遅れて来る春に抱かれて

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遅れて来る春に抱かれて

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すみれは「白血病」を患う恋人の遼介を救うため、何度も自分の血を差し出してきた。だがある日、彼が健康そのものの姿で、初恋の紗英と一緒に...

Chương (1)

第1章

すみれは「白血病」を患う恋人の遼介を救うため、何度も自分の血を差し出してきた。だがある日、彼が健康そのものの姿で、初恋の紗英と一緒にウェディングドレスを選んでいるのを目撃してしまう。 「彼専用の血液バンクは、もうとっくに私のものになってるのよ」紗英が投げつけたのは、ガラス片の散ったトウシューズだった。 遼介もまたすみれにそれを履かせ、「踊ってみろ」と迫る。 足裏が切り裂かれたとき、彼の「心配そうな演技」は、招待客の目を欺くためのものにすぎなかった。 「代役が愛を語る資格なんてある?」すみれは空の輸血パックを揺らし、告げる。 「この病院はうちのものよ。彼が病気を装っていたのは、すべて私のためなの」 その録音を隠し持ち、すみれは初恋の蓮と結婚する決意をする。かつて「盲目の少年」だった彼はすでに視力を取り戻し、二千億もの結納金を用意して三年間彼女を待っていたのだ。 結婚式当日。遼介は両親を人質にすみれを脅すが、山道での逃走劇は蓮のヘリに阻まれる。 事故の後、神谷家は破滅し、泥にまみれて膝を折った遼介を背に、すみれは蓮が差し出す代々受け継がれてきたバングルを受け取り、唇を重ねる。 「遼介、今度こそ、私の世界から消えて」 第1話 「沢井さん、あなたの体の状態からすると自然妊娠の確率はかなり低いですね」 医師の声はどこか惜しむようで、彼女の腕に残る針跡や青あざを見て、それ以上は言葉を続けなかった。 沢井すみれ(さわい すみれ)はうつむき、指先を震わせながら無理に笑みを作った。 「ありがとうございます……」 声を出した瞬間、喉の奥に苦いものが込み上げてくる。 ――妊娠できなかったらどうしよう。神谷遼介(かみや りょうすけ)はまだ子どもの臍帯血を待っているのに。 医師は体を整えるようにといくつか助言してくれたが、すみれの思考はすでに遠くへ飛んでいた。 一年前、遼介が白血病と診断され、しかも重度の貧血を抱えていると知ったあの日から、すみれの世界は一変した。 二人とも極めて珍しい血液型だった。 だから彼の病を知った瞬間から、彼女は自ら望んで「彼専用の血液バンク」となった。 そして臍帯血が治療に有効だと聞けば、必死になって妊娠を望んだ。 なのに……その道すらも閉ざされようとしていた。 力なく医師の部屋を出たとき、見覚えのある姿が視界に飛び込んできた。 ――遼介? 声をかけようとした瞬間、すみれは固まった。 紺色のスーツに身を包み、足取りも堂々とした遼介。そこには病人の面影など欠片もない。 しかも彼の隣には、病院のパジャマを着た女性が寄り添っていた。 曲がり角で、その女性が顔を上げ、すみれと視線がぶつかる。 息が止まった。 白川紗英(しらかわ さえ)――遼介が今も忘れられない初恋の女。 慌てて二人を追うと、遼介は紗英を病室へ入れて外に出てきた。すぐに秘書が駆け寄る。 「昨日、すみれから採った血は、紗英に輸血したか?」 秘書はすぐに頷く。 「昨夜すぐに処置しました」 「来週の結婚式……準備は整ったか?」遼介の声は冷ややかだった。 「整っております。