深き想いを抱き、薄き冷たさへ

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深き想いを抱き、薄き冷たさへ

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「この特効薬を打てば、一時的に生命力は回復する。ただし効き目は七日だけ。七日が過ぎれば、間違いなく死ぬ」 「急いで打ちな!藤瀬さんがも...

Chương (1)

第1章

「この特効薬を打てば、一時的に生命力は回復する。ただし効き目は七日だけ。七日が過ぎれば、間違いなく死ぬ」 「急いで打ちな!藤瀬さんがもうすぐ迎えに来るんだ。とにかくうちの精神病院で死なれなきゃいい。外に出たあとどこでくたばろうが知ったこっちゃない!」 戸原涼音(とばら すずね)は床で身を縮めていた。その体は止まることなく震え続け、顔色は紙のように真っ白だった。半ば死にかけた脳はもう思考を手放し、ただ目を見開いたまま、介護士たちが自分の生死を論じるのを聞いていた。 第1話 「この特効薬を打てば、一時的に生命力は回復する。ただし効き目は七日だけ。七日が過ぎれば、間違いなく死ぬ」 「急いで打ちな!藤瀬さんがもうすぐ迎えに来るんだ。とにかくうちの精神病院で死なれなきゃいい。外に出たあとどこでくたばろうが知ったこっちゃない!」 戸原涼音(とばら すずね)は床で身を縮めていた。その体は止まることなく震え続け、顔色は紙のように真っ白だった。半ば死にかけた脳はもう思考を手放し、ただ目を見開いたまま、介護士たちが自分の生死を論じるのを聞いていた。 冷たい液体が血肉に溶け込む。全身が激しく痙攣し、やがて長い時間ののち、ようやく静けさが戻った。 介護士たちは顔が冷え切っていた。彼らは涼音の足をつかみ、ずるずると引きずって、こざっぱりと温かみのある病室に放り込む。まるで、最初からここが彼女の病室だったとでも言うように。 けれど、真実は違う。今日この瞬間まで、彼女がいたのは光の差さぬ地下室。そこにはベッドすらなかった。 「涼音、ほら、誰が迎えに来たと思う?」さっきまで凶相だった介護士が、甘ったるい声で囁く。さっきとは別人のようだ。 病室のドアが開く。藤瀬西洲(ふじせ さいしゅう)の、しなやかで端正な影が現れた。 逆光の中に立つ彼の深い造作に、光と影が斑に落ちる。理不尽なほど、綺麗だった。 涼音の瞳がかすかに揺れる。焦点の合わない目で、やっとの思いで西洲を見上げる。喉がひくりと鳴ったのに、言葉は一つも出てこない。 おじさん、やっと迎えに来てくれたの? どうして、今回はこんなに遅かったの? 涼音は西洲に育てられた。だが彼は彼女の血の繋がったおじさんではない。父の友人にすぎない。 彼女が幼い頃、両親は事故で同時にこの世を去った。孤児院にいた彼女を抱き上げ、連れ帰ったのが西洲だった。 あの日、孤児院で。彼は壊れ物でも抱くように、そっと彼女を腕に収めた。 「涼音、やっとお前を見つけた。大丈夫、怖くない。これからおじさんは、誰にもお前を傷つけさせない」 光のない彼女の人生に、その日、一筋の光が差し込んだ。 現実と記憶が重なり、涼音の瞳に微かな涙の光が揺れる。おじさん、やっと迎えに来てくれたんだ。やっぱり、来てくれるって…… その涙がこぼれるより早く、艶やかな声が横から差し込んだ。「西洲、涼音は見つかった?」 そこで初めて、西洲の隣に女がいると気づく。 白石月綺(しらいし つきあや)が西洲の腕に絡みつき、しなやかな体を寄せながら、勝者の微笑を浮かべていた。 涼音はぽかんとした。死にかけの脳が、ようやく軋みを上げて回り出す。そうだ。忘れてた。おじさんには、もう月綺がいるんだ。 以前、おじさんが彼女を精神病院に送ったのも、月綺のためだった。 おじさんは「頭が狂っている」と言って、自らの手で彼女をここへ運び込んだ。ここでちゃんとしつけを受けて、心の雑念を取り除けと…… 今の自分は、本当に狂ってしまったのかな。