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追憶の荒野
自分の帰国を祝う宴で、桐谷枝里子は西原越也の愛人――江川詩織に会った。 彼女は色褪せたシャツに身を包まれ、越也の取り巻きに無理やり酒を...
Chương (1)
第1章
自分の帰国を祝う宴で、桐谷枝里子は西原越也の愛人――江川詩織に会った。
彼女は色褪せたシャツに身を包まれ、越也の取り巻きに無理やり酒を勧められていた。一杯飲めば二十万がもらえると。
枝里子が越也の腕に絡んで入ってくると、詩織はむせび泣きながらも必死に顔を伏せ、涙を拭った。越也に自分の弱さを見せたくなかったのだ。
取り巻きの一人があざけるように彼女の顎を引き、だらしなく言う。
「桐谷さんが帰ってきた以上、越也さんがお前を捨てるに決まってる。お前はな、所詮桐谷さんがいない間の代用品にすぎないんだぞ」
別の男が下品に続ける。
「とはいえ、二年も越也さんのそばにいたんだろ?越也さんに土下座すれば、情けで小遣いくらいはもらえるんじゃねえの?」
その言葉に越也は鼻で笑った。
「くだらない話はよせ」
彼は枝里子の皿にフルーツを乗せていく。
「安心してくれ、枝里子。俺はあの子と寝てない。ただ、暇つぶしに遊んでただけだ。
お前が戻ったら、すぐに縁を切るつもりだ」
第1話
帰国した初日。
桐谷枝里子(きりたに えりこ)は、婚約者の西原越也(にしはら えつや)が心を込めて用意した帰国祝いの宴で、彼の愛人――江川詩織(えかわ しおり)と初めて顔を合わせた。
半分ほど開いている個室の扉から覗くと、一人の少女の姿が目に入った。彼女の頬にはかすかな赤が差し、怯えたように視線を揺らしている。
色褪せたシャツを身にまとい、熟れた白桃のような瑞々しさと甘さを放つ――一口かじれば甘汁が溢れそうな、魅惑的な雰囲気だった。
少女は取り囲んだ男たちに無理やり酒を飲まされている。
一杯あおられるたび、男たちは得意げに笑い、「一杯は二十万だ、もう一杯いけ!」と下品な声をあげた。
五年ぶりに見る顔ぶれだが、彼らは相変わらず放蕩と傲慢さを隠そうともしない。
枝里子の胸の奥に、不快感がじわりと広がる。
彼女が扉に手をかけたそのとき――
背後でエレベーターの扉が開き、二時間も遅れて越也が現れた。
上質なシルクのダークシャツを着こなし、急ぎ足に歩み寄ってくる。
上がり気味の目尻がうっすらと赤く、乱れた髪と呼吸が、急いできたことを物語っていた。
彼は枝里子を見つけるなり、ぱっと笑みを浮かべ、すぐに彼女の肩に自分の上着を掛けた。
「遅くなってごめん、枝里子。こんな薄着で……風邪ひいたらどうするんだ?」
枝里子の腰に腕を回し、越也は甘い声で囁く。
だが、彼の視線が個室の奥へと流れた瞬間、腕が一瞬だけ固くなったのを枝里子は見逃さなかった。
越也の視線の先では、少女が咳き込みながら涙をこぼしていた。だが、越也の姿を見ると、彼女はすぐに手で涙を拭い取った。
その横顔は計算された美しさをまとい、枝里子が事前に調べた通り、詩織は見た目のように「無垢」ではなかった。
個室の中では、タチの悪いからかいが続いていた。
若い男の一人が、少女の顎を指先で持ち上げ、鼻で笑う。
「桐谷さんが帰ってきた以上、越也さんがお前を捨てるに決まってる。お前はな、所詮桐谷さんがいない間の代用品にすぎないんだぞ」
別の男が下品に続ける。
「とはいえ、二年も越也さんのそばにいたんだろ?越也さんに土下座すれば、情けで小遣いくらいはもらえるんじゃねえの?」
その瞬間、腰を抱く越也の腕に力がこもり、枝里子は痛みに顔をしかめた。
すぐに彼は軽く咳払いし、何事もなかったように枝里子を伴って個室へ入る。
「くだらない話はよせ」
気怠げな声で言い、越也は枝里子の皿にフルーツを乗せていく。
「安心してくれ、枝里子。俺はあの子と寝てない。ただ、暇つぶしに遊んでただけだ。
お前が戻ったら、すぐに縁を切るつもりだ」
場の空気が一瞬に変わり、周囲の連中が一斉に羨望の声を上げた。
誰もが知っている。枝里子と越也は幼なじみで、彼女の留学がなければとっくに結婚していたはずだと。
「そう」枝里子は淡々と返事をした。詩織を調査していたゆえ、越也の言葉など、一言も信じていないのだ。
「なら、今すぐ出て行ってもらえば?」
しばらく待っても、返事が聞こえなかった。
越也の視線を追った先で、男の一人が詩織の鎖骨に酒を垂らし、「越也さんが手を出さなかったなら、俺が味見してやるよ」と下卑た笑い声をあげた。
次の瞬間、男は顔を詩織の胸に押しつけた。詩織は必死に首を振り、涙をこぼしながら悲鳴を上げる。
「やめてください……!私には愛してる人がいるんです、その人を裏切っては……」
その光景を越也は黙って見ていたが、彼の瞳に暗く深い影が落ちていた。
それは越也が怒っている証拠だと、枝里子はハッキリとわかっていた。
彼女の考えを裏付けるかのように、次の瞬間、越也が立ち上がると、ガラスの割れる音が響いた。
