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暗流の先に春が咲く
「この服、ちょっと露出が多すぎないかな……着なくてもいい?」 松原真菫は、手の中にある体をほとんど隠せない黒いフィッシュネットのドレス...
Chương (1)
第1章
「この服、ちょっと露出が多すぎないかな……着なくてもいい?」
松原真菫は、手の中にある体をほとんど隠せない黒いフィッシュネットのドレスを見て、顔が真っ赤になった。
これを着て椎名和哉の誕生日パーティーに参加するなんて、考えただけで全身が燃え上がりそうだった。
「ねぇ、着てよ。上着を羽織るから、他の人には見えないって」
和哉は彼女の細い腰を抱きしめ、耳元で甘えるように囁いた。
「こんなに愛してるんだ。お前のためにたくさん尽くしてきたじゃないか。俺のささやかな誕生日の願い、一つくらい叶えてくれてもいいだろ?」
第1話
「この服、ちょっと露出が多すぎないかな……着なくてもいい?」
松原真菫(まつはら ますみ)は、手の中にある体をほとんど隠せない黒いフィッシュネットのドレスを見て、顔が真っ赤になった。
これを着て椎名和哉(しいな かずや)の誕生日パーティーに参加するなんて、考えただけで全身が燃え上がりそうだった。
「ねぇ、着てよ。上着を羽織るから、他の人には見えないって」
和哉は彼女の細い腰を抱きしめ、耳元で甘えるように囁いた。
「こんなに愛してるんだ。お前のためにたくさん尽くしてきたじゃないか。俺のささやかな誕生日の願い、一つくらい叶えてくれてもいいだろ?」
その言葉に、真菫は唇を噛みしめた。
父が作ったギャンブルの借金を返してくれたのも、母の入院費を払ってくれたのも、弟を私立高校に転校させてくれたのも、すべて和哉だった。
真菫が絶望のどん底にいた時、和哉は現れた。
彼が言うように、これほどまでに尽くしてくれたのだから、和哉が気に入った服を着て願いを叶えてあげるくらい、断る理由はないはずだ。
そう思うと、真菫は頷いた。
「わかった。でも、今回だけだからね」
「うん、安心して。次はもうないからさ」
和哉は満足そうに微笑み、彼女の頬にそっとキスを落とした。
「じゃあ、今夜ね」
「ええ」
真菫もキスを返し、和哉が自分の小さなアパートから出ていくのを笑顔で見送った。
荷物をまとめ、母のお見舞いに行く準備を始めた。
家を出ようとしたその時、ソファから「ピコン」と通知音が聞こえた。
見に行くと、それは和哉が忘れていったタブレットだった。彼のLINEがログインされたままで、グループチャットの通知がひっきりなしに表示されている。
表示されたメッセージの内容にちらりと目をやっただけで、真菫の全身の血が凍りついた。
【どうだ、椎名さん。あれって、OKしたか?】
【当たり前だろ。この俺にかかれば、モノにできないわけないだろう。今夜、楽しみにしとけよ。ジャケットを脱がせたら、お前らが投票で選んだあのドレスが、間違いなく真菫の体にあるからな】
【さすが椎名さんだな。あの高嶺の花の松原先輩が、言いなりなんだもんな。昔、あれだけ大勢が彼女の連絡先を聞きたがってたのに、見向きもしなかったくせに】
和哉はジト目のスタンプを送った後、こう続けた。
【高嶺の花?笑わせるな。ベッドの上じゃ、そのへんの女よりよっぽど積極的だぜ】
見慣れたアイコンが冷たい言葉を吐き出すのを見て、真菫は立っているのもやっとで、ソファに崩れ落ちそうになった。
心臓が張り裂けるような痛みが全身に広がり、体は激しく震えだした。
しかし、彼女への攻撃はまだ終わらない。グループのメッセージは続いていた。
【マジかよ、じゃあ椎名さんはもう飽きて、終わりにするつもり?】
【当然だろ。綾音がもうすぐ帰国するんだ。椎名さんが松原と芝居を続けるわけない。そもそもあの女に近づいたのは、綾音の憂さ晴らしのためなんだから】
【そうそう、綾音は椎名さんの憧れだからな。昔、大学のミスコンで綾音が松原に負けた時、松原は『くだらない』って言って綾音の面子を丸潰れにしたんだ。それで綾音はキレて、交換留学生として海外に行っちまった。それからもう三年だ。椎名さんがこの恨みを忘れるわけないだろ】
そのメッセージで、真菫は記憶の欠片を思い出した。
確かに、そんなことがあった。
当時、彼女はバイトで金を稼ぐのに必死で、誰かにミスコンのトロフィーを受け取りに来いと言われたが、賞金もないのに面倒くさくて「くだらない」と言ってしまった。
たったそれだけのことで、和哉に恨まれたというのか?
