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抱きしめて、そして放して
「天野さん、海洋散骨の申込書を受け取りました。もう一度確認しますが、海洋散骨の後は何も残りません。ご家族も、あなたのことを思い出でし...
Chương (1)
第1章
「天野さん、海洋散骨の申込書を受け取りました。もう一度確認しますが、海洋散骨の後は何も残りません。ご家族も、あなたのことを思い出でしか偲べなくなります」
天野夕月(あまの ゆづき)は淡々と、しかし揺るぎない口調で答えた。「分かっています」
電話を切った途端、扉の向こうから使用人の声が響く。
「奥様、榊原社長がお待ちです。パーティーが始まりました」
今日は夕月と榊原隼平(さかきばら じゅんぺい)の三周年結婚記念日だ。
第1話
「天野さん、海洋散骨の申込書を受け取りました。もう一度確認しますが、海洋散骨の後は何も残りません。ご家族も、あなたのことを思い出でしか偲べなくなります」
天野夕月(あまの ゆづき)は淡々と、しかし揺るぎない口調で答えた。「分かっています」
電話を切った途端、扉の向こうから使用人の声が響く。
「奥様、榊原社長がお待ちです。パーティーが始まりました」
今日は夕月と榊原隼平(さかきばら じゅんぺい)の三周年結婚記念日だ。
階段を下りた瞬間、目の前に大きなバラの花束が差し出された。
「夕月、三周年おめでとう」隼平が彼女を見つめる瞳には、溢れそうなほどの優しさが宿っていた。
夕月が何か言う前に、周囲から冷やかしの声が飛ぶ。
「おお、主役のご登場だ!」
「いい夫婦といえばこの二人だよな。学生時代から今まで、変わらぬ愛だ」
「そうそう、夕月さんが数年間海外に行ってても、榊原社長はずっと待ってたんだ」
褒め言葉が夕月の耳に刺さる。
変わらぬ愛?
彼女と隼平の間に愛などなかった。あるはずがない。
夕月はただそこに立ち尽くし、隼平も怒ることなく、花束を置くと彼女の腰に腕を回し、心配そうに声をかけた。「どうした、どこか具合が悪いのか?」
答える前に、また誰かが笑いながら茶化す。
「榊原社長、夕月さんを大事にしてるなあ。何年経っても愛情が全く変わらないじゃないか」
「大丈夫よ」夕月は感情を見せず、そっと身体を離した。
隼平は柔らかく微笑み、彼女の乱れた前髪を指先で整える。「じゃあ、行こう。パーティーが始まる」
そう言って、彼は手を差し出す。
夕月は一瞬だけためらったが、その手を取った。
パーティーが終わったあと。
隼平はネクタイを緩め、先ほどまでの優しさを消し、不機嫌そうに問いかけた。「パーティーの前、どこに行ってた?」
夕月は視線を落とし、静かに言った。「隼平、あと一週間で私たちの契約は終わるわ」
つまり、すぐに自分の行動は彼とは無関係になるということだ。
空気が一気に張り詰める。
「夕月」隼平の顔が険しくなり、声には押し殺した怒りが滲む。「どういう意味だ?」
夕月は顔を上げ、澄んだ瞳で告げる。「時間があるときに、離婚しましょう。もう、お互いを解放して」
隼平は笑った。「解放?自分が俺に何をしたか忘れたのか?」
夕月の胸がひどくざわめく。
大学時代、確かに二人は恋人同士だった。だが最後は、最悪の形で終わった。
彼が泣きながら別れないでくれと懇願し、膝をついてまで縋ってきた光景を、今でも鮮明に覚えている。
「お前はどうした?」隼平の声はさらに低く、拳が固く握られる。「大勢の前で俺を平手打ちし、卑しい男だと罵り、欲しい生活を与えられないと吐き捨てた。
今ならその生活を与えられる。それでも出て行くつもりか?」
夕月は静かに目を閉じた。彼女に心臓病があったことを知る者は誰もいなかった。