こんな大事なことまで忘れるなんてって涼音は思う。 「涼音、私たち、迎えに来たのよ」月綺がにっこりと歩み寄り、姉妹のように親しげに涼音の手を握る。「ここでの暮らしはどう?お医者さんや介護士さんに、いじめられてない?」 いじめ?それは、どこからがいじめなんだろう。 冬、服をはぎ取られて、他の患者たちと一緒に凍った地面に立たされた。そして、介護士が高圧の水を、冷たい噴流を容赦なく浴びせて、それを「お風呂」と呼んでいた。これは、いじめかな? 言うことを聞かなければ、細い針で指先を刺された。深く刺さりすぎて、あとから抜けなくなった針は、そのまま肉に埋まった。これも、いじめ? 殴打、罵倒、電撃、モラハラ…… これらを「いじめ」とひとくくりにするのは、あまりにも生ぬるい。 ふと我に返ると、月綺の指先で何かがきらりと光り、涼音の目を刺した。 無意識に視線を落とす。月綺の薬指に、見覚えのありすぎるブルーダイヤの指輪が嵌っている。 「やだ、バレちゃった」月綺は頬を染める仕草をしてみせる。「私、あなたのおじさんと婚約したの。来週には結婚よ。この婚約指輪、どこか見覚えない?西洲はね、あなたのデザインしたダイヤの指輪で、私にプロポーズしたの」 ああ、そういうこと。涼音は笑った。道理で見覚えがあるわけだ。 それは、おじさんのために彼女がデザインした、告白の指輪だった。 名は「海枯」。海が枯れ、石が砕けても、愛は微塵も衰えない――そんな意味を込めた指輪。 あのときおじさんは、なんて返したんだっけ。 ああ、そうだ。 「涼音。お前、頭がどうかしてるのか?俺はお前のおじさんだ。お前の法的な保護者だぞ。そんな感情を向けるなんて、背徳で乱倫だ。自分で気持ち悪いと思わないのか?」 もうすぐ死ぬからだろうか。以前なら彼女を完全に打ち砕いたはずの出来事が、今は妙に静かに受け止められる。 「おめでとう」涼音は淡々と言った。悲しみも喜びもない、ただの痺れた声で。「その指輪、サイズは合ってる?合わないなら、私が直す」 何しろ自分の作品だ。デザイナーは、自分の作品を勝手にいじられるのを好まない。 だというのに、西洲の目がすっと冷えた。「誰を馬鹿にしてる?」 自分のプロポーズの指輪に向かって、真っ先にサイズが合うかと訊く。それはつまり、この指輪は月綺のものではなく、自分のものだと暗に言っているのと同じだろう。 まったく、三つ子の魂百まで。本性は変わらない。 第2話 「お前、ここに三年いたくらいじゃまだ足りないな」 西洲は氷のような声で言い放った。「自分の何が間違っていたのか、まるで分かってないじゃないか!」 涼音は茫然とした顔をした。薬のせいなのか、それとも三年も狂った人たちと暮らしたせいなのか、もう普通の人の考え方が分からなくなっている。 どうしておじさんは、急に怒ったの? 自分が、言うことを聞かなかったから? でも、何もしてないのに…… 「もう、そんな言い方しないで」月綺が慌てて場を収める。「涼音だってもう悪かったって分かってるわ。それに、私たち来週には結婚するじゃない。まさか結婚式にだって、涼音を出席させないつもり?」 月綺の取りなしで、西洲はようやく怒りを収めた。だが精神病院を出ると、またたちまち顔が陰った。 涼音が、裸足でついて来ていたからだ。 真冬、地面には厚く雪が積もっている。けれど涼音は、寒さなど感じないかのように、素足で白い雪を踏みしめていた。 「誰に同情でも買うつもりだ?」彼の声は冬の寒風よりも冷たかった。 けれど実のところ、彼女は同情を買おうとしていたわけではない。精神病院では、ずっと靴を履かせてもらえなかったのだ。 もし西洲に、ほんの少しでも辛抱があって、涼音の足をよく見ていたなら、雪に沈む足の甲いっぱいに、しもやけができているのが分かったはずだ。 けれど彼は、二度目の視線を向けることはしなかった。 「哀れを売るっていうなら、とことんやれ。一人で歩いて帰れ」 冷ややかに言い捨てると、西洲は月綺を連れて、さっさと去っていった。 