越也は長い脚で男のほうに歩み寄り、酒瓶を振りかざして彼の頭を打った。
「誰が手を出していいと言った!」
声には殺気が滲み、越也は酒瓶を二度も振り下ろす。
「やめろ!これ以上は死ぬぞ!」
越也の友人が叫ぶ。
越也は氷のような視線を友人に向け、低く吐き捨てた。
「それがどうした?死んで当然のクズだろ?」
場が凍りつく。
今日は枝里子のために設けた宴であり、越也はいつだって枝里子を第一に考える男だった。
しかし今の彼は、こんなにも怒りをあらわにしている。
皆の視線が自然と枝里子に集まる。
背筋を伸ばし、枝里子は冷たい声で言い放った。
「越也、今日は私の帰国祝いでしょ?死人を出さないで」
二人の視線がぶつかり合う。
越也は我に返り、酒瓶を手放して枝里子のもとへ戻る。
「悪い、枝里子。少し熱くなりすぎた……許してくれ」
気絶した男を部屋から運び出させ、今日の費用はすべて彼につけるようスタッフに告げると、宴は再開された。
しかし、枝里子の心はすでにそこにはなかった。
「帰りましょう」
越也は素直に従い、車に乗り込むと彼女にブランケットを掛ける。
「江川は借金まみれで、家族も病気なんだ。あんな子、一人では生きていけない。
お前と顔が少し似てたから、縁だと思って助けてあげたんだ。
でも誤解しないでくれ、俺が愛してるのはお前だけだ。戻ってきてくれて本当に嬉しいよ。
月末には結婚して、ずっと一緒にいような」
越也の甘い言葉に、枝里子はいつも頬を染めていたが、今回は何も感じなかった。
彼女は越也の輝く瞳を見据え、冷ややかに言い放つ。
「越也、あなたは私を一番よく知っているはずよ。だから、嘘はやめて。
もし他の人を好きになったなら、婚約は解消しましょう」
枝里子は恋にしがみつくような女ではないのだ。
彼女の言葉を聞き、越也の表情に影が差した。
「何言ってるんだ。お前は俺の嫁だ。俺以外と結婚なんて許さない」
その夜。
疲れ果てて眠りに落ちた枝里子がふと目を覚ます。隣は冷たく、空いていた。
胸騒ぎに駆られ、携帯を手に取る。
SNSを見ていくと、新しく追加した「友人」の投稿には、病院で男性の手と女性の手が握り合う写真があった。
そして、こんな文章が添えられていた。
【あなたがいてくれて、本当によかった】
その写真を、枝里子はずっと見つめていた。
朝の光が差し始めたころ、枝里子は乾いた瞳を潤すように瞬きをする。
すると一粒の涙が落ち、写真の中、男の薬指に光る指輪へと伝った。
その内側には、自分の名が刻まれているはずだ。
鼻をすすり、枝里子は航空券予約サイトを開く。
月末の海外行きの便を、迷わず予約した。
第2話
越也が家に戻った頃、枝里子はちょうど進学申請書を提出したところだった。
担当教員から驚きの返事が来た。
【前は諦めるって言ってたよね?本来三年かける課程を二年で修了して、体まで壊したのは、婚約者が国内で待ってるからじゃなかったの?
でも、君が学び続けてくれて本当に嬉しいよ。毎年、枠は一人か二人しかないからね。少し気が早いけど、おめでとうって言っておくわ!】
枝里子は少し間を置いてから、返事を打った。
【婚約者とは別れました。これからもよろしくお願いいたします】
「まだ先生と連絡を取ってるのか?課程はもう修了しただろ?」
何気なく枝里子の携帯画面を横目に見た越也が、軽く尋ねる。
枝里子は姿勢を正し、反射的に言い訳を探そうとしたが、その前に越也が彼女の好きなパンとコーヒーをテーブルに置いた。
「ここの店、すごく並ぶんだぞ。何度も知り合いに頼んで、やっと買えたんだ。
今後はこの店に出資しようと思ってる。株主になれれば、お前が食べたい時にいつでも買えるからな」
焼きたての香りが漂うパンがずらりと並べられているが、枝里子は食欲がなく、真っ直ぐに切り出した。
「昨日の夜、病院に行ったよね?」
越也の手が止まり、眉を上げて茶化すように笑う。
「俺にGPSでも仕込んだか?よく分かったな。
江川の母親が、昨夜急に心臓発作を起こしたんだ。誰も助けがいないから、手伝いに行ったんだ。病院の手続きは一人じゃ大変だからな」
越也の素直な説明に、枝里子は喜ぶべきか、悲しむべきかは分からなかった。
昨日の夜、自分を抱きしめていた男が、その直後に愛人の女性の手を握っていた。
それが浮気になるかどうかは人によるが、枝里子は、自分が寛容なほうではないという自覚がある。
「……越也、そういうの、私には受け入れられないわ。だから、もう別れ――」
話が終わる前に、ガシャンという音が響いた。越也がカップを叩き割ったのだ。
「何度も言ってるだろ!俺と江川はやましいことなんて一切してない。お前に隠し事もない。いい加減、疑うのはやめてくれないか?」
その声には、徹夜明けの苛立ちが滲んでいた。
「枝里子、お前が帰国したのは俺と結婚するためだろ?だから俺は江川と縁を切るつもりだし、なんでもお前の望み通りにしてきた。それなのにまだ不満なのか?
