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風は時を違えず、花は疑わず咲く
白石晴夏(しらいし はるか)の婚約者は、よく彼女に宝石を贈っていた。誰もが羨むほど、高価で美しいものばかりだった。 後になって彼女は知...
Chương (1)
第1章
白石晴夏(しらいし はるか)の婚約者は、よく彼女に宝石を贈っていた。誰もが羨むほど、高価で美しいものばかりだった。
後になって彼女は知る。婚約者は浮気のたびに、償いのように宝石を贈っていたのだということを。
第1話
白石晴夏(しらいし はるか)の婚約者は、よく彼女に宝石を贈っていた。誰もが羨むほど、高価で美しいものばかりだった。
後になって彼女は知る。婚約者は浮気のたびに、償いのように宝石を贈っていたのだということを。
最初の浮気の時、婚約者・黒川修司(くろかわ しゅうじ)は言った。「晴夏……俺、皮膚接触依存症なんだ、時に人の肌を触れないと落ち着かない病気で、あの時も発作が起きて……どうしても止められなかったんだ」
晴夏は一晩中泣き続け、別れを切り出した。だが修司は、自ら命を絶つ勢いで彼女を引き止めた。「俺は浮気するようなクズじゃない!病気なんだよ!俺は死ねばお前が満足か!?……なら死ぬよ!」
そして、本当に喉元に刃を当てた。
晴夏は泣き崩れ、結局許してしまった。
二度目の浮気は、修司とその幼なじみ・藤原月乃(ふじわら つきの)がベッドに並んでいるところを目撃した時だった。
「違うんだ、晴夏!月乃は女として見てない。今回はたまたま発作が起きて……彼女を使っただけなんだ」
月乃も続けて言った。「誤解しないで、晴夏さん。私たちは親友だから。男女の仲なんて絶対ないよ」
それでも、晴夏は耐えきれず、また別れを告げた。
その結果、修司は自分の体に爆薬を巻きつけ、晴夏の首を掴んで叫んだ。
「晴夏、俺はな……お前から離されるくらいなら、死んだ方がマシだ。俺のそばにいてくれ、死ぬ時も一緒だ。
一緒に死のう!死んだら俺も皮膚接触依存症に苦しまないし、お前だけのものになれる!」
彼は起爆スイッチに手をかけた。
涙で目が見えなくなるほど泣きながら、晴夏はまたしても修司を許すしかなかった。
それからは、月乃が修司の「専属の治療薬」となり、どこへ行くにも一緒だった。
「晴夏、あの子とは幼なじみだ。もし恋愛感情があるなら、とっくに付き合ってるさ。
月乃がいるのはお前を守るため。汚れた場所にはお前を連れて行きたくないんだ。俺が愛してるのは、お前だけ」
そう言いながら、修司は次々と宝石を贈り続けた。
ジュエリーボックスはもういっぱいになり、しまう場所もない。
そんなある日、月乃の妊娠が発覚した。
涙が止まらない中、晴夏は七年間一度も連絡を取らなかった番号に電話をかけた。
「桐野時生(きりの ときお)……私たちの許嫁、今でも覚えてる?」
「覚えてるさ!やっと俺を思い出してくれたか!……でも今、南極にいるんだよ!