大学卒業の頃、それが再発し、海外での手術が必要になった。成功率は三割しかなかった。
旅立つ前、隼平に別れを告げた。崩れ落ちそうな彼の姿を見て、すべてを打ち明けたい衝動に駆られた。
けれどできなかった。
彼の未来を奪うわけにはいかなかった。
だから、わざと最も残酷な言葉で彼を傷つけ、追い払った。
三年前、彼女が手術に成功して帰国すると、隼平は国内で事業を大きく成功させ、フォーブスのトップ10入りを果たしていた。
そして、彼は今でも彼女を憎んでいる。毎日、憎しみ続けている。
再会の日、彼が言ったのはただ一言だった。
「夕月、まだ死んでなかったのか」
第2話
そうだ、彼女はしぶとく生き延びた。
あの日以来、二人はもう関わることはないと思っていた。だが、それから間もなく、夕月は自分の薬を受け取りに病院へ行った際、また隼平と鉢合わせした。
彼女は慌てて診療記録を隠し、「母の薬を取りに来ただけ」と嘘をついた。
隼平はまず彼女を皮肉り、それからこう言った。「俺と結婚しろ」
夕月は一瞬、言葉を失った。「今、何て言ったの?」
「俺と結婚すれば、母親を助ける手を打ってやる」
夕月の母はもともと体が弱く、この数年は夕月の心臓病のせいで奔走し続け、持病を抱えていた。治療には莫大な金が必要だった。
こうして夕月は彼と三年間の結婚契約を結んだ。
「夕月、あの時お前に受けた屈辱は、一つずつ返してもらう」
感情が高ぶると、隼平は目尻を赤くし、「なぜ俺を捨てた」と問う。
夕月は何も言わず、彼の手を強く抱きしめるだけだった。
たとえこの結婚が偽物でも、たとえ彼が自分を憎んでいても、今は少しでもそばにいたかった。
丸三年、夕月は隼平の冷たい視線と嘲笑に耐え続けた。彼は言葉通り、あらゆる方法で彼女を侮辱した。
そして、彼女の体はもう限界を迎えていた。
疲れ切っていた。
隼平が立ち上がる。「三年前の仕打ちに比べれば、まだ足りない」
夕月は深く息を吸い、無理に声を張った。「構わないわ。時間が来れば、あなたとは自然に関係が切れる」
隼平はその言葉に笑った。
次の瞬間、彼は夕月を乱暴に引き寄せ、歯を食いしばる。「お前の心はやっぱり冷たいな!」
そう言って、怒りを孕んだ口づけが落ちようとする。
夕月は必死に押しのけた。
「隼平……やめて!」
「まだ婚姻関係は終わってない。なら夫婦の務めを果たしてもらってもおかしくないだろ?」
次の瞬間、夕月はソファに押し倒され、首筋に痺れるような感触が幾重にも走る。
「離して……」
夕月は隼平を押しのけようとしたが、逆に両手を頭上で押さえつけられた。
隼平は乱暴に唇を重ねていたが、そのとき、彼の腕に熱い涙が落ちた。
その動きが止まり、彼は手を放した。
夕月の目には涙が溜まり、こぼれ落ちる前に手の甲で慌てて拭う。
隼平は苛立ったように髪をかき上げ、低く呟いた。「悪かった」
そう言い残し、大股で部屋を出て行った。
夕月は赤くなった目で彼の背中を見つめ、胸の奥が痛んだ。
もうすぐ、すべてが終わる。
……
隼平はその夜、家に帰らなかった。
夕月はもう慣れていた。だが、心臓の痛みで一睡もできなかった。
翌朝、病院に行くと、医師は首を振り、最後の宣告をした。
「夕月さん、このままだと長くはありません。特効薬を処方しますから、せめて最後の日々を少しでも楽に過ごしてください」
夕月は無理をするつもりはなく、すぐにカードを持って窓口へ行った。
「天野さん、このカード、残高不足です」
彼女は一瞬止まり、別のカードを差し出す。
「じゃあ、こっちで」
それは隼平から渡されたカードだった。これまで一度も使ったことはなかった。
もうすぐ死ぬのに、見栄を張っても仕方ない。