いいか、江川と違って、お前は孤児だ。俺がいなければ、頼れる人間なんて誰もいなくなるんだぞ!お前自身だって何の価値もなくなる!」
その瞬間、枝里子の血の気が引いた。
孤児――それは、彼女が生涯胸の奥に封じてきた、最も深い傷だった。
今、越也はその封を、鋭い刃のような言葉で容赦なく切り裂いた。
枝里子は目を閉じ、胸の奥に押し寄せる感情を必死で飲み込み、無言で立ち上がる。
スーツケースの取っ手を掴み、そのまま家の外へ向かう。
越也は、自分が何を口走ったのかようやく気づき、慌てて彼女の荷物を奪い取った。
「……悪い、そんなつもりじゃなかったんだ。お前が俺の気持ちを疑うから、つい……
俺は二十年もお前を愛してきたんだ。身寄りのない女性を一人助けたくらいでその気持ちを否定されるなんて……俺だって耐えられないさ」
枝里子は声を震わせながらも、必死に感情を抑えて言った。
「私は、海外で良い指導者に巡り会えた。これから学業を続ければ、明るい未来が待ってる……あなたがいなくても、生きていけるのよ」
越也は「分かってる」と何度も頷き、彼女の頬を両手で包んで涙の跡を指先で拭った。
「俺の枝里子はすごく優秀だ、それくらい分かってるよ。
……そうだ、枝里子のお母さんの遺品がオークションに出るらしい。一緒に行こう、な?」
その言葉に、枝里子は小さく頷いた。
枝里子の母は、彼女が小さい頃に亡くなった。残された唯一の形見はネックレスだった。
家が傾いたとき、父が借金返済のためにそれも手放してしまい、それ以来、枝里子はずっとそのネックレスを探していた。
何が何でも、それを取り戻したかったのだ。
心に渦巻く複雑な気持ちを悟られないよう、枝里子は目を伏せた。
オークション当日。
入札は順調に進み、越也が「ネックレスを受け取ってくる」と言って裏へ消え、枝里子は会場の出口で待った。
しかし、いくら待っても彼の姿が現れず、代わりに一通のメッセージが届いた。
【地下駐車場に来て、サプライズがあるよ】
送信元は登録されていない番号だが、その数字を枝里子はしっかりと記憶していた。
足が鉛のように重くなりながらも、彼女は地下へ向かった。
駐車場は車が多く、死角も多い。
そこで枝里子は見た――詩織の首に、母のネックレスが淡い光を宿して揺れているのを。
「ありがとうございます、越也さん……すごく気に入りました。でも……桐谷さんのほうはどうするんですか?」
その問いに、越也は黙って煙を吐き、目を伏せてから答えた。
「俺がなんとかする。だから……もう二度と連絡してくるな」
詩織はかすかに嗚咽し、小動物のように彼へ寄り添った。
「分かりました……今まで、本当にありがとうございました」
唐突に迫る温もりに、越也は思わず彼女の腕を掴み、突き放した。
だが詩織は退かず、爪先立ちになって彼の唇に自分のを重ね、涙を流した。
「桐谷さんとの婚姻を壊すつもりはありませんが……私も、越也さんを愛してるんです。
だから最後に……友達として、別れのキスをしてくれませんか?」
枝里子は、その言葉に越也が小さく喉を鳴らし、ためらいを飲み込むのを見た。
次の瞬間、彼は詩織を車に押し付け、深く口づけた。
湿った音が空気を割ったとき、枝里子の胸の奥で、細い糸が「ぷつり」と切れた。
逃げるつもりはなかった。だが、これ以上そこに立っていれば、心が壊れるのが分かった。
会場の出口にたどり着いたとき、枝里子は胸を抱きしめるように押さえ、声を殺して泣いた。
二十年――婚約に至るまで、彼女と越也は長い道を歩んできた。
けど、これ以上自分を欺くことはできなかった。
鮮やかだった思い出は、泡のように弾けて消えていく。
全身の力が抜けるまで泣き続け、越也からの数十件の着信を無視したまま、枝里子はタクシーを呼ぼうとした。
そのとき、頬にまだ熱を残した詩織が、勝者の歩みで近づいてきた。
「桐谷さん……愛されなくなるってどんな気持ち?さぞ辛いでしょうね。
でもね、私もずっとそうだったのよ。あなたがいない時でも、越也さんはいつもあなたのことばかり!
なぜなの?こんなの不公平だと思わない?私のほうが若くて、私のほうがずっと越也さんを愛しているのに!」
枝里子は、掠れた声で言った。
「あなたが……他人の婚姻を壊す、ふしだらな女だから」
詩織は鼻で笑った。
「ふふ……それでも構わないわ。私はいずれ越也さんの一番になる。人の運命って、努力で変えられるからね」
そう言って詩織は、ネックレスを揺らして見せた。
「これ……あなたがずっと探してたものでしょ?私、ちょっと泣いただけで、越也さんがつけてくれたの。越也さん……本当は私を愛してるって思わないの?」
枝里子は拳を握り締める。
「……いくらなの?買うわ」
詩織は笑いながら「いいよ」と答えると、ネックレスを床に落とし、ヒールで踏み砕いた。
彼女は笑顔のまま言った。
「これで、いくらになると思う?」
粉々になった母の形見を見て、枝里子は歯を食いしばり、詩織の頬を平手で打った。
「枝里子!」
いつの間にか現れた越也が、詩織を庇うように立ちはだかる。
「乱暴はやめてくれ!年下の子相手に、理不尽だぞ!」
その非難が、枝里子の胸に鋭く突き刺さった。
彼女は手のひらに爪が食い込むほど握りしめ、涙を堪えて顔を上げる。
「事情も知らないのに私を責めるあなたの方が、ずっと理不尽だと思わないの?