ただ……本当に紗英さんと結婚なさるのですか?」 ――結婚? すみれは目を見開いた。 「紗英が病気になってから、最後の願いはウェディングドレスを着ることだった。だから叶えてやる」遼介の言葉は鋭い刃のようにすみれの胸を裂いた。 「じゃあ……すみれさんのことは?」 「知ったところでどうなる。俺にとってはただの代役だ」 足元が崩れるような感覚に、すみれはその場に膝をつきそうになった。 三年前。結婚から逃げ出した彼女は事故に遭い、血まみれで倒れていたところを遼介に救われた。 その端正すぎる顔に見惚れ、思わず口走った。「あなた、神様なの?」 彼は笑って返した。「どうしてわかった?」 目が覚めてからのすみれは、彼を必死に追いかけた。一か月以上も片思いを続け、ついには彼のオフィスへ押しかけ告白した。 遼介は一瞬、遠い誰かを思い出すように彼女を見つめた。 「君は、元カノにそっくりだ。俺と付き合うと辛いぞ?」 当時のすみれは迷いなく答えた。「代役でもいい。私を好きにさせてみせる!」そう言って背伸びをし、彼に口づけた。 その日から遼介は一見、何一つ不自由させなかった。欲しいものは何でも与えてくれた。 三年の愛情は、少なくとも「好き」に近いものだと信じていたのに。 実際には、この一年間ずっと――彼は紗英のために偽りの病を演じ、すみれを騙してきたのだ。 すみれはその場にしゃがみ込み、腕に顔を伏せて泣き崩れた。血を抜かれ続け、薬膳を無理に飲み続けた体中の痕が、今はすべて自分の愚かさを嘲笑っているようだった。 その血は結局、紗英の体に注ぎ込まれていたのだ。 けたたましい着信音が彼女を現実に引き戻した。 画面には【お母さん】の文字。 嫌な予感に胸を掴まれながら電話を取る。 「すみれ!三年の期限が迫ってるの。篠原家のあの目の見えない……」 「言わなくていい。……私、嫁ぐから」すみれは震える声で遮った。 第2話 電話口からすみれの母、沢井典子(さわい のりこ)の声が弾んで聞こえてきた。 「すみれ!ようやく考え直したのね!それで、いつ戻ってくるの?」 スマホを握る指先に力が入り、すみれは一週間後に控えた遼介と紗英の結婚式を思い出す。 そして、自嘲気味に口角を上げた。「……一週間後に」 家族にとって自分はただの政略結婚の駒。金のためなら盲目の御曹司にでも差し出す。そうして逃げ続けて三年。結局、自分の意志でその檻に飛び込むことになるとは…… すみれは病院のベンチで夜までぼんやり座り込み、ようやく帰宅した。 玄関に入ると、家政婦が栄養たっぷりの薬膳スープを差し出してきた。 甘ったるい匂いが鼻に刺さり、吐き気が込み上げる。 思わず手を振り払うと、器は床に落ちて砕け散った。 破片が足首に当たったとき、背後から遼介の声がした。 「誰だ?すみれを怒らせたのは」 振り返ると、彼はだぶだぶの部屋着に帽子をかぶり、わざと顔色を悪く塗り作っていた。昼間、病院で見たきりっとした雰囲気とはまるで別人。 すみれは鼻で笑った。変わり身の早さに呆れるしかない。 「飲みたくないだけ」 そうつぶやいた途端、遼介は彼女の腰を抱き寄せる。「なら飲まなくていい」 すっと近づいてきた彼の顔に、すみれは思わず手を添えた。 一目惚れしたあの日から変わらない整った輪郭。わざと醜く見せても隠しきれない。 「ブサイクね」わざと語尾を伸ばし、喉を震わせる。「嫌いになりそう」 「すみれ!」遼介の体がびくりと固まり、慌てて自分の顔を撫でた。 「そんなこと言うな……病院では移植の準備が進んでるんだ。俺は必ず元気になる」 彼の震えるまつげを見つめながら、すみれは笑った。