雨は遅く、人は遠く

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「ボトルが指した人が、律真の『一晩だけの花嫁』ってことでどう?」 グラスの音が響く夜のクラブの個室で、誰かが冗談めかして神谷律真(かみ...

Chương (1)

第1章

「ボトルが指した人が、律真の『一晩だけの花嫁』ってことでどう?」 グラスの音が響く夜のクラブの個室で、誰かが冗談めかして神谷律真(かみや りつま)にそう提案した。 けれど、その場で部屋の隅に座る白川静乃(しらかわ しずの)へ視線を向ける者は、ひとりもいなかった。 それも当然のことだ。 ふたりが結婚して、もう四年。 周囲では「仮面夫婦」として有名だった。 誰もが知っている。律真は外では女遊びばかりで、ただひとり、妻の静乃には決して手を出さなかった。 静乃も分かっていた。彼は自分の身体を求めてはいない。代わりに欲しがっているのは――自分のすべての愛情だ。だからこそ、彼はいつも自分を試し続けていたのだ。 第1話 「ボトルが指した人が、律真の『一晩だけの花嫁』ってことでどう?」 グラスの音が響く夜のクラブの個室で、誰かが冗談めかして神谷律真(かみや りつま)にそう提案した。 けれど、その場で部屋の隅に座る白川静乃(しらかわ しずの)へ視線を向ける者は、ひとりもいなかった。 それも当然のことだ。 ふたりが結婚して、もう四年。 周囲では「仮面夫婦」として有名だった。 誰もが知っている。律真は外ではよく女遊びをするが、ただひとり、妻の静乃には決して手を出さなかった。 静乃も分かっていた。彼は自分の身体を求めてはいない。代わりに欲しがっているのは――自分のすべての愛情だ。だからこそ、彼はいつも自分を試し続けていたのだ。 たとえば、雪が降る夜に、わざわざ指定したお店のチョコレートを買わせに、往復十キロも歩かされた――それは、自分を試すためだった。 二年間、大事に育ててきた小鳥を放されてしまった――それは、自分の心の中でどちらが大切かを知るためだった。 あるいは、数日おきに別の女を家に連れ込み、夕食の席で目と目を交わし、わざと甘い仕草を見せつけられた――それは、自分が嫉妬する様子を見たかったからだった。 四年経っても、その試しは終わらなかった。目を覚ませば、また何かが始まる。この日も一日中、不安を抱えたまま過ごし、ようやく何事もなく一日が終わろうとしたのに、連れてこられたのはこの騒がしいクラブだった。テーブルの上でボトルが回る音に、静乃は現実へ引き戻された。 ボトルの口が止まったのは、赤いドレスの女。静乃は、その女を知っている。 ――水原詩織(みずはら しおり)。 律真の恋人たちは次々と変わっていったが、その中で詩織だけは長く続いていた。 「キス!キス!」 囃し立てる声に押され、詩織は律真の腕の中へと押しやられた。艶めくライトが揺れ、その下で静乃の目に映ったのは――得意げで、どこか期待を含んだ彼の視線。 その目には見覚えがあった。 律真が嫉妬を誘いたいとき、いつもああいう目で彼女を見る。そして静乃は、毎回涙をこらえきれずに問い詰めるのだった。「どうして?一番愛しているのは私じゃなかったの?」 けれど、今日は違う。静乃は、もう疲れてしまったのだ。 「お手洗いに行ってくる」それだけ告げて席を立ち、人いきれの中を抜け出した。扉を閉める直前に目にしたのは――詩織と唇を重ねる律真と、彼の不機嫌そうに眉をひそめる顔。 洗面所で水を全開にし、何度も顔を洗った。冷たい水が頬に触れ、ようやく胸のざわめきが静まっていく。 ――棘のあるやり方で愛を試しても、得られるのは離れ行く心だけ。 律真は、一生そのことに気づかないだろう。 静乃はスマートフォンを取り出し、自分と律真の電子署名データを弁護士に送信した。【離婚協議書を作成してください】 返事を確認すると、今度は継母へメッセージを送った。 【私はあの瀕死の冴木家御曹司と政略結婚しても構わない。ただし条件がある。私の母のお墓の前で、あなたが土下座して謝ること】 すべてを終え、もう一度顔を洗ってから、ゆっくりと個室へ戻った。 扉が見えてきた頃、中から賑やかな笑い声が聞こえてくる。誰かが律真に、今夜の「一夜だけの花嫁」に満足したかどうかを尋ねていた。 