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憂いを払いし春風
帝都の社交界では、神崎駿(かんざき しゅん)は桜庭絵理(さくらば えり)のために生きていると囁かれていた。 幼稚園の頃、駿は鉛筆の先から...
Chương (1)
第1章
帝都の社交界では、神崎駿(かんざき しゅん)は桜庭絵理(さくらば えり)のために生きていると囁かれていた。
幼稚園の頃、駿は鉛筆の先から絵理をかばい、思春期には彼女の昼寝を邪魔する蝉を追い払うため木に登った。
成人してからは、絵理の「春っていいね」という何気ない一言のために、世界中の春の名所に十数軒の別荘を購入し、いつでも春のデートに誘えるよう備えた。
記憶を失って道を踏み外した時期もあったが、駿は人生のほとんどを絵理に捧げてきた。
結婚後、絵理がALSと診断され、周囲が離婚を勧めても、彼は黙って意識を失った彼女を背負い、石碑が並ぶ山寺を額を地につけて一歩一歩巡り、「生」の字が刻まれた石を彼女の手で撫でさせ、ただひたすら延命を祈った。
彼の愛を疑うことなどなかった――絵理が死を宣告された、あの厳冬の夜までは。
駿は絵理を抱きかかえたまま、一晩中座り続けた。額を彼女の頬に寄せ、低く囁く――
「絵理……俺はこの人生で君への責任を全うした。もし来世があるなら、俺と彼女を結ばせてほしい」
第1話
帝都の社交界では、神崎駿(かんざき しゅん)は桜庭絵理(さくらば えり)のために生きていると囁かれていた。
幼稚園の頃、駿は鉛筆の先から絵理をかばい、思春期には彼女の昼寝を邪魔する蝉を追い払うため木に登った。
成人してからは、絵理の「春っていいね」という何気ない一言のために、世界中の春の名所に十数軒の別荘を購入し、いつでも春のデートに誘えるよう備えた。
記憶を失って道を踏み外した時期もあったが、駿は人生のほとんどを絵理に捧げてきた。
結婚後、絵理がALSと診断され、周囲が離婚を勧めても、彼は黙って意識を失った彼女を背負い、石碑が並ぶ山寺を額を地につけて一歩一歩巡り、「生」の字が刻まれた石を彼女の手で撫でさせ、ただひたすら延命を祈った。
彼の愛を疑うことなどなかった――絵理が死を宣告された、あの厳冬の夜までは。
駿は絵理を抱きかかえたまま、一晩中座り続けた。額を彼女の頬に寄せ、低く囁く――
「絵理……俺はこの人生で君への責任を全うした。もし来世があるなら、俺と彼女を結ばせてほしい」
人は死ぬとき、最後に聴覚を失う。
その瞬間、絵理は初めて知った――皆が「一途」と信じた駿が、記憶を取り戻した時点で心を二つに裂いていたことを。
一方は自分への責任、もう一方は小日向晴香(こひなた はるか)への想いを隠していた。
記憶を失った駿を拾い、そして彼が記憶を取り戻した後、潔く命を絶ったあの女性を――
もしかすると、駿の祈りが天に届いたのだろうか。
再び目を開けた絵理の耳に、助手の焦った声が飛び込んだ。
「駿様が記憶を失くされて、私たちと帰ろうとしません。ただ、神経系の権威に相談済みですので、すぐに回復するはずです」
それは、前世の絵理が行方不明になった駿を探し出したときと、まったく同じやり取りだった。
ただ今回は、絵理の胸に驚きも焦りもなかった。
彼女はうずく額を押さえ、首を横に振る。
「専門家は、まだ呼ばなくていいわ」
その後、絵理は二つの行動を取った。
一つは、病院で極めて精密な全身検査を受けること。
もう一つは、その結果を持って神崎家に婚約破棄を申し出ることだった。
駿の両親が驚きと動揺を隠せない中、絵理は淡々と利害を分析した。
「駿くんは今、記憶を失っており、私のことも婚約のことも覚えていません。記憶が戻ったあと、治療不能な私を背負わせるより、今のまま愛する人と結婚した方がいいと思います。これ以上、彼を縛りたくありません」
それは本心だった。
前世の彼女は駿との愛を信じ、ALSと診断されても別れを考えず、真実の愛なら全ての障害を超えられると信じていた。
だが、死の間際に血まみれの現実を突きつけられた――駿の愛は自分にではなく、別の人に向けられていたのだ。
駿の母親の結子(ゆうこ)は絵理の手を握り、目を真っ赤に腫らして首を振った。
「馬鹿ね……私たちは、あなたを重荷だと思ったことなんて一度もないわ。駿だって、あなたが病気だと知ったら、きっと自分を責めるわ。
それに、駿はあなたをあれほど愛しているのに、他の人と結婚するはずないじゃない……」
絵理は黙ってスマホを操作し、助手から届いたばかりの動画を再生した。
画面には水族館の巨大なガラス壁が映り、明るいピンクのマーメイドテールをまとった女性が水中で優雅に回転する。