七日だ!七日だけ待ってろ!必ず迎えに行くから!」
晴夏は微笑む。「うん、待ってる」
電話を切った直後、修司が部屋に入ってきた。
「晴夏、準備できた?今日、両親が式場の下見に行けってうるさくてさ」
七日後、修司との結婚式が予定されている。
黒川家は金持ちで、丸ごと一つの山を貸し切って挙式会場にしている。
時生はまだ帰ってこない。晴夏には逃げ出す手段もなく、ただ大人しく頷くしかなかった。「行こうか」
車で移動する途中、修司が月乃からかかってきた電話に出た。
「え?エンジントラブル?……場所は?今すぐ行く!」
電話を切るとすぐにUターンしようとしたが、助手席の晴夏の顔を見て、動きが止まった。
「晴夏、前にも言っただろ。月乃の子どもは認めない。あいつは結婚願望もないし、ただ子どもが欲しいだけなんだ。生まれても一度も会わないつもりだし、跡継ぎにもさせない。
でも今は妊娠中で一人なんだ。友達として、放っておけない。
ここから式場までは歩いても近いし……ごめん、後でちゃんと埋め合わせするから」
晴夏は呆然とした。
確かに地理的には近い。けれど山全体が式場で、歩けば四、五時間はかかる。
しかも、晴夏は軽度の障がいがあり、生まれつき脚が悪かった。幼い頃は、その障がいをからかわれることも少なくなかった。
修司と同級生だった頃、彼女がいじめられているのを見て、修司は暴力で止めた。
「晴夏をバカにするってことは、俺をバカにするってことだ!試してみろよ、どっちの拳が強いか!」
それから、修司は黒川家の人脈を使って、世界中で最も有名な医師を探し出し、矯正器具を用意してもらった。
晴夏の実家が貧乏だから、そのお金も全部修司が支払った。晴夏の分だけでなく、自分の分も。
修司の足には、何の不自由もなかった。晴夏が一人だけつける姿を同級生たちにからかわれるのが耐えられず、彼はわざわざ、彼女と同じものを一緒につけた。
「晴夏、よく覚えておけ。俺がいる限り、お前は一生独りじゃない。もしお前が苦しむのなら、俺が代わりに苦しんでみせる。でもよ、俺が苦しんでる時にお前は無理するな……そうじゃないと、俺がより辛いんだからな。」
その言葉通り、三年間、ずっと一緒に矯正器具をつけ続けてくれた。
そのおかげで晴夏は普通に歩けるようになったが、長時間歩けば激痛が走る。
「じゃあ、式場で会おうな」
そう言って修司は車を走らせた。
まるで、彼女の脚のことなど、最初からなかったかのように。
夜の山道、タクシーは捕まらず、晴夏は歩くしかなかった。
数十分も歩かないうちに、脚が激しく痛みだす。関節が軋むように痛んで、足を踏み出すたびに涙がにじむ。
それでも彼女は、黙って歩き続ける。
──修司、あなたが私の痛みを癒してくれた。
でも今、誰よりも深く私を傷つけているのも……あなただよ。
第2話
六時間歩き続けて、晴夏はようやく結婚式のリハーサル会場にたどり着いた。
白いスニーカーは血に染まり、歩くたびに地面に赤い跡を残すほど、足はひどく擦りむけていた。
けれど、それでも到着が遅すぎた。すでに深夜一時を過ぎていて、リハーサルの参加者は皆帰ってしまっていた。
修司は先に月乃を連れて現場に来ており、今は祭壇の前で不機嫌そうに腕を組んでいる。
「晴夏、どこ行ってたんだよ!」
彼女を見た瞬間、怒鳴りつけるようにして言った。
「俺、何回も電話したんだぞ!なんで出なかったんだ?どれだけ心配したと思ってるんだ!」
夜の暗さもあってか、修司は晴夏の血まみれの左足に気づいていない。
喉はカラカラだった。晴夏は「スマホの電源が切れてた」と説明したかったが、その前に月乃の声が後ろから飛んできた。
「なに怒鳴ってんのよ、修くん!」
月乃は軽やかに歩み寄ってきて、いきなり修司に蹴りを入れた。
「ったく、晴夏さんにそんな言い方して、出世したもんね~!
