夢のような浮世、目覚めの刻に

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夢のような浮世、目覚めの刻に

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椎名一夏はゆっくりと目をあけた。目に飛び込んできたのは、真っ白な光景。消毒液の匂いが鼻を強く刺した。 ぼんやりとした意識の中で、彼女は...

Chương (1)

第1章

椎名一夏はゆっくりと目をあけた。目に飛び込んできたのは、真っ白な光景。消毒液の匂いが鼻を強く刺した。 ぼんやりとした意識の中で、彼女は自分に似た女性が目の前に立っていることに気づいた。 その女性の隣には、4、5歳ほどの男の子が立っていて、彼の目元は一夏の夫にそっくりだった 一夏は一瞬で目を覚まし、思わず尋ねた。「あなたたちは誰ですか?」 彼女は無意識に手を伸ばして、その二人を指さした。目覚めたばかりで、声はかすれていた。 その声に反応して、病室にいた他の人々が彼女の病床の周りに集まった。 彼らの顔には驚きと喜びが溢れていた。 一夏が顔を上げると、見慣れた顔があった。夫の相川諒、自分の両親、そして義母もいた。 諒は目に涙を浮かべ、彼女を優しく抱きしめ、震える声で言った。 「5年だよ、5年。一夏、やっと目を覚ましたんだな」 両親と義母もその場に立ちつくし、涙をこらえきれない様子だった。 だが、この温かな雰囲気の中で、突然その小さな男の子が走り寄ってきた。手に持っていたおもちゃを一夏に向かって投げつけ、大声で叫んだ。 「悪い女、悪い女!お前が僕のパパを奪ったんだ……!」 第1話 椎名一夏(しいな いちか)はゆっくりと目をあけた。目に飛び込んできたのは、真っ白な光景。消毒液の匂いが鼻を強く刺した。 ぼんやりとした意識の中で、彼女は自分に似た女性が目の前に立っていることに気づいた。 その女性の隣には、4、5歳ほどの男の子が立っていて、彼の目元は一夏の夫にそっくりだった。 一夏は一瞬で目を覚まし、思わず尋ねた。「あなたたちは誰ですか?」 彼女は無意識に手を伸ばして、その二人を指さした。目覚めたばかりで、声はかすれていた。 その声に反応して、病室にいた他の人々が彼女の病床の周りに集まった。 彼らの顔には驚きと喜びが溢れていた。 一夏が顔を上げると、見慣れた顔があった。夫の相川諒(あいかわ りょう)、自分の両親、そして義母もいた。 諒は目に涙を浮かべ、彼女を優しく抱きしめ、震える声で言った。 「5年だよ、5年。一夏、やっと目を覚ましたんだな」 両親と義母もその場に立ちつくし、涙をこらえきれない様子だった。 だが、この温かな雰囲気の中で、突然その小さな男の子が走り寄ってきた。手に持っていたおもちゃを一夏に向かって投げつけ、大声で叫んだ。 「悪い女、悪い女!お前が僕のパパを奪ったんだ……!」 その言葉が途切れる前に、隣に立っていた女性が素早く手でその口を塞いだ。 病室内は瞬く間に、恐ろしいほど静まり返った。 一夏は諒の腕を力強く押しのけ、鋭い視線で彼らを睨みながら、再び声を上げた。 「彼らは誰?」 誰も答えなかった。 両親と義母はうつむき、一夏と目を合わせようとしなかった。 諒がようやく反応し、女性に向かって声を荒げた。 「文弘(ふみひろ)を連れてくるなんて、何を考えているんだ? さっさと連れて帰れ!」 その声には、明らかな焦りがにじんでいた。 女性はその言葉に傷ついたのか、目を赤くしながら男の子を抱き上げ、病室を出て行こうとした。 だが、一夏はその声の裏に、夫の動揺を感じ取った。それは怒りではなく、不安を隠すためのものだと分かっていた 義母は諒の方を見て言った。 「そんなに強く言わなくてもいいじゃない」 そう言うと、彼女は一夏に視線を移した。 「彼女は椎名星奈(しいな せいな)よ」 その名前を聞いた一夏は、思わず目を見開いた。彼女もまた、自分と同じ「椎名」という姓を持っていたからだ。 その時、病室を出ようとした女性がうっかりドアの敷居につまずき、転んでしまった。 「文弘」という小さな男の子は驚いて泣き出し、義母は慌てて駆け寄り、男の子を抱き上げてあやした。 