陽光が水を透かして降り注ぎ、彼女の全身を金色のパールが包むように輝かせていた。
そして、ガラスの外では駿が静かに立ち、視線にはこれまで見たことのない優しさと執着が宿っていた。
水中の女性がふと彼を見て、目を細めて笑う。
その瞬間、駿の瞳に広がる温もりは、まるで春の小川が氷を溶かすようで、人を溺れさせるほどだった。
まるで世界中の春景色が瞳に注ぎ込まれ、映るのはただあのピンク色だけかのように――
動画が終わると、客間には静寂が落ちた。
絵理は沈黙する駿の両親を見据え、静かに告げた。
「これが、私と駿くんにとって一番の選択です」
しばらくして、駿の父親の敏史(としふみ)が顔を重く拭い、かすれた声で尋ねた。
「これから……どうするつもりだ?」
「兄が海外で事業を展開していた頃、私は婚約のためについて行けず、お二人には長年ご迷惑をおかけしました」
絵理は目を伏せ、奥底の感情を隠すように続けた。
「今、私の状況を知った兄が、海外で永住権の申請を手配してくれています。手続きが済み次第、私も出国します。
向こうには最高の医療チームがいて、数年は生きられるはずです」
第2話
絵理の手のひらに冷たさが広がり、平静の奥底で翻る感情が、ひそかに滲み出した。
結子は、そのわずかな変化に気づき、探るような慎重な声を掛けた。
「絵理ちゃん、駿を家に連れ戻してくれないかしら?私たちは、どうしても手が離せなくて……」
絵理が息子の嫁になる――その思いは、結子の胸の奥で長年燻っていた。
二人の関係が簡単に断ち切れるなど、信じられなかったのだ。
万が一、駿が絵理に会って記憶を取り戻せば、あの女に嫌気がさすかもしれない――
まだ望みは残されている。
結子がそう考えて顔を上げると、夫の顔にも同じ期待が浮かんでいた。彼もまた、その考えに賛同しているらしい。
「ああ、確かにこの数日、大きな契約をまとめたばかりで、どうしても身動きが取れなくてね」
敏史は時宜を得たように頷き、声に無力さを滲ませた。
絵理は二人の胸の内を十分理解していた。
その切実な眼差しを前に、ついに断る言葉を飲み込んだ。
ただ、彼女は誰よりも知っていた――駿が自分のために心を動かすことは絶対にないと。
二人の望みは、最初から報われない運命にあった。
絵理は言われるまま、晴香が勤務する水族館へと向かった。
休憩室で、静かに座る駿の姿が目に入る。
カジュアルな服装に、深く被ったキャップとマスクで端正な顔を覆い、誰かに見つかるのを恐れているかのようだった。
しかし、その手にはピンク色の子豚の保温ボトルを握っており、全身から漂うクールな雰囲気とはあまりにも不釣り合いだった。
絵理の視線がそのボトルに留まった瞬間、彼は鋭く目を上げ、警戒の色を浮かべる。
「君は誰だ?」
「心配しないで、悪意はないから」
絵理は落ち着いた口調で告げた。
その言葉を聞くや、駿の眉がぴくりと動き、冷たい拒絶の声が返った。
「お前たちとは帰らない。諦めろ。神崎家の名門なんて興味はない。俺にとって、晴香以上に大事なものはない」
そんな言葉を、絵理は一度も彼の口から聞いたことがなかった。
かつての彼は、常に優しく、寛容だったのに――
絵理は一瞬、言葉を失い、その場に立ち尽くした。
張り詰めた空気の中、駿は突然立ち上がり、大股で駆け寄る。
水中から上がったばかりの晴香を抱き上げ、袖口で頬の水滴を優しく拭い、手に持つ保温ボトルを差し出した。
晴香は温かいお湯を口に含み、笑顔で駿のマスクを下げ、頬に軽くキスを落とした。
駿の目が深まり、キスを返そうとした瞬間、彼女は素早くマスクを戻した。
「あなたが見つかるのは困るわ」
唇をとがらせた口調には、どこか誇らしげな響きがあった。
その光景を見つめながら、絵理の脳裏に駿が失踪する前の出来事がよぎる。
軽い交通事故で、医師の判断では二日間の入院観察だけで退院可能だったはずなのに、彼は病室から忽然と姿を消した。
最後に監視カメラが捉えたのは――華奢な女性が遺体安置室の担架で彼を運び出す姿だった。
どうりで見つからないはずだ。
誰かに隠され、外に出られないようにされていたのだから。
晴香も絵理の姿に気づくと動きを止め、まるで釘付けになったように固まった。
そして慌てて駿を押しやり、絵理の手首を握りしめ、爪が深く食い込むほどの緊張ぶりだった。
絵理は痛みに眉をひそめるが、晴香は必死に言い訳を口にする。
「私はわざと駿さんを隠したわけじゃないわ!」
絵理はその慌てた瞳を静かに見据え、淡々と返した。
「本当のことは、あなたが一番よく分かっているはずよ」
晴香は逃れられないと悟り、唇を噛みしめて感情を爆発させた。
「わかってるのよ!彼の心には、いつだってあなただけだって!記憶を取り戻したら、私を捨ててあなたのもとへ行くに決まってる!
