後悔のない人生を歩もう

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後悔のない人生を歩もう

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雨宮陸斗(あまみや りくと)は江口咲夜(えぐち さくや)がずっと自分のそばにいると思っていたので、一度も愛していると言わなかった。 彼は...

Chương (1)

第1章

雨宮陸斗(あまみや りくと)は江口咲夜(えぐち さくや)がずっと自分のそばにいると思っていたので、一度も愛していると言わなかった。 彼は彼女の誕生日を逃し、二人の新婚旅行も逃した。 しかし、彼女の訃報を聞いた途端、彼は正気を失った…… 第1話 「誠に申し上げにくいのですが、残されたお時間は多くありません。どうか早めにご準備をなさってください」 江口咲夜(えぐち さくや)は診断書を握りしめ、病院から出てきた。 スマホに友達のSNS投稿が表示された。 ぼんやりしながら開くと、集合写真が目に入った。 画面の中で、女性は優しく明るく笑いながら、隣の男性に親しげに寄り添い、幸せそうな満足した表情をしている。 その女性が親しげに腕を絡めている男性は、咲夜が結婚して5年になる夫である雨宮陸斗(あまみや りくと)だ。 写真のコメントにはこう書いてあった。 【世の中のすべての出会いが、長い別れの後の再会でありますように】 咲夜は泣きたかったが、思わず笑いたくもなった。 涙がこぼれた瞬間、咲夜の喉から血がこみ上げた。彼女の口から出た鮮血が白い診断書に落ちて、冷酷な文字が隠された。 【胃がん末期】 彼女は痛みに耐えながら家に戻ると、部屋が真っ暗だった。 陸斗はまだ帰っていなかった。 さっき飲んだ薬のせいで、胃が激しく痛んだ咲夜は、ソファに丸くなり、二人の家を見渡した。 この家は、彼女が一手に整えたものだった。 たとえ陸斗が彼女を愛しておらず、政略結婚であることを知っていたとしても、彼女にとってこの家には結婚生活に抱くあらゆる美しい夢が詰め込まれていた。 しかし、現在のこの家の温かみのあるインテリアは、どこか彼女の甘さを嘲笑っているように感じられた。 あまりに痛くて、咲夜はだんだん目を閉じた。 目を閉じて間もなく、ドアの開く音が聞こえた。 突然ついた灯りが眩しくて、咲夜の目の前がかすんだ。彼女の夫が彼女の上に立ち、逆光の中で見下ろしていた。 「なんでここに?」陸斗の穏やかな口調からは、一切の感情が読み取れなかった。 咲夜は言葉を失った。 5年間一緒に暮らしたこの男は、5年前と変わらず冷たいままだった。 自分が黙って尽くしてきた5年が、まさに滑稽に思えた。 咲夜は答えずに、逆に質問した。 「晴香さんは帰ってきたの?」 水村晴香(みずむら はるか)の名前を聞くと、陸斗は眉をひそめ、不機嫌そうな表情を見せた。 咲夜は目を伏せ、心に苦さがこみ上げた。 彼女の夫は、彼の初恋の名前すら自分に口にしてほしくないのだろうか? この世に残された時間が少ないことを思い出すと、咲夜は珍しく勇気をふり絞って、顔を上げて言った。 「会ったんでしょう?」 陸斗はようやく、ソファに身を縮めている女性を見据え、頷いた。 「会った」 「他に何か言いたいことはないの?」 「何を?」陸斗の口調には既に苛立ちが混じっていた。 咲夜は彼の冷たい表情を見て、これ以上聞く気がなくなった。 「もういい」 陸斗は眉をひそめて咲夜を一瞥し、浴室へ向かって歩き出した。 浴室のドアが閉まる直前に、彼は立ち止まり、一言付け加えた。 「友達の集まりだ」 説明とも言えないその言葉を聞くと、咲夜は抱き枕をぎゅっと抱きしめ、麻痺した心を何度もなだめた。 少なくとも、彼は説明してくれた。 深夜、胃の痛みで咲夜はまた目を覚ました。 彼女はスマホを手に取り、午後に見た写真をもう一度開いた。 それは陸斗の幼馴染である小林京平(こばやし きょうへい)の投稿だった。 結婚式にて、咲夜は京平とただ一度だけ出会った。 結婚して5年、陸斗は彼女を彼の交友関係に入れなかった。 外では本当の雨宮夫人は晴香だと言われ、咲夜はただ陸斗にしつこくつきまとう愛人だと思われていた。 咲夜は指先で陸斗の輪郭をなぞった。 冷たい夫は、どうして他の女とあんなに親しいのだろう…… なぜ? 彼女は一体どこが悪かったのだろう…… 咲夜はもう我慢できず、悲しみにくれて布団に顔を埋めた。 胸が大きな手に強く掴まれ、引き裂かれるような痛みに耐えきれず、視界が涙でぼやけた。 「陸斗、5年経ったけど、あなたにとって、私は一体何なの?」 第2話 咲夜が再び目を開けた時、すでに正午だった。 陸斗はいなかった。 彼女は目を開けても陸斗の姿を見ない生活に慣れていた。 咲夜は黙ってスマホを充電し、電源を入れた。 スマホが起動すると同時に大量のメール通知が飛び出した。 咲夜は新人が提出した服のデザイン案を一つずつ確認し、的確な意見を返した。 仕事の処理を終えてから、彼女は見知らぬ番号からのメッセージに気づいた。 【話したいことがあります。午後3時、陸斗がよく行く西洋料理店で会いましょう】 署名は水村晴香だった。 咲夜はメッセージを見つめ、指先が少し縮こまった。 晴香はそんなに待ちきれず、陸斗を自分のものだと主張しに来たのか? 2時50分に、咲夜は西洋料理店に着くと、すぐに晴香を見つけた。 淡いメイクにオフホワイトのコートが、彼女を優しく知性的に見せていた。その名にふさわしい雰囲気だった。 咲夜は晴香の向かいに座り、作り笑いを浮かべた。 「晴香さん、最近モデル界で話題の人物だそうですね。今日、私のような無名な服飾デザイナーを呼び出して、一体何を話したいんですか?」 晴香は薄く微笑みながらメニューを差し出し、穏やかな口調で言った。 「咲夜さん、今日は陸斗について、話したいです」 「陸斗」という名前を語尾を上げ気味に呼び、彼女の言葉には親しみと微かな含みを感じさせた。 咲夜は心が揺れたが、表情には出さずに答えた。 「私の夫の話ですか?