両親も倒れた女性に手を貸し、心配そうに声をかける。 「星奈、大丈夫? どこかぶつけなかった?」 一夏の胸に、何か小さな違和感が芽生えた。 諒はまだ一夏の隣にいたが、彼の視線はずっと星奈を追いかけており、その様子から彼が不安に感じていることが分かった。 星奈の手首から、血が流れているのを見て彼はすぐに立ち上がり、彼女の手を強く掴んだ。 「傷の手当をしに行こう」 焦った様子でそう言うと、一夏には気にも留めず、星奈を引っ張って部屋を出て行った。 星奈は部屋を出る前に振り返り、一夏に挑発するような笑みを浮かべた。 両親は星奈と一緒に行き、義母も文弘を抱えて後を追った。 病室にはあっという間に静けさが戻り、一夏は一人きりになった。冷たく、孤独で、寂しい空気が漂っていた。 彼女は抑えていた涙がこぼれ落ち、心が重くなった。自分が目を覚まさなければよかったのではないかとさえ感じた。 その後数日、一夏の母親が食事を持ってきてくれたが、それ以外の誰も姿を見せなかった。 そして、あの女性と男の子が一体何者だったのか、誰も説明してくれなかった。 諒もほとんど来なかった。来ても、いつも慌ただしく、ほんの数分で席を立ち、「仕事がある」と言って帰ってしまう。 この日もいつもと変わらず、彼は5分も座らずに立ち上がり、顔を曇らせながら言った。 「仕事に戻らなきゃいけないんだ。退院したら、ちゃんと君を迎える準備をするよ」 一夏はその言葉を聞き、冷たい声で問いかけた。「誰か待たせてるの?」 第2話 諒の顔色がさっと変わり、視線を逸らして慌てて否定した。 「そんなわけないだろ? 変なこと考えるな」 一夏の表情が沈んでいるのに気づくと、諒は彼女を抱き寄せ、耳元で優しく囁いた。 「君は……まだ目を覚ましたばかりなんだ。医者が言ってたよ――あまり疲れさせないように、なるべく人に会わせない方がいいって」 「この数日、母さんたちが来なかったのも、医者の指示に従っただけだ。俺だって……君には一日も早く元気になってほしい。退院したら、毎日そばにいるから」 一夏は聞きたかった――あの日の女性と子供は一体誰なのか、と。だが、諒の顔は懐かしいようで、どこかよそよそしく感じられ、言葉は喉の奥で詰まってしまった。 諒は一夏の母・椎名梓(しいな あずき)が持ってきた弁当を手に取ると、眉をひそめた。 「ほら、ちゃんとご飯食べていないじゃないか。五年も寝たきりだったんだから、起きたからには栄養をつけないと。もう少し食べて、ね?」 「でも……もう冷めちゃってるし、それにあまり好きじゃないおかずもあるの」 一夏は今にも泣き出しそうな声で訴えた。 この数日、母が持ってきた食事はいつも冷たく、好物もほとんど入っていない。肉じゃがなのに、ほとんどがじゃがいもばかりで、肉はわずかしか入っていない。 諒は一瞬言葉を詰まらせ、顔がわずかに強張ったが、すぐに一夏の頬をつまみ、笑顔を作った。 「確かに、冷めてしまったね。温め直してくるよ。もし口に合わないなら、帰ったら梓さんに伝えておくね。きっと医者に言われたから、あのようなあっさりしたものだけを持ってきたんだと思うよ」 長年愛してきた男の穏やかな眼差しと、優しい口元の笑みに、一夏の心はふっと揺れた。もしかしたら本当に、自分の思い過ごしだったのかもしれない――そんな気がしてきた。退院前夜、一夏は胸を弾ませながら諒に電話をかけた。 「明日、何時に迎えに来てくれる?」 受話器の向こうは長い沈黙。 諒は口ごもり、なかなか答えなかった。 しばらくしてから、ようやく「梓さんに食事を届けさせるから、そのついでに迎え行かせる」と曖昧に言った。 その時――電話口から女の甘えた声が漏れ聞こえた。 「諒、早く来て。このふた、どうしても開けられないの」 電話はぶつりと切れた。 耳に残っているのは無機質な「ツーツー」の音。 その音はまるで胸を打つように響き、一夏の心は一気に冷え込んだ。 ――彼にとって、退院する予定の自分よりも、彼女のために瓶のふたを開けることの方が大事だったのだろうか。 一夏は朝から夜まで、病院で待ち続けた。まるで捨てられた子供のように。 彼女は誰かが迎えに来てくれるのを待っていたが、太陽が沈むにつれて、その期待は徐々に闇に飲み込まれていった。 