真菫は、あまりの理不尽さに言葉を失った。
熱い涙が止めどなく流れ落ち、彼女はソファの上で丸くなり、自分を抱きしめた。
どれくらい泣いただろうか。ようやく落ち着きを取り戻した真菫は、昨日面接を受けた会社の採用担当者に電話をかけた。
「入社の件、お受けします」
昨日、彼女は有名な会社の面接を受けた。給与も待遇も非常に良く、年収はボーナスや手当を合わせれば一千万円になる。
それだけあれば、家の事情を十分に支えられる。
ただ、海外勤務が条件だった。当時は和哉と離れたくなくて、少し考えさせてほしいと伝えていた。
でも今、もう考える必要はなかった。
「本当ですか?よく考えましたか?この仕事はA国に3年間赴任し、帰国はできませんよ」
採用担当者は念を押した。
真菫はかすれた声で答えた。
「はい、考えました。ただ、準備の時間をください。家のことを片付けてから行きたいんです」
「問題ありません。就労ビザの取得にも時間がかかりますから、一ヶ月後に出発ということで」
採用担当者は快く承諾した。
電話を切った。
真菫は、スマホの待ち受け画面になっている和哉とのツーショットをぼんやりと見つめた。
画面の光が目に染み、写真の上に置いた指先が震える。
写真の中の和哉は、愛おしそうに自分を見つめ、真菫は目を閉じてケーキに願い事をしている。
それは、二人が付き合って三周年の記念日に撮った写真だった。
あの時、「和哉と永遠に一緒にいられますように」と願った。
今、真菫の頭の中にはただ一つの思いだけが残っていた。
和哉、これからは二度と会うことはしない。
第2話
真菫は、あのドレスをゴミ箱に叩き込んだ。和哉が買ってくれたお揃いの服やマグカップ、歯ブラシも、すべて一緒に捨てた。
そうしてようやく、少しだけ気分が晴れた。
病院へ向かい、階段の踊り場に差し掛かった時、母の担当医が病室から出てくるのが見えた。
挨拶をしようとした瞬間、隣にいた若い看護師がため息混じりに言うのが聞こえた。
「あのおばさん、本当にかわいそう。もう助からないのに、あんなに辛い思いをさせられて」
真菫の耳元で、「ブーン」という音が鳴り響いた。
助からないって、どういうこと?
担当医は、治療を続ければ二年後にはきっと良くなると言っていたはずなのに。
担当医は看護師をちらりと見て、窘めた。
「その話は松原さんには絶対に聞かせるな。椎名さんが言ってたんだ。松原さんが知ったら悲しむから、絶対に秘密にしてくれって」
「松原さん、羨ましいなあ。彼氏があんなに良くしてくれるなんて。お母さんの医療費を全部払ってくれるだけじゃなくて、そんな細かいところまで気遣ってくれるなんて。きっとすごく愛されてるんですね」
看護師は羨ましそうに言った。
真菫は声もなく、乾いた笑みを浮かべた。
和哉がすごく愛してる?
今日までなら、彼女もそう思っていたかもしれない。
医者たちが去った後、真菫は病室に入った。
管だらけの母の姿を見て、真菫は涙をこらえきれなかった。
先ほどの医者と看護師の会話と、今日見たグループチャットのメッセージが、頭の中で交互に再生される。
和哉、いったいどの姿は本当のあなたなの?
和哉、この恋が最初から最後までただの嘘である方がいい。少しも本心が混じっていませんように。
そうでなければ、別れる時、お互いが苦しむことになる。
今のこの状況は、むしろ好都合だ。
真菫が和哉のことばかり考えていると、その和哉から電話がかかってきた。
「真菫、準備はできた?いつ頃来られそう?」
和哉はわざと「準備」という言葉を強調した。
真菫は深呼吸して涙を拭い、できるだけ普段通りの声で答えた。
「もう少し後かな。まだ病院でお母さんに付き添ってるから」
和哉の声は、相変わらず優しかった。
「わかった。じゃあ、着いたら教えて。迎えに行くから。出かける前に約束したこと、忘れないでね?」
「うん」
真菫は電話を切った。
これ以上一言でも話したら、泣き声が漏れてしまいそうだった。
トイレで顔を洗い、化粧を直し、気を取り直してから、タクシーで和哉の誕生日パーティーへと向かった。
約束の場所に着いても、真菫は和哉に電話せず、直接会場へと上がった。
個室のドアの前に立つと、中から囃し立てる声が聞こえてきた。
「椎名さん、後で真菫の服を脱がすのは、どっちがやる?それとも俺たちが?」
和哉は眉をひそめた。
計画通りとはいえ、そんな風に言われると、さすがに気分が良くない。
彼は無表情で酒を一口飲み、言った。
「俺には俺のやり方がある。お前らは見てればいい」
「そりゃ楽しみだ」と皆が笑った。
その言葉を聞いて、真菫の顔から急速に血の気が引いた。冷や汗が背中をびっしょりと濡らす。
ドアの覗き窓から中を覗いた。
和哉は友人たちに囲まれ、その隣には、ウェーブのかかったロングヘアの美しい女性が座っている。
真菫には見覚えがあった。ミスコンで二位だった、浅川綾音(あさかわ あやね)だ。
