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心が追いつくまで
彼に自分の臓器を提供するまで、あと十日。 蘆田風鈴は心の中で、その日をひっそりと数えていた。 あと十日さえ耐えれば、彼は健康な身体を手...
Chương (1)
第1章
彼に自分の臓器を提供するまで、あと十日。
蘆田風鈴は心の中で、その日をひっそりと数えていた。
あと十日さえ耐えれば、彼は健康な身体を手に入れ、鬱陶しい替え玉である私は、きっときれいさっぱり捨てられるだろう。
そのあと、好きな人と幸せになった彼は、私のことを思い出してくれるだろうか。
……きっと、ないよね。
第1話
「本当に決めたの?臓器提供は簡単なことじゃないよ。腎臓を一つ譲れば、その後の一生に影響が残るんだ。だから、どうか慎重に考えてほしい」
電話の向こうで教授の声が重く響く。
蘆田風鈴(あしだ ふうりん)は一瞬だけ黙り込み、それから静かに、しかし揺るぎない声音で答えた。
「もう決めています。私が決めたこと、簡単には変わらないって先生が一番ご存じでしょう?」
受話器越しに深いため息が落ちる。
「……そうか。それが君の意思なら、俺は尊重するよ」
「ありがとうございます、先生」
小さく礼を言ったあと、風鈴は声を落とした。
「……できれば、このことは誰にも言わないでください」
「もちろんだ」
通話が切れたあとも、風鈴はしばらく受話器を握ったまま、ぼんやりとテレビ画面を見つめていた。
【先月、神崎グループの後継者である神崎和哉(かんざき かずや)氏が突然倒れ、入院しました――
同グループは「病気ではあるものの、日常生活に支障はない」と発表しており、神崎氏は現在も引き続き会社で活躍しています】
画面の中、和哉の隣には秘書であり初恋相手でもある櫻井凜(さくらい りん)の姿が寄り添うように映されていた。
「病気のとき、そばにリンがいてくれて本当に助かった」
恋愛ドラマさながらのその眼差しに、世間は感動し、正妻である風鈴は「冷たい妻」と叩かれた。
記者ですら言い放つ。
「神崎社長みたいな素晴らしい方を奥さんは大事にせず、病気のときに見捨てるなんて……幸い、櫻井さんがいて良かった。櫻井さんこそふさわしいお相手です」
――ほら、世の中の誰もが二人を「お似合い」だと思っている。
風鈴は小さく息を吐き、リモコンでテレビを消した。ソファに腰を下ろそうとした、その時――
ガチャ、と玄関の扉が開き、和哉が入ってきた。隣には凜。
しっかりと手を繋ぎ、その目元には柔らかな優しさが宿っている。
「……君、まだいたのか?」
風鈴を見た途端、その表情にはっきりした不機嫌が滲む。
「風鈴さんがいるなら、今日は帰るわ。和哉、無理しないでね。……奥さんがちゃんと看病してくれるはずだから」
凜は優しく微笑み、わざとらしくそう言った。
和哉は鼻で笑った。
「看病?彼女が?俺が倒れていた時、彼女が何をしてくれた?電話の一本さえ寄こさなかったじゃないか」
そう吐き捨てるように言い、凜の手を引いて家の中へ促す。
「……これからは、ここが君の家だ」
そう言うと、和哉は膝をつき、丁寧に凜の足元にスリッパを揃えてやった。
まるで――ここが本当に「ふたりの家」であるかのように。
風鈴は、その場に立ち尽くすしかなかった。
――ここは、自分の「家」のはずなのに。
思い出すのは、病室で見た光景。
和哉はベッドで凜の手を握り、寄り添う二人は誰が見ても夫婦そのものだった。
差し伸べかけた自分の手は、そっと降ろすしかなかった。
彼は、自分の命の恩人だ。
無理をしてでも嫁いだのは、自分。
いつかは愛されると信じていた。
けれど、その想いが届かないのなら……もう、いい。
せめてこの手で、彼のためにできる最後のひとつだけを残してあげよう。
「リンは海外から戻ったばかりで知り合いもいない。しばらく家に住んでもらうことにした。油っこいものもパクチーも苦手だから、食事を作る時は配慮してくれ」
まるで家政婦への指示のような冷たい口調だった。
「風鈴さん、誤解しないでくださいね。私は本当に和哉の体が心配なだけで……ほかに何かあるわけじゃありません」