そんな声が聞こえた直後、周囲の期待を感じながら、静乃は無意識に指先にぎゅっと力を込めていた。 間を置かず、律真の声が響いた。「満足だよ。ああいう明るくて大胆な性格、俺すごく好きなんだ。静乃は違って、地味で真面目でつまらない」 その瞬間、静乃の唇から苦笑いが漏れた。 そして、目の奥がじんわり熱くなった。 ――地味で、真面目でつまらない。 彼はもう忘れてしまったのだろうか。 かつての自分は、まさに詩織のように、明るくて奔放で、どこまでも輝いていたことを。あの頃、彼は何度も懇願していた。「そんなに眩しいと、俺、不安になる。他の男に見られるのが嫌なんだ」 最初は、自分を変えるつもりなんてなかった。 でも――見知らぬ男に声をかけられた夜、その男の小指がベッド脇に置かれていた。 ただ見つめられただけで、家に三日三晩閉じ込められたこともあった。彼の目以外に、自分が映ることは許されなかった。 やがて、静乃は「いい子」になった。 赤いドレスも着るのをやめ、化粧も笑顔も封じ、代わりに無難な白いワンピースばかりを身にまとう。 表情も無くし、彼の後を静かに歩く。喜びも怒りも、哀しみも――すべて彼ひとりのためだけに。 ……それなのに、今の彼は明るくて大胆な子を好むと言っていた。 はっとして、静乃は涙を拭った。もう心なんて死んだと思っていたのに、まだ涙が出るなんて。 そのとき、スマホが光った。継母からの返信だった。 いいとも、嫌だとも書かれていない。たった一行――【半月後、海ノ市にある冴木家へ嫁げ】 第2話 静乃は最後にもう一度、個室の中を振り返った。律真は周囲のざわめきの中で、詩織を抱きかかえ、そのまま二人きりの部屋へ向かおうとしていた。 テーブルの上には、律真がわざと置いていったと思われるネクタイがあった。 静乃にはそれがわかっていた。あたかも激しいことがあったかのように見せかけるための演出だと。ただ、自分にネクタイを持たせ、一軒ずつドアを叩かせて、泣きながら「帰ってきて」と頼ませるための仕掛けにすぎなかった。そんなことはこれまでも何度も繰り返されてきた。 だが今回は、静乃は見なかったふりをした。 さっとタクシーに乗って帰宅し、軽くシャワーを浴びると、そのままベッドに入った。 うつらうつらと眠りかけた深夜、外では突風が吹き荒れ、激しい雨が窓を叩いていた。静乃はその音に驚き、身体をぎゅっとすくめた。携帯を見ると、もう午前五時を過ぎていた。隣のベッドはひんやりと冷たく、律真は今夜戻らないことはわかっていたはずなのに、心のどこかで期待していたのかもしれない。どうしようもなく、胸の奥にわずかな失望が広がった。 再び眠ろうとしたそのとき、不意に背後から誰かに抱きしめられた。 「静乃、怖がりなの知ってるから……帰ってきたよ」 律真の声が耳元でそっと囁かれた。彼は優しく耳たぶに触れてきたが、その身体からは明らかに他の女の香水の匂いがした。 静乃はゆっくり身を翻した。暗がりの中でも彼の瞳がはっきり見えた。 「律真……わたしのこと、愛してる?」 「もちろん」 律真は迷いなく答えた。 その返事を聞いて、静乃は彼の手を引き寄せ自分の身体に当て、そっと唇を重ねた。唇と唇が重なり、互いに求め合うように熱を帯びていく。けれど、いざ最も深く結ばれようとしたその瞬間――律真は静乃を突き放した。 同時に、まばゆい照明がパッと灯った。 静乃の目に飛び込んできたのは、ずぶ濡れの彼の髪。彼は間違いなく、あの土砂降りの中急いで戻ってきたのだ。自分のために。 彼は愛しているように見える。でも同時に、まるで愛していないようでもあった。 「どうして?」静乃は静かに問いかけた。 律真は黙って布団を引き寄せ、彼女を包み込んだ。そして自身の服を整えながら、淡々と言った。「結婚する前から、これは『形式だけの結婚』って決めてたよね。……あまり踏み込みすぎないで」 その言葉を口にするとき、彼は静乃の目を見ようとはしなかった。けれど彼の首筋には、くっきりとキスマークが浮かんでいて――見せつけるかのようなその痕が、静乃の視界にはっきりと映った。 静乃はじっとその痕を見つめた。律真と詩織がどれほど激しく愛し合ったのか、想像せずにはいられなかった。 形式だけの結婚だなんて、よくそんなことを言えたものだ。 心の奥にわずかに灯っていた希望の光が、今まさに消えようとしていた。静乃は何も言わず、冷たい水でシャワーを浴び、そのまま書斎へ向かった。 