結局、誰も来なかった。弁当を持ってくるはずの母の姿さえも現れなかった。 彼女は覚悟を決めていた、決めていたはずなのに、実際に置き去りにされたと気づいた瞬間、胸の奥は鋭い痛みに襲われた。 5年という時間は、本当に多くのことを変える。 重い足取りで家の前に立ち、ドアロックの「指紋が認識できません」という冷たい電子音が響いた瞬間、一夏はとうとう堪えきれずに大声で泣き崩れた。 目覚めてからの悲しさや迷い、不安が、一気に溢れ出した。 しばらくして、ドアが開き、梓が姿を現した。娘を見た彼女の目には、驚きが色濃く浮かんでいた。まるで帰ってくるとは思っていなかったかのように。 部屋の中では明かりが灯り、家族全員が食卓を囲んで楽しそうに夕食を取っている。 一夏は顔を拭い、涙をこらえながら尋ねた。 「ママは、どうして迎えに来てくれなかったの?」 梓はばつが悪そうに笑い、言い訳を口にした。 「いや…母さんも年でね、最近物忘れがひどくて。あとで弁当を持って行こうと思ってたのよ。お帰り、ちょうど食事中だったから、ほら、一緒に食べよう」 一夏の視線は食卓へ――そこには色とりどりの料理が並んでいた。 彼女は気づいた。この数日、自分が食べていたのは、どうやら彼らの残り物だったらしい。それがために肉が少なく、しかも冷たかったのだ。 吐き気と嫌悪感が一気に込み上げ、胃の中で波が打つような感覚が広がり、彼女の心は完全に凍りついた。 諒が席を立ち、一夏を手招きした。 「ほら、こっちにおいで」 だが、そこにはすでに星奈と文弘が座っていて、一夏の席はどこにもなかった。 空気が一瞬にして凍りつき、誰もが気まずそうに固まった。 一夏は冷ややかに笑った。――どこまでこの茶番を続けるつもりなのか、この男。 諒はどうしようもなくなり、星奈に文弘を連れて二階へ行くよう促した。 星奈は少し驚いた様子で諒を見た後、すぐにうつむき、自分のお腹を撫でながら、声を震わせて言った。 「でも……まだご飯を食べてないの。赤ちゃんが……」 第3話 その場にいた全員が言葉を失い、目を見開き、星奈が軽くお腹に手を当てているその姿に一斉に視線を向けた。 義母である相川彩香(あいかわ あやか)がいち早く我に返り、諒を責めるように言いながらも、その口元は喜びで緩みきっていた。 「星奈が妊娠していること、あなたは知らなかったの? 夫として、どうしてそんなことにも気づけないのよ?」 口からその言葉が出た瞬間、彩香は何かに気づいたようで、慌てて一夏を横目で見た。 その視線には、わずかな罪悪感と気まずさがにじみ出ていた。 予想していた答えを耳にし、一夏の手は無意識に椅子の背を強く握りしめた。爪が木材に食い込み、顔は平静を装いながらも、心の奥底では締めつけられるような痛みを感じていた。 ――諒。この男は、結婚式で永遠を誓い合った夫は、自分を裏切ったのだ。しかも、もうすぐ別の女と二人目の子を持つという。 星奈はまるで一夏の痛みを深めるかのように、うっとりと自分のお腹を見つめ、わざとらしく言葉を続けた。 「諒がね、私に子供をたくさんたくさん作ろうって言ってくれたの」 一夏の顔色はどんどん悪くなり、椅子の背を掴む手にさらに力が入った。 「パキッ」という音が響き、爪が割れ、指先から血が滲んだ。 しかし、その痛みさえも、胸を引き裂くような裏切りの苦しみによってかき消されていった。 夫が、どうして他の女と「子をたくさん作る」なんて言えるのか――理解できない。 だが、一夏の異変に気づく人はいなかった。全員が、星奈が妊娠したという「良い知らせ」に浸りきっていた。 隣の諒は、抑えきれない興奮のまま星奈のそばにしゃがみ込み、慈しむようにまだ膨らんでいないお腹に手をそっと添えた。 「……まだ、何も感じられないな」 星奈は照れたように笑い、その手を握り返しながら甘えた声で言った。 「まだ二か月だから、感じられるわけないじゃない。文弘のときだって、四ヶ月目になってやっと胎動を感じたでしょ?」 諒の期待に満ちた笑顔は、一夏の目には耐えがたいほど眩しく、刺々しく映った。 彩香も、両親も、満面の笑みで星奈の周りに集まり、気遣いの言葉をかける。 夫も、両親も、義母も。