しかし、看護師は気まずそうにカードを戻した。「すみません、このカードは使えません。凍結されています」
「……そうですか」
夕月はカードを持って病院を出た。
少し考え、隼平に電話をかけた。
彼はすぐに出た。少し沈黙してから、「何の用だ」と聞いた。
「母の入院費を払わなきゃいけないの。くれたカードが凍結されてた」
三年の結婚生活で、夕月が彼に金を求めたのはこれが初めてだった。
隼平は嘲るように笑った。「金に困ってるのか?偉そうに俺からはびた一文も取らないって言ってたくせに」
夕月は黙っていた。
「欲しいなら会社まで来い」
そう言って彼は電話を切った。
夕月はため息をつき、タクシーで隼平の会社へ向かった。
第3話
オフィスフロアに上がると、まだ足を踏み入れる前から、社員たちの噂話が耳に入ってきた。
「私は岡村(おかむら)秘書に賭けるわ!」
「でも、社長って奥さんのことが一番好きなんじゃないの?」
「何もわかってないな……」
話していた社員が、ふと視線を横にやると、そこに夕月の姿が。途端に顔色を変え、慌てて背筋を伸ばす。「……奥様」
夕月は彼らの会話を聞かなかったふりをして、静かに口を開いた。「隼平は?」
そこへ、隼平の秘書、笠原智(かさはら さとし)が歩み寄ってきた。
「奥様、社長は会議中です。こちらへどうぞ」
智は夕月を休憩室まで案内し、恭しく頭を下げた。
「どのくらいかかる?」
問いかけに、智は一瞬目を泳がせ、口ごもる。「えっと……もう少しかと」
その様子に何か引っかかるものを感じながらも、夕月は気に留めず待つことにした。
そうやって30分も待ったが、彼女は我慢できずに外に出て聞こうとした瞬間、突然目の前に人影が現れた。
高く結い上げたポニーテール、元気いっぱいの若い女性だった。
その顔を見た瞬間、夕月は息を呑んだ。
自分に六割ほど似ている。
彼女こそ、隼平の新しい秘書大城千世(おおしろ ちせ)だ。
笑える話だが、この女性について夕月が知っていることは、すべて親切な奥さんたちからの情報だ。
隼平はこの秘書にだけ態度が違うから、気をつけた方がいい、今どきの若い子は手口が巧妙だ、と。
だが夕月は気にしなかった。
いや、気にする資格すらない。
この数年、隼平の周りから女が途切れたことはない。それはすべて、彼女を苦しめ、後悔させるため。
そして、その目的は見事に果たされていた。他の女と親しげにしている姿を見るたび、夕月は胸が締めつけられる。
そう思うと、ますます胸の苦しみが募っていく。
夕月は立ち上がり、洗面所に向かった。冷たい水をすくって顔に浴びせた。
再び顔を上げた時、鏡の中には若く美しい顔が映っていた。千世は夕月が気付いたのを見ると、たちまち笑顔を浮かべた。「あなたが夕月さん?よく人から聞くよ、私たちってすごく似てるって」
夕月は笑みを返すだけで、何も言わない。
千世は髪を整えながら、ため息をついた。
「羨ましいね、毎日お金持ちの奥様ライフなんて。私たちは、毎日必死に働かないといけないから」
「ただ……」一度言葉を切り、千世はわざとらしく続ける。「夕月さん、もう少しお手入れしたほうがいいよ。その顔色じゃ、すごく老けて見えちゃう」
「あっ!」
慌てたふりで口を押さえる。「こんなこと言うべきじゃなかった。ごめんね」
夕月は手の水滴を払って、淡々と答えた。「気にしないで」
千世は一瞬たじろいだ。夕月の反応が予想外だったらしい。
夕月は本当に気にしていなかった。千世の言う通り、自分はとっくに若くはないのだから。
あるのはただ、病に苛まれた生き地獄のような日々だけ。
夕月は彼女を一瞥もせず、休憩室へ戻った。