外では雷鳴が鳴り響いている。昔は雷が鳴るたびに律真の腕の中に飛び込んでいたのに―― 今では一人でも怖くなくなっていた。 一晩中降り続いた雨は、翌朝になってやっと止んだ。 静乃が寝室から出てくると、リビングには見慣れない人影があった。 「……詩織?」 赤いドレスをまとい、スーツケースを引く詩織がこちらを見て、にっこりと笑った。その身体には昨夜の名残を思わせる痕が生々しく残っていた。「そうよ。今日からここに住むことにしたの」 その言葉と同時に、律真はソファで呑気にコーヒーを飲んでいた。だが静乃は彼が聞いていることを知っていた。彼が読んでいた雑誌を逆さまに持っていたのだから。 「律真にとってはただの遊びよ。本気で自分がこの家の女主人だなんて思ってたの?あなたの居場所なんて、最初からないのよ」 その言葉に、律真の唇がわずかにほころんだ。 だが次の瞬間、彼は無表情で立ち上がり、詩織の腰を抱いた。「俺が呼んだんだ。この家は白川じゃなくて神谷家だ。お前がここにいていいなら、彼女がいちゃいけない理由があるか?」 「……好きにすれば」 そう言って静乃は部屋に戻ろうとした。だが背後から律真の苛立った声が飛んできた。 「静乃。お前は俺の妻だ。『好きにすれば』ってどういう意味だ?」 静乃は足を止めたが、振り返らずに言った。 「『好きにすれば』っていうのは……妻じゃなくてもいいってことよ」 どうせあと半月もすれば、自分は他の人の妻になるのだから。 そう言い残して寝室へ戻った静乃は、律真の目が驚きに見開かれ、眉間にしわを寄せたことにまったく気づかなかった。 第3話 静乃は、半日ものあいだ部屋に閉じこもっていた。 その間も、律真と詩織の楽しげな笑い声が、わざとなのか無意識なのか、扉の隙間から何度も漏れ聞こえてくる。静乃は何も聞こえないふりをした。 昼どきになり、部屋のドアがノックされたかと思うと、次の瞬間には律真が中へ入ってきた。 「まだ、嫉妬してるのか?」 そう言って彼は静乃の隣に腰を下ろし、穏やかな口調で、眉のあたりには笑みを浮かべていた。 静乃はそっぽを向いた。「別に、嫉妬なんてしてないわ。だって、あなたの妻なんて誰にでもなれるようなものなんでしょう?でも私は違う。そんな私が、誰に嫉妬する資格があるの?」 その言葉を聞いた途端、律真の表情はさっと冷たくなった。 長い沈黙のあと、彼はふっとため息をついた。 「……静乃、お前もわかってるだろう。いちばん愛してるのはお前なんだよ。そんなの、怒ってるから言ってるだけで、本心じゃないってのはわかってる」 そう言いながら、彼は静乃の耳元にかかる髪を指先で優しく整えた。思いがけない仕草に、静乃はほんの一瞬、驚きの表情を浮かべた。 まさか、律真が……自分の機嫌を取ろうとしている? そんなこと、今までなかったのに。 だが、次の瞬間、彼の口から出た言葉は違った。「今日は詩織の誕生日なんだ。パーティーを用意してある。一緒に来てくれ。あまり顔をしかめて、雰囲気を壊さないで」 その一言に、静乃は思わず律真を見つめた。揺れる瞳には、自分自身への虚しさが浮かんでいた。 ようやく彼が折れたかと思えば――それは、愛人の誕生日パーティーに連れて行くためだったなんて。 「……もし行かなかったら?」 律真の顔が一気に険しくなった。「お前が来なければ、詩織が周囲からどんな目で見られるかわからない。お前がそこにいてくれさえすれば、彼女への風当たりも和らぐ。だから、これはお前の意思だけで決められることじゃない」そう言い捨てると、律真は立ち上がって出ていった。するとすぐに誰かが部屋に入ってきて、静乃を無理やりパーティー会場へと連れて行った。 誕生日パーティーの会場を見渡せば、知らない人はきっと、律真の妻のための祝いだと勘違いするだろう。 そこかしこに、贅を尽くしたきらびやかさが溢れていた。 「律真社長、今回の誕生日パーティーには相当な額をかけたって聞きましたけど……本当に驚かされました」 「律真社長の奥さんが羨ましいわ……こんな素敵な男性が国内にいたなんて、知ってたら私、海外になんて行かなかったのに」 周囲のひそひそ話が、はっきりと静乃の耳に届く。 ――その「律真の奥さん」とは、どうやら詩織のことらしい。 静乃は袖の中でそっと拳を握りしめた。爪が掌に食い込んでいるのにも気づかないほどに。 