それに、母の形見を彼女に渡すつもりなら、なぜ私をオークションに連れてきたの?」
越也は言葉を失ったが、詩織が先に涙声で口を挟んだ。
「……越也さん。桐谷さんを怒らせて、ごめんなさい。全部、私が悪かったんです。卒業式でつけるアクセサリーがほしいなんて……あんなこと、言わなきゃよかった。
私なんか……土の中で、静かに腐っていけばいいんです。
越也さん……桐谷さん……本当に、ごめんなさい」
深く頭を垂れると、詩織は踵を返し、そのまま駆け出した。
その瞬間だった。
一台の車が猛スピードで突っ込んできた。
耳をつんざく急ブレーキの悲鳴。詩織の体が宙に舞い、鈍い衝撃音とともに、血に濡れたその体は越也の足元へと倒れ込んだ。
第3話
救急車はほどなく到着した。
枝里子がまだ状況を呑み込めずにいる間に、ぶすりと太い針が手の甲に突き立てられた。
鋭い痛みに思わず顔を上げ、息を呑むように問いかける。
「……何をするの?」
越也は唇を引き結び、冷ややかに告げた。
「お前も江川も、血液型はRHマイナスだ。江川はお前のせいで事故に遭い、今は大量出血で命さえ危ないんだ。責任は取ってもらうぞ」
枝里子は自分の耳を疑った。
越也も知っているはずだ。彼のもとへ一刻も早く帰れるよう、この二年間、枝里子は昼夜を問わずに勉強し続け、ついには貧血になってしまったことを。
それなのに、彼は今、詩織のために自分の血を差し出せと言う。
枝里子はたちまち針を抜こうとした。
「そんなこと、できるわけがないわ!先に私を辱めたのは彼女のほうよ。事故に遭ったのも自分から飛び出したからで……それに、母の形見だって――」
「もういい!」越也の大きな手が彼女の手首を押さえつけた。
「死んだ人間の形見より、生きた命の方が大事だろう?たかが形見が理由で江川を死なせるというのか?」
氷のように冷たい掌。その感触に、枝里子は全身の血が逆流するような感覚を覚えた。しばらく経ち、彼女は声を搾り出すように返す。
「……私を産み育ててくれた母と、あなたの愛人を天秤にかけるというの?」
越也は重く息を吐き、こめかみを押さえた。
「……言い方が悪かった。だが江川はお前のせいで事故に遭ったんだ。お前は無関係じゃない」
結局、枝里子には血を差し出す以外の選択肢はなかった。
いつの間にか用心棒らしき人たちが、彼女の両脇を固めていた。
身体も心も限界を越え、血が抜かれていくたび視界は白く霞む。
「桐谷さんの顔色が悪すぎます。これ以上血を抜くのは危険です、今すぐやめた方が……」
看護師の声が遠くに響く。
だが、すぐに越也の冷徹な声がかぶさった。
「顔色が悪いのはいつものことだ、問題ない。詩織の方が大事だ。続けろ」
枝里子の長い睫毛が濡れ、苦笑いしたくても、唇を動かす力さえ奪われていく。
五袋分の血が抜かれたころ、隣のベッドで詩織が微かに目を開け、猫のように甘える声を漏らした。
「……越也さん……」
越也はたちまち枝里子の手を放ち、優しい声で返事をした。
「ああ、俺はここだ」
詩織は悪い夢を見ているようだ。
「……桐谷さん、やめて……越也さん、お願い……越也さんと……二人きりになりたい……」
詩織の震える声に、越也は冷たい視線を枝里子に向けた。
「悪いが、今は降りてくれ」
枝里子が力を振り絞って身体を起こすと、視界が揺れ、足元が崩れそうになった。
いつの間にか救急車は薄暗い路地に入り込み、静かに止まった。
越也は詩織を見つめたまま、枝里子に命じる。
「降りろ。後で迎えを手配する」
ドアが開くや否や、枝里子は用心棒に突き出され、よろめいた拍子に膝を石に打ちつけた。骨に響くような鋭い痛みが走る。
あたりには人影ひとつなく、冷たい風が唸りを上げ、闇の奥から獣の遠吠えが断続的に響いていた。
枝里子は身をすくめ、震えながら越也の言う「迎え」を待った。
しかし、空が白み始めても誰も来ず、最後は意識が薄れていった。
次に目を開けたとき、見上げたのは病院の天井だった。
「体調が悪いのに、あんな辺鄙な場所まで……通りすがりの方が見つけてくれなかったら、命を落としていたかもしれませんよ」
看護師の呆れた声に、枝里子は自嘲めいた笑みを浮かべる。
――最初から、迎えなど来るはずもなかった。
診断は重度の貧血。三日の入院が必要だという。
丸一日、点滴に繋がれたあと、枝里子はふらつく足で病室を出た。
ふと視線を向けると、隣室の扉越しに越也と詩織の姿が見えた。
越也が薬をスプーンですくうと、詩織は顔をしかめて首を振る。
「苦い……飲みたくありません」
「後で飴をやるから、大人しく飲みな」
甘やかな口調にも、詩織は首を振り続け、潤んだ瞳で口を尖らせる。
「太るからいや……でも、もしご褒美をくれるなら――」
越也はわずかに目を伏せ、次の瞬間、彼女の唇を塞いだ。詩織の息が乱れ、甘い声が途切れる。
枝里子はそっと視線を外した。
若い女の誘いを拒める男など、いるはずがない。越也もまた、その例外ではなかった。
扉に背を向けたとき、足先がドアに触れ、乾いた音が響く。
顔を上げると、ちょうど越也と目が合った。彼はすぐに詩織から身を離し、吐き捨てるように言う。
「……俺たちをつけていたのか?」
その言葉は、鉛の塊のように枝里子の胸に沈み込む。説明する気力もなく、彼女は無言のまま病室へ引き返した。
間もなくして、越也が追ってくる。ようやく枝里子の入院着に気づいたのか、彼は眉間に皺を寄せた。
「どうした、その格好は」
枝里子は答えず、酸素マスクを口元にあてる。
越也は少し声をやわらげ、まるで和解を試みるかのように言葉を続けた。
「……昨夜は俺も頭に血が上っていた。本当に悪かった。
だが、江川はまだ学生だ。そこまで追い詰める必要はないだろう?
結婚したら、お前だけを愛すると誓う。だから……もう江川をいじめるのをやめてくれないか?」
枝里子は静かにまぶたを伏せ、青ざめた顔で答えた。
「……越也、大学に帰るチケットはもう買ったし、進学の希望も提出してある。
だから……結婚式は、キャンセルにして」
第4話
しばらく待っても、越也からの返事はなかった。
怪訝に思った枝里子が視線を上げると、彼の携帯の画面には、メッセージの吹き出しが幾つも並んでいた。送り主のアイコンは、やはり詩織だった。
越也は顔を上げ、どこか沈鬱な表情で言った。
「枝里子……今度はなんの真似だ?なぜ江川を放っておいてくれない?」
彼は画面を枝里子の目の前に突きつける。
そこに振込明細が映っていた。振込人は枝里子で、受取人は詩織、金額は四千万円。
しかし、その写真には粗い加工の跡がはっきりと残っていた。
枝里子は鼻で笑う。こんな拙い細工を、越也が信じるとは――やはり男にとって、惚れた女の言葉こそ絶対なのだ。
「私は、こんな低俗な取引をした覚えは一度もないわ」
枝里子は静かに告げた。だが、越也は失望を隠さぬ目で首を横に振る。
「やっていない?じゃあ江川が自作自演したって言うのか?あんなに純粋な子が、お前を貶めるわけがないだろう。
江川が母親のことで金に困っているのを知って、そこを突いて彼女を俺から引き離そうとしたんじゃないのか?