おずおずと凜が言った。
「こんなふうに突然押しかけてしまって……迷惑じゃないですか?」
その言葉に合わせて和哉が風鈴へ視線を向ける。
あからさまな「嫌悪」が、その奥底で静かに滲んでいた。
結婚して数年。愛されていないことは分かっていた。でも、こんな露骨な目で見られるのは……初めてだった。
しばらく沈黙が流れたあと、風鈴は静かに言った。
「……ええ。好きにして」
机の上の書類を取り、和哉へ差し出す。
「朝、あなたの秘書が持ってきたわ。署名が必要だそうよ」
和哉は苛立ったように目を通し、次々と署名していく。
すべてに書き終えると、乱暴に突き返した。
「……持っていけ」
だが、凜の方へ向き直った瞬間、声も表情も優しく変わる。
「リン、上で休もう」
「うん、手、貸してあげるわ」
二人は肩を寄せ合い、階段を上がっていった。
取り残された風鈴は、まるで捨てられた人形のようにリビングに立ち尽くす。
スカートの裾を握り締めた指が震え、噛みしめた唇から、かすかに鉄の味が滲んだ。
――この数年間、彼の口から何度も聞こえた「リン」という名。
あれは、本当に自分のことだったのだろうか。
考えることさえ怖かった。
第2話
和哉は凜を連れて階段を上がっていった。
数段進んだところで、ふと振り返り、風鈴を見据える。
「そうだ、俺たち、いつ離婚する?」
淡々と放ったその言葉。答えを待つこともなく、彼は凜の手を軽く取り直し、そのまま階段を上がっていった。
風鈴はテーブルに置かれた署名済みの書類に目を落とす。
胸の奥がじんと痛み、思わず唇が震える。
――もうすぐよ。
声にならない言葉が、口の中でそっと零れた。
和哉が自分を愛していないことなど、とっくにわかっていた。結婚も、和哉にとっては「仕方のないこと」だった。
けれど、今はまだ離婚できない。彼の妻の立場でなければできないことがあるから。
すべて片づけたら、和哉に健康な身体を返し、そして彼の恋を叶えてやる。
*
教授との約束の時間に、風鈴は検査のため病院を訪れた。
「あとどれくらい準備の時間がありますか?」
「十日ほどだな」教授が顔を上げた。
「……十日?」
思わず声が詰まる。想像よりずっと早い。
「神崎さんの体調から見て、十日後には手術ができる段階に入ります」
「……わかりました」
重い思いを抱えたまま、風鈴はエレベーターに乗り込み、階下へ。
扉が開いた瞬間――そこには和哉と凜がいた。
さっきまで笑顔で話していた和哉の顔が、風鈴を見るなり冷え切る。
「ここで何してる?」
「……先生に会いに来ただけ」
心臓が跳ね、慌てて答えた。
和哉は、風鈴も教授と顔見知りだと知って、不機嫌そうに吐き捨てた。
「俺よりよっぽど熱心だな」
「じゃあ、あなたは?何をしに……」
風鈴はつい口走ってしまい、言った瞬間に後悔した。
青白い顔、紫がかった唇。誰が見ても、診察のために来ていることは明らか。
彼はあざ笑うように片唇を上げた。
その目には、呆れと嘲りしかない。
その視線に射抜かれ、風鈴は唇を噛みしめ、何も言えなくなった。
空気が凍りつくように重くなる。
そんな中、凜がふわりと笑った。
「風鈴さん、気にしないでくださいね。和哉って、昔からああいう言い方しかできない人なんです」
風鈴も微笑みを返す。
――違う。
彼は話したくない相手にだけ、ああいう態度を取る。
凜が和哉の腕に絡みつき、甘えたように寄り添う姿を見た瞬間、胸を刺したのは――嫉妬。
かつて自分も夢見た光景。でも、それは手の届かない幻だった。
「そうだ、風鈴さん、いい知らせがあるんですよ!」
「リン」和哉が眉をひそめた。「いちいち言わなくていい」
「だって、すごく嬉しいことだから。みんなに言いたいの!」
凜は子どものように彼の腕を揺らした。
和哉は仕方なさそうに笑い、優しく見つめた。
「風鈴さんも、ちょっとは気になるよね?」
凜が風鈴へ向ける笑顔は無邪気そのもの。
風鈴は、すでに何を言うか察していた。
できることなら、この話題に触れたくない。
だが和哉の鋭い視線が彼女を刺す。
「……どんな、知らせですか?」