申し訳ないけど、あなたと話すことは何もありません」 彼女はメニューを取らず、椅子の背にかけたコートを手に立ち上がろうとした。 立ち上がったところで、背後から晴香の声が聞こえた。 「咲夜さんは最近、ファッションショーがありますよね。テーマは確か……初恋でしたね? じゃあ、知っていますか?陸斗は私をトリに使うことにしたんですよ」 たった一言で、咲夜はほとんど立っていられなかった。 初恋のショーで、彼が…… このショーに咲夜はどれだけの時間をかけて準備してきたか、陸斗が知らないはずがなかった。 トリのドレスは彼女の全力作だった。そもそもこのテーマにしたのも陸斗のためだった。 彼は彼女の初恋だった。 しかし今、その全ての努力が彼の初恋の女性のために使われるとは? 胸にナイフが突き刺さり、心がえぐられた後、一気に引き抜かれるように、血がほとばしる痛みが走った。 「陸斗、あなたは本当に、どうやったら私をもっと痛めつけられるか、よく知っているわね……」 咲夜は西洋料理店から逃げるように出た。 彼女の頭は混乱していた。ふと自分のドレスを思い、さらに晴香の顔を思い浮かべた。しかし結局、思いはあの真っ白な診断書に留まった。 咲夜はスマホのトップにある連絡先に電話をかけた。 「米村(よねむら)さん、時間ありますか?今、そちらに向かいます」 午後5時、咲夜は法律事務所に駆けつけた。 「遺言書を書きたいんです」 咲夜がそう言うと、米村弁護士は驚いた。 しかし弁護士としてのプロ意識から、彼は何も聞かず、静かに記録ノートを開いた。 「どうぞ」 「私の現在の貯金は、私が亡くなった後すべて寄付してください。 そして、雨宮グループの株式は陸斗に返してください。 最後に、残ったデザイン案は……」 そう言うと、咲夜はまだ完成していないドレスを思い出した。 覚悟を決めて、彼女は言葉を続けた。 「全てのデザイン案を破棄してください」 米村弁護士は驚いた。 咲夜は国内で有名なデザイナーだ。トップクラスとは言えなくとも、彼女の服は人気が高く、未完成の作品を破棄するのは惜しいことだ。 だが、彼女の決然とした様子を見て、聞けなかった。 何度も書き直し、夜6時になってようやく終わった。 「他に何かありますか?」 米村弁護士が慎重に書類を差し出した。 「ありがとうございます。お疲れさまです……」 咲夜は書類を受け取ったが、言葉がまだ終わらないうちに、突然、顔色が真っ青になった。 「ゴホン、ゴホン……」 激しい咳のあと、彼女の掌に鮮やかな血が染みついた! 米村弁護士の顔色が変わった。血まみれの手を見て、場数を踏んできた彼でも動揺した。 「江口さん、これは……病院へ行きましょうか?」 咲夜は目を赤くして顔を上げた。 「大丈夫です。水をください」 米村弁護士はすぐに立ち上がり、水を汲んで渡した。 咲夜は手を拭き、バッグから大量の薬を取り出して飲み込んだ。 米村弁護士は心配そうに背中を軽く叩き、彼女の気持ちを落ち着かせた。 「無理なさらず、今日はここまでにしましょう」 咲夜は頷き、少し休んだ後、バッグからいつも携帯している病歴の診断書を取り出した。 「米村さん、これもお願いします。私が亡くなったら、すべて陸斗に渡してください」 米村弁護士は「胃がん末期」と書かれた文字を見て、ようやく全てを理解した。 「わかりました……」 夜は漆黒のように深かった。 白鳥別荘にて。 咲夜は外を長く歩き回り、家の玄関に着いたのはもう10時だった。 一日中、陸斗からの連絡は一つもなかった。 彼は自分のことを全く気にかけていないのだろう。 咲夜は寂しそうにドアを開けたが、思いがけず陸斗がソファに座っているのを見た。 「こんなに遅くに帰ってきたのはなぜ?」 「仕事でいろいろあって、時間を忘れてしまった」 会話はそれで終わった。 陸斗は他に何も尋ねず、ただ咲夜を見つめた。その深い瞳には読み取れない感情が揺れていた。 この沈黙の雰囲気には咲夜も慣れていた。 彼女は陸斗を避けて寝室へ向かおうとした。 だがすれ違いざま、陸斗に腕を掴まれた。 「ちょっと待って」 第3話 陸斗は目を伏せたまま、咲夜を睨みつけながら、冷たい口調で言った。 「晴香に会いに行ったのか?」 馴染みのある質問だが、質問する側が変わったことで、意味は全く違っていた。 咲夜の心は一瞬刺されたように痛んだ。 夫は彼女が遅く帰宅しても全く気にせず、珍しく話した言葉が他の女のことだった。 咲夜は昨日の胃の激痛よりも、今の心の痛みのほうがずっと強いと感じた。 彼女は深く息を吸い、心の底の物悲しさを押し込めた。 「ええ、会いに行った!」 陸斗が話題に出したのだから、はっきりさせたかったのだ。 咲夜は振り返り、陸斗の目をじっと見つめて言った。 「トリのモデル、あなたが替えたの?」 陸斗は突然その話をされ、少し驚いた後、眉をひそめて答えた。 「俺じゃない、会社の決定だ」 彼が口を開かなければ、会社が突然そんな決定をするのだろうか? 咲夜は信じなかった。 「じゃあ、そのドレスが完成できないわ。デザイナーを替えて!」 彼女は自分が感情的になっていることを認めるが、自分にとって大切なドレスを晴香が身に着けるのを見ることは、本当に耐えられない。 陸斗は不機嫌そうな顔をした。 「拗ねてるのか」 「拗ねてないわ。本当のことを言っているだけよ」 咲夜はもがいた。 陸斗は手を離さず、指先の力で咲夜の手首に赤い跡をつけた。 「お前の心血を注いだ服だと言ってたのに、どうして急に完成できないって言うんだ?」 咲夜は崩れそうだった。どう説明すればいい?死ぬ間際に晴香に嫌がらせされたくないなんて、とても言えなかった。 彼女は言えないし、言いたくもなかった。 なぜなら、彼女が言ったところで、陸斗の嫌悪と不快の表情を見るだけだから。 もうそれは見飽きた。 彼女は人生最後の日々に、彼の嫌悪を心に刻みたくなかった。 だが、陸斗は執拗に問い詰めた。 追い詰められた咲夜は、少しずつ正気を失っていった。 彼女は一気に陸斗の手を振りほどくと、意を決して、凶暴な表情で彼の唇にキスをした。 結婚してからずっと、陸斗は彼女にキスをしたことがなかった。 