そして、和哉の想い人でもある。
和哉の友人たちは、綾音のご機嫌を取っていた。
「綾音、椎名さんが本気だって、これで信じただろ。今度は意地を張って出て行ったりするなよ」
「そうそう。これから起こることを考えると、笑いが止まらないぜ。もうカメラの準備は万端だ」
綾音はその言葉に満足げな表情を浮かべ、隣の和哉を見て眉を上げた。
「和哉、松原さんってすごくクールな子だったじゃない。どうやって口説き落として、あんなに夢中にさせたの?」
「俺が知ってる、俺が!」
隣の男が先に答えた。
「椎名さんが人をそそのかして、あいつの親父をギャンブルに引きずり込んだんだ。多額の借金を作らせて、それを代わりに返してやった。知らないだろうけど、金を返してもらった時、松原は椎名さんに土下座しそうな勢いだったぜ」
「ははは、その金も結局左手から右手に移しただけ。全部、椎名さんの小遣いみたいなもんだ」
「それから、入院してる母親。本当は助かる見込みがあったのに、椎名さんが裏で手を回して、今は病院で半死半生の状態で生かされてるだけ。椎名さんが医療費を全部払ってるから、松原は何も知らずに感謝してるんだ」
「弟もそうだ。元々は学校でうまくやってたのに、椎名さんが人をけしかけてイジメさせた。それで学校に行けなくなって、退学したいって騒ぎ出して。松原が頭を抱えてる時に、椎名さんが手を貸して、私立高校に転校させてやったんだ」
「ギャンブル好きな父親、重病の母親、反抗期の弟、そしてボロボロの松原。そんな時に、椎名さんが天から降ってきた救世主ってわけだ。クールなミスコン女王どころか、天女だって落ちるぜ」
第3話
その言葉に、個室の中は爆笑に包まれ、誰もが和哉に親指を立てた。
「さすが椎名さんだな」
「すげぇよ、椎名さん。松原が真相を知ったら、どんな顔してぶっ倒れるか、想像もつかないぜ」
中は笑い声に満ちているが、ドアの外の真菫の顔は真っ青になり、胸を押さえ、息もできないほどだった。
博打などしたことのなかった父が、なぜ急にあんな悪癖に染まったのか。転院前はかなり安定していた母の容態が、大病院に移ってからなぜ悪化したのか。ずっと聞き分けの良かった弟が、なぜ急に退学したいと騒ぎ出したのか。
すべて、和哉が仕組んだ罠だった。
悪寒が背筋をせり上がって、真菫は自分の爪が手のひらに食い込む音を聞いた。
和哉が自分を泥沼から救い出してくれる天使だと思っていた。まさか、地獄に突き落とした悪魔そのものだったとは。
三年も。
どうしてこんなにも目が曇っていたのだろう。
こんな最悪な男を、丸三年も愛していたなんて。
真菫は部屋に飛び込んで彼を問い詰めたかったが、理性がそれを引き止めた。
今の自分では、和哉に太刀打ちできない。
椎名家は、この南津川市(みなみつがわし)で絶大な力を持っている。
もし大勢の前で和哉と事を構えれば、病院にいる母も、借金返済のために必死で働いている父も、一週間後に大学受験を控えた弟も、みんな報復されるだろう。
体が氷のように冷たくなり、呼吸さえも冷気を帯びているようだった。
真菫は必死に涙をこらえた。
泣いちゃだめ、強くならなきゃ、と自分に言い聞かせた。
「おい、もう黙ってろ。真菫がもうすぐ来る。今の話を聞かれたら、今夜の楽しみが台無しになるだろ」
和哉は思わず笑っている皆を遮った。
彼の言葉を聞いて、真菫は彼らに見つからないよう、さっとドアの前から身を引いた。
その時、フルーツの盛り合わせを持ったウェイターがやってきた。
「お客様、少々お通しさせていただきます」
真菫はすぐに涙を拭い、彼について部屋に入った。
ウェイターの後ろにいる真菫を見た瞬間、皆は顔を見合わせ、にやにやしながら挨拶した。
「松原さん、来たんすか?」
和哉は少し緊張した面持ちで彼女を見た。
「いつ来たんだ?どうして教えてくれなかったんだよ、迎えに行ったのに」
誰かがにやにやしながら口を挟んだ。
「おいおい、椎名さんと松原さんは一瞬も離れられないんだな。こんな短い距離でも迎えに行こうとするなんて、甘々すぎだろ」
以前なら、真菫はこれをからかいだと受け取っただろう。だが今は、その裏にある満ち満ちた悪意と嘲笑が聞き取れた。
彼女は何も言わず、ただ和哉の隣に座った。
真菫の潤んだ目に気づき、和哉はさらに緊張し、無意識に彼女の手を握った。
「どうして泣いてるんだ?手もこんなに冷たい……」
和哉と目を合わせられなかった。合わせたら、感情が爆発してしまいそうだったから。
真菫は彼の肩に顔をうずめ、小声で言った。
「お母さんの容態が良くなくて、心配で……さっき下で少し泣いてから来たの」
その言葉を聞いて、和哉はほっと息をついた。
真菫の背中を優しく叩き、慰めた。
「大丈夫だよ。おばさんはきっと良くなるさ」
彼が顔を上げると、向かいに座っている綾音が、どこか不満げな目で見つめているのが目に入った。
次の瞬間、腕の中の真菫を押し返した。
和哉はドアのそばにいる友人に言った。