お前……海外で何を学んできたんだ?力を笠に着て人を踏みつけることか?俺は、お前を見誤ったよ」
その言葉を置き捨て、越也は背を向けた。
その後の二日間、越也は一度も姿を見せなかった。
窓の向こうに見えるのは、詩織と肩を寄せ合い、廊下を並んで歩く後ろ姿ばかり。
退院の日も、枝里子は一人ぼっちだった。
だが、病院を出る直前に事態は急変する。
視界がふっと暗転し、次に目を開けたとき――鼻腔を刺したのは、鉄錆の匂いだった。
周囲を見渡せば、冷たいコンクリートの床に無機質な壁。
そこは人気のない倉庫で、鋭い目をした男たちが数人、無言で立っている。
枝里子と詩織は、隣同士の椅子に縛り付けられていた。
男のひとりが銀色のナイフを弄びながら、刃先を二人の顔すれすれになぞる。
「さて、この新品の切れ味……どっちで試してやろうか」
詩織は顔面を真っ青にして、甲高い悲鳴をあげた。
「誰なの!触らないで!」
枝里子は手首の縄に指を探り、わずかな緩みを感じる。しかし、焦れば動きが悟られる。
胸の奥の動悸を押し殺し、枝里子は詩織の声を制して時間を稼ぐ。
「……あなたは?私たちをさらって、いったい何が目的なの?」
男は目を細め、詩織の顔を舐めるように眺めた後、刃先を枝里子の喉元へと押し当てた。
「西原社長には前からお世話になっててね。最近はちょっと金欠だから、お借りしようと思って。
それにしても、西原社長が羨ましいね。しとやかな婚約者にエロい愛人……社長に選ばせるのなら、どっちを選ぶと思う?」
刃の冷たさが頬をかすめ、枝里子の背筋にぞくりと震えが走った。
不自由など知らずに育った彼女にとって、こんな場面に耐えられるわけがない。
それでも、怯えを悟られてはならない。
「今すぐ私たちを解放したほうが身のためよ。越也は、もうこちらへ向かっているはず。
あの人は、脅されることを何より嫌う……このままだと、あなたの命が危ないわ」
手首を縛る縄は、あとわずかで外れる。
枝里子は倉庫の隅々へ視線を走らせ、逃げ道を探った。
男の目に、一瞬だけ迷いの色が宿った――その瞬間。
倉庫の扉が轟音とともに蹴り破られ、大きな人影が飛び込んできた。
目を凝らすと、それは越也だった。枝里子の胸の奥に、かすかな希望が灯る。
越也は荒い息をつきながら駆け寄ってくる。
朝、犯人からの連絡を受けるや否や通報し、それでも警察を待たずにこの場所へ駆けつけたのだ。
髪も服も乱れた二人の前に立ち、越也は鋭い眼差しで犯人を睨んだ。
「彼女たちを解放しろ。金はいくらでも払う」
犯人の男は、越也の背後に誰もいないことを確認すると、薄笑いを浮かべた。
「さすが西原社長、話が早いな。一億だ。ただし助けられるのは一人だけ。もう一人は……」
男はいやらしく口角を上げる。
「そうだな、西原社長の女なら、ベッドでも優秀だろう。女と寝るのは久しぶりだ、ありがたくいただくとするよ」
越也の表情が鋭く引き締まった。低く抑えた声が響く。
「この俺と交渉するつもりか?いい度胸だ……二人とも返してもらうぞ」
しかし男は、あざ笑うようにナイフを詩織の肩へ滑らせ、血の筋を刻んだ。
「これは俺のゲームだ。俺がルールを決める」
詩織は顔を真っ青にして悲鳴を上げていたが、越也を見ると、強がりの笑顔で言った。
「越也さん……桐谷さんはあなたの婚約者。どうか彼女を助けてください。私は……大丈夫ですから、どうせ価値のない人間だし……
私が死んだら、家族のことだけ見ていただければ……」
その言葉が終わる前に、刃が再び鎖骨を裂いた。詩織の叫びが倉庫に響き渡る。白い服は瞬く間に赤く染まり、その光景は目を背けたくなるほど生々しい。
男はナイフについた血を舐め、苛立ちを滲ませた声で言った。
「社長、急げ。このままじゃ二人とも死ぬぞ」
紙切れがひらりと宙を舞い、越也の足元に落ちる。そこには口座番号が書かれていた。
「二分以内に、この口座へ一億を振り込め」
越也は苦渋に満ちた眼差しを枝里子へ向け、それから血まみれの詩織へと移す。
数秒の沈黙――そして、目を閉じ、掠れた声が漏れた。
「……わかった。詩織を放せ」
枝里子の顔から、さっと血の気が引いた。十年の絆を、彼はためらいもなく手放したのだ。
やはり、男の約束など信じるべきではなかった。
枝里子は目を閉じ、天井の暗がりを仰ぐ。涙が顎を伝い、床に落ちては静かに滲んでいく。
その瞬間、彼女は決めた――もう二度と、越也に幻想も期待も抱かないと。
「了解」犯人は口の端を吊り上げ、薄笑いを浮かべた。「もっと早く決断してくれれば、このお嬢さんも苦しまずに済んだのにな」
まもなく、一億が犯人の口座へ振り込まれた。
越也は枝里子を見ようともせず、詩織にだけ声をかけた。「さあ、帰ろう」
抱き上げられた詩織の影が、枝里子の視界を横切る。越也は一瞬だけ足を止めかけたが、そのまま背を向けて歩き去った。
越也を完全に見限ったのか、枝里子の心は湖面のように静まっていた。
彼女は無言で二人の後ろ姿を見送り、こっそりと縄を解く。懐から防身用のナイフを抜くと、胸の奥で決意が固まった――これから自分を守れるのは、自分だけ。
そのころ、犯人は鉄の扉を閉め、服を脱ぎながら手を擦っていた。
「捨てられちまったな、かわいそうに。だが安心しな、この俺が慰めてやるよ」