途中で晴夏さん放り出して私のとこ来といて、ちょっと拗ねたくらいで文句言うとか、焦らしプレイ?」
一見、晴夏の肩を持っているようで、その実、月乃の言葉は晴夏を「嫉妬深くて面倒くさい女」のように印象づけている。
修司は眉をひそめ、明らかに苛立った表情を見せるが、それでも謝罪の言葉を口にした。
「悪かったよ、晴夏。ちゃんと送ってから行くべきだった。
でも、怒ってるならその場で言ってくれよ。あとから黙って拗ねられるのは困る」
その理不尽さに、晴夏は思わず乾いた笑いが出そうになった。
彼女は今まで何度も、月乃のことで傷ついていると伝えてきた。
泣いて訴えたこともある。
けれど修司はそれを「女性特有のわがまま」として片づけ、宝石ひとつで済ませてきた。
「晴夏さんは小さなプリンセスだから、甘やかさなきゃダメなんだよね〜」
月乃は茶化しながら言った。
「私は雑に育てられてるから、甘やかされなくても平気。さっ、修くんは早く部屋戻って、土下座してな」
そんな軽口を叩きながら二人は部屋へ戻っていった。誰も気づかない──後ろをついていく晴夏の足が、また不自然に引きずられていたことに。
翌日は結婚式のリハーサル本番だった。
痛む足を押して階下に降りた晴夏が見たのは、自分のウェディングドレスを着た月乃の姿だった。
そのドレスは、昨日届いたばかりで、晴夏自身はまだ一度も袖を通していなかった。
修司の友人たちは月乃を囲んで、冗談交じりに盛り上がっている。
「おいおい、月乃って意外とドレス似合うんだな!」
「女の子らしいとこ、たまには見せてくれよ〜」
「うるさいっての!」
月乃は笑いながら軽く蹴りを入れた。
「こんな乙女チックな服、私の趣味じゃないんだから。修くんが見たいって言うから仕方なくよ?」
「ってことは、修司のためだけにドレス着たってこと?」
その問いには答えず、月乃と修司は見つめ合った。
その目には、あまりにも分かりやすい熱があった。
彼女は晴夏のドレスを着て、修司は黒いスーツを身に纏っていた。
誰がどう見ても、結婚するのはこの二人だと錯覚する。
場違いなのは、自分──
晴夏は無言でその場を離れ、自室へと引き返した。
しばらくすると、修司から電話がかかってきた。
「小悪魔ちゃん、どうして降りてこないの?」
「……ドレスなら、もう誰かが着てたから。私は必要ないかと思って」
「え、お前……見てたのか?」
修司の声に、珍しく焦りの色がにじんでいる。
「ごめん!友達がふざけてただけなんだ。俺も止められなかった……今すぐ月乃に脱がせるから!」
その瞬間、電話越しに月乃の悲鳴が響いた。
「きゃっ、修司、お腹が急に痛い……!」
「月!!」
慌てた修司が、彼女の愛称を叫ぶ。
電話を切るのも忘れたまま、彼はそのまま彼女を抱えて病院へと向かった。
晴夏は静かに通話を終了した。もう、何も聞きたくなかった。
だが、それでも月乃は彼女を逃がさなかった。
数分後、スマホに一本の動画が届く。
画面の中、黒いマイバッハに月乃が座っている。
純白のウェディングドレスをまくりながら、艶めいた笑みを浮かべてこう囁いた。
「修くん~そんなに心配しないで。さっきのは演技だよ。
あなたを外に連れ出したのは、ドレス姿の私と一発やらないって……聞きたかっただけ」
第3話
「月乃、こんな冗談で済ませていい話じゃないんだぞ!」
修司は怒りで声を荒げた。「さっき、どれだけ心配したと思ってるんだ!」
「ごめんなさ~い」
いつものサバサバした雰囲気を消し、月乃は甘えるように修司の手をぎゅっと掴んだ。「もう怒らないで。今度から気をつけるから」
そう言いながら、月乃は修司の手を自分のドレスの奥へと導く。
修司の呼吸が荒くなり、冷たい笑みを浮かべた。「ほんと、困ったやつだな。だったら俺がしっかり治してやるよ」
──その後の光景は、目を背けたくなるものだった。
頬に何かが伝った。晴夏は反射的に手を当て、ようやく自分が泣いていることに気づいた。
修司はいつも言っている。自分は「皮膚接触依存症」という病気だから、やむを得ず月乃と関係を持っているのだと。
けれど今日、発作なんて起きていない。それでも彼は、月乃とやった。
しかも月乃が着ていたのは──晴夏のウェディングドレスだった。
その日の夕方、ようやく修司が帰ってきた。
「晴夏、月乃が気分悪そうだったから、病院に連れて行ってたんだ」
彼は続けた。「ドレスのこと、怒らないでくれよ。あれは、俺の友達がふざけて着せたんだ。
お前が潔癖なのは分かってる。他人が着たウェディングドレスなんて、絶対に着たくないだろう?