彼は気づきもしなかった。涼音が薄いパジャマ一枚しか身につけていないことに。 空にはまだ雪が舞い、吹きつける風は骨の髄まで痛む。 涼音は裸足のまま、しびれた足で一歩、一歩、無感覚に前へ進む。 寒い…… おじさん、絶対に私を置いていかないって言ったよね? どうして、また置いていくの…… 家に戻ったときには、涼音の体はもう冷え切って何も感じなかった。 自分でも驚いた。まだ家への道を覚えていたなんて。 けれど、夢にまで見た家は、もうすっかり様変わりしていた。 月綺は女主人のように尊大にソファへ腰かけていた。「涼音、西洲は用事で出かけたわ。今、家にいるのは私たちだけ。いい子にして、余計なことは言わないでね。そうしないと西洲が怒って、また精神病院に戻されるわよ」 涼音はその場に棒立ちのまま。まるで何を言われているのか分からないかのように、虚ろな目で、無表情だ。 「こいつ、どうしたの?本当に馬鹿になったんじゃないの?」月綺は隣の者に尋ね、眉をひそめて嫌悪を浮かべる。 「精神病院から出たら、狂ってなくても馬鹿になるさ」 月綺の母が冷笑した。「心配いらないわ、月綺。前もって院長に話を通して、『手厚くご招待』しておいたの。この小娘の体はもうほとんど壊れてるし、頭もはっきりしない。あなたの脅威にはならないよ」 それを聞いて、月綺はようやく胸をなでおろした。 夕方、ようやく西洲が帰ってきた。 自分の寛容さと善良さを演出し、ついでに涼音の全身の傷跡を隠すために、月綺は彼が戻る前から、使用人に命じて涼音を新しい服に着替えさせていた。 頭の先から足の先まで、きっちり包まれて。足には可愛らしいクリスマスソックスまで。 飾り立てられた彼女は、欠けひとつない人形のように、きれいで精巧に見えた。 だが、豪奢な衣の下では、虱が繁殖していた…… 「西洲、お帰り。お腹すいたでしょう?さあ、食事にしよう」月綺は優雅に、優しげに微笑む。「涼音、テレビはもうやめて。さあ、食べよう。あなたの大好物、甘酢あんかけの魚を作ったの」 言われるままダイニングに来た涼音は、皿の魚に手を伸ばし、そのまま掴んで口へ運んだ。 その場の全員が凍りつき、信じられないものを見る目で涼音を見つめた。 涼音はまた、茫然とした顔になる。どうしたの?食べていいんじゃないの? 精神病院では、介護士が食べ物を床に投げ捨てる。彼女たちは、野良犬みたいに狂ったように奪い合って食べる。 箸も、スプーンもない。掴んだらすぐに口へ押し込む。そうしないと、食べ物は奪われてしまうから…… 吐き気のする、汚れた犬の餌みたいな食事でさえ、奪い合わなければ、腹は満たせないのだ。 第3話 「涼音、何してるの?」月綺が慌てて口を開く。「分かってるわよ、今日おじさんが一人で歩いて帰れって罰を与えたから、あなた怒ってるんでしょ……でも、だからってそんなやり方で不満をぶつけるのはダメよ」 たった二言三言で、極限の環境で身についた習慣を、故意の挑発にすり替えてみせる。 案の定、西洲の顔は暗く陰った。怒りを押し殺すように言い放つ。「涼音。ちゃんと飯が食えないなら食うなよ。部屋に戻って反省してろ。俺の命令があるまで、一歩も部屋から出るな」 本当は食べたかった。あの精神病院では、カビたパンに砂の混じった飯……目の前の魚は本当においしい。たとえ、それが月綺の手料理でも。 けれどおじさんが「食うな」と言う。 涼音は手に掴んでいた魚をそっと皿に戻し、少しだけ悔しさを宿した目でおじさんを見上げた。 おじさんは、どうしてまた怒ってるの?子どもの頃は、決して自分に怒らなかったのに。 幼い頃、どんな無茶なお願いでも、おじさんは叶えてくれた。暗闇が怖くて一人で眠れないと言えば、ベッドのそばで自分が眠りにつくまで黙って見守ってくれた。おとぎ話の中の姫さまにはみんなお城がある、と言っておじさんの裾を引けば、本当に島をひとつ買って、自分のために城を建ててくれた…… いったい何があったの?