月さん、人を陥れるのはやめてくれ!」 駿がすかさず遮る。 「俺の顔に泥塗るのは勝手だが、東家の名まで貶す気か?誰か、俺が触ったとこ見たか?」 沈黙が降りる。 誰も、何も言わない。 誰も、助けない。 遠真は清夏に目もくれず、駿の前に歩み寄ると、口を開いた。 「......西市の件、おまえの取り分にプラス三パーセント上乗せする。これで手打ちにしてくれ」 駿はにやりと笑う。 「さすが陸社長、話がわかる。──あんたの女は、もっと躾けたほうがいいぜ」 その一言で、清夏は横暴な女として完全に仕立て上げられた。 彼女は会場の片隅にひとり取り残され、辱められ、踏みにじられた。 「......遠真」 背を向けようとする男に、かすれた声で呼びかけた。 「一度だけでいい。私のこと、信じてくれないの?」 遠真は立ち止まり、振り返る。 その瞳にあるのは、ただ冷たく尖った嘲りだった。 「清夏......お前、まさか自分が天女にでもなったつもりか?」 「あいつはな、俺に誓って言ったんだ。一生、お前には指一本触れないって」 彼は清夏の腕を乱暴に掴み、会場の裏手へ引きずるようにして歩き出すと──そのまま手を放した。 「乃愛のこと、まだ根に持ってんだろう?東家にあたって俺に仕返しするつもりだったんだよな?いいよ、俺が金でケリつけた」 「でもな、そこまでしても......お前は、乃愛を許せないんだな?」 第4話 突然、全身から力が抜けていくような感覚が清夏を襲った。 喉元までこみ上げていた言い訳のすべてを彼女はそのまま飲み込んだ。 「そう思うなら、それでいいわ」 かつての彼女なら、悔しさに涙を浮かべて必死に反論していたかもしれない。 でも今までそんな言葉で何かが変わった試しなど一度もなかった。 だったらもう、何を言っても無駄だ。 あと数日もすれば、この家とも、この人たちとも、何の関わりもなくなるのだから。 清夏は身をかがめ、足元のハイヒールを脱いだ。 サイズの合わないそれは、かかとを赤く腫れさせ、見るからに痛々しかった。 裸足のまま、彼女はゆっくりと歩き出す。 ──この靴も、遠真が用意させたものだった。 彼はいつも「わがままばかり言うな」と清夏を咎め、無理に履かせてきた。 けれど一度もサイズが合っていないかもしれない、というごく当たり前のことを考えようとはしなかった。 寂しさと惨めさを背負って遠ざかっていく清夏の背中を、遠真はふと眉をひそめながら見つめた。 ──追いかけようか。 そんな迷いが一瞬、足を前に出しかけたそのとき。 「遠真!」 後ろから、乃愛が駆け寄ってきた。 彼の腕にそっと身体を寄せ、甘えるように笑う。 「清夏さん、まだ私のこと怒ってるのかな?そうじゃなきゃ、あんなふうにあなたの顔に泥を塗るみたいに、一人で帰ったりしないよね?」 その一言が、冷や水のように遠真の胸に落ちた。 ──同情なんて、する必要はない。 あんなふうになったのは、清夏自身の蒔いた種だ。 遠真はそれきり一度も振り返ることなく、乃愛とともにホテルの奥へと消えていった。 背後に残した頼りない背中は、まるで何もかもを置き去りにしていくようだった。 その後、東家との提携は自然とまとまり、乃愛は「忙しくて部屋を探す暇がない」と言い訳して、当然のように陸家へと転がり込んできた。 遠真は淡々と清夏に言った。 「彼女、親もいなくてずっと苦労してきたんだ。社長として、見て見ぬふりなんてできないだろ。安心しろ、すぐ出ていく。お前には何の影響もない」 そのとき清夏は、窓辺に座って愛犬のシロを抱きながら、遠くの空をぼんやりと見つめていた。 彼の言葉にも、ただ黙ってシロの頭を撫で続けるだけだった。 