「冗談よ」 それでも遼介の不安は消えない。今日はやけに様子がおかしいと感じていた。 彼は彼女の手を強く握りしめ、断言する。「すみれ、もう少しだけ待ってくれ。必ずよくなるから」 そう言ってポケットから取り出したのは、青い宝石が光るネックレス。 「三周年、おめでとう」 ――忘れていた。今日は二人が付き合って三年の記念日。 自分ですら忘れていたのに、彼は覚えていたのか。 もしかして、本当に少しは自分を想ってくれているのか…… 胸が揺れるすみれをよそに、遼介はにやりと笑った。「もうひとつプレゼントがあるから。取ってくる」 席を外した瞬間、テーブルに置かれた彼のスマホが光った。 無意識に画面を開いてしまう。そこには――二人が付き合い始めた頃のキス写真と共に表示されたリマインダー。【紗英を取り戻してから三年】 胸の奥が鋭く刺される。 可笑しくて、惨めで、ただ呟くしかなかった。「紗英を取り戻して……紗英を取り戻して……」 「すみれ、見て!」 遼介の声に慌てて画面を閉じ、平然を装う。 差し出されたのは白いドレス。 手の込んだ仕立てオーダーメイド。どこかで見覚えがあるが思い出せない。 「気に入ったか?」彼が頬に口づけしてくる。 「……ええ」そっと顔をそらす。「私からもプレゼントがあるの」 「何だ?」 「一週間後にわかるわ」 甘く微笑みながら、心の中でつぶやく――あなたと紗英には永遠の幸せを。私とあなたは、この先もう一生交わらない。 遼介が再び唇を寄せようとした瞬間、スマホが鳴った。 画面には【紗英】の二文字。 通話を終えた遼介は何事もなかったように振り向いた。 「すみれ。もうすぐ紗英の誕生日なんだ。一緒に来てくれ」 第3話 紗英の誕生日。出かける前、遼介はあのドレスを手渡してきた。 「すみれ、これを着てみて」 着替えて出てきた彼女を見て、遼介の目が輝く。 「やっぱり似合う。すごく綺麗だ」 車は丘の上の別荘に着き、遼介はすみれの手を引いて降り立った。 扉を開けた途端、賑やかだった空間が一瞬で静まり返る。 すべての視線がすみれに注がれ、その中には嘲りや好奇心、そして同情さえ混じっていた…… やがて誰かが口元を押さえて笑い声を漏らした。「この人が神谷社長が三年も囲っていた『代役』か」 すみれの足が止まり、喉が締めつけられる。 そのとき、白いドレス姿の紗英が駆け寄り、遼介の胸に飛び込んだ。 甘えるように笑い、ようやく気づいたようにすみれへ向き直る。 「すみれさんも来てたのね」 返事をする前に、遼介は当然のように自分の上着を紗英の肩に掛けていた。 眉をひそめながらも声は柔らかい。 「どうしてこんなに薄着なんだ。身体を大事にしろよ」 「もう、怒ってばかり」紗英はわざと足を踏み鳴らし、甘えた声だった。 周囲の男たちが茶化すようにはやし立てた。「これは怒ってるんじゃないよ!心の底から愛してるってやつだ!」 すみれの顔から血の気が引いていく。ようやく遼介が気づいたように振り返り、目を逸らしながら言った。 「気にするな」 すみれは笑みを引きつらせ、わざと問う。「病気のあなたが上着を貸して、自分はどうするの?」 遼介の顔が一瞬こわばり、苦笑を浮かべる。「最近は調子がいいんだ」 ――調子がいい?嘘の病をでっちあげ、私の血を一年も吸い続けてきたくせに。 彼の手が絡みつき、囁きが耳元に落ちた。「すみれ、誤解するな。愛してるのは君だけだ」 あまりに聞き慣れた言葉。 一年前も、同じ言葉を吐いたことがあった。当時、二人で出席したパーティーに紗英が突然姿を現した。 遼介は魂を抜かれたように彼女を見つめ、終始黙り込んでいた。 