でも、高校のときに初めて彼を見た瞬間から好きだったの!ずっと片思いで、一度だって振り向いてもらえなかった。やっと掴んだチャンスだったんだもの……
ただ、もう少しだけそばにいて欲しいだけよ。ほんの数日でいいから!」
声は次第にかすれ、泣き声が混じる。
絵理は静かに耳を傾けながら、視線を晴香の背後にいる駿へと移した。
彼の瞳は深く沈み、晴香を一瞬も離さず、全身の筋肉は緊張で張り詰めている。まるで嵐が巻き起こる直前のようだった。
かつて影のように守ってくれた彼は、今や他人の猛犬のように変わっていた。
もし晴香に少しでも危害が及べば、躊躇なく襲いかかるかのように。
絵理は、自分の胸に湧く感情をうまく掴めなかった。
ただ、この人生をやり直した今、駿を自分のそばに縛りつける身勝手はできないとだけは分かっていた。
結局のところ、彼にとって自分は責任でしかなかったのだから。
「怖がらなくていいわ。私はあなたたちを引き離しに来たんじゃない」
絵理は晴香にかすかに微笑みながら告げた。
「二人を神崎家に連れて帰るためよ」
晴香は驚き、信じられない様子で問い返す。
「……私たちを?」
「あなたは彼の大切な人だし、あなたを置いていったら、彼は絶対に帰らないでしょう」
絵理の脳裏に、前世の光景がよみがえる。
当時、無理やり連れ戻された駿は狂ったように檻を壊し、両手を血まみれにしながら三階から飛び降り、晴香を探そうとした。
彼の両親は鎖で彼の手足を縛ったが、駿は危うくそれを切り落としかけた。
這ってでも、晴香のもとへ行こうとしたのだ。
医師が記憶を呼び覚ますと、彼はようやく落ち着いた――だがその直後、晴香の自殺の報せが届いた。
駿は重い病に倒れ、生きる意志をほとんど失ってしまった。
耳元で絵理が必死に、何度も哀願を繰り返し――ようやく彼は目を開いたが、その瞳にはもう、晴香に向けていたときの熱情は二度と宿らなかった。
「荷物をまとめて、駿くんと一緒に神崎家に帰って」
絵理の声は冷静そのもので、微塵も揺らがなかった。
「彼のご両親もあなたのことを知っているの。二人のことは反対してないわ」
第3話
晴香の胸には、幾つもの疑問が渦を巻いていた。
駿の両親は、自分を責めるのではないか。絵理は、自分を憎んでいるのではないか。――問いただしたいことは山ほどあったが、そのすべては、突如押し寄せた喜びにかき消された。
彼女は駿の手を取ると、満面の笑みを浮かべ、振り返って荷造りに取りかかった。
その様子を見て、駿はようやく絵理に悪意がないと悟り、表情を和らげる。
「さっきは悪かった。君が晴香を傷つけるんじゃないかと思って……」
――駿の機嫌は、常に晴香次第だった。
かつて晴香がしつこく絡んできたとき、彼は苛立ちながらも絵理のもとへ駆け込み、わざと困った顔を作って「正妻」としての宣言を促したものだ。
「絵理、ちゃんと言ってやれよ。俺は君だけのものだって。強めにな」
しかめ面で凶悪な表情を真似てみせ、最後には二人して笑い転げ、ソファでじゃれ合った。
――しかし、駿はもう絵理のものではない。
絵理は口元を引き締め、二人を連れて神崎家へ戻った。
駿の両親はわずかに落胆の色を見せたが、すぐに表情を整え、過去の人間関係や出来事を彼に語り始めた。
絵理を紹介する段になると、二人は一瞬ためらった。
「私は、あなたと一緒に育った幼なじみで、かつては妹のように可愛がってくれたのよ」
絵理は自ら口を開き、わざと甘えるような調子で愚痴る。
「私に相手を紹介するって言ってたのに、記憶を失くしてから、ずっと先延ばしなんだから」
事情を知る両親は複雑な表情を浮かべたが、駿は疑うことなく謝り、冗談めかして返す。
「わかった。この件が落ち着いたら、すぐに手配するよ」
そして自然な手つきで絵理の頭を撫で、その馴染み深い感触に、彼自身も一瞬驚いた。
だが、昔から妹のように思っていたのだと考えれば、それ以上は気に留めなかった。
しかし、部屋に散らばる二人の過去の品々を目にすると、心の奥底に微かな違和感が芽生えた。
その感覚を押し殺し、無意識に晴香には見せたくないと思い、すべてを庭へ運び出して燃やそうと決意した。
炎の光で、眠っていた絵理は目を覚ました。
上着を羽織って外に出ると、彼女と駿の思い出の品々が、炎の中で勢いよく燃えていた。
幼い頃の写真、コンテストの賞状、食べ残しのキャンディーの包み紙まで――一つ一つがパチパチと音を立て、灰へと変わっていく。
炎が駿の横顔を明滅させ、月光に照らされた冷たい輪郭が、揺らめく火の中で際立っていた。
絵理の胸は、不意に鋭く締めつけられるように痛んだ。
生まれ変わってからの彼女は、日々を予定で埋め、次々と事に没頭することで心を麻痺させ、感情を封じ込めてきた。
だが、ふと隙が生じれば、抑え込んだ痛みが一気に押し寄せる。
彼女は手のひらを強く握りしめ、駿に気づかれまいと必死で耐えた。
そのとき、駿が振り返り、絵理に気づくと柔らかく微笑んだ。
「昔は互いに独身で、近くにいても問題ないと思ってた」
少し間を置き、真剣な声で続けた。
「でも今は晴香が一緒に住んでる。これを見たら、きっと悲しむだろうと思って燃やしたんだ。気にしないで」
絵理は首を振り、地面に転がる半焼けの木彫り人形を拾い上げた。
それは二人で村里を訪れたとき、彼が崖っぷちで手に入れた「幸福をもたらすお守り」だった。
言い伝えによれば――愛し合う者がそれぞれ一つずつ持てば、幾度生まれ変わっても加護は続くと。