無理に笑みを作る。
「和哉に腎臓を提供してくれる方が見つかったんです。今日はその適合検査に来たところなんですよ!」
凜が嬉しそうに告げる横で、和哉は彼女の額に落ちた前髪を、そっと指先で耳の後ろへと撫で上げた。
まるで壊れ物に触れるかのように、優しく――丁寧に。
風鈴は思わず目を奪われた。
「……あれ?あまり嬉しそうじゃないですね?」
凜が首を傾げた。
風鈴は我に返り、無理やり口角を吊り上げた。
「……嬉しいわ。本当に、よかった」
和哉はその顔を見て、冷たく吐き捨てた。
「どうせ、適合じゃなければいいって思ってるんだろ。
病気の夫を見舞いもしない女に、そんな気持ちあるわけない」
第3話
言い返そうとした風鈴だったが、その前に和哉は凜の腰を抱き寄せ、そのまま彼女を連れてエレベーターへ。
風鈴は身じろぎ一つせず、エレベーターのドアが閉まるまで目を向けなかった。
――もし振り返ってしまったら。
二人の「幸せそうな背中」を見て、きっと顔から感情が零れてしまうから。
自分に残されたのは、あと十日。
もう十日しかない。
やるべきことは山ほどある。終わらせなければならないことも。
まずは、未発表の写真作品の整理。
一枚一枚が、彼女の心を削って生まれたもの。
ここまで歩んできた、確かな証だった。
家に戻り、それらをまとめて会社へ遺作として託し、退職届を出すつもりだった。
だが寝室の扉を開いた瞬間、足が止まった。
そこに広がっていたのは、見慣れぬ服や小物で占拠された空間。
クローゼットにあったネガやアルバムは引きずり出され、無残に破り捨てられていた。
床いっぱいに広がる惨状。
風鈴は拳を握りしめ、大きく息を吸った。
――言うまでもない、凜の仕業だ。
たとえ数日後には出ていくつもりでも、彼女はもう居場所を奪いに来ていた。
まだ自分はここにいるのに、この家から自分の存在は消されている。
胸の奥に渦巻く息苦しさは抑えきれない。
十日のカウントダウンが始まったばかりなのに、彼女の「記憶」は、すでに跡形もなく壊されてしまった。
*
風鈴は手ぶらのまま会社へ行き、退職届を差し出した。
上司は渋い顔をしたが、彼女の決意を見て言葉を飲み込んだ。
「理由は?」とだけ尋ねられ、風鈴は笑って答えた。
「旅行に行こうと思いまして」
荷物をまとめていると、机の上の写真の束に目が留まる。
気づけば床に座り込み、一枚ずつめくっていた。
撮影時期は違えど、被写体はすべて同じ。
和哉。
角度も表情も様々に、彼の病弱な優雅さ、儚い美しさを切り取っている。
思い出すのは、カメラ越しに見た彼の姿。
多くは隠し撮りだった。
日々を記録するつもりで、結局は「彼を愛する気持ち」を残していた。
写真に写る彼の顔を、指先でそっとなぞる。
長い沈黙のあと、小さな吐息が漏れた。
何度も見返し、頭の中に焼きつけようとする。
本当なら、これは大切に残すはずの思い出だった。
だが今は、消し去らねばならない。
風鈴は束を抱え、ためらいながらもシュレッダーへ。
ガリガリと切り刻む音を聞きながら思った。
――この気持ちも、同じように粉々にできたら。
そう考えて、ふっと自嘲気味に笑った。
自分の愚かさに。
写真もデータもすべて消し去り、同僚の別れを受けて会社を後にする。
だが、外に出た瞬間――またしても和哉と凜に出くわした。
二人は手をつなぎ、隣のビルから出てきたところだった。
先に風鈴を見つけたのは凜だった。
笑顔で名前を呼び、和哉を連れて歩み寄る。
「まあ、偶然ですね。風鈴さん」
風鈴は曖昧な笑みを浮かべた。
「さっき和哉と指輪を見に行ったんです。が多すぎて、選ぶのに迷ってしまって。
もし会えるって分かってたら、相談したのに」
困ったような言い方なのに、目元は嬉しさで輝いていた。
和哉が視線を落とし、甘やかすように言った。
「バカだな。迷う必要なんてない。欲しいなら全部買えばいい」
「えっ……全部?本当に?」
凜は幸せそうに笑った。
「当たり前だろ。俺は早く病気を治して、離婚して――君を迎えたいんだから」
その言葉は凜に向けられていたが、黒い瞳はまっすぐに風鈴を射抜いていた。