遠真が部屋を出た途端、乃愛の表情から猫をかぶった笑顔が消えた。 彼女はすぐさま二階に駆け上がり、清夏のアトリエへと踏み込んだ。 そして怒りのままに暴れ始めた。 絵の具の瓶が床に飛び散り、イーゼルが倒れ、描きかけの作品が次々と汚されていく。 異変に気づいた清夏が駆け込むと、彼女は両腕を広げて乃愛の前に立ちふさがり、大切にしていた何枚かの絵を必死に庇った。 「なにしてるの、やめて!」 乃愛は絵の具をひと掴みし、無造作に傍の絵へと塗りつける。 「こんなガラクタ、見てるだけでイライラするの。どうせ私がこの家の奥さんになるんだし、いらないものは処分して当然でしょ?」 清夏が血のにじむ努力で描き上げた絵が、次々と破かれ、塗りつぶされていく。 胸が締めつけられるような痛みが襲った。 「それは......芸術展に出す予定だった、私の命みたいな作品なのよ!触らないで!」 彼女が声を荒げて叫ぶと、乃愛は面倒くさそうに肩をすくめ、首から外したダイヤのネックレスを床に放り投げた。 「え、そんなに大事だったの?このネックレス、遠真がくれたのよ。数億したらしいけど......それで帳消しってことでどう?」 そして、何かを思い出したように笑う。 「あ、そうだ。清夏さんって、そういうお情けとか受け取れないタイプだったわよね?じゃあもう二枚くらい壊して、バランス取らなきゃ」 清夏の我慢は限界を超えた。 彼女は壁際に飾っていた一枚の絵へと飛びついた。 それは──亡き父と一緒に描いた、たったひとつの思い出。 川辺を駆ける小さなふたりの影。 空と水面に広がる金色の夕陽。 ──お父さんは旅立つ前に言ってくれた。 「俺はこれから陽の光になる。ずっとお前のそばにいるよ」 その絵に冷たい目を向けた乃愛は、無造作に手を伸ばして奪い取ろうとする。 「そんなに好きなら、壊してあげる」 清夏を突き倒し、絵を無理やり引きはがそうとしたそのとき──シロが玄関から飛び込み、勢いよく乃愛の手首に噛みついた。 悲鳴とともに絵は彼女の手を離れ、ガラス窓を割って階下へと落ちていった。 清夏は半ば転げるように階段を駆け下り、絵を拾い上げて戻ってくる。 けれど、リビングではすでにシロが檻の中に押し込まれ、乃愛は包帯を巻いた手を見せながら、遠真に泣きついていた。 遠真は険しい表情でソファに腰を下ろし、低く言い放つ。 「これが......お前の飼ってる獣か」 清夏は檻の前に駆け寄り、シロを抱きしめながら身を投げ出す。 「シロは私を守っただけ!文句があるなら、私に言って!」 「清夏さん、なんでそんなひどい嘘を......」 乃愛は涙ながらに訴える。 「私、暴れてなんかいない......絵が可哀想で止めようとしたの......それなのに、こんな仕打ち、責められるなんて」 「嘘をつかないで!壊したのは、あなたでしょ!」 清夏の声は、怒りに震えていた。 「もういい!」 遠真の怒鳴り声が響き渡る。 「そんなことが言えるってことは──最初から本気で絵なんて描いてなかったんだろ」 その声は、刃のように鋭かった。 「だったら全部燃やせ。どうせまた繰り返すだけだ。犬も同じだ。人を噛んだ時点で、生かしておく理由はない」 部下たちが命令を受けて動き出し、清夏の腕の中から絵とシロが容赦なく引き離された。 爪先まで裂けるような痛みに、彼女の指先は震えた。 血走った目、引きつった口元。 ふらふらと倒れ込みながらも、彼女は膝で床を這い、遠真のもとへとにじり寄る。 上着の裾をつかみ、声を震わせて懇願した。 「お願い、遠真......お願いだから」 「この絵は、お父さんが残してくれた最後の形見なの......