だが、彼がそれを思い出す日は、もう来ないだろう。
「いいのよ」
絵理は静かに言った。
「ちょうどいいわ。私の部屋の人形も、一緒に燃やしましょう」
火の熱が立ち上る中、彼女の体は、まるで氷水に浸したかのように冷えきっていた。
すべての旧い品を燃やし終えると、絵理は背を向けて去ろうとしたが、駿に手首を掴まれた。
無力さを抱えた瞳で、彼は静かに問いかけた。
「ちょっと手伝ってくれないか?」
やがて絵理は、その意図を悟る。
庭では使用人たちが、花火を神崎家の隣の空き地へ運んでいた。
駿も加わり、最後の一山を運び終えると、汗を拭う彼の瞳は夜闇の中でひときわ輝いていた。
「晴香は俺と一緒に戻ってきたばかりで、ずっと緊張してた。一日中慰めてたら、花火を見たいって言い出したんだ」
そして彼は花火を指差した。
「あとで順番に打ち上げると、空に文字が浮かぶんだ。使用人に任せると失敗しそうだから、君に順番を確認してほしい」
絵理は一瞬、呆然と立ち尽くした。
自分を何だと思っているのか――そう問い詰めそうになったが、言葉を発する前に、駿が続けた。
「君を見ると、何だか落ち着くんだ。昔はきっと、君のことを相当信用していたんだろう」
彼の真っ直ぐな眼差しに射抜かれ、「手伝ってくれるかな?」と問われる。
静寂の中、絵理は苦しげにうなずいた。
駿は笑みを浮かべ、手元の袋を差し出した。
「これ、お礼の線香花火だ」
そして、手慣れた仕草で絵理の頭を撫で、大股で立ち去った。
その足取りはせわしなく、待ちきれない様子だった。
花火が一つ、また一つと夜空で花開き、耳をつんざく音が響く。
絵理は見上げ、空に浮かび上がる文字を読み取った。
【朝焼けを仰ぎ、夕雲を眺める。どんな時も、胸には君しかいない】
【花咲く春も、雪舞う冬も。寝て覚めても、愛しいのは君ひとり】
第4話
絵理は、燃え尽きた花火の残り火を、しばらくぼんやりと見つめていた。
夜露が肩を濡らし、寒気が襟元から忍び込んできたとき、ようやく彼女は放心から我に返った。
絵理は上着の襟を正し、踵を返して別荘へと歩みを向けた。
深夜の別荘は静まり返っており、かすかに聞こえるのはキッチンからの物音だけだった。
駿が何かしているらしく、空気には淡い生姜の香りが漂い、電話の向こうから会話が漏れ聞こえてくる。
「駿さん、こんな遅くに生姜湯を作ってくれてありがとう。上がってきたら、ご褒美にキスしてあげる」
晴香の声は、甘ったるく舌に絡みつくようだった。
「一回だけ?」
駿は、わざと茶目っ気たっぷりに返す。
電話の向こうで、晴香は長く「うーん」と唸った後、甘えた声で言った。
「じゃあ二回ね!唇が腫れるくらいキスされちゃったから、これ以上は無理よ。このキス魔め!」
同じ屋敷の中で、ほんの数歩の距離にいながら、わざわざ電話で甘い言葉を交わす――まるで結合双生児のように、一分一秒も離れられない様子だった。
絵理は視線をそらし、足を踏み出そうとしたとき、駿が生姜湯を手にキッチンから現れ、絵理と鉢合わせてしばし固まった。
「外に長くいたから、冷えただろう。これは君にあげる」
そう言って碗を差し出し、振り返ってキッチンで新たに生姜湯を注ぎ足しながら、口早に言い添えた。
その声に、絵理の目頭がわずかに熱くなる。
「女の子の体はもともと繊細だから、大事にしなきゃ。晴香みたいに毎日水に入ってマーメイドショーをしたり、冷たいものばかり飲んだりするなよ。
晴香には俺がいるけど、君は一人なんだから、なおさら気をつけないと」
新たに注いだ生姜湯を手に、駿は笑みを浮かべて付け加える。
「でも、すぐにいい男を見つけて、君を守らせるのもありだな」
窓の外からは、花火を片付ける使用人たちの足音と雑談が、途切れ途切れに聞こえてくる。
「駿様が行方不明になって以来、こんな遅くまで働くのは久しぶりよね」
「まったくよ。昔は桜庭さんによくサプライズを用意して、花畑に流れ灯を浮かべたりして……片付けは大変だけど、お給料は良かったわ」
声をひそめた一人がつぶやく。
「桜庭さんも気の毒よね。駿様を数ヶ月も探して、やっと見つけたと思ったら、彼女のことを忘れてる上に、別の女を連れて帰ってくるなんて……精神的に追い詰めてるようなもんじゃない」
「かつて駿様は一途な方だと思ってたけど……所詮男ってみんな同じね」
絵理は目を伏せ、こみ上げる熱を押し込み、ようやく冷静に答えた。
「そうね」
だが、心の中では分かっていた。今の自分の体調では、誰かと付き合うことさえ負担になると。
駿は平然とした顔で、「よく休め」とだけ告げ、階上へ上がっていった。
――彼は、使用人たちの会話を聞いていただろうか。
そう考えた瞬間、生姜湯を持つ絵理の手が突然痺れ、数秒で感覚を失った。
「ガシャーン」という音とともに、碗が床に落ち、粉々に砕け散った。
絵理は推測する気力も湧かず、冷静を装いながら、しゃがみ込んで破片を拾い上げた。
そして心の奥で思う――ALSの症状は、こんなにも早く現れるもので、前世ではまったく気づかなかったと。
この小さな異変を、絵理は誰にも話さず、ただ黙って数日をやり過ごした。
感情が渦巻き、溺れそうになるときは、無理やり眠りに落ち、夢の中でせめての静寂を求めた。
しかし、その数日間も、庭からの作業音にたびたび目を覚ます。
作業員が窓辺の彼女を見つけ、進んで説明した。