その一言一言が、風鈴の胸に容赦なく打ち込まれていく。
心が軋みながらも、風鈴は無理に笑った。
「……そう。じゃあ、先にお祝いを言わせてもらうね」
「まあ、嬉しい!あなたに祝ってもらえると、もっと幸せ」
凜はにこにこと言った。
和哉は彼女の腰を抱きながら、なお風鈴を射抜くように見つめた。
「それで、離婚届にはいつサインする?」
「もうすぐ」
短く返し、風鈴はそれ以上関わらずに足早に立ち去った。
背後に響くのは、二人の甘ったるい声。
「和哉、本当に離婚してくれるの?風鈴さんもいい人よ?」
「バカだな。俺にとって一番は君だ。愛してるのは君だけ」
「本当に?」
「もちろんだ」
「和哉……また私を甘やかしてるんでしょ?」
その先の声はもう届かなかった。
だがビルのガラス越しに振り返ったとき、映ったのは抱き合い、口づけを交わす二人の姿。
風鈴の顔から血の気が引いた。
足を動かすだけで、全身の力を振り絞らなければならなかった。
第4話
――時間がない。心を痛めている暇なんて、どこにもない。
風鈴は何度も心の中で繰り返し、自分に言い聞かせていた。
「風鈴ちゃん」
教授の声に我へ返る。差し出されたのは厚みのある資料の束。
「臓器提供に関する一切の書類だ。しっかり読んでから、記入しなさい」
彼女は黙って受け取り、真剣にページをめくり始める。
教授はやつれた彼女の横顔を見つめ、ためらいながら口を開いた。
「……まだ九日ある。考え直す時間も十分にある」
今からでも撤回すればいい。提供をやめても誰も責めはしない。
医師としての見解では、和哉の腎臓の問題は長年のもの。
たとえ移植に成功しても、完全に回復するまでにはいくつもの壁がある。
それはすでに何度も伝えてきたことだ。
しかも、和哉に適合するドナーが彼女一人とは限らない。
彼の財力と人脈をもってすれば、時間をかければ適合者を見つけるのは難しくない。
風鈴は、その言外の意味を悟っていた。
唇に薄い笑みを浮かべ、静かに首を横に振った。
教授はそれ以上言葉を継げず、瞳にうっすらとした惜しみと哀しみを滲ませた。
*
注意事項、同意書、数々の書類。
彼女は一枚一枚読み終え、深く息をつき、ペンを取った。
ほんの一瞬だけ迷い、すぐに署名を始めた。
手続きを終えたあとは――
自分のための準備。
手術後はアルヴェリアに留まるつもりはない。国外へ移る。
すでに友人が移民手続きを整えてくれていた。時期は手術が終わった直後。
風鈴は思わず笑みをこぼす。
和哉にしてみれば、自分が完全に消えてくれるほうが都合がいいのだろう。
*
一日中奔走し、全てを終えて帰宅した夜。
リビングに入ると、ソファには和哉が座り、膝にノートパソコンを置いて仕事をしていた。
その隣で凜がスマホをいじり、音量を上げたままTikTokを見ている。
和哉は気にも留めず、表情ひとつ変えない。
風鈴の頭の中に、結婚当初の記憶がよみがえる。
同じリビング、和哉は仕事すらしていなかった。
ただ同僚からのビデオ通話を受けただけで、「うるさい」と不機嫌になり、それ以来、彼女は二度とリビングで通話をしなくなった。
ましてや凜のように動画を流すなど、あり得なかった。
彼女の携帯は、いつも無音が当たり前になっていた。
風鈴は視線を落とし、黙って二階へ向かった。
「風鈴さん、お帰りなさい!」
凜の明るい声が背後から響く。
足を止めて振り返ると、和哉の不快そうな眼差しとぶつかった。
凜はソファから立ち上がり、軽やかに彼女へ歩み寄った。
「今夜は私がご飯を作ります。何が食べたいですか?」
「……お気遣いなく。食欲がないので」
「そんな遠慮しないで!好きなものを言ってくださいよ、作りますから!」
彼女がぐいと手を引いた拍子に、風鈴の手から資料の束が床に散らばった。
中には、重症病棟を出るときに渡された墓地のチラシも。
本来捨てるはずだったのに、うっかり混ざったままになっていた。
風鈴は凜を見やる。その瞳の奥には、隠しきれない敵意。
眉をひそめて身をかがめ、慌てて拾おうとする。
「ごめんなさい!本当にわざとじゃなくて。私も拾いますね!」