どうして全部が変わってしまったの?自分を大事にしてくれたおじさんが、どうして今度は自分を地獄へ突き落とすの? そのまま二日二晩、閉じ込められた。その間、使用人が持ってきたのは二杯の水だけ。西洲は本気で彼女を躾けるつもりらしく、水以外のものは一切口にさせなかった。 それでも、水があるだけまし。透き通っていて、口に含むと甘い。 精神病院にいたときは、水にさえ砂が混ざっていたのだから。 飢えでほとんど気を失いかけた頃、ようやく西洲が鍵を開けた。 「今度は、ちゃんと食えるようになったか?」男は見下ろすように問いただす。 涼音は無表情のまま、こくりと頷く。そして西洲の視線を感じながら、おぼつかない手つきで箸を取り、震える指でおかずを摘もうとした。 ああ、思い出した。普通の人は、手づかみで口に押し込んだりしないんだ。 やっぱり自分は狂ってしまったんだ。どうりでいつもおじさんを怒らせてしまうわけだ。自分が、もうおかしくなってるから。 長く飢えたせいで急に食べたものを胃が受けつけなかったのか、それとも体がもう限界に達していたのか。数口食べたところで、喉の奥に甘いものが込み上げ、伏せたまま制御できずに吐き出してしまった。 最初は食べもの。次には、血。 白いカーペットが、食べカスと鮮血で汚れていく。涼音は、はっとして慌てた。普通の人の世界では、カーペットを汚すのは、とても無作法なことだ。 だから急いで手を伸ばし、袖口で拭おうとする。 早くきれいにしないと。さもないとおじさんがまた怒る。もう、自分の命は長くない。もうこれ以上、おじさんを怒らせるわけにはいかない。 涼音が床に膝をつき、取り乱しながらカーペットを擦っていると、西洲が突然近づき、その手首をがしっと掴んだ。「どういうことだ。なぜ吐血してるんだ?」 掴んで、ようやく気づく。痩せすぎて、恐ろしいほどだ。その細い手首は、力を込めれば今にも折れてしまいそう。 「おじさん、ごめんなさい。ちゃんと拭くから、ちゃんと拭くから……」怯えた小獣みたいに、涼音はおののく瞳で西洲を見上げる。「怒らないで。追い出さないで。私を、孤児院に戻さないで……」 意識はもう朦朧としている。孤児院と精神病院の区別さえつかない。 結局、どこにいても、そこは地獄だ。 第4話 涼音の怯えきった顔が、西洲の心臓を鋭く抉った。もう他のことなんてどうでもいい。彼はそのまま彼女を横抱きにして駆け出す。 「車を用意しろ! 病院へ行く!」 だが病院で全身検査を終えた医者は、こう告げた。 「戸原さんはとても健康です。少し栄養失調気味ではありますが、他に異常はありません」 「そんなはずがないだろう」西洲は即座に拒む。「さっき吐血したんだ!」 医者は困ったように眉を寄せ、逡巡した末に、重く口を開いた。 「藤瀬社長。実は、それは血のパックです」 「血の、パック?」西洲は一瞬きょとんとし、漆黒の瞳に驚愕を浮かべる。 「ええ」医者は涼音の上着を差し出した。「信じられないなら、匂いを嗅いでみてください。甘くて、鉄の匂いがまったくしないです。これは人工血漿です。本物の血ではありません」 この病院は藤瀬家の経営で、検査を担当したのも彼の主治医だ。彼の言葉なら、西洲は信用する。 だが、さっきの涼音の、あの怯え切った目が頭から離れない。思わず、もう一つ問いが漏れた。「栄養失調って、最近の数日でなるものじゃないよな?どうしてこんなに痩せ細ってる?」 「西洲……全部、私のせいなの」月綺の目が瞬く間に赤くなる。「一年前に病院の院長から連絡があって、涼音が絶食しているって。あなたが会いに来ないなら食べないって、院長を脅したって。 本当はその時あなたに言いたかった。でも、あなたは私が涼音の話をするのを嫌がった。少しでも名前を出すと怒るから、結局伝えられなかったの」 そう言って、月綺はスマホを取り出し、一本の動画を見せる。 動画の中で、涼音は膝を抱えてベッドの端にうずくまっている。その正面のテーブルには、色とりどりのご馳走がずらりと並んでいた。 