人は移ろい、月は変わらず

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人は移ろい、月は変わらず

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「結城夫人、この献体同意書に署名なさいますか?」 「はい、決めています」 桐原静葉(きりはらしずは)の声には迷いはなく、淡々としてい...

Chương (1)

第1章

「結城夫人、この献体同意書に署名なさいますか?」 「はい、決めています」 桐原静葉(きりはらしずは)の声には迷いはなく、淡々としていた。 医師も、彼女の余命がせいぜいあと半月だということを知っていた。それ以上は引き止めず、ただ慎重に確認した。「では……結城社長とはご相談されましたか?もしご存知なければ、その時は……誰もただでは済みません」 結城修司(ゆうきしゅうじ)が妻を命懸けで愛していることは、誰もが知っていた。 彼の許可なく静葉の遺体に手を付けようものなら…… 静葉は自嘲的に微笑んだ。「心配いりません。きっと……彼も知っているはずですから」 彼女が死ぬその日になって、 修司は知ることになる。 第1話 「結城夫人、この献体同意書に署名なさいますか?」 「はい、決めています」 桐原静葉(きりはらしずは)の声には迷いはなく、淡々としていた。 医師も、彼女の余命がせいぜいあと半月だということを知っていた。それ以上は引き止めず、ただ慎重に確認した。「では……結城様とはご相談されましたか?もしご存知なければ、その時は……誰もただでは済みません」 結城修司(ゆうきしゅうじ)が妻を命懸けで愛していることは、誰もが知っていた。 彼の許可なく静葉の遺体に手を付けようものなら…… 静葉は自嘲的に微笑んだ。「心配いりません。きっと……彼も知っているはずですから」 彼女が死ぬその日になって、 修司は知ることになる。 臓器提供の記念証明書を持って帰宅すると、慌てて靴を履き替えている修司とばったり出くわした。 彼は彼女の姿を見るとほっと息をつき、すぐに抱きしめて冷たい手を温めながら言った。「静、どこに行ってたんだ?使用人は昼過ぎに出かけたまま戻らないと言うし、ずっと待っていたんだ。今から探しに行こうとしていたところだ。 外は雪が降っているのに、風邪を引いたらどうするんだ?」 修司の目は心配でいっぱいだった。 過去十年間、静葉はこのような彼の激しい愛情に溺れ、抜け出せずにいた。 静葉は美しかった。 正真正銘の美人の顔立ちで、幼い頃からアプローチする人が絶たなかった。 しかしすべて断ってきた。 誰がどうしようと、幼馴染の修司にはかなわなかったから。 修司は高校二年生の時に想いを打ち明け、大々的に彼女を追いかけ始めた。 彼女が花火を楽しみにしていると知ると、毎年誕生日には街中で大規模な花火を打ち上げた。 静葉が深夜にインスタで【東のあの店のおでんが食べたい】とつぶやけば、修司は夜中にもかかわらずから市の南側から東側まで車を走らせ、途中で交通事故に遭って足を負傷しても、真っ先に病院に行かず、足を引きずりながら静葉の寮までおでんを届けた。 周囲から天才と称される男が、そんなにも純粋な心で、静葉を四年間も待ち続けたのだ。 そしてついに、静葉も心を動かした。 結城家の御曹司と、桐原家の恥ずかしい存在である私生児。 さらに静葉は免疫疾患を患っており、遺伝のリスクがあるため、結城家が二人の交際を許すはずもなかった。 だが修司は恐れなかった。 家族全員に反対されながらも、静葉以外とは結婚しないという決意を示すため、二人の腕にカップルタトゥーまで彫った。 SJ。 SZH。 結城家の唯一の跡継ぎである彼をこれ以上追い詰めることを恐れ、家族はようやく諦めた。 静葉も一度は退こうとした。 しかし修司は許さず、真っ赤な目で彼女を抱きしめながら懇願した。「静、君さえいれば僕は何も恐くない。遺伝のことが心配なら、子供は諦めればいい。 誰でも逃げられるが、君だけはダメだ」 その言葉の端々に、涙声が混じっていた。 