「真菫が寒いらしい。エアコンの温度を上げてくれ」
「了解!」
その友人は、嬉々としてエアコンの温度を30度に設定した。
あっという間に、部屋は蒸し暑くなった。
皆が上着を脱いだが、真菫だけはコートを着たままだった。
その場にいる全員が、悪意のある視線を彼女に向けた。
「松原さん、こんなに暑いんだから、服を脱いだらどうっすか」
真菫は無意識にコートの襟元をかき合わせ、さらに体をきつく包んだ。
綾音は彼女を見て、とても親しげな笑顔で言った。
「そうよ。こんなに暑いのに、二枚も着てたら苦しいでしょ」
真菫は彼女を無視し、ただ硬い表情で和哉の方を向いた。
「和哉、どう思う?私、脱ぐべき?」
第4話
真菫の目を見つめ、和哉は息が荒くなった。どう答えるべきか、一瞬わからなくなる。
何かがおかしい。
真菫が、こんな目で見るはずがない。
だが、個室の中はあまりに暑く、その熱気で真菫の異常について考えることすらできなかった。
和哉がなかなか答えないのを見て、野次馬の一人が焚きつけた。
「椎名さん、松原さんに服を脱がせてやれよ。暑さで参っちまうぜ」
彼らの視線と、綾音の期待に満ちた眼差しを受け、和哉は唇をきゅっと結んだ。
「そうだな、こんなに暑いんだ。真菫、コートを脱いだら?」
真菫は答えず、ただじっと彼を見つめていた。その瞳には、何か決意が宿っているようだった。
「わかった」
そう言うと、コートのボタンを外し始めた。
一つ目のボタンが外れ、和哉の目に、彼女の白い胸元が映る。そこには、昨夜の愛の営みの痕が、まだ赤く残っていた。
真菫は、ゆっくりと、もったいぶるように脱ぎ続ける。
和哉はその光景に強く不快を覚え、手の甲に血管が浮き上がるのを感じながら、彼女を無理やり自分の腕の中に引き寄せ、他の者たちに背を向けさせた。
皆は呆気に取られて彼を見つめた。話が違うじゃないか、と。
真菫をきつく抱きしめていた和哉は、苛立った声で言った。
「もういいだろ!早くエアコンを切れ!ケーキが溶ける!」
先ほどまで騒いでいた男は、慌ててエアコンを消した。
真菫は和哉をぐいと押し、その腕から抜け出した。
「和哉への誕生日プレゼント、車に忘れちゃった。取ってくるね」
「いいよ、プレゼントなら家に帰ってからで」
和哉は無意識に彼女の手首を掴み、行かせたくないと思った。
「和哉、それはひどいわ。私たちも松原さんがどんなプレゼントを用意したのか見たいもの」
綾音が唇を尖らせ、不満そうな顔をした。
その言葉を聞いて、和哉は手を離し、真菫を見た。
「じゃあ、行ってこい。すぐに戻ってこいよ」
真菫は頷くと、足早に個室を出て行った。
これ以上一歩でも遅れたら、その場で吐いてしまいそうだった。
彼らのことを思うだけで、吐き気がした。
真菫が去ると、個室は再び元の騒がしさを取り戻した。
「椎名さん、どういうことだよ。なんで計画変更なんだ?」
「そうだよ、松原を脱がせて楽しむって話だったじゃんか」
皆が口々に和哉に問い詰める。
「まさか、可哀想になったの?」
綾音は鋭く突っ込みながら、怒ったように彼を見た。
「もしかして、松原さんのこと、好きになっちゃった?」
「そんなわけないだろ!」
和哉は即座に否定した。
「綾音、誰に誤解されてもいいけど、お前にだけは誤解されたくない。お前の憂さ晴らしのためじゃなかったら、真菫を追いかけるわけないだろ。
お前の機嫌が直って、そばにいてくれるなら、なんだってするさ」
その言葉に、綾音の顔にようやく笑みが戻った。
だが、その笑顔も一瞬で消え、彼女はふんと鼻を鳴らした。
「じゃあ、さっきはどうして彼女が服を脱ぐのを止めたのよ?」
「あれじゃ刺激が足りないと思ったんだ」
和哉は頭が混乱する中、なんとか言い訳を見つけ、その場をやり過ごそうとした。
綾音は、それが本心か嘘かを見定めるように彼をじっと見つめた。
やがて、一言一言、区切るように言った。
「わかったわ。じゃあ、次にあの女をいじめる時は、私の言う通りにやってもらうから。そうじゃなきゃ、もう二度と口をきいてあげない」
和哉は仕方なくため息をつき、甘やかすように頷いた。
「わかったよ、お嬢様。全部お前の言う通りにする」
綾音は再び笑い出し、身を乗り出して和哉の頬に「チュッ」とキスをした。
個室の連中はその光景を見て、すぐにからかい始めた。
「キスしろ、キスしろ!」
階下でスマホを使い、個室の会話を盗み聞きしていた真菫は、道端のゴミ箱に向かって、うぇっと嘔吐した。
真菫はわざともう一台のスマホを個室に残してきた。自分がいなくなった後、彼らが何を話すか聞くために。
案の定、ろくでもない連中だった。
真菫は胃の中のものをすべて吐き出した。
喉から込み上げてくる酸っぱいものが、悪臭を放つゴミに飛び散り、その刺激でこめかみがズキズキと痛み、胆汁まで吐き出してしまいそうだった。
しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻した。