枝里子の瞳が鋭く光る。ナイフの切っ先が相手をまっすぐ射抜いた。
「……近づけば、殺す」
しかし、言葉は虚しく空を切る。
男と女の力の差は歴然。犯人は彼女の乱れた突きをかわし、あっさりと手首の関節を極めて地面へ押しつけた。
骨が軋むような音とともに、激痛が枝里子の全身を貫く。汗が額から滴り落ちる。
犯人は下卑た笑いを漏らしながら顔を近づけ、鼻先を首筋に押しつけた。
「さすが西原社長の女……いい匂いだな」
貪るような手が、枝里子の身体を這う。
服が破れかけたその瞬間、枝里子の膝が、容赦なく男の急所を打った。
男が呻いた隙に、彼女は痛みに耐えて再びナイフを握る。
今度、その刃は自らに向けられていた。
「私が死ねば、西原家も桐谷家も黙っていないわ。この街から、あんたを追放するでしょうね」
そう言って、彼女はためらいなく刃を腹に突き立てた。血が溢れ出し、服を濡らす。それでも枝里子の口元には、薄い笑みが浮かんでいた。
「……今日は、とことん付き合ってあげるわ。度胸があるなら、この倉庫から出てみなさい。あんたの死期も、そう遠くないはずよ」
狂気を帯びたその気迫に、男の肩がわずかに震えた。
ついさっき大金を手に入れたんだ。それを捨てるまで狂った女に付き合う理由はない。
結局、男は悪態を吐き捨て、背を向けて逃げていった。
残された静寂の中、枝里子は床へ崩れ落ちた。
今度こそ、自分の力で生き延びた。
しばらくして、枝里子は息を整えながら立ち上がり、暗い倉庫を後にした。
外に出ると、乱れた服の越也が駆け寄ってきた。
越也は枝里子を見るなり、ほっとするように言う。
「ごめん、枝里子。お前を見捨てたわけじゃないんだ。江川は手術明けで精神的にも危うかったから、彼女を助けたんだ。
お前は優秀だから、一人でも大丈夫だと思った。ほら、昔、海外で誘拐されたときも、自力で逃げただろ?」
枝里子は彼の手を振り払った。唇に冷たい笑みが浮かぶ。
かつて自分が打ち明けた過去が、まさか彼の言い訳となり、自分を傷つける刃になるとは。
第5話
越也は、一言も発しない枝里子を無理やり車に乗せた。シートに座らせた瞬間、枝里子の腹部に滲む血を見て、思わず息を呑む。
「……枝里子、痛くないのか?」
伸ばしかけた手を、枝里子は冷ややかに払った。
そして、かすれた声が落ちる。
「触らないで……気分が悪くなる」
越也の拳が、膝の上で硬く握られる。
「……迎えに行くのが遅れて、本当にすまない。俺、知らなかったんだ……あんなことになるなんて」
枝里子の視線とぶつかり合うが、その言葉は霧のように虚しく消えていく。
知らなかった?そんなはずはない。
誘拐の目的は、金か女と決まっている。廃墟同然の倉庫に置き去りにすれば、どんな結末になるか予想できたはずだ。
彼にとって本当に守りたかったのは詩織、それだけのことだ。
沈黙する枝里子を前に、越也は押し殺すように低く言った。
「全部俺が悪かったんだ。必ずやった奴に報いを受けさせる」
車は唸りを上げて街を駆け抜け、停車した瞬間、越也はシートベルトを外して降りようとする。
だが先にドアを開けたのは枝里子だった。彼女は何も言わず、ただ前だけを見て歩き去っていく。
追いかけようとしたその時――
「越也さん……!」
背後から声が飛び込んできた。
振り返れば、襟元の乱れた詩織が立っている。白い肌には青紫の痕が散り、乱れた髪と涙で腫れた目のまま、彼の胸に飛び込んできた。
「越也さん……痛い……私、汚されちゃった……もう、あなたに顔向けできません……」
越也の呼吸が荒く、重くなる。
「……何があったんだ?」
詩織は、去っていく枝里子の背を一瞬見やり、ためらいながら唇を噛んだ。
「……さっき知ったんです。実は桐谷さん、犯人と取引して……私の住所をバラしたんです。家に戻ったら、もう廊下で待ち伏せされてて……私は必死で逃げてきたけど……」
震える肩が、越也の心を揺らす。瞳が鋭く細まり、声がわずかに上ずった。
「枝里子、これは……お前が仕組んだのか?」
枝里子の瞳は、冷ややかな光を放つ。
「やっていないことを、認めるつもりはないわ」
揺るぎのない視線に、越也は一瞬言葉を失う。
だが、詩織が彼の袖を掴み、嗚咽まじりに告げた。
「さっき通報したんです。犯人はもう捕まって、警察ももうこっちに向かってるって」
「……そうか。なら、警察の調べを――」
その言葉を、鋭い叫びが遮った。
「あいつだ!」
サイレンが近づき、パトカーから引きずり降ろされた男が枝里子を指差す。
「あいつが俺と取引したんだ。江川詩織って女の情報をくれたし、何をしてもいいから自分を見逃せってな」
唾を飲み込み、男はさらに続けた。
「しかも『あの女は旦那をたぶらかした女だから、恥ずかしい写真でも撮れたら金をやる』って……」
その瞬間、詩織が泣き崩れた。
「桐谷さん、私……確かに越也さんを愛しています。でも、あなたの幸せを願って身を引こうと思いました。それなのに……なぜこんなひどいことを?」
枝里子は、これは自分を陥れるための罠だと悟り、むしろ滑稽の感さえ覚えていた。
彼女は詩織をまっすぐに見据え、冷えた声で問いかける。
「私がやったと言うけど……何か証拠はあるの?」