ここまできて「律真の奥さん」と呼ばれているのが自分でないのなら、それはもう、哀れとしか言いようがなかった。 「今日はお忙しい中、私の誕生日パーティーにお越しくださってありがとうございます。私はあまり堅苦しい挨拶は苦手なので、まずは皆さんに三杯、お付き合わせてください」 詩織は主賓の席でグラスを持ち、完全に「律真の妻」のような態度でそう言った。 赤いドレスに腰まで伸びた巻き髪。濃いメイクを施したその顔には、まばゆい笑みが浮かんでいる。 たしかに律真の言った通り、詩織は目立っていて、そして生命力に満ちていた。 そして、律真の視線はずっと詩織に向けられていた。その目には、隠そうともしない好意が宿っていて……静乃は一瞬、本気で悩んだ。彼は自分を怒らせたいだけなのか。それとも、本当に……心を奪われたのか? でも、もうどうでもよかった。 静乃は立ち上がり、無表情で口を開いた。「お誕生日おめでとう、詩織――いえ、奥さん。私は用事があるので、これで失礼するわ」そのまま立ち去ろうとしたが、詩織が静乃の前に立ちはだかった。 「私は、あなたの座を奪うつもりなんてないわ。本当の律真の妻はあなたよ。あなたがいなくなってしまったら、私はきっと寂しくて悲しいわ。」 その言葉に、周囲の人々がざわめいた。 「えっ、あの人が本物の奥さん?そう見えないわね。あんな地味な格好してたから、律真社長の親戚か何かかと思ってたわ」 「これはまさか……正妻vs愛人の修羅場?こういうの、見たかったのよ」 「愛人?いやいや、誰が見ても律真社長が愛してるのは詩織さんでしょ?ほんとの『奥さん』が誰なのか、これはもう分からないわね」 まるで静乃に聞かせるかのように、彼女たちは好き勝手に言葉を並べ立てた。 律真はソファにもたれかかりながら、腕時計をいじり、興味ありげに静乃の方を見つめていた。まるで彼女の次の言葉を待ち望んでいるようだった。 「私に残ってほしいなら……もっと誠意を見せてください」 静乃は詩織に向かってそう言った。だが視線の先には、律真がいた。案の定、彼の目にはうっすらと満足げな色が浮かんでいた。四年のあいだ、彼はずっとこうして静乃が自分に嫉妬し、周囲の女性と張り合う姿を、喜んで見ていた。 まるでそうしなければ、彼女の愛を確かめられないとでも言うように。 たとえ静乃が家事をしたことのないお嬢さんから、料理を作る主婦に変わろうとも、四年間、肌を重ねることすらなかった形式だけの結婚にも耐えてきたことも、……彼には何ひとつ届いていなかったのかもしれない。 「いいわ」詩織はあっさりそう言うと、酒瓶を手に取り、そのままぐいと飲み干した。 十数本の酒を空けた頃には、詩織の目はすでにとろんとしていたが、なおも飲み続けていた。すると律真が突然立ち上がり、詩織の肩を抱いて止めた。そして、見下すような態度で静乃に言った。「……もういい加減にしておけ」 その姿を見た瞬間、静乃は言いようのない疲れを感じた。 彼女はゆっくりと頷き、一言一句、言葉を刻むように口にした。 「じゃあ、私も誠意を見せるね。ふたりが早く赤ちゃんに恵まれますように。末永く、お幸せに」 そのまま振り返ると、静乃は迷いなく、会場を離れた。 第4話 静乃はひとりで街中を歩いていた。冷たい風が吹き、思わず両腕をさすって身を縮めた。 ふと、律真と付き合い始めたばかりの頃のことを思い出した。彼はいつも、自分のコートをかけて「俺のものだ」と言わんばかりに示してくれた。でも今、そのコートはきっと、もう別の誰かのものになっているのだろう。 「静乃!」 後ろから自分の名前を呼ぶ声に、彼女が振り向くと、律真が追いかけてきていた。 彼の身体には酒の匂いがまとわりついていて、寒風のなか、真っすぐ彼女を見つめながら言った。「最近、なんで全然嫉妬してくれないの?お前、昔はそんなふうじゃなかったよな」 「もう、俺のこと……愛してないんだろ?」 その言葉に、静乃は思わず笑いそうになった。 一番この質問を口にする資格がないのは律真だというのに。 「じゃあ、どうすれば信じるの?どうすれば、私があなたを愛してるって思えるの?律真……私が死ななきゃ、あなたは納得しないの?そうなんでしょ?」声を荒げる静乃の瞳には、涙が溢れていた。 律真は一瞬息を呑み、黙り込んだあと、そっと答えた。「……そうだ」 次の瞬間、静乃は何の迷いもなく車道へと駆け出した。