アパートの階下に戻った真菫は、温かいラーメンを注文した。
食べ終わったばかりの時、和哉から電話がかかってきた。
「真菫、プレゼントを取りに行くのにずいぶん時間がかかってるけど、もう戻ってこないのか?」
「ちょっと気分が悪くなっちゃって。先に戻るね、みんなで楽しんで。誕生日おめでとう」
真菫はそう言うとすぐに電話を切り、スマホをマナーモードにした。
さっき聞いた言葉が、まるで氷のように体にまとわりつき、彼女を絶望の淵に突き落とす。
どうすればいいのかわからず、まずは温かいものを食べて体を温め、それから熱いシャワーを浴びて、少しでも気分を良くするしかなかった。
シャワーを浴びて出てくると、リビングに和哉がいるのを見て、真菫は少し驚いた。
「どうして戻ってきたの?誕生日パーティーの最中じゃなかったの?」
第5話
和哉は手にしたラーメンを置き、笑顔で近づいてくると、いつものように彼女の手からタオルを受け取り、髪を拭き始めた。
「大事な真菫は体調が悪くなったんだ。もちろん帰ってくるさ。誕生日なんて、お前の体より大事なものじゃない」
真菫は呆然と立ち尽くした。
泣きたいような、笑いたいような気分だった。
この男の演技はあまりにうまく、言葉のどれが真実で、どれが嘘なのか、もうわからなくなっていた。
彼女が黙っているのを見て、和哉はさらに優しく言った。
「お前の大好きなラーメンだよ。これを食べてもまだ気分が悪かったら、病院に連れて行ってあげる」
真菫は黙ったまま、唇を固く結び、涙が目元に溜まっていた。そして、鼻をすすった。
涙が落ちてしまい、その熱さに和哉はびくりとした。
慌ててドライヤーを置いた。
「真菫、どうして泣いてるんだ?怒ってるのか?」
向こうはなかなか口を開かず、和哉はさらに不安になった。彼女の体を自分の方に向けさせ、説明を始めた。
「今夜、わざとコートを脱がせようとしたわけじゃないんだ。ただ、ちょっと刺激が欲しくて、からかっただけなんだ。ほら、結局、本当に脱がせたりはしなかっただろ?」
「怒ってないわ」
真菫は詰まった声で答えた。
元々は泣きたくなかったが、自分をコントロールできなかった。
三年間も愛した人が、結局見せかけの優しさの裏側に、こんなにも腐っていたなんて。
甘い思い出のすべては、彼女を完全に打ちのめすために、相手が丹念に編み上げた罠だった。
こんな絶望は、あまりにも痛すぎて、涙を流さずにはいられなかった。
「怒ってないなんて嘘だ。あのドレスも、お揃いのマグカップも、全部ゴミ箱に捨てられてたの、見たんだからな」
和哉は優しく親指で真菫の涙を拭った。
しかし、彼女の涙は拭っても拭っても止まらない。彼は頭を下げ、そっとその涙に口づけをした。
だが、真菫は力いっぱい彼を突き飛ばした。よろめきながら、和哉はソファにどさりと座り込んだ。
一瞬にして気まずい空気に包まれた。
真菫は唇を噛みしめ、黙っていた。
今、和哉を突き放すべきではないとわかっている。でも、この人に触れられると、吐き気がする。
和哉が立ち上がると、誤ってソファの上にあったタブレットを床に落としてしまった。
腰をかがめて拾い上げ、画面が点灯すると、そこに表示されたメッセージを見た瞬間、背筋が凍る思いがした。
「今日、俺のタブレットに触ってないよな?」
彼は慎重に尋ねた。
「触ってないわよ」
真菫は何も知らないふりをした。
そして、首を振った。
「あなたが出かけた後、すぐにお母さんのお見舞いに行ったの。帰ってきてからは気分が悪くて、下でラーメンを食べて、シャワーを浴びてた。シャワーから出たら、あなたが帰ってきたのよ」
その言葉を聞いて、和哉はほっと息をついた。
無表情でタブレットのLINEをログアウトさせ、真菫を見つめた。彼女が言っていることが本当なのか、嘘なのかを確認するかのように。
真菫は拳を固く握りしめ、逆に問いかけた。
「どうしたの?そのタブレットに、何か人に見せられないものでもあるの?」
和哉は仕方なくため息をつき、タブレットを相手に差し出した。
「そんなわけないだろ。お前に隠し事なんて何もない。信じられないなら、今すぐ開けて見ていいよ」
「見ないわ」
真菫は顔をそむけた。
「わかった、わかった。見ないならいい。もう怒らないでくれよ」
和哉はもう一度、彼女を抱きしめようと一歩前に出た。
真菫は一歩下がり、ゴミ箱を指さした。
「これらの物を全部捨てて、新しいのを買ってくれたら、もう怒らないから」
「わかった。全部新しく買う。真菫が怒らないでいてくれるなら、それでいい」
和哉はその言葉を聞いて、ようやく笑顔を見せた。
「今夜は誕生日もろくに楽しめずにお前のところへ帰ってきたんだ。明日は改めてやり直そう。ついでに、友人の歓迎会もやるから、お前も一緒に行こうよ。今度は途中で抜け出すのはなしだからな」
第6話
真菫の体は、かすかにこわばった。
歓迎会?