安心しろ。新しいドレス、もう手配した。明日には宅急便で届くから」
晴夏は何も言わなかった。たしかに彼女は潔癖だった。他人が着た服は、たとえ洗っても二度と着たくない。
そして──他人が抱いた男も、もういらなかった。
修司は彼女の表情に気づいたのか、優しくキスを落とすと、言った。
「せっかくだから、指輪も新しくしよう。南アフリカで、世界に一つしかないピジョンブラッドルビーが見つかったらしい。今夜、オークションがあるんだ。俺がそれをお前の婚約指輪にする」
そう言って、彼は晴夏の返事も聞かずに手を引いて、外へ連れ出した。
オークション会場に入ると、晴夏の目に飛び込んできたのは──月乃の姿だった。
修司は気まずそうに笑った。「今日、月乃はお腹の具合が悪かっただろ?だから慰めに、何かプレゼントを買ってやろうと思って」
晴夏は表に微笑むが、思った。「慰め?違うでしょ。昼間、さんざん楽しんだお礼に、今夜はご褒美ってわけね」
ほどなくしてオークションが始まり、ピジョンブラッドルビーの指輪が登場すると、月乃の目が一気に輝いた。
「ピジョンブラッド──鳩の血の色のルビーって、つけたら体によくて赤ちゃんにも良いんだって」
月乃は修司の腕に絡みつきながら甘えた声を出す。「最近、妊娠してからずっと体がだるくて。修くん、このルビーが欲しいな」
その瞬間、修司の笑顔が凍りついた。
彼はチラリと晴夏を見て、何か言いたげに口を開きかけた。
けれど、その目がすべてを語っている──わかってるだろ?お前が譲ればいいんだ。
晴夏は無言で札を上げた。
──譲らない。
なぜいつも、自分ばかりが引かなきゃいけないの?
「晴夏さんもこのルビーが好きなのか?」
晴夏が札を上げたのを見て、月乃は少し目を伏せて呟いた。「だったら私、やっぱりいい。こんな女の子っぽい宝石、私には似合わないし」
言葉では譲る素振りを見せたが、明らかにしょんぼりと落ち込んだ様子を見せた。
修司の顔が一気に険しくなり、迷わず札を上げる。
晴夏と修司の札の応酬が始まり、金額はどんどん跳ね上がっていく。修司の札の上げ方も、次第に苛立ちを帯びたものへと変わった。
ついには、修司が十億円を出した。それは晴夏の手が届かない金額だった。
「黒川様、十億円いただきました!」
司会者の興奮した声が響く。「ピジョンブラッドルビーは、黒川様のものとなりました!」
その瞬間、晴夏の心は完全に凍りついた。
目に涙を浮かべながら修司を見つめ、心の中で叫んだ──どうして?
「このルビー、本来はお前のために買うつもりだった」
修司は冷たく言った。「けど、お前っていつもそう。小さなことにこだわってさ。
月乃はおおらかで裏表のない子なんだ。そんな彼女に、なんでお前はあんなにキツく当たる?
妊婦なんだぞ?少しぐらい我慢させられることもあるけど、それにも限度がある。
晴夏……お前が今日、ほんの少しでも譲ってくれてたら、このルビーは間違いなくお前のものだった……でもな、お前にはがっかりだよ」
そう言って修司は、晴夏の目の前で、ピジョンブラッドルビーの指輪を月乃の薬指にはめた。
第4話
月乃は今、純白のウェディングドレスに身を包み、左手薬指には修司から贈られた指輪が光っている。そして彼女のお腹の中には、彼の子どもが宿っている。
修司の隣に立つその姿は、晴夏よりもはるかに「新婦らしい」ものだった。
修司は月乃を連れて、その場を堂々と去っていった。残された晴夏は、静かに涙を流しながら、自分の薬指にあった婚約指輪を外した。
──あの時のことを思い出す。
修司が月乃と裏で関係を持っていると知った日、晴夏は激怒し、十年間大切にしてきたペアリングを海に投げ捨てた。
修司はためらうことなく、真冬の海に飛び込み、指輪を探し続けた。薄着のまま、凍てつく海の中で丸一日──そしてようやく、彼はその指輪を見つけて、笑顔で言ったのだ。
「晴夏、指輪見つけたよ!