千世はしつこく追いかけ、まるで女主人のような態度で高飛車に言い放った。「夕月さん、社長はまだ会議中だから、もう少し待って」
ちょうどその言葉を智が耳にし、慌てて千世を引き寄せた。
「大城秘書、何をしているんだ!あの方は奥様だぞ」
「知ってるよ」千世は平然と肩をすくめた。「それが何か?」
「知らないか?奥様は社長にとって一番大事な人なんだよ。M市で奥様に手を出せる人間なんていない。昔、酔った男が奥様にちょっかいを出したことがあった。翌日にはあいつの会社が潰れてた。奥様は社長の大切な人なんだ。そんな方を怒らせたら大変な目に遭う。もっと丁寧に接しなさい」
千世は聞き終えても怖がるどころか、芝居がかった笑みを浮かべた。「まぁ、怖い。でも社長みたいないい男、私も欲しいけどね」
そう言うと、夕月の目の前で堂々と社長室へ入っていった。
智は呆気に取られ、そして深くため息をつく。
そのうち、必ず後悔する。
この世で隼平以上に奥様を愛している人間はいないのだから。
第4話
夕月はそのままさらに三十分待ち続けたが、ついに胸の痛みに耐えきれず、ゆっくりと立ち上がって出口へ向かった。
カチャ。ドアが開く。
隼平と千世が、ふざけ合いながら出てきた。
「本当にイタズラ好きだな」隼平が笑みを浮かべる。
夕月は振り返り、この目に刺さるような光景を見つめ、手にしたスマホをぎゅっと握りしめた。
隼平は彼女に気づくと、その笑顔をすっと消す。
「金が欲しいなら、経理の手続きが終わるまで待て」声は冷たく、さっきまで千世に向けていた柔らかさは欠片もない。
夕月は深く息を吸い、静かに頷くと踵を返した。
エレベーターを待っていると、再び二人の声が耳に入る。
「やだ、このバッグ欲しいってずっと思ってたの。たった320万円だよ?隼平さん、ケチケチしないでいいでしょ?」
隼平は少し呆れたように、「わかった、わかった……お前の言うとおりだ」
夕月は無意識に唇を噛み、胸の痛む箇所を押さえた。
320万円のバッグを即決で買う男が、正妻である自分には経理の手続きを待てと言う。
彼女の口元にかすかな苦笑が浮かび、首を横に振った。
……
夜が降りる頃、夕月は荷物をまとめて部屋の隅に置いた。玄関から、突然物音が響く。
隼平が酒の匂いを漂わせて入ってきた。
少し迷った末に、夕月は口を開く。「あのお金、経理はいつ通してくれるの?」
彼女の身体は日に日に弱っている。もう時間の猶予はない。
隼平は彼女を見下ろし、鼻で笑った。「そんなに金に困ってるのか?金がなきゃ死ぬとでも?」
「そうよ」夕月は頷く。
「だからいつくれるの?くれないなら、本当に死ぬ」
男の顔がたちまち曇り、周囲に重苦しい空気が立ち込めた。思わず背筋が凍りつくような威圧感だった。
「夕月、やっと本性を見せたな。やっぱり頭に金しかない女だったか」
その背丈の影が彼女をすっぽり覆い、息が詰まるような威圧感が迫る。夕月は掌を握りしめ、淡々と返した。「そうね。隼平だって困ってないでしょ?少なくとも私は、あんたと一緒に苦しい時期も過ごしたわ。結婚もした。その私が、少しぐらい金を使ったっていいじゃない」
ドンッ。
隼平の拳が、夕月の背後のワイン棚にめり込む。
「夕月、そんな見栄っ張りな女、地獄に落ちろ!」
男の目が赤く充血している。
夕月の心臓は、まるで見えない手に鷲掴みにされたように痛み、息ができない。
隼平は彼女の奥に潜む痛みに気づかぬまま、うつむき自嘲する。「三年前の時点で気づくべきだった。お前は最初から金しか信じない。俺は一体何を期待してたんだ?」
夕月の顔は血の気を失い、その言葉に合わせるように口を開く。「そうね。別に今日が初対面でもないし、あんたは……」
「金さえあれば、何だってするんだろ?」