また何か新しい手口を考えて、自分を辱めるつもりなのだろうか。
断ろうとしたが、和哉は困った顔で彼女を見ながら言った。
「もう仲間たちには、お前を連れて行くって約束しちゃったんだ。俺の恋人として、お前は顔を出さないわけにはいかないだろ」
真菫は彼の目を見つめ、一言一言、はっきりと言った。
「あなたは、本当に私に行ってほしいの?」
和哉は唇をきゅっと結び、少し迷った。
明日はもっと大勢の人がいる。そうなれば、真菫の名誉は完全に地に落ちるだろう。
喉が渇き、頷くべきかためらった。
その時、彼のスマホの画面がふと光った。
視界の端に、真菫はそれが綾音からのメッセージだと気づいた。
【約束通りにしてね。私の気が済むように。また考えを変えたりしないでよ。そうじゃなきゃ、もう二度と口をきいてあげないから】
【わかった】
和哉は返信した後、すぐに画面を消して真菫をきつく抱きしめた。
笑いながら彼女を説得しようとする。
「もちろん行ってほしいさ。俺にこんなに綺麗な恋人がいるって、みんなに知らしめたいんだ。
断らないでくれよ。だって今日の誕生日、お前は最後まで一緒にいてくれなかったじゃないか」
真菫の唇の端に、乾いた笑いが張り付いたようだった。
袖に隠した手で、太ももを強くつねり、涙をこらえた。
「わかったわ。明日、一緒に行く」
今日の個室では、和哉に服を脱ぐのを止めさせた。
明日は、どうするのだろう。
真菫は知りたかった。この三年間、和哉が数えきれないほど囁いた「愛してる」という言葉に、果たして一言でも本心からのものはあったのか。
……
それは、屋外での歓迎会だった。
多くの人がキャンプやピクニックに来ていて、和哉一行のほかにも、周りにはたくさんの一般客がいた。
ただ、彼らの場所が一番豪華だっただけ。
テントを張るだけでなく、プロジェクター用のスクリーンまで設置されている。
一見したところ、何も異常はなさそうだった。
真菫はぼんやりと和哉の横に歩きながら、彼の取り巻きたちの偽りの賞賛を聞いていた。
突然、音楽を流していたプロジェクターから、赤面するようなうめき声が聞こえてきた。
全員がそちらに目を向けた。
綾音が甲高い声を上げた。
「何これ?松原さん、ビデオに映ってるの、あなたじゃない?」
真菫が顔を上げた瞬間、まるで雷に打たれたかのようだった。
再生されているビデオのヒロインは彼女で、相手役は太った中年男だった。男は後ろ姿しか映っていないが、彼女の顔と体は、様々な卑猥な表情と共に、アップで撮影されていた。
一目で理解した。これはAIによる顔の合成だ。
「違う、これは私じゃない。これは偽物よ」
真菫の体は、瞬時に氷のように冷たくなった。
彼らがこんなにも汚い手を使うとは、思ってもみなかった。
「松原さん、椎名さんがお前にあんなに良くしてやってるのに、裏で他の男と浮気するなんて、恥を知れ!」
「この身分で椎名さんと付き合えるだけでもありがたいと思えよ。なのにまだ浮気するなんて。だからお前は淫乱だって言われるんだ」
和哉の友人たちが口々に、真菫に汚水を浴びせかけた。
周りでキャンプをしていた一般客も、野次馬根性で集まってきて、スマホを掲げてビデオを録画し始めた。
彼らは真菫を指さして囁き合った。
「まさかなあ、あの子、あんなに綺麗なのに、そんなことするなんて」
「お前、わかってないな。あの体つきを見ろよ。絶対、寂しさに耐えられない飢えた女だよ」
「あんなブサイクな男でもいけるんだな。なあ、俺が金を出したら、一晩付き合ってくれるかな?はははは」
悪意に満ちた声が真菫の耳に突き刺さり、彼女は震えながらプロジェクターを消しに行こうとしたが、両足は非常に重くて動けなかった。
絶望と無力感に苛まれながら、真菫は和哉に視線を向けた。
これが、彼らの計画だった。
綾音の憂さ晴らしのために、自分の人生を台無しにするつもりなのか。
真菫の視線に、和哉は胸が締め付けられるような痛みを感じ、前に出てプロジェクターを蹴り倒した。
「もうやめろ!消せ!てめえら、何見てんだよ、失せろ!」
スクリーン上のビデオは、突然止まった。
顔色が真っ白な真菫を見て、和哉の胸が何故か痛むのを感じた。
前もってこの計画に同意していたはずなのに、なぜ今、こんなにも辛いのだろう。
「お前じゃないって、わかってる。真菫、怖がるな」
和哉は、自分でも制御できず、彼女を抱きしめようと前に出た。
しかし、綾音に腕を掴まれた。
「和哉、騙されないで。こんな尻軽女、あなたにはふさわしくないわ。別れなさい」
綾音は、必死に目配せをした。
これが、彼らの打ち合わせ通りだった。