誰かが紗英に連絡先を求めたとき、彼は堪えきれず怒鳴った。「失せろ!」 その声に、紗英の目には涙が浮かんだ。「遼介……やっぱりまだ私を愛してるのね?」 彼は彼女を突き飛ばすように払いのけた。「誰が愛してるって?」 そう言い残し、すみれの手を握って立ち去った。 帰り道、遼介はすみれの唇を噛みながら言った。「すみれ、誤解するな。俺が愛してるのは君だけだ」 ――だが裏では、いつの間にか紗英とよりを戻していた。 「なんて綺麗な靴」 紗英の声に、すみれは現実へ引き戻された。 彼女はキラキラと光るストーンが散りばめられたバレエシューズを抱えている。 「でも私、バレエは踊れないの。すみれさん、あなた踊れるんでしょう?みんなに見せてくれない?」 周囲から笑い混じりの歓声があがる。 すみれは幼い頃からバレエを習っていた。だが、ここで踊る気などこれっぽっちもない。 「……いや」 拒もうとした瞬間、遼介の声が響く。「踊ってくれ。久しぶりに見たいんだ」 その一言に場は一気に盛り上がり、すみれは押し出されるように舞台の中央へ。しぶしぶ靴を履いた瞬間、違和感に眉をひそめた。 「早く!」 音楽が流れ、もう逃げられない。 中敷きは異様に硬く、一歩ごとに刃物を踏むような痛みが走る。 それでも必死に笑みを保ち、回転し、跳び上がる。白いドレスが宙を舞い、まるで優雅な白鳥のように見えた――その瞬間。 着地した瞬間、鋭い痛みが足裏を突き抜けた。 「……っ!」悲鳴と共に床に崩れ落ちる。 真っ赤な血が靴からあふれ、白い床に滴り落ちて広がっていく。 「すみれ!」最初に駆け寄ったのは遼介だった。 「医者を呼べ!」 第4話 「すみれ!」遼介が叫びながら彼女を抱きかかえ、室内へ飛び込んだ。 足裏から溢れる血に顔を歪め、涙をこぼす遼介。その姿に周囲の人々がひそひそと囁く。「神谷社長、本気で愛してるみたいだな……」 痛みに耐えながら遼介の腕にしがみついていたすみれは、その言葉に一瞬息を呑む。 そこへ家庭医が駆け込み、足裏に刺さったガラス片を抜き取った。鋭い痛みに息が止まりそうになると、遼介が彼女の手をぎゅっと握る。 「大丈夫だ、すみれ」 手当が終わり、すみれは血に染まった靴を拾い上げた。インソールに埋め込まれたガラス片を見て、心臓が跳ねる。 顔を上げると、そこには挑発的に笑う紗英の姿。「すみれさん、ドレスが血まみれね。私が着替えに付き添ってあげる」 すみれはすぐに頷いた。 ――どうせ罠に決まっている。けれど、相手が何を仕掛けるつもりか確かめてやる。 部屋に入った途端、紗英の顔が豹変した。 カーテンやクローゼットの影から七、八人の男女が飛び出し、狂犬のように襲いかかる。 「やめて!」すみれはよろめきながら後退したが、ドレスは乱暴に引き裂かれていく。 「私のドレスを着ても、似合わないのね」紗英は満足そうに笑う。 すみれの目が一瞬で硬直した。 ――思い出した!遼介が書斎の奥に隠していた写真、そこに写る紗英が着ていたのはまさにこのドレス…… ぼう然とするすみれに、紗英はスマホを突きつける。 「いいもの見せてあげる」 動画には、入院着姿で泣きじゃくる紗英。「どうして私だって証明できるの?すみれさんじゃなくて私を愛してるって」 掠れた遼介の声が続く。「どうすれば証明できる?」 紗英が涙を拭って笑った。 「誕生日の日、すみれさんに私のドレスを着せて、みんなの前で『代役』だと認めさせて。 それから、ガラス片を仕込んだ靴を履かせて、私のために踊らせて」 遼介は苦笑して肩をすくめた。「……分かった。