凜も屈み込み、手に取った一枚を見て目を丸くした。
「……桜霞の里?これ、公営墓地のチラシじゃないですか?」
驚いた様子で顔を上げる。
「風鈴さん、どうしてこんなのを持ってるんです?」
風鈴は即座にその紙を奪い取り、散らかったものをかき集めて立ち上がった。
「待て!」
和哉の鋭い声が飛ぶ。
彼女は足を止めない。むしろ歩みを早める。
だが、数歩で追いつかれ、腕を乱暴に掴まれた。
無理やりチラシを奪い取られ、和哉は中身を一瞥すると、瞳に炎を宿す。
「これは何だ?」
「知りません。誰かに渡されたもので、気にも留めてません」
平静な声で答える風鈴に、和哉は乾いた笑みを漏らした。
「まだ死んでもないのに、もう墓の心配か?」
「和哉……風鈴さんを誤解してるかもしれません」
追ってきた凜が口を挟んだ。
「誤解? どこがだ?」和哉は怒鳴る。
「こいつは俺が早く死ぬことを願ってるんだろう!」
「そんなことありません。風鈴さんはそんな人じゃないわ」
凜は心配そうな顔をしながらも、言葉は見事に火に油を注ぐ。
「風鈴さん、和哉を怒らせないで。謝ってください!」
だが、風鈴は謝らなかった。
謝る必要など、どこにもなかった。
「……放して」
第5話
彼女を放すどころか、和哉はさらに腕を強く締めつけた。
「風鈴、そんな子どもみたいな真似で、俺を呪い殺せると思ってるのか?」
「そんなこと、一度も考えたことはないわ」
淡々と答えると、和哉は鼻で笑った。
「考えたことがない?じゃあ、これは何だ?」
彼は手にしていた墓地のチラシを、勢いよく彼女の顔へ投げつけた。
紙の角が頬をかすめ、鋭い痛みが走った。
指で触れると、うっすらと血がついた。
その赤を目にした瞬間、和哉の手が思わず緩む。
「俺……」
だが、その隙に凜が割り込むように二人の間へ飛び込み、自然と距離を開けさせた。
「風鈴さん、大丈夫?血が出てる……」
凜は心配そうに見上げた。
風鈴は答えず、数歩後ずさりしてしゃがみ込み、床に散らばった紙を拾い集める。
チラシの下には、臓器提供同意書も混ざっていたが、和哉の目には映らない。
――まあ、元々自分に関心のない人だ。気づくはずもない。
彼女は何も言わず、紙を抱えて二階へと向かった。
追いかけようとした和哉の袖を、凜が掴んで引き留めた。
「和哉……大丈夫?」
その顔は紙のように白く、唇は深い紫色へと変わっている。
呼吸も荒い。
「大丈夫だ」
「よくないわ、すぐ病院へ行きましょう」
凜に強く促され、和哉は渋々病院へ向かった。
*
その頃風鈴は、自分の仮の部屋で荷物の整理を始めていた。
凜が先に彼女の部屋を奪ったおかげで、荷物はすでにここへ移されていた。
服、日用品を一つずつ仕分け、不要なものは処分、あるいは寄付へ。
手を動かしていると、一枚の古びた写真がひらりと床へ落ちた。
そこに写っていたのは――和哉と彼女。
あのとき川で溺れた自分を救い、半年も入院していた頃に撮った一枚。
病室で彼のベッドの傍らに立つ彼女は、不自然な笑顔。
カメラの前でぎこちなく笑う自分。
ベッドに背をもたせかけ、不機嫌そうにこちらを見ている和哉。
――いつ見ても、今と同じ顔。
「……風鈴」
名前を呼ばれて振り返ると、和哉が部屋の入口に立っていた。
「何か用?」
深淵のような黒い瞳に光はなく、彼は無造作に一枚の書類を差し出した。
「これに署名しろ」
手に取って開いた瞬間、風鈴の指が止まった。
――離婚届。
数秒の沈黙の後、彼女は静かに閉じた。
「……サインするつもりだよ」
「じゃあ今すぐだ」
和哉の視線は鋭い。
「これ以上互いの時間を無駄にするな」
風鈴は離婚届を握りしめ、ふっと唇を噛んだ。
「……サインはする。でも、今じゃない」
「選択肢があるとでも思ってるのか?」
彼の顔に苛立ちが浮かぶ。
「今すぐ署名しろ」
怒りと威圧が押し寄せる。
風鈴はその眼差しを受け止めながら、低く答えた。
「ごめんなさい。……今は、サインできない」
第6話
その言葉に、和哉の瞳の奥が荒々しく燃え上がった。
彼は風鈴の顎を強くつかみ上げる。
「サインしたくない?また昔みたいに手を使えば何とかなると思ってるのか?