大勢の前で真菫の浮気を暴露し、和哉を被害者として、何の責任も負わずに真菫と別れる、という筋書きだ。
和哉は口を開いたが、「別れよう」という言葉がどうしても言えなかった。
その時、派手な身なりの中年女性が現れた。
彼女は真菫に向かって走り寄り、いきなり平手打ちを食らわせた。
「この泥棒猫!やっと見つけたわよ!人の旦那をたぶらかしやがって、ただじゃおかないから!」
この思わぬ展開に、周りの野次馬はさらに興奮し、一斉にスマホを二人に向けて撮影し始めた。
第7話
真菫は殴られて呆然となった。
その中年女性は、さらに彼女の髪を掴み、服を引き裂こうとする。真菫は唇を噛みしめて必死に抵抗した。あまりに強く噛んだため、唇から血が滲んだ。
「私じゃない、私はそんなことしていない!」
真菫は力の限り叫んだが、周りの誰も彼女を信じない。助けに入る者もいない。
「あんたじゃないだって?写真だってあるんだから!」
中年女性はカバンから写真の束を取り出すと、それを天に向かってばらまいた。写真はひらひらと舞い散り、野次馬たちがそれを拾い集めた。
そこに写っていたのは、まぎれもなく、真菫が様々な男たちと親密にしている姿だった。
和哉もその光景を見て、呆然となった。
これは、元の計画にはなかったはずだ。
彼は声を低くし、歯を食いしばりながら仲間たちに問い詰めた。
「誰がこいつを呼んだんだ?」
他の連中は慌てて首を振った。
「椎名さん、俺たちじゃありません」
彼らが嘘をついているようには見えず、和哉の頭は「ガン」と殴られたように混乱した。
一歩前に出て、その中年女性を引き剥がした。
真菫の目には涙が光っていた。まるで引き裂かれたようで、もう元の自分を取り戻すことはできないかのようだった。
前に歩み寄る和哉を見つめながら、これも彼らの計画の一環なのだろうかと思った。
また、こんな英雄的な救出劇を演じて、自分が心底から彼に依存し、犬のように周りを離れられなくさせるつもりか?
だが、予期せぬことに、和哉は彼女に重い平手打ちを食らわせた。真菫はよろめき、数歩後ずさった。
和哉は怒りに燃える目で真菫を睨みつけた。
「俺が何か不自由させたか?俺が満足させられなかったか?どうして他の男のところへ行ったんだ?
お前の母親の入院費を払い、父親の借金を返し、弟のために良い学校まで探してやった。これが、お前の俺への恩返しか?」
彼の理性は、怒りによって粉々に引き裂かれた。
真菫は愕然として口を開いたが、反論の言葉一つ出てこなかった。
彼女の瞳は、絶望的な悲しみに満ちていた。
「私がやってないって言ったら、信じてくれる?」
「どうやって信じろって言うんだ。証人も物証も揃ってるじゃないか」
和哉は真菫の顎を掴んだ。その力は、まるで相手を握り潰さんばかりだった。
元々は真菫に少しの憐憫の情を抱いていたが、この不倫騒動が起きたことで、その罪悪感は完全に消え去った。
低い声で悪口をつぶやき、彼女を放して冷たく言った。
「俺たち、別れよう」
そう言うと、彼は背を向けて去っていった。
彼の取り巻きたちも、慌てて後を追った。
「椎名さん、待ってくださいよ!」
和哉が去った後、あの中年女性は真菫に唾を吐きかけた。
「この泥棒猫。今度うちの旦那をたぶらかしたら、ニュースのトップにしてやるから」
そう言って、彼女も去っていった。
残されたのは、真菫を指さして囁き合う野次馬の群れだけだった。
真菫は自分のバッグを拾い、一番近くのトイレに駆け込んだ。
後で母のお見舞いに行かなければならない。こんな無様な姿では会えない。
涙はすでに風に乾き、もう泣くことさえできなかった。
トイレで身なりを整え、出ようとした時、ふと聞き覚えのある声がした。
「言われた通りにやりましたよ、お嬢様。そろそろ報酬をいただけますかね」
真菫はそこで初めて、自分が慌てて男子トイレに入ってしまっていたことに気づいた。
声は、向かいの女子トイレから聞こえてくる。
そっと足を動かして覗き見ると、話しているのが先ほどの中年女性で、その向かいに立っているのが綾音であることに気づいた。
真菫は急いでスマホを取り出し、その光景を撮影した。
「わかった、わかったわ。明日もあいつの住んでるところに行って、もう一回騒ぎを起こしてきて。周りの人間全員に、あいつが恥知らずの泥棒猫だって思わせるのよ」
綾音は札束を取り出し、その女性に渡した。
「残りの報酬は、事が済んだら払うわ」
「へいへい、お任せください。こういうのは手慣れてますんで。あの女の周りの奴らがみんな知るようにしてやりますよ」
女性はにやにやしながら札束を数え、去っていった。
真菫はその光景を見て、一つの考えが頭をよぎった。
この件は、和哉が知っているのだろうか?