こぼれた水も、集めれば戻る。割れた鏡も、繋ぎ合わせれば元通りになる。頼むから、俺のそばにいてくれ……お前を失いたくないんだ」
けれど今、その彼は、あのルビーの指輪を月乃に渡した。
静かに帰宅した晴夏は、無言のまま荷造りを始めた。修司にまつわるものすべてを集め、一つ残らず燃やした。
一緒に見たオーラルの写真。彼が極地の研究者に頼んで届けてくれた、溶けない氷の結晶。二人で使った矯正器具。
そして、宝石でいっぱいのジュエリーボックス。
宝石は燃えない。だからすべて寄付した。婚約指輪も、その中に入れて。
寄付を終えた直後、修司が月乃を連れて帰ってきた。
彼は意味ありげな視線で晴夏を見つめ、口を開いた。
「晴夏、月乃が最近、つわりが酷くて何も食べられないんだ。だけどな、お前のトマト牛肉煮込みがどうしても食べたいって言ってる。作ってくれないか?」
その声は意図的に低く抑えられている。まるで、服従を試すかのような言い方だった。
もしかすると月乃は、別に食べたくなどなかったのかもしれない。だが修司は、晴夏がまだ自分の言うことを聞くか試したかったのだ。
──もうすぐこの家を出る。だから晴夏は、無感情に立ち上がった。「……分かった、作るわ」
その答えに、修司の険しい表情は少しだけ和らぎ、月乃に向かって笑った。「な?言っただろ、晴夏はそんなに心が狭い人じゃないって」
やがて料理はできあがり、晴夏は黙ってそれを運んだ。
月乃はにこやかに晴夏を褒め、嬉しそうに食べ始めた。だが、数口食べたところで突然、顔色が変わり──血を吐いた。
「晴夏さん、これに何入れたの!?」 月乃はお腹を押さえ、泣きながら叫んだ。「お腹が……痛い!修くん、助けて……!」
修司は動揺し、彼女を抱き上げて病院へと急いだ。「月、しっかりしろ!今すぐ病院に連れて行く!」
晴夏も、修司の部下たちによって一緒に病院へ連行された。
何もしていない。それでも、手術室で月乃の命が危ぶまれる中、誰も晴夏の言葉を信じようとしなかった。
この騒動は、黒川家と藤原家の人たちをも巻き込んだ。両家は大勢で病院に押しかけた。
「この毒婦が!」修司の母が晴夏の頬を思いきり叩いた。「もし私の孫に何かあったら、絶対に許さないからね!」
月乃の母も激怒し、部下に晴夏の髪を掴ませて、何度も平手打ちをさせた。
修司は、それをただ冷たく見ているだけだった。何も言わずに──
晴夏の顔が血に染まった頃、ようやく彼は止めに入った。
その時、修司の祖母が数珠を指で撫でながら口を開いた。
「暴力では、問題は解決しない。しかし、晴夏がここまで非道なことをした以上、罰を与えなければ、藤原家に顔向けできない
……そうね。南山にあるW寺って、よく当たるって評判よ。あそこで心を込めて祈れば、きっと仏様も応えてくれるわ。
晴夏、これからあんたは、W寺まで一歩一歩ひざまずきながら進んでいき、月乃と赤ちゃんのために祈りなさい。それができたら、許してあげる」
表面上は「慈悲深い」提案。けれど、それは最も残酷な刑だった。
晴夏の左脚には障がいがある。普通に歩くことさえ難しい彼女にとって、それは命を削る行為だった。
胸が痛み、息が詰まりながら、晴夏は修司を見上げた。
彼は彼女の脚のことを知っている。それでも、彼はただ冷たく言い放った。
「お前のやったことはあまりに酷すぎる。せめて仏様に詫びて、少しでも慈悲をもらってこい」
第5話
晴夏は、黒川家の部下によって病院の外へと連れ出された。
怠けることがないようにと、修司の祖母は二人の使用人を晴夏につけた。W寺まで一歩一歩ひざまずきながら向かわせるためだった。
「ひざまずくときは、心を込めて祈りなさい」そう言い放った修司の祖母は続けた。「月乃とそのお腹の子のために、無事を祈って。仏様に加護を願うのよ」
晴夏は笑みを浮かべ、修司の祖母の見守るなか、静かにひざまずいた。
「仏様、どうかお願いします。私がこの先、二度と修司と関わることがありませんように。永遠に、死ぬまで会いませんように」
晴夏は一度ひざまずくたびに、心の中でそう祈り続けた。
すべてを差し出しても構わない。仏様の加護を得て、修司から永遠に解放されるのなら──