交際が始まってからも、修司は「手に入れたら大切にしなくなる」という周囲の予想に反し、むしろ心まで捧げるほど、静葉を愛し続けた。 大学を卒業するや否や、彼女に逃げられまいと大々的にプロポーズ。 結婚式当日には、自らが持つ結城氏グループの全株式を静葉に譲渡した。 結城家の者たちは焦りと怒りで騒然とした。 しかし彼は涼しい顔で一言。「何を焦っている?彼女は僕の妻だ。彼女が喜ぶなら、株式どころか命だって惜しくない。 僕は一生、静なしでは生きられない」 静葉は涙を浮かべながら、彼を見つめて微笑んだ。 新婚の夜、彼が息を弾ませている最中、静葉は柔らかな声で囁いた。「修司、私はあなたを愛している。でも私が愛しているのは、私を心から愛してくれるあなただ。もしあなたが裏切ったら、二度と私を見つけられないようにしてやる」 最も柔らかな口調で、最も冷酷な言葉を放つのが、静葉の性格だった。 修司は慌てて、初めて厳しい口調で言った。 「静、死んでも君を裏切るなんてありえない」 当時の彼女はまさかその言葉が現実になるとは夢にも思わなかった。 そして実際、修司はもう彼女を見つけられなくなった。 死者を見つけることなど、誰にもできはしない。 かつての誓いは、今や全て笑い話に過ぎなかった。 先日、彼女は修司に他の女がいることを知った。 それも、名目上の妹である。 結城家の養女だった。 今、静葉は彼の体から漂う入浴後の香りを嗅ぎ、突然吐き気を覚えた。 「友達と買い物に行っていただけだ」 そっと彼の抱擁から身を引きながら、適当にそう答え、尋ねた。「こんな早い時間にお風呂に入ったの?」 「ああ、そうだ」 修司は平然と嘘をついた。 「和田鈴(わだすず)がどうしても焼肉が食べたいと言うから、全身に臭いが染みついてしまって。君が嫌がると思ってすぐにシャワーを浴びた」 焼肉の臭いを落とすためだったのか。 それとも鈴が彼に残した痕跡を消すためだったのか。 静葉は上の空でコートを脱ぎ、背後で気を遣う修司の言葉を聞き流した。 「彼女は長く海外にいて、こちらの事情に疎いからな。妹として面倒を見る義務があるんだ。 静……」 静葉の様子がおかしいことに気づき、彼は慌てて確認した。「怒ってないよね?もし気にしているなら、これからは距離を置くようにするから」 静葉は微笑んだ。「それなら、彼女を社長室から外してくれる?他の部署に移すだけでいいの」 二ヶ月前、鈴が帰国すると、すぐさま結城氏グループの社長室に配属され、修司の秘書となっていた。 修司はたじろぎ、困惑したように言った。「静……」 静葉は笑って見せた。「冗談よ」 どうせ、彼女の命は長くない。 半月後、修司の秘書が誰かは、もはや彼女には関係のないことだった。 第2話 静葉は部屋に戻った。 臓器提供の記念証明書を引き出しにしまおうとした時、修司が入ってきて、彼女の手を止めた。 「静、これは?」 「これは……」 静葉は適当にごまかそうとしたが、医者の言葉を思い出し、引き出しを閉めると話を切り替えた。「明日が何の日か覚えてる?あなたへのプレゼントよ」 「明日……?」 修司は眉をひそめ、真剣に考え込んだ。 静葉は胸の奥に広がる冷たさを押し殺し、笑った。「結婚記念日よ、忘れたの?」 結婚4周年記念日。 しかし、この結婚生活に残っていたのは彼女だけだった。 もう一人は、とっくに心が離れていた。 修司は一瞬きょとんとし、すぐに申し訳なさそうに彼女を抱きしめ、囁くように言った。「ごめん、最近忙しくて忘れるところだった。何か欲しいものは?プレゼントするよ」 「欲しいのは……」 彼女は彼の目を見つめた。「早く帰って、私と一緒にいてくれること」 彼はほっと息をつき、優しく笑った。「そんなの当たり前だよ。明日はどこにも行かない、一日中君と一緒にいるから」 そう言うと、浴室に入り、湯船にお湯を張ってくれた。 まるで模範的な夫のように。 以前の静葉はよく思っていた。きっと神様も、彼女の前半生を不憫に思ったのだろう、と。 だからこそ、静葉を修司に愛させ、その埋め合わせをさせたのだろうと。 彼女の後半生を、幸せで満たすために。 