シロは、私が一番つらかったときに、ずっとそばにいてくれた......どちらも、私にとっては命なの」 「どうか壊さないで......お願い」 けれどその声は、遠真の心には届かなかった。 彼はただ、乃愛の包帯の巻かれた手首をそっと取り上げ、気遣わしげに見つめていた。 誰からも止められることなく、庭では火が焚かれ、清夏の絵が一枚、また一枚と炎に包まれていく。 檻の中、シロの鳴き声も次第に力を失っていった。 清夏は女中に押さえつけられたまま、燃え盛る火を見つめ、声を張り上げて叫んだ。 「遠真......あなた、本当にどうしちゃったの......今までのこと、全部忘れたの?」 「もう、あなたの愛なんて......いらない」 少し間を置いて、彼女は最後の願いを吐き出すように絞り出した。 「絵なんて、もうどうでもいい......だから、お願い、シロだけは返して......お願い、ほんとに、お願いだから......」 第5話 清夏の言葉が終わらないうちに、シロの悲鳴がピタリと止んだ。 彼女は正気を失ったようによろめきながら外へ飛び出す。 中庭には鮮やかすぎる血の跡が広がっていた。 シロの頭はぐったりと垂れ、すでに息はなかった。 清夏はその場にへたり込み、全身を震わせた。 喉が詰まったように声が出ず、涙すら出てこない。 父はもういない。 三年間ずっと寄り添ってくれたシロも、今、彼女のもとを離れた。 ──どうして。 どうして、私に温かさをくれたものたちは、みんなこうして去っていくの。 彼女はただ、たった一匹の命を守りたかっただけだった。 けれどそんな小さな願いすら、容赦なく打ち砕かれた。 遠真が屋敷から駆け出してくる。 清夏の姿を見た彼の脳裏に最初によぎったのは、慰めの言葉ではなかった。 「もうあなたの愛なんて、いらない」 清夏のさっきの言葉が、まるで棘のように喉に引っかかって離れなかった。 息苦しさを覚えながら、遠真は彼女の腕を乱暴に引き上げ、壁に強く押しつけた。 「清夏、お前はいつまで子どもみたいな真似をする気だ?こんなふざけた言葉で人の気を引くつもりか?」 「お前は十八のときからずっと俺のそばにいる。それで今さら、俺の愛なんていらないって......じゃあ、誰の愛が欲しいんだよ」 怒気をはらんだ彼の視線を真っ向から受け止めながら、清夏は搾り出すように言った。 「どいて」 もう、愛だの想いだの語る気力さえ残っていなかった。 彼がかつて、どれほど自分を大切にしてくれていたか──そんな過去の面影は、もうどこにもない。 あの日、乃愛が現れた瞬間からふたりの結末は決まっていたのだ。 部屋に戻った清夏は、丸く身体を丸めて横たわった。 階下からは、笑い声と談笑が絶え間なく聞こえてくる。 「ねえ遠真、清夏さんってほんとわがままだよね?たかが一匹の犬で、なんであんなに騒ぐのかしら」 乃愛の甲高い声が、飾り気のない悪意をまき散らす。 遠真の声も聞こえた。 冷ややかな笑みを含んでいた。 「放っておけ。あいつは昔から甘やかされすぎて、感情の区別もついてないんだ」 「如月家はもう無い。あいつ自身、心臓病まで抱えてる。陸家にいなきゃ、どこへ行くっていうんだ」 「今回はしっかりしつけてやるよ。あの性格、矯正しないと一生ダメになる」 その声を聞きながら、清夏は立ち上がる。 目の焦点は定まらず、心も身体も空っぽだった。 まるで、抜け殻。 彼女は部屋の隅々をくまなく探し、遠真がかつて贈ってくれた物をすべてかき集めた。 恋に落ちた頃、彼が書いた九十九通のラブレター。 ご機嫌取りのために作ったオルゴール。 一緒に作った手作りの凧。 入院の日に山寺で手に入れたお守り。 