詩織は震える手で襟元を裂いた。青紫の痕が、白い肌に露わになる。
「これが証拠よ!これ以上、どう説明しろっていうの?」
張り詰めた空気が場を支配した。
やがて、その静寂を破ったのは越也の低い声だった。
「……もういい」
彼は上着を脱いで詩織の肩にかけると、枝里子を見据える。その瞳には、失望の色だけが残っていた。
「犯人自身がそう言ったんだ。まだ言い逃れるつもりか?」
そして背後の用心棒に向き直り、冷たく命じる。
「……地下室に入れて、頭を冷やさせろ」
「越也……」枝里子の声が震えた。「私が閉所恐怖症なの、知ってるでしょう?」
彼はわずかに目を伏せ、しかし容赦なく言い放つ。
「知っている。だからこそ罰になる。……詩織に謝れば、すぐに出してやる」
用心棒が枝里子の腕を掴み、強引に引きずっていく。すれ違いざま、男は小声でつぶやいた。
「……桐谷さん、恨まないでください。今、社長が愛しているのは江川さんなんです」
重い扉が閉ざされると、地下室は闇に満ちた。人を呑み込む檻のようなその場所で、枝里子は隅に身を縮める。
湿った空気が肺を圧迫し、耳鳴りが始まる。吐き気が込み上げ、呼吸も荒くなっていく。
「……誰か、助けて……」
暗闇と恐怖は鉛のように彼女を押し潰した。
愛する人に自分の弱さを利用され、刃に変えられる――これは二度目だ。
時の感覚が薄れてきた頃、不意に扉が開き、光が差し込む。
逆光の中に、歪んだ笑みを浮かべた詩織の顔が浮かんだ。
彼女は近づくと、枝里子の髪を鷲掴みにする。
「……あんた、いったい何をしたの?越也さんは、やっぱりあんたと結婚するって言うのよ!」
頭皮を裂くような痛みに、枝里子は声を出すことすらできない。
詩織は鼻で笑い、耳元で囁いた。
「答えないなら……もっと酷い目に遭えばいい」
彼女が背後から持ち出したのは、金属の檻。中では数十匹の鼠が蠢いていた。
枝里子の背筋が凍り、思わず後ずさる。
だが檻は無造作に開けられ、彼女の足元へ投げ込まれた。
「存分にお楽しみくださいませ、『奥様』」
再び闇が戻ると同時に、腕に焼けつくような痛みが走った。鼠に噛まれたのだ。
激痛に全身が震え、必死に振り払って隅へ逃げ込む途中、机の角に額を打ち、視界が揺らぐ。
その夜、枝里子は鼠のチュウチュウという鳴き声だけを聞きながら、終わりのない恐怖とともに夜を明かした。
第6話
翌朝、枝里子は使用人によって地下室から解放された。
その使用人は詩織の指示で、枝里子の顔に厚化粧を施し、昨夜の惨状を隠そうとする。
しかし、彼女をよく知る越也の目をごまかすのは容易ではなかった。
越也は一目で枝里子の疲弊を見抜き、訝しげに眉を寄せる。
「ただ一晩閉じ込められただけで……どうしてこんなに憔悴しているんだ?」
枝里子は顔をそむけ、冷ややかに言い放った。
「あなたとあの女のおかげよ」
その刺々しい言葉に、越也の顔に苛立ちが浮かぶ。
「まだ反省してないようだな。江川は昨夜、お前に食事を運び、今日出してやるよう口添えまでしてくれたんだ。
お前は彼女の寛大さに感謝すべきだ」
枝里子はもう、嘲笑う気力すらなく、ただ冷え切った瞳で彼を見返した。
そんな中、詩織が越也の腕に寄り添い、静かに首を振った。
「いいんです、越也さん。あなたと桐谷さんこそ、お似合いの二人ですから……」
そう言って、彼女は大切そうに抱えていたウェディングドレスを差し出した。
「これは、私が心を込めて仕立てたウェディングドレスです。もし桐谷さんがこれを着て、越也さんと結ばれるなら……それだけで、私はずっと越也さんのそばにいられる気がするんです」
潤んだ瞳で小さく微笑むと、か細い声で続けた。
「この最後のお願いを、聞いてくれませんか?他には何も望みませんから」
探るように、それでいて必死に愛を告げる詩織。その控えめさと健気さに、越也の心はたやすく揺さぶられてしまう。彼女はいつだって分をわきまえ、誰よりも愛おしく思えてしまう存在だった。
「……わかった。叶えてやる」
そう答えると、彼は使用人に枝里子を連れ出すよう命じ、冷ややかに言い放った。
「さっさと試着しろ」
枝里子はまるで人形のように引きずられ、更衣室へ押し込まれた。そのとき、ドレスの内側から異様な匂いが漂っていることに気づく。
着替えを拒もうとした瞬間、使用人の手が無理やり彼女を押さえつけた。
次の瞬間、昨夜鼠に噛まれた傷口に裏地が触れ、焼けつくような激痛が全身を走った。
ドレスの裏には、唐辛子の水が染み込ませてあったのだ。皮膚を焼くような刺激が肉に食い込み、枝里子は思わず悲鳴を上げる。
必死にドレスを引きはがそうとしたが、その拍子に布は裂け、床に白い布片が散らばった。
使用人の悲鳴が響き渡り、すぐさま詩織と越也が駆け込んできた。
床一面に広がる破れた布を見た詩織は、大げさに息を呑み、目を潤ませる。
「桐谷さん……嫌なら断ればよかったのに、どうして壊したんですか?これは私の一番大切な作品なんです。越也さんがいなければ、とても手放せなかったのに……」
嗚咽をこらえながら部屋を飛び出していく詩織。
残された越也は、怒りを抑えきれず枝里子を睨みつけた。
「今度はなんだ?ウェディングドレスまで江川に細工されたって言いたいのか?そこまでして彼女を貶めたいのか!