ブレーキ音が響き、間に合わず突っ込んできた車が彼女をはね飛ばした。意識が遠のく直前、律真の顔が見えた。驚き、戸惑い、どうしようもなく動揺している――そんな顔だった。 目を覚ますと、病院にいた。 静乃が薄く目を開けると、病室の傍らで律真がお粥をかき混ぜていた。落ち着いた表情で、丁寧にスプーンを動かしている。まるで恋人同士だった頃のように。 あの頃、自分が体調を崩すたびに律真は側を離れず、赤い目で言ってくれた。「静乃、一生そばにいさせてくれ」 自分が苦しいとき、律真はそれ以上に苦しんでくれた。 そんな記憶がよみがえり、静乃は思わず鼻の奥がつんと痛くなった。 「律真……」 名前を呼ぶと、その瞬間、律真の目が冷たく光った。「静乃、お前って……死んでも『愛してる』の一言すら言ってくれないのか?」 言葉を失ったまま、静乃は凍りついた。 そうか――彼の中では、自分が命を賭けても、まだ「愛」とは呼べないらしい。 「そうね」静乃は静かに口を開いた。律真は眉間にしわを寄せたが、静乃は続けた。「私はあなたを愛してない。律真、あなたは狂ってる。そんなあなたを、誰が愛せるの?」命をかけても信じてもらえない。そんな関係、そんな結婚――もう耐えられない。 もう、愛する力すら残っていない。 律真は不気味に笑った。目は狂気に満ち、声には棘があった。「信じないよ。静乃、お前は俺が何をしても、絶対に俺を愛してるはずなんだ」 その言葉に、静乃は危機感を覚え、身を引きながら警戒の目を向けた。「何をするつもり?」 「詩織に謝ってくれ。お前が無理をさせたせいで、彼女はアルコール中毒になって、胃洗浄までしたんだぞ。お前なんか、ちょっと擦り傷を負ったくらいで……よくも平然とベッドに寝ていられるな?」 「私が……謝る?」 静乃は呆れて、乾いた笑いがこぼれた。 だが、反論する間もなく、彼女は律真にベッドから引きずり下ろされ、そのまま詩織の病室へと連れて行かれた。 そこにいた詩織を目にした途端、律真の態度はがらりと変わった。ベッドの傍にひざまずき、優しい声で語りかけた。「詩織、静乃がちゃんと謝りに来たよ。さっき胃洗浄したばかりだろ?これ、お粥。冷ましておいたから、ちょっとだけでも食べて」 ――そのお粥は、自分のためのものではなかった。律真が丁寧に詩織におかゆを食べさせる様子を見て、静乃はようやくすべてを理解した。 自分は、またしても一瞬、勘違いをして感動していたのだ。 立ち尽くす彼女の傷口は、じんじんと痛んでいた。足元もおぼつかない。一方、さっきまで「胃洗浄をしたばかり」と言われていた詩織は、血色もよく、元気そのものだった。 「謝って」 律真が低く命じた。 静乃はかたくなにその場を動かなかった。もう一度、律真がその言葉を繰り返したそのとき、詩織がそっと彼の手を握り、優しく微笑んだ。 「律真、今日のことは私が軽率だったの。彼女を責めるつもりはないわ。だって彼女はあなたの奥さんなんでしょう?祝福の一言が欲しかっただけなの」 「奥さん?」律真は冷笑する。「彼女の祝福と謝罪がそこまで貴重だというのなら――同じくらいの代償を払ってもらわないとな」 そう言って、律真は部屋に大量の酒瓶を運び込ませた。 静乃は怯えたように、半歩後ずさった。「私は飲めない。知ってるでしょ?」 昔、律真の仕事に付き合って酒の席に出たとき、無理に飲まされて胃に穴があいた。医者からは、これから一滴も酒を口にしてはいけないと強く言われた。 ――それを、律真は知っているはずだった。 第5話 「じゃあ、詩織は飲めるって言うのか?」 律真の目は鋭く光り、その声には反論の余地がなかった。 静乃はしばらく黙り込み、ゆっくりと頷いた。「わかった、飲むわ」もう限界だった。これ以上言い争いたくなかった。ただ眠りたかった。もし飲むことで律真が放っておいてくれるのなら、それでいいと思った。 あまりにもあっさり承諾した静乃に、逆に律真は気に食わなかったらしい。 彼は彼女の前に歩み寄り、見下ろすように問いかけた。「お前が飲むのか?」 「静乃、俺に大事に思ってほしいんじゃないのか?」 静乃は答えず、ただ身をかがめて一本の酒瓶を拾い上げた。その揺るがぬ態度に律真の目は狂気を帯びていった。「俺に頼むくらいなら酒を飲む方がいいってか?そんなに飲みたいなら……全部飲み干せ」 次の瞬間、律真は容赦なく彼女の顎をつかみ、無理やり酒を口に流し込んだ。 