「小日向さんは蓮の花がお好きで、駿様がブランコを撤去して蓮池に作り替えるよう指示されたんです。来年の夏には咲くそうですよ」
絵理は唇を噛み締め、藤の花が絡まったブランコの残骸を静かに見つめた。それは、あの夜に灰となった写真のようだった。
かつて毎年の誕生日、駿は必ず朝早くから絵理の枕元で待ち、彼女が目を開けた瞬間に引っ張り出して藤の花のブランコのそばへ連れて行き、写真を撮っていた。
紫の花々が降りそそぐように頭上を覆い、二人の笑顔をやわらかく縁取る。駿の瞳に映る光は、いつだって絵理だけだった。
「二十枚写真を撮り終えたら、俺と結婚してくれよ」
あの頃、駿は強引にそう宣言していた。
そして今、藤の花は満開で、写真も最後の一枚を残すのみだった。
駿はそのことを忘れ、絵理も口にできなかった――夏もまた、藤の花の季節だということを。
やがて、庭一面が蓮の種で覆われた頃、晴香が庭で絵理の行く手を塞いだ。
顎を高く上げ、薬指の指輪をこれ見よがしに示す。
「駿さんが部屋でこの指輪のデザイン画を見つけて、将来の花嫁用だとすぐに気づいたの。これを連日かけて作ってくれたのよ。私にプロポーズしてくれたの」
彼女は手を揺らし、指輪を誇らしげに見せた。
「素敵でしょ?」
鳥と魚をあしらったモチーフ――それは、かつて絵理が最も愛したデザインだった。
絵理はうなずき、誠実な口調で答える。
「とても素敵よ。あなたにピッタリね」
だが、晴香の表情は急に険しくなった。
「でも、私は好きじゃないわ。これが誰のために作られたものか、お互い分かってるはずよ」
そして鋭い眼差しで絵理を射抜く。
「あなたはいつも駿さんに気がないって言うけど、彼がかつてあなたに抱いていた想いは、時限爆弾みたいで不安なの」
「じゃあ、どうしたいの?」
絵理が問う。
「私は……」
言葉の続きを待つ間もなく、晴香は突然身を翻し、整備されたばかりの蓮池へ飛び込んだ――
第5話
絵理は突然、強い力で押され、よろめきながら地面に倒れ込んだ。
足首に鋭い痛みが走り、手のひらは小石にぶつかり、焼けるような痛みが腕へと広がる。
立ち上がる間もなく、駿は狂ったように水中へ飛び込み、晴香を抱き上げて岸へと引き戻した。二人は泥水まみれで、見るも無惨な姿だった。
駿は自分のことなど顧みず、晴香の顔の泥を拭いながら、焦った声を上げる。
「晴香!大丈夫か?喉に水は入ってないか?目は痛くないか?傷はないか?」
晴香はしばらくしてから首を振り、駿を見上げ、唇を尖らせて涙を止めどなく流した。
「私は大丈夫よ……でも、あなたがくれた指輪を誰かに投げられて……拾おうとして落ちたの」
そう言いながら差し出した手には、もはや指輪の影もなかった。
「駿さん……私は、神崎家から歓迎されてないわ」
彼女は嗚咽まじりに続けた。
「昔のアパートに戻りましょう。少なくとも、あそこなら誰にもいじめられないわ……」
その哀れな様子が、駿の胸を一瞬で締めつける。
彼は核心を見抜き、目を鋭く光らせた。
「誰がそんなことをした?誰が意地悪したんだ?」
晴香は唇を噛み、黙ったまま、恐る恐る絵理を見た。その瞳に宿る恐怖と悲しみは、暗示としてあまりにも明白だった。
絵理は腫れた足首を押さえ、信じられない思いで口を開く。
「私じゃないわ……」
しかし駿の冷たい視線が突き刺さる。
「私には、指輪を奪う理由なんてない……」と、絵理は声を詰まらせた。
「自分の胸に聞くんだな」
駿はそう言い捨て、晴香を抱き上げたまま振り返り、護衛に目配せした。
「指輪を投げた奴は、自分で水に潜って取り戻せ」
護衛はすぐに理解し、絵理を強引に水中へ押し込んだ。
冬の池水は凍りつくように冷たく、絵理は全身を震わせながら岸を目指すが、肩を押さえつけられ、何度も押し戻される。
「桜庭さん、指輪が見つかるまで上げられません」
護衛の声は冷たく、非情だった。
「上がりたいなら、早く探してください」
唇を噛み締めた絵理は、血の味をかすかに感じながら、泥水の中で指を伸ばし、必死に指輪を探した。水が袖口から入り込み、指先は凍えて痺れ、感覚を失っていった。
駿は池のほとりに立ち、冷ややかな目で彼女を見下ろした。
何度も屈み、水を飲む絵理の喉元を見て、わずかに胸が痛む瞬間もあったが、晴香の涙で赤く染まった瞳が脳裏をよぎり、ただ拳を握りしめるだけだった。
夜明けから日没まで、そして駿の両親が戻る直前まで、絵理は凍えながら探し続け、ついに指輪を手にした。
そのデザインはあまりにも馴染み深い――前世で駿が絵理に婚約の証として贈ったものだった。
絵理の唇は紫色に変わり、血色を失った全身には凍傷の痕が浮かび、立ち上がる余力すらほとんど残ってなかった。
絵理は指輪を握りしめ、駿の部屋の前までゆっくり歩き、そっとノックした。
部屋の中の調子の良い声が途端に途切れる。
駿がドアを開き、指輪を受け取った瞬間、指先が絵理の手に触れ、火傷したようにすぐ引っ込める。
彼は眉をひそめ、重々しく見つめた。
「今回は勘弁してやるが、今後は晴香から離れろ。昔のよしみで、妹として見てやる」
絵理は震える声で問う。
「今までも……妹として見てきたんじゃないの?」
「どうだかな」
駿はそう答え、突然手を伸ばして絵理のあごを掴んだ。その目は鋭く、眉間を切り裂くかのようだった。
「この数日、使用人たちが昔の話を耳元で囁いている。君はわざと俺好みに合わせた格好をして、俺の前をうろついている。本当に下心がないと言えるのか?」
絵理は呆然と瞬きをした。