全部君の望み通りにする」 動画はそこで途切れた。すみれの体は怒りに震える。 「やっぱり……あの日、病院で私を見ていたのね」紗英はタバコに火をつけ、赤黒い血液パックをすみれの足元に投げつけた。 「これはあんたの血よ。いつもこっそり捨ててたの。汚らわしいから」 漂う煙が目を刺す。すみれは声を震わせた。「……病気なんて、最初から嘘だったのね?」 「やっと気づいたのね!」紗英は指を鳴らし、勝ち誇った笑みを浮かべた。 「遼介みたいな男を振り向かせるには手を使わなきゃ。病院はうちのものよ。検査結果なんて私次第」 煙をくゆらせながら続ける。 「すみれさん、遼介は私のためなら白血病だって演じてくれるのよ。それなのに、まだ自分が本当の恋人だと思ってるの?私たちはもうすぐ結婚するの。だから邪魔しないで。今すぐ消えなさい。でなきゃ、あなたを殺す方法なんていくらでもあるんだから」 挑発の言葉を浴びせると、紗英は古びた服をすみれの顔に投げつけ、腰を揺らしながら出て行った。 残されたすみれは血液パックを見つめ、全身を震わせて泣いた。 ――自分こそが最大の笑い者だったのだ。 涙を拭い、下着のポケットからスマホを取り出す。録音アプリを止め、囁いた。 「遼介……結婚式の夜にこの録音を聞いたら、どんな顔をするのかしら」 彼女はデータを遼介のメールアドレスに送り、送信予約を設定した。 第5話 泣き腫らした目で部屋を出た瞬間、遼介が廊下で待ち構えていた。 「そんな子猫みたいな顔で泣くなよ」 言うが早いか、彼はすみれを横抱きにし、顎で鼻先をかすめて甘やかすように囁く。 「放して!」 すみれは顔を背けて押し返したが、抱きしめる腕はさらに強くなる。 「悪かった。踊らせるんじゃなかった……もう怒るな。家に帰ったら、好きなだけ俺を責めればいい」 その言葉に、すみれは胸が張り裂けそうになった。 ――愛してもいないくせに、どうしてこんな芝居じみた優しさを演じるの? 涙で滲んだ視線の先、廊下の端には紗英が立っていた。嫉妬と憎悪を滲ませた目が、すみれを切り刻むように睨んでいる。 車に乗せられると暖かさに包まれ、すみれは泣き疲れてシートに体を丸め、眠りに落ちた。 遼介はそっと彼女を抱き寄せ、頬をつつきながら笑みを漏らす。 「寝顔は本当に大人しいな」 その瞬間、電話の着信音が鋭く鳴り響いた。すみれは驚いて目を覚ました。 けれど遼介の手が素早く彼女の目を覆った。 掌の温もりに、胸の奥が震える。 昔も悪夢で飛び起きるたび、彼は同じように片手で目を塞ぎ、もう片手で背をさすり、再び眠りに導いてくれたのだ。 暗闇の中、電話越しに慌ただしい声が響く。 「社長!紗英さんが倒れました!」 「止まれ!」遼介は身を起こし、すみれの体が揺れてシートから落ちそうになる。 「……彼女のところへ行くの?」 喉が詰まって声が震える。 遼介の表情には葛藤が浮かんでいた。 紗英が倒れたのは病気のせいに違いない。だが、すみれを連れて行けば芝居がばれる。 「……紗英は身体が弱いんだ。すみれ、ここから一人で帰ってくれないか?」 すみれは笑った。足裏にはまだ血のかさぶたが残っていて、歩くたびにガラスを踏むような痛みが走る。 でも彼は何も知らない。ただ紗英を心配するだけ。 「わかった」そう答えて車を降り、乱暴にドアを閉めた。 次の瞬間、遼介の車は未練もなく走り去っていった。 どれほど歩いたのか分からない。家に辿り着くと、すみれはソファに崩れ落ち、涙が止まらなかった。 「……もう疲れた」 そう呟いて眠りに落ちたのも束の間、スマホの着信音で叩き起こされる。 時計を見ると、深夜を回っていた。