そして数えきれないほどの香水やジュエリー、ドレス......それらは、かつて彼女の支えだった。 けれど今となっては──見るのも吐き気がする。 彼女はそれらすべてを袋に詰め込み、引きずるようにして中庭へ向かった。 マッチに火をつけ、袋ごと燃やす。 「かつての思い出」が炎に包まれ、赤くゆらめきながら灰になっていく。 袋が焼け落ち、なかの物が転げ落ちた。 燃え上がる炎と、見覚えのある品々に気づいた遠真が飛び出してきて、叫ぶ。 「お前......頭おかしくなったのか?」 彼が火を消そうと近づいた瞬間、清夏は両手を広げて立ちはだかった。 その瞳には、もはや一片の迷いもなかった。 怒りに震える遠真は、喉を詰まらせるような声で吐き捨てる。 「いいだろう......お前がそこまで俺たちの関係を無にしたいなら、俺ももう知らん」 「清夏、今日のこと一生後悔するなよ」 その夜、遠真は乃愛を伴って家を出ていった。 置き土産のように、屋敷の使用人すべてを解雇した上で。 翌朝、北市中に報道が流れた。 ──陸グループ社長・陸遠真、新恋人を正式に公表。 掲載された写真には、乃愛が彼の腕に甘えて笑っていた。 まるで、灰かぶり姫が王子に選ばれたかのように。 同時刻、清夏のもとに遠真から一通のメッセージが届く。 【見たか?これが言うことを聞かない代償だ】 立て続けの衝撃に、清夏の心臓はついに限界を迎えた。 荷造りの途中、強烈な痛みが胸を襲った。 呼吸が苦しくなり、彼女は床に倒れ込み、荒く息をつきながら電話を手に取った。 薬......薬がどこにあるのか、わからない。 遠真がいつも、使用人に管理させていた。 彼に聞くしかなかった。 一度、二度、三度...... 二十八回目のコールのあと、通話は拒否され、ついには電源が切られた。 ふと目に入ったのは、乃愛のSNS。 そこには水着姿で手をつなぎ、マルディブの夕日を見つめるふたりの写真。 キャプションにはこうあった。 【彼氏と南国リゾートなのにずっと電話鳴っててうるさい。しつこい人、やめてくれない?】 その投稿に、遠真が即座にキスの絵文字を返していた。 心臓の痙攣が激しさを増し、涙が止まらない。 視界が滲み、暗闇に飲み込まれかけながら、彼女は震える手で最後の行動をとった。 ──救急車。 最後の望みをかけて、緊急通報をかけた。 その直後、清夏の意識は完全に闇へと沈んでいった。 第6話 清夏は心臓病の発作を起こしたが適切な処置が間に合わず、病院で一晩中の緊急治療を受けた末、ようやく一般病棟へ移された。 その翌日病院から連絡を受けた遠真は、マルディブのビーチにいた。 電話越しの医師がこう告げる。 「患者の如月清夏さん、緊急連絡先にあなたの名前を登録していました」 遠真は一瞬言葉を失い、それからすぐに帰国便を手配した。 その傍らには、完璧なメイクを施した乃愛の姿があった。 病室へ飛び込んだとき、遠真は目の前の光景に思わず息を呑んだ。 病床に横たわる清夏は、痩せ細り蒼白な肌がなおさら弱々しく見える。 胸の奥に、今さらながらの罪悪感が押し寄せた。 声を和らげて、彼は言った。 「清夏......ごめん、遅くなった」 清夏は何も言わず、ただ静かに天井を見つめていた。 まるで、そこに彼の存在などないかのように。 遠真は喉を鳴らし、珍しく言い訳を口にした。 「昨日の電話、わざと無視したわけじゃない。ただ......お前に少し、反省してほしくて」 沈黙が流れた。 そして不意にその空気を破るように、乃愛が泣き出す。 「清夏さん、全部私のせいなの。無理に遠真を連れ出して、こんなことになっちゃって......」 「二人は長い付き合いなんだし、どうか私のせいで仲違いしないで......」 