静葉が我に返ると、浴槽のお湯は既に淡い紅色に染まっていた。 下腹部は激しく疼き、重たかった。 彼女は笑った。笑っているうちに、視界がぼやけてきた。 神様の埋め合わせだと思っていた。 実際は、試練だった。 結婚3年目、修司が子供を欲しがっていると気づき、自ら体外受精を提案した。 一部の遺伝病を選別できるというものだった。 しかし、子供はなかなか授からず、薬の繰り返し刺激で体は今の状態になってしまった。 診断された時には、既に末期だった。 医者からは、化学療法で数ヶ月延命できるが、さもなければ長くて2ヶ月だと告げられた。 どう修司に伝えるか、決められずにいた。 彼が受け入れられないのが恐れていた。 だが、彼の心は既に遠くへ飛んでいた。 静葉は手首にあるペアのタトゥーを見下ろし、皮肉げに唇を歪めた。 翌日。 一日中家にいると約束した夫は、彼女が起きる前に出かけてしまった。 静葉が目を覚ますと、メッセージが2通届いていた。 【静、会社に急用が入った。処理したらすぐ帰るから】 【夜はサプライズを用意してるよ】 午後になっても、修司は帰ってこなかった。 静葉は待たず、コートを羽織りマフラーを持って出かけた。 あの日、修司と一緒に入ったタトゥーショップへ。 店主は変わっておらず、彼女を一目で見つけると、にこやかに声をかけた。「タトゥー入れにいらしたんですか?」 そして彼女の後ろを見て、少し驚いたように言った。「旦那さんは一緒じゃないんですか?」 「ええ、最近忙しいです」 人のエネルギーには限りがある。 他の誰かと一緒にいれば、彼女との時間はなくなる。 店主は彼女の様子から気配を察したのか、それ以上は聞かず、ただ尋ねた。「今回はどんなのにするつもりですか?」 「入れません。消したいんです」 「消します?」 店主は驚き、彼女の手首を指さした。「あの時に二人で入れたやつですか?」 「ええ」 彼女はきれいな状態で去りたかった。 彼女の人生は短く、悲しいものだった。 自分に残せる唯一のものは、せめてもの清らかさだけだ。 タトゥーを消している最中、店内のテレビで慈善オークションの生中継が流れていた。 カメラの映像を通して、静葉は一日顔を見せなかった修司の姿を目にした。 オーダーメイドのスーツをまとった男は、VIP席に優雅に座っていた。 そして、隣には女の連れ。 記者が興味深そうに質問していた。「結城様、こういった場ではいつも奥様とご一緒ですが、今日はお連れが違いますね?」 何気ない質問だったが、周囲の注目を一気に集めた。 二人の結婚は、派手だったため、騒ぎを期待する者も多かった。 修司は軽く笑った。 「これは妹の和田鈴です。今日は妻との結婚記念日で、プレゼント選びに同行してもらいました。女性の方が女性の好みをわかってますから。 夜、サプライズで渡そうと思っていましたのに、君に聞かれて台無しですよ」冗談めかしながらも、軽く責めるように言った。 その時、台上では非加熱ピジョンブラッドのジュエリーセットの競売が始まった。 修司は迷わず、四億円で落札した。その眼差しは、優しく柔らかかった。 周囲からは、感嘆と羨望の声が上がった。 「まさか、結城様夫妻って付き合って10年だよね? まだあんなに甘いんだ」 「結城夫人は前世でどれだけ徳を積んだんだろう」 「結婚記念日に四億円のジュエリーとは、愛妻家の極みだな……」 店主もそれを聞き、タトゥーを消す手を一瞬止めた。「結城夫人、本当に消していいんですか……」 顔を上げると、静葉の顔には涙が伝っていた。 彼女は慌てて涙を拭い、頷いた。「ええ、お願いします」 第3話 帰り道、雪が激しく降っていた。 地面は真っ白に覆われ、運転中の視界も良くない。 信号で停まったとき、静葉の携帯が鳴った。 着信を見て、彼女は電話に出た。 修司の声は焦りに満ちていた。「静、田中さんから外出したと聞いたんだ。雪がひどいから、運転手を向かわせようか」 「運転手はいらない」 彼女はわざと困らせるように言った。「あなたに迎えに来てほしいの」 「僕は……」 修司はためらった。「今、本宅に戻ってるところなんだ。おばあさんの具合が悪くて、母さんから呼び出された。