画面に映るのは典子の名前。 「すみれ!パリのデザイナーに連絡したのよ。どんなウェディングドレスがいい?マーメイドライン?それともプリンセスライン?」 浮かれた声が耳を突き刺す。返事をする前に、背後から遼介の声が割り込んだ。 「ウェディングドレス?」 握るスマホに力がこもる。まさかこんなに早く帰ってくるとは思わなかった。 「何でもない。店からのセールス電話よ」 そう言って慌てて通話を切る。 だが遼介はすでに核心を掴んでいた。「ドレスショップ?……結婚を考えてるのか?」 「違う!」条件反射のように首を振る。 「俺と結婚したくないのか?」遼介の笑みが凍りつき、虚ろな顔になる。 ――わかってるくせに。 すみれは何も言えず、ただ彼を見返した。 やがて苦し紛れに言葉を絞り出す。「……今のあなたは体調が悪いでしょう?」 不安げに視線を逸らしかけた遼介の目に、安堵の色が宿る。 「そうか、すみれは俺を心配してるんだな」 彼は優しく髪を撫で、囁いた。 「明日、うちの新しいドレスショップへ一緒に行こう。生きているうちに、一度だけでいい。君がウェディングドレスを着る姿を見たい」 その甘い声に、すみれは抗えず小さく頷いてしまった…… 第6話 翌日、ドレスショップ。遼介は自らすみれにベールをかぶせ、腰を抱き寄せた。 「すみれ、マーメイドラインも綺麗だな」 スタッフたちが拍手を送り、遼介は髪に顎を寄せて囁く。 「すみれは何を着ても似合う」 そのとき、別の店員が新作ドレスを抱えて入ってきた。 「紗英さん、また試着ですか?このデザイン、とてもお似合いですよ……」 空気が凍りついた。 すみれの表情が一瞬で冷たくなり、遼介を突き放した。 「また?」 店内は一瞬で静まり返る。 遼介が眉をひそめてその店員を睨んだ。「俺の彼女のすみれだ」 店員は慌てて謝り、店長が場を取り繕いながらすみれを試着室へ案内する。 扉が閉まる寸前、店員の小さなつぶやきが耳に入った。「ただの代役のくせに、何を偉そうに……」 「……なに?」 思わず外へ飛び出そうとした瞬間、ドアが「カチリ」と音を立ててロックされた。 押しても引いてもびくともしない。 次の瞬間、隣室から煙が流れ込み、あっという間に火がカーテンに燃え移った。 「助けて!誰か、開けて!」 必死に叩き続けても返事はなく、煙は容赦なく肺に流れ込み、咳が止まらない。 炎が迫り、すみれは絶望のまま壁際に身を縮めた。 ――そのとき、轟音と共にドアが蹴り破られた。 「すみれ!」 真っ赤な目で飛び込んできた遼介が、彼女を抱き上げる。 咳き込みながら見上げると、彼のスーツの背は焼け落ち、血がにじんでいた。 「大丈夫だ、俺がいる」 震える声でそう言い、アウターで彼女の全身を覆い隠す。 天井の木材が崩れ落ちるたび、遼介はうめき声をあげながらも必死に彼女を守り続けた。 ――目を覚ますと、消毒液の匂いが鼻を刺した。外からはガラスが砕ける音と、女の泣き叫ぶ声が聞こえる。 「どうしてあんな女を助けるの!あなたが無事ならそれでいいのに、なんで自分まで傷つけるのよ!」紗英の怒鳴り声が響く。「もう知らない!とにかく今回は失敗だったのよ!」 「じゃあどうすればいい?本気で愛してるって、どう証明すればいいんだ?」遼介の声は息苦しく、怒りを含んでいた。「閉じ込めるだけのはずだった!誰が放火なんてしろと言った!」 ――やっぱり。 婚約、ドレス、鍵、炎。すべては仕組まれたことだったのだ。 「結婚を目前にして……まさか、彼女を好きになったんじゃないでしょうね!」紗英の泣き声が震える。