しかし、陸斗が彼女を押しのけるなんて、彼女は思いもよらなかった。 咲夜は倒れたまま茫然としていて、目の中の絶望が溢れそうだった。 陸斗は少し呆然として眉をひそめた。 「お前……」 「理由を聞きたいんでしょ?それが理由よ!」 男の目に一切の動揺がない冷たさを見ると、胸を刺すような言葉を聞くのを恐れた咲夜は、慌てて口を挟み、哀れな笑みを浮かべた。 そして逃げるように立ち上がり、寝室へ戻った。 陸斗は彼女の背中を見つめ、手で唇の端を触った。彼の瞳には先ほどの冷淡な表情はなく、複雑な感情が渦巻いていた…… 翌日に目が覚めた時、咲夜はまず家の様子を確認した。陸斗が全く家で休んでいないことに気づき、気分が一気に落ち込んだ。 やはり、彼は彼女を嫌っているのだろう。 彼女は寂しげにスマホを開き、アシスタントからのメッセージを見た。 【咲夜さん、今日の午後、ショー会場の装飾について話し合いが必要です。場所は送っておきました】 このショーに関して、今の咲夜の気持ちは非常に複雑だ。 喉にトゲが刺さったような感じで、飲み込むことも吐き出すこともできなかった。 しかし、会社の多くの人たちがこのショーのために汗をかき努力しているのを思うと、咲夜はわがままを言うわけにはいかなかった。 何度も考えた末、彼女は予定通りにファッションショーを進めることに決めた。 主役のドレスについては、もう少し様子を見ることにした。 咲夜が会議の現場に着くと、皆すでに集まっていた。 ドアに入ると、彼女はすぐにテーブルの後ろに座る陸斗と、その隣に寄り添う晴香の姿を見た。 咲夜はこの光景に麻痺していると思っていたが、目の前で見るとやはり胸が締め付けられた。 しかし、彼女のプライドは決して屈することを許さない。 咲夜は顎を上げ、目を逸らさずに陸斗の向かいに座った。 晴香はドアを開けて入ってきた咲夜を見ると、微笑んだまま立ち上がる気配もなく、陸斗に横を向いて話し続けた。 その態度はまるで彼女こそが雨宮夫人であるかのように親密だった。 陸斗も時折頷いて相槌を打ったが、目線は一度も咲夜に向けられなかった。 会議室は一瞬の沈黙に包まれた。 プロジェクト担当者がほぼ倍速でファッションショーの流れを報告した。 咲夜は一言も耳に入らなかった。 彼女は焦点の合わない目で大理石のテーブルを見つめ、その上に映る陸斗と晴香の影を見た。二人はまるで恋人のように親密だった。 彼女の胸が苦しくて息が詰まるようだった。 喉の奥が苦く、彼女は咳をひとつすると、口の中に血の匂いが広がった。 ついに、会議は終了した。 みんな一斉に退席し、咲夜も席を立とうとしたが、呼び止められた。 「咲夜さん?」 咲夜が振り返ると、声をかけた人は彼女を見ていなかった。 晴香は陸斗の隣に並んで立ち、彼の腕を引っ張りながら甘えるように言った。 「陸斗、先に帰っていい?私、咲夜さんと少し話があるの」 陸斗は返事をせず、晴香をじっと見つめていたが、結局何も言わず、無表情で去っていった。 陸斗の姿が消えるとすぐに、晴香は笑顔を消し、腕を組みながら、勝者のような態度で咲夜を見下ろした。 「さっき、社員が私のことを『奥様』と呼びましたけど、見間違いだと思いますよ。 咲夜さんは気にしないですよね?」 これほど明らかな挑発を、咲夜が気付かないはずがない。 「私を呼び止めたのは、そのためですか?」 咲夜は不機嫌そうに答えた。 彼女は恋愛では負けたが、だからといって恋敵の嘲笑を許すわけにはいかない。 「用事がなければ、これで失礼します。 晴香さんがそんなに人妻という身分が好きなら、早く誰かと結婚したほうがいいんじゃないですか? そうすれば、間違えられる心配もなくなりますよ」 晴香はその言葉に顔色を少し変えた。 しかしすぐにまた勝者の姿に戻り、彼女は微笑みながら言った。 「それは無理ですね。 私が他の人と結婚するなんて、陸斗は許さないです。 昨晩も彼が私のところに来ましたよ」 第4話 昨晩? 咲夜は二人の言い争いを思い出し、拒まれたキスを思い返すと、脳裏にさまざまな情報が一瞬であふれた。 彼は昨夜出かけて、晴香と一緒にいたのか? 彼が今朝いなかったのは、本当に一晩中帰ってこなかったからだ! 咲夜の体がふらつき、血の気が一瞬にして引いた。 彼女は今、陸斗に説明を求めたい。 たとえ、簡単な否定だけでも、彼女は信じたいのだ。 背後で得意げな晴香を気にせず、咲夜は急いで会議室を飛び出し、今すぐ陸斗に会いに行った。 陸斗のオフィスのドアを力強く開けると、彼は窓辺に座って書類をチェックしていた。 窓の外の光が彼のもともと際立つ顔立ちをより立体的に照らす。 彼はただ静かにそこに座っていて、全身から冷静さと誇り高さがにじみ出ていた。 咲夜はその光景を見て、突然怖気づいた。 彼女は答えを聞く勇気がなかった。 もし彼が晴香と一晩中一緒にいたとしたら、何年も愛してきたこの男をどう受け止めればいいのか、自分の形だけの結婚をどう体裁よく保てばいいのか、わからなかった。 本当に、自分の最後の時間に、こんな辛い思い出を残すか? 咲夜は賭ける勇気がなく、ただ黙り込んだ。 疑いの苦しみを静かに耐えるほうが、傷口を引き裂いて痛々しい現実に直面するよりましだ。 陸斗は咲夜がオフィスに駆け込んだあと、何も言わずにいるのを見て、眉をひそめた。 「用事か?」 彼は仕事中に邪魔されるのが嫌いだった。 だが咲夜の顔色が悪く、唇の色が少し白いのを見ると、彼は書類を整えて、立ち上がった。 「帰ろう。送ってやる」 まだ自分の感情に浸っている咲夜は、目の前の滅多に自分に気をかけてくれない男性を見つめながら頷いた。そして、黙ったまま彼に従って車に乗った。 帰り道、二人は何も話さなかった。 咲夜は車の窓を下ろし、静かに風を感じていた。 冷たい風が彼女の頭をずいぶんとすっきりさせた。 彼女はこんなはずじゃなかった。卑屈になりすぎて、彼女自身でも自分のことがわからなくなっていた。 夫は外で愛人と一晩を過ごしたかもしれないのに、それでも彼女は聞くことすらできないのか? いくつも考えた末、咲夜はようやく口を開いた。 