W寺までは車で丸一日かかる距離だった。それでも晴夏は、障がいのある左足を引きずりながら、血まみれになっても、ひたすらひざまずき続けた。
膝はとうに裂け、白いワンピースの裾は血で赤く染まり、足元には血の跡が点々と残っていく。
終盤には痛みさえ感じなくなり、意識は朦朧としながらも、彼女はただひたすら前に進んだ。
もう少し、あと少しで着く──
心を込めれば、仏様はきっと願いを叶えてくれる。その一心で、晴夏は最後まで倒れずに耐え抜いた。
そして、巨大な仏像が視界に入ったその瞬間──晴夏は安堵の笑みを浮かべた。
汗と血にまみれた体で、最後にもう一度ひざまずき、祈る暇もなく、そのまま意識を失った。
……
次に目を覚ましたとき、晴夏は病院のベッドにいる。
ベッドのそばには、修司が座っている。彼は晴夏の手を握り、不安げな表情を浮かべている。
「晴夏……やっと目を覚ましたね」
彼は優しく声をかけた。
「願いが通じたよ。月乃と赤ちゃん、無事だった。
お前にはつらい思いをさせたけど、あの場には藤原家の人間もいた。あの時、お前を守ったら彼らの怒りをさらに買ってしまった。だから、仕方なかったんだ。
晴夏は賢いから、きっとわかってくれるよね?」
晴夏は、穏やかに微笑んで言った。
「……うん、わかってる」
もちろん、よくわかっている。あのとき、修司の目に浮かんでいた冷たい光。
彼は「守れなかった」のではなく、「守るつもりがなかった」。今さらの言い訳など、ただの後付けだ。
だが、修司は彼女の言葉の裏にある棘に気づくことなく、彼女の額に軽く口づけた。
「晴夏は本当にいい子だね。
今回は許すけど、もうこんな無茶はしないでくれよ?お前は知ってるだろ、俺の心にはお前しかいない。月乃なんて、ただの一時しのぎの薬みたいなものだよ。お前の立場を脅かすような存在じゃない──」
そのとき、病室の扉がノックもなく開いた。
「黒川さん、藤原さんがご機嫌斜めで食事を取りません。至急、ご対応を」
看護師の報告に、修司はすぐに立ち上がった。
「手術直後に何も食べないなんて……大変だ」
そう言うや否や、彼は晴夏の容体も医師への確認もせず、病室を後にした。
その後も数日間、修司は月乃のもとにつきっきりだった。晴夏の部屋には、たまに顔を出す程度。
そんな様子を見ている看護師たちは、陰でささやき合った。
「藤原さんが黒川さんの婚約者なんだって?」
「じゃあ、あの足を引きずってる女の人は何者?」
「さあ……でも黒川さん、本当に藤原さんには優しいよね。毎日自分でご飯を作ってるんだって」
「つわりで吐かれても全然気にしないんだって。理想の彼氏すぎる……」
「今夜は、気晴らしのために花火を数千発も用意してるって聞いたよ」
看護師たちの無邪気な噂話を聞きながら、晴夏の胸は氷のように冷えていった。
思い出す。まだ付き合いたてのころ、彼はどんなに忙しくても、風邪をひいただけでベッドのそばを離れなかった。
薬もご飯も、全部彼が自分の手でしてくれて──使用人には一切任せなかった。
今の自分の病室には誰もいない。冷えた病院食を一人で口に運ぶ。
夜空に咲き誇る花火は、自分のためではない。
彼の心は、もうとっくに、別の誰かに向いていた。
第6話
花火が終わったその夜、月乃が突然、晴夏の病室に現れた。
「修くんは急な仕事で会社に戻ったわ。代わりに私が様子を見に来たの」
そう言いながら、彼女は可愛らしいピンク色の弁当箱を差し出した。
「これ、修くんが自分で作ったのよ。あなたのためにって」
晴夏は弁当箱を一瞥したが、手を伸ばさなかった。
「修司がいないのに、演技なんてしなくていい。言いたいことがあるなら、さっさと話しなさい」
月乃はふっと冷笑し、目を細めた。「じゃあ、はっきり言わせてもらうわ。
あなた、この数日でわかったでしょう?修くんが私にどれだけ本気か。
黒川家と藤原家は代々の付き合い。私たちは子どもの頃から一緒に育ってきた。私と修くんこそが運命のカップルなのよ。
それに比べて、あんたはどう?矯正器具も買えない足の悪い女に、修くんと結婚する資格なんてあると思ってるの?