「だってあの女は、ただの私の代役でしょ!」 「違う!」遼介の必死な叫びが、すみれの胸を突き刺す。 「愛してるのは紗英、君だけだ。二日後の結婚式には最高のダイヤを贈る。誰もが、君が唯一の花嫁だと思い知るようにな」 シーツを握るすみれの唇から、血の味が滲んだ――血が出るほど噛みしめていたのだ。 目尻から涙がこぼれ、彼女はかすかに呟いた。「遼介……次は、私がすべてを終わらせる番」 第7話 消毒液の匂いが鼻を刺し、すみれは布団をかぶって再び眠りに落ちた。 翌朝、目を覚ますと数人の医者がベッドを囲んでいた。「沢井さん、あなたの身体に大きな問題はありません。ただ……神谷社長が」 「死んだ?」あまりに平然とした声に、医者たちは顔を見合わせる。 「背中をドアで強く打たれて……怪我は重いですが、命に別状はありません。お見舞いに行かれますか?」 「わかりました」 すみれは淡々と答え、ゆっくりと着替えて遼介の病室へ向かった。 中には薬の苦い匂いが漂い、遼介はちょうど包帯を替え終えたところだった。背中のガーゼには赤黒い血がにじんでいる。彼女に気づくと慌てて服を羽織った。 「すみれ!もう体調は大丈夫か?」 「問題ないわ」 すみれはベッド脇に腰を下ろし、黙って彼を見つめる。 「いい知らせがあるんだ!」遼介は痛みに顔を歪めながらも無理に笑みを浮かべた。 「南津(みなつ)の病院で骨髄ドナーが見つかった!明日検査に行ける!」 すみれは口元だけで薄く笑った。 ――検査なんかじゃない。あれは結婚式。 彼女の反応の薄さに、遼介は不安そうにすみれの頭を撫でた。「なあ、嬉しくないのか?これで俺は元気になれるんだぞ」 「……」 返事をしない彼女を抱き寄せ、遼介は慌てて囁く。「すみれ?どうした?」 「いや。ただ……嬉しすぎて頭が真っ白になったの」そう言って笑顔を作り、胸に顔を埋めた。けれどその瞳には一片の温もりもなかった。 翌朝、まだ夜明け前。遼介はすみれを残して、紗英と共に病院を後にした。 病室に残されたすみれは、不思議と解放されたような気分だった。 三年間暮らした家に戻り、荷造りを始めたとき、スマホが震えた。 画面には紗英からのメッセージ。添付された写真には、純白のバラで飾られた砂浜、シャンパンタワー、そして沖に停泊する豪華客船。 音声メッセージが続く。「遼介はね、私がビーチウェディングをしたいって言ったら、この島を丸ごと買ってくれたの」紗英の声は甘ったるい響きを帯びていた。「すみれさん、あなたの負けよ」 すみれは無言のまま荷造りを続けた。 遼介が紗英と腕を組んで豪華客船を降りる頃、彼女は家中のペアルックの服やカップ、スリッパ、抱き枕をすべて暖炉に放り込んでいた。 遼介が紗英とウェディングドレス姿で写真を撮り合う頃、彼女は妊活のために用意したベビー用品を手に取った。そこには遼介が子どものために描いた一冊のアルバムもあった。 二人で写った写真を一枚一枚絵に残しながら「子どもに両親の愛を見せたい」と言っていた、あのアルバム。 「……バカみたい」 すみれは鼻で笑い、迷わずゴミ箱に投げ捨てた。 ちょうど出ていこうとしたとき、家政婦に呼び止められる。「すみれ様、どちらへ?」 「遼介の調子もいいみたいだし、少し旅行してくるわ。留守の間、家のことはお願いね」 笑みを作ってそう告げると、すみれはスーツケースを引きずり、振り返ることなく家を後にした。 その夜、島での結婚式が最高潮を迎えている頃、すみれは空港のラウンジで搭乗券を受け取り、窓の外の飛行機を見つめていた。 「……遼介、さようなら」 そう心の中で呟き、彼女は搭乗口へと歩き出した。