そう言って彼女は自分の頬を強く打った。 「あなたが動けないなら、私が代わりに叩く。許してくれるまで、何度でも」 その姿に、さっきまで清夏を気遣っていた遠真の顔が一変する。 「やめろ、乃愛!何してるんだ。悪いのは俺だ。お前が謝る必要なんてない」 清夏はもう何もかもが滑稽に思えた。 何ひとつ言っていないはずの自分が、いつの間にか責めている側に仕立てられている。 彼女は目を閉じ、かすれた声で言った。 「出て行って。ひとりにして」 ふたりが病室を出たのを見届けて、ようやく緊張の糸が切れた。 そのまま浅い眠りに落ちていったが── 「バンッ!」 激しい音で扉が蹴り開けられ、清夏は跳ね起きた。 遠真が、手にした検査報告書を彼女の上に乱暴に投げつける。 「見ろよ、これが現実だ。お前、昨夜は心臓発作なんて起こしてない。救急処置も受けてない!」 「ここに証拠がある。お前は一体、何を言い訳するつもりだ?」 彼はなによりも欺かれることを嫌う男だった。 ましてや、こんな手で同情を買おうとしたとなれば容赦はない。 乃愛がそっと彼の腕を引き、あどけない声で囁く。 「清夏さん、寂しいならそう言えばよかったのに......遠真にもっと構ってほしかっただけなんでしょ?」 「私、先生から聞いたんだ。まさか、こんな大げさな嘘をつくなんて思わなかった......」 遠真の表情は凍りつき、眼差しには嘲りが露骨に浮かんでいた。 「清夏お前、同情を引くためにそんな手を使うなんて......本当に、あの父親そっくりだな」 ──それは、彼が父を口にした二度目の瞬間だった。 どちらも、心を抉るためだけの刃として。 清夏は勢いよく身を起こし、枕元の水差しを手に取ると、全力でふたりに向かって投げつけた。 「出てって......今すぐ、出て行け!」 ガラスのコップが床に叩きつけられ、「カシャン」と音を立てて粉々に砕け散る。 飛び散った破片が乃愛のすねに当たり、うっすらと血がにじんだ。 乃愛は傷口を見下ろし、口元を押さえて小さく声を漏らす。 「清夏さん、これは私への罰なのね。でもいいの、清夏さんのためなら、これくらい受け止める。お願い、もう怒らないで?」 遠真はその血に気づき、眉をひそめた。 「馬鹿なことを言うな、今すぐ手当てするぞ」 彼は乃愛を抱き上げ、病室を後にしながら、冷たく言い放つ。 「もう容体に問題ないなら、とっとと退院しろ。病院のベッドを無駄に使うな」 ──乃愛のすねに貼られたのは、小さな絆創膏一枚だった。 病院を出る前、彼女はひとりでこっそり病室へと戻った。 その顔にはもう、か弱さも哀れみもなかった。 残っていたのは、あからさまな勝者の余裕だった。 「清夏さん、マルディブからお土産持ってきたの。気に入ってくれた?」 「バカな電話、しつこくかけてくるからよ。これは当然の報いよ」 彼女はベッドのそばにしゃがみ込み、清夏の耳元でささやく。 「こっそり教えてあげる。まだ終わりじゃないの」 「ねえ、清夏さん──第十ラウンド、始まるよ」 第7話 清夏の胸に、突如として不安が駆け上がった。 今回の「失踪ゲーム」は、乃愛が事前に住所も日時も一切教えてこなかった。 彼女は衣の端をぎゅっと握り締め、自分に言い聞かせる――大丈夫。 もうすぐ留学先の登校日。 それまでに陸家を出て、国外へ飛べばそれでいい。 体調が少し戻ると、清夏はすぐに荷造りをして陸家へ戻った。 しかし玄関を出た瞬間、鬼の形相で立ちはだかったのはほかならぬ遠真だった。 「人を傷つけて逃げるつもりか?どこへ行く気だ?」 燃えるような目で睨みつけるその姿は、清夏の中で最も深く根付いた恐怖を呼び起こす。 