言葉の途中で、男が遮った。その瞳には妙な炎が宿っている。「じゃあ金をやる。俺に付き合え、いいな?」
そう言うなり、隼平は夕月の顎をつかみ、強く唇を噛みついた。彼女の悲鳴は、すべて塞がれる。
夕月は必死に抵抗するが、両手は固く押さえ込まれて動かない。
指先が肌に触れた瞬間、彼女は思い切り男の舌先に噛みついた。
隼平が反射的に息を吐き、その隙に夕月は全力で突き飛ばし、床に倒れ込み胸を押さえる。
隼平は舌の裏を舐め、怒鳴りかけたが、夕月の様子に一瞬戸惑う。しかし口から出たのは「また芝居か?」
夕月の額にはびっしりと汗がにじみ、力なくつぶやく。「……痛い、救急車……」
隼平は眉間に皺を寄せ、スマホを取り出したその時着信音が鳴った。
千世からだ。
隼平は夕月を一瞥し、苛立たしげに舌打ちしながらも通話に出る。
「隼平さん、お願い!早く助けて!」
第5話
向こうからは絶え間ないざわめきと、男の怒鳴り声がかすかに混じって聞こえてきた。
隼平は眉をひそめ、「どうした?ゆっくり話せ」と促す。
「闇金の人たちが来て、私を売り飛ばすって、隼平さん……お願い、助けてきゃっ!」
泣きじゃくる女の声は、突然ぷつりと途切れた。隼平がスマホの画面を見ると、通話はすでに切れている。
彼の表情が一変し、立ち上がるとすぐさま外へ向かおうとする。
「……隼平」
夕月は、ほとんど残りの力を振り絞って彼のズボンの裾を掴んだ。「お願い、先に救急車を呼んでくれない?」
男は見下ろし、わずかに苛立ちを帯びた目を向ける。
「夕月、いい加減にしろ。
そんな芝居、俺には通じない。お前が本当に死ぬっていうなら、それも悪くないな」冷たく笑って、彼は彼女の手を振り払い、大股で部屋を出ていった。
背中が遠ざかっていくのを見つめながら、夕月は絶望的に目を閉じた。
あの女は闇金に追われているなら、警察に頼めばいい。
でも私は、本当に死ぬ。
涙が一粒、頬を伝い落ちる。全身が痺れるほどの痛みに、もはやどこが痛いのかすらわからない。身体を小さく丸めたまま、彼女の意識はゆっくりと闇に沈んでいった。
……
翌日、病院。
夕月はゆっくりと目を開ける。鼻先を消毒液のツンとした匂いがかすめた。
「起きましたね。心臓病なのに、一人で家にいたらだめですよ?清掃の人が見つけてくれて、すぐに運んでくれたんです」
カルテを閉じながら看護師が言う。「ご家族にも連絡しましたから、問題なければ退院できますよ」
夕月は苦笑した。
家族?隼平が来るわけがない。
むしろ死ねばいいと思っているだろう。
案の定、やって来たのは智だった。
「奥様、社長がお忙しいので、代わりに様子を見に来ました」
夕月はまだ手に入れていない薬のことを思い出し、唇を動かす。「経理のほう、お金はもう下りましたか?」
「それが……」
智は視線を落とす。「まだです」
この表情を見ると、隼平がサインしなかったのだと、夕月はすぐに悟った。
彼女が聞いた。「隼平はどこに?」
智は息を詰める。隼平と夕月の愛憎を長年そばで見てきた。
今の状況はまさに共倒れに近い。
しかし自分はあくまで部下、口を挟む立場ではない。
「それは……ご本人にお聞きください」
夕月がスマホを開くと、電話をかける前に通知が飛び込んできた。【愛妻のため遊園地を貸切、榊原社長10年変わらぬ愛】
思わず指が止まり、そのまま記事を開く。
写真には、隼平が満面の笑みを浮かべ、帽子をかぶった女性に語りかけている様子が映っていた。
記事はこの夫婦の感動的な愛情を讃える内容だった。
病室が静まり返る。自分の心臓の鼓動さえ聞こえるほどに。
スクロールする指が止まらない。隼平は、自分の本アカで【皆さんの祝福に感謝します】とまでコメントしていた。
愛妻?