「昨日、晴香さんに会いに行ったの?」 「うん、彼女は酔っていた」 「そう……」 せっかく勇気を出したのに、陸斗の肯定的な返事で、その勇気は煙のように消えた。 咲夜はそれ以上質問する勇気がなかった。彼女は本当に、自分が最も聞きたくない答えを聞くのが怖かったのだ。それは、彼女が最後に自分の体面を保つための方法だった。 車内は再び静寂に包まれた。 突然、咲夜は胃に激しい痛みを感じた。 まずい! 彼女は慌てて鞄から薬を取り出し、無理に飲み込んだ。しかし痛みは治まらず、助手席で体を丸め、額の大粒の汗が止まらず流れた。 なぜこんな時に限って! 咲夜が薬を飲み、苦しむ姿を見ると、陸斗は眉をひそめた。 普段は氷のように冷たい表情の彼の顔に、異変が浮かんだ。 「どうした?」 彼はハンドルを切り、アクセルを一気に踏み込んだ。 耐え難い痛みに苦しむ咲夜は、進む方向がおかしいことに気づき、弱々しく尋ねた。 「どこに行くの?」 「病院だ」 「病院」という言葉が咲夜の神経をピリリと覚醒させた。 ダメだ。今はダメだ! 彼に知られてはいけない! 彼女は震える手を伸ばし、陸斗の運転する腕を掴むと、気力を振り絞って言った。 「ただの胃痛。昔からの持病だから、大丈夫」 陸斗は方向を変える気配を全く見せなかった。 咲夜は焦りと恐怖に加え、耐え難い痛みで涙を浮かべた。 彼女の目には懇願の色さえあった。 「陸斗、家に帰りたい……」 陸斗は断ろうとしたが、彼女の目の中の懇願を見て、思わずハンドルを切り返した。 車がUターンするのを見て、咲夜はほっと息をついた。 緊張が一気に緩んだためか、胃の痙攣はさらに激しくなった。 彼女は目を閉じて、痛みを隠そうとした。 家に着くと、助手席のドアが先に開けられた。 陸斗は長い腕を伸ばし、力強く咲夜をお姫様抱っこした。 彼女は反応できず、条件反射で彼の首に腕を回した。目の前には陸斗の美しい顎のラインがあり、耳には彼の力強い心臓の鼓動が聞こえた。 彼女の記憶の中で、二人がこんなに親密だったことはなかった。 こんなに近くで触れ合うことで、咲夜は一時的に痛みを忘れた。陸斗の腕に寄りかかり、頬がほんのりと熱くなった。 陸斗は彼女を抱えて寝室へ行った。そして、ベッドに寝かせ、布団をかけると、「休め」とだけ言い残して去った。 咲夜は痛みで考えられず、ぼんやりと眠りに落ちた。 再び目が覚めると、料理の匂いがした。 咲夜はふらふらと壁を支えながら寝室を出ると、台所で忙しそうにしている陸斗が目に入った。 彼のシャツの袖口は肘までまくり上げられ、優雅な手首のラインが見えた。 彼の身につけたクリームイエローのエプロンは彼らしくない。 咲夜はしばらく呆然とした。 何度も想像してきた幸せな結婚生活を目の前にして、咲夜はまるで夢を見ているかのように感じた。 彼女はぼんやりと陸斗の背中を見つめ、目頭が熱くなった。 手際よくスープを作っている陸斗は、咲夜が目を覚ましたのを察して、振り返らずに言った。 「先にテーブルで待ってて。すぐできるから」 咲夜は「うん」と答え、大人しくテーブルに座って待った。 料理がすべて揃って初めて、咲夜は気づいた。テーブルの料理はどれも味が薄く、しかも生姜が加えられていた。 彼女は驚いて顔を上げた。 「どうして……」 陸斗は彼女に料理を取り分けながら自然に答えた。 「胃が悪いって言ってたし、体も冷えてる。生姜は体を温めるんだ」 彼は彼女が冷え性だと知っていたのか? 一瞬、咲夜の目の前の冷たくも端正な男性は、まるで初めて出会ったときの、あの自信に満ちた笑顔の少年に戻ったかのようだった。 あの人こそ、彼女が骨の髄まで愛した人だった。 「ありがとう」 食卓の上、二人の雰囲気は和やかだった。 咲夜は涙をこらえ、心の中ではさまざまな感情が入り混じっていた。 なぜ? なぜ陸斗の愛する人は彼女じゃない? 第5話 咲夜は聞けなかった。せっかくのこの一瞬の温かさを壊すのが怖かった。 でも、その夜は特にぐっすり眠れた。 翌日、雨宮グループがスポンサーのファッションショーで、トリのモデルが変更されたというニュースが、なぜかトレンド入りした。 もともとこのファッションショーは注目度が高くなかったが、モデル交代の裏話がみんなの好奇心を刺激した。 咲夜は陸斗の妻だが、誰もが知っている通り、晴香は陸斗の初恋だった。 「初恋」というテーマで、トリのモデルが晴香に変わった。 この裏にある理由は、野次馬たちがしばらく盛り上がるのに十分だった。 「やっぱり雨宮さんは晴香を忘れられないんだ。スーパーモデルの初恋を捨てて、デザイナーと結婚するなんて、雨宮さんは一体何を考えていたんだ?」 「おや、知らないのか。あのデザイナーと雨宮さんはただの政略結婚だ。雨宮さんは水村さんと結婚するはずだった。あの江口って女が雨宮さんにしつこく絡んで、無理やり雨宮家に嫁いだんだ」 「マジで?横取するとは、恥知らずもいいところだな!」 「可哀想なのは晴香よ。愛する人と一緒になれないなんて、本当に胸が痛むよ……」 ネット上の論争はどんどん激化していった。 アシスタントから咲夜に連絡が届いたころには、彼女を非難するトレンドがすでにツイッターのトップ3に入っていた。 アシスタントは慌てふためき、悪評は個人攻撃から咲夜の仕事にまで波及していた。 彼女の以前のデザインは全く価値がないと叩かれ、準備中のファッションショーもボイコットされていた。 それはもう咲夜の広報チームでは手に負えない状況だった。 スマホは罵倒や個人攻撃のメッセージで埋め尽くされた。中傷もどんどん過激になっていった。 「咲夜さん、どうしたらいいんですか?」 困り顔のスタッフを見て、咲夜は歯を食いしばりながら言った。 「私が対処する」 彼女は雨宮グループに向かいながら車を走らせ、アシスタントにメッセージを送った。 このサイバー暴力はあまりにも突然だった。 モデル交代のニュースが出てからわずか翌日に世論は一方的に傾き、細かい事情まで暴かれていた。 誰かが仕掛けているのは間違いない。 「主要なアカウントを全部調べて。