胃が焼けるような痛みと吐き気に襲われ、静乃は床に崩れ落ちた。 律真の瞳に一瞬だけためらいがよぎったが、その手は止まらなかった。 最近の静乃は、おとなしくなかった。 だからこそ彼は教え込もうとしていた。――妻という役割を。 どれほどの時間が過ぎたのだろう。静乃はもはや虫の息で、口元から酒がこぼれ続けていた。 焦点を失った瞳は、生気をすっかり失っている。 その時、病床の詩織が急に口を押さえ、えずくように何度か喉を鳴らした。そして勢いよくトイレへ駆け込み、激しい嘔吐の音が響き渡る。律真は慌てて医者を呼びに行った。だが静乃は、床に横たわったまま微動だにせず、胃の奥をえぐるような灼熱感に呑み込まれていた。 ――どうして、自分はあの人を見誤ったのだろう。 医師や看護師たちは、まるで彼女がそこにいないかのように出入りし、その体をまたいで行った。 律真も視線すら向けなかった。 どれほど経っただろう。病室に驚きと喜びが入り混じった声が響いた。「妊娠してる?!」 その言葉に、静乃の心がかすかに動いた。 ――詩織が……妊娠? かつて何度も律真に「子どもがほしい」と願ったが、そのたびに拒まれた。 「俺たちは形式だけの夫婦だ。子どもを作る気はないし、お前には触れもしない。諦めろ」彼はそう冷たく言い放った。 それなのに「子どもを作る気はない」と言い続けた夫が、別の女との間に命を宿している。 律真が大事そうに詩織を支える姿を見た瞬間、静乃の心は崩れ落ちた。床に横たわり、泣き笑いしながら、心はまるで何千匹ものアリにかじられているような痛みで、麻痺しそうだった。 酒で焼ける胃の痛み、事故の傷の疼き、そして心の裂け目―― 静乃は、自分の身体のあちこちが痛んでいるように感じた。 やがて、視界が闇に沈んだ。 ――詩織が妊娠しているなら、律真は堂々と自分と離婚し、彼女を「奥さん」に迎えるだろう。静乃はそう思っていた。だが目を覚ました時、自分は手術室へ運ばれる途中だった。 「律真、あなた……何をするつもり?」 彼女は立ち上がろうとしても、手足はベッドに縛られ、指一本動かせなかった。 律真はストレッチャーの横を歩きながら彼女の頬に手を触れた。 「詩織が妊娠したんだ。静乃、お前、ずっと子どもがほしいって言ってただろ?だから、詩織の子をお前の子宮に移すんだ。これでお前も母親になれる。嬉しいだろ?」 あまりにも突飛な言葉に、静乃は耳を疑った。 かつて、飢えた野良猫に餌をやり、うっかり踏み殺した蟻にも罪悪感を抱いていたあの律真が――まさか、自分の子宮を切り開き、不倫相手の子を移植するなどと、そんな言葉をあっさり口にするとは思ってもみなかった。 「……何を言ってるの? 律真、本気で言ってるの?放して! そんなこと、絶対に許さない!お願い、放して……」 必死に叫んでも律真の体は微動だにしなかった。声を震わせてさらに懇願した。「もう子どもはいらない……律真、お願い、放して……離婚しよう、ね?」 ――あと二週間もしないうちに、自由になれるはずだった。 なのに彼は、このタイミングで「子ども」を与えようとしている。 冷たい手術室に押し込まれ、麻酔が体を支配していく。 意識が遠のく中、ただ一筋の涙が頬を伝った。 ――自分って……本当に哀れだな。 第6話 静乃と詩織は、ほとんど同じタイミングで目を覚ました。 目を開けると、静乃のすぐそばで看護師たちがひそひそ話をしていた。 「隣の病室の詩織さんって、本当に運がいいよね。あんなにかっこよくて、しかも一生懸命支えてくれる彼氏がついてるんだから。聞いた話じゃ、海外から一流シェフを呼んで、彼女のために栄養価の高いスープを作らせてるんだって」 「私も見たの!しかも彼、自分の手で食べさせてあげてたのよ。私もあんなふうに幸せになれたらいいなぁ」 その話が静乃の耳に飛び込んできた。 彼女は天井を見つめたまま、目の焦点を失い、胸の奥からじわじわと苦い感情が広がっていく。 ――律真、あなたは一体どこまで私を苦しめれば気が済むの?どうすれば私を自由にしてくれるの? 静乃の指がゆっくりと拳を握り締めた。気のせいかもしれないが、彼女ははっきりと腹の中に小さな命の存在を感じ取った気がした。無意識にその手を下腹部へ伸ばし、触れた途端、涙がひと粒こぼれ落ちる。 かつて何度も、子どもを授かることを夢見ていた。 