ふっ。
夕月は自嘲気味に笑い、スマホを閉じると智を見た。少し躊躇いながらも、声を落として言う。「智さん、少しお金を貸してもらえないか?」
……
借金をして退院した夕月は、かつての主治医に薬をもらい、そのまま帰宅した。
玄関に入った瞬間、足が止まる。
リビングから女の甲高い笑い声が聞こえてくる。「やだ!」
もう堂々と連れ込んでいるのか。
夕月はまつ毛を震わせたが、表情は変えずに中へ入る。近づくと、隼平が片手にシガー、もう片方の腕で千世を抱き寄せるのが一目でわかった。
「これはどういうこと?」夕月は冷静を装って声を出した。
隼平はシガーを消し、椅子に深くもたれた。
「千世を一人で家に置いておくのは心配だ。だからここに泊める」
夕月は口を開きかけ、しかし何も言わず階段を上がった。
反対する資格などない。
ここは、もともと自分の家ではないのだから。
夕月が薬を飲んで休もうとした時、ノックの音がした。
返事をする前に、千世が勝手に入ってきた。「夕月さん、怒ってるの?」
「何の用?」
夕月は淡々とした視線を向ける。
千世は腕を組み、部屋を見回して口角を上げた。「この部屋、すごく素敵。住みたいな……」
夕月は眉をひそめ、黙っている。
女はくるりと振り返り、瞳を輝かせた。「ねえ、信じる?あなたの代わりにここへ住んで、新しい女主人になるって」
第6話
夕月の表情はほとんど変わらず、淡々と告げた。「そう。じゃあおめでとう。用がないなら出て行ってくれない?休みたいの」
千世はその反応に不満げな顔を見せたが、ふと机の上の錠剤に目を留め、二歩進み出て手に取ると、驚いたように口元を押さえた。「シルデナフィル?夕月さん、これ使ってるの?」
その声はわりと大きく、廊下にいた隼平の耳にも届いた。
シルデナフィル、いわゆるバイアグラだ。
隼平は大股で部屋に入り、錠剤のシートを奪い取ると中身を確認し、鋭い視線を夕月へ向けた。
「隼平さん、まさか夕月さんの部屋でこんな物を見つけるなんて……」千世は申し訳なさそうにうつむき、隼平の背後に立った。だが、その唇の端に浮かぶ得意げな笑みを、夕月はしっかりと見逃さなかった。
隼平は彼女を見ず、冷ややかな目を夕月へ向けた。
「夕月……お前の金は、こうやって愛人にこんな物を買ってやるためか?」
シートは夕月の顔めがけて投げつけられ、鋭い角が頬を切り、すぐに赤い血が滲んだ。
夕月はほんの一瞬だけ動きを止めたが、ゆっくりと身をかがめ、床に落ちた薬を拾い上げ、手の中で握りしめた。
伏せた瞳が、その感情を隠している。
「あなたが他の女と遊ぶのはよくて、私が駄目な理由は?」
その声は小さく、何も気にしていないようで、それでいて覚悟を決めた者の響きがあった。
隼平の胸に、説明できない怒りが燃え上がる。彼は夕月の顎を乱暴につかみ、ひとことずつ噛み締めるように言った。「そんなに気骨があるなら、金ももうやらない。お前のヒモが養えるか見ものだな」
顔を乱暴に放られた夕月の頬は、掴まれた跡で赤く染まった。
重苦しい空気の中、千世が口を開く。「隼平さん……」
夕月がそちらを見ると、千世の手には写真立てがあった。怒りが一気にこみ上げた。「誰が触っていいって言った?返して!」
千世は怯えたふりをして隼平の背に隠れ、震える声を作る。「隼平さん、ただ昔のあなたを見てみたかっただけで……」
昔。
その言葉は、目に見えぬ刃となって二人の胸を貫いた。
隼平は写真立てを受け取り、指先にかすかな震えが走った。
それは、大学時代の彼と夕月のツーショットだった。あの頃は、未来を共にすると本気で信じていたのに。
だが、この女はもうとっくに、自分から去る覚悟を決めていた。
隼平の表情が陰り、瞳に冷たい光が宿る。
「よくもまだこんな写真を残していられたな。誰に見せるためだ?」
次の瞬間、パリンッ!