誰が世論を操っているのか知りたい」 雨宮グループに向かって猛スピードで走り、入口を通り過ぎる時、人々の視線が背中に突き刺さるように感じられた。 しかし咲夜は気にしない。 今は陸斗を見つけて、何とか損害を食い止めなければならない。 社長専用エレベーターに乗り、直通で陸斗のオフィス階へ向かった。 エレベーターが開くと、陸斗の秘書である鈴木大宙(すずき だいちゅう)と出くわした。 「陸斗はいる?」 そう言いながらオフィスへ向かう。 大宙は礼儀正しく頭を下げ、さりげなく咲夜の進路を阻んだ。 「奥様、社長は今会議中です。お会いできません」 「大事な用事があって、陸斗に会いたいの」 大宙は表情を変えずに言った。 「奥様がお越しになったのは今日のトレンド入りの件ですか?」 咲夜は足を止めた。 「彼はもう知っているの?」 「いいえ。社長から、奥様のことは知らせなくていいと指示されています」 咲夜は喉が詰まり、その場で硬直した。 大宙は明らかにショックを受けた咲夜を見て、少し困り顔になった。そして、鼻筋のメガネを押しながら申し訳なさそうに言った。 「奥様、私を困らせないでください。社長は今、本当に大事なお客様と会っています」 「大事なお客様」という言葉に、咲夜はハッとした。 彼女はどうしても会いに行きたかったが、大宙は止めなかった。 半分だけ覆われたガラスのブラインド越しに、彼女は大宙が話していた大事な客人の姿を見つけた。 その姿はまさに晴香だった。 外の声が中の晴香の注意を引いた。 彼女は咲夜の姿をちらりと見て、目に暗い光が走った。 彼女は全身で陸斗の前に立ちはだかり、ちょうど顔を上げた男性の視線を遮った。 「陸斗」 女性の優しく柔らかい声が、ドアの隙間からはっきりと聞こえてきた。 外にいる咲夜は、胸がつかえるような思いに押しつぶされそうだった。 その話し方の調子は何を意味するか、これ以上に明白なことはない。 自分が何年も愛し続けてきた男を、いちばん必要としていたその時、彼はオフィスで別の女といちゃついているのか? 咲夜は、自分がまるでピエロのようで、馬鹿げた一人芝居を演じている気がした。 周囲は皆、彼女の失態を笑う瞬間を待っているのに、彼女だけは歯を食いしばって耐えていた。 昨日の陸斗の優しさは、まるで咲夜だけの幻覚だったかのように思えた。 今日目覚めても陸斗は相変わらず冷たく、自分のことなど気にも留めなかった。 ドアの前に立つ大宙こそが、最も良い証拠ではないか? 外の咲夜は心身共に疲れ果てているが、中の晴香は簡単に諦める様子はなかった。 彼女は声を高くし、誰もが答えを知っている質問をした。 「陸斗、もしあの時、私が離れなかったら、あなたは結婚してくれたの?」 その質問は咲夜が一番聞きたくなかったものだ。 なぜなら、彼女も陸斗の答えを知っていていたからだ。 彼女はずっとそれを受け入れられず、知らないふりをして、陸斗にとっては重荷でしかないかもしれない結婚生活を慎重に続けてきた。 咲夜は今、陸斗に答えてほしくなかった。 しかし、ドアの中のひとことが、咲夜にとって死刑宣告のように響いた。 「ああ、してた」 咲夜の胸は突然ぎゅっと締めつけられ、心臓にナイフが突き刺さるような衝撃を感じた。激しく心の奥の肉を抉り出されるようで、血に濡れるほどの痛みが心を貫いた。 突然、胃が激しく痛み始め、どんどんひどくなった。 咲夜は無様にエレベーターを駆け下りた。 オフィスの中で、晴香は咲夜が去るのをちらっと見ると、得意げな表情を見せる前に、陸斗の冷たい視線に捕らえられた。 「その質問をするために来たか?」 晴香は一瞬ぽかんとして、「はい」と答えた。 「残念ながら、世の中にもしもはない。俺は一度別れた相手には戻らない。ほかに用がなければ、出て行ってくれ」 晴香の笑顔はそのまま硬直した。 陸斗は追い出しの命令を出し、彼女に一瞥もくれなかった。 咲夜はこれらのことを聞くことなく、まるで後ろに恐ろしいものが追いかけているかのように、慌てて雨宮グループを飛び出した。 胃の痛みは毎日彼女に残された時間が少ないことを告げていた。 ネット上の悪評は更新され続けている。 彼女と社員の努力は無駄になり、苦労して築いた関係も夫にとってはただの重荷でしかなかった。 咲夜は、自分がこれほどまでに無力で惨めだと感じたことはなかった。 身体の痛みなど、心の傷に比べれば何でもなかった。彼女はついには、かつて陸斗を愛してしまった自分さえ恨み始めた。 なぜ成果のないことに固執した? 晩秋の冷たい風が咲夜の頭痛を誘い、彼女は道端に座り込んだ。 厚い雲に覆われていた空は、まるで今の彼女の心情のように、息苦しいほど重苦しかった。 過ぎ去ったすべての時が彼女の記憶の中で腐り、ただれていた。 突然、スマホの着信音が彼女の思考を遮った。 画面に米村弁護士の名前が表示され、彼女は無理に気力を振り絞った。 遺言書について、彼女はいくつか細かい修正をしたいと思っていた。 いくつか項目を追加した後、咲夜は歯を食いしばり、もう一つの要求をした。 「米村さん、離婚協議書も書いてください」 第6話 離婚協議書を受け取った後、咲夜は条項を一つ一つ慎重に読み進めた。 彼女が署名さえすれば、陸斗は自由になるのだろう。 ペンを握る手が微かに震え、署名することは咲夜にとってあまりにも辛かった。 涙で視界がぼやけたが、最後には彼女は契約書にサインをした。 美しい文字は静かに孤独を語っている。 彼女は泣いてはいけないと自分に何度も言い聞かせた。それが陸斗に対して自分ができる最後のことだからだ。 帰宅途中、咲夜は再びアシスタントからのメッセージを受け取った。 このサイバー暴力の背後には確かに仕掛け人がいた。 それは彼女の知っている人物だった。 晴香だ。 「午後にあなたと優しく話していたあの女は、裏であなたの妻を奈落に追いやっているんだ」と、咲夜は陸斗に大声で訴えたい。 もしかすると、陸斗の心の中で、彼女は最初から彼の妻などではなかったのかもしれない。 そうでなければ、彼女のことを報告しなくていいと、秘書に命じないだろう。 そのことを思うと、咲夜の胃がまた痛み始めた。 