かつて自分に向けられていた愛情や温もりが、今ではこの星奈という、どこか自分に似た女性に奪われてしまった。 どうして? 理解できない、受け入れられない。 彼女の中で怒りがこみ上げ、体が震え、ついに抑え込んでいた感情が爆発した。 「……いい加減にして! 私はまだここにいるのよ!」 諒はその声を聞くと、まるで電流を浴びたかのように顔を強張らせ、慌てて星奈を立たせた。 その表情には後ろめたさが浮かび、「一夏がようやく家に帰ってきたんだ、先に文弘を連れて上に行かせて」と星奈に告げた。 ――家?ここが? 一夏は心の中で冷たく笑った。 両親は何も言わず、ただ黙って立っていた。 慰めの言葉もなかった。 両親を見つめる一夏は、ますます孤独を感じた。 彩香は不満げに諒を睨み、口を尖らせて言った。 「星奈は妊娠中なのよ。ちゃんと食べさせなきゃ。上に行かせてどうするの? ……私はもうお腹いっぱいだから、一夏は私の席で食べてなさい」 そう言って、彩香は文弘を抱いて二階へ連れて行こうとした。 だが、文弘は星奈にしがみつき、「まだお腹ペコペコだよ、ママと一緒に食べたい!」と泣き叫んだ。 諒は困った顔で一夏を見つめ、他の三人も黙り込み、その視線はまるで一夏に圧力をかけているかのようだった。 一夏は頑なに譲らなかった。ここは自分の家、なぜ自分が妥協しなければならないのか? 彼女は無言のまま諒の隣に腰を下ろし、自分の茶碗に料理をよそい始めた。 文弘はまだ泣き続け、諒に叱られた後、ようやく黙り込んだ。 食卓には重苦しい沈黙が落ち、息苦しいほどの空気が漂っていた。 彩香が星奈を支えながら階段を上っていく背中を、一夏は黙って見送った。 ――かつて自分を大切にしてくれた姑の目には、もう星奈とそのお腹の子しか映っていない。 両親は文弘の手を引き、一夏を見つめながら何か言おうとしていたが、結局何も言わなかった。 梓の目が何度も階段の方へ向かい、その表情には心配の色が濃く浮かんでいた。 やがて、父の椎名和一(しいな かずいち)がそっと近づき、肩に手を置いて小声で言った。 「君はご飯を食べなさい。……俺たちは星奈の様子を見てくる」 「一緒に食べてくれないの?」 一夏は無理に笑顔を作り、子供の頃のように両親の腕に手を回して甘えた。 昔はこうやって甘えれば、何でもしてくれたはずだった。 だが、今日は違った。彼らは、一夏の掌が先ほど割れた爪から、滴る血に染まっていることにさえも気づかなかった。 乾いた血は、まるで今の彼女の砕けた心をそのまま映したように、生々しく痛々しかった。 第4話 梓はそっと自分の腕を一夏から引き抜き、無理に笑顔を作って言った。 「ちょっと星奈の様子を見てくるわ。あの子、あなたが目を覚ましてからずっと気分が優れないみたいで……。今は妊娠中だし、食欲が落ちないか心配なの」 和一もそれに頷き、一夏の手を軽く叩いて慰めるように言った。 「諒がここにいるんだし、久しぶりにゆっくり話せばいい。俺たちは星奈を見てくる。これから一緒に食事をする機会はいくらでもあるさ」 一夏は黙って手を引き、胸の奥に無数の針が突き刺さるような痛みを感じた。 自分が目を覚ましてから、両親は一度もまともに話をしてくれなかったし、気を遣ってもくれなかった。 けれど、星奈が元気がないだけで、二人は落ち着きを失う。 食卓に並んでいた一夏の好物も、両親の手によって星奈のもとへ運ばれていった。 一夏は何も言わず、手を止めずにただご飯を食べ続けた。 それも、普段は好きではない十六穀ごはんだった。 諒は一夏が魂を抜かれたような様子を見て、急いでスープを一杯盛り、一夏の前に差し出し、雰囲気を和らげようとした。 「外は寒かっただろ、まずはこれで体を温めな」 「寒くても、私を迎えに来る人はいなかったけど」 一夏は心の中で冷笑した。この温かいはずのスープも、今のこの家のように、何の温もりも感じられなかった。 茶碗の中のピーナッツを見つめ、彼女は低く問い詰めた。 「……私がピーナッツアレルギーだって知ってるでしょう? 殺すつもり?」 諒の顔色がさっと青ざめ、慌てて弁解した。 「何を言ってるんだ。……ごめん、俺が気づかなかった。スープにピーナッツが入ってたなんて……」 言い終えると、すぐにゴーヤを一切れ箸で掴み、一夏の皿に置いた。 