君も一緒に、と思ったけど、君と家族はどうも馬が合わないから……」 「じゃあ、今夜は帰って来られる?」 「状況次第だな」 「ええ」 静葉は胸のつかえを無視して、そう答えた。「わかった」 実際のところ、結城家と馬が合わないのは彼女だけではなかった。 かつては、修司の方が彼女以上に結城家を嫌っていた。 正月や祝日でさえ、彼女が口を酸っぱくして説得して、ようやく修司は形だけ本宅に顔を出すのだった。 結城家の人々は彼女を好まなかった。 だから、修司も彼らを好きではなかった。 しかしここ1、2ヶ月、彼は頻繁に一人で本宅に戻るようになり、しかもしばしば泊まりがけだった。 静葉は突然、何か重要なことに気付いたような気がした。 無意識のうちにハンドルを切り、結城家の本宅に向かって車を走らせた。 屋敷は明かりに満ちていた。 しかし、結城家の年長者たちの姿は見えず、豪奢な大広間には2、3人の使用人だけがいた。 静葉の姿を見るなり、彼女たちは一様に慌てた様子を見せた。 「若奥様……どうなさいました?」 「修司は?」 静葉は周囲を見回した。「ちょうど近くまで来たから、一緒に帰ろうと思って」 使用人たちはどもりながら答えた。「若旦那様は……」 「あっ」 2階から、かすかに女性の声が聞こえた。 耳慣れたほどではないが、知らない声でもない。 彼女は機械的に足を運び、一歩一歩階段を上っていった。 階段の踊り場のそば。 半開きのドアの向こうから、淫らな雰囲気が溢れんばかりだった。 鈴は修司の腰に脚を絡ませ、彼の動きに合わせて頬を紅潮させていた。「修司、気持ちいい?」 「ああ」 修司は彼女の脚を強く叩き、赤い跡を残しながら、荒い息を吐いて答えた。「気に入ってなかったら、ここにいるわけないだろ?」 動作はますます激しくなった。 しばらくすると、さらに露骨な体位に変わった。 鈴は甘えた声で尋ねた。「それで、私と静葉さん、どっちが好き?」 「和田」 修司は冷たくたしなめた。「静と比べる資格なんてない」 しかし、その動きは止まらない。 鈴は質問を変えた。「じゃあ、静葉さんとやるのと、私とやるのと、どっちが気持ちいい?」 「もちろんお前だ」 修司は喉仏を動かし、彼女に激しくキスした。「彼女はお前ほど淫らじゃない」 鈴は彼を睨み、甘えた。「私とやると、本当に気持ちいいんでしょ?」 彼は欲望に満ちた目で答えた。「ああ、たまらなく気持ちいい」 ドア一枚隔てた外で。 静葉はますます卑猥になる会話を聞き、全身が冷え切った。 足を動かす間もなく、何とも言えない匂いが漂ってきた。 込み上げる吐き気を抑えきれず、急いで階下へ降り、庭で大きく息を吸った。 真冬の風が肺に突き刺さり、彼女は全身が冷気に浸されたように感じた。 吐き気はあったが、結局何も出てこなかった。 体も激しく痛んだ。 それが癌による痛みなのか、それとも別のものなのか、彼女にはわからなかった。 使用人の一人が水を持って現れた。「若奥様……」 「ありがとう」 静葉は礼を言ったが、それを受け取ろうとはしなかった。 彼女はもうこの屋敷のものには何も触れたくなかった。 今目の当たりにした光景は、彼女を心底嫌悪させた。 あまりの嫌悪感に、すぐに家に帰って自分の皮膚を一枚剥がしたいほどだった。 彼女はふと思い出したように尋ねた。「おばあさんたちは?」 「そ、その……」 使用人は苦し紛れに答えた。「海外旅行に行かれました」 室内から、革靴の音が聞こえた。 修司の声が続いた。「さっき、部屋の前に誰かいたのか?」 第4話 「彼には私が来たことを言わないで」 静葉はそう言い残すと、急いで立ち去った。 使用人が戻り、修司の質問に答えた。「若旦那様、おばあ様が飼っている二匹の猫が喧嘩していただけです」 修司は疑わしげに尋ねた。「他に誰も来ていないか?」 「いいえ」 「ならよかった」 彼はいつもの優しい口調をやめて、きつく言った。「僕が鈴と一緒にいる時は、誰も二階に上がらせるな」 「はい、おばあ様も奥様もそうおっしゃっておりました」 静葉が家に着くと、痛みがひどくなり、下が濡れていることに気付いた。 