すぐに縫い直せ!そして俺たちの結婚式では必ずこのドレスを着ろ!嫌だと言うなら……婚礼そのものを中止にする!」
怒声を残し、彼は詩織の後を追って出ていった。だが、その言葉は枝里子にとって願ってもない結末だった。
しかし、部屋に残った使用人がにやりと口角を歪める。
「桐谷さん、これは江川さんのご命令ですから……どうか恨まないでくださいね」
そう言って持ち上げたのは、大きな桶。中には、何倍にも濃くした唐辛子の水が満ちていた。
パシャン――容赦なく液体が枝里子の傷口へ浴びせられる。灼けつく痛みが全身を駆け抜け、息が止まりそうになる。
「いい加減、身の程をわきまえたらどうです?江川さんに逆らわず、さっさと婚約を解消すればいいんです。未来の奥様は、江川さんただ一人なんですから」
痛みに苛まれながら、枝里子は床に崩れ落ち、そのまま意識を手放した。
目を覚ますと、すでに夜。
体を引きずるように部屋を出ると、足元に置かれた自分の荷物につまずき、その場に崩れ落ちる。
すぐ隣は、彼女と越也の寝室。中からは、詩織の甘い声が漏れ聞こえてきた。
「越也さん……やっぱり私、桐谷さんに一言謝ってきます。お二人の寝室を使うのは、さすがに気が引けて……」
すぐに越也の声が返る。
「いいんだ。お前の住所を晒したのは枝里子だ。あの連中にまだ仲間がいるかもしれない。これは彼女が負うべき償いだ」
「……でも、私、やっぱり怖いんです。越也さん、昨日の夜みたいに……抱いて眠ってくれませんか?」
小さく甘える声。
「……ああ」少し掠れた声に、迷いはなかった。
枝里子は静かに部屋の扉を閉めた。壁の向こうから響く声を遮断するように。
もう、限界だった。
もう二度と、彼らと同じ屋根の下で息をするつもりはなかった。
第7話
翌日は結婚式の前日だった。屋敷では朝から使用人たちが慌ただしく新居の飾りつけに追われている。
「江川様のご希望で、この色の風船を飾るようにと」
「庭の百合は全部抜きなさい、薔薇を植えるの。江川様は薔薇がお好きだから」
「桐谷様と西原様の婚約写真は外して処分を。江川様のお気に召さないそうだ……
ほら、急ぎなさい、結婚式の飾りつけ、西原様はすべて江川様に一任するとおっしゃってたんだぞ!」
新居と呼ばれる部屋は、詩織の好み一色に染められていた。
枝里子は静かにスーツケースのジッパーを閉め、窓の外を見つめながら小さく息を吐いた。
もうすぐですべてから解放される。
そんなとき、越也と詩織が連れ立って部屋に入ってきた。
越也は室内を見回し、飾りつけに目を細めると、どこか掴みどころのない微笑みを浮かべた。
そして懐から、細工の煩雑な指輪を取り出し、枝里子の薬指に強引に嵌める。
「どうだ?サイズは合うか?」
指輪は根元まで届いたものの、指があまりにも細いため、すぐに緩んでくるりと回り、落ちかけた。
枝里子は淡々と見下ろし、一瞬で真実を見抜く。
「……これ、あの女の指に合わせたものでしょう」
越也の顔がこわばる。無表情の枝里子を前に、胸を締めつけられるような痛みが走った。
まるで、彼が夢見てきた婚礼など、枝里子にとっては何の意味もないかのように。
「……デザイナーの手違いだろう。もう一つ作らせる。
……枝里子、明日は俺たちの結婚式だ。嬉しくないのか?」
「まぁね」
気のない返事をすると、枝里子は指輪を外し、そのままカバンに放り込んだ。
「まだ用事があるから」そう言い残して背を向ける。
その夜。使用人がごみ箱から指輪を拾い、越也に差し出した。
「西原様……桐谷様が、これを捨てておられるのを見ました」
驚いてカバンを探った枝里子は、指輪がなくなっていることに気づく。
盗まれたのだ。
詩織が息を呑み、頬を紅潮させながらわざとらしく言った。
「結婚指輪なのに……桐谷さん、どうしてそんなことを?もしかして、私の存在が気に入らないのですか?」
彼女は目を伏せ、か細い声で続けた。
「でも……越也さんを放っておけなかったんです。もう十数時間も眠らずに、結婚式の準備をしていたので」
詩織の声は次第に熱を帯び、大胆さを増していった。
「結婚式は二人のことです。こんな態度じゃ、越也さんに不公平じゃありませんか?」
一見控えめで心配げな言葉が、越也の胸を確実に締めつける。
冷ややかな枝里子の態度と、日に日に膨らむ自分の期待が重なり、まるで自分が道化にされたような気分だった。
「……枝里子。いい加減にしろ。結婚を望んだのはお前だ。俺が一方的に押しつけたわけじゃない!
忘れたのか?この婚姻を必要としているのは俺じゃない。天涯孤独のお前のほうだ!」
自分は約束を守ったのに、なぜここまで彼女の顔色を伺わねばならないのか。
直後、枝里子は拳を固く握りしめ、低く吐き捨てた。
「……私は海外で築いた仕事も人生も、全部捨てて帰ってきたのよ。それが、庇護を乞う孤児に見えるのね。
なら、もう何も言うことはないわ。結婚式なんて興味ない。あなたたち二人で勝手に祝えばいい」
振り返ることなく背を向ける枝里子の姿に、越也はかすかな違和感を覚えた。
だが、その袖を詩織がそっと掴む。
「越也さん……手術の傷跡が、まだ痛むんです」
その一言に意識を奪われ、追いすがる言葉は喉の奥に消えた。
枝里子は静かに玄関のドアを閉め、携帯を靴箱に置き、SIMカードを引き抜くと、スーツケースを引いて空港へ向かった。
飛行機は夜明け前に離陸する。もうすぐ自分は生まれ変われる。
そうすれば、あの屋敷にも、あの二人にも、二度と関わらずに済むのだ。
越也、さようなら。
いつの日か、詩織の本性に気づくときが来るだろう。その瞬間のあなたの顔を思うと、今から楽しみでならないのだ。