「ほら、野菜も食べなきゃ。退院したばかりなんだから、あっさりしたものを」 一夏は何も言わず、ゴーヤを口に運んだ。 苦味が舌から喉へ、そして心の奥深くまで染み渡った。 ――この五年間、自分がいない間に、星奈は完全に「この家の一員」になった。 今の自分は、ただの邪魔者でしかない。 二人は黙々と食事を終えた。 二階からは、両親と彩香が星奈を慰める声が聞こえてきた。 その一言一言が一夏の耳を刺し、彼女の心を乱した。 もう座っていられなくなった一夏は、静かに立ち上がり、自分の部屋へ戻ろうとした。 その時、母が突然下に降りてきて、あちこちの戸棚を慌ただしく探り始めた。 「ママ?何探してるの?」と眉をひそめた一夏。 「星奈がちょっとめまいがするって言うから、薬を探してるのよ」梓は顔も上げず、手を止めずに答えた。 諒は勢いよく立ち上がり、声を弾ませた。 「俺も探すよ!」 諒と母が星奈のために走り回る姿を見つめながら、一夏の胸には言いようのない虚しさが広がった。 ――事故で昏睡状態に陥っていた五年間。目覚めた自分は、一人で退院した上に、この家に戻ってみれば、替え玉のような女が家族と笑い合っている。 「悪い女。ママは絶対にお前の思い通りにはさせない。パパは渡さないから!」 文弘は階段の上から、一夏に向かっておどけた顔をしていた。 一瞬、一夏は言葉を失った。――もう、子供にまでこんな風に扱われるのか。 「それ、あなたのお母さんが言ったの?」 「ママはね、お前は偽物で、目を覚ますべきじゃないって言ってたよ。僕の家を壊すな!」 あの女……見事なやり口だ。自分の息子まで駒にして。 「文弘、もう寝る時間だよ」 ちょうど階段を下りてきた彩香が、文弘を部屋へ連れていった。 一夏は自分の荷物を持って上の階に上がり、部屋へ向かった。だがドアの前で、甘ったるい声が耳に飛び込んできた。 「……あなた、もう大丈夫よ」 分かっていたはずなのに――星奈が「あなた」と呼ぶその相手が諒だと。 それでも、耳で聞いた瞬間、息ができないほどの絶望に襲われた。 ――この五年間、夫は別の女と過ごしながら、自分には「会いたかった」ふりをしていたのか。 目の前がぐらりと揺れ、吐き気がこみ上げた。 手からスーツケースが滑り落ち、「ドンッ」と鈍い音を立てた。 その音に、部屋の中の二人も気づいた――。 第5話 諒は物音に気づき、部屋から出てきた。 一夏を見た瞬間、顔色が青ざめ、慌てて言い訳を口にした。 「さっき、彼女が気分悪いって言うから様子を見に来ただけだ。下で話そう」 そう言って一夏の腕を取ろうとしたが、その手は力強く振り払われた。 一夏はもう疲れ果てていた。 星奈に関することをもう見たくも聞きたくもなく、彼女はただ今すぐに寝たいだけだった。寝て、目を覚ましたら、この悪夢から目を覚ますのかもしれないと思ったからだ。 「そんな顔しないで。今日はもうゆっくり休んで。すぐに説明できないこともあるんだ……明日、ちゃんと話してあげるから」 諒の瞳に、一瞬の動揺が走った。 一夏は彼を見つめ、顔に嘲笑を浮かべた。 「……私の目は節穴じゃないの。今の状況を見れば、説明も必要ないと思うよ」 諒が何か言おうとした瞬間、一夏はきっぱりと言葉を遮った。 「……休ませて」 その一言に、諒は安堵したように息を吐き、病院から持ち帰った荷物を取ろうと歩き出した――が、数歩で足を止めた。 彼の顔には戸惑いが浮かび、口を開こうとしたが、結局言葉が出なかった。 一夏はすぐに察し、皮肉げに笑った。 「どうせもうとっくに、私の部屋なんてないんでしょ?」 諒は慌てて手を振った。 「いや、そうじゃないんだ。急に帰ってきたから、ゲストルームの準備が間に合わなかっただけだ」 「昨日、退院するって電話で言ったよね? ただ、あなたたちが気にも留めなかっただけ」 一夏は震えるほどの怒りを感じた。 この家の誰一人として、自分を気にかけていなかった。 星奈が自分の場所を奪い、居場所ごと塗り替えてしまった。 ――結婚して夜を共にした部屋は今や星奈のもの。なのに自分はゲストルーム。笑わせるな。 「……あの部屋は私とあなたの部屋だったのよね。それを彼女に与えて、私にはゲストルーム?