あの夜、彼は使用人たちの会話を聞いていた――だが、それを彼女のせいにしているのだ。
この数日間、絵理は駿を避け続け、あえて目立たぬ服ばかりを選んでいたにも関わらず。
弁解の暇もなく、駿は手を放し、嫌悪を隠さず手を拭った。
「これ以上、小細工はやめろ。俺の心には晴香しかいない。君の思惑など無意味だ」
言い終えると、彼は掌を返し、指輪を窓の外へ投げ捨てた。指輪は静かに弧を描き、深い夜の闇へと沈んでいった。
「晴香はそのデザインが気に入らないようだ。新しく作り直す」
闇に消える指輪を見つめ、絵理の口元が歪んだ。
――それもそうだ。彼が過去を重荷と決めつけた以上、あの指輪を受け入れるはずもない。
部屋に戻り、徹底的に身を清めた絵理は、駿の両親に異変を悟られぬよう、いつも通り夕食を共にした。
彼女は誰より知っていた。今の駿は記憶に縛られており、晴香は弱みを見せるのが巧みで、真実を告げても嫉妬だとしか受け取られないことを。
無意味なことだ――そう悟っても、絵理は眠れなかった。
頭の中では、先ほどの駿の冷たい視線が何度も過り、そこに宿る見知らぬ拒絶が、針のように胸を刺す。絵理は天井を見つめながら、心臓の一部が欠けたような感覚を覚えた。
――ただ慣れ親しんだ気遣いを失っただけだと、自分に言い聞かせた。
だが寝返りを繰り返すうちに耐えきれず、深夜ベッドを抜け出して庭へ走った。そして記憶を頼りに草むらを探る。
なぜ取り戻そうとしているのか、自分でもわからない。
ただ、真心を込めてもらった指輪を、捨てられたままにしておきたくなかったのかもしれない。
ついに指先が冷たい金属に触れ、握りしめた瞬間、背後の別荘に――炎が天を覆うかのように立ち上った。
第6話
「大変だー!火事だー!救助を急げー!」
炎は夜の闇を切り裂き、夜空を紅に染め上げていた。
「水源を確保しろ!すぐに消防に連絡を!」
辺りは消火活動の怒号と器具の衝突音に包まれ、絵理は安全な場所から一歩も動かなかった。いま無闇に動けば、かえって混乱を招くと分かっていたからだ。
騒然とした中、泣き声を交えた晴香の声が、途切れ途切れに耳へ届く。
「……駿さん!行っちゃダメ!さっき私を守るために梁にぶつかったばかりで、まだ怪我してるでしょ!あんな女のために危険を冒す価値なんてないわ!あなたに何かあったら、私はどうすればいいの?」
その先は炎と喧騒にかき消されたが、耳を澄ませていた絵理は、不意に自分の名を呼ぶはっきりとした声を聞き取った。
「絵理!」
顔を上げると、駿が二階の絵理の部屋の窓際に立っていた。揺れる炎の光がその姿を際立たせ、額には焦燥の汗が滲んでいる。
「絵理!どこにいる!返事をしろ!」
絵理は声を振り絞って応えたが、その声はすでにかすれていた。
炎に照らされた駿の必死な表情を見て、絵理の胸に複雑な感情が渦を巻く。
胸の奥で、声なき叫びがもがいた。
――ほら、やっぱり。記憶を失っても、彼は助けに来る。これは骨の髄まで刻まれた守護本能よ。
しかし、冷静なもうひとつの声が反論する。
――前世から知っていたはず。彼の心は二つに分かれ、半分は晴香のもので、もう半分はあなたへの責任感よ。
これは愛じゃない。それでも求めるの?
答えは、心の奥底で明瞭に浮かび上がった。
その瞬間、駿が窓枠から飛び降り、絵理の前に立つ。
背中には、梁の下敷きになったときの傷から血がにじんでいた。明らかに、先ほど晴香を救った際のものだ。
すぐに晴香も駆け寄り、駿の胸へ飛び込むように抱きしめた。振り向いた視線は絵理に向けられ、悔しげで満ちていた。
「桜庭さん、もう過去のことは追及しないつもりだったのに、どうして放火したの?駿さんがいつも私のそばにいるって分かってて、こんなことをすれば彼まで巻き込まれるのよ!」
絵理は静かにその芝居じみた口ぶりを見つめ、異様なほど冷静に駿へ視線を移した。
彼の額には、痛みによる冷や汗が滲んでいた。
「私じゃないと言ったら、信じてくれる?」
駿は重苦しい視線で返すだけで、答えなかった。
――彼は信じてない。絵理はそう悟った。
命の危険を冒してまで救いに来ても、彼の心に響くのは晴香の言葉の方だった。
「晴香に手を出すなら、代償を払ってもらうぞ」
駿の声は冷たく、氷の刃のように鋭いものだった。
「警察に引き渡して罪を償わせる。罰を受ければ、もう好き勝手はできなくなるだろう」
絵理の脳裏に、蓮池へ飛び込む直前の晴香の言葉がよみがえる――「私は、もちろん……」
その言葉の真意は、駿に自分の危険な意図を確信させ、たとえ記憶を取り戻しても、嫌悪しか残させないことにあった。
絵理は心の中で、その続きを補った。
晴香が自分の存在に不安を覚え、自分も二人の関係の妨げになりたくないのなら――いっそ全員の望みを叶えてやろう。
駿が将来自分を思い出すとしても、その心にはすでに晴香を守る印が刻まれているだろう。
過去に彼が自分を世話してくれたことへの恩返しとして。そして、最期に告げた願いを叶えるためにも。
絵理はふと笑みを浮かべ、自嘲気味に言った。
「残念だけど、帝都中を探しても私を捕まえられる人はいないわ。それに、ご両親が私の刑務所行きを許すはずがない」
その一言が、火のついた導火線のように駿の怒りを爆発させた。
絵理はさらに二歩踏み出し、指先が彼の胸に触れそうな距離で囁いた。
「でも……さっき火の中に飛び込んできたのは、もしかして――私に未練があって、気があるからなんじゃないの?」
――パシッ!