トイレに行って確認すると、下着は真っ赤に染まっていた。 彼女の表情はどこか虚ろだった。 彼女の生命はすでにカウントダウンに入っている。 しかし、他人からは命がけで愛していると思われているあの男は、結婚記念日すら他の女の体の中にいた。 シャワーを浴び終えた時、田中さんがドアをノックした。 「若奥様……」 田中さんは部屋に入ると、静葉の青白い顔色に心配そうに言った。「今月の生理は半月も続いていますね。普通じゃありません。若旦那様に病院へ連れて行ってもらいましょうか?」 静葉は一瞬戸惑った。 家の家事をすべて担当している田中さんなら、生理用品を使っていないことに気付くのは当然だった。 こんなプライベートなことまで使用人に気づかれているのに、夫は何も知らない。 彼女はようやくあることに気づいた。 修司は欲望が強い男で、何度も彼女を求めたものだった。 生理中でさえ、他の方法で手伝ってくれと頼んだ。 しかし最近、長い間彼と関係を持っていない。 彼女は体調が悪く、欲望などなかった。 では修司は? そう考えると、本宅で見た光景が再び脳裏に浮かび、静葉は堪えきれずトイレに駆け込んだ。 便器に寄りかかって吐いた。 理解できなかった。 十年もの間、彼女を心から愛していた男が、なぜそんなことを? 別れたければ、堂々と離婚を言い出せばいい。彼女も潔く受け入れただろう。 しかし不倫とは何なのか? 彼はわざと二人の感情を踏みにじっているのか? それとも、うまく隠せていると思い込んでいたのか? そうだ…… 結城家全体が彼と鈴の関係を隠していた。 彼女をここまで軽蔑していた結城家の人々が、国外に出ることで二人に不貞の場を与えていた。 結城家屋敷では修司のおばあさんが全てを決める。 彼女の黙認なしでは、修司はあんなことをできなかった。 田中さんは急いで水を持ってトイレに駆け込んだ。 「若奥様、やはり病院に行きましょう」 「大丈夫」 静葉は水を受け取り、口をすすいだ。 「本当に具合が悪ければ、自分から病院に行くわ」 「病院?静、どこか調子が悪いのか?」 修司が帰宅し、会話を聞いて心配そうに尋ねた。 静葉が何か病気にかかっていないかと恐れるように。 彼の愛情は偽りではないようだった。 静葉には理解できなかった。 どうして同時に二人を愛せるのか? それとも、彼女を愛しながら、他の女と関係を持てるのか? 今まさに、彼の体からはあの淫らな匂いが漂っている。 静葉の感覚はその匂いを無限に増幅させた。 吐き気を必死で抑え、田中さんが口を開く前に言った。「大したことない。ただ生理不順で、田中さんが心配してくれただけ」 修司は心配そうに確認した。「本当か?」 「本当」 静葉はもう、彼のように平然と嘘をつけるようになっていた。 彼が頭を撫でようと手を伸ばすと、静葉は思わず後ずさった。 汚らわしかったから。 あの手がどこを触り、何に触れたかを見てしまったのだ。 修司の手は空中で止まり、静葉の態度に違和感を覚えた。 「静、どうした?」 「何でもないわ」 静葉は淡々と言った。「外から帰って手も洗わないで。もし外で汚いものに触ってたら、また髪を洗い直さないといけない」 「汚いものなんて触って……」 修司は一瞬たじろいだが、彼女の平静な様子を見て安心した。「わかった、手を洗ってから夕食にしよう。 君にプレゼントを用意した。きっと気に入るよ」 そう言いながら、静葉に念を押した。「そうだ、君が昨夜僕に贈ると言っていたものは何だった?」 「それは秘密」 静葉はかすかに笑った。「あなたもきっと気に入るはず」 浮気をした男で、不倫の汚名を背負いたがるわけがない。 彼女が死ねば、きっと彼の望み通りになるだろう。 第5話 夕食は田中さんが用意してくれた。 おそらく静葉が生理中なのを気遣って、あっさりしているが栄養価の高い料理ばかりだった。 最近の静葉は食欲がどんどん落ちていた。 だが今夜は珍しくたくさん食べた。 食事が終わると、修司は手品のように掌からルビーのピアスを取り出した。「静、結婚記念日おめでとう」 極めて珍しい極上の色合いだった。 静葉はそれを受け取ると、さらに手を差し出した。