彼女はすでに署名した離婚協議書を握りしめ、自分に言い聞かせた。 「大丈夫、あなたならできる。ただ別れるだけで、互いにすっきりするんだ」 夕方に、咲夜は離婚協議書を持って帰宅すると、なんと陸斗がいた。 彼女より先に家に入ったらしく、スーツのジャケットを脱いでいて、彼の眉間にはいつもの冷淡な表情が浮かんでいた。 最近は彼も帰宅が早い。 陸斗はドアの開く音を聞いて振り返ると、入口で呆然としている彼女を見つけた。 「今日も胃が痛いのか?」 彼は黒い瞳を少し沈ませ、眉をひそめながら彼女をソファに押しやると、キッチンへ向かった。咲夜の手にある、すでにシワが寄った離婚協議書には気づかなかった。 咲夜は沈黙のままソファに座り、喉が詰まる思いだった。 結局、何事もなかったかのように装うことも、とてもつらく心が痛むのだと知った。 しかし、食事がほとんど終わる頃になっても、彼女は「離婚しよう」と言う勇気が出なかった。 咲夜の沈黙は、男性の目には疎遠に映った。 陸斗は眉をひそめ、不快そうだった。 昨日までは二人の関係もそれなりに穏やかだったのに、たった一日で元に戻ってしまったのかと思った。 「鈴木が言ってたが、今日会社に来たのか?何か用か?」彼が自ら切り出した。 咲夜は手の中の箸と皿を置くと、隣にある協議書をちらっと見てから陸斗に視線を向け、感情を必死に抑えた。 「ネットのコメント、見た?」 陸斗は大宙の報告を思い返し、確かにネットで悪評があることは知っていた。 だが彼は詳しくは見ていなかった。 デザインに関する中傷はファッション業界ではよくあることで、特に展示会が行われるときはなおさらだ。 「見たよ」 陸斗の冷たい返答を聞き、咲夜は一日抑えていた感情がついに爆発した。 すべての不満や悲しみを彼女は叫んだ。 「それなら晴香さんが情報を流したってことも知ってるんでしょう?そうだよね?」 陸斗の顔色が一気に暗くなった。 彼はなぜ咲夜がここ数日ずっと晴香にこだわるのか理解できなかった。 「晴香のせいにするな」 咲夜は一瞬で怒りが爆発した。 「そんなに初恋を守りたいの?じゃあ私は何なの?陸斗、良心が痛まないの?」 「晴香はそんな人じゃない。俺は彼女のことをわかっている」 咲夜の心は突然刺されたように痛んだ。 晴香は優しくて素敵なのに、咲夜には全然価値がないのか? 涙が目の端にあふれそうになるのをこらえ、咲夜は真っ赤な目で陸斗を睨みつけながら、意地を張って口を閉ざした。 陸斗も怒りが収まらず、立ち上がって去ろうとしたが、涙をためた咲夜の目を見て、結局一言多く言った。 「変に考えるな、晴香はそんな人じゃない。俺がちゃんと調べるから」 「何を調べるの?あなたが彼女の家で一晩過ごしたことでも調べるの?」 咲夜は声を詰まらせ、これまで聞けなかった言葉を怒りながら叫んだ。 陸斗は一瞬驚き、眉をひそめながら不快そうに言った。 「そんなデタラメな話をどこで聞いたんだ?俺が彼女の家に泊まるわけがないだろう」 本来なら嫌われる覚悟をしていたのに、まさかそんな返事が返ってくるとは思わなかった。 咲夜は呆然とした。 驚き、怒り、喜びの混ざった表情と涙を浮かべた目は、どこか滑稽に見えた。 陸斗の漆黒の瞳がわずかに輝き、彼女のそばに歩み寄って、指の腹で彼女の涙をぬぐった。 「お前が何を疑っているかわからないが、雨宮家と江口家の政略結婚はごっこじゃない。お前は雨宮夫人で、俺はお前の夫だ。責任を果たす」 これはここ数年で陸斗が発した中で、最も優しい言葉だった。 「政略結婚」という言葉を使ったものの、少なくとも彼は自分を夫だと言ったのだ。 夫…… 距離が近かったため、咲夜は陸斗の体から、料理したばかりの匂いをほのかに感じ取った。 咲夜の怒りは突然消えた。 彼女は陸斗の鋭い目の中に珍しい優しさを見ると、衝動的に彼の襟を掴み、キスをした。 これは彼らの2回目のキスだった。 唇の冷たい感触が、これが夢ではないことを咲夜に思い出させた。 女性の震えと慎重さを、陸斗はすべて見逃さなかった。 彼は深い目で彼女のあごを掴み、キスを強めた。 キスが終わると、咲夜はやっと顔を赤らめ、俯いたまま、陸斗の表情を見られなかった。 「食事をしよう」 陸斗は軽く咳払いをし、声を整えた。 咲夜は慌ててうなずき、とても素直だった。 さっきのキスで咲夜は理解した。自分はもうすぐ死ぬのだから、最後の時間を楽しんでもいいのだ。 わがままでも強引でも、彼女は人生最後の時を陸斗と共に過ごしたいと思った。 彼女が他界した後のことも、すでにすべて片付けてある。 離婚協議書にもサインした。 どんな結末になっても、最後には陸斗を自由にするつもりだった。 しかし、残された時間だけは、陸斗は彼女のものだ。 考えを整理した咲夜は、お碗のご飯をつつきながら話そうとしたが、陸斗の電話が鳴った。 電話の向こうは騒がしかったが、咲夜は敏感に晴香の声を聞き取った。 「陸斗、今日は京平たちと集まるんだけど、来る?」 第7話 咲夜の胸がキュッと震えた。 陸斗は咲夜の緊張した表情を見て、唇の端をほんのり上げた。 「いや、用事がある」 同時に、バーでは、晴香は手元の突然切られた電話を見て、顔色がこわばっていた。 向こうから男性がこちらを見てくると、彼女はすぐに目を伏せて傷ついた表情を作った。 「京平、私って陸斗を怒らせちゃったの?それとも咲夜さんが彼を外に出したくないのかな?」 晴香が咲夜の名前を出すと、京平は慌てて慰めた。 「誰だってわかってるよ。陸斗が本当に愛してるのはお前なんだ。 江口咲夜なんてただの貢ぐ女だ。雨宮夫人にふさわしくないさ。 みんなが認めてる雨宮夫人は晴香だけだ」 晴香は相変わらず困ったような表情を浮かべていた。 京平はしばらくなだめ、ようやく機嫌を取り戻させた。 バーはまた賑やかさを取り戻した。 一方、白鳥別荘では、微妙な空気が流れている。 咲夜は陸斗があんなにあっさり断るとは思っておらず、心の中で説明できない喜びを感じていた。 彼女は期待を込めて陸斗を見つめた。 「陸斗、旅行に行こう。私たち結婚してから、ハネムーンに行ってなかったよね。