第8話
真菫は、和哉が買ってくれた小さなアパートに、ぼんやりとした足取りで戻った。
ドアを開ける前に、中から男女の睦言が聞こえてきた。
「和哉、あなたって本当に素敵。真菫に仕返ししてくれるって約束して、本当にやってくれたんだもの。愛してるわ」
綾音の甘ったるい吐息が聞こえてくる。
真菫はドアを開けようとしていた手が止まった。
耳はまるで何かで塞がれているかのように、周囲の音がまったく聞こえなかった。
和哉が何を言ったのか、聞き取れない。そして、これ以上聞く勇気もなかった。
やはり、彼はすべてを知っていた。
真菫はよろよろと踵を返し、逃げ出した。
階下に着いた途端、弟・松原智貴(まつはら ともき)の担任教師から電話がかかってきた。
彼女の胸がどきりと高鳴る。大学受験を間近に控えたこの大事な時期に、弟に何かあったのだろうか?
慌てて電話に出た。
担任の切羽詰まった声が聞こえてきた。
「智貴くんのお姉さんですね?すぐに病院に来てください。智貴くんが、飛び降りを……」
「何ですって?」
真菫は膝から崩れ落ち、スマホが指の間から滑り落ちて、路上で鈍い音を立てた。
スマホを探して手を伸ばしたが、冷たい画面に指が触れた時、腕全体が震えていることに気づいた。
「どうして……智貴が、どうして飛び降りなんて……」
あまりの驚きと恐怖に、彼女の声は歪んでいた。
「あなたが不倫相手だとネットで騒がれて……智貴くんが思い詰めて、それで……今、中心病院で緊急手術中です。急いで来てください」
担任はそう言うと電話を切った。
真菫は舌を噛み切り、それでようやく意識を取り戻した。
智貴の学校では、高校三年生はスマホの持ち込みが禁止されているはず。弟はどうしてこの件を知ったのだろう。
間違いなく、和哉の手の者がわざと弟に教えたのだ。
あと数日で大学受験を迎え、輝かしい人生を手に入れるはずだったのに。
自分を壊すだけでは飽き足らず、弟まで壊そうというのか。
真菫は必死に涙をこらえ、病院に駆けつけた。弟はまだ手術中だった。
どさりとその場にひざまずき、両手を合わせて手術室の扉に向かって祈った。
「神様、お願いです。私は二十年の命を代わりに捧げますから、どうか弟を助けてください」
そう言うと、涙は声もなく流れ落ちた。
手術は6時間続いた。真菫も、飲まず食わずで6時間、ただひたすら祈り続けた。
智貴が手術室から運び出されてきた時、彼女の唇はすでに乾ききって血が滲んでいた。
弟が助かったと聞いて、真菫の胸のつかえがようやく下りた。
ネット上の罵詈雑言を気にする暇も、悲しみに暮れる暇もなかった。やるべきことが、あまりにも多すぎた。
まず、母の転院手続きを済ませ、弟の世話をするために介護士を雇い、それから遠方で出稼ぎをしていた父を呼び戻し、家族の面倒を見てもらうことにした。
もうすぐ出国する。その前に、これらのことをすべて手配しておかなければならなかった。
出発の日、真菫は空港で過激なネットユーザーたちに取り囲まれ、会社に彼女を解雇するよう要求された。
「人の家庭を壊しておいて、お前が海外で良い暮らしをするなんて許されるか!」
「早くこの不倫女をクビにしろ!さもなければ、お前の会社をボイコットするぞ!」
半月も経つのに、彼らがまだ自分を許さず、仕事まで脅かそうとするとは、真菫は思ってもみなかった。
もう我慢の限界だった。スマホを取り出し、彼らにあのビデオを再生して見せた。
真菫の声は震えていたが、しかし、断固としていた。
「よく見ましたか?あの不倫相手を問い詰めてきた女は、金で雇われた役者です。ビデオも写真も、全部AIで作られたもの。私は何もしていません。胸を張って言えます」
言い終えると、真菫はきっぱりと背を向けた。
そして、飛行機が青空を切り裂き、遠くへ飛んでいく。