「他は?」 オークションで落としたのはジュエリーのセットだった。 ネックレスがあるはずだ。 しかもこのピアスは、明らかにネックレスの宝石から切り出したものに違いない。 このセットで本当に価値があるのはネックレスの方なのだ。 修司は一瞬たじろいだが、すぐに説明した。「ネックレスは……和田が試着したいと言って、2、3日したら返すって。届き次第すぐ君に渡すから」 「結構よ」 静葉の澄んだ瞳がじっと彼を見つめた。「人が使った物は好きじゃないの」 宝石でも。 男でも。 修司は鈍感でも彼女の気持ちを察した。 「本当にいらない?」 「いらない」 静葉はゆっくりと立ち上がり、目の前の男を見つめて思わず問いかけた。「修司、人の心って複雑なものだと思う?」 何もかも欲しがって。 欲深くて、移り気で。 「急にどうした? 和田がネックレスを借りたのが気に障った?今すぐ返させようか?」 彼の言葉に嘘はないと静葉はわかっていた。 だが、彼女が求めているのはそれではない。 「いいえ」 彼女は首を振り、体力の限界を感じて「疲れたから、先に寝る」と言った。 「静……」 修司は慌てて彼女の手首を掴んだ。彼女の体温を感じてようやく少し落ち着いたように、媚びるような口調で「僕へのプレゼントは?」と尋ねた。 「あなたの机の上」 記念証明書をギフトボックスに入れておいたものだ。「でも、この贈り物はちょっと特別な意味があるから、半月後に開けて」 その頃には、彼女はもうこの世にいない。 彼女の選択だと分かったら、医者を責めないはずだ。 修司は深く考えず、むしろ彼女の手作りだと思って喜んだ。「わかった」 忘れないよう、スマホにリメモした。 「半月後、静のプレゼントを開ける」 その日。 静葉が目を覚ましたのはとっぷりと日が高くなってからだった。 ぼんやりしながらも、ドラマで見る人は死ぬ前に自覚があるというのが本当だと実感した。 ここ数日、明らかに体が限界に近づいているのを感じていた。 まさか目を開けた瞬間、修司の黒い瞳とぶつかるとは。 静葉は驚き、「出勤しなかったの?」と尋ねた。 鈴が帰国してから、修司の早く出て遅く帰る、時には帰らないことにも慣れていた。 だが修司はただ呆然と彼女を見つめていた。まるで彼女が何か大きな過ちを犯したかのように。 まるで彼女が裏切ったかのように。 静葉は軽く眉をひそめ、体を起こそうとした瞬間、修司に強く抱きしめられた。 彼はとてもとても強い力で抱いた。 まるで彼女の体と心を全て骨に刻み込みたいかのように。 静葉は呆然とし、息苦しさを感じて「何してるの」と声を上げた。 しかし弱々しい声では怒りも甘えたように聞こえるだけだった。 修司は少し力を緩め、彼女の首筋に顔を埋めてそっと擦り寄った。しばらくしてから、彼女の手首を撫でながら「静、タトゥーは?」とつぶやいた。 タトゥー…… 静葉の胸がぎゅっと締めつけられた。 水を吸い込んだスポンジが詰まったように、息が苦しい。 もう演じるのはやめようと思った。 感情を爆発させたくてたまらなかった彼女は、修司を強く押しのけ、じっと見つめた。 「じゃあ、あなたのタトゥーは?どうなったの?」 彼女は修司の腕時計を外し、タトゥーを露出させた。 かつての愛情の証である「SZH」の文字。 いつの間にか「SZ」に変わっていた。 「H」は、ハートマークで覆われていた。 修司の不倫を知る前、彼女はこれに気づいていた。 当時はサプライズだと勘違いした。 静を愛する そう解釈しても不自然ではなかった。 だが後になってわかった。 SZは鈴だった。 塗りつぶされた文字は、修司の心の中で邪魔になった彼女自身だった。 鈴を愛する これが修司の本心だった。 彼は10年間の想いをことごとく汚し、彼女に一片の未練も残さなかった。 静葉はこの質問をする前、かすかな希望を抱いていた。 だが修司の顔に浮かんだわずかな動揺を見て、答えを知った。 修司はうまく誤魔化したつもりで、彼女の手を握って優しく笑った。 「いつ気づいた?サプライズにしたかったのに。馬鹿だな。 静を愛することだよ。