動画は三十分に及ぶ。だがその間、彼女はずっとベッドの端で縮こまり、一度もテーブルには手を伸ばさない。 「これ、院長から送られてきたの。毎食、このレベルで用意しているのに……涼音はあなたに会うためにずっと絶食して、何も食べないのよ」月綺はため息を落とした。 西洲の怒りは、その瞬間、頂点に達した。ちょうどその時、涼音が病室から出てくる。 「涼音。精神病院でどれほど甘やかされていようが、戻ってきた以上は俺のやり方に従え!」西洲は低く冷えた声で脅すように告げる。「くだらない小細工はやめろ。俺には通用しない。これ以上わがままを続けるなら、また戻してやる。今度は、院長に誰かが口利きして特別扱いしてくれることもない」 涼音はきょとんとした。胸の奥が、急にぎゅっと締め付けられる。 そうか。おじさんが、あらかじめ院長に話をつけていたから。だから、介護士たちはあんなにも残酷にしたのか…… 言われた通りに大人しくしていても、毎日欠かさず電撃を流され、針で刺された……わざと部屋いっぱいにご馳走を並べておいて、ひとたび手を伸ばせば、容赦のない電撃と暴力が待っていた。 だから彼女は触れなくなった。砂を混ぜたご飯や、床に投げ捨てられた食べ物だけを、おとなしく口にするようになった。 彼らは嘲った。「やっぱり狂ってる」と。 全部、おじさんの指示だったんだ。瀕死の心臓は力を失い、もう誰かを憎むことさえできない。 どうしておじさんを憎めるの?この命は、おじさんがくれたものだよ。 だからきっと悪いのは自分自身。もう考える力も残っていないけれど、何を間違えたのかも分からないけれど、おじさんは間違わない。おじさんは、世界でいちばんいい人…… 家に戻ると、涼音はまたこみ上げてきた。けれど今度は学んだ。皆の前では吐かない。洗面所へ駆け込み、鍵をかけてから、堰を切ったように吐く。 目の前がぐらぐら揺れて、意識が戻った時、便器の中は真っ赤に染まっていた。 もう、限界かもしれない……死ぬ前に、もう一度だけ。おじさんに、抱きしめてほしい。 でも、その願いも、きっと、叶わない。 第5話 翌朝早く、ウェディングドレス店のスタッフが月綺を迎えにやって来た。 「西洲、どうしよう……さっき、ブライズメイドの一人から連絡があって、海外出張で結婚式の日には多分来られないって……」 月綺は眉根を寄せて、焦燥感を隠せない様子で言った。「ブライズメイドとアッシャーはペアだから、もうすぐ式なのに、一人足りなくなったらどうすればいいの?」 その言葉を聞いて、西洲の視線が涼音の方へと向いた。 「涼音、お前が月綺のブライズメイドをやってくれないか?」 問いかけのようでいて、拒否を許さない口調だった。 涼音はふいに、以前思い描いた自分の願いを思い出した。死ぬ前に、もう一度だけおじさんに抱きしめてもらいたい。 おずおずと尋ねる。「涼音、お利口にしたら、ご褒美……もらえる?」 子供が甘えるような言い方だった。わざとぶりっ子しているわけじゃない。ただ薬のせいで頭がぼんやりしていて、昔と今がごちゃ混ぜになってしまう。かすかな記憶の中で、小さい頃、自分はおじさんにべったりだった。どこに行くにもついて回って、離れれば泣き叫んで、おじさんも困り果てて、結局膝の上に抱いてあやしてくれた。 「涼音、お利口にしてたら、おじさんが帰ってきたときご褒美あげるからな」 瀕死の脳が導き出したただひとつの結論――お利口にしていれば、ご褒美がもらえる。 もう一度、おじさんに抱きしめてもらいたい。温かいその腕の中で、ひとりきりで冷たく死ぬのは嫌だった。 涼音が向けた、怯える子犬のような視線のせいかもしれない。あるいは今、彼女がふわふわのパジャマ姿で、手にミルクを抱えている様子が、西洲に幼い頃の彼女を思い出させたのかもしれない。普段は氷のような男の心に、ふとした隙間風が吹き込んだ。 自分でも気づかぬうちに微笑んでいた。「それは涼音の頑張り次第だな」 こうして、涼音は月綺のブライズメイドになった。 