ちゃんとハネムーンに行きたいの。いい?」 言い終わると、彼女は慎重に陸斗の反応を伺った。 目の前の陸斗の瞳は、少し深く沈んだ色に変わった。 だが、彼女の慎重な様子を見ると、彼は断ろうと思っていた言葉を飲み込んだ。 「どこに行きたい?」 今日はまさにサプライズの連続で、咲夜は自分が夢を見ているのではないかと思った。 「ノルウェーに行こう。明日すぐにでも!」 これは咲夜が前から計画していた場所で、大好きな人とオーロラを見に行きたかったのだ。 たとえ愛する人が自分を愛していなくても、彼女はそこに行きたかった。 陸斗は少し考えて、同意した。 二人は簡単に荷物をまとめ、翌日ノルウェー行きの飛行機に乗った。 長時間の飛行で、元々調子の悪かった咲夜の体調はさらに悪化し、飛行機の中で3回も吐いた。 陸斗に尋ねられても、彼女はただ乗り物酔いだとごまかした。 彼女は最後の美しい思い出を壊したくなかったのだ。 16時間の長旅を経て、二人はついにノルウェーの地に立った。 ホテルで一通り落ち着くと、咲夜はほとんどベッドに倒れ込んで眠ってしまった。 彼女が目覚めた時、もうすっかり夜になっていた。 ホテルの暖房は十分に効いており、彼女は窓の外を見ると、いつの間にか雪が降り始めていた。 横を見ると、陸斗が仕事をしているのが見えた。 咲夜の心には大きな満足感が湧き上がった。 彼女が望んでいたのは、こんなにシンプルなことだったのだと気づいた。 陸斗は書類から顔を上げ、金縁の眼鏡が彼に禁欲的な厳しさを与えていたが、咲夜を見るとずいぶん暖かくなった。 「ガイドが言うには、雪が止んだらオーロラが見られるかもしれない」 「うん」 「一緒に行こう」 「うん」 陸斗はまた書類の処理に戻った。咲夜はそのまま、ぼんやり彼を見つめていた。 彼女の心は今、幸せでいっぱいだった。 悩みも病気も、晴香のことも、悪評もすべて忘れ去り、彼女はただこの瞬間が永遠に続くことを願っていた。 気づくと外の雪はすでに止んでいた。 咲夜は体をしっかり包み、陸斗とホテルを出た。 途中で、彼女はずっと陸斗の体の横に垂れた手を見つめていた。 何度か試みたが勇気が出ず、手をつなげなかった。 彼女が諦めかけたその時、大きな手が彼女の掌を包み込み、ダウンジャケットのポケットに入れた。 咲夜は驚いて、陸斗を見つめた。そして、彼に握られたままポケットにある手を見て、顔を赤らめてうつむいた。 手のひらから伝わる温かさが、咲夜の心も温めた。 二人はまるで普通の恋人同士のように、異国の雪の中を手をつないで歩いていた。 オーロラの出現が、二人の静けさを破った。 咲夜は子供のように興奮してオーロラを指差し、雪の中で跳ね回った。 オーロラの下の陸斗は現実離れして美しかった。その瞳に色彩が映り込み、興奮している彼女を見つめた。その目には彼女の姿が映っていた。 咲夜は見惚れてしまった。 まるで自分が彼に大切にされているかのような錯覚を覚えたほどだ! そっとつま先立ちになり、オーロラの下で咲夜は陸斗にキスをした。 陸斗は拒まなかった。 一滴の涙が目尻を伝い、咲夜はこのキスを自分への最後の贈り物とした。 「カシャッ」 カメラのシャッター音がキスをしている二人を驚かせた。 一人の旅行写真家が恐縮しながら言った。 「邪魔してすみませんが、本当に美しいです。オーロラの下で愛する人とキスするのに勝るものはありません!」 咲夜は写真家にカメラの写真を見せてもらった。 華麗なオーロラの下で、彼女と陸斗はとても似合い、幸せそうに見えた。 しかし次に陸斗が言った言葉は、彼女の心を一気に冷えさせた。 「消してくれ」 咲夜は苦笑した。 陸斗の反応に少しも驚かなかった。彼は写真が外に流れるのを好まず、写真を撮られるのも好きではない。二人の唯一の写真は結婚式のブライダルフォトだった。 だが彼女は二人だけの貴重な写真を消されるのはどうしても嫌だった。 彼女は手放したくなかった。 咲夜は陸斗の服の裾を引っ張った。 「そのまま残して。写真を私に売ってから、消してもいいでしょ?」 陸斗は少し黙ってから、同意した。 旅行写真家は料金を取らず、気前よくその写真を咲夜に送った。 咲夜はスマホを胸に抱き、満足そうだった。 オーロラを見てホテルへ帰る途中、咲夜と陸斗は手をつなぎながら話していた。 「陸斗、私がなぜノルウェーに来たか知ってる?」 陸斗は不思議そうに横目で見て、「オーロラを見るためじゃないのか?」と答えた。 「じゃあ、私がなぜオーロラを見たいか知ってる?」 この質問に陸斗は本当に知らなかった。彼は少し考えてから、「プラズマ現象が珍しいから?」と答えた。 咲夜は彼の真面目な答えを聞いて、微笑んだ。 彼女は訂正しなかった。 ただ、心の中でそっと言った。 オーロラは得難い幸せの象徴だから! ノルウェーは彼女がずっと夢見ていたハネムーンの地だった。 人生で愛し合える人を見つけるのは難しいので、彼女は陸斗との結婚を特に大切に思い、二人で一緒に歳を重ねていきたいと願っていた。 なのにどうして神様はそれを許してくれないのだろう? 署名した離婚協議書と診断書を思い出すと、咲夜の顔にさっきまであった笑顔は一瞬で消えた。 陸斗はそれに気づき、目を細めて言った。 「どうした?」 咲夜は笑って首を振った。 「何でもないの。ちょっと思い出しただけ」 彼女は手を伸ばして陸斗の顔を包み込んだ。空からまた雪が降り始め、雪の結晶が彼女の長いまつ毛に落ちた。彼女はまばたきせずに目の前の男を見つめ続けた。 「陸斗、私……お願いだから、私のことを忘れないでいてくれる?」 陸斗はうつむいて咲夜を見返し、眉をひそめた。 しかし、変化はあまりにも突然に訪れた。 咲夜が返事を待つ前に、陸斗のスマホが鳴った。 咲夜は彼が席を外して何を話したのか知らなかった。ただ、元々は穏やかな表情だった彼の顔が戻るときには重苦しいものに変わっていた。 「会社で急用ができた。すぐ戻らなければならない」 第8話 咲夜の笑みはこわばったままだった。 彼女の顔色があまりにも悪いのを見ると、陸斗は声を和らげてもう一言言った。 