普段はあんなに頭がいいのに、これくらいわからないの?」 静葉は冷たい笑いをこらえた。 私が馬鹿なんじゃない。 結城、あなたが私を裏切るなんて想像もしていなかっただけだ。 彼女はこれ以上暴く気もなかった。「そうならいいけど。修司、このタトゥーに他の意味があるなら、私は本当に消えるから」 「他の意味なんてあるはずない」 修司は誓った後、彼女の頬をつねって真剣に言った。「でも、たとえ消えたって、地の果てまで探し出す」 「そう?」 地の果てまでなら、確かに見つかるだろう。 彼女の遺骨が掘り当てられるのだから。 第6話 修司は彼女の言葉の裏を読み取れず、確信を持って頷いた。「もちろん」 静葉は笑ったが、それ以上話を続ける気はなかった。 浴室に入って身支度を始めた。 修司はドア枠にもたれ、隠さない優しい眼差しで彼女を見つめていた。 かつて何度もそうしてきたように。 しかしふと、修司は眉をひそめると、彼女の背後に回り、ますます細くなった体をそっと抱きしめた。柔らかな肉の一片もない細い腰に触れながら、「静、ずいぶん痩せたんじゃないか……」 かつてとは全く異なる彼女の体に、修司は理由もなく胸がざわついた。「顔色も悪い。病院に連れて行こう」 「結構よ」と静葉は断った。 自分の身体は自分がよく知っている。 病院へ行って修司が彼女の病状を知っても、何が変わるというのか。 浮気した男の偽りの愛情に向き合う気力など、彼女には残っていなかった。 無意味だ。 彼も疲れるし、彼女も疲れる。 修司が返事をする前に、彼の携帯が突然鳴り出した。 電話を見た瞬間、彼の目に一瞬浮かんだ喜びを、静葉は見逃さなかった。しかしそれはすぐに心配と緊張に変わった。 電話を切ると、修司は彼女を抱き上げて階下へ向かい、決断を下した。「駄目だ。病を恐れて医者を避けるなんて許さない。僕が付いていく。 怖がるな。何があっても僕がいる」 その言葉に、静葉の視界が一瞬かすんだ。 本気にしそうになった。 だが彼女はもう拒否しなかった。 いずれ彼は知ることになる。それに、斉藤医師からは昨日連絡が来ていた。 彼女の心臓を待つ少女がいるのだ。 死ぬ前に、書類にサインする必要があった。 今日ついでに済ませてもいいだろう。 病院に着くと、斉藤医師は二人を見てほっとした表情を浮かべた。 修司が臓器提供のことを知っていると思ったのだ。 「結城様、ご夫人のサインに……」 「彼女が最近ずいぶん痩せたんです」 修司は静葉の体調のことしか頭になく、話を遮った。「すぐ検査をしてください」 斉藤医師は答えた。「結城夫人の体調を考慮すると、痩せていくのは当然ですが、できるだけ栄養を取るよう心がけてください」 修司は静葉を見て頭を抱えた。「また僕に内緒でダイエットしてたのか?」 「……してない」静葉はもう隠すつもりはなかった。「修司、実は私病気なの……」 彼女の言葉が終わらないうちに、修司の携帯が再び鳴った。 今度は電話ではなく、メッセージだ。 苛立ちながら画面を見た修司の表情に、抑えきれない興奮が浮かんだ。 携帯を持つ手さえ震えていた。 気持ちを隠したつもりで、静葉に向き直った。「静、今何て言った?」 「……」 静葉はもう真剣に話す気を失っていた。「会社の急用でしょ?」 彼女は笑って逃げ道を作った。 これまで社交界で彼と共に他人とやり取りしてきた時のように、完璧なタイミングで。 彼女は相変わらず完璧な結城夫人だった。 ただ、今や偽りの笑顔を向ける相手は、彼女の夫になっていた。 修司は意外そうに、そして申し訳なさそうに彼女を見た。「どうしてわかった?確かに急用で、行かなきゃいけないんだ。一人で大丈夫か?」 「大丈夫」静葉は頷いた。 最近では、夜中に痛みで目が覚めても、家にはいつも彼女一人だった。 修司は彼女の言葉の深い意味に気づかず、髪を撫でて言った。「用事が済んだら迎えに来るから、医者の言うことを聞いて検査を受けてな」 結城。 私の体は、もう検査など必要ないの。 臓器提供に必要な検査は全て終わっているのに。 だが修司は彼女に声を出すの機会を与えず、そう言うと待ちきれないように走り去った。 