いったい誰があなたの妻なの?」 諒は気まずそうに黙り込み、やがて一歩近づいて彼女を抱きしめた。 「一夏、君は退院したばかりなんだから、怒らないで。星奈は今、妊娠してるんだ。今日迎えに行けなかったのは、昨日忙しくて忘れてただけなんだ。俺が悪かった」 「あなたの言う『忙しい』って、ふたを開けること?」 一夏の目は鋭く、声は冷たかった。 諒は一瞬たじろいだが、すぐ平静を装って答えた。 「……聞こえてたのか。昨日は缶詰のふたがどうしても開かなくて、頼まれただけだ」 「そんなことで、私の退院を忘れたの?」 諒の声から、わずかに苛立ちが滲み始めた。 「考えすぎだ。仕事が忙しすぎて、つい忘れただけだ」 一夏には理解できなかった。 ――たった五年間眠っていただけなのに、どうしてこんなにも世界が変わってしまったのか。 星奈は、どうやって自分のすべてを奪ったのか。 「諒、星奈はあなたを愛していない。彼女はただ、私のすべてを奪いたいだけよ」 胸の奥の痛みに耐えながら、一夏は必死に訴えた。 だが諒は、信じられないものを見るような目で彼女を見返し、表情は険しく、声も冷たくなっていた。 「君が星奈を嫌ってるのは分かる。でも、彼女は偶然君に似てるだけだ。そんなこと言わないで」 「そんなことって何のこと? 夫も家族も奪われて、どうして敵意を持たずにいられるの?」 諒は、視線を逸らさぬまま淡々と言った。 「……あの日、酒に酔って、俺が頼み込んだんだ。彼女は断ってたけど、俺が何度も頼んで……君がいると知ってから、星奈はずっと罪悪感を抱いてる。君の思ってるような悪い人じゃない。あの人は純粋なんだ」 諒の星奈を庇う言葉に、一夏の怒りは頂点に達した。 「じゃあ、なぜ彼女も『椎名』なの?」 第6話 「世の中に『椎名』って名字の人なんていくらでもいるだろ。いい加減、無茶を言うのはやめてくれないか?」 諒の表情には、次第に苛立ちが浮かび、声にももはや優しさが消えていく。 一夏は悟った――彼はもう、誰が何と言おうと星奈を悪く言われるのを許さない。完全に、彼女に心を奪われているのだ。 自分のすべてを、あんな偽物に奪われたのだと思うと、ただただ滑稽だった。 これ以上何を言っても無駄だと分かり、彼女は疲れ切ったように手を振った。 「……もう、疲れた」 その時、諒の視線がふと一夏の手に止まった。 掴み取るようにその手を握り、裂けた爪と血の跡を見て、諒は眉をひそめた。 「これ……どうしたんだ? そんなにうっかり怪我して……」 そう言うや否や、諒は一夏の手を引き、洗面台へと連れて行った。 傷口の周りにこびりついた血を、できるだけ優しく洗い流す諒。 一夏が思わず「……っ」と息を呑むと、彼はすぐに顔を上げた。 「痛むのか?」 彼女は首を振った。 ――その不器用なまでの必死さに、ふと昔の面影と重なった。 大学時代、何度も怪我をしては、慌てふためく諒に医務室へ引っ張られた。 校医に「大げさね」と笑われても、彼は気にも留めなかった――そんな記憶が鮮やかに蘇った。 胸の奥がふっと温かくなり、彼が薬を塗り、包帯を巻く手元をただ見つめた。 ――あの頃の諒が、ほんの少しだけ戻ってきたような気がした。 手当てを終えると、諒は「水に触れるなよ」と念を押しながら、一夏の手を引いてリビングへ戻った。 その感触に、一夏はまたあの頃を思い出す――彼の背中に守られながら歩く、あの確かな安心感を。 「……覚えてるか?大学の頃」 諒がぽつりと口を開いた。 「君、よく怪我してたよな。そのたびに医務室に連れて行って、先生に笑われてさ」 「もちろん覚えてる。さっき私も思い出してたところ。まさか同じこと言うなんて」 昏睡から目覚めて以来、初めて一夏の顔に笑みが浮かんだ。 それは過去の温もりを懐かしむ、優しい笑みだった。 その笑みに、諒の心が揺らいだ。 抑えきれず、彼は一夏の唇にそっと口づけを落とした。 一夏は目を見開き、言葉を失った。 懐かしい感触と香りに、徐々に肩の力が抜け、胸の奥に甘い温もりが広がった。 彼の腕の中に身を委ね、抱きしめ返した。 ――まるで時が戻ったように。自分は諒にとって一番大事な人で、両親に愛され、彩香に大切にされる嫁だった頃に。 ……だが、次の瞬間、「星奈」という名が頭を過った。 