けれど、試着室でドレスを着ようとしたとき、涼音は戸惑いで固まってしまった。 頭は霞がかかったようにぼんやりしているのに、それでも分かった。スタッフが渡してきたのは、ブライズメイドドレスじゃない。ウェディングドレスだった。 「お姉さん……これ……ウェディングドレス……私、新婦じゃ、ないのに……」言葉を紡ぐのもやっとだったが、それだけははっきり覚えていた。自分は新婦じゃない。 おじさんは自分のことを愛していない。 もう、期待しない。 もし時間が戻せるなら、一生養女でいい、ずっといい子で、ずっと言うことを聞いていれば、せめてこの世界で誰かに愛してもらえたのに。 「そうよ、これがあなたのブライズメイドドレスよ」スタッフは目を細めて微笑んだ。「藤瀬家は財閥のお家柄だから、ブライズメイドドレスも他と違って豪華なのよ……裾が大きいから着るのが大変でしょ?お姉さんが手伝ってあげる」 そう言うが早いか、涼音を着替え室に押し込んで、手際よくドレスを着せ始めた。 涼音は頭を軽く叩いた。これは絶対、ウェディングドレスだ、ブライズメイドドレスじゃない。 でも、自分の判断は本当に正しいのだろうか? 自分は狂っている。手で物を掴んで食べてしまうし、頭もおかしいままだ。幻覚だって見えるし、いつもおじさんを怒らせてしまう。 そう思うと、突然体が震えた。だめだ!おじさんを怒らせちゃいけない! おじさんは約束してくれた。お利口にしていれば、ご褒美をくれるって。 だから涼音は逆らうことができなかった。もしまた駄々をこねたら、おじさんが怒ってしまう。 まるで魂の抜けた人形のように、スタッフの言うがままにウェディングドレスを着せられ、裾を手で持ち上げ、ゆっくりと試着室を出た。 その瞬間、時間が止まったかのように、誰もが固唾を呑んで涼音を見つめていた。 あまりにも美しかった。純白のドレスが彼女を神聖で穢れなき存在に引き立て、まるで迷い込んだ天女のように、あどけなくも、塵ひとつまとわぬ姿だった。 西洲でさえ、その美しさに見とれて、しばらく我を忘れていたほどだった。 第6話 「涼音、これはウェディングドレスだぞ。お前がウェディングドレスを着て出てきて、一体何をしたいんだ?」我に返った西洲は、怒りを抑えきれず声を荒げた。「今すぐ脱げ!」 彼がここまで激怒しているのは、涼音がウェディングドレスを着たからなのか、それとも、自分がつい見惚れてしまったことを抑えられなかったからなのか……本人にも分からなかった。 「藤瀬社長、すみません。このドレスは本来、白石さんにお渡しする予定だったのですが、戸原さんがどうしても試着したいと仰って……私たちが断っても聞かなくて、怒り出されて……」スタッフは困惑した顔で説明する。「仕方なく、先に戸原さんに試着してもらったんです」 戸原さん?涼音はぽかんと首を傾げる。視線は困惑でいっぱいだ。この戸原さんって、自分のこと? でも、着せたのはそっちなのに。 「違う……嘘……彼女が、嘘を……」涼音は震える声で、何とか言葉を絞り出した。「私は……してない……彼女たちが……」 薬のせいで、元々ろくに喋れない体になっていたのに、今は極度に緊張していて、言葉がさらにうまく出てこない。 そんなタイミングで、月綺が近づく。彼女はぐいっと涼音の手を掴み、涼音に反論する隙も与えない。「涼音、そんなに緊張しなくていいよ。私、分かってる。あなたがわざとじゃないってこと。 西洲、そんなに怒らないで。女の子はみんなウェディングドレスが好きなんだから。涼音だって、ただこの特別なドレスに惹かれて、ちょっと着てみたかっただけなんだよ。あなたに見せたくて着たんじゃ絶対ないから」 宥めているようで、逆に火に油を注ぐような言い方だった。 西洲の顔色はどんどん険しくなっていく。冷たい視線で涼音を見据えたまま、一言一言、心に突き刺さるように言葉を吐き出す。「涼音。お前は何者だ?俺にウェディングドレスを見せる資格があると思ってるのか? 