彼女を追いかけていた頃、デートのたびに走ってきたあの頃のように。 彼の後ろ姿を見ながら、静葉はふと、あの白いシャツの少年を思い出した。真冬に焼き芋を手に彼女の前へ走り寄り、宝物のように差し出した。「静、一口食べてみろよ」 ただ今回は…… 彼が走っていった先は、彼女とは正反対の方向だった。 静葉はうつむき、一瞬目を閉じて、涙を地面に落とすに任せた。 斉藤医師はためらいがちに尋ねた。「結城夫人、結城社長はご病状をご存じないのですか……」 「関係ありません」 静葉は気持ちを落ち着かせると、静かに言った。「病院に当たり散らしたりしませんから、安心してください」 彼女が修司の机に置いたあの贈り物の中には、もう一言書き添えてあった。 医師はそれ以上詮索せず、書類へのサインが終わると、彼女の体調を気遣った。「この数日、調子はどうですか?鎮痛剤は足りていますか?」 末期癌。 最も辛いのは、死が近いと知ることではない。 耐えがたい痛みだ。 経済的に余裕のある患者は、痛みを和らげるため入院を選ぶ。 静葉のような患者は珍しい。 「良くないです」静葉は苦笑した。「あと数日だと思います」 医師を見上げて続けた。「荷物をまとめて、明日入院します。そうすれば……必要な患者さんに、早く臓器を提供できるでしょうから」 若い女性助手は目を赤くした。「結城夫人……」 だが斉藤医師は冷静に、彼女の状態の悪さを理解し、頷いた。「今すぐ入院するのがベストです」 だが目的は、彼女の苦痛を和らげるためだった。 静葉は首を振った。「一度家に帰りたいです」 これだけ長く愛し合ったのだから。 あの世とこの世に引き裂かれる前に、きちんと、正式に、修司と別れを告げたかった。 彼に願いたかった。平穏な日々を、願いが叶うようにと。 静葉はエスカレーターで降り、家路につこうとした。 携帯が鳴った。 妊娠検査の結果と、刺々しいメッセージが表示された。 【静葉さん、私妊娠したわ。修司の子供よ。いつの間にかできてたかもわからないくらい、修司の欲望が強すぎて、毎日求められるの。会社でも机の上でされたわ】 静葉は吐き気を覚えた。 喉に鉄臭い味が込み上げてきたが、必死に飲み込んだ。 視界もぼやけ始めていた。 携帯はまだ鳴り続ける。 【修司はずっと子供が欲しがってたわ。不妊の女はさっさと離婚して、少しは体裁を保ったら?】 【あの人がまだあんたを愛してると思う?演技は男の本能よ。本心は欲望に現れるの。静葉さん、あの人と最後にしたの、いつだっけ?】 【あんたに愛の言葉を囁くあの唇で、私の体の隅々まで舐められてるのよ】 ブシャッ。 静葉はもう堪えきれず、血を吐いた。 鮮やかな赤だった。 周囲の慌ただしい声が聞こえる中、静葉はぼんやりと、修司が鈴と手を繋ぎ、産婦人科から出てくるのを見たような気がした。 しかしはっきり見えない。 まばたきをして、もう一度確かめようとしたが、身体がもう支えきれなかった。 赤い血の海に倒れ込んだ。 自分の身体を過信しすぎていた。 修司に直接別れを告げることさえ、叶わぬ望みだったのだと。 最後の力を振り絞り、目を見開いて、修司と別の女が去っていく方向を見つめた。 冬の柔らかな日差しが差し込む中、一筋の光が、彼女と修司を決定的に二つの世界へと引き裂いた。 彼女はもう、修司が迎えに来るのを待つことはない。 あの、ただ彼女だけの修司は、とっくに消えていたのだ。 外は冷たい風が吹き荒れていた。 修司はふと、今年の冬は格別に寒いと感じた。 風が肌を切り裂くようで、心臓まで少し苦しくなっていた。 鈴が修司のカシミアコートに潜り込んだ。「修司、寒いわ。私を抱いて歩いて」 「……」 修司は深く息を吸い、胸の不快感を和らげようとした。 周りに人がいないのを確認すると、彼女を押しのけずに言った。「屋敷の前まで送る。すぐ病院に静を迎えに行くから、調子に乗るな」 鈴は甘えた声で答えた。「わかったわ」 二人は抱き合うように車に乗り込んだ。 病院内では、医療スタッフが必死に静葉を救急室へ運んでいた。 あらゆる処置を施した。 だが結局、死亡が宣告された。 静葉は死んだ。 修司の願いが叶ったまさにその日に。