「ここで待っててくれればいい。終わったらすぐ戻るから」 咲夜は何も言えず、ただ頷くしかなかった。 陸斗はその夜すぐに飛行機に乗って去った。 咲夜は異国のホテルに一人取り残され、途方に暮れた。 昼間の甘い時間はまるで美しい夢のようだった。 咲夜はぼんやりと暖炉の中で揺れる炎を見つめ、膝を抱えてベッドに座った。指先にはまだ男の体温が残っているようだった。 もし今、彼女が本当にノルウェーにいて、スマホに二人のキスした写真が残っていなければ、昼間の出来事はすべて自分の幻想だったのではないかと、彼女は思ったかもしれない。 咲夜は窓の外を見つめ、陸斗の乗る飛行機が飛んでいくのを見ているようだった。 彼が去った今、彼女はこの別れこそ二人の最後の別れだと予感した。 彼女の世界にもう陸斗はいなくなるのだ。 その後の二日間、陸斗は咲夜に連絡をしてこなかった。 彼女は神経質になり、何度もスマホのメッセージを確認した。少しでも音がすると、すぐにスマホのそばに駆け寄った。 しかし、彼女が一番上にピン留めしていたチャット画面には、一度も新しいメッセージは現れなかった。 咲夜は部屋の暖房を強くし、テレビの音量も上げた。そうすれば孤独を追い払える気がして、現実に向き合わなくて済むと思ったのだ。 この二日間で咲夜の発作は頻繁になっていった。 彼女はいつも同じ場所で倒れ、同じ場所で痛みで目を覚ました。 薬を大量に飲んでも痛みはまったく和らがなかった。 咲夜が痛みに耐え続けられたのは、陸斗の約束こそが彼女の心の支えだったからだ。 「待っててくれ」 彼女は自分に残された日がどれだけあるか分からなかったが、陸斗にどうしても会いたかった。 彼女は何度も何度もスマホのメッセージを確認した。 そして、あの日が来るまで…… 咲夜の瞳の最後の光が、ゆっくりと消えていった。 12月3日は彼女の誕生日だ。 咲夜はスマホを抱きしめて、陸斗が彼女の誕生日を覚えているかどうかを考えていた。 病気は日々彼女の体を蝕んでいった。これは最後の誕生日だと分かっていた。 陸斗、お願い。 まるで神様が咲夜の願いに応えたかのように、久しぶりにスマホが鳴った。 咲夜は急いで電話に出ると、電話の向こうから声が聞こえた。 「咲夜」 久しぶりの声を聞いて、彼女の心に一筋の希望が灯った。彼は覚えていてくれたのか? 声がかすれて震えながらも、彼女は答えた。 「はい」 陸斗の声は低く響いた。 「ごめん、まだこっちの用事が終わってなくて、迎えに行くのが遅くなるかもしれない。ちゃんと楽しんでて。焦らずに待っててくれ」 陸斗の冷たい声が受話器を通して伝わり、咲夜は寒気を感じた。 待つ?まだ待つ時間があるのか? 視線の隅が、隣のテーブルの空になった薬瓶を捉え、咲夜は苦笑した。 「わかった、待ってるね……」 「うん、じゃあ切るよ」 電話が切れた後のビジー音が咲夜の耳にいつまでも響き、まるで止まりそうな彼女の心臓の鼓動のようだった。 咲夜はぼんやりとスマホを握りしめていた。 しばらくして、苦く涙を流した。 これが陸斗だ。彼にはそんな力がある。 一言で、彼女を天国から地獄へ突き落とすことができるのだ。 咲夜はいつ気を失ったのか分からなかったが、スマホの時間を見ると、誕生日はとっくに過ぎていた。 スマホには新しいメッセージ通知があり、京平のSNSの投稿だった。 また一枚の集合写真だった。 写真には、陸斗が晴香の腰に腕を回し、二人は宴会場で優雅に踊っている。見つめ合う瞳は、愛情に満ちている。 写真のコメントは簡潔だった。 【運命の相手!】 咲夜は笑った。しかし、笑いの合間に涙がこぼれ落ちるのを止められなかった。 彼女はとっくに気づいていたはずだった。 どんなに強く望んでも、彼は彼女のものではない。 見知らぬ土地で孤独死するのは、愚かな彼女への罰なのだろうか? 咲夜は涙を流し尽くした。 彼女がどこで間違ったのか分からなかった。ただ人を愛しただけなのに…… 咲夜はウサギのようにソファに丸まって座ていた。胃に湧き上がる痛みが、命が尽きていくことを知らせていた。 彼女は、これが本当に最期だと知っていた。 最後の力を振り絞って、彼女は米村弁護士にメッセージを送った。 【離婚協議書は二階の引き出しにあります。後で陸斗に渡してください。そして、伝えてほしいです……彼は自由になったと。残りの遺言は私の葬式の後に公開してください】 その音声メッセージで、咲夜は最後の力を使い果たした。 喉に血の味が込み上げ、もう止められずに噴き出した。白いソファはたちまち赤く染まった。 人は死ぬとき、これほどまでに冷たく感じるものだろうか? 咲夜は震える指で画面を触り、ほのかな光がともった。 スマホの画面には彼女と陸斗がオーロラの下でキスしている写真が映った。 彼女はずっとその写真を見つめていた。 一筋の涙が音もなく咲夜の目尻を伝い、髪の毛に隠れた。 咲夜は写真を見つめ続け、やがて目がかすむと、重い瞼が二度と開けられなくなった。 陸斗、さようなら…… スマホは床に落ち、誤って緊急連絡先にかけてしまった。 長いビジー音の後、電話の向こうで聞き慣れた声が響いた。 「咲夜?」 陸斗が電話に出たが、電話の中は妙な静けさに包まれていた。 「咲夜、聞こえてるか?」 なぜか陸斗は動揺していた。長い間こんな気持ちはなかった。何かが徐々に自分の手の届かないところへ離れていくような感覚だった。 「陸斗、どうしたんだ?」 突然、京平の声が陸斗の思考を遮った。 「フランスのトップデザイナーを呼んだんだ。咲夜のショー、応援があれば絶対に成功する。これは晴香の帰国後初めてのショーだ……問題は起こしたくないだろう。さあ、戻って具体的な話をしよう」 陸斗は幼なじみの言葉をじっと聞き、二秒間沈黙した後、宴会場に戻った。 宴会場に入る直前、彼は無意識に暗くなったスマホを見て、理由もなく胸が痛んだ。 だがその痛みはすぐに祝杯を持って近づいてきた人たちにかき消された。 おそらく眠っている間に誤操作したのだろう。 しかし、陸斗はまだ知らなかった。 この電話を切った後、二度とこの電話を繋げることはできなくなることを……