何度も言っただろう。俺はお前のおじだ。それ以上でも以下でもない。俺たちがどうにかなることなんて、絶対にない!」 その目は、氷のように冷たかった。 「三年間、あの病院で過ごせば、お前も分かると思っていた。くだらない妄想は捨てられると……だが、どうやら俺の思い違いだったようだ。 明日は俺と月綺の結婚式だ。お前も参加していい。だが、式が終わったら、すぐに出て行け。二度と俺の前に現れるな!」 そう言い残し、西洲は背を向け、迷いなくその場を去っていった。 残された涼音は、ただ呆然とその場に立ち尽くす。言いたかったことは、結局一言も言えなかった。 今の心境をどう表現すればいいのだろう。 絶望、という言葉ですら、軽すぎる。 涼音は思い出す。小学生の頃、クラスの男の子に「親がいない野良犬」だと罵られ、真っ白なプリンセスドレスを着たまま、泣きながらランドセルでその男の子の頭を叩いたことを…… その男の子は頭を怪我し、自分は保護者を呼ばれる羽目になった。 先生の前で、おじさんは「どうしてそんなことをした?」と聞いてくれたけれど、自分は唇を尖らせて黙り込むだけで、涙を堪えていた。 おじさんに「野良犬」と罵られたことを言うのが怖かった。おじさんが悲しむのが嫌だった。 だから、おじさんはそれ以上は何も聞かず、自分の前に立ちふさがって、先生に毅然と言った。「俺は涼音をよく知っています。うちの涼音が手を出すなんて、きっと何か理由があるはずです。ちゃんと調べてください。こっちは謝りません。逆に、彼には涼音に謝ってもらいます」 あの頃は、説明なんていらなかった。ただ、それだけで、おじさんは無条件に自分の味方でいてくれた。 なのに、今は、言葉を絞り出しても、おじさんはもう聞いてくれない。 大人になるって、たとえどんなに近い人でも、心が離れてしまうものなのだろうか。 あの歌は本当だった。大人になった世界には、本当に花が咲かない…… 「あなた……あなただ……私を……」涼音は月綺を睨みつけ、一語一語、苦しそうに、だが確かに言った。 スタッフがこんな嘘をつく理由なんてない。きっと、裏で誰かに指示されたに違いない。 それは、月綺しかいない。 「そうよ、私よ」月綺は隠そうともせず、涼音の頬をぺしぺしと軽く叩き、冷たく笑った。「もう、ろくに喋れもしないんだから、無駄なことはやめなさい。ふふ、あなたなんて、もうすぐ死ぬ人なんだから。死ぬなら藤瀬家の外で死んでよ。ここで死なれたら縁起が悪いわ!」 第7話 人々の視線が集まる中、ついに結婚式が始まった。 式場は海辺。 涼音は海が大好きだった。 成人の日、おじさんに「もし将来お嫁に行くなら、海辺で式を挙げたい」と話したことを覚えている。 バラの花びらが道を彩り、海面にはピンク色の灯籠が浮かび、豪華なクルーズ船で、真っ昼間に打ち上がる花火…… そんな夢を語った。 そして、おじさんは、その全てを叶えてくれた。 ただ、残念なことに、その結婚式の主役は、自分ではなかった。 涼音はシンプルな白いロングドレスに着替え、ブライズメイドとして式に立つ。 海風が吹き抜けるたび、スカートの裾が舞い、まるで精霊のように軽やかだった。 一方、月綺は豪奢なウェディングドレスに身を包む。その気品と重厚さは、涼音の儚さと対照的だ。 西洲は黒のオーダースーツに身を包み、月綺の隣に立つ。その姿は、どこか冷たく威厳に満ち、まるで古の帝王のようだった。 「おじさん……」涼音は、そっと声をかけた。「抱きしめて、もらってもいい?」 不思議だった。ついこの前まで、毎日血を吐き、言葉もろくに話せないほど弱っていたのに、今日はなぜか、最後の輝きのように意識が冴えて、体も心も軽い。痛くも苦しくもない。 「涼音、式の最中に俺に喧嘩を売るな」西洲は低く、怒りを抑えた声で答えた。 彼は、彼女がまたわがままを言っているのだと思っていた。まさか、これが彼女の命が尽きる前、最後の願いだとは知らずに。 「おじさん……式が終わったら、私、もういなくなるの」涼音の声はか細く、必死だった。