冷たい水を浴びせられたように、温もりが消えた。 一夏は勢いよく諒を突き放し、声を荒げた。 「離して!」 諒は目を見開き、信じられないという表情を浮かべた。 一夏は何も言わず、ただ目を閉じて静かに立ち尽くしていた。 諒は沈黙を破るように一歩近づき、再び抱きしめ、低く囁いた。 「……一夏。今夜だけでいい、ここにいてくれないか」 「……一緒にいてくれるの?」 一夏は諦めきれず、久しぶりにその腕に縋るように抱きつき、見上げた。瞳には淡い期待が宿っていた。 だが、諒は答えなかった。 ――この五年間、彼の隣には常に星奈がいた。彼はもう慣れていた。 その逡巡の色を読み取った瞬間、一夏の心は氷の底へ沈んだ。 温もりは一瞬で砕け、耐えきれずに涙があふれた。 「……出て行って!」 彼女は諒を力いっぱい突き飛ばした。 諒は低い頭をさらに下げ、まるで罪を犯した子供のように、ただその場に立ち尽くしていた。 「……言ったでしょ! 出て行って!」 第7話 病み上がりの一夏の身体は、まだひどく弱っていた。 さっき諒を突き飛ばした拍子に、自分の足元がふらつき、制御を失った身体が横の食器棚へと倒れ込んだ。 ――ガシャーン! 乾いた音とともに花瓶が床に落ち、粉々に砕け散った。 飛び散った破片が一夏の頬をかすめ、鋭い痛みとともに血が流れ出す。 しかし、一夏の心を覆っていたのは――この顔の傷よりもはるかに深い、胸を貫く絶望と苦痛だった。 騒ぎを聞きつけて、他の人たちが慌てて駆け込んできた。 梓は一夏の顔にできた傷口と、床に散らばる破片を見て、すぐ何が起こったのかを察した。 しかし、かつてのように顔を引きつらせて駆け寄ることもなく、彼女はただ淡々と声をかけた。 「……気をつけなさい。薬箱は棚にあるから、自分で薬を塗りなさい」 和一もため息をつきながら言った。 「ゲストルームはもう母さんが整えてある。今日は休め。明日、退院祝いをしよう」 諒は俯いたまま、まるで木像のように立ち尽くし、一夏に視線を向けることすらなかった。 胸の奥まで冷え切った一夏は、無言でゲストルームへ向かった。 ドアを開けた瞬間、そこに立っていたのは――星奈だった。 「……何しに来たの」 一夏の声には、明らかな嫌悪が滲んでいた。 星奈は気にも留めず、お腹を撫でながら勝ち誇ったように笑った。 「この子、女の子だといいな。そうすれば、諒と私は男の子も女の子も揃うから」 「人の夫を奪い、家を乗っ取り……それでそんな堂々としていられるなんて、恥知らずにもほどがあるわ」 一夏は露骨に軽蔑を込め、吐き捨てた。 星奈はその言葉を合図に、仮面を外した。 ふてぶてしい笑みを浮かべ、大きく笑った。 「何を言っているの? 周りからすれば、私こそが『椎名一夏』なのよ」 「……私たち、どうしてこんなに似ていると思う?」 「どうしてこんなにも簡単に、あなたの代わりになれたと思う?」 星奈の瞳は狂気に満ち、言葉は止まらなかった。 この数年間――一夏に成り代わるために、彼女は何度も整形手術を繰り返し、緻密に計算して諒との出会いを仕組んだ。 さらに、一夏の両親や彩香に取り入り、あらゆる手を使って好感を得ようとした。 そうして少しずつ、皆が彼女を受け入れ、やがて『本物の一夏』だと信じるようになったのだ。 その後、彼女と諒の関係は徐々に深まり――そして文弘が生まれた。 しかし、一夏が目覚めたことですべてを壊した。 「……どうして目を覚ましたの? 大人しく死んでいればよかったのに。もう、あなたは私に完全に取って代わられたのよ。何があっても、みんな迷わず私を選ぶのだから」 怨嗟の言葉を吐きながら、一夏を睨む星奈の瞳は、憎悪に燃えたぎっていた。 彼女は気づいていなかった――一夏のポケットの中で、録音中のスマホが光っていることに。 ふと、一夏の視線が星奈の手首に止まった。 袖口から覗くのは、深く澄んだ碧色の玉――翡翠の腕輪だった。 それは相川家の家宝。 この腕輪を初めて見たの場所は、彩香の手首の上だった。 そのとき彩香は笑顔で言った。 「時が来たら、あなたに渡すわよ」――と。 一夏はこっそり諒の袖を引き、頬を赤らめながら尋ねた。 「……これって、お嫁に行ったらもらえるの?」 