彼がこんな顔をするときは、決まって「罰」が待っていた。 監禁され、乃愛の居場所を白状するまで何度も何度も問い詰められる。 清夏は反射的に一歩下がった。声が震える。 「な、何のこと?意味が分からない......」 キャリーケースがガタンと倒れた。 次の瞬間、遠真は彼女の喉元を強く掴み上げた。 「まだ白々しいことを!また乃愛がいなくなった。お前の仕業じゃなきゃ誰なんだ?隠しておいて逃げるつもりか?逃げきれると思ってるのか?」 息が詰まり、顔がみるみる紫色に変わっていく。 清夏は必死で彼の手を叩きながら、やっとの思いで絞り出す。 「今度はほんとに知らないの......」 「知らない?ふざけるな」 遠真は冷笑しながら、彼女を庭の池のそばへと引きずった。 目の奥には、狂気めいた光が宿っていた。 「お前が小さい頃から水が怖いのは知ってる。泳げないんだよな?」 彼は膝をつき、彼女の手首を握りしめて、涙すら滲ませながらつぶやく。 「清夏、悪いな。今の俺には時間がないんだ。乃愛が一秒でも長く外にいたら、何があるか分からないんだ......」 そしてそのまま、ためらいなく彼女の頭を水に押し込んだ。 「素直になれ。考えが変わったら、手を挙げろ。な?」 冷たい水が口と鼻を塞ぎ、清夏はもがき苦しむ。 幼いころの記憶が、一気に蘇った――あの日、海辺で遊んでいた彼女は高潮にさらわれ、意識を失い、ひと月も命の危機にあった。 父は泣き明かし、やつれてしまった。 それを知った遠真は、いつも彼女を守ってくれたのに――今、こうして彼女を水に沈めているのも彼だった。 もう限界、という瞬間、彼のスマホが鳴った。 咄嗟に手を放し、電話を取る。 画面には、海辺で石に縛られた乃愛の姿。 意識を失っている。 覆面の男がナイフを手にして言った。 「この女、お前のお気に入りらしいな?身代金は二十億。払えば返してやる」 遠真は血の気を失い、慌てて叫ぶ。 「頼む、彼女に手を出すな!金なら出す!」 男はナイフの背で乃愛の顔をはたき、にやりと笑う。 「この誘拐な、清夏って女が仕組んだんだよ。だが報酬が少なすぎて、仲間たちが納得してねぇ」 「だからよ、あんたが知ってんなら、代わりにその清夏の足を一本へし折れ。金が入ったら、すぐ解放してやる」 遠真は慌ててスマホを庭の石垣に立てかけ、清夏を指さして叫ぶ。 「そこにいる!あれが清夏だ!」 そして唐突に彼女を抱き寄せ、濡れた髪を撫でながら言った。 「清夏、ごめんな。でも、これはお前の罪を償うためだ」 「怨むな。これからは、俺が......お前の足になる」 そう言うと彼は、彼女の足をきつく抱え――全力で、ねじり折った。 「ああああああっ!!」 絶叫が庭に響き渡る。 骨が砕ける感覚に、清夏は一瞬で汗まみれになり、視界が真っ暗になった。 遠真はその足をスマホに映し出し、叫ぶ。 「ほら、折ったぞ!これで満足か!」 画面の男が住所を告げる。 「金を持ってこい。そこで受け渡しだ」 彼は清夏をその場に放り出し、車に飛び乗って走り去る。 「これで最後だ。帰ったら、ちゃんと償うから」 エンジン音が遠ざかっていく中、清夏は必死に歯を食いしばりながら、物置から松葉杖を探し出し、空港行きのタクシーを呼んだ。 足を引きずりながら、一歩ずつ......一歩ずつ進む。 そして、ついに飛行機へ搭乗した。 機体が雲を突き抜けたとき、清夏は窓の外に小さくなる街を見下ろしながら、ようやく肩の力を抜いた。 スマホを取り出し、国内のすべての連絡先を次々と削除していく。 ――これで、すべて終わり。 ようやく、私は私の人生を始められる。 陸遠真――私の青春を台無しにした男。 もう二度と会わない。