しかし、その願いを律真は一度たりとも受け入れてはくれなかった。 そして今、ようやく宿った小さな命は――夫と別の女性の子どもだった。 静乃の瞳から、絶望そのものの涙があふれ出す。次の瞬間、彼女は拳を振り下ろし、自分の腹を何度も叩きつけた。 いらない。この子は――いらない。 律真と、もうこれ以上、何のつながりも持ちたくない。 縫ったばかりの傷口はあっという間に裂け、鮮血が患者服を染め、白いシーツを真っ赤に滲ませた。あまりの惨状に、ようやく看護師が異変に気づき、悲鳴を上げて駆け寄った。「静乃さん!何をしているんですか?早く!早く医者を呼んで!」 「呼ぶ必要はない」 低く震える声が響いた。 看護師と静乃が同時に振り向くと、そこには律真が立っていた。 腕には花束――だが、その茎は握りつぶしそうなほど強く握りしめられていた。看護師は彼が隣の病室の「彼氏」だと悟ると、空気を読んでそっとその場を離れた。 静乃は一瞬ためらっただけで、再び自分の腹を打ちつけた。 手術明けの身体は脆く、少しの動きで息が詰まり、意識が飛びそうになった。顔は血の気を失い、雪のように白くなった。 律真は二、三歩で駆け寄り、花束を投げ捨てると同時に、彼女の手首をがっしりと掴んだ。額から汗が滑り落ちるのを見つめながら、歯を食いしばった。「……俺と子どもを持つのが、そんなに嫌なのか」 静乃は大きく息を吸い込み、視界の端が真っ暗になる中、冷や汗が目に入り、その痛みで少しだけ意識を取り戻した。 「ええ、吐き気がするわ」 予想していたはずの答えだったが、律真の顔にははっきりと傷ついた色が浮かんだ。 彼は、鮮血に染まった静乃の下腹部に視線を落とし、その表情には耐え難い痛みと悔しさが入り混じっていた。「どうしてだ。お前はずっと子どもを欲しがっていただろう」 「律真……あなた、私を侮辱してるのよ」掴まれたまま手を振りほどけず、それでも静乃の表情にははっきりした嫌悪が浮かんでいた。「十九であなたと付き合い始めて、三年間恋人で、四年間の夫婦――七年もの時間を全部あなたに捧げたのよ!それなのに…… 私を試すためだけに、わざと嫌がらせをして、いくつものくだらない仕掛けで私を苦しめ続けて…… あなたみたいな人間に、子どもを持つ資格なんてない!」 一言一言がまるで血を吐くようで、胸が張り裂けそうだった。思えば、この数年の自分を、今すぐ過去に戻って殴りたいほどだ。 律真の全身が怒りで震えた。しかし、その手は決して彼女を離さなかった。 目の端に赤みが差し、二人はただ互いを睨み合う。視線の奥では、愛と憎しみが絡み合っていた。 やがて律真は、ふっと冷たい笑みを漏らした。唇を引き結び、指先で涙を無造作に拭った。「子どものことは、お前が決めることじゃない。静乃、家に帰るぞ。医者はもう呼んである。お前は家で治療を受ければいい」 そう言うや否や、彼は静乃を力任せに抱き上げ、そのまま病室を出た。 静乃は全身で抵抗し、足で蹴り、手で叩いた。 「下ろして!律真!このクズ!」 彼女の悲鳴は廊下中に響き渡ったが、誰一人止めようとはしなかった。治療に駆けつけた医師ですら足を止めた。律真の気まぐれな性格は有名で、誰も敵に回そうとはしなかった。 こうして静乃は律家へと連れ戻された。 律真は彼女を寝室に閉じ込め、食事は一日三食、ベッドまで運ばせる。医師は一時間ごとに容態を確認し、逃げ出す隙など与えなかった。 静乃は毎日のように喉が枯れるまで律真を罵り、その声は家中に響き渡った。 そんなある日、部屋があまりに静かだったため、律真は慌てて扉を開けた。そこには、薬をおとなしく口に運ぶ静乃の姿があった。 「……静乃、やっと考え直してくれたのか」 律真は胸をなで下ろした。 静乃は真っ直ぐに律真を見つめた。「律真……私、家に帰る。お父さんが……もう長くないの」 第7話 律真の顔色がさっと変わり、一緒に帰ると言い出した。 「いいえ、一人で帰るわ。少し……お父さんと話がしたいの」そう言って律真の申し出を断ると、静乃はゆっくり立ち上がり、彼の目の前で服を着替え始めた。律真は眉をひそめながらも、どこか心配そうな表情で彼女を見つめていた。 玄関を出る直前まで、薬を忘れないように、体に気をつけるようにと何度も念を押してきた。 廊下の隅では、使用人たちが小声でささやき合っていた。 