潔く身を引いたほうがいいわよ。少なくとも、体面だけは保てる。でも、私を本気で怒らせたら……容赦しないから」
晴夏は、本当はとっくに身を引く覚悟をしていた。でも、それを許さなかったのは──修司だった。
「私が去るかどうかは、自分で決められないの。修司がいいと言ったら、すぐにでも出て行くわ」
その一言が、月乃の怒りに火をつけた。
「……白石晴夏、あんたみたいな猫をかぶった女、大嫌いなのよ!出て行きたくないなら、そう言えばいいじゃない!修くんのせいにしないでよ!」
言い合いの最中、突然大地が激しく揺れた。
外から誰かの叫び声が聞こえる──
「地震だ!早く逃げろ!外の広場に行け!」
驚いた晴夏はよろよろとベッドを降り、出口に向かおうとする。だが、月乃が突然彼女の腕をつかんだ。
その顔には狂気と悪意が浮かんでいる。
「もし私たちが同時に危険にさらされたら……修くんは、どっちを助けると思う?」
晴夏は目を見開き、信じられないという表情で彼女を見た。
「……あなた、正気じゃないの?これは、遊びじゃないのよ!」
「そうよ、私はもう正気なんかじゃない!」月乃は叫ぶように言った。「修くんのためなら、命なんて惜しくない!あんたはどうなの?!」
そう言うや否や、月乃は晴夏をがっちりと押さえ込んだ。彼女は女性らしくない力を出して、逃げようとする晴夏を、片手で完璧に抑えつけた。
晴夏はまだ足を怪我している。逃げるには、あまりにも不利だった。
「ドンッ──!」
激しい音とともに、天井が崩れ落ちた。二人はそのまま瓦礫の下敷きになった。
土埃が舞い上がり、晴夏は激しく咳き込みながら、動こうとするが……体が動かない。
鉄筋が彼女の左足を貫いた。熱い血がどくどくと流れ出し、視界がだんだん霞んでいく。
意識が薄れていくなか、晴夏は見た。
修司が、必死の形相で駆け込んできた。
誰にも止められず、まるで狂ったように瓦礫の中へ飛び込んでいく。
「……修司……私はここよ……」
晴夏は最後の力を振り絞って叫んだ。
「助けて……」
しかし、その声はかき消された。
修司は気絶している月乃を抱きかかえると、振り返りもせずそのまま走り去ってしまった。
晴夏の存在に、一瞥すら与えずに。
その瞬間、彼女の目に涙が溢れた。
「修司……行かないで……お願い……
あなたは言ったじゃない……絶対に私を置いて行かないって……私が一人になることはないって……」
ここは、晴夏の病室だった。彼が知らないはずはない。
それでも、彼は月乃だけを救い出し、二度と戻って来なかった。
涙に濡れた視界が、ゆっくりと闇に沈んでいく。
──修司、今度ばかりは、もうあなたを許さない。
第7話
消毒液の匂いが鼻をつき、晴夏はうっすらと目を開けた。そして最初に目に入ったのは、真っ赤に充血した修司の瞳だった。
「晴夏……やっと目を覚ましてくれたんだな」
修司は興奮を隠せずに言った。「もしお前に何かあったら、俺ももう生きていけなかった……」
その顔は青ざめ、目の下にはくっきりとクマが浮かび、髪もぼさぼさで、いつもの冷静で上品な姿とはまるで別人だった。
だが、どれほど心配されようと、晴夏の心はもう動かなかった。
彼女は修司の手をそっと引き抜き、顔を背けて何も言わなかった。
修司の目にはまた涙が滲み、かすれた声で言った。
「晴夏、そんな態度取らないでくれ……最初、お前がいないのに気づかなくて、月乃だけを先に助けた。でも、すぐに気づいてお前を助けに戻ったんだ」
それでも晴夏は黙ったままだった。
修司は焦り始め、必死に言葉を重ねる。
「俺、ずっと言ってなかったけど、この一年間、医者と協力して皮膚接触依存症の治療に真剣に取り組んでたんだ。
もうすぐ完治する。もう月乃を治療薬として頼る必要もなくなるんだ。
月乃が子どもを産んだら、きっぱり縁を切る。もう彼女とは会わないって約束する。だから……な?」
晴夏は苦笑しながら言った。
「できない約束なんて、しないで」
「できる!絶対にできる!」
修司が慌てて言った。「俺が本当に愛しているのはお前だ。誰もお前の代わりにはなれない。
絶対に元の関係に戻れる。約束する」
そして彼は、まるで二度と手放したくないかのように晴夏を強く抱きしめた。
「ずっと愛してる。だから、お前も昔みたいに俺を愛してくれ……」
だが、晴夏の胸は、締めつけられるように痛んでいる。
失くした指輪は拾い直せる。割れた鏡も貼り直せる。でも、砕けた心はどうすれば元に戻る?