写真立てが床に叩きつけられ、粉々に砕けた。
隼平は靴先で写真を踏みつけ、強く踏みしめた。
同時に踏みにじられたのは、夕月の心だった。
「もういい!」夕月は感情を押し殺し、嗄れた声で言った。「ただ捨て忘れただけ。出て行って」
隼平は一瞬だけ動きを止め、鼻で笑って靴を引き、踵を返した。
「隼平さん……待って」千世は嬉しそうに彼の腕へと絡みつき、後を追った。
夕月は二人を無視し、ゆっくりとしゃがみ込み、砕けたガラス片を一つひとつ拾い集める。
ひと欠片拾うたびに、胸の奥もまた砕けていくようだった。
いつから、隼平とここまで壊れてしまったのだろう。
もしかすると、最初から、彼を好きになった時点で間違いだったのかもしれない。
第7話
翌朝、夕月は最後の荷物をまとめ終えると、階下へ降りた。ダイニングでは、千世が朝食を取っている。
「夕月さん!」
出かけようとする夕月を見て、千世はすぐに立ち上がって追いかけてきた。
夕月は彼女の声を無視し、そのまま玄関へ向かう。
「昨日のこと、見たでしょ?空気を読んで、自分から身を引いたほうがいいわよ」
背後から澄んだ声が響く。夕月は一瞬だけ足を止め、振り返って千世を見つめた。「それで?人の家庭を壊すのがそんなに誇らしいことなの?」
千世の顔がみるみる青ざめ、そして真っ赤になる。「愛されてないほうが身を引くべきよ!」
「愛されてないほうが?」夕月はその言葉を繰り返し、くすっと笑った。「じゃあ、大学の先生にでも聞いてみようか。本当にそう思うかどうか」
「ちょっと」千世はカッとなったが、ふと夕月の背後を見やり、口元に笑みを浮かべた。「本気で忠告してるとでも思った?」
夕月は眉をひそめる。
それなら、何のために?
「あなた、長年子どもがいないでしょ?榊原夫人も気を揉んでるの。あなたさえ身を引けば、次の女主人は私よ」
榊原夫人はたびたび隼平にプレッシャーをかけ、「夕月が産めないなら他に産める女を」と迫っていたが、そのたびに隼平が突っぱねてきた。
一部のセレブ妻たちは、そんな夕月を羨ましがっていた。それほど夫に甘やかされているのだと。
夕月が一瞬、考えに沈んだその瞬間、千世の目が光った。突然、夕月を軽く押し、自分の身体を後ろに投げ出す。
「きゃっ!」
千世は階段を転げ落ちていった。
夕月が反応する間もなく、脇を黒い影がすり抜け、真っすぐ千世のもとへ駆け寄った。
「隼平さん……」
千世は涙をぽろぽろこぼし、可憐に泣きじゃくった。
「夕月さんもわざとじゃなかったと思うの。全部私が悪いから。もう帰るわ、二人の邪魔はしない」
隼平は何も言わず、千世を横抱きにして立ち上がった。
「夕月」彼は言った。
「離婚しよう」
周りに誰もいなくなってから、夕月は痛む胸を抑えながらゆっくり立ち上がった。
千世が自作自演で転んだ。ただそれだけの理由で、隼平が離婚に同意した。
それもいい。
どうせ、もうどうでもいいことだ。
……
「天野様、このダイヤの指輪はとても質がいいですが……本当にお売りになるんですか?」
ジュエリー店のスタッフが、恭しく問いかける。
夕月はうなずく。「ええ」
「もったいないですね……榊原様、かなり時間をかけて選ばれていたのに」
夕月は聞き取れなかった。「今、何と?」
「い、いえ、何でもありません」スタッフは慌てて口を押さえた。
他人夫婦のことに口出しするんじゃない!でも後で店長には報告しておこう。
夕月はきらめくダイヤの指輪を見下ろした。これは二人が結婚した時の婚約指輪だ。
隼平は「適当に選んだ」と言っていた。だから売っても気にしないだろう。
売らなければ、海外での治療費も工面できない。
明日には、すべてから解放される。
「天野様、ご入金が完了しました」
銀行残高を確認した夕月は、智に振込先を聞き、昨日借りた金をすぐに返した。
屋敷へ戻ると、周りは静まり返っていた。夕月は階上へ上がり、スーツケースを引きずりながら、この3年間を過ごした場所を最後に見回した。もう二度と戻ってくることはない。
ちょうどいい、あの仲良し二人のための場所を空けてあげるとしよう。
皮肉な笑みを浮かべ、夕月は踵を返した。
……
その前夜、隼平は会社で徹夜し、朝帰りしてシャワーを浴び着替えるところだった。通りかかった夕月の部屋のドアが大きく開いている。
昨夜、帰らなかったのか?