二度と俺の人生を壊させはしない」
風鈴の胸が震えた。
「……私と結婚したことが、あなたの人生を壊したの?」
「そうだ。お前のせいで俺の人生は狂った。リンと何年もすれ違う羽目になった」
鈴は静かに彼を見つめ、しばらくして、ふと口元に笑みを浮かべた。
最初に彼と結婚したとき、命を救ってくれた恩に報いるだけでなく、自分が彼を幸せにしたいという気持ちもあった。
――和哉、そんなに焦る必要はない。
あと数日、少しだけ我慢すればいい。
あなたの欲しいものは、もう手に入っているのだから。
彼女の冷えた肌の感触に気づき、不可解な光を宿した瞳を見返され、和哉の苛立ちはさらに募った。
「和哉、どこにいるの?」
凜の声が廊下から響く。
和哉は手を放した。
「……いいさ。今は署名しなくても、そのうち絶対に書かせてやる」
そう吐き捨て、足早に部屋を出ていった。
風鈴は床に崩れ落ち、口元に苦笑を刻む。
そして再び立ち上がり、荷物の整理を続けた。
――こうして慌ただしく過ごすうちに、和哉の手術の日が訪れた。
それは、彼女が腎臓を提供する日でもある。
*
朝。身支度を終えて階下へ降りると、リビングでは凜が和哉の襟を整えていた。
彼女の足が階段の途中で止まる。
凜は忙しそうに衣服を整えながら、柔らかな声をかける。
「本当に風鈴さんを呼ばなくていいの?」
「呼ぶ必要はない」
和哉の声は冷たい。
「でも今はまだ奥さんだよ?手術するのに…」
凜が小さく呟いた瞬間、和哉はその口を大きな手で塞ぎ、二階へと視線を上げた。
「すぐに元妻になる。……俺たちは離婚する」
風鈴は、その目が自分を射抜いていることに気づき、手すりを強く握った。
――最初から、彼は気づいていた。自分がここに立っていることを。
深呼吸をして、足を一歩ずつ階段へ進める。
「おはようございます、風鈴さん。和哉、今日移植手術なんです。……付き添いますか?」
凜が笑顔で問いかけた。
「行かないわ」
風鈴は淡々と答えた。
その一言に、和哉の表情は険しくなる。
「そっかぁ……じゃあ今日は、私だけが付き添ってあげるね」
凜は小さくため息をついた。
風鈴は軽く会釈をして、二人の横を通り抜け、台所へ向かおうとする。
「風鈴」
低い声が背後から響く。
足を止めるが、振り返らない。
「入院する前に……俺に何か言うことはないのか?」
和哉の言葉は、一字一句を噛みしめるようだった。
風鈴はゆっくりと振り向く。
一瞬、和哉の瞳に光が走る。
だが次に返ってきた言葉は、あまりに淡々としていた。
「……ないわ」
そして、かすかな笑みを浮かべた。
「手術が終わったら、あなたにプレゼントがある」
和哉は凜に支えられながら外へ歩き、鼻で笑った。
「離婚届なら嬉しいな」
風鈴は苦笑し、カバンから書類を取り出した。
――離婚協議書。
その下には一通の手紙。彼女が残す「贈り物」。
テーブルに置き、マスクをつけて家を出た。
タクシーで向かう先は病院。
教授が段取りを整えてくれていた。
和哉と彼女が顔を合わせることはない。
彼は知らない。ドナーが誰なのかも。
――せめて最後に、一つだけ。彼のために。
麻酔が身体に広がるとき、横に和哉の姿が見えた。
目を閉じ、病的に白い顔。記憶にある彼とは違って、あまりに痩せていた。
意識が遠のく中、最後にひとつだけ思った。
――和哉。
あの時、溺れた私を救ってくれたあなたへ。
今度は、私が健康な身体を返す。
これで互いに、借りも未練もない。