手首を激しくはじかれ、鋭い痛みが走る。
駿は彼女の首をつかみ、怒りに笑みを混ぜて言った。
「犬だって中に閉じ込められていれば助ける。でも君は、犬以下だ。犬の方がまだ役に立つからな」
冷たい眼差しで駿は続ける。
「俺は晴香を選んだ。君という権力まみれの元恋人を隣に立たせることで、彼女は婚約パーティーでさらに輝くだろう」
喉を締め上げられた絵理の顔は瞬く間に赤く染まり、必死に彼の手首を叩くことしかできなかった。
やがて駿は手を離し、ゴミでも捨てるように絵理を突き飛ばすと、晴香を伴って背を向けた。
「三日後の婚約パーティーには、時間通り出席しろ」
地面に崩れ落ちた絵理は、激しく咳き込みながらも、晴香の複雑な視線を受けてわずかに笑った。
「必ず出席するわ」
――三日後、絵理の任務はついに完了する。
駿の両親は晴香に心のわだかまりを抱えていたが、息子の強い意志には逆らえなかった。
息子を思う気持ちから、渋々ながらも婚約パーティーの準備に取りかかった。駿が細部に至るまで手配していたこともあり、宴は豪華絢爛を極めた。
会場は着飾った客であふれ、政財界の名士たちも顔をそろえていた。
小声で交わされる会話は、この日の主役の話題で持ちきりだった。
「お相手は小日向晴香さんだそうだけど……駿さんの昔の恋人は、確か桜庭さんじゃなかったかしら?」
「知らないの?駿さんはしばらく前に記憶を失って行方不明になり、戻ってきた頃には、あの小日向さんを婚約者として迎え入れたのよ」
「以前は桜庭さんにあんなに夢中だったのにね……」
年配の女性が会場の隅を顎で示し、まるで背景の影のように存在感を消している絵理を見やって、ため息をもらす。
「あの二人が幼なじみだと聞いて、これほどの縁ならと思い、孫娘には近づかせなかったんだけど。こんなことなら、うちの子にも挑戦させればよかったわ!」
第7話
「やめて正解よ。小さい頃から守ってきた幼なじみですら、あっさり捨てられるんだし。本当に嫁がせたら、これからの苦労は計り知れないわ」
「……もう昔の話はやめましょう」
幾つもの感慨めいた言葉が、途切れ途切れに絵理の耳に届く。
彼女は虚しく口元を引きつらせたが、その瞬間、会場中の話し声が消え、静寂が針の音すら聞こえるほどに支配した。
晴香はトップブランドのドレスに身を包み、煌びやかな宝飾を纏って現れた。顔には眩しいほどの笑みを浮かべ、誰もが目を奪われる。
彼女は案内されるまま、優雅に宴会場の中央へ進み、長い階段の先で人々の視線に囲まれ立ち止まった。
駿はその手を握り、瞳には溢れんばかりの優しい光を宿していた。
「皆さま――」
彼は咳払いをして、いつもの気だるい雰囲気を脱ぎ捨て、格式ある清冽な声で紹介する。
「改めて、ご紹介させていただきます……」
だがその瞬間、宴会場の照明が二度、瞬きのように点滅し、完全に消えた。
暗闇の中、椅子や机の衝突音、人々の悲鳴が入り混じり、現場は一気に混乱の渦と化す。
絵理は咄嗟に隅へ下がろうとしたが、突然手首を掴まれ、鼻を突く異臭を含んだハンカチで口と鼻を塞がれた。
天地がひっくり返る感覚に襲われ、必死にもがいたが、意識が遠のく最後の瞬間に耳に残ったのは、耳をつんざく悲鳴だけだった。
どれほどの時間が過ぎただろうか――混沌の中、晴香の意図的に低く抑えた叫びが聞こえた。
「……ったく!パーティー会場で手を出すんじゃないわよ!私を拉致して桜庭絵理に罪を押しつけろと言ったのに、何で彼女まで連れてきちゃったわけ?この役立たずどもめ!どんなに上手く芝居を打っても、残金なんて渡さないわ!あんたたちのせいで私の計画は台無しよ!」
絵理の意識が徐々に戻り、瞬時に状況を理解した。
またもや晴香が仕掛けた罠だったが、今回の騒動はあまりにも大規模で、明らかに彼女の掌握を超えていた。
「兄貴、この女、まさか気が動転してるんじゃないですか?拉致されてるってのに、値切るなんて……」
拉致犯の一人が頭をかきながら、呆れた顔でつぶやいた。
主犯格は苛立ち、横にあったドラム缶を蹴飛ばした。大きな衝撃音が響き渡り、船体全体が揺れる。
「奴を殴って気絶させろ!うるさくて頭が痛い!」
鈍い音のあと、晴香の声は途絶えた。
絵理は意識を失ったふりを続けながら、指先を静かに丸める。
先ほどの抵抗で、相手の腰に銃のホルスターを感じ取った。
この連中は、晴香が雇ったチンピラなどではない。
フェリーのエンジン音が響き、海の波が打ち寄せる。潮の香る海風が隙間から入り込み、不安を掻き立てた。