諒は優しく笑い、彼女の頭を軽く小突きながら「そう焦るなよ」とからかった。 今――その腕輪は、最も憎む相手の手首にあった。 「この腕輪、見覚えあるでしょ? 彩香さんがわざわざ私に嵌めてくれたのよ。『相川家の嫁』しか着けられないんだから」 星奈はわざとらしく手を高く掲げ、翡翠の輝きを見せつける。 「あなた、一度も着けたことないわよね? 残念だけど、これはもう私の物よ。これからも、ずっと」 言葉の刃は、さらに鋭くなった。 「――たとえ目を覚ましたって、あなたのすべてはもう私のものよ」 一夏は乾いた笑みを浮かべた。 ――心から欲しかった物が、こんな偽物に奪われたなんて。 この現実は、滑稽で、惨めで、どうしようもなく悲しい。 「偽物は、所詮偽物。本物は何があっても本物よ」 その言葉を聞くと、星奈は腹を抱えて大きく笑った。 「だから何よ? 今の状況、よく見てごらんなさい。――あなた、彼らからして、全然重要じゃないの。まだわからないの?」 第8話 星奈の言葉を聞いた瞬間、一夏の頭には、目覚めてからの出来事が次々と浮かび上がった。 諒の、どこか距離を置くような態度。 両親からの、かつてのような甘やかしは消え失せ、彩香の視線にも冷ややかさが混じっていた。 そして、文弘――あの子は初めから彼女を憎み、「お前がパパを奪った」と言い切った。 思い出せば思い出すほど、胸の奥が冷えていく。 ……この家には、もはや一夏の居場所はない。 彼女がいない方が、皆はずっと幸せそうだった。 「……見てみたい? 彼らにとって大事なのがどっちの方か」 星奈が唇の端を持ち上げ、陰険な笑みを浮かべた。 次の瞬間、一夏が反応する間もなく――。 ガシャン、とテーブルの上のグラスが床に叩きつけられ、粉々に砕けた。 星奈は迷いなくその破片をつかみ、自分の腕を深々と切り裂いた。 血が泉のように噴き出し、床を真っ赤に染めていた。 「……!」 一夏は目の前の光景に言葉を失い、頭が真っ白になった。 星奈は挑発するように一夏を見つめ、わざとらしく悲鳴を上げ続けた。 ほどなく、皆が駆け込んできた。 彼らの目が星奈の流れる血と、足元に広がる赤に吸い寄せられ、全員の顔色は一瞬で蒼白になった。 一夏は必死に「違う」と言ったが、声は届かなかった。 全員が星奈の周りに集まり、傷を心配そうに見守った。 「……病院だ、すぐに!」 和一が叫んだ。 諒は一夏を鋭く睨みつけ、力任せに肩を押しのけた。 その衝撃で一夏は倒れそうになった。 諒は彼女の様子など気にもせず、星奈のもとへ駆け寄った。 その瞳には、焦りと痛み、そして何よりも彼女を思う気持ちだけが宿っていた。 彼は星奈を抱き上げ、そのまま部屋の外へ走り去った。 「ママを傷つけた悪い女! 僕が、ママの仇をとるんだ!」 階段の陰から飛び出した文弘は、怒鳴りながら手にした積み木を一夏に投げつけた。 角張った木の塊は額に直撃し、瞬く間に腫れ上がった。 痛みに涙が滲むが、誰一人それを気に留めなかった。 和一は一夏を冷たい目で見つめた。 これまで見たことのないほど冷たい眼差し――まるで真冬の氷のような厳しさが宿っていた。 「……お前が帰ってきてから、家は滅茶苦茶になった。星奈が無事であることを祈れ。さもないと……」 一夏が口を開こうとした瞬間、父は背を向け、諒の後を追って行った。 代わって、梓が早足で近づき―― パァン! 乾いた音が響き、頬に熱が走った。 真っ赤な手形が一瞬で浮かび上がる。 「星奈はずっと、あなたが目を覚ますことを願っていたのよ。嫌われるんじゃないかって心配もしてたのに、どうしてそんなひどいことができるの!」 震える声は、怒りと失望で満ちていた。 彩香は黙ったまま、一夏を冷ややかに見据えた。 その眼差しには、まるで見知らぬ人を見るような冷たさが宿っていた。 誰も、一夏の言葉に耳を貸さなかった。 部屋中の視線は、彼女を断罪するものばかりだった。 星奈が去り際に浮かべた勝ち誇った笑みが、頭に焼き付いて離れない。 ――あの女の勝ちだ。 一夏の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。 静かにポケットからスマホを取り出すと、画面にはずっと作動し続けていた録音アプリの波形が揺れていた。