──修司、私たちはもう、元には戻れない。
その後数日間、修司は晴夏のそばを片時も離れなかった。
まるで何かを予感しているかのように、彼の様子はどこか不安定で、晴夏がどこに行こうとしてもついてきた。
そして何度も同じ質問を繰り返した。「晴夏、お前はまだ俺を愛してるよな?」
けれど、晴夏は一度たりとも答えなかった。
それが修司をますます不安にさせた。
晴夏の足のケガもまだ癒えていないのに、修司は焦ったように言い出した。
「晴夏、もう我慢できない……結婚しよう!明日だ。もう一分一秒も待ちたくない」
本来なら、結婚式前夜に新郎新婦は顔を合わせないものだ。
だが、修司は相変わらず晴夏のそばを離れず、まるで彼女が消えてしまうのではと怯えているようだった。
やがて、バチェラーパーティーのために修司の友人たちが現れた。
「おい、修司、そろそろ行こうぜ!」
「来なかったら担いででも連れてくぞ!」
修司はようやく晴夏の顔をじっと見つめ、少し不安そうに問いかけた。
「晴夏……明日、俺と結婚してくれるよな?」
晴夏は微笑んで、静かに答えた。「明日、私は結婚するわ」
──ただし、相手はあなたじゃない。
修司はその言葉の裏にある意味には気づかず、安心したように笑った。
「じゃあ、明日の式で会おう」
「さっさと行けよ、もたもたすんな」
友人たちは待ちくたびれた様子で促し、誰かが軽口を叩いた。
「大丈夫よ、晴夏さん。俺ら、余計なことはしないから」
「そうそう、サバサバ女がいるし、変なことできねーよ」
彼らが「サバサバ女」と呼ぶのは、もちろん月乃のことだ。
修司の友人たちと月乃は、子どもの頃からの遊び仲間だった。修司が友人たちと遊ぶ時、月乃もいつも一緒にいた。
「ズボン脱がないと、あいつが女って気づかねーよな」 彼らの間では、そんな冗談がまかり通っていた。
月乃は晴夏を挑発するように一瞥し、修司の腕に絡みついて去って行った。
その夜、晴夏のスマホに月乃からの挑発的な動画が届いた。
そこには、修司がベッドの上で必死に腰を動かしながら、かすれた声でこう言っていた。
「これが最後だ、月乃……明日からは晴夏と結婚して、家庭に戻るんだ。
俺は晴夏を愛してる。結婚したら、絶対に裏切らない」
月乃は大声で笑い、修司の首に腕を回して言った。
「ふふっ、あんたが一生私に触らずにいられるなんて、信じられないわ」
晴夏はじっとその動画を見つめ、しばらくしてから修司に転送した。
そして、短くひと言添えた。
【私も信じてない】
ちょうどその時、ドアの外からノックの音がして、ウェディングドレスが二着届けられた。
一着は修司が贅を尽くしてオーダーした豪華なドレス。
もう一着は、海外から届いた。
差出人の欄には【桐野時生】が書かれていた。
中には一枚のカード。
【それを着て、階下へ。俺が迎えに行く】
晴夏は迷うことなく、時生からのドレスを手に取った。
階下では、黒のマイバッハが静かに彼女を待っている。
晴夏はドレスの裾を持ち上げて車に乗り込み、スマホからSIMカードを抜いて窓の外へと投げ捨てた。
車が走り出し、流れる景色の中に、彼女の記憶がよみがえる。
──かつて修司が、彼女のためにW寺へと一歩一歩ひざまずいて祈ったあの日のこと。
「仏様よ、黒川修司と白石晴夏を、永遠に結びつけてください」
その少年の目には、確かな愛が宿っていた。
修司、この想いは返したわ。
もう私は、あなたに何も借りはない。
もし本当に仏様が私の願いを聞き入れてくれるなら──
どうかお願い、生まれ変わっても、もう二度と出会わないように。