いや、違う。
あまりに片付いていて、不気味なほどだ。
彼は胸騒ぎを押さえながらも、中を確かめたくなる衝動に駆られる。
だが昨日の出来事を思い出し、怒りが再び込み上げた。
あの女は、最初から心なんてなかった。
かつての裏切りも、三年前の契約結婚も、そして今の不倫も。
千世の下手な芝居にすら、弁解しようとしなかった。
隼平は視線をそらし、自分の部屋へ戻る。だが苛立ちは消えず、仕事を片付けると常連のバーへ直行した。
「おや隼平さん、やけ酒かよ」
現れた男は隼平の腿をバンと叩くと、テーブルのグラスを手に取って乾杯を求めた。
「うるさい」隼平は一気に酒をあおった。
本多弘人(ほんだ ひろと)が眉を跳ね上げ、悟ったように言った。「また奥さんと喧嘩?
お前ってやつは口が堅いんだよ。気にしてるくせに、平気なふりをするからさ。そんなに意地張ってどうすんだよ」
隼平が無言で酒を飲み続け、弘人は深いため息をついた。
その時、ウェイターが近づき弘人に告げた。「本多様、お薬の時間です」
隼平はちらりとその薬を見て、鼻で笑う。「そんな薬を飲んでるのか」
弘人は一瞬固まり、手にした薬を見て顔を赤らめて言い返す。「何言ってんだ、これは心臓病の薬だぞ!」
隼平の笑みが徐々に消え、姿勢を正した。
「今、何の薬だと言った?」
「心臓病だよ、知ってるだろ?シルデナフィルは心臓病の治療にも使われるんだ。お前……」
シルデナフィルが心臓病治療に使われる。
この事実が頭を駆け巡り、隼平は全身の血液が逆流するような感覚に襲われた。
数日前、夕月が苦しそうに膝をつき、救急車を呼んでくれと訴えた場面が蘇る。
あの薬は他の男のものではなく、夕月自身が心臓病を患っていた可能性がある!
隼平はがたんと立ち上がり、ふらつきながら出口へ向かう。
ちょうど誰かがドアを開けて入ってくる。
男が隼平の顔を見るなり、にやっと笑いながら言った。「おい隼平、奥さんに小遣いやってないのか?うちの質屋に結婚指輪持ち込んで売ってったぞ」
男はポケットから指輪ケースを取り出す。「これ、特注だったんじゃないのか?昨日の店員が奥さんを覚えてたから良かったが、そうじゃなきゃデザイン台無しだったな」
震える手で指輪を受け取ると、隼平は他のことなど気にも留めず、そのまま駆け出した。
「おい!どこ行くんだよ!」
男は苦笑いしながら首を振り、ソファーの弘人を見て舌打ちした。
「榊原社長、また奥さんのご機嫌とりかよ」
……
一方そのころ、夕月は国内での用事をすべて片付け、空港にいた。
「天野様、ご搭乗の時間です」
夕月はうなずき、大きな窓越しに外の景色を見つめる。
隼平、あなたの幸せを願ってる。どうか平穏で、思い通りの人生を。
そして……この先二度と会うことがないように。