「これが、最後の願いなの。本当に、叶えてくれないの?」 その瞳はあまりにも哀しげで、西洲の心が微かに揺らぐ。 けれど、彼はあえて冷たく言い放つ。「出て行きたいなら、今すぐ出て行け。俺を脅すな」 彼は、彼女が自分を置いて去るはずがないと信じていた。 涼音も、未練がなかったわけじゃない。けれど、もはや自分の意志でどうにかできる状態ではなかった。 今日は、特効薬を飲み続けて七日目。もう、とっくに命の火は燃え尽きていた…… 案の定、西洲が離れた直後、涼音は喉から鮮血を吐いた。 白いドレスは血で真っ赤に染まり、意識も遠のいていく。 何が起きているの? 周囲は騒がしいのに、声が遠い。何を言っているのか、全然分からない。 涼音は頭を叩こうと手を伸ばし、ふと気付く。手が、血まみれだ。 手だけじゃない。体も、足元の地面も、血の海。 まずい、ドレスを汚しちゃった。おじさんが怒る。 いや、もうおじさんは怒っている。追い出されたんだ、今すぐ出て行けと。 そう思って、涼音はくるりと背を向け、海辺を離れて歩き出す。 「お嬢さん、大丈夫?血を吐いてるよ?救急車呼ぼうか?」誰かに声をかけられたが、どこにそんな力があったのか、彼女はその人の手を振り払って歩き続けた。 早く、ここから離れないと。おじさんの結婚式を、台無しにできない。 裸足のまま、柔らかな砂を踏みしめ、やがて固いコンクリートへ。道路沿いを、ひたすら歩き続ける。 どこへ行けばいい?この世界は広い。みんなには帰る家があるのに、自分には何もない。 父も母も死に、おじさんにも捨てられた。 行き交う人は多いけど、誰一人知った顔はいない。自分がどこから来て、どこへ行くのかも分からない。 ただ、歩き続けるしかなかった。止まったら、誰かに見つかってしまう。誰の幸せも壊さないように、遠く遠くへ。 背後では白昼の花火が上がり、結婚式の歓声が響く。 その時、涼音はまた血を吐いた。 通りすがりの人々が驚き、誰かが心配して声をかける。 けれど、涼音は首を振り、また歩き出す。 彼女の後ろには血の跡が続き、前には未来が見えなかった。 最後はふらふらと、裸足のまま、気付けば彼女は、またあの精神病院の前に立っていた。 自分がどこにいるか理解した瞬間、涼音はふと笑う。笑いながら、また血を吐いた。 悲しいね。自分が帰れる唯一の場所が、自分を狂わせたこの場所だなんて。 ずっと逃げたかったこの場所が、今や唯一戻れる場所なんて。 最後の命の灯が、静かに消えていく。涼音はその場に崩れ落ち、冷たい床に倒れ込む。 「もう、来ないよ……」彼女は呟き、目尻から一滴の涙がこぼれた。「この人生だけで、もう十分。次は、もう来ない」 おじさん、さようなら。 あなたがもう私を見たくないなら、もうあなたの人生を邪魔しない。 天の果てでも、地の底でも、生まれ変わっても、もう、二度と会わない…… ちょうどその頃、結婚式会場で、西洲は涼音がいないことに気付く。 「また何をやらかした?どこ行ったんだ?」 気にしたくないと思いながら、気になって仕方がない。結局、部下に涼音の行方を探すよう命じる。 だが、部下が戻る前に、騒然とした声が彼の耳に届く。 「なあ聞いたか?あの精神病院で誰か死んだらしいぞ」 「ネットで大騒ぎになってる。白いドレスの女の子が全身血まみれで、裸足で病院に歩いていって、そこで倒れたって」 「その動画見たけど……あれ、うちのブライズメイドのドレスにそっくりじゃないか?」 「いや、あれ絶対うちのブライズメイドだよ!さっき血を吐いてたし、病院行こうかって声かけたけど、全然聞いてくれなくてさ」 西洲は呼吸が止まりそうになり、まるで何かを悟ったかのように、震える手でスマホを取り出す。 動画はすぐに見つかった。画面の向こう、西洲が大切に育てたバラのような少女が、裸足で、血まみれで歩いている。 その一歩一歩に、血の跡が残る。 あれは、涼音だ! 彼の、涼音だ! 涼音は、どこへ行ってしまったんだ?