さらに絵理の心を沈ませたのは、主犯格の声の馴染み深さだった。
つい最近のビジネス戦争で、駿に追い詰められた宿敵――
この連中は、明らかに晴香のいたずらに協力するためだけに来たわけではない。
船がしばらく航行した後、拉致犯たちはようやくビデオ電話をかけた。
「神崎、お前の今と昔の女どもを預かっている。どちらかを選ぶチャンスをやるよ。どっちにする?」
カメラは並んで横たわる絵理と晴香に向けられた。豪華なドレスはシワだらけで、二人の顔色は真っ青で目を閉じている。
「一方は二十年来の幼なじみの元カノ、もう一方は失踪後に記憶を失ったお前が愛を誓った女だ。さあ、どっちを選ぶ?」
後方では、幾つもの神崎グループのヨットが必死に追跡していた。
駿は水中に潜む伏兵に目をやりつつ、表面では冷静を装っていた。しかし、晴香の肩に残る赤い痕を見た瞬間、理性を失う。
「晴香に指一本でも触れたら、お前ら二階堂(にかいどう)家全員まとめて葬る!」
絵理は目を閉じていたが、抑えきれずに目尻が熱くなり、涙がこぼれ落ちた。
期待する必要もなかった。彼女は、駿の選択を最初から予測できていたのだ。
すると拉致犯は高笑いし、嘲るように言った。
「本気で選ばせると思ったのか?」
言い終わらぬうちに、絵理は引きずられ、ガラスケースに押し込まれた。隣には温かい身体がぴったりと寄り添っている。
二人を入れたケースは海に投げ込まれ、巨大な水しぶきを上げた。ケースの底には石が縛りつけられ、急速に沈み始める。
幸い、絵理は意識を失ったふりをしていたため、まだ抵抗する力は残っていた。
素早くハイヒールを脱ぎ、硬い金属のヒールでガラス面を叩きつけた。
激流がガラスの破片を巻き込み、手足を切り裂いたが、絵理は歯を食いしばり、気絶している晴香を引きずり出し、必死に水面へ泳ぎ出した。
ようやく浮上したとき、絵理はほとんど力尽きていたが、止まるわけにはいかず、晴香を浮き木に乗せ、指先でそっと彼女の頬をつついた。
「せめてあなたはしっかり生きて」
晴香が生きていてこそ、駿の一生の執着に終止符が打たれるのだ。
絵理が浮き木を押しながら岸へ向かう途中、突然発作を起こし、腕の感覚を瞬時に失った。彼女は浮き木を放すしかなく、無力に深海へ沈んでいく。
絵理は大きく目を見開き、水面に反射する光を見つめ、命尽きる結末を受け入れた。
――まあ、これでいい。
意識が完全に消える前に、誰かが必死で手を差し伸べる幻覚を見たような気がした……
そして再び目を開けると、目に入ったのは病院の白い天井だった。
看護師が駆け寄り、興奮気味に言う。
「よかった!ついに目が覚めたんですね!二日間も昏睡されてたんですよ。もし意識が戻らなかったら、身元不明として抗生物質の投与も中止されて、肺の感染症が悪化するところでしたよ!」
絵理はかすれた声で尋ねる。
「私が昏睡している間、お見舞いに来た人はいますか?」
「……いいえ」
看護師はため息をつく。
「お気の毒に。あの日、あなたと一緒に運ばれた女性は、少し水を飲んだだけで、彼氏さんがすぐVIPルームを手配され、ずっと付き添われています」
絵理は一瞬驚き、すぐに安堵の笑みを浮かべた。
その時、病室の扉が軽くノックされ、聞き覚えのある声が響いた。
「絵理……」
彼女は飛び上がるように顔を上げ、長身の姿を見た瞬間、涙が一気に溢れ出た。
「連絡がつかなかったから、自分で来たよ」
彼はベッド脇まで歩み寄り、絵理をしっかりと抱きしめ、大きな手でそっと彼女の髪を撫でた。
「さあ、兄さんと一緒に帰ろう」
長く抑え込んでいた感情が一気に解放され、絵理は息もできないほど泣きじゃくり、ただひたすら頷いた。
彼女がベッドから立ち上がろうとした瞬間、足がふらつき転びそうになった。彼は慌てて支え、看護師もすぐに手を貸した。
「彼女は意識が戻ったばかりで、身体が弱っています」
三人はゆっくりとエレベーターへ向かい、看護師は思わず尋ねた。
「どちらに連れて行かれるのですか?」
「屋上です」
彼の声は穏やかだった。
「ヘリが待っていますので」
看護師は一瞬戸惑いながらも、絵理の腕を支えた。
自家用ジェットは雲を突き抜け、異国へ向けて力強く飛び去っていった。
絵理は最後の涙を拭い、窓の外の空を見つめながら、心の中でそっと別れを告げた。
――神崎駿、あなたと小日向晴香の幸せを祈ってるわ。
これっきり、永遠にさようなら。