「奥さま、あんなに旦那さまを罵ってたのに、それでも甘やかされて……本当に贅沢だわ」 「そうよ。自分で帰るって言ったら、本当に帰らせてくれるんだもの。これが信頼じゃなくて何なの?」 …… そんな声は、歩くごとに遠ざかっていった。 静乃は細めた目で久しぶりの陽射しを見上げ、胸の中が驚くほど静まっているのを感じた。 あと三日。 それを過ぎれば冴木家へ嫁ぎ、律真から完全に解放される。 「奥さま、お乗りください」 車に乗り込んだ静乃は、車内のあちこちに設置された監視カメラを見やり、ふっと冷たい笑みを浮かべた。さきほどの使用人たちの言葉が頭をよぎるが、彼女には滑稽にしか思えない。 信頼? 本当に信頼しているなら、何日も家に閉じ込めたりしない。 本当に信頼しているなら、外出した途端に継母へ電話して事実確認などしない。 そして――本当に信頼しているなら、車に監視カメラなんてつけるはずがない。 だが構わない。ほんの束の間でも律真の家から離れられるのなら、この忌まわしい子を堕ろす方法はいくらでもあるのだ。 三十分後、白川家。 玄関をくぐった瞬間、足元でガラスが割れる音が響いた。静乃は反射的に跪いた。目の前には、病に伏しているはずの父が立っていた。 「お前……綾子に、母さんの墓前で土下座させたそうだな? 親不孝にもほどがある!」 「そうよ! あの女はお母さんを殺したのよ。跪いて当然じゃない!」突然の反論に、父は一瞬驚いた。 長年、何かあればすぐ膝をつき、逆らわない娘の姿に慣れきっていたからだ。 だが今の静乃は怯むどころか真っ向から言い返した。父の顔はみるみる怒りに染まり、杖を振り上げ、背に叩きつけた。鈍い衝撃が走り、静乃は床にうつ伏せた。 「大げさな……背を打っただけだ。腹なんて押さえてどうする」 静乃は怒りに燃える目で父を見上げ、睨み返した。そして、さらに挑発するように言い放った。「私を呼び戻したのは、不倫でのし上がった女に謝らせるため? 冗談じゃない! 私の人生はあんたに壊された! 母さんの墓を脅しに使われなければ、私はこんなに何度も結婚するはずじゃなかった! あんたなんか父親になる資格はない!」 その言葉に、父は理性を失い、拳と足を容赦なく振るった。 静乃は冷たい床に跪き、逃げる素振りも見せず、むしろ腹を狙わせるように身を動かした。 ――こんな子、いっそ父の手で殺してしまえばいい。 鈍い痛みが下腹部に広がり、成功を確信しかけたそのとき、律真が突然部屋へ飛び込んできた。 視界が暗転する直前、白川家を律真の部下たちが取り囲む光景が見えた。 あと少しだったのに…… あと少しで、この子を…… 律真は再び静乃を屋敷に閉じ込めた。子を故意に堕ろそうとしたと知り、仕返しのつもりなのだろう。二日間、一度も姿を見せず、医者だけを側につけておいた。 その間、静乃のスマホには匿名の写真や動画が途切れることなく届いた。 どれも律真が別の女と親しげにしている場面ばかりだ。 以前なら胸が締めつけられ、嫉妬に苛まれ、その場で電話をして怒鳴り合っただろう。 だが今の静乃は驚くほど冷め切っていた。むしろ、早く身を引きたいとさえ思うほどに。 三日目、ようやく律真が部屋の扉を押し開けた。 きつい酒の匂いをまとい、入るなり静乃の首をつかみ上げ、血走った目で詰め寄った。「どうして電話してこない? どうして俺を呼び戻さない? お前は前と違う……もう俺を愛してないのか?」 静乃はすぐには答えず、灰色に沈んだ瞳で彼を見返し、やがて静かに口を開いた。 「律真……どうすれば、あなたは私を放してくれるの? 死ねばいいの?」 「たとえお前が死のうとも、その魂は手放さない」 律真は吐き捨てるように言い、力を少し緩めたが、それでも首をつかんだままだった。 次の瞬間、唇を奪おうと顔を寄せた。 静乃は力任せに噛みついた。怒鳴られるかと思いきや、律真はそのまま酔いに負けてベッドに倒れ込んだ。静乃は全身の力を振り絞って彼を押しのけた。先ほどの言葉が脳裏でこだまする。――死のうとも、魂は手放さない。 そのとき、机の上のスマホが光った。 【今日、冴木家へ嫁ぐ。忘れないように】 しばらくして、静乃は虚ろな体を起こし、ライターを取り出して書斎に火を放った。 火は瞬く間に広がっていった。最後にもう一度、